南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

6 / 20
「レモンの種が泣くまでイギリスを絞り上げろ!」

(写真)

 ゲルリッツのSPD党大会で演説するフィリップ・シャイデマン共同党首(中央壇上)。(後ろ座席左から)フリードリヒ・エーベルト(共同党首、議会議員団長)、オットー・ヴェルス(筆頭執行委員・書記)、ヘルマン・ミュラー(広報委員長)。

 帝国議会最大会派の社会民主党(SPD)は、政治的な苦境にあった。1918年のキール軍港における水兵反乱に端を発する11月暴動に、SPDの分派である独立社会民主党(USPD)が参加。SPD執行部は、解党命令を受けたUSPDとの絶縁を宣言したが、SPDも当局の監視下に置かれた。

 11月暴動の武力鎮圧の是非、およびルーデンドルフ参謀総長への権力集中(ルーデンドルフ体制)を巡り、SPD党内では政府支持派と反ルーデンドルフ派による対立が深刻化した。

 1921年9月。ザクセン王国のゲルリッツで開かれたSPD党大会において、SPD党執行部は綱領改定を提案した(ゲルリッツ綱領)。草案の起草には、USPDから復党したエドゥアルト・ベルンシュタインも参加した。新綱領では「革命」の文字が削除され、USPDの武力革命路線との明確な決別を宣言。「左右両派の攻撃からドイツを擁護する」として、体制内政党であることを明確にした。同時に自由主義を、社会主義と並ぶ重要概念と位置づけ、反ルーデンドルフの自由主義政党との連携に道を開いた。

 新綱領に対して、左派からは「社会主義政党である事を放棄するのか」「あまりにも修正主義的であると」いう批判が出たが、2度目の社会主義者鎮圧法を危惧する党幹部や労働組合からの支持を得て、修正綱領は可決された。また今後の活動方針として、協商国との正式な講和条約の締結、帝国参議院の再開を政府に求めることで一致した。

 争点となったのは、USDP党員復党問題と、イギリスに対する賠償請求問題である。

 シャイデマン党首(政府支持派)は、11月暴動に参加したUSPD党員の復党に「極左冒険主義者を党として拒絶しなければならない」として、明確に反対する姿勢を示した。イギリスに対しては、海外植民地の割譲や賠償請求を求めることは「最低限の慎ましやかな要求」であるとして、政府以上の強硬姿勢を鮮明にした。

 これに対してヴェルス副委員長(反ルーデンドルフ派)は「過激主義と対抗するための社会主義勢力の結集」を訴え、ゲルリッツ綱領を認め、武力革命闘争の放棄を受け入れるという条件での復党を支持した。また「戦時体制の継続は、参謀本部独裁を永続化させる」として、シャイデマン提案のイギリスに対する賠償請求に反対。無併合・無賠償による即時平和を主張した。

 ヴェルスは帝国議会における中央党や国民自由党との連携を訴えたが、ルーデンドルフとの対立激化を危惧するシャイデマンは、SPDとしての独自性という観点から、慎重な姿勢を示した。

- 『ドイツにおける社会主義』民明社会主義研究会編纂(1988) -


名誉ある平和
コペンハーゲン講和会議(1921年11月 デンマーク王国 首都コペンハーゲン)


 デンマーク王国の首都コペンハーゲンは、ユトランド半島の東、バルト海の出入り口であるエーレスンド海峡を望むシェラン島に位置する。デンマーク語の「商人たちの港」が名前の由来である同国経済の心臓部は、かつてはバルト海の海上交通を監視する要塞であった。欧州大陸と陸続きで国境を接するユトランド半島ではなく、バルト海に面する港湾都市に首都を置いたのは、カルマル同盟の流れを汲む海運国家らしい選択だろう。

 

 1914年から始まった中央同盟と協商陣営の戦争において、デンマークはノルウェーやスウェーデンと共に中立を選択した。そして1919年の西部戦線が崩壊した後、両陣営が停戦協定を話し合うために選んだのは、厳正中立を保ったスウェーデンや、イギリス王室との関係が深いノルウェーではなく、ドイツと経済的な繋がりが強いデンマークであった。

