(写真)1919年7月に撮影
南フランスのマルセイユで、暫定政府(第4共和制)の戦艦『ロレーヌ』に乗り込むフェルディナン・フォッシュ元帥(暫定政府大統領)。甲板で敬礼をするのは、艦長代理のフランソワ・ダルラン中佐。彼は陸軍の砲兵であったが、マルセイユに停泊中の『ロレーヌ』を陸戦隊を率いて制圧したことで、艦長代理に指名されていた。
このフォッシュ元帥の予言は、敗戦を認められない軍人の負け惜しみであるとして嘲笑と共に迎えられたが、20年後に的中することになる。
ボルドーの暫定政府の崩壊後、フランス国内の対ドイツ継戦派は「第4共和制」の樹立を宣言。政治家では支持を得られないと考えた急進社会党は、連合国軍総司令官のフォッシュ元帥を代表に擁立した。しかし陸軍将兵の大多数は、これを支持しなかった。「第4共和制」を支持する保守派や右派は、北アフリカの海外県へ拠点を移すことを決定。南フランスからはアルジェに脱出する避難民の列が途切れることなく続いた。
フランスのパリと、北アフリカのアルジェに2つのフランス政府が両立した時代を「南北朝時代」と呼ぶ。
- 『パリ陥落』民明書房(1955年) -
イギリスの歴史家が「長い18世紀」と呼ぶ時代。欧州大陸では、ナショナリズムや民族主義に基づく国家建設の胎動が始まり、王侯貴族の私有財産としての国境線に、終止符が打たれようとしていた。ナポレオン戦争(1799-1815)は、アンシャン・レジーム(旧体制)を軍事力で打倒したに過ぎない。その萌芽はコルシカの軍人以前からあったものだ。
山の水源から湧き出た水が集まって河川となる。何事もなく湖や海に流れていく間は問題ないが、一旦流れが止まると、水はたちまち腐る。急激な増水により濁流と化した水の流れを、人の手で押し止める事は出来ない。濁流と共に欧州のアンシャン・レジームを吹き飛ばした鬼才ナポレオンですら、最後は自分自身も旧体制として押し流された。
時代の激流を前に、ハプスブルクのテッシェン大公とトスカーナ大公は、対照的な軌跡を辿った。
テッシェン大公カール(1771-1847)は、その流れに対峙した名将として、今もなおハプスブルクの皇統譜に燦然と輝き続けている。北イタリアで4代続いたトスカーナ大公家は、リソルジメント(イタリア統一運動)を支持する国民と敵対することを避け、故郷へと戻った。
初代のテッシェン大公カールは、最後の神聖ローマ皇帝にして初代オーストリア皇帝フランツ1世の実弟である。
彼は反フランス連合諸侯がなすすべなく敗れ去る中、弱兵揃いとされるハプスブルク家の軍を率いて、ただ1人だけ気を吐いた。「敵を物理的に殲滅するのではなく、戦略拠点を機動的に確保するために、戦力を保全する」という戦略的判断の下、時には慎重過ぎるのではないかと批判を受けながらも、粘り強く戦い続けることで、決定的な敗北を回避。そして必要と判断すれば、自らの原則から逸脱することを躊躇わなかった。そしてその時は、戦略的にも戦術的にも大きな勝利をおさめた。
ナポレオンもこのハプスブルク家の若者を「これまでは指揮官のいない軍隊と戦い続けてきたが、これからは軍隊のない指揮官と戦わねばならない」と、コルシカ人らしい皮肉を交えて評価してみせた。
軍隊のない指揮官とは、まさに言い得て妙である。両者の対立はナショナリズムに基づく国民皆兵のフランス大陸軍と、アンシャン・レジームに基づく多民族国家を支配するハプスブルクの対決でもあった。ワグラムの戦い(1809年)で大敗するまで、彼はハプスブルク帝国の希望の星であり続けた。
1809年の退役後、誇り高いカール大公は表舞台から退いた。保守的で慎重なフランツ1世と、政治的には改革派だったカール大公には、確執があると噂されていた。それでもナポレオンと対峙したカール大公の名声は衰えることなく、彼の子孫であるテッシェン大公家の繁栄の基礎となった。
