南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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(№13)ザカフカース民主連邦共和国

    ~南コーカサス運動と、グルジアの青髭~

 (期間)1918年4月22日-1918年5月28日
 (独立)ロシア臨時政府より
 (解体)グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアに分離

(公用語)グルジア語、アゼルバイジャン語、アルメニア語
 (首都)トリビシ

(政治指導者)ニコライ・チヘイゼ(ザカフカース議会議長)

【前史】

 「文明と宗教の十字路」と呼ばれるコーカサスは、古代から欧州とアジアの中継地域として栄え、多種多様な民族と宗教が混在していた。コーカサス山脈から南側のザカフカース(南カフカース)地方は、オスマン帝国やペルシャの勢力圏であったが、19世紀にロシア帝国が進出。トリビシに、カフカース総督府を設置した。

 南コーカサスの主要民族は、アゼルバイジャン人、アルメニア人、グルジア人である。この他に、アジャール人、オセット人、アブアジア人、ギリシャ人、クルド人などが少数民族として居住していた。

 テュルク系のアゼルバイジャン人は、民族的にはトルコ人と近いが、ペルシャと同じく、イスラム教シーア派が主流。少数ではあるが、スンニ派やゾロアスター教徒も存在する。パン・トルコ民族主義を掲げた、オスマン帝国の統一と進歩委員会政権には好意的で、反ロシアであった。

 最古のキリスト教とも呼ばれるアルメニア正教会のアルメニア人は、ロシア帝国の武断政治にも、進歩と統一委員会の民族政策にも反対していた。コーカサスのユダヤ民族と呼ばれたアルメニア人の目的は、南コーカサスから両大国の影響力を一掃することにあった。

 グルジア正教会のグルジア人(カルトヴェリ人)は、古代グルジア人の直接的な子孫ではないが、モンゴル帝国に征服されるまで独立を保った、誇り高い古代グルジア民族の意識を受け継いでいた。同時に、ロシアのカフカース支配に協力的だったのもグルジア人であり、10月革命でボルシェヴィキが政権を獲得するまでは、独立に慎重だった。

 アジャール人は、ムスリムに改宗したグルジア人、イラン系とされるオセット人、北カフカスからロシアの支配を嫌って南下したスンニ派のアブアジア人、どこにでもいるギリシャ人、山岳トルコ人と呼ばれると激怒するクルド人……

 こうした、多種多様な宗教と民族を抱える南コーカサスを統合し、オスマン帝国やロシア、ペルシャといった周辺大国と対抗する新国家の建国を目指した独立運動が「南コーカサス運動」である。

【建国】

 第1次世界大戦において、ドイツ帝国とオスマン帝国の同盟軍は、ロシア帝国軍とカフカス戦線で対峙していた。1917年にロシア革命が発生すると、中央同盟陣営の要請を受けて、臨時政府の「ザカフカース議会」が発足する。同議会は、アゼルバイジャン人とアルメニア人の民族主義政党、そしてグルジア人のメンシェヴィキ勢力から構成されていた。

 議長にはグルジア人の著名なマルクス主義者であるニコライ・チヘイゼが就任した。ボルシェヴィキの急進主義に対する批判の急先鋒であったチヘイゼは、10月革命により独立支持に転じた。そのためトリビシには、反ボルシェヴィキながら、臨時政府や白軍勢力に組し得ない勢力が多数亡命。「ロシア反体制派の箱舟」とも揶揄された。

 かくして独立を果たしたザカフカース民主連邦共和国(1918年4月22日に国名を変更)であったが、外交政策を巡る対立に直面する。アゼルバイジャン人は、親オスマンで反ドイツ、アルメニア人は、親ドイツで反オスマン、グルジア人は、そのどちらでもない。民族政党の意見の相違は埋まることはなく、5月26日、ザカフカース議会は民主連邦共和国の解体を決議。わずか1月の短命国家であった。

【グルジアの南コーカサス再統一運動】

 ザカフカース民主連邦共和国の後継国家として、グルジア民主共和国、アゼルバイジャン民主共和国、アルメニア共和国が建国された。このうちグルジアでは、グルジア社会民主主義労働党の内部で、路線対立が生じた。