 

 会場のローゼンボー城は、かつてデンマーク王室が夏の離宮として利用した宮殿であり、現は博物館として一般公開されている。5年に及んだ総力戦に疲れ果てた各国代表を迎え入れたホスト役の国王クリスチャン10世は、文民政府と共に停戦協定の樹立に向けた仲介外交に尽力した。

 

 11月4日のコペンハーゲン停戦協定発効と共に、欧州大陸における戦いは終結した。それでもフランス社会主義革命(1919)、ロシア内戦(1917-20)、イタリア内戦(1919-20)、ギリシャ革命(1919)、英愛戦争(1919-21)など、欧州における戦火と混乱は絶える事はなかった。

 

 勝利した中央同盟も、安泰ではなかった。ドイツ国内では1918年11月にキールでの海軍水兵の反乱を契機として、帝国全土で暴動が発生。帝国陸軍による事実上の軍事政権が樹立された。ハプスブルク領邦内では民族紛争と再編問題が再燃し、ブルガリア王国は周辺国の政情不安に悩まされ、オスマン帝国では民族独立運動が相次いだ。

 

 『旧約聖書』の文献には「戦う時節があるならば、和睦する時節がある」という一節がある。戦う時節を終えたはずの各国は、動乱の1919年、混乱の1920年を終えても尚、和平について話し合える状況にはなかった。

 

 満身創痍の状況から最初に立ち直ったのは、強権発動によって国内の混乱をいち早く収束させたドイツ帝国である。11月暴動の武力鎮圧を主導した陸軍参謀本部を中心に、ルーデンドルフ体制と呼ばれる権威主義体制が確立された。

 

 1921年8月。ドイツ帝国軍参謀総長のエーリヒ・ルーデンドルフ元帥は、フランダース=ワロン連邦王国(旧ベルギー王国領)のスパにあるドイツ帝国大本営において、各国記者団との会見に応じた。

 

 事実上のドイツの最高権力者とされる、会見嫌いのプロイセン軍人の真意をいぶかる記者団に対して、ルーデンドルフ参謀総長は「戦争状態を終わらせる時が来た」と宣言。協商国に対する講和会議を呼びかけた。ルーデンドルフはこれを「名誉ある平和」と呼んだ。

 

 内容としては目新しいものはない。大戦前の国境回復(海外領や植民地も含む)、占領地からの段階的な撤退、無併合・無賠償の原則の確認、海上交通の自由確保、国際紛争における対話を通じた解決の原則の確認。一見するとローマ教皇の和平案(ベネディクト提案)、前アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンの14か条の平和原則に沿った内容にも思える。

 

 しかしその前提が、コペンハーゲン停戦協定とヴェルサイユ条約体制の承認であれば、話は異なってくる。

 

 ロシアと中央同盟との間で結んだブレスト・リトフスク条約改正案による、旧ロシア帝国領内の独立国の承認と賠償金の分割支払い。フランス・コミューン政府と中央同盟4カ国が締結したヴェルサイユ条約に基づく、旧フランス植民地のドイツへの割譲。イタリア連邦と中央同盟4カ国が締結したローマ条約に基づく、旧イタリア植民地とイタリア処分、ドイツがベルギー暫定政府と結んだスパ条約に基づく、旧ベルギー植民地(コンゴ)のドイツ割譲と、フランダース=ワロン連邦王国の創設……

 

 つまりは欧州大陸のドイツの覇権を認め、フランス植民地帝国をドイツが継承するという宣言に他ならない。イギリスのチャーチル元海相は「これは第2の宣戦布告だ」とコメントした。

 

 1921年現在、協商国の正式なメンバーは3カ国にまで落ち込んでいた。すなわちアイルランドとの熾烈な内戦を続けていたイギリス、アフリカ植民地でホルベック将軍に敗北を喫したポルトガル、南洋諸島や山東半島などの返還を求められた日本である。各国の朝野はルーデンドルフ提案に激高した。

 