カール大公の長男アルブレヒトは、オーストリア陸軍元帥として、ハプスブルク保守派の重鎮として存在感を発揮した。弟のカール・フェルディナンドも軍人として活躍し、その3人の息子は現在の帝国軍を支える重鎮である。
すなわち初代カール大公の孫であり、現テッシェン公フリードリヒは陸軍元帥として、欧州大戦を通じた帝国陸軍の最高司令官を務めた。ドイツ帝国陸軍においても陸軍元帥の地位にあるなど、ドイツとの関係が深い保守派の代表格だ。
次弟のカール・シュテファンは海軍元帥として、大戦中にはイタリア方面の艦隊を指揮した。イタリア海軍を破ったオトラント海峡海戦(1917年)の指揮官として名高いホルティ・ミクローシュ海軍元帥の後見人である。
末弟のオイゲンは、陸軍元帥として西部戦線に従軍。1919年にはドイツ軍とともにパリに入城を果たしている。またオイゲン大公は騎士修道会ドイツ騎士団総長としての顔を併せ持つため、宗教界に顔が広い。
3人の元帥を中心に、テッシェン大公家はハプスブルク家における保守派として、隠然たる影響力を保持している。
一方のトスカーナ大公家は、時代の激流に抵抗せず、むしろ激流の中で次の生き方を選ぶことを選んだ。
トスカーナ大公家は、マリア・テレジアの夫フランツ(フランチェスコ2世)が初代であり、メディチ家断絶後に大公国を継承した。代々の当主は漸次的ながらも自由主義的な改革を続け、衰退していたフィレンツェを、再び北イタリア有数の大都市へと成長させた。しかしイタリア民族主義の台頭を前に、最後の国王フェルディナンド4世は国民投票の結果を尊重する形で退位。家族と共にオーストリアへと引き上げた。
イタリアの中でも商工業が盛んだった北イタリアは、よく言えば自由闊達な、悪く言えば個人主義的な気質で知られる。その影響を受けたためか、トスカーナ大公家は保守的とされるハプスブルク家の中でも、自由で進歩的な家風で知られている。
故ルドルフ皇太子の盟友として知られたヨハン・オルト、舅との諍いでザクセン王太子妃の地位を捨てたルイーゼなど、問題児を多数輩出しながらも、その家風は変わらなかった。ドイツ帝国の中でも自由主義的な政治風土で知られるバイエルンやザクセンなどの南ドイツ諸侯、あるいはリソルジメントで追放された旧イタリア諸侯と閨閥を通じた繋がりが深い理由でもある。
現在のトスカーナ大公は、フェルディナンド4世の次男であるヨハン・フェルディナンド大公。先の大戦中は、東部戦線において第4軍司令官としてロシア帝国軍と対峙したが、ブルシロフ攻勢で大敗。以降は後方に回されたという御仁である。
元々が文人肌であり、歴代当主と同じく南ドイツ諸侯や旧イタリア諸侯との関係が深い。イタリア連邦構想にはリソルジメントの潮流に反すると懐疑的であったが、ボルボン=シチリア王家内部で両シチリア国王候補者が問題となった際には、現国王フェルディナンド3世に一本化させるのに功があった。
昨年、ハンガリー閥や国内保守派との繋がりが深くない私が、シュテファン・ブリアン伯爵の後任として共通閣僚評議会議長に就任出来た背景は、イタリア問題の深刻化にある。
やはりというべきか案の定というべきか、帝国政府によるイタリア連邦構想-トスカーナ大公国やモデナ公国を北イタリア地域で復活させる王政復古計画は、帝国内部の保守派が主導したものであった。
結果として、この正統主義に基づく王政復古計画は、厭戦気分が蔓延していたイタリアにおいて革命機運と民族主義を再燃させる結果となり、ローマの暫定政府は崩壊した。帝国軍はズルズルとヴェネツィアまで交代を続け、永遠の都は社会主義者による第2のローマ略奪の危機にさらされた。
