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1921年3日4日、議会議事堂前の大統領就任式で、就任宣誓を行うウィリアム・マカドゥー(写真中央)。右手を掲げ、左手は聖書に置いている。向かい合うのは介添人のエドワード・D・ホワイト(連邦最高裁判所長官)。写真後方はアレクサンダー・パーマー副大統領(右から2人目)、トーマス・R・マーシャル前副大統領(右から3人目)。就任演説におけるマカドゥーの挑戦的な演説内容は、アメリカ国内でも賛否を呼んだ。
ウィルソン前大統領の娘婿であり、財務長官であったマカドゥーは、平和外交と経済成長の維持を掲げて、前年の大統領選挙で当選。第29代大統領に就任した。アメリカは第1次世界大戦において中立を維持したことで、国際的な孤立状態に陥っていたが、依然として力強い経済成長を続けていた。
1919年。アメリカ国内では「赤い夏」と呼ばれる反政府暴動や社会的な緊張(ストライキ、社会主義運動、人種暴動)が相次いだ。これに対して治安回復を重要政策に位置付けていたマカドゥー大統領は、パーマー副大統領(ウィルソン政権の司法長官)を長とするチームをホワイトハウスに発足させ、アメリカ社会党と世界産業労働組合(IWW)の摘発を指示。テロリズムに対する断固たる姿勢を示した。
司法省内に設置された捜査局(35年の組織改正により連邦捜査局に改称)は、マフィアと共に労働運動を監視。こうした対応は党内の進歩派から強い批判を浴びたが、共和党や民主党保守派の支持を受けたパーマー副大統領は、国内の労働運動に強硬姿勢を維持し続けた。
「赤い夏」以降、アメリカ国内では労使協調路線のアメリカ労働総同盟(AFL)と、IWWの残党が主導するアメリカ・サンディカリスト連合(CSA)が、労働運動の主導権をめぐって激しく争った。
- 『アメリカ大統領物語』民明新書(1978年) -
1920年5月。ポツダム会議において、ブレスト・リトフスク条約の改正案受諾を表明したロシア国内では、あまりにも理不尽、かつ屈辱的な内容に対する反発が巻き起こった。ボルシェヴィキ政権を打倒すれば、少しは条件内容が緩和されるのではないかというロシア国民の淡い期待は、無残にも打ち砕かれた。
ロシアはバルト海沿岸部を中心とした先進地域や東欧の穀倉地帯、コーカサス地方を中心に、約320万平方kmもの国土を喪失。総額300金億マルクにも及ぶ巨額の賠償金支払い義務を課された。開戦前は1億7千万を数えた人口は、1億弱にまで激減。ロシアに残されたのは、数百万ともいわれる国内避難民と、内戦の爪痕が残る不毛の大地だけであった。
次席全権のザーゾノフ外相は、「中央同盟が請求した賠償金600億金マルクを半額で合意させ、分割での支払いを認めさせた」として、ロシア国民に条約承認の理解と支持を求めたが、むしろ国民の怒りに火を注ぐ結果となった。ロシアは辛うじて内戦の戦火から逃れることが出来た工場設備や鉄道、家畜など「人間以外のあらゆるもの」を、現物保障として中央同盟側に引き渡すとされていたからである。これは都市部と農村を問わず、多くの国民を落胆させた。
ロシア全土に充満した落胆は怒りに変わり、時を置かずに失望へと目まぐるしく変遷した。すでに来年以降の賠償金を確保するため、緊縮予算の制定は避けられないという見方が広まっていた。
国内の1次産業も2次産業も基盤から破壊しつくされ、治安の回復すらままならない。これでどうして、内戦からの復興が果たせるというのか。7年近く続いた戦乱により、心身共に疲弊しきった国民は、反政府デモやストライキをする気力すら失っていた。農村部では相変わらず餓死者が相次いでおり、失業者と退役軍人の間では、自殺者が相次いだ。
こうした危機的状況を打開する、次のロシアの指導者は誰か。ロシア暫定政府のアレクサンドル・コルチャークは、次の国家体制と指導者の選出方法を話し合うため、憲法制定会議を発足させた。