 ルーデンドルフ提案の翌日、対ドイツ強硬論者として知られるイギリスのロイド・ジョージ首相は、下院における演説で「これ以上の戦争継続は困難である」と述べ、名誉ある和平の受け入れを表明した。

 

 協商の盟主であるイギリスは、ドイツ以上に疲弊していた。供給不足と物資不足を原因とするインフレは加速し、景気指数は悪化。アイルランドとは先の見えない市街地戦が続き、大陸から帰還した退役軍人や労働者によるゼネストが相次いでいた。「フランスの社会主義革命は、ドーバー対岸の火事ではない」と語ったロイド・ジョージ首相は、国民に対してドイツとの和平に向けた理解と支持を求めた。

 

 カナダやニュージーランド、オーストラリアや南アフリカなどの自治領も、ロンドンの決定を支持した。各国とも欧州大陸での戦いに参戦したが、何も得たものはなかった。アフリカ植民地の回復が見込まれたポルトガルも、講和会議に同意する意向を表明した。

 

 ドイツ帝国のアジア植民地を席巻し、コペンハーゲン停戦協定への調印を拒否した日本は、ヒーナにドイツが進出することを恐れて最後まで反対を続けた。しかし国内の経済不況と、ドイツ主導の欧州経済圏であるミッテ・ヨーロッパから締め出されることを懸念した経済界の突き上げを受けたことにより、渋々これを受け入れた。

 

 わずか3カ国まで後退した協商国とは対照的に、中央同盟陣営は膨れ上がっていた。ドイツ帝国、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国)、ブルガリア王国、オスマン帝国の主要4カ国に加え、1919年に参戦したエチオピア帝国(東アフリカの旧イタリア領に侵攻)や、シャム王国(旧フランス領インドシナに侵攻)も、会議への参加を表明した。

 

 講話会議開催への同意を協商から取り付けた段階で、ドイツの欧州大陸における盟主の地位は約束されていた。ドイツ陸軍が主張していた勝利による平和、それは外交の敗北を意味する。

 

 私は外交官としての無力感に苛まれながら、会議への出席を受諾した。

 

 

 悲願であったフランスの打倒と植民地帝国を成し遂げたドイツ皇帝は、その喜びを享受する間もなく、アウグステ・ヴィクトリア皇后の喪失という悲劇に直面した。長引く大戦と革命の機運は、皇后の肉体と精神を容赦なく蝕んだ。闘病の甲斐なく、アウグステ・ヴィクトリア皇后は4月に死去した。

 

 勝利の皇帝は、政界における自らの政治的な手足も失いつつあった。1月に元宰相のベートマン・ホルヴェークが、9月には、かつての最側近であったオイレンブルク侯爵が死去。悲嘆にくれる皇帝はベルリンを離れ、ポツダムに籠るようになった。

 

 傷心のドイツ皇帝に代わり、講話会議にはヴィルヘルム皇太子が出席した。皇太子は11月暴動における陸軍の対応を支持して以降、宮中におけるルーデンドルフ体制の熱心な支持者であった。「勝利の元帥」ヒンデンブルク宰相が相変わらず物憂げであることもあり、ルーデンドルフ参謀総長は機関車の如く、ローゼンボー城を駆け回った。

 

 ハプスブルクからは、皇帝陛下の弟君であるマクシミリアン大公が出席され、私とヘッツェンドルフ伯爵(前参謀総長)それぞれ外務省と軍部を代表する形で殿下を補佐した。

 

 オーストリア帝国とハンガリー王国からは、それぞれの首相が出席するはずであったが、「クロアチア王国首相」の参加を認めるか否かで意見が対立。共同閣僚評議会議長の私が、共通外相として出席することで、政治決着を図った。戦後のアウグスライヒ交渉を考え、私の気分は更に憂鬱なものになった。

 

 ブルガリア王国は「狡猾なファーディー」こと、国王のフェルディナンド1世自らが出席。旧帝政ロシアに接近し、王子を正教に改宗させたことで知られる老人は、第2次バルカン戦争の雪辱を果たしたと意気軒高なものであり、マクシミリアン大公に気安く話しかけ、ハプスブルク随行員の憤激を集めた。大公殿下は驚異的な忍耐力を発揮され、この老人の話し相手を務められた。