私はデ=ガスペリを通じたカトリック人脈と、トスカーナ大公ヨハン・フェルディナンド殿下を通じて、イタリアにおける反サンディカリスト陣営を結束させ、戦況を膠着状態に持ち込むことに成功した。
すなわち両シチリア王国を中心とした南部の保守派やカトリック勢力に南イタリアを確保させ、ミラノに逃れた暫定政府からの要請に伴い、軍事介入を開始。戦線が拡大しきっていた革命軍の、柔らかい脇腹を殴りつけた。その後は「トリノまで進軍するべし」とする意見を抑え、ポー川を境にして防衛線を構築することで、北イタリアを分断した。
暫定政府を引き継いだミラノのイタリア共和国は、オーストリア軍の全面的な支持を受け、ポー川の東に展開(東イタリア)。
社会主義勢力が中心となったトリノのイタリア社会主義共和国は、フランス・コミューンの支援を受け、北イタリアの西側を確保(西イタリア)。
半島南部は両シチリア王国が確保し(南イタリア)、旧イタリア王国を支持する王党派は地中海のサルデーニャ島へと逃れた。
また南フランスのマルセイユに取り残された帝国軍(スヴェトザル・ボロィエヴィッチ上級大将)を巡るパリのフランス政府やフランス臨時政府(第4共和制)との交渉も、カトリック教会を通じて行うことが出来た。
すなわち帝国軍の、エルザス・ロートリンゲン経由での本国引き上げを両フランスが妨害しないことと引換に、ハプスブルクは臨時政府(第4共和制)を支持する勢力を、マルセイユ経由でコルシカ島や北アフリカに脱出させるというバーターが行われた。
抗戦派の暫定政府勢力は、早い段階でフランス本国に残り続けることは不可能だと判断していた。またパリの臨時政府も、ドイツ帝国との対峙が続くことが予想され、また海軍が分裂状態にある現状では、ハプスブルクと対峙し続けるわけには行かなかった。仮にハプスブルクの撤退を阻止し、暫定政府を支持するような事態となれば、南仏全体で動乱となりかねない。国内の不穏分子が海外に出ていくのであれば、むしろ都合がよいと、パリの政府は判断した。
後ろ盾だったパリ政府が慎重姿勢に転換したことで、トリノの革命軍も身動きが封じられた。1919年12月には、ポー川を除く戦線で事実上の休戦協定が成立。イタリア半島ではそれぞれの勢力圏から脱出する避難民が相次いだが、各勢力とも黙認した。
イタリア戦線が一時的に膠着した結果、ハプスブルクでは再び路線対立が生じつつある。
テッシェン大公家とトスカーナ大公家の対立というのは、表面上のことに過ぎない。大公家を表に立てた「次」の状況を睨んだ主導権争いだ。自分達に望ましい方向に国家方針を向けさせんとする政治勢力同士の暗闘である。
これを「皇帝陛下の宸襟を悩ませるのは不忠の極みである」として、頭から否定するわけにも行かない。どちらも自分達こそが、次代のハプスブルクの為になると信じて疑わないからだ。
テッシェン大公家とその支持者は、ウクライナ・ポーランド問題を始め、民族問題、イタリア内戦など、政権の対応(つまり私だ)に尽く批判的だ。一方でトスカーナ大公家とその支持者は、政府の対応(これも私だ)を現実に即した対応であると評価している。
「ウクライナ・ポーランド問題で妥協するべからず。両国はハプスブルクの勢力圏に取り込むべきである」と主張するテッシェン大公家に、「ハプスブルク領邦内のウクライナ人やポーランド人を刺激しかねない。ドイツとの直接対決は避けるべき」とするトスカーナ大公家。
「バーデン勅令は再考、あるいは修正するべきである。国内の民族自決運動は帝国の解体に繋がる」と主張するテッシェン大公家に、「帝国の解体を避けるためには、ドナウ連邦構想を政府主導で積極的に進めるべきである」とするトスカーナ大公家。