 グルジア副首相のイラクリー・ツェレテリ率いるメンシェヴィキ右派は、オスマン帝国に対抗するため、南コーカサスの再統一を主張(統一派)。統一派は、ツェレテリがロシア臨時政府で閣僚を経験していたことから、ロシアのケレンスキー大統領の支援を受けていた。ロシアは、南コーカサス統一国家を、オスマン帝国への防波堤にする狙いがあったとされる。

 一方、民族主義派のグルジア・メンシェヴィキを率いるノエ・ジョルダニア首相は、農地問題を含めた国内問題の解決優先を主張(国内派)。両者の対立はグルジア社会民主主義労働党にとどまらず、グルジア国内は統一派と国内派に二分された。

 政権内部の亀裂と、領土問題を巡る周辺国との関係悪化が進む中、1921年のコペンハーゲン講和会議出席を巡り、両者の対立は頂点に達した。それまで中立を保っていたチヘイゼ大統領は、国際社会からのグルジア民主共和国の承認を優先して、国内派の支持を表明。ツェレテリ副首相を解任する。旧ボルシェヴィキ・グループ(ロシア内戦終結後、グルジアに亡命していた)も、この決定を支持した。

 1922年のザカフカース危機により、南コーカサス諸国の再統一が絶望的になると、ツェレテリ元副首相は政治的孤立を深めた。1923年5月。ナンセン委員会が提案した、アゼルバイジャンとアルメニアの国境線画定計画の受け入れに反対したことで、グルジア社会民主主義労働党から除名されたツェレテリは、オーストリアに亡命する。ツェレテリは、グルジア国外から民主化運動を展開したが、南コーカサス再統一運動からは退いた。

 一方、ノエ・ジョルダニア首相は、アルメニアと「南コーカサス連盟」を結成。オスマン帝国と連携する、アゼルバイジャン政府との対立関係を深めた。奇しくもこれはツェレテリが主唱していた、対オスマン共同戦線の構築を意味していた。

【青髭ベリヤ】

 正直なところ「こいつら誰?」と思う登場人物ばかりである。よしんば知っていたとしても、「保身の傑物」ケレンスキー大統領ぐらいのものであろう。それでも、この短命に終わった消滅国家の存在なくして、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤの政治的な成功はあり得なかった。

 ロシア内戦後、グルジアに亡命したグリゴリー・オルジョニキーゼ率いる旧ボルシェヴィキ・グループは、党内非主流派のマミヤ・オラヘラシュヴィリの庇護を受ける弱小派閥でしかなかった。国内派と統一派との党内抗争において、オルジョニキーゼは、ジョルダニア首相の土地改革への支持をいち早く表明。国内派の党内抗争の勝利に貢献したことで、旧ボルシェヴィキ・グループは、グルジア・メンシェヴィキの主流派に躍り出た。

 ロシア内戦当時、ベリヤはバクー工科大の工業学部の学生であり、実戦には出ていない。アゼルバイジャンで警察官僚として働いた後、グルジアに帰国。妻ニーナが、旧ボルシェヴィキ・グループの有力者サーシャ・ゲゲチコリの姪であったことから、同派の支援を受けた。

 1921年。ベリヤは22歳の若さで、ジョルダニア首相の政務秘書官に就任する。旧ボルシェヴィキ・グループの意向を受けたベリヤは、アゼルバイジャンとアルメニアの国境問題解決に向けて、ナンセン委員会の提案した、両国の住民交換計画実現に向けた仲介外交を、ジョルダニア首相に働きかける。1923年には、グルジア警察保安課長として、住民移送計画の実行責任者に就任。両国の治安機関と連携しつつ「計画を実現」させた。この「成功」を契機に、ベリヤは党内の出世コースに乗ることになる。

 台頭著しいベリヤに対して、グルジア民族派は「青髭」という綽名を奉った。ベリヤの髭嫌いは有名であり(髭が薄いことへのコンプレックスを抱えていたとも)、グルジア成人男性の象徴である髭を生やすことを拒み、毎日剃刀で顔をそっていた。「青髭」は、髭の剃り跡とあわせて、ベリヤの政治経験の浅さを揶揄ったものだ。

 この綽名が、彼のおぞましい本質を喝破したものだとは、当時の誰も想像していなかった。おそらくベリヤ自身も含めて。

- 『古今東西の消滅国家』民明イ学会編纂(2010年) -


ローザンヌ宣言・前編(1923年5月 ハンガリー王国 首都ブダペスト)