 

 オスマン帝国からは、大宰相メフメト・タラート・パシャが出席。コーカサス方面でのアルメニア人虐殺疑惑の責任を追及されたイスマイル・エンヴェル・パシャがロシアに亡命した事により、「統一と進歩委員会」による三頭体制は崩れた。それでも大宰相は海軍大臣のアフメト・ジェマル・パシャと共に、かろうじて政権を維持している。

 

 ロシアに対する勝利により、スルタンの威信は回復したとされる。それでも帝国は大戦を通じて数百万もの死傷者を出した後遺症に苦しみ、戦費を負担するために発行した国債は経済を圧迫し、復興の足かせとなっていた。ドイツに対する経済依存は深まる一方であり、鎮圧したはずのアラブ民族主義は、依然として体制の脅威だ。

 

 旧ロシア帝国から独立した東欧諸国-ウクライナ王国、ポーランド王国、リトアニア王国、バルト連合公国、フィンランド王国、コーカサスのグルジア民主共和国、アルメニア、アゼルバイジャン、バルカン半島のアルバニア王国、そしてロシア共和国。これらの国々も、個別に協商国や中立国との国交を回復、あるいは樹立するために参加した。

 

 「裏切り者」のロシアに対する視線は、協商国や中央同盟共に冷ややかであった。オスマン帝国の大宰相は「裏切者」の引き渡しを要求したが、ケレンスキー大統領は持ち前の鉄面皮で、笑みを振りまきながら煙に巻いた。

 

 旧イタリア王国のうち、イタリア連邦加盟国である両シチリア王国、イタリア共和国、教皇国(教皇領)は参加したが、イタリア社会主義共和国は会議そのものを無視した。パリのフランス政府は「コペンハーゲン停戦協定を遵守する」という短い声明文だけを発表した。アルジェに逃れた「第4共和制」と、サルデーニャ島に逃れた旧サヴォイア王家は、参加出来る状態になかった。

 

 イタリア共和国からは、ルイージ・ファクタ首相(外相兼任)が参加した。彼はイタリア王国時代は自由党の閣僚として内務大臣と財務大臣を務め、欧州大戦への参加に最後まで反対した。1人息子は大戦中に戦死し、故郷は社会主義者に制圧され、仕えた王家は滅んだ。それでもこの善良な政治家は、自分に出来る事があるならばと首相を引き受けた。

 

 両シチリア王国からはルイージ・ストゥルツォ暫定首相が参加した。カトリックの司祭であり「キリスト教民主主義」の思想的な創設者とされる老人は、面長の顔をしきりに動かしながら、各国の代表団の間を飛び回っている。デ=ガスペリとは、彼が学生時代からの付き合いである。

 

 2人のルイージは、我がハプスブルクにとって得難い友人だ。国家間に永遠の友人は存在しないというが、少なくとも共通の敵が存在している。何より人格的に尊敬出来る人物であるというのも、私個人としてはありがたい。

 

 中立国も招かれた。開催国であるデンマークを筆頭に、アメリカ合衆国、ノルウェー王国、スウェーデン王国、オランダ王国、スペイン王国。南米の有力国であるABC諸国、すなわちアルゼンチン、ブラジル、チリも招待を受けた。多くは大使クラスが参加した。彼らは事務的に新たな独立国を承認し、大陸における中央同盟中心の新秩序を黙認した。

 

 独立国ではないがイギリス自治領としてカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、そしてアイルランド自由国が参加した。

 

 すでに敗戦を受け入れていた欧州の旧協商国は参加しなかった。ルーマニア、ギリシャ、そして軍事占領が続くセルビアである。

 

 同会議によって、モンテネグロとベルギーは、主権国家としての資格を完全に失った。前者はオーストリアに編入され、後者はドイツによって建国されたフランダース=ワロン連邦王国が参加した。新国王にはドイツ皇帝の3男であるアーダルベルト王子が有力視されている。イギリス全権のバルフォア伯爵(前外務大臣、元首相)は、フランダース=ワロン代表団との同席を拒否した。ルクセンブルク大公国は、ドイツ帝国の諸侯として編入させられた。