「イタリア内戦に積極的に介入し、社会主義者を鎮圧してイタリア連邦を再建するべきだ」とするテッシェン大公家に、「イタリア民族主義を侮ってはならない。このまま停戦に持込み、両シチリア王国とともに現状の勢力圏を維持するべき」とするトスカーナ大公。
「ブルシロフ攻勢で第4軍司令官を解任された戦下手(ヨハン・フェルディナンド大公)が、何をいうか」とテッシェン大公側が罵れば、「誰のおかげでイタリア暫定政府が崩壊したと思っている。プロイセン人と同じく、戦争による解決しか頭の中にない連中」と応酬するトスカーナ大公側。
……念の為に断っておくが、テッシェンの3人の大公や、トスカーナ大公が直接批判を繰り広げているわけではない。両大公家の関係者や、彼らを支持する政治勢力が、影に日向に批判合戦を繰り広げているだけだ。
テッシェン大公家を支持するのは軍部の保守派を始め、中央集権的な高級官僚や、民族自決運動に批判的なハンガリーの大貴族が中心である。そしてトスカーナ大公の意見を支持するのは、各省庁にまたがる自由主義派や改革派を中心に、都市部の商工業者、そしてハンガリーを除く民族運動家である。
つまり両者の論争は、必ずしも保守派と改革派の対立ということを意味しない。
テッシェン大公家は確かに保守派だが、カール大公以来の穏健な改革は支持してきた。トスカーナ大公家は自由主義的な価値観に好意は持っていても、急進的な改革やハプスブルクの解体に繋がるような主張には賛同しない。ハンガリー人としては対外進出を進めることで、少し手も国内改革を送らせたい意向があるようだが、諸手をあげて賛成するのも、反対に頭から否定する勢力も共に少数派だ。
「つまるところ北進論と南進論ですな。北にハプスブルクを拡大したい保守派と、南の勢力圏を維持しつつ国内問題を重視する改革派。そしていつの時代もいかなる組織でも圧倒的多数である中間派という、日和見勢力」
サンスーシ宮殿の雰囲気にあまりにも似つかわしくないアレクサンドル・ケレンスキーは、ハプスブルクの路線対立を簡単にまとめてみせた。
*
1日目の日程を全て消化してから、私は「マトリョーシカ」との個別の会談に臨んでいた。私に割り当てられた部屋の小机を挟んで、私とケレンスキーが向かい合うように座り、私の背後には「道化師」が影のように立っている。
主催者であるはずのヒンデンブルク宰相は、会議中は黙して語らず、終わるや否や会場を後にした。古いプロイセン軍人の象徴のような老人に、列国会議の場は、あまりにも不釣合であった。
いついかなる場所でもドイツ側の見解を一方的に話し続けていたルーデンドルフ参謀総長は、自分の側近と打ち合わせをしながら退出していった。おそらく今頃はザーゾノフ伯爵と、条約改正の内容について激しい議論を繰り広げているのかもしれない。
ルーデンドルフに対抗するように、自らの存在感を誇示するためだけに反駁し続けていたコルチャークは、自身の側近を引き連れて、オスマン帝国の使節団に用意された宮殿の部屋へと入っていった。コーカサス方面の赤軍残党勢力に関する協議のためだろうか。
コルチャークやザーゾノフとは異なり、ケレンスキーには独自の裁量が殆んど与えられていない。それだけ他の勢力に警戒されているということなのだろうが、同時に彼の手元には、交渉の経過や内容が直接伝えられるようになっているという。コルチャークが独断専行しないように、あるいはザーゾノフが妥協し過ぎないように監視するのがケレンスキーの役割だそうだ。
同じ交渉団でありながら、相互の信頼関係というものがまるで存在していない。聞けば、内戦中の暫定政府内部も似たようなものだったそうだ。よくこれでボルシェヴィキに勝てたものだと私は呆れたが、その体制が決定的な敗北に繋がるミスを侵さなかったのも確かだ。
