(写真)
モスクワのクレムリン宮殿ウラジーミルの間で、ソビエト・ロシアの解散文書に署名するレフ・カメーネフ(ソヴィエト・ロシア人民委員会議議長代理)。左はミハイル・トゥハチェフスキー(モスクワ防衛軍司令官)、アレクサンドル・エゴロフ(モスクワ防衛軍参謀長)。
前年のヴォルガ攻勢の失敗により、赤軍は各地で後退を続け、モスクワ周辺まで追い詰められていた。1920年1月22日。数ヶ月に及んだ攻防戦の末、モスクワのボルシェビキ政権は、ラーヴル・コルニーロフ率いる白衛軍に投降した。モスクワ市内は廃墟と化し、餓死者が薪のように積みあがっていたという。全ロシア臨時政府のコルチャーク最高執政官は「内戦の終結」を宣言した。
モスクワ陥落後も、アントノフ=オフセーエンコ率いる赤軍の残党は、1921年頃前まで、ウクライナ方面で活動を続けた。ソヴィエト・ロシアの幹部は「国家に対する反逆」を理由に、その多くが軍事裁判で処刑された。レフ・トロッキーのように、一部の幹部は国外逃亡に成功した。
- 民明出版社 高校用教科書『世界史B(改訂版)』ロシア内戦より抜粋 -
プロイセン州ポツダムは、首都ベルリンから南西に約30kmの場所に位置する。17世紀までのポツダムは、人口数千人ばかりの小さな町であったという。三十年戦争により人口が半減する悲劇に見舞われ、緩やかに成長と衰退を繰り返す、ドイツのどこにでもある特徴のない町でしかなかった。
17世紀の中頃、当時のブランデンブルク=プロイセン選帝侯がポツダムに狩猟館を設置した時から、この町の運命は変わった。開発と経済発展に取り残されたポツダム周辺には、手付かずの豊かな自然環境が温存されていた。歴代のホーエンツォレルン家の当主は、首都から適度な距離にある狩猟場での休暇を楽しんだ。
1685年にフランス王国がナントの勅令を廃止し、カトリック重視政策に回帰すると、商工業に携わっていたフランスの新教徒達は居場所を失った。自らも新教徒であったプロイセン王は、彼らを首都ベルリンからそれほど離れていない、そして既存の住民との圧力が少ないポツダムに受け入れた。こうして欧州諸国から、プロテスタント系移民や資本を積極的に受け入れたポツダムは、ドイツ経済興隆の礎となった。
1745年に建設された、フランス語で「憂いなし」を意味する名前を冠するサンスーシ宮殿は、ポツダムにおけるホーエンツォレルン家の夏の離宮である。
モデルになったのは、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿だ。当時のフランスは、絶対王政の中央集権国家のモデルとして極めて優れており、フランスの政治と文化の中心であるヴェルサイユ宮殿は、各国の王侯貴族のあこがれであった。フリードリヒ大王は、サンスーシ宮殿の建設に際して国家予算を惜しみなく投入し、設計の段階から図面に手をいれるという熱の入れようであったという。
フリードリヒ大王は、啓蒙君主としての進歩的な考え方と、力の信奉者としてのプロイセン人としての本質を両立させた稀有な人物であるとされている。彼はその治世において、内外の人間に自らの存在を強烈、かつ完璧なまでに印象付けることに成功した。
彼が設計したサンスーシ宮殿にも、大王の個性は余すところなく表現されている。軍事教練が可能なほどに広大な庭園には、季節に合わせた植物が所狭しと植えられ、生垣から噴水、葡萄畑に彫像、警備兵の詰所に至るまで、プロイセン流に一部の隙もなく計画されている。
広大な庭園を抜けた場所にある新宮殿は、簡素というよりも古風な印象を受ける。青色の屋根にクリーム色の外壁をもつ平屋が、ヴェルサイユ宮殿をモデルとしているとは、一見するとわからないだろう。あちらは部屋数だけで700以上、こちらはわずか12室しかない。周囲の豊かな自然環境も含めて、華麗というよりも静謐さを感じる。