事実上の政権移行チームである憲法制定会議には「議長」の意向もあり、旧皇族、貴族、政治家、軍人、学者、科学者、資本家、労働者、保守主義者、自由主義者、社会主義者、そして革命派と、あらゆる身分や階級の代表者が、バランスよく選出された。
……つまるところは、反ボルシェヴィキの寄り合い所帯である。
中にはボルシェヴィキの残党であるブハーリン派(レーニンのブレスト=リトフスク条約締結に反発して離脱した一派)や、無政府主義者すら含まれていた。それぞれの勢力が志向する政治体制にしても、専制君主の帝政復古、立憲君主制の議院内閣制、あるいはアメリカ型の三権分立、パリのフランス政府のような有機的な統合政府等々、本当に纏まるのかと思うほど意見が噴出していた。
ただでさえブレスト・リトフスク条約の承認により、国内の不満は高まっている。この状況で憲法審議が難航すれば、また政局争いかと国民が離反しかねない。予定される総選挙でも、憲法改正を主導した勢力の苦戦は免れないだろう。そのため豪腕で知られるコルチャークですら、憲法制定会議の議論からは、距離を置いた。
この誰も引き受けたがらない憲法制定会議の議長を引き受けたのは、アレクサンドル・ケレンスキーであった。
そのため新憲法は「ケレンスキー憲法」と呼ばれる。
ケレンスキーは「挙国一致」の体制にこだわり、あらゆる勢力に参加を求めた。ボルシェヴィキ残党を率いるブハーリンにも、次期総選挙への参加と引き換えに、会議への参加を求めた。この決定には軍を中心に反発が相次いだが、ケレンスキーは「元々のブレスト・リトフスク条約を調印したのはポルシェヴィキ政権である。その責任を選挙でとらせればいい」という理屈で、逆に説得して回った。
ケレンスキーは議長権限で、憲法の前文起草を、自由主義者と社会主義穏健派に委任した。彼らは「好きに書いてもいい」というケレンスキーの言葉に従い、自分達が理想とする国家の将来を余すところなく書き記した。
「自由、平等、博愛」という、どこかで聞いたような前文から始まるその内容は、起草したピョートル・クロポトキン自身が「このような国が実現出来るのなら素晴らしいが、これまでそんな国家は存在したことがなかった。これからも存在しないであろう」と皮肉混じりに自嘲するほどであった。
そのため、この1921年憲法が「クロポトキン憲法」と呼ばれることはない。
リベラルすぎる前文の内容や、ポルシェヴィキの参加に反発を示す保守派に対して、ケレンスキーは制度面で帝政復古の余地を残すことで、政治的な妥協を図った。
すなわち国家元首である大統領の直接民主制度の導入を見送った。
ケレンスキーは、フランスにおける第2帝政や、第3共和制初期にブルボン王朝が王政復古に失敗した前例を取り上げ、「神聖にして不可侵な皇帝陛下」の地位である国家元首を直接選挙で選んでしまえば、帝政復古は難しくなり、長期的には帝室の地位が不安定になると説いた。保守派の指導者であるパーヴェル・イグナチェフ(元文相)は、ロマノフ家の家長すら決まらない現状では即時の帝政復古は難しいと考えており、この説明を受け入れた。
こうして紆余曲折を経て起草された憲法において、ロシア共和国は「帝政ロシアを継承する多民族国家」と位置づけられたが、共和制という言葉は、前文のどこにも使われなかった。実際の条文には共和国議会、共和国大統領という言葉が出てくるのにも関わらずだ。
共和国議会は、帝国時代の国会であるドゥーマを引き継ぐとされ、上院と下院の2院制とされた。国家元首である共和国大統領は、外交と軍事、ロシア共和国閣僚会議議長(首相)は、内政全般を総括するという役割分担が定められた。
下院は20歳以上の男女の普通選挙による完全比例代表制で選出され、多数派の指名により、首相を大統領に推薦するとされた。女性参政権を認めた国は世界でも数カ国しかなく、これは明らかにリベラル派への配慮である。
そして上院は、地方代表枠、有識者枠、少数民族枠、そして帝政時代の貴族や聖職者、軍人枠により構成された。権力機構を分割し、相互の抑制と均衡によって専制体制を防ぐ。ケレンスキーの面目躍如である。