 ロシア共和国大統領のアレクサンドル・ケレンスキーは、1922年の年頭に行った一般教書演説の中で「第2のバルカン半島、それは南コーカサスである」と演説した。そして同年4月。ケレンスキーの「予言」を証明するように「第2次欧州大戦に、最も近づいた半年間」とされる、ザカフカース危機が発生した。

 

 西に黒海、東にカスピ海、北にはロシアのドン軍管区、南にはオスマン帝国とペルシャで国境を面するコーカサスは、古来より文明の十字路として、各民族と宗教が複雑に入り混じりながら、繁栄を謳歌してきた。

 

 ロシア革命後の1918年4月。南コーカサスは「ザカフカース民主連邦共和国」として独立を果たした。ところが民族間の対立により、わずか1月後の5月には、統一国家の解体を決議。議会を構成していた主要民族政党は、民族自決の理念に従い、新国家を建国した。アゼルバイジャン民主共和国、アルメニア共和国、グルジア民主共和国の3国である。

 

 文明と宗教の十字路に、突如として誕生した民族国家は、ザカフカース地域の不安定化と、国内政局の混乱をもたらした。公用語の採用に始まり、行政組織の立ち上げ、旧赤軍残党勢力の流入による治安問題、残留ロシア人の法的地位の取り扱い、国内の少数民族、国境線画定を巡る軍事衝突etc……

 

 ザカフカース危機の直接的な原因となったのは、アゼルバイジャン東部の「アルメニア人自治区」のアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ自治州)、そしてアルメニア南部の「アゼルバイジャン人自治区」であるナヒチェヴァン自治共和国の存在をめぐる、両国の国境線策定問題である。

 

 前者は、アゼルバイジャン国内東部の山岳地帯のアルメニア人居住地域であり、後者は、アルメニア南部の、アゼルバイジャン人居住地域。旧ザカフカースから3国が分離独立した際、この宗教も民族も異なる「飛び地」の帰属が焦点となったことは、言うまでもない。

 

 民族自決の概念に従えば、同一民族の国家に帰属するのが道理だろう。だが、アルツァフ共和国とナヒチェヴァン自治共和国は、それぞれの「飛び地」として、それぞれの文化を体現する宗教的聖地に存在しており、何よりも戦略的な要所に位置していることが、問題を複雑化させた。

 

 アルツァフ共和国(アゼルバイジャン国内のアルメニア人自治区)に関する、両国の主張は次の通りだ。

 

 アルメニア人が「アルツァフは、古代アルメニア王国時代からの聖地であり、疑う余地のないアルメニアの領土である」と主張すれば、アゼルバイジャン人は「そもそも古代アルバニア王国領ではないか」反論。アルメニア人が「人口の半数以上は我々の同胞である」として、民族自決の原則に従った帰属の決定を求めれば、「後から集団で押しかけて、何を言うのか!」とアゼルバイジャン人は机を叩いた。

 

 これがナヒチェヴァン自治共和国(アルメニア国内のアゼルバイジャン人自治区)問題では、次のように立場が入れ替わる。

 

 アゼルバイジャン人が「人口の9割は、我が同胞である」と胸を張って主張すれば、アルメニア人は「古代アルメニア王国領のあった場所に、イスラム王朝時代にムスリムのアゼルバイジャン人が押しかけたのだ」と反論。アゼルバイジャン人が「アルツァフ問題における、自分の主張を忘れたのか」と嘲笑すれば、アルメニア人は「ノアの降り立った約束の地を、野蛮なムスリムに明け渡せるか」と、敵意をむき出しにした。

 

 立場がそっくり入れ替わっただけの話に思えるが、それは直接的な利害関係を有さない第三者だから言えることだ。アゼルバイジャン国内のアルメニア人自治区、アルメニア国内に存在するアゼルバイジャン自治区を、両国政府は承認せず、自国領であると主張した。

 

 両国の国内世論は、この政府方針を支持したが、例え国内世論が全く反対の傾向であったとしても、政府の立場は変わらなかっただろう。この巨大な飛び地の存在を、自国の安全保障に深刻な脅威となる存在として、認識していたからだ。

 