ところが一歩足を踏み入れれば、その絢爛さに圧倒されるばかりだ。当時の流行であるパステルカラーを基調とした壁紙に、花綱飾りと呼ばれる金色の装飾が、所狭しと施されている。フルート奏者でもあった大王が特に力を入れた音楽室に至っては、壁から天井にかけてびっしりと埋め尽くされている。
当時の流行を大胆に取り入れた結果であるというが、これはドイツ人のよい意味での几帳面さの顕れであろうか。評価は分かれるだろうが、それでも現代の感覚すれば、過剰装飾としか言い様がない。
プロイセン流の質実剛健な宮殿と評価するのが、ごく自然な評価なのだろう。しかし私には、シュレジェン泥棒を働いた大王個人への反感からか、あるいは斜陽の帝国として、興隆著しいドイツ帝国への嫉妬からか、聞くもの見るもの全てを否定的に受け取ってしまう。歴史も伝統も知らぬ成り上がりものが、金に任せて作った趣味の館というのは、流石に言い過ぎであろうか。
ならば第三者の意見を聞くのが適当というものだろう。私は傍にいた「道化師」に、この宮殿に対する評価を訊ねた。
「何もかもが間違っています」
デ=ガスペリは言うや否や、唐突に胸の前で十字を切った。
彼が共通閣僚評議会議長の補佐官となったのは、去年のことだ。公私共に関係を深める過程で、彼がカトリックの世界観に生きている事は承知していたつもりだった。
だが、どうにも認識不足であったらしい。私の沈黙に対して、彼はもう一度、「何もかもが間違っています」と繰り返した。
「重要なのは、この宮殿には神の不在が不明確であることです。だからこそ、この館は間違っていると断言出来ます」
「プロテスタントとカトリックという違いはあるが、彼らもキリスト教徒だろう」
私は彼の強固な信仰心に対する敬意と、それと同じぐらいの不快感を滲ませて反論した。カトリック教会の……というよりも、聖職者に共通した一種の独善性と排他性には、私としても思うところがある。
デ=ガスペリは私の言に首を横に振ると、「キリスト教徒であることが、正しい信仰の持ち主であるとは限りません」と答えた。
「プロテスタントにも、彼らなりの信仰心はあるのでしょう。そこは否定いたしません。ですが究極に突き詰めると、聖書の教えを、自らに都合よく解釈する余地を残しているのがプロテスタントなのです。イギリス国王は離婚をしたいがために自らの教会を立ち上げました。間違えたとしても、不思議ではありません」
「カトリック教会の無謬性を信じるのは君の勝手だが、ローマのペトロの後継者は、信仰であろうと政治であろうと科学であろうと、間違うことがないのかね?」
私なりの精一杯の皮肉にもかかわらず、彼は教科書を読むかのように、理論整然と続けた。
「人が人である限り、間違うことはあるでしょう。ですが間違いを指摘する存在がないこと、それこそが問題なのです。十字軍の過ちや教会の腐敗は、後に正されました。神ではない、罪深き人間だからこそ、人は隣人への敬意と、尊敬を忘れてはならないのです。新しい思想には慎重でなくてはなりません……トリノやパリの社会主義者のように、神がいないと信じるのならば、外聞を気にする必要などないはずです。自分自身に都合よく解釈する信仰を続けてきた。だからこそ歪で間違っていると断言出来るのです」
「だからこそ、間違っているか」
熱っぽく語る「道化師」の信仰に対する考え方はともかく、私はフリードリヒ大王の二面性が顕われているのだろうという指摘には同意した。18世紀においてすら、大王のシュレジェン泥棒は批判された。普墺戦争や戦争普仏戦争での開戦工作、そして先の大戦のベルギー侵攻と、プロイセン流のレトリックには枚挙にいとまがない。
プロイセン流が間違っているというのなら、間違った国が戦争で勝利したことになる。そして間違った国が負けていたのなら、同盟国であるハプスブルクは、彼らと共に壊していただろう。それはありえたかもしれない「正しい歴史」なのだろうか?