共和国大統領は、上院議員150名のうち、総議員の5分の3の推薦を受けた人物が選出されると定められており、その任期は6年であった(再選可能)。これにより、旧帝政支持派とされる旧皇族や貴族を中心とした保守派の約50名には、事実上の拒否権が与えられた。また仮に大統領が在職中に死去すれば、上院議長が継承するとも規定された。
8月に憲法草案が公表されると、ケレンスキー支持者は「ロシアの分裂を阻止するための最善の憲法である」と彼の労力を讃えた。ケレンスキーを批判する勢力は「皇帝のいない専制国家だ」と反発した。そして多くの国民は、明日の仕事と今日の食事に追われ、国家の有り様に関心を寄せなかった。
暫定政府の代表であるアレクサンドル・コルチャークは、真っ先に憲法草案への支持を表明した。彼は自分がロシア共和国の初代大統領に選ばれることを疑っておらず、自分こそが、この危機的な状況にあるロシアを再び偉大な国家に出来る唯一の指導者だと考えていた。
その一方で、コルチャーク自身もケレンスキーや保守派と同じく、フランスにおける大統領選挙の前例を懸念していた。
1828年。当時のフランス第2共和制末期に行われた大統領選挙では、共和派の有力候補だったカヴェニャック将軍は、同年に発生したパリの労働者暴動に戒厳令を公布して武力弾圧したことを、繰り返し批判された。結果、大統領選挙ではナポレオン3世に大差で敗れる結果となった。
コルチャークはこれと同様に、ロシア内戦における自らの行動が、ロシア国民に弾圧と受け取られることを懸念していた。そのため直接選挙ではなく、上院議員による選出方法は、自分にとって有利な選挙制度であると考えたのだろう。
彼は無邪気にも、ケレンスキーと憲法制定会議に対する謝意を表明している。憲法制定議会の議長として、ケレンスキーは各政治勢力からの不満と批判を一身に集めた。特にボルシェヴィキの参加を求めたことに対する、軍の批判は根強い。治安回復のためには軍の協力が必要不可欠。そのためコルチャークが、ケレンスキーが大統領レースから脱落したと判断したのも、無理はない。
10月25日。奇しくも1917年にボリシェヴィキ政権による10月革命が発生した日に、ロシア全土では新憲法制定に関する国民投票と合わせて、上下両院選挙が実施された。
選挙に参加した政党や政治団体は50以上にも上った。ケレンスキーとの約束通り、ブハーリン率いるロシア社会民主労働党も、選挙への参加を認められた。軍は最後まで反対したが、リベラル派は「それではボルシェヴィキと同じだ」「政治参加の機会を与えなければ、地下に潜り過激化する」として賛成した。
疲弊したロシア国民は政治への興味を失いかけていたが、軍隊と警察に護衛されながら、投票所に足を運んだ(運ばされた)。その結果、新憲法は国民の消極的な賛成により承認された。他に代案もなく、これ以上の政治的混乱はどの階級のロシア人も望んではいなかったことが、明らかとなった。
下院選挙は、地方での赤軍残党や武装勢力との戦いが続いていたことから、選挙区ではなく完全比例代表制で行われた。そのため単独で過半数を占める政党は出現しなかった。
革命前の暫定政権に参加していた自由主義政党、すなわち立憲民主党(カデット)、10月17日同盟、進歩党は得票率が伸び悩んだ。社会革命党から離党したボリス・サヴィンコフ率いる自由・祖国擁護同盟は、コルニーロフら軍部から支援を受けたものの、過激な土地改革を掲げたことで、中道派からの支持は得られなかった。
結果、乱立した政党の中で、最も知名度のある社会革命党が、漁夫の利を得る形で比較第1党を獲得した。
選挙結果が確定し、議会が招集されたのは12月になってからである。
下院において第1党となった社会革命党は、カデットを中心とした挙国一致内閣の樹立を訴えた。調整の結果、下院はカデットの指導者であるパーヴェル・ミリュコーフ(元外相)を首相に推薦することが決まった。
上院議長ではニコライ・ゴリツィン公爵が議長に選出された。帝政最後の首相であるゴリツィン公は、すでに70歳と高齢。実際にはドミトリー・パヴロヴィチ大公など、旧ロマノフ皇族のお飾りでしかない。事前の多数派工作に手ごたえを感じていた事もあり、コルチャークは自分が大統領に指名されることを確信していた。