 アルツァフ共和国は、アゼルバイジャン東部の山岳地帯一帯を実効支配している。東部全域を見下ろせる軍事的要所を、業突く張りのアルメニア人に確保させるわけにはいかない。開戦となれば、彼らは同盟を組むグルジアの社会主義者と共に、南コーカサスからムスリムを一掃しようとするだろう……アゼルバイジャンのミュサヴァト党政権の主張を要約すると、こうなる。

 

 アルメニアのアルメニア革命連盟(ダシュナク党)の連立政権の主張はこうだ。アルメニア南方のナヒチェヴァン自治共和国は、オスマン帝国やペルシャと国境を接している。開戦となれば、異教徒のアゼルバイジャン人に2正面作戦を強いられることになる。彼らがオスマン帝国、あるいはペルシャ王国軍を引き入れれば、第2のアルメニア人虐殺となりかねない……

 

 専制国家の帝政ロシアやボルシェヴィキ政権のロシアならともかく、2国は曲がりなりにも民選議会を有している。まして民族主義に基づく新国家を建国しようという中で、潜在的な脅威となりうる安全保障の問題について、当事者同士の妥協など不可能であった。

 

 1922年4月。度重なる武力衝突にしびれを切らしたアルメニア政府は「ナヒチェヴァンの反乱分子を鎮圧する」として、総動員を発令。アゼルバイジャン政府も「ナヒチェヴァンへの侵略行為に対して、武力を用いることも辞さない」と宣言。オスマン帝国に軍事支援を呼びかけた(第1次ザカフカース危機)。

 

 ドイツ外相ツィンメルマンの仲介により、一時は鎮静化するかに思われた。ところが6月には、オスマン帝国とペルシャ帝国の圧力にもかかわらず、アゼルバイジャン政府がナゴルノ・カラバフ自治州政府の「反乱分子」の鎮圧作戦を実施するという名目で、動員を開始(第2次危機)。オスマン帝国のみならず、グルジアとペルシャも動員を開始。軍事的緊張が高まった。

 

 最終的には、イギリス外相カーゾンのペルシャとアルメニアに対する外交工作、およびドイツとオスマンの支持を取り付けたロシア大統領ケレンスキーが、ドン軍管州のドン・コサック軍により、ザカフカースに圧力をかけたことで、3国は動員体制を解除。コーカサス大戦の危機は去った。

 

 当面の軍事衝突の危機は去ったが、根本的な問題は何一つ解決されていない。アルメニアとアゼルバイジャン、そして巻き込まれたグルジアも、延々と続く軍事的緊張と、資本流出による経済の低迷に苦しんでいた。オスマンとペルシアも、コーカサス国境の管理が不明確になることは望んでいなかったが、自身も少数民族問題における当事者であるため、有効な対応が取れずにいた。

 

 かくして「ザカフカースの石ころにすら興味がない」と公言して憚らない、アレクサンドル・ケレンスキーの出番となる。

 

 アゼルバイジャン人からも、アルメニア人からも「ペテログラードの出る幕ではない」と批判されたケレンスキーであったが、この厚顔無恥の生きた見本のような男は、グルジア政府の旧ボルシェヴィキ・グループから、国境策定の仲裁案作成を依頼され、それを引き受けた。

 

 ……依頼する側も依頼する側なら、受ける方も受ける方である。

 

 ロシア内戦中、反ボルシェビキの旗を振り続けた男が、亡命ボルシェビキの依頼を引き受けたのだから、何をかいわんや。まして、それまでグルジアの統一派の後ろ盾であったのが、外ならぬケレンスキー自身であったことは、旧ボルシェヴィキ・グループも承知しているはずだ。ケレンスキーの見え透いた功名心と、首尾一貫した一貫性のなさを批判しても始まらないのだが。

 

 では、グルジアの旧ボルシェヴィキ・グループには、如何なる思惑があったのか。一国社会主義を掲げる旧ボルシェヴィキ・グループは、国内問題の解決を優先するジョルダニア首相の国内派に所属し、国内少数民族の「不可逆的」な解決を優先している。彼らは隣国の国境問題に振り回されることで、国内改革が遅れることを危惧していた。それは政権の優先課題に農地問題の解決を掲げる、ジョルダニア首相の思惑とも一致していた。

 