目の前の「マトリョーシカ」の話を聞きながら、私はそのようなことを考えた。
「意見が対立する両者を結びつける簡単な解決方法としては、両方、あるいはどちらかを問答無用で殴りつけてやることでしょうかな」
目の前の空間を手刀で切るような仕草をして、意図的に対立を嗾けるかのようなケレンスキーの言動に、私の眉が釣り上がる。
プロイセン人もロシア人も、力の信奉者である事には変わりがない。ロシア側としては、かつての勢力圏であるポーランドやウクライナ問題に無関心ではいられないはずだ。直接的な武力衝突まではいかなくても、ドイツとハプスブルクの対立構造が続くことが、彼らにとっては望ましい展開であることは、言うまでもない。
ただ確かなのは、この戦争における敗者はロシアであり、勝者はドイツとハプスブルクであるという点だ。
それを理解出来ないほど目の前の青年が愚かだとは思わないが、自国の(あるいは自分の)利益を最大化するために、意図的に事実や前提を無視する可能性は残されている。「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議により、ナポレオンの再起を招いたような愚を繰り返すつもりは、私にはなかった。
ルーデンドルフ参謀総長は、それを防がんがために意図的に悪役として振舞っているのだろうか?
私は一瞬だけそのようなことを考えたが、茹でた馬鈴薯のような彼の風貌を頭に浮かべると、馬鹿馬鹿しいと自説を撤回せざるを得なかった。自分は大モルトケを凌ぐ逸材であると本気で公言する軍人に、そのような深謀遠慮を求めるのは無理というものであろう。
「皇帝陛下の下で一致結束を保つことこそが、ハプスブルクの強みだと考える」
「どちらにもいい顔をしていては、どちらからも恨まれるというのが私の経験です」
私が意図しておこなった刺のある言い回しに、ケレンスキーはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「寄せ集めの味方を団結させるには、まず共通の敵を明確化して見せることです。強大な敵ほど、味方を団結させるものはありません。我々が勝利出来た理由は、ボルシェヴィキという強大、かつ有能な敵がいたからこそです」
ケレンスキーがボルシェヴィキを有能と認めたことに、私は奇異な感情を抱いた。だが考えてみれば、彼らの優秀さをみとめなければ、クーデターで政権を追われた彼自身を否定することにもなりかねない。相手を持ち上げながら、自分の失点を糊塗する。彼が政権内部で嫌われている理由が、私にも理解出来たような気がした。
「有能な敵の存在が国内を団結させる。それはハプスブルクも経験されたことではありませんかな?」
当てこすりのように続けるケレンスキーに、私も顔を顰める。
オスマン帝国という強大な外敵の侵略は、三十年戦争以来、新教と旧教対立に明け暮れていた中東欧をハプスブルクの下で団結させた。彼らはウィーンにまで攻め込み、ハンガリーは150年近く異民族の支配下におかれた。ハンガリー王位をハプスブルクが兼任するようになったのも、ボヘミアでの反ハプスブルク感情が沈静化したのも、オスマンという脅威があったからこそだ。
そしてオスマンの衰退に伴い、帝国内部では民族自決の運動が声を上げ始めた。これは歴史的な事実である。
あるいはケレンスキーは、歴史的な宿敵関係にあったオスマンとハプスブルクが、同じ陣営に所属して欧州大戦を戦ったことを皮肉っているのかもしれない。