大統領選挙は立候補制ではなく、指名制が採用された。これも憲法制定議会が保守派に行った配慮である。立候補制にすれば、ニコライ2世一家と主要な皇族が殺害されたロマノフ皇族の中で、帝位をめぐる争いが起きる可能性がある。この意見に候補者以外の保守派は、渋々ながら賛成した。
無記名による投票が行われた結果、1回目で当選者が確定した。
『……投票総数150票、うち白票の3票を除く147票を有効投票とする』
ゴリツィン公爵は、弱々しいながらもはっきりとした口調で、議長席に設置されたマイクロフォンを通じて、投票結果を読み上げた。
『アレクサンドル・ケレンスキー、103票…………ご静粛に願います。アレクサンドル・ケレンスキー、103票。アレクサンドル・コルチャーク23票、パーヴェル・ミリュコーフ、10票、アントーン・デニーキン、5票、ピョートル・クロポトキン3票、その他の候補者に3票……以上、投票の結果、ロシア共和国上院議会は、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー君を、共和国大統領に選出したことを、議員諸君にお伝えする』
ゴリツィン議長の指名を受け、議長席の右横にある閣僚席の2番目にいたケレンスキーは、いつもと同じにこやかな笑顔で立ち上がった。
多くの上院議員は自分達の選択が正しかったのかと戸惑うように、まばらな拍手を送っていた。しかしケレンスキー自らが拍手を始めると、忽ち議場全体に呼応する様に拍手の波が広がった。
ケレンスキーの隣で屈辱に打ち震えて座り込むコルチャークの姿を、記者席のカメラは容赦なく切り取った。
*
「……まずは先の大戦と内乱により、心ならずも戦場に倒れた兵士諸君の、国家に対する貢献に、改めて感謝を申し上げたい。今日のロシアがあるのは、彼らの献身と犠牲によるものである。彼らが流した涙と汗、そして夥しい血によって、祖国ロシアの自由と独立は守られたのだ」
「諸君、私は知っている。兵士達が勇敢に戦ったことを。コーカサスで、バルト海で、フィンランドで、東プロイセンで、ガリツィアで、モスクワで。敵国でも国内でも、山でも川でも、海でも野原でも、そして空でも兵士達は戦った。議員諸君も、それは承知のことだろう。我々は勇敢な兵士の犠牲に報いなければならない」
「諸君、私は知っている。労働者が働いたことを。農村でも都市部でも、学校でも家庭でも。兵器工廠で、鉄道で、民需工場で、あらゆる場所で、あらゆる階層の人々が自分に出来る最善を行った事を。議員諸君も、それは承知のことだろう」
「私達は勇敢な兵士の事を忘れてはならない。私達は献身的な労働者の事を忘れてはならない。そして塗炭の苦しみを味わい、飢えと寒さに苦しみ、今もなおそれに耐える多くの国民がいる事実を忘れてはならない」
「彼らは良き夫であり、良き父親であり、良き妻であり、良き息子であり、良き娘であり、良き恋人であり、良き友人であった。誰1人として疎かにされてはならない、犠牲になってよいはずがないロシア国民であった。幸せになる権利があり、幸せになる義務があるロシア国民であった」
「それにも関わず彼らは、私達は一致団結した。戦争という、国家総動員という極限の環境下で、私達は団結した。兵士であろうと、政治家であろうと、弁護士であろうと、農夫であろうと、資本家であろうと、労働者であろうと、我らはロシアのために戦った。ロマノフ家の皇族であろうと、ウラルの農民であろうと、私たちはロシアという国家のために戦ったのだ!」
「私たちは語り継いでいかねばならない。犠牲となった兵士や労働者を、良きロシア人であった彼らがいた事を、我々は語り継いでいかねばならない。そのためにはどうすればよいか……祖国を再建しなければならない。そう、祖国の再建だ!統一されたロシアを再建しなければならない!」
「ロシアを取り巻く現状は厳しい。だが私は祖国の現状と未来に、まったく絶望していない」
「なぜなら私にはある確信があるからだ」