 グルジア政府からの正式な依頼を受けたケレンスキーは、自ら仲裁案を作成するような、政治的リスクを背負うつもりはなかった。ザカフカース危機の調停に奔走したドイツのツィンメルマン外相が、両国から相手よりだと批判されていた経緯を、この男はよく見ていた。何より、旧宗主国ロシアの影響力拡大は、良からぬ警戒心を引き起こしかねない。

 

 1923年1月、ケレンスキーは駐イギリス大使を通じて、ロンドンのナンセン委員会に接触。要請に応じて、ペテログラードを訪問したノルウェー王国の元外交官フリチョフ・ナンセンに、調停案の作成を依頼した。「厄介な仕事は他人に押し付けてしまえ」とでも言わんばかりに。

 

 ナンセンが代表を務めるナンセン委員会は、難民救援活動を行う非政府組織である。中立国であるノルウェー政府の支援の下、ロシア内戦によって発生した大量の戦争難民の第三国引き受けの斡旋交渉や、ブレスト=リトフスク条約締結による国境線の変更に伴い、無国籍者となった旧ロシア国民への臨時パスポートの発行活動を行っていた。また、ボルシェヴィキ革命政府によって国籍を剥奪されたアルメニア人を、第三国のアメリカに集団移住させた経験を有しており、中立国や協商陣営もふくめた各国政府や経済界、人道支援団体との太いパイプを保持している。

 

 確かにロシアとイギリスの両国と良好な関係を維持する中立国の元外交官ナンセンの存在は、仲裁案を作成するには最適な人物であろう。まったくもって腹立たしく苛立たしいことだが、ケレンスキーの政治的な嗅覚は認めなければならない。

 

 ロシア内戦における難民支援活動の経験、そして2度のザカフカース危機を目の当たりにしたナンセンは、国境策定について「これは民族主義や排外主義の問題ではなく、早急に解決しなければならない喫緊の政治課題」であり「早期に解決されなければ、新たな欧州大戦を引き起こしかねない」と結論付けた。

 

 ナンセンが提案したのは、双方の住民交換による飛び地の解消であった。

 

 後年「1923年のアゼルバイジャン・アルメニアの住民交換」と呼ばれたナンセン仲裁案の骨子は、アゼルバイジャン東部のアルツァフ共和国のアルメニア人(約40万人)と、アルメニア南部のナヒチェヴァン自治共和国のアゼルバイジャン人(約30万人)に、民族と宗教に基づいた帰属先の強制決定を行った上で、住民の交換を行い、その後に領土を編入するというものであった。

 

 前例は、1919年のバルカン半島に存在した。すなわちブルガリアと旧協商陣営諸国との間で締結されたヌイイ条約において、旧ギリシャ王国からブルガリア王国に割譲されたトラキアやマケドニアのギリシャ系住民は、本国への集団移住が行われた。最も敗戦の最中に自治体レベルで行われたものなので、精々が数万単位ではあったが。

 

 ナンセン仲裁案が提示されると、ケレンスキー大統領とジョルダニア首相は、アゼルバイジャンとアルメニアに、住民交換の実施と国境画定交渉による、和平条約の締結を呼びかけた。

 

 当初、両国は黙殺する姿勢をとったが、ザカフカース危機に散々翻弄されたドイツとオスマンの軍事圧力、およびロシア外相テレシチェンコの熱心な働きかけもあり、3国はスイスのローザンヌで外相会談を実施。激しい交渉の末、ナンセン仲裁案の受け入れと、平和条約締結に向けた交渉開始で合意した(ローザンヌ宣言)。

 

 5月17日。ブタペストにおける私との会談を終えたケレンスキーは、その足でローザンヌに飛び、激しい交渉で疲労困憊した旧ザカフカース3国の外相と、盟友テレシチェンコを従え、記者団との写真撮影に臨んだ。その写真は、通信社によって世界中に配信され、ケレンスキーは平和外交の仲介者として、大いに名声を高めた。

 

 ローザンヌ宣言に対する評価は、次の通りだ。

 

 ドイツ帝国外務省は「南コーカサスの情勢安定に寄与する、重要な政治決断であり、帝国政府はローザンヌ宣言を歓迎する。関係各国の外交努力を評価すると同時に、深い感謝を伝えたい」とする、ツィンメルマン外相の声明文を発表した。ザカフカース危機に翻弄された外務大臣として、安堵していることが伺えた。

 