今次大戦の開戦当初、ロシア国内では、かつてないほどに帝室への忠誠が高まったという。だからといって私はハプスブルクを、消えた帝政ロシアと重ね合わせるような意見には賛同出来ない。内実はともかく勝利したのは我々である。帝政ロシアは敗北した。だから革命により崩壊したのだ。
湧き上がる感情や、単なる嫌悪感に基づく反論を押さえ込むと、私は直接的な反論をするのではなく、暫定政権における彼の戦争指導についての見解を問うた。
「君が暫定政権時代に、ドイツとの戦争継続を主張したのも、同じ理由かね?」
「民意が戦争の中止を求めていたのは理解していました。ですが現にロシア軍は、ドイツとの戦闘を続けていました。政権内部には穏健な自由主義者から急進的な社会主義者まで、立場や考え方の違う人間が席を並べていたのです。多種多様な勢力をまとめ続けるには、戦争を続けるしかなかった」
ケレンスキーは悪びれもせずに「そしてボルシェヴィキという新たな敵役が登場した以上、ドイツとの2正面作戦は望ましくない」と言ってのけると、表情を変えずに肩を揺らした。
「何故か調整役ばかり押し付けられるのですが、私はこれでも単純に生きてきたつもりです。自分自身の原理原則に忠実にね。ところが、なかなか理解してもらえません」
「正直なところを言わせてもらえれば、君にも主義主張というものが存在していたというのが驚きではある」
「民主共和制と専制君主制では、前者の方が優れているとは考えています」
よくも私の前で、そのようなことを口に出来たものだ。呆れる私を前に、ケレンスキーは更に持論を続けた。
「そして思想信条が異なるという理由で、後者に忠誠を誓う人間を否定したり、嘲笑うほど狭量ではありたくありません。それはポルシェヴィキが辿った道であり、サンディカリストと変わりありませんからな」
「……皇帝陛下に忠誠を誓う私の前で、それを口にする度胸だけは評価しておこう」
「お褒めに預かり、恐悦至極」
どこかおどけたように胸の前に手を当てて、ケレンスキーは一礼して見せた。伝統的な権威に対する生理的な反発というよりも、この青年には何か別の思惑なり思想があるように、私には思えた。
私は彼に対して君主制よりも共和制が優れていると考える理由を問うた。するとケレンスキーは「簡単です」と言うと、胸の前で両手を打ち鳴らした。
「この私にロシアという歴史ある偉大な国家を導く資格を与えてくれたのは、共和制というシステムだからです。帝政時代のロシアでは、私のような身分の人間が、閣僚に就任することは考えられませんでした。ですが、システムはあくまで国家を効率的に運用するためにあるもの。忠誠を誓う対象ではないと考えます。そして皇帝1人にその責任を押し付ける専制君主制よりも、国民が全員でその責を追う共和制の方が民主的だともね」
やはりこの男と自分とは相容れることはないだろう。彼の回答を聞き、私はそう確信した。そして同時にウクライナやポーランド問題、あるいはバルカン半島におけるロシアの伝統的な影響力を考えれば、目の前の人物と決定的に対立する事態は避けるべきであると、私の外交官としての理性が主張した。
ハプスブルクにはドイツ帝国や社会主義陣営に加えて、ロシアと敵対するだけの力はない。ウクライナ国内でドイツと退治を続ける以上、ロシアとの共闘は避けられない。ましてやバルカン半島で火がつけば、消し留めるすべはない。
私は内心の感情とは別に、当たり障りのない回答を選んで答えた。
「君達……いや君が我々の国体を尊重するというのなら、我々も君の考えは尊重しよう。理解はしないがね」
「さすがは閣下。イタリア人を補佐官につけておられるだけあって、器量が大きい」
私の後方に立つ「道化師」に視線を向けるケレンスキー。デ=ガスペリの表情が見えない以上、互いが互いをどう評価したのかは、私に知る由もない。