「諸君、知っての通り、私達は戦争に敗北した。そして互いの信ずるところに従い、争い始めた。政治的な野心のために闘った者もいただろう。だが多くは、互いの信じるロシアのために戦ったと私は信じている。そして皇帝御一家を始め、多くの国民が内乱の犠牲となった。私達は辛く苦しい時代があったことを忘れてはならない」
「だがあえて、私はここに断言する。過去は取り戻すことは出来ない。だが、それを乗り越えることは出来るのだと」
「諸君、周囲を見渡してほしい。兵士がいるだろう。学者がいるだろう。資本家がいるだろう。皇族がいるだろう。貴族がいるだろう。革命家がいるだろう……そしてこの議場の光景こそが、ロシアという国家の縮図そのものなのだ」
「政治的な見解の差だけではない。身分も、財産も、民族も、宗教も、何もかもが異なる。ではその我らが、互いに相手を批判し、打倒するために戦ったはずの我らが、再びこの議場に集まる事が出来たのは何故か。我らを繋ぎ止めているものは何なのか。そしてボルシェヴィキは何故敗北したのか。諸君はすでに理解しているだろう」
「それはロシアへの愛国心である」
「郷土を愛し、地域を愛し、友人を愛し、家族を愛し、祖国を愛するからこそ、我らは党派の違いを乗り越えて、この場に再び集まることが出来たのだ……確かに我々には意見の相違がある。我々には考え方の違いがある。我々には譲る事の出来ない信念がある。我々には埋める事の出来ない、癒されることのない過去が横たわっている」
「だが我らは再び、こうして祖国の再建という大義のために団結することが出来た。だからこそ、私は確信をもって断言する。ロシアは再び偉大な国家になって立ち上がることが出来ると!」
「議員諸君、私は諸君に約束しよう。ロシアを平和で力強く、誰にも脅かされず、誰も脅かすことのない国家として再建することを。私は諸君に約束する。諸君と共に、飢えと寒さを、貧困や腐敗という概念を、歴史の掃きだめに投げ捨てるために闘うことを!」
「ロシア万歳!偉大なるロシア万歳!!ロシアに栄光あれ!!」
- 1921年3月4日、ロシア共和国大統領アレクサンドル・ケレンスキーの上下両院合同会議における所信表明 -
*
「ケレンスキーというのは、本当に悪いやつですな」
前オーストリア帝国首相にして、カール・レンナー新内閣の副首相(教育相)に就任したハインライン男爵が顔を顰めながら発言すると、私だけでなく、デ=ガスペリまでもが眼を見開いた。それは驚愕というよりも呆気にとられたという雰囲気が強かったが。
あの不愉快なロシア人は、どこにいても他人の感情というものを、それも宗教的な潔癖さを持つ人物のそれを、極端に逆撫でするらしい。
しかし……よりにもよって、貴方がそれを言うのか。私はデ=ガスペリと顔を見合わせようとしたが、「道化師」はさりげなく視線を外した。
おそらくこの場において、誰よりもそれを言う資格があるであろうレンナー首相は、顎髭を扱きながら、苦笑を浮かべている。
ただ鼻眼鏡の奥の目は笑っていない。
ドイツ人教育者らしい厳めしい顔つきをしたハインライン男爵は、3代の内閣で教育大臣を務めた。エジプトのスルタンの教育係を引き受けたこともあるという、根っからの教育者だ。政治的には保守派のキリスト教社会党(CS)に所属しているが、確かに彼の風貌は保守主義者特有の、皴のような頑固さがあった。
皇帝陛下のお膝元であるオーストリア帝国議会は、キリスト教社会党(CS)を中心とする保守派勢力と、社会民主労働党(SDAP)に2分されてきた。保守派はCSを中心にドイツ国民党や農民同盟の3党が、農村部やカトリック教会など保守層を中心に硬い基盤をもつ。一方のSDAPは都市部の労働者や商工業者に支持をされている。
SDAPは政教分離の原則を支持する観点から、教育分野におけるカトリック教会の影響力を縮小することを支持していた。これに保守系政党は反発。1900年代初頭にSDAPが議会第1党に躍進すると、両者は教育政策や財政政策、社会政策をめぐり熾烈な闘争を開始。民族政党の台頭と合わせて議会が機能不全に陥りかけていた。