 

 これだけの国が一堂に会するのは、ポスト・ナポレオン体制を話し合うために開催されたウィーン会議(1814-15)以来のことであろう。そしてルーデンドルフ元帥は、確かに優秀な軍人かもしれないが、メッテルヒニ侯爵のような外交官としての配慮を、このプロイセン軍人に求めるのは、肉屋で新鮮な川魚を求めるに等しい行為である。

 

 そもそも勢力均衡による欧州の安定を求めたメッテルヒニとは異なり、ルーデンドルフが目指すのは欧州におけるドイツの覇権確立である。当然、参加国の間では、軋轢や衝突が次々と生じた。

 

 旧帝政ロシア領の東カレリア紛争は、1921年4月にドイツの軍事的圧力により和平条約が調印されたが、ドイツの裁定は明らかにフィンランド寄りであった。それにも関わらず大フィンランド構想を阻止されたフィンランドはドイツへの反感を強め、オークランド諸島を奪われたスウェーデン代表は、フィンランドとの同席を拒否した。ケレンスキーですら両国との会談は避けた。

 

 教皇国(教皇領)を独立国として承認するか否かについても、各国の賛否は分かれた。イタリア内戦において教皇庁は、カトリック系民兵や旧イタリア王国軍の義勇兵と共に、レオニー市を中心としたラツィオ州を確保している。アイルランドやスペイン、ポーランド、南米諸国などカトリック諸国は承認したが、あまりにも復古的な国家体制にアメリカは態度を保留。協商国でも対応は分かれた。

 

 7年間続いた戦争と戦乱を終わらせるための和平会議は、むしろ各国の分断と亀裂を印象付けただけに終わった。

 

 それでもドイツは、自分達の目的を達成したということで「成功」を高らかに宣言した。彼らはアフリカから欧州、アジアにかけて広大な領土を獲得し、欧州大陸の覇権を世界に認めさせたのだ。

 

 ドイツ主導の戦後秩序が、欧州と世界に平和をもたらすかは、依然として不透明なままだ。オスマン帝国はアラブ民族主義との戦いに苦しみ、イタリア半島とバルカン半島では緊張状態が継続している。7年間にも及んだ総力戦は、国家間や民族間の不信と疑念を決定的にした。社会主義陣営-サンディカリストを自称する新たな脅威は、既存の国家や秩序を脅かしかねない。

 

「天の下では何事にも決まった季節があり、全ての営みには時節というものがあります」

 

 信頼関係を構築するのではなく、自国の国際的な立場を確保しようとする代表団の中で、教皇国(教皇領)の国務長官として出席したエウジェニオ・パチェッリ枢機卿の発言は、私を含めた少なからぬ出席者の興味と歓心を引いた。

 

 カトリック教国ですら戸惑い、現実主義者はあっけに取られ、無神論者と社会主義者はあざ笑い、ムスリム諸国は顔を顰め、プロテスタントのプロイセン人は「ローマの布教活動か」と冷笑を浮かべる。それでも枢機卿は、淡々とした口調で『旧約聖書』「コヘレトの言葉」からの引用を続けた。

 

「この世に生まれた時があるならば、この世から去る時がある。植える時というものがあれば、植えた物を収穫する時がある……何事も時節というのは重要です。冬に種をまいても収穫は得られない。しかし冬を乗り越えなければ、春にたどり着くことは出来ない」

 

 コヘレトの言葉は古代イスラエル王ソロモンの言葉だとされている。知恵深く広範な知識を持ち、リアリストであったソロモン王は、異民族であるエジプトのファラオに臣下の礼をとり、重層的な婚姻外交により、周辺国との関係を強化。国家の統治基盤を固め、イスラエルを通商国家として繁栄させた。まさに「幸いなるかなオーストリアよ」を彷彿とさせる人物である。

 