ポーランド王国が建国されたのは1916年。その目的は、旧ロシア帝国領内のポーランド人の離反を促すためだ。ドイツのロシア領侵攻が本格化した1918年には、同様の国家が次々と建設された。フィンランド王国、バルト連合公国、リトアニア公国、ベラルーシ王国、そしてウクライナ王国である。これらの新興国家には、ドイツ帝室や、これに加盟する王国の一族が君主として送り込まれた。
その例外がウクライナであり、ポーランドである。
ウクライナ国王ヴァシル1世こと、ヴィルヘルム大公はハプスブルクの皇族である。
ロシア革命後、ウクライナでは人民共和国が成立したが、ドイツ帝国軍の干渉を受けて崩壊。ウクライナ民族主義の熱心な支持者として知られ、飢饉の際に自ら救援活動を指揮したヴィルヘルム大公が、ウクライナ農民からの圧倒的な支持を受けてウクライナ王国の建国を宣言した。
彼の父はテッシェン大公家の海軍元帥カール・シュテファン。そしてポーランド摂政王国の国王の有力候補がカール・シュテファン。つまりハプスブルク家にとって、両問題はテッシェン大公家と、これを支持する帝国軍や保守派貴族の強い影響下にある。
1795年の第3次ポーランド分割により、ポーランドとリトアニアは地図から消えた。そのためドイツ帝国内にもロシア帝国内にもポーランド人は存在したが、ハプスブルク領内にもウクライナ人と共にポーランド人が少数民族として存在している。
そしてポーランド人とウクライナ人は、歴史的経緯から対立関係にある。ポーランドがリトアニアと連合を組んでいた時代はウクライナは抑圧され、ロシア帝国時代はウクライナ人によってポーランドは抑圧された。
そのためカール・シュテファンとヴィルヘルムは親子でありながら、ウクライナ・ポーランド問題をめぐっては対立関係にあった。元々、大戦前からポーランド民族主義者と共にポーランド国王になる運動を続けてきたカール・シュテファンに、息子のヴィルヘルムが反発。敵対するウクライナ民族主義へと接近したのだ。
この親子間の対立を調停し、ウクライナ国王問題でカール・シュテファン大公の同意を取り付けたのは誰か。
皇帝陛下ではないとなれば、それはテッシェン大公家家長であり、ハプスブルク保守派の雄である陸軍元帥のフリードリヒ大公意外には考えられない。保守派の貴族や軍部が、ウクライナ問題やポーランド問題での支持を表明していることからでも明らかだ。
私としてはウクライナやポーランドへの深入りは避けたいのが本音だ。どちらに肩入れしても国内の両民族の対立と関係悪化は避けられず、それは他の民族感情も刺激しかねない。ただでさえ、南チロルのイタリア人が旧イタリア王国の崩壊で刺激を受けているのだ。幸いにしてデ=ガスペリを通じてトレンテイーノ人民党の支持を取り付けているとは言え、状況は不可測だ。
ケレンスキーは私に対して、同情するかのように大きく頷いてから続けた。
「閣下も色々と気苦労がおありでしょう。例えばウクライナ国王陛下の正室問題など、何時でもこのアレクサンドル・ケレンスキーがお相手になりますぞ」
「……それはありがたい」
そう言いながら胸を叩く「マトリョーシカ」。彼の目線が再び「道化師」に向けられているのは気のせいではあるまい。
同性愛は、宗教的な理由から政治的なタブーである傾向が、特にカトリック諸国では根強い。プロテスタントが主流の帝政ドイツですら、ハルデン=オイレンブルク事件のように致命的なスキャンダルになりうる。
……畏れ多くも帝室の一員であるヴァシル1世の「噂」は、私も聞き及んでいた。それが事実であるか否かは私に走る由もないが、それを理由に政敵を貶めようという手法には、まずもって嫌悪感が先に来る。
