『愛国王の帰還』(作者:不詳/作成:1922年2月頃?/マフラ国立宮殿所蔵)
主役が画面(観者)に背を向けているという、珍しい構図である。縦横2m近いキャンバスの画面中央。軍艦のタラップから、右手に持った帽子を画面奥に向けて振っているのは、ポルトガル国王のマヌエル2世。1922年1月4日。「愛国王」は革命以来、約12年ぶりにリスボンへと帰還した。軍服姿でも典礼服でもなく、スーツ姿の国王の背中越しに、観者はリスボン港の様子を見る。
紙吹雪の舞うリスボン港で、詰めかけた群衆は旧王政時代の国旗を掲り、「愛国王」の帰還を出迎えている。その中でもひときわ目立つのは、群衆の前に立つ11人の市民と1人の聖職者であろう。サーベルを掲げて歓迎する警官、両手を広げて大袈裟な身振りをしている水兵、両手を胸にあてて訴えかけるような動作をする馬丁、それぞれの手に書物を持ちながら、顔を見合わせて訝しげな表情を浮かべている3人の学者……
勘の良い方は既にお気付きだろうが、これはレオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』のオマージュである。剣を持つ警官は皮剥ぎの刑で殉教したバルトロマイ、大袈裟な身振りをしている水兵は大ヤコブ(彼は漁師であった)、胸に手を当てる馬丁はフィリポ(馬を愛する者という意味の名前をもつ)、3人の学者は福音書で有名なマタイ、忘れられた聖人ことタダイ、熱心者のシモンといった具合である。
つまりこれは、国王マヌエル2世をイエス・キリストに例えて、王政復古の正統性を主張するために描かれた絵画である。
表面上は。
彼らは聖人であると同時に、マヌエル2世の復帰を後押しした国家の代弁者でもある。すなわち大ヤコブはスペイン(彼の遺骸がスペインで見つかったとされている)、マタイは東方諸教会や聖公会でも聖人であることから東方諸国やイギリスの、ダダイは1920年代に西海岸で聖ユダ信仰(ダダイのとよばれるユダであり、イスカリオテのユダとは別人)が盛んになったアメリカ。この他にもドイツやオーストリア、ブルガリアなど、それぞれの国章や国旗をモチーフにしたデザインが施されている。
最初に私は「11人の市民と1人の聖職者」と言った。最後の晩餐に出席したのは「13人の弟子」である。中心に位置する赤いキャソックに身を包んだ聖職者は、リスボン総司教のアントニオ・メンデス・ベロ枢機卿である。マヌエル政権下で「国王の枢機卿」と呼ばれた彼の写真は多数残されているが、それと照らし合わせても間違いない。彼が聖ペトロとして描かれていることにも、何ら疑いはない。
ではこの作品における13人目、イスカリオテのユダは誰なのか?-何故、枢機卿は皮袋を握り締めているのか?
記録によれば、この絵画は王政復古直後、リスボン市内のとある商人より王室に献上されたものだという。そして、この絵に秘められた反カトリックのメッセージ-「一体、誰が真の裏切り者なのか?」の意図に気がついた人物の意向により、長らく宮殿収蔵庫の奥深くに死蔵されていた。多くの研究者は、その人物がブラガンサ復古王政初期の有力政治家であるフランシスコ・ロランプレト元首相であると考えている。
- 『名画で読み解くポルトガル王家12の物語』民明新書(2016) -
フランス共和国には、王党派と呼ばれる政治勢力が存在する。彼らはかつてフランス王国(フランス帝国)を支配した統治者の子孫と、その支持者を中心とした政治集団である。今となっては、存在していたと表現するほうが正確かもしれないが。
彼らはそれぞれが仰ぐ旗によって、敬称が異なる。代表的なものは正統派(ブルボン王朝本家支持者)とオルレアニスト(オルレアン大公家支持者)、そしてボナパルティスト(ポナパルト帝政支持者)であろう。当然ながら歴史的経緯もあり、互いの関係は非常に悪い。