私は、自らのおぞましい思考を頭から振り払うように、小さく首を振った。
「……力のない正しさでは、何も守れない。正しくなくとも、我々はハプスブルクを守らねばならない」
「正しきものが力あるものではありません。ですが力あるものが、常に正しいわけでもありません」
「道化師」との会話を打ち切ると、私は宮殿広間の天井を見上げた。
神ではなく人の手による精緻な花網飾りが、宮殿内の人間を見下ろしている。
壁を這う蔦植物の飾りが、私には獲物を絡め取る蜘蛛の巣のように見えた。
*
サンスーシの新宮殿には、ハプスブルクを含めた中央同盟の外交団と、全ロシア臨時政府の全権団が招かれていた。ドイツを除く各国の出席者が、皆一様に硬い表情なのは、金色の蜘蛛の糸に絡め取られた獲物を思わせる。そして会議の主催者であるヒンデンブルク宰相の物憂げな態度とは対照的に、ルーデンドルフ参謀総長は「憂いなし」を体現したかのように、1人溌剌としていた。
1917年に帝政を打倒したロシア2月革命と、ボリシェヴィキの10月革命から始まったロシア内戦は、1920年1月22日のモスクワ陥落によって終結した。 この悲惨な内戦に勝利したのは、全ロシア臨時政府率いる白衛軍である。
一連の戦乱によって、帝政時代に1億7千5百万いたロシアの人口は、難民や飢饉、東欧諸国の独立もあって、1億人前後にまで減少したとされる。そしてロシア全土に戦乱と飢餓をもたらした末に、ボリシェヴィキは、かつて自分達が政敵を罵ったように、「歴史のゴミ箱」へと消えていった。
このポツダム会議は、ボリシェヴィキ政権が中央同盟(ドイツ帝国)と締結したブレスト・リトフスク条約の取り扱いについて、全ロシア臨時政府と中央同盟加盟国が話し合うことを目的としている。
ロシア国内からは、天文学的な賠償金や領土割譲を課された同条約に対する不満が噴出している。「ボリシェヴィキが、政権を維持するために国を売った」という批判以外にも、穀倉地帯のウクライナや、欧州側に近い先進地域の独立を承認してしまえば、戦後復興が不可能になるという深刻な危機感が、反対論や見直し論の背景にあった。
中央同盟陣営としても、ドイツ軍主導の戦後処理には不満が残る。
まずハプスブルクで言えば、旧ロシア帝国領内のウクライナ王国の初代国王に皇族を送り込むことに成功したが、ドイツ軍が設立を主導したウクライナ軍との間で駆け引きが続いている。1916年に建国されたポーランド王国の国王候補では、ドイツ側とハプスブルク側の候補者が対立していた。ハプスブルク領邦にはウクライナやポーランドの少数民族を抱えており、安易な妥協は難しい。
ブルガリア王国は、ロシアと黒海問題を抱えている。ブルガリアを含めたバルカン諸国はロシアとの歴史的関係が深いが、同時にロシアのバルカン半島における歴史的な影響力が維持される事は、復活したバルカン半島の盟主を気取るブルガリアにとっては好ましくはない。
オスマン帝国の旧帝政ロシアとの歴史的な因縁は、いまさら語るまでもない。彼らはロシアに奪われた勢力圏の奪還を目的としており、具体的にはコーカサス方面の赤軍残党への対処や、アルメニア独立の是非、ナゴルノ・カラバフを巡るアゼルバイジャンとアルメニアの国教策定問題、グルジアのメンシェヴィキ政権の取り扱いなどで対立している。
ところがドイツは、すでに内戦中から白衛軍への軍事支援と引き換えに、ブレスト=リトフスク条約の承認を取り付けている。それどころかロシアの2国間の交渉で、現状の領土確定とドイツ勢力圏の承認-すなわちベラルーシ、フィンランド、バルト連合公国、リトアニア……あるいはポーランドやウクライナも含めたドイツ勢力圏の承認と引き換えに、巨額の賠償金減額を始めとした条約修正にも着手している。
無論、ハプスブルクをふくめた3カ国には断りもなしにだ。
……人を馬鹿にするにも、限度というものがある。
確かに大戦中の東部戦線において、最大の犠牲を払ったのはドイツである。現在でも欧州東部諸国に駐留を続けるドイツ軍の存在が、地域の安定を維持しているのも事実だ。
だからといって、大戦中の同盟国を蔑ろにしてよい理由にはならないだろう。ウクライナ国王の地位が、我らに対する対価だとでもいうのだろうか。
彼らからすれば、私たちも大戦中に独自に和平交渉を進めていたと批判するかもしれない。ならば彼らはベルギー侵攻に関して、我らに相談したのか?