 ダンケルク占領で欧州全土を戦争の危機に引きずり込みながら、どの面を下げてという気持ちになるが、ルーデンドルフ体制の下請けと批判されるドイツ外務省も必死である。バルカン半島やアナトリアよりも、南コーカサスの戦略的な重要性は低いとはいえ、これ以上の懸案は抱えたくないのだろう。

 

 ドイツの影響下にあるミッテ・ヨーロッパ加盟国はもとより、スカンジナビア諸国やスペイン、オランダといった中立国や、旧協商陣営のポルトガルも、玉虫色の煮え切らない口調ではあったが、ローザンヌ宣言を肯定的に論評した。

 

 ダンケルク問題に直面しているパリの社会主義者は、相変わらず不気味なまでの沈黙を保っている。何か考えがあるのか、それともコーカサス問題など関わっている余裕がないのか。西イタリアの社会主義者が、軍国主義者の浅知恵だと、口汚く罵ったのとは対照的だ。同じ社会主義政権のグルジア政府が仲介を行ったのも、影響しているのかもしれない。

 

 アメリカ合衆国の国務省は、ナンセン仲裁案を、ウィルソン前大統領の14カ条提案を前提として作成されたという認識を示した上で「民族自決の原則により、国境問題が解決された」として、歓迎する意向を表明した。来年の大統領選挙に向けた、マカドゥー大統領と民主党の選挙キャンペーンの一環だろう。

 

 ローザンヌ宣言を真っ向から批判したのは、オスマン帝国のダマット・フェリッド・パシャ大宰相、そしてイギリス首相代行のカーゾン外相であった。

 

 オスマン大宰相の批判は、南コーカサスへロシアが再度影響力を発揮することへの警戒感であると同時に、諸民族の統一(イッディハード・アナースル)を掲げるオスマン帝国の国体に対する、重大な脅威になると考えたからであろう。パン・トルコ主義を否定した現政権にとって、ザカフカースの民族主義政権、特に世界中で反オスマンキャンペーンを繰り広げているアルメニアは、目障りな存在だ。

 

 そしてイギリス。ウエストミンスター宮殿の騒動を臨場感たっぷりに伝えてくれたのは、現地の大使館職員からの、事実に要点を置いた事務的かつ無機質な報告書ではなく、記者によって勝手気ままに脚色されたであろう英字新聞である。それらは(示し会わせた訳でもなかろうに)、カーゾン演説の警告を冒頭に記載した。

 

「ローザンヌ宣言は、第2のバビロン捕囚の始まりと記憶されることになるだろう」

 

 5月19日。首相代理として答弁に立ったカーゾン卿の演説に、出席していた貴族院議員は息を呑んだ。普段の高圧的な冷酷さの仮面を脱ぎ捨てたカーゾン卿は、迸る魂の憤りの赴くまま、火を噴くような熱弁を行った。

 

 ナンセン提案を「徹底的に悪く、徹底的に愚かで、徹底的に拙劣なもの」であると扱き下ろしたカーゾン卿は「この悪魔の取引に、イギリス政府が関与している事実は一切存在せず、またそのような誤った印象を与えることは、ユニオンジャックに泥を塗る行為他ならない」として、イギリス外務省のナンセン委員会への支援打ち切りを表明。ノルウェー政府との関係見直しを示唆した。

 

 このカーゾン卿の答弁は、ナンセン仲裁案を「ザカフカース危機の、根本的な解決につながる第一歩である」と評価する、イギリス政界の多数派の見解とは一致しなかった。貴族院では一定の理解を得たものの、庶民院ではロイド・ジョージ前首相の国民自由党を除く、前会派がカーゾンの反対に回った。もともと高圧的な権威主義者のカーゾンは、保守党議員の間でも人気がなく、あまりにも攻撃的な答弁を「戦争屋」として批判する声が次々と上がった。

 

 貴族院議員であり、連合王国貴族の爵位を有するカーゾンは、庶民院の答弁に立つことが出来ない。そのため庶民院では、与党院内総務代理のスタンリー・ボールドウィン財務大臣が、カーゾン首相代理の答弁を代読した。ところが、このウスターシャーの片田舎で生まれ育ち、財界人として成功してから政界入りした穏健保守主義者の答弁には、カーゾン卿の演説に含まれていたような熱狂は、一切含まれていなかった。必要以上に原稿を正しく読むことに拘ることで、カーゾン答弁に反発していることは明らか。反カーゾン派は、批判のボルテージを上げた。