また同じ政治勢力であったとしても、構成員同士の関係性が良好であることを意味しない。例えば同じ正統派の中でも「誰を担ぐか」による主導権争いが存在する。これに絶対王政派や立憲君主派、自由主義者と社会主義者、絶対帝政派と自由帝政派などの政治思想の対立が加わることもある。こうなるともう、何が何だかわからない。
彼らに共通点があるとすれば、第3共和制への潜在的な反感と反発ぐらいのものだ。
アンリ5世(1820-1883)の病没による正統派嫡流の断絶後、正統派支持者はオルレアニストと合流するものと、スペイン・ブルボン王家の反主流派であるカルリスタ系を支持するものに分かれて、またもや四分五裂の派閥抗争を続けた。どちらも自分が正しいという確信があり、それを信じて疑わない。そもそも相手の正統性を少しでも認めてしまうことは、自分達の政治的な死を意味する。これでは妥協が成立するはずもない。
第3共和政が安定するに従い、王党派は政治勢力として弱体化の一途を辿った。王政復古や帝政復古が現実的な政治問題として語られなくなれば、外聞を気にする事なく、数少ない支持者を巡った争いが激化するのは必至であった。結果、ああでもない、こうでもないと喧々諤々の内輪の支持者向けの議論を続けている内に、1919年のパリ陥落を迎えた。
こうして彼らが蛇蝎の如く憎悪した第3共和政は、ドイツ軍によってあっけなく終焉した。
新たに成立した社会主義体制の中に、王党派や帝政派の居場所があるはずもない。新政権は、第3共和制初頭の王党派と共和制主義者との対立の愚を繰り返すつもりも、ボルシェヴィキ流の物理的な粛清をするつもりもなかった(あくまで現段階では)。パリの政府は、王位請求権を持つ人間と支持者を、厄介払いするかのように、国外に追放した。彼らの多くはアルジェか、スイス、またある者はロンドンに逃れた。
「過去の遺物」としか言いようのない彼らに、政治的な価値を見出したのは、ロンドンの連合王国政府であった。ハプスブルクが亡命者を庇護するのは、古い王侯貴族としての同胞意識に依るところが大きい。だがイギリスのそれは、あくまで自分達の国益のためという点で、他の追随を許さないほどに徹底していた。
*
スイスと国境を接する北西イタリアのロンバルディア州は、ロンバルド=ヴェネト王国の首都であった。ナポレオン戦争後に北イタリアを獲得したハプスブルク家が建国し、国王はオーストリア皇帝が兼任した。リソルジメントでイタリア王国に吸収されるまで、この王国はハプスブルクがイタリア半島に打ち込んだ楔であり続けた。
当然ながら旧イタリア王国を継承したイタリア連邦においても、同王国の復古が検討された。しかしイタリア内戦への帝国軍の軍事介入は、ミラノに逃れた暫定イタリア共和国政府の要請によって可能となった。反オーストリア感情を刺激することで内戦の再燃を危惧する慎重意見が相次いだことから、ロンバルド=ヴェネト王国の復古は見送られた。
同時にイタリア連邦評議会議長のトスカーナ大公は、トリノのイタリア社会主義共和国に対抗するため、ミラノの暫定政府をイタリア共和国として承認。連邦への参加を認めた。テッシェン大公家を中心としたハプスブルク保守派は、イタリアという国名も含めて、オーストリア勢力圏における共和制国家の存在を認めたことに猛反発したが、私は大公を支持し、粘り強く交渉と折衝を重ねた。
その結果「イタリア連邦とハプスブルク共同外務省の書類の上では『ロンバルド=ヴェネト共和国』と扱うが、彼らが『イタリア共和国』と名乗ることを否定するものではない」という解釈によって、政治決着を図った。
それにしても紆余曲折を経て発足したイタリア共和国が実効支配する領域が、かつてのロンバルド=ヴェネト王国の領土のそれとほぼ同一なのは、一体どうした皮肉だろうか?