こうした状況を打開したのが、エルネスト・フォン・ケルバー(在任1900-04)であり、カール・フォン・シュテュルク伯爵(在任1911-16)、そして今回の選挙結果を受けて、皇帝陛下より帝国首相に指名されたSDAP出身のカール・レンナーだ。
トレンティーノのドイツ系貴族の出身であるケルバーは、内相や商務相を経て、帝国首相に就任。言語政策の対立で機能不全に陥りかけていた議会を再開させ、政治勢力の対立を仲介した。同時に積極的な財政政策や、全土の均質的なインフラ整備により、政局を安定化させた。トレンティーノのイタリア人であるデ=ガスペリ補佐官が、最も尊敬する政治家に挙げる人物である。
ケルバー内閣の教育相として言語問題に取り組んだシュテュルク伯爵も、首相としてケルバー路線を継承した。しかし欧州大戦の勃発により、それは中止された。議会が停止されたことで、各政治勢力の不満や対立感情は鬱積。議会に相談なく行われた総動員も、むしろ反戦意識をあおる結果となり、オーストリア国内の政局は流動化した。
1916年の10月21日、シュテュルク伯爵は大戦に反対していたSDAP左派のフリードリヒ・アドラー議員に暗殺される。ケルバー伯爵が老躯をおして再登板するものの、政権は短期間で終わり(1919年に死去)、以後のオーストリア帝国では、短命政権が相次いだ。
この政治危機の中で頭角を現したのが、SDAP右派の指導者であったカール・レンナーである。彼はアドラーを除名し、テロ行為を支持した党内左派も党内から追放。城内平和と呼ばれた挙国一致体制を支持する姿勢を鮮明にする代わりに、政府に対して帝国議会の再開を求めた。
それ以降、レンナーはシュテュルク伯爵以降、短期間で交代を繰り返す政権を支え続け、1918年にはキリスト教社会党のハインライン男爵を首班とする挙国内閣に入閣。政局の安定に尽力し、政治的には保守派である皇帝陛下の信頼を得ることにも成功した。
1919年に中央同盟の勝利が確実となると、カール・レンナーはSDAP党内での主導権を確立。1920年3月に行われた総選挙では、SDAPが保守派を抑えて勝利した。カール・レンナーの帝国首相就任が確実視された。
4月危機は、まさにカール・レンナーの帝国首相の就任直前に発生した。軍部や貴族を中心とする保守派が、社会主義者の帝国首相就任に猛反発。世論と宮中の支持を取り付けることによるレンナー下ろしを目論んだのだ。
皇帝陛下のレンナーに対する信認は篤かったが、社会民主労働党(SDAP)に対する警戒感は宮中に根強く存在していた。保守派の新聞は「シュテュルク伯爵暗殺犯人が所属していたSDAPに政権を渡してはならない」と批判。またSDAPが議員の割り当てが多いウィーンで圧勝したことから、地方の農村は「赤いウィーン」と呼び、地方と首都との対立が深まることへの懸念も出された。
こうした批判に、SDAPは「選挙結果を尊重するべきである」と反発。首相のハインライン男爵が沈黙を保ったことも「政権居座りを画策しているのではないか」という憶測を掻き立て、4月危機と呼ばれる政治危機が発生した。
困り果てたのはオーストリア=ハンガリー=「クロアチア」の共通閣僚会議議長(共通外相)として、宮中から調停を求められた私である。保守派のテッシェン大公家がレンナー首相に反対したという「噂」が流れ、皇帝陛下が乗り出すわけにはいかなくなったというのが、その理由だ。
南スラブ人のクロアチア王国を始め、チェコ人などの民族自治問題をめぐり、ハンガリー政府との交渉が迫っている。皇帝陛下のおひざ元であるオーストリア政局の安定は、是が非でも必要だ。しかし特定の政治勢力への肩入れは、私の立場では難しい。
ケルバー伯爵さえ生きておられたら……私は詮無き事とは知りつつも、そう考えずにはいられなかった。
履きやすい靴を履き続けていれば、いつはか履き潰れる。便利だからと頼りすぎていては、いつしか自分の足で立てなくなる。私はそれを恐れた。それでも現状では「道化師」を動かす以外に、事態を打開出来る妙案は思い浮かばなかった。