 

 議場に野次と批判の応酬が渦巻く中、ロンドン西部のハロー選挙区選出の庶民院議員オズワルド・エーナルド・モズレーが、大戦中に負傷した左足を引きずりながら立つと、にわかに議場の喧騒が収まった。

 

 モズレー準男爵家の後継者であり、カーゾン卿の娘婿であるモズレーは27歳。シティ・オブ・ウェストミンスターで生を受けた時から、大英帝国のエスタブリッシュメントとなることが宿命づけられていたモズレーは、サンドハースト王立士官学校を卒業後、陸軍軍人として欧州大戦に従軍。負傷により退役し、保守党から庶民院議員に立候補して当選。雄弁家として頭角をあらわしていた。

 

 保守党の将来を担う人材と評される青年に、労働党の議員が敵意に満ちた視線を、保守党の親カーゾン派が期待の眼差しを、その他の多くの議員が「またスタンドプレーか」と言わんばかりに苦々しい表情を浮かべる中、モズレーは悠然と歩み、そして立ち止まると、芝居染みた仕草と口調で叫んだ。

 

「義父には、兵士と労働者の気持ちがわからないのだ!」

 

 モズレーは続けて「私は妻と共に、労働者の側に立つ!」と宣言すると、迷うことなくソードラインを越え、野党側のベンチへと……それもよりにもよって、労働党のベンチへと座った。モズレーへの批判と称賛が逆転し、興奮と悲鳴、歓声と罵倒に包まれた庶民院の議場は、もはや収拾がつかなくなった。

 

 モズレー夫妻の労働党移籍は、保守党におけるボナー・ローの後継を巡る決定打となった。5月22日。国王ジョージ5世は、アメリカとの債務交渉を取りまとめたスタンリー・ボールドウィン財務大臣を宮中に呼び、組閣を命じる。

 

 カーゾン卿は、新内閣でも外務大臣に残留した。ボールドウィンが党内保守派に配慮した結果だが、党内政局の敗者であることに変わりはない。もはや首相になることはあり得ないと判断したカーゾンの下から、多くの人間が去っていった。彼の娘夫妻がそうであったように。

 

「今後、世界は100年近くペナルティを払うことになるだろう」

 

 カーゾン卿の「予言」は、イギリス国内では(全ての新聞がそうであったように)、時代遅れの貴族主義者の虚勢と解釈された。

 

 イタリア政策とアウグスライヒ交渉に追われ、1922年ザカフカース危機の枠外にあった私には、それが虚勢だとは思えなかった。

 

 

 ラテン語の箴言に曰く「全ての道はローマに通ず(omnes viae Romam ducunt)」。

 

 ローマ帝国が、地中海と欧州大陸に覇を唱えていた時代。世界中の道路や航路は、すべからくローマを起点に始まり、ローマを終点として整備されていた。世界はローマに始まり、ローマに終わる。世界帝国ローマの繁栄と強大さを称賛した箴言は、帝国が滅亡した後も、あらゆる民族の言葉に翻訳され、そして語り継がれてきた。永遠の都に対する憧れと共に。

 

 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンティーヌは、この有名な箴言に、新たな解釈をつけくわえた。西欧文明の濫觴にして起源がローマであるように、不変の真理は、途中いかなる経路を辿ろうとも、必ず到達する。全ての道がローマに通じるように。人類普遍の理念と真理を追究し続けてきた、個人主義者のフランス人らしい解釈だ。

 

 箴言にあるように、ローマ帝国はローマから始まり、ローマを中心として拡大した。イタリア半島中部の都市国家群は、イタリア半島を制圧し、欧州の地中海沿岸から内陸部に進出。イベリア半島、北アフリカ、ガリア、ブリテン島、ギリシャ、アナトリア半島、バルカン半島、黒海沿岸、そして中東地域へと勢力圏を広げた。

 

 現在、オーストリア=ハンガリーとして二重帝国の一角を担うハンガリー王国(当時はパンノニアと呼ばれた)の大部分を構成するハンガリー大平原がローマ帝国の支配下としてイリュリクム属州に編入されたのは、紀元前1世紀頃であるとされる。

 