そして仮に、それが事実だという前提に立てば、ウクライナ王室は次に繋ぐことが極めて難しくなる。保守派のテッシェン大公家としても面子が立たない。それを抜けぬけと私に向かって正室問題などと……
ケレンスキーはニヤリと笑ったまま上半身を乗り出すと、死にかけた鼠をいたぶる猫のような、嗜虐的な顔つきで私を見据えた。この男は碌な死に方をするまいと、私は腹立たしさのままに乱暴なことを考えた。
「愛は素晴らしいものです」
どの口が言うのか。その台詞が喉まで出掛かった。
「これでも私は社会主義者と呼ばれる人種でしてね。社会主義は危険視される思想ですが、私はその本質は愛だと考えます。社会革命党の党旗は赤旗ですが、これは血の色ですよ……聖書にもあるでしょう。『汝、隣人を愛せよ』とね」
「敵を愛せよともある。つまり君にとってハプスブルクは敵だといいたいのかね」
「戦争は終わりました。よき隣人でありたいとは思いますが、敵になりたいとは思いません。そして多数派工作のコツは、味方を増やすのではなく、敵を減らすことにあります」
話が脱線したと思ったのか、ケレンスキーは咳払いをする。
「社会主義者は各国で弾圧されました。資本主義という共通の敵が、社会主義陣営を団結させたのです。世界大戦の勃発により、第二インターナショナルは分裂しましたが、それでも昔の馴染みというものがあります。私はそれなりに有名人ですしね。悪名は無名に勝るのですよ」
「……トリノの社会主義者と、話をつける事が可能と?」
私ではなくデ=ガスペリが口を挟んだ。私は補佐官の越権を咎めることなく、彼に任せることを選択した。「私」がこの場において言質を与えるには、あまりにも重大過ぎると考えたからだ。おそらく「道化師」も、同じ判断を下したのだろう。
仮にトリノの社会党政権と交渉出来るのであれば、イタリア情勢は安定化にむけて大きく前進する。しかしそれは、大戦中の和平交渉とは比べ物にならない困難さを伴うものだ。
反社会主義は中央同盟……というよりも、現在の参謀本部を中心とするドイツの国家戦略の要だ。ルーデンドルフ参謀総長は普仏戦争と1919年に続く、3度目のパリ入場を悲願としているとされる。イギリス率いる協商陣営も、裏切り者のパリを許さないだろう。南フランス問題でもドイツは理解を示したが、良い顔はしなかったのだ。
ところがケレンスキーの口から出た名前は、こちらの予想を良くも悪くも上回るものであった。
「トリノと話をしても意味がありません。本丸であるパリのCGT(フランス労働総同盟)政権と話をつけなくては」
「……それが事実ならば、帝国政府としても真剣に対応致します。ですが失礼を承知で申し上げますが、今の閣下に、フランス政府との伝があるのですか?」
ありえないということはありえないという、独特の持論を持つデ=ガスペリは、半信半疑という口調で尋ねる。その声には、微かに不信感と猜疑心が混じっていた。
パリの革命政権がロシア革命に影響を受けているのは有名な話だ。ジャコバン急進派のクーデターは10月革命を参考にしていたと聞く。海軍はともかく陸軍の過半数はパリの革命政権を支持したため、ロシア内戦のように暫定政府側が勝利することはなかった。そのため革命政権は、着々と基盤を固めつつある。
確かにケレンスキーは社会主義者に分類される政治家だが、ロシアの暫定政府を率いた彼に、今のパリとのパイプがあるとは思えない。
それをデ=ガスペリが冷静な口調で指摘すると、ケレンスキーは肩と共に両手を大きく広げた。
「主義主張で好き嫌いをせずに、誰とでも付き合うのが私のモットーです。トロッキーは今、パリにいるそうです……何を隠そう彼を国外に逃がしてやったのは、この私でしてね」
やはりこの男とは相容れる事はないだろう。得意げに語るケレンスキーに、私はその思いをさらに強くした。