幸いにして皇帝陛下は、選挙結果を尊重するべきというお考えであったので、カール・レンナーの帝国首相就任はすぐに固まった。あとは保守派を如何にして納得させるかだ。
そしてレンナーは、私や皇帝陛下が想像していた以上に、柔軟な考え方と調整能力を持つ政治家であった。デ=ガスペリとの会談で、強行突破もやむを得ないというこれまでの姿勢を転換。ハインライン男爵との直接会談を行い、教育相として入閣を要請。公共事業省などの重要ポストをCSに譲ることで、挙国連立内閣の継続を表明にした。
沈黙を保っていたハインライン男爵が、レンナー提案を受け入れたため、保守派も矛を収めた。こうしてカール・レンナーは、SDAPの政治家として、始めてとなるオーストリア帝国首相に就任した。
レンナー首相とはハインライン前首相は、私の斡旋に対する御礼として、ホーフブルク宮殿内の共通閣僚会議議長公邸を訪問している。
レンナー首相は51歳、ハインライン前首相は56歳。今回は最年長の60歳である私の顔を立てた格好になる。こんなところで年齢を持ち出すあたりが、如何にもハプスブルク流かもしれない。ちなみに「道化師」は40歳、皇帝陛下は34歳である。
オーストリア帝国内での私は「レンナー内閣の外務大臣」だが、共通閣僚会議の議長である私は、オーストリア帝国首相のレンナーより宮中席次では格上となるため、私と立場が逆転する。そしてそれは、必ずしもオーストリア帝国首相やハンガリー王国首相の地位が、共通閣僚会議議長よりも政治力で劣るということを意味しない。
このあたりの曖昧さを政治的な柔軟性があると肯定的に評価するか、それとも政治的な混乱を招いていると批判するべきなのかは、議論が別れるところだろう。
そして自分が4月危機を長引かせた一因であるという自覚がなさそうな(あるいは意図的に無視している)ハインライン男爵は、感情と情緒に訴えかけるだけのケレンスキー大統領の演説を、教育家らしく手厳しく批評した。
「施政方針演説と言いながら、詭弁と美辞麗句ばかり並べたてて、強調しているのは愛国心ばかり。何がしたいかも何をやりたいのかも、そもそも自分の現状認識すら語らない。これほど中身のない演説も珍しいでしょうな。コルチャーク提督に同情します」
5歳年長の副首相の講評を聞きながら、髭を扱き続けるレンナー首相。なんともいえない表情をしているように見えるのは、私の思い過ごしだろうか?
国内保守派のレンナー政権への反発を和らげたのは、CSのカトリック聖職者の存在である。文教政策や宗教政策のポストをCSが確保したことで、急進的な改革を行わないとみた保守層が消極的な政権支持に回ったのだ。
政局が安定したことは私にとっては望ましい。むしろこれ以上ない展開ではある。ただ同時に、カトリック教会に頼り過ぎているのではないかという懸念があるのも事実だ。他に選択肢がない以上、止むを得ないのだが。
「……ロシアを取り巻く環境はこれ以上なく厳しいですからな。むしろ一層悪化する可能性すらある」
ハインライン男爵の講評が終わるのを待ってから、レンナーが口を開いた。
「内戦に勝利したとはいえ、モンゴルではウンゲルン将軍が独自勢力を築きつつあるし、コーカサスのコサック軍団はどうなるかわからない。赤軍残党に加えて、内戦中は中立を保ったグルジアなどカスピ海沿岸諸国。旧領の東カレリアではフィンランドやスウェーデンが国境紛争を開始しましたし……愛国心以外に希望を語ることが出来ないのでしょうな」
ハインラインが政治の教育者ならば、レンナーは政治の科学者である。まるで自分がロシア大統領本人であるかのように、ケレンスキーの胸中を解説して見せた。
しかしそれは、理想主義の教育者のお気に召さなかったらしい。
「それを国民に対して率直に語ってこその政治家だと、私は思いますがね。形ばかりアメリカ式を取り入れて、ロマノフ皇族だの軍閥政治家だのが跳梁跋扈する。ロシア人というのは、ハンガリー人並みに度し難いですな」
ハインライン男爵が吐き捨てる。ハンガリー人への反発は故フェルディナンド大公に限ったことではない。特にオーストリアの政治家からすれば、ハンガリーは「ドイツ人との同盟」を理由に、好き勝手なことばかり要求する既得権の守護者に他ならない。