今や権勢の頂点にあるルーデンドルフ参謀総長からすれば、ドイツとロシアの和解を……旧敵であるロシアがドイツの軍門に降ったことを、全世界にアピールするための添え物程度にしか考えていないのだろう。「実力も伴わないのに口を出すな」というわけだ。
ブレスト・リトフクス条約の改正案にロシアが調印すれば、東部戦線における戦後処理は一段落する。今までも公然と進められてはきたが、これで晴れて旧ロシアから切り取った「東方生存圏」とやらを、ドイツが料理する時間が始まるのだ。列国会議はただ、その形式を整えたに過ぎないという認識なのだ。
にも関わらずオスマン帝国やブルガリアの代表団は、反論することもなく沈黙を保ち、独露交渉を黙認する姿勢を見せている。前者は国内のアラブ系の反乱や巨額の債務問題を抱えており、ブルガリアは周辺諸国から領土を獲得したが、旧セルビアを始め、ギリシャ共和国やルーマニアなど仮想敵国に取り囲まれている。ドイツの後ろ盾は、必要不可欠だ。
つまりハプスブルクはほぼ孤立無援な状況の中、フランスや北イタリアの社会主義者などの外敵を抱えた上で、ドイツ帝国と協力しながら、ウクライナ、ポーランド問題でドイツ帝国と対抗しなければならない。
これでは戦争に買ったのか負けたのか、わかったものではない。人目さえなければ、私は頭を抱えていただろう。
では、ロシア側はどうか。
ポーランド問題でもウクライナ問題でも、彼らは両国の実効支配をしていないとはいえ、問題の当事者ではある。メッテルニヒ流に「敵の敵は味方」であるという論理により、一時的にも交渉において手を結ぶことは可能ではないのか。
私はこの会議の「主役」である彼らを観察しながら、思考を巡らせてみる。
ロシアからすれば、この改正条約案への調印は、協商陣営からの正式な離脱を意味している。もはやボルシェヴィキ政権の締結した一方的な条約であると、協商陣営に対して言い逃れることは出来ない。
そしてロシア経済との関係が深かった旧フランスが崩壊し、イギリスが大陸から手を引きつつある現状では、内戦からのロシアの復興は、ドイツの協力が得られるか否かに掛かっている。ロシア側の出席者が鬼気迫る表情で、会議に臨んでいるのもそのためだ。何よりドイツ軍の圧力を実際に受けている現状では、ハプスブルクと手を結ぶ可能性は低いだろう。
ロシア側の首席全権は、アレクサンドル・コルチャーク。元海軍軍人の47歳。全ロシア臨時政府を率い、内戦を勝利に導いだ功労者は、帝政時代の白を基調とした海軍将官の服を着用し、会議に臨んでいた。
胸や肩からは、内外の政府からコルチャークに対して送られた勲章を-それも略章ではなく嵩張る実物を、ネックレスのようにじゃらじゃらとぶら下げている。彼が歩くたびにカチャカチャと音を立てるので、全権団の中でもひときわ異彩を放っていた。
彼を簡単に表現するならば、「信頼出来ない事が信頼出来る」という野心家である。妥協と壮絶な権力闘争の末に、全ロシア臨時政府の最高権力者に上り詰めた。白衛軍の内戦の勝利に貢献した立役者だ。
同時に彼は、国の内外から目的のためには何をするかわからない軍国主義者として危険視されている。
帝政ロシアの海軍将官であったコルチャークは、ロシア革命初頭に軍事独裁による解決を主張して解任された。ボルシェヴィキの10月革命に反対するオムスク政府に参加したが、クーデターで全権を掌握。昨日までの同士であり、反ポリシェヴィキで共闘していた社会革命党や労働組合を、武力で弾圧した。
コルチャークの強引なやり方は、反ボルシェヴィキ陣営内でも「敵(赤軍)ではなく味方(白軍)と戦う」と批判された。この他にもシベリアで投降した赤軍将兵を虐殺した疑惑や、イギリスからの援助金を着服した疑惑を持たれている。
そして危険視されるだけに、軍事指導者としては掛値なく優秀だ。帝政ロシアの高級将校の多くは、彼と同じ貴族出身であったが、その多くが革命によって馬脚をあらわした。彼は自らの実力で反乱軍を立ち上げ、その組織化に成功したという点だけでも、他の貴族出身将校とは隔絶された存在だ。