この国号問題で「道化師」が果たした役割は大きい。彼はトスカーナ大公の知恵袋として、暫定政府とイタリア連邦首脳間の関係を取り持つことに功があった。そしてイタリア人の例に漏れず、必要以上に雄弁になる癖のあるデ=ガスペリが、この問題に関しては一貫して沈黙を保っていたのは、たかが名前ひとつで戦争以上に騒ぎ立てる事に、何か思うところがあったからかもしれない。
イタリア連邦の最高意思決定機関である連邦評議会本部は、ミラノのスフォルツェスコ城内にある。12世紀からミラノの支配者達の住居であった古城は、度重なる戦乱にも耐え、破壊される度に改修を続けてきた。そのため古い時代の要塞と、新しい時代の構造物がモザイクのように入り混じっている。
私はハプスブルク家の共同外務省のために用意された部屋の中で、大臣としての公務を続けていた。ウィーンを離れようとも、決裁を怠るわけにはいかない。手を止めれば、たちまち書類が積み重なり、雪崩のごとく私に襲い掛かるだろう。
時刻は既に午後の8時を過ぎていた。古さと新しさが奇妙に入り混じった執務室の中に、ただひたすらに私が万年筆の筆先を走らせる音だけが響く。
執務机の左に置いた未決済の箱には、書類の束が積み重なっている。大部分を片付けたつもりであったが、以前として百科事典を思わせる厚さが薄くなる気配がない。私はインクで煤けた様に黒く汚れた左手を伸ばすと、その天頂部分から書類を取ると、タイトルと直前の決裁者の名前を確認した。
膨大な外交文書や各地の外交官からの報告書の全てを、大臣である私が確認する事は、時間的にも物理的にも不可能だ。ハプスブルクと因縁浅からぬナポレオン1世は、1日当たりの睡眠時間が3時間であったというが、それは仕事を委任する官僚機構や、信頼出来る部下が不在であったからだ。そして権限を付与されたフーシェやタレーランは、最終的にはナポレオンを見捨てた。
ナポレオンは自分こそが世界で最も優秀な政治家であり、優れた軍人であるという、実に明快にして単純な結論に従い、再びフランス皇帝として全てを差配しようとした。その結果、最後は家族すら失い、絶海の孤島で病死した。
ナポレオンに及ぶべくもない私の器量や才覚では、部下を信頼するしか組織を運営する術がない。凡人であると自覚をするからこそ、既存の官僚機構や貴族社会を信頼する必要がある。そして天才ナポレオンを追い詰めたのは、勤勉な凡人の集団であった。
とはいえ、盲目的に書類にサインをするだけでは、組織の統制などありえない。
直前にサインをした人物の名前を確認するのは、私にとっては一種の物差しである。信頼に足る人物であれば、私は迷うことなくサインをする。出来不出来にムラのある人物であれば、主題を確認して問題なければサインをする。かつて問題を起こしたことのある人物、あるいは問題がありそうな案件であれば、その時に初めて内容を確認する。
これまでのところ、私はこのやり方で大きな失敗を犯したことはない。ただこれは、私が部下を正しく評価出来るという前提があってこそ成立するやり方だ。私は自分に対して、それほど楽観的にはなれない。
旧態依然とした貴族社会に支えられているとされるハプスブルクの官僚機構だが、外交とは社交界の延長である。有力貴族ともなれば、幾年も紡がれて来た多国間にまたがる閨閥は、職業外交官では太刀打ち出来るようなものではない。その象徴がハプスブルクの帝室だろう。
私も外交官の端くれとして、オーストリアとハンガリーの共同省庁たる外務省という組織風土については、ある程度は理解している。複雑怪奇に閨閥が入り組んだ宮中や貴族社会で問題なく意思疎通が可能であり、不断の努力による知識収拾と情報の上書きを続ける事が出来る勤勉さがなければ、出世は困難だ。つまり純粋かつ狭義の意味合いでの無能は、その意味では存在しない。例え第2のベルヒトルト伯爵という不安があったとしてもだ。
大臣が何らかの政治的な主導権を発揮して省内改革に取り組むことは、共同外務省に限らず、どの省庁も望んではいない。大臣に求められているのは、目の前の案件を滞りなく処理する事務処理能力である。そしてハプスブルク帝国は、この方針により幾多の危機を乗り越えながら、統治を続けてきたのだ。
問題があるとすれば、これまでのやり方が、これからも通用するとは限らないという点であろう。おそらくそれは私だけの認識ではない。臣民も政府も、宮中や貴族社会、当事者である外務省も……そして畏れ多い事ではあるが皇帝陛下ですら、等しく認識を共有している。