 パチェッリ枢機卿は「平和の時節が到来した」と述べ、各国の外交努力を賞賛した。だがその言葉の裏には、明確な意図のある強烈な毒がある。そして今が収穫すべき正しい時であるかどうかは、明言していない。

 

 何人かの外交官はそれに気が付いていたであろうが、誰も口に出さなかった。そして自分達こそが戦争を終わらせたという矜持を持つプロイセン軍人は、例えそれに気が付いたとしても、気に留める事すらしなかっただろう。

 

「引き裂く時があるならば、縫い合わせる時があります。黙っている時があるならば、話をする時があります。愛しあう時があるならば、憎みあう時があります。戦う時があるならば、和睦をする時があります……神のなさることは、すべて時にかなうからこそ美しい」

 

 パチェッリ枢機卿は中央同盟諸国の……私を含めた代表団が座る方向に視線を向けた。オーストリアの前参謀総長はドイツの参謀総長と話し込んでおり、ブルガリア国王は欠伸をうかべ、オスマンの大宰相は困惑と不信感をあらわにする。

 

 以外なことにドイツの皇太子とマクシミリアン殿下は、神妙な表情で聞き入っていた。

 

「『すべての戦争を終わらせるための戦争』。今回の大戦はこう呼ばれました。しかし武力によって戦争を終わらせることは出来ても、互いの憎悪を武器で解決することは出来ないのです……剣をとる者は、すべからく剣で滅びます。この会議が『すべての戦争を終わらせる会議』となることを、切に願います」

 

 

 協商国のポルトガル共和国は、1910年まで王政であった。

 

 ブラガンサ王朝は多くの欧州諸侯と同様、ナポレオン皇帝に国を追われ、その後に本土を回復した。ミゲリスタ戦争(1828-34)を始め、度重なる絶対王政派と自由主義派の内戦の末に再統一を果たしたものの、ブラジルとの関係性に苦しみ、旧態依然とした社会構造は温存された。

 

 結果、経済不安と財政危機が多発したことから国内で急進共和主義者が台頭。1910年に共和主義者が選挙で勝利。共和制が宣言された。

 

 国王マヌエル2世一家はイギリスに亡命したが、クーデターの主体となった軍は、イギリスとの同盟関係を継続した。あるいは事前の調整や話し合いがついていたのかもしれない。ポルトガルが海外植民地を維持する上で、ロイヤル・ネイビーとの関係は必要不可欠。そのため軍は長年、イギリス海軍との協力関係を維持してきた。イギリスとしてもブラサンガ王朝の復活に拘り、ポルトガルとの関係を断つつもりはなかったのだろう。

 

 欧州大戦では、ポルトガルは当然のごとく協商陣営として参戦した。しかし旧態依然としたポルトガル軍は、控えめに言って足手まとい……はっきり言えば邪魔でしかなかった。

 

 スペイン風邪による大量の死者、教会財産没収に伴う保守派の反発と地域経済の混乱。過激する労働組合への対処……共和党政権が講和条約を受け入れたのも、植民地を早期に回復しなければ、国内の統制が不可能になるという危機感からであった。

 

 協商国にとっても中央同盟にとっても、そして隣国のスペイン王国やローマの教皇庁……そして我がハプスブルクにとっても、ポルトガルという国家と、かの国が世界中に持つ植民地は重要な意味をもつ。

 

 南米の大国であり旧植民地のブラジルとは、独立後も人的、あるいは経済的な繋がりが深く、南アフリカの両岸や、インドのゴアやヒーナのマカオなど、数こそ多くはないが、戦略的な要所を抑えている。

 

 私は「道化師」を使い、各国政府の意向と意図を確認させた。

 

 ドイツはポルトガルに対して、アフリカの植民地(西アフリカ、東アフリカ)を返還することに同意している。彼らはアフリカに限れば、フランス領の確保で手一杯であり、アジアの植民地を日本から返還させるためにも、そのほうが都合がよかった。とはいえポルトガル本国が混乱していては、旧ベルギーから獲得したコンゴや、旧来からの植民地である南西アフリカの不安定化につながりかねない。

 

 ……つまりポルトガルへの「カード」として使うのであれば、今しかない。

 