「ドイツの軍事支持があれば誰でも勝てた」「コルニーロフやデニーキン、ユデーニチなど、有能な将軍の功績であり、コルチャークは何もしていない」という批判は確かにあるが、コルチャークがいなければ彼らを統率出来ていたかは疑問だ。赤軍に各個撃破されていた可能性は低くはないだろう。
そして彼は卑劣ではあっても、臆病者ではない。ロシア全土でブレスト・リトフスク条約への反発が湧き上がる中、クレムリン宮殿に押しかけたデモ隊に向かって「ドイツとの安定した関係こそ、偉大なるロシア再興に欠かせないものだ」と反論し、有無を言わさず解散させたのがコルチャークだ。その彼自身、内戦中には「ロシアをドイツに売り渡した売国奴」とソヴィエトを強烈に批判していたのも、記憶に新しいので、説得力に欠けるのは否めない。だが勇気だけは、認めなければならないだろう。
「アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャーク、全ロシア暫定政府の最高司令官、オムスク政府最高執政官、帝政ロシアでは海軍中将を務めました」
コルチャークは自己紹介の度に、帝政時代も含めた自身の肩書きを詳細に語った。それは相手への誠実さというよりも、「ロシアの指導者としてのコルチャーク」を、内外に印象づける狙いがあるのは明らかであった。
私は彼の挨拶を半ば聞き流しながら、このロシア内戦の英雄と握手を交わした。
元海軍軍人という経歴にもかかわらず、彼からは潮の香りがしない。軍服の上からでもわかる盛り上がった肉体からは、むしろシベリアの過酷な環境を感じる。その手はいかにも軍人らしく骨ばっていたが、スペイン風邪でも引いているのかと思わせるほどの熱を持っている。良くも悪くも激情家なのだろう。
「コルチャークは平和を望んでいると、是非とも貴国の皇帝陛下には、よろしくお伝え頂きたい」
「承りました」
そこでロシアではなく、自分の名前を強調するのがコルチャーク流だろうか。あるいは彼の中では自分が正式な大統領に就任するのは既定路線なのかもしれない。会話の最中に意図的に大声を上げるやり方も、本人の思惑とは別にして虚勢にしか見えない。
何より彼自身の、猜疑心と人間不信に満ちた暗い眼だけは隠しようがない。
幸いにして会議の出席者達は、コルチャークが内戦中に幾度となく非情(見方によっては卑劣)な決断を繰り返して来た人物であると認識していたので、彼が侮られるような事態は避けられていた。こうなると悪名も良し悪しである。
「……セルゲイ・ドミートリエヴィチ・サーゾノフ。外務大臣です」
直前まで首席全権に対する冷ややかな視線を向けていたのは、次席全権大使のセルゲイ・サーゾノフ伯爵である。
剥き出しの骸骨に、言い訳程度に肉と皮膚を貼り付けたかのようなロシア人貴族は、禿げ上がった額から顔の皺に至るまで、ロマノフ帝政特有の陰気な高慢さを漂わせている。帝政最後の改革とされる中央集権改革を断行し、革命派を秘密警察で弾圧したストルイピン首相は、彼の義理の兄弟である。
ザーゾノフ伯爵は、全権団の中では暫定政府内部の帝政派や貴族など、帝政時代の指導層を代表している。ザーゾノフは1910年から16年まで、外務大臣を務めていた。つまり開戦当時の外務大臣であり、革命により多くの外交官が国を離れた今となっては、ロシア側で彼以上に帝政時代の外交交渉に詳しい人間は存在しない。革命派から旧体制の人物であるとして批判を受けながらも、彼がオムスクの暫定政府で外務大臣に選ばれたのは、そうした理由がある。
すでにザーゾノフ伯爵は、会議が成功しようとも失敗しようとも、政界を引退する意向を表明している。おそらくロシア側でドイツとの交渉を担当しているのは、彼なのだろう。
最初から政治的責任を押し付けられることを前提とした、蜥蜴の尻尾である。皇帝一家が虐殺された今となっては、ロシア国内の不満に対するスケープ・ゴートとして、彼以上の適材はいない。60歳を迎えたザーゾノフ伯爵は、これが最後の奉公と割り切っているのか、あるいは開戦当時の外務大臣として、自らの外交官としての矜持を守るためか。
「中央同盟と新たなロシアとの関係に繋がるように、外務大臣として努力致します」
「こちらこそ」