古き良き貴族外交を象徴するかのようなベルヒトルト伯爵は、大使や外務官僚としての評判は非常に高かった。ところが外務大臣としての彼は、セルビアとの限定戦争が可能だと考え、極端に狭くなった視野による状況判断により、7月危機を深刻化させた。問題がセルビアと二重帝国の2国間の問題ではなくなった時点で、彼の手におえる問題ではなくなっていたのだ。
駐英大使として戦争回避に尽力し、そして失敗した私個人の経験からも、ある現実を厳粛たる事実として受け入れなければならない。
もはや国家間の戦争は、国家総力戦の段階に突入した。これまでのような多国間の貴族によるサロン外交……つまりハプスブルク家の伝統的な外交手法は通用しない。仮に戦争を回避しようとする、あるいは終わらせようとするならば、国益を前提とした国家を挙げた総力戦での外交が必要になるのだろう。
そしてそれは、ナポレオンを追い詰めたタレーランやメッテルニヒのような、外交官個人の才覚や能力だけで成し遂げられるものではない。
だからこそ皇帝陛下は、外務省を通さず、皇后陛下の義兄であるブルボン=パルマ公のシクストゥス公子を通じた和平交渉に着手された。それはまさに古い外交そのものであり結果的には奏功しなかったものの、陛下自らが動かれなければ、外務省を組織として動かすことは出来なかっただろう。明らかに外務省は、国家総力戦という新たな戦争に対応出来ていなかった。
そしてイタリア半島を巡る時代錯誤な戦後構想と、内戦勃発による破綻により、外務省の機能不全は誰の目にも明らかとなった。もはや外務省は正統主義という名前の前例踏襲をするばかりで、刻々と変化する状況に対応する事すら難しくなりつつある。
だからこそ私のような非主流派が、共同閣僚評議会議長として外務大臣に就任することが出来た。デ=ガスペリのようなイタリア人を補佐官としても、省内からは表向きの批判が出ることもない。いざとなれば切ればいい。そう思われているからだとしても。
そして何百万もの人間が犠牲になった戦争などなかったかのように、ウィーンの外務省は日常へと回帰しつつある。
私は考えをあちらこちに飛ばしながら、書類の決済を続けていく。サインをして、滲みでた余分なインクを吸取紙で吸い取り、乾きを確認し、決済済みの箱に入れていく。工場労働者のように単純な流れ作業を続けていると、果たして自分の職業が何であったのか、わからなくなりそうだ。
巨大な機械の中の大きな歯車。私はふと、そのような考えに囚われた。
ハンガリー政府からの公文書や報告書では、早くからマジャール語が使用されていたが、
帝国内部の公式文章で使われる言語は、中世以来のハプスブルク帝国で使用され続けて来た、耽美で優雅なラテン語であった。例え現実にラテン語で会話をする人間がいなくなろうとも、それがハプスブルクの伝統であり現実だった。
それが今では、ハプスブルクの各地で無機質で武骨なドイツ語に変わられつつある。私が決済した書類の多くも、ラテン語に清書されることなく、ウィーンの本省や各地の在外公館へと戻される。ラテン語が公用語であることに代わりはないが、ただそれだけの話だ。
多国間の外交文書といえば、ポストナポレオン体制を話し合ったウィーン会議以来、長らくフランス語と英語が主流であったが、欧州大戦のフランス敗北と崩壊により、その流れは変わった。ヴェルサイユ条約に付属する関連協定文書やコペンハーゲン停戦協定は、基本的に全てドイツ語で起草された。何れは国際会議の場は、ドイツ語と英語が作業言語になるのだろう。ハプスブルクに、現実では話されることのないラテン語の使用を諦めさせつつあるように。
……私はサインをする手を止め、万年筆をインク壺に立てかけた。
我がメンスドルフ家は、ロレーヌ(ロートリンゲン)地方でフランス王家に仕えたプイイ男爵家を祖とする。革命により祖父がオーストリアに逃れ、ハプスブルク家に軍人として仕えるようになった。
フランスの貴族が、王妃の実家に逃れて軍人となり、その息子はオーストリアの宰相、そして孫は外務大臣だ。
「……奇妙な話だ」
足音すら聞こえない執務室にいると、スフォルツェスコ城に染み付いた記憶が、ハプスブルクの過去と現在が、自分を詰問しているかのような感覚に陥る。
アルベルト・フォン・メンスドルフ=プイリー=ディートリヒシュタイン、お前は何者なのか?