 イギリスとしては、ポルトガルの同盟国としての地位は不変である。ロイヤル・ネイビーの世界展開を陰から支えたのは、自国の諜報組織と、ポルトガルの海上帝国の協力あってのこと。終戦によりイギリスの国内改革と植民地再編が急務となる中で、同盟相手の弱体化と混乱が長引くようでは困る。

 

 ……幸いにして「カード」は、ロンドンの手にある。

 

 教皇庁が、教会に批判的な共和政府の存続を望んでいないのは明らかだ。しかし自分から動くことは出来ない。ようやくローマの囚人から脱出したとはいえ、北からの社会主義者の脅威は健在。コンコルダート(政教条約)の締結により、国際社会における独立国としての地位を固めつつある現状で、内政干渉を主導したと批判されるのは避けたい。

 

 ……とはいえ大義名分を与える存在としては、これほど有効な「カード」はない。皇帝としてのナポレオンを承認したのはピウス7世であり、世俗的な権威を与えたのはハプスブルクとの婚姻関係である。

 

 この3枚のカードを、使えるものに出来るかどうか。それは我がハプスブルクに掛かっている。そして私の手足となり各国の調整を行ったデ=ガスペリは、黙って私の判断を待っていた。

 

 ランプの中で揺れる炎を見ながら、私は机に左肘をつくと、頬を手の甲に乗せた。昼間の喧騒が嘘のように、ローゼンボー城は静かな静寂に満ちている。闇と沈黙の中から、得体のしれない化け物が出てくるかのような感覚に襲われながら、私は思考を巡らせた。

 

 複雑に入り組んだ婚姻関係は、ハプスブルクに広大な領土と栄誉を与えた。だがそれは同時に、ハプスブルクの歴代の当主は、生まれながらにして身動きすらままならない多くのものを背負わされる事となった。

 

 遺産と負債、栄光と怨嗟は表裏一体である。民族、宗教、人種、思想、そして記憶……気の遠くなるような数多くの過去と現在、そして未来に繋がる全てのものが、34歳の皇帝陛下の双肩に伸し掛かっている。

 

 剣を抜くものは剣によって滅びる。だが剣を抜かずとも、人を殺すことは出来るのだ。あるいは剣を抜く事よりも、罪深いことなのかもしれない。国家と国の命運を、当事者達のあずかり知らぬところで決めてしまうのだから。

 

 それでも……それでもだ。例えこの選択が過去と現在の否定であり、戦友や英霊への重大な裏切りであり、友人や家族を切り捨てるものであろうとも、我らは決断しなければならない。

 

「……何事にも決まった季節があり、全ての営みには時節がある」

「すべてを見ることは出来ません。それが出来るのは神だけです」

 

 「コヘレトの言葉」の中で、ソロモン王は自分の功績や資産は、いずれは自分が知らぬものに引き継がれることになるだろうと述べている。彼の語った腐敗や堕落は、いずれ自分の国が滅び去り、ユダヤ人が放浪の民となることを予言していたのであろうか。それとも後世の人物が、ソロモン王の口を介して語らせた後知恵に過ぎないのだろうか?

 

「……ソロモン王は、自らが定命ある存在であることに絶望したのだろうか?」

「裁くことが出来るのは神だけです。定命の存在からこそ、我らは世俗の価値とは超越した神の存在を知り、その美しさを知るのです」

「美しくなかろうとも、我らは進まねばならない」

 

 聊か捻くれた感情のまま呟いた私に、デ=ガスペリは告げた。

 

「定命があることを知りながら、最後まで歩み続けられた。だからこそ先帝陛下は偉大なのです」

 

 確かにその通りである。そして、あの偉大な先帝陛下に及ばずとも、我々は命尽きる瞬間まで、前に進まねばならない。

 

 何故ならそれが「ハプスブルク」の責任だからだ。

 

 私はランプの炎を見つめたまま、「道化師」に使いを命じた。

 

「ブラガンサ公ミゲル中将と、ブルボン=パルマ公のシクストゥス公子を呼んでくれ」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。