ザーゾノフは、何もかもがコルチャークとは対照的に、短く事務的な言葉に続いて握手を求めた。
年相応に脂の抜けた柔らかい手は、いかにも貴族然としている。そして灰色の冷たな眼差しの底に垣間見える酷薄さは、亡きストルイピン首相と同じものだ。
そして帝政ロシアを救うために政治家たらんとしたストルイピンとは異なり、あくまで一介の官吏であろうとする老外交官には、熱意というものが決定的に欠けている。そのため必要以上に陰鬱な印象を、他人に与えていた。
ザーゾノフは多くのロシア人貴族同様、革命に対する危機感はあったが、労働者の境遇や社会政策には、一切の関心を示さなかった。むしろ弱者に対する慈悲や妥協を示すことは、政治家としての弱さであるという価値観の信奉者であった。かつての主君であるニコライ2世の家族が虐殺されたと知らされた時も、彼は形式的な追悼以外に労力を使うことはなかったほどだ。むしろ皇帝虐殺を、いかにして反ボルシェヴィキ・キャンペーンに使えるか。それを考えるのに忙しかったという。
少なくとも、個人的に友人にしたい人物ではない。
ザーゾノフは独露交渉こそが全てと考えているらしく、こちらからの事前協議の呼びかけにも、理由をつけて答えようとしない。外交官としての優先順位が明確なのか、それとも力の信奉者としての価値観を優先したと批判するべきなのか。
ザーゾノフ伯爵の外交官らしい隙のなさと、外交官とは思えない非友好的な態度に、私はそれ以上の接触を諦めると、次の人物と向かい合った。
「お初にお目にかかります議長閣下。アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーです」
交渉団の中で最年少の39歳、そして最年長のザーゾノフと同じ次席全権であるアレクサンドル・ケレンスキーは、つるりとした顔に愛嬌のある笑みを浮かべながら、肩書きを名乗らずに、自分の名前だけを名乗った。良くも悪くもロシアの権力者らしからぬ気取らぬ振る舞いに、私は調子を狂わされた。
寄り合い所帯のロシア全権団の要は、No.1のコルチャークではなく、外交官のザーゾノフ伯爵でもなく、No.3のケレンスキーであると噂される青年は、10月革命前にはロシア臨時政府の大臣会議議長として、政権を率いていた。そして現在も、その称号を保有している。コルチャークからすれば、次期大統領をめぐる最も有力な対抗馬だ。あるいはそれを名乗らなかったのはコルチャークへの配慮だったのかもしれない。
ロシアの民芸人形にマトリョーシカ人形というものがあるが、ケレンスキーのつるりとした顔と、子供の玩具のようにはっきりとした目鼻立ちは、それを思い起こさせる。
コルチャークやザーゾノフの風貌は、いかにもロシアの貴族らしく、神聖にして侵し難い威厳と、ロシアの大部分を占める不毛の大地のような冷酷さを同居させている。ところがケレンスキーという人物は、彼のロマノフ王朝に対する主張と同じく、どこまでも非伝統的であり、闊達というよりも剽軽なものすら感じさせた。
ケレンスキーは非貴族出身として、初めてロシアの国家指導者に就任した人物である。どことなく愛嬌のある風貌と洗練された立ち居振る舞いでありながら、舌鋒鋭い革命派の雄弁家として、労働者や兵士の間から人気があった。
暫定政権閣僚の中でも、圧倒的な知名度と政治手腕を武器に、36歳の若さで政権の座に上り詰めた。地方官僚の父と農奴出身の母という、歴代指導者からは考えられない異端の政治家の登場に、戦争と革命で疲れきっていたロシア国民は熱狂した。
ケレンスキーの政治遍歴は、帝政ロシア末期の政治的な混乱を体現したかのように目まぐるしい。彼が大学を出て、最初の政治活動を始めたとされているのが1904年。1917年の10月革命で政権を追われるまで、僅か13年である。この間、彼は開いても開いても中身が出てくるマトリョーシカ人形のように、自分の主張と政治的立場を入れ替えた。