 このイリュリクム属州は、アドリア海に面し、ローマの3度の侵攻により滅ぼされた古代イリュリア王国領である。あらゆる民族と宗教をローマの支配下におさめ、ローマが統一するという理想と情熱に燃えていたローマ人総督からすれば、単に近くの属州に編入したという認識でしかなかっただろう。結果論ではあるが、この決定が、マジャール人やスラブ民族という概念すらなかった時代に、現在にまで続くハンガリーとクロアチアの腐れ縁の発端となった。

 

 約150年後の1世紀中頃、旧パンノニアはパンノニア属州として分離する。3世紀末にローマ帝国が東西に分裂すると、パンノニア属州は西ローマ帝国に帰属したが、4世紀後半から、中央アジアから進出した遊牧民フン族の脅威に脅かされることになる。しかし衰退期に入った西ローマ帝国は、フン族に立ち向かう意思も能力も持ち合わせておらず、むしろパンノニアを割譲することで、帝国の活路を見出そうとした(結果的には失敗したわけだが)。

 

 キリスト教徒から恐怖と怨嗟の対象として怖れられた、偉大なる異教徒アッティラ大王の死後、フン族は分裂して弱体化。6世紀には、新たな遊牧民アヴァール人がハンガリー平原の覇者になったが、ゲルマン民族のフランク王国に打倒される。そのフランク王国も、分割相続による御家騒動によって、ハンガリー平原への影響力を失った。

 

 かくして新たな侵略者であり、現在のハンガリー王国を建国したマジャール人の出番となる。

 

 9世紀頃。ウラル山脈周辺の遊牧民であり、自然崇拝の異教徒であったマジャール有力8部族は、東ヨーロッパへの移民(侵略)を開始。黒海沿岸からヴォルガ河沿いに進み、ハンガリー平原へと進出。そしてマジャール人部族の熾烈な争いを勝ち抜き、ハンガリー平原の覇者となったアールパード家は、神聖ローマ帝国に敗戦したことでキリスト教への改宗を強制られたものの、それすらも利用する強かさを発揮。西方教会と連携することで、有力貴族や敵対者を異教徒として抑圧。ハンガリー平原に、統一政権を打ち立てた。

 

 1000年12月25日。アールパード家の大首長ゲーザの息子イシュトヴァーンは、ローマ教皇シルウェステル2世からハンガリー王の戴冠を受け、ハンガリー王国の建国を宣言する。後年、聖人としてカトリック教会に聖列された聖王イシュトヴァーン1世である。

 

 この聖王以来のハンガリー王位と聖イシュトヴァーンの王冠は、アールパード朝断絶後、複数の王家を経て、1526年には縁戚関係にあったハプスブルクのフェルディナント1世の頭上に収まった。この間、加戸陸とプロテスタントの宗教戦争やオスマン帝国の中欧侵略と支配により、ハンガリー王国の多民族国家化が進み、カトリック教会の優位性が崩れたことで、マジャール人の多様化も進んだ。

 

 現在のハプスブルク君主国の長、すなわち皇帝陛下が保有される公的な称号は、オーストリア皇帝、ハンガリー使途王、ボヘミア、ダルマチア、クロアチア、スラヴォニア、ガリツィア、ロドメリア、イリュリアの王、エルサレムの(以下略)の称号保持者である。

 

 言うまでもないことではあるが、オーストリア皇帝カール1世陛下と、ハプスブルグ=ロタリンギア(ロートリンゲン)朝のカーロイ4世陛下は、同一人物である。

 

 オーストリア皇帝カール1世陛下は、最後の神聖ローマ帝国皇帝にして、初代オーストリア皇帝フランツ1世から数えて4代目である。

 

 ハンガリー国王カーロイ4世陛下は、聖王イシュトヴァーンから数えて、57代目のハンガリー使途王である。

 

「つまるところ我々の不満は、そこに集約される」

 

 ブタペスト市東岸地区の国会議事堂(オルサーグハース)が見下ろす、アンドラーシ通りに面する高級住宅街の私邸に私を招待したハンガリー王国元首相のティサ・イシュトヴァーン伯爵は、共通閣僚評議会議長への完璧なまでの礼儀作法による敬意を払いながら、政敵に対する態度と視線を私へと向けていた。




*前話冒頭、ガブリエーレ・ダンヌンツィオ釈放に関する加筆修正しました。
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