「……ハンガリー人の問題はともかく」
レンナーはハンガリー問題に関する自分の見解を話すことを避けて、自身の分析を続けた。
「これはアメリカに対する外交的なアプローチでしょうな。ケレンスキー政権の正式な発足は3月1日。演説日程を、アメリカ大統領就任式の3月4日に合わせてきたと見るべきでしょう。国内の分断と敵対を乗り越え、一致結束する。いかにもアメリカ人が好みそうな演説内容だ。同じ共和制国家として、経済協力や財政支援の拡大を求めるつもりかと」
「これだから新大陸のプロテスタント共は!」
「国家としての求心力を愛国心に求めるばかりでは、政権は持ちませんからな。コルチャーク提督ならばともかく、ケレンスキー大統領個人に忠誠を誓えと言えるわけもない。今後のことを考えれば、ドイツばかりに頼るわけにもいかない」
「……大体、ドイツがいかんのだ!」」
ハインライン男爵は苛立たし気に何度も口を挟む。彼は教育省の担当者として、オーストリア国内のムスリム・コミュニティを初めて認可した人物である。プロイセン流を振りかざした挙句、ベネディクト15世の和平提言を無視して巨額の賠償金を押し付けたドイツに対して、良い感情を持つわけがない。
「旧ベルギーやフランスが、1世紀以上かけて開拓してきた植民地を、昨日今日出て来て、右も左もわからないドイツが、どうして円滑に統治出来るというのか。アフリカやアジアにかまける暇があるのなら、足元の『東方生存圏』とやらを固めたらよいのだ。ウクライナやポーランドの一つや二つ、こちらによこせばいいものを……」
最後は本音をむき出しにするハインライン男爵に、私もレンナーも苦い笑みを浮かべる。現在のドイツ帝国の体制に対して思うところがあるのは、誰しも同じだ。
ふと視線を向ければ、「道化師」は催眠術でもかけられたのかと思うほどにピクリともしない。
「東欧諸国やロシア以外にも、フランダース=ワロン、アフリカやアジアの旧フランス植民地。いくら手があっても足りますまい」
「それこそ自己責任というもの」
「かといってパリの革命政権が植民地を放棄した以上、無政府状態で放置するわけにもいきませんでしょう」
そこまで言うと、レンナーは私に探るような視線を向けた。ハインライン男爵も、鼻を中心に顔のパーツをかき集めたかのような、奇妙な険相を浮かべて、私を見ている。
「ドイツも何かと忙しいようです。そろそろ頃合いかと思いますが……」
「……確たることは申し上げられません。ですが、東カレリア問題が正式に決着してからでしょうな」
ハプスブルクとしてもイタリア問題や、セルビアの軍事保証を長引かせることは出来ない。バルカン半島ではブルガリアが周辺国から領土を割譲させたものの、治安は一向に回復する兆しはない。ギリシャではコンスタンティノス1世が王位を追われ、ルーマニア王国は政情不安。セルビア王家の残党がいつ決起するかわからない。
私はレンナー首相とハインライン男爵に対して、非公式ながらも、協商国との講和会議の準備が進められていることを初めて認めた。そして予定されている会談場所も、同時に伝えた。
「会談場所は、コペンハーゲンとなるでしょう」
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4月危機において、ハンガリー政府が「社会主義者が政権に就くのは望ましくない」という意見書を提出したという話は、あくまで俗説である。ただそれに類した動きがあったのだけは確かだ。保守派貴族をティサ・イシュトバーン伯爵(前ハンガリー首相)が暗躍したという話も流布されたが、確たる証拠はない。
ただキリスト教社会党の一部保守派が、「ハンガリーの内政干渉」に激怒して、レンナー首相擁立で合意したという事実は存在する。
結果的に講和会議に関する情報がハンガリー政府の関係者に伝えるのが、オーストリア帝国政府よりも後になったのは、あくまでも偶然であり、政治的な意図によるものではないことを付け加えておく。