ロシアの名門サンクトペテルブルク大学に入学した時点で、ケレンスキーの将来は約束されていた。ところが彼は弁護士の資格を得ると、誰もが尻込みをするナロードニキのテロリストに対する弁護人を引き受けた。治安機関の要注意人物として障害監視されるという危険があるにも関わらず、彼は脅迫や圧力に屈することなく弁護を続け、捜査の不当性を主張した。これによりケレンスキーは「不屈の人」という賞賛を受け、革命派からの信頼を獲得した。
その後、反体制色の強い社会主義政党の社会革命党に入党すると、帝政ロシアの国会議員に当選。ケレンスキーは改革派政治家として政府の腐敗や労働問題を厳しく追及し、雄弁家として名声を博した。同時に党内左派の冒険主義を厳しく対立する右派指導者として、頭角を現した。
欧州戦争が始まると、ケレンスキーは持論であるロマノフ帝室への批判を封印し、祖国防衛戦争を熱烈に支持。国民に対して戦争への支持と国家への献身を訴えた。
戦局が悪化すると反ラスプーチン派として皇帝とアレクサンドラ皇后を批判し、戦況悪化の原因は皇帝の戦争指導にあるとして、革命を正当化した。
ロシア2月革命では、臨時政府内部で誰よりも早く帝政廃止に賛成。暫定政府の法務大臣として戦争継続を訴えた。同じく賛成派の閣僚と政治的な同盟を結び、東部戦線の崩壊を恐れる協商国と交渉して、巨額の財政的支援を取り付けた。そしてリヴォフ公爵の辞任を受け、暫定政権のトップに就任した。
自身が主導した対ドイツ反攻作戦(ケレンスキー攻勢)が無残な失敗に終わると、国民はケレンスキーへの批判を強めた。軍部もケレンスキーの責任転嫁に反発。事前の期待の高さは、政権への圧倒的な逆風に繋がった。
こうした反戦世論を背景に、ボルシェヴィキは政権打倒のクーデターを決行する(10月革命)。この時、暫定政権の閣僚は次々と逮捕・拘束されたが、ケレンスキーだけが、モスクワからの脱出に成功した。
その後、ケレンスキーはロシア東部の反ボルシェヴィキ勢力に身を投じ、各地を転戦しつつコルチャークの暫定政府軍に合流した。チェコスロバキア軍団など協商陣営との交渉を任されていたが、協商陣営の劣勢が明らかになると中央同盟に接触。ロシアを丸ごと寝返らせることを前提に、ドイツから軍事支援と財政支援を引き出すことに成功した。
そして「臨時政府の大臣会議議長」としての地位を認めさせた上で、コルチャークを全ロシア臨時政府の唯一の代表者として推薦。反ポルシェヴィキの統一戦線を成立させた。
ケレンスキーほど毀誉褒貶の激しく、評価の別れる政治家も珍しい。国家に欠かせない有意の人材と賞賛するものがいれば、自分の政治的な地位以外に興味のない政治屋だと否定する者もいる。立憲民主党(カデット)のパーヴェル・ミリュコーフ(元外相)や、実直な職業軍人であるアントーン・デニーキンは「何があっても傷つかない保身の名人」「エゴイズムの化身」と批判している。
暫定政権における彼の立ち位置も、非常に特殊なものだ。
暫定政権で閣僚を務めた他の政治家と同じく、ケレンスキーは帝政ロシアにおける野党政治家であり、行政経験も従軍経験も、そして与党政治家としての経験も有していない。
それにも関わらず、彼の調整手腕や交渉能力は群を抜いていた。そのため政権基盤の脆弱な暫定政権では、彼の存在は欠かすことが出来ない。潜在的な政敵であるコルチャークや、外交官以外との接触を意図的に避けているザーゾノフ外相ですら、それは同じである。
だからこそ、身分や肩書きとは関係なく、ただケレンスキーという人物が信頼出来ないとしても、無視することは難しい。聞くところによれば、ヒンデンブルク宰相はケレンスキーとの握手を拒否したという。私はこの時ばかりは、プロイセン軍人の無神経さと自分自身に対する正直さが、羨ましくなった。
私はコルチャークとザーゾノフ外相の視線を感じながら、目の前の「マトリョーシカ人形」が差し出した手を握った。
「今回の訪独で閣下の知遇を得られましたことは、私の無上の喜びとする所です」
「……今回の会議が、ロシアとハプスブルクとの……中央同盟と貴国との間の戦争状態を解消し、諸問題を解決する平和条約の調印に繋がることを期待しています」
「無論です。そのためには是非とも、閣下の御力添えをお願いしたい」
ぬらりと生暖かいケレンスキーの手のひらの感触に耐えるのは、私に拷問に耐えるに等しい忍耐を要求した。