私は両肘を机の上につくと、その無言の圧力に抵抗するかのように、両手を口の前で組んだ。単純な流れ作業となりつつあった手を止めた途端、諸々の思考の産物である懸念が頭の中を次々と駆け巡るが、今はむしろそれが望ましくもあった。
かつてハプスブルク家は、オーストリアを中心に神聖ローマ帝国を世襲した事実上のドイツ皇帝として、ベーメンやボヘミア国王も兼ねた欧州大陸の覇者であった。16世紀頃には世界最大の植民地帝国であるスペイン帝国・ポルトガル王国の王位も兼ね、まさに「太陽の沈まない国」であった。
電信はおろか鉄道や蒸気船すらない時代。広大な領土を1人の皇帝が支配するのは、如何なる名君であったとしても物理的な限界があった。そのためハプスブルクは神聖ローマ皇帝と、スペイン国王の地位を分離させたが、前者は三十年戦争(1618-1648)を経て「神聖でもローマでも、ましてや皇帝でもない」と嘲笑されるほどに求心力を低下させることになる。
三十年戦争が、ハプスブルク家の中央集権体制を決定的に阻害したのは確かだが、その対立構造は、カトリック陣営とプロテスタント陣営と単純に二分化出来るほど単純ではない。
あえてその言い方を採用すれば、前者の中心にいたのがハプスブルク帝国(オーストリア、スペイン)、後者がカトリック教国でありながら、プロテスタントを支援したフランス王国である。フェルディナント3世(在位1637-57)は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」であるヴェストファーレン条約(1648)への調印を余儀なくされた。
「神聖ローマ帝国の死亡診断書」の調印から150年近く、名ばかりのドイツ皇帝としての帝位を継承した最後の皇帝フランツ2世は、ナポレオンに三帝会戦(1805)で大敗。翌年に自ら神聖ローマ帝国の帝位を退いた。
歴史には、神の悪戯としか思えない奇妙なめぐり合わせというものがある。フランス王国によって求心力を失った神聖ローマ帝国に、最後の止めを刺したのは、ブルボン王朝を打倒した革命政権と、それを継承したナポレオンであった。
新興勢力の台頭を前に、古き欧州を代表するハプスブルクは、代々伝わる家訓に従った。すなわち「汝は結婚せよ」だ。ブルボン王朝(ルイ16世の王妃)、それを打倒したポナパルト家(ナポレオン1世の后妃)、その双方とハプスブルクは婚姻関係を結ぶことを選択した。
新たな潮流として台頭した破壊者や、革命児と正面から対峙することを避け、次の国際秩序の中で、ハプスブルクは自分達の地位と発言権を確保する。ブルボン朝やポナパルト家も、古きハプスブルクの閨閥関係を利用したほうが、フランスの(そして自分達の)国益にかなうと考えたのだろう。
そして婚姻関係を結んだ途端に、フランスの国体はひっくり返った。
マリー・アントワネットのフランス王妃の地位は約18年、マリア・ルイーザのフランス后妃にいたっては、4年にも満たない。「たかだか」20年弱の時間は、悠久の時代を生きると自負するハプスブルクにとっては、カフェのコーヒーを入れる時間にも等しきものだ。
だが、これでは幾らなんでも短すぎる。そして共にハプスブルクの血を入れることには成功した両家ではあったが、直系は間もなく断絶した。
古きハプスブルクとの同盟という外交政策判断をした瞬間、ブルボン王家やナポレオンは、自分達の「既存の国際秩序の破壊者」や「革命児」としての精神を喪失してしまったのだろうか。それとも「幸いなるオーストリア」は、花嫁を攫うというトランシルヴァニアの伝説の吸血鬼の如く、相手から運気や国力というものを吸い取ってしまうのだろうか?
……馬鹿なことを考えるものだ。私は頭を左右に1、2度振ると、自分の本来の職務に関わる事に思考を戻した。
三十年戦争により国力が衰えたスペインは、1680年にポルトガルとの同君連合解消に追い込まれた。そしてスペイン・ハプスブルクが断絶(1700)したことで、ブルボン朝がスペインを継承する。以来、ブラサンガ王朝は1910年に革命で国を追われるまで、14代(あるいは13代)130年間の長きに渡り、ポルトガル本国と、植民地帝国を支配した。
……不謹慎ながらも、私は思わず笑ってしまった。
そう、またもやフランスなのだ!
どちらも直接的な理由ではない。だが、ポルトガル独立の要因を作ったのがフランス王国ならば、ポルトガルの混乱と衰退の原因となったのもフランスなのだ。
スペインが衰退したことで、ポルトガルは独立のチャンスを獲得し、ナポレオンがイベリア半島に侵入したことで、ブラサンガ王家はブラジルに亡命した。それはミゲリスタ戦争とブラジル独立の遠因となった。
追い風であれ向かい風であれ、人も国家も、生きている限りは、いつかは風と直面するものだ。それに抗うか、あるいは従うか。背を向けたスペイン・ハプスブルクは、外の血を入れるのを拒絶した結果、悲劇的な結末を迎えた。オーストリアのハプスブルクは、単に抗い続けたわけでも、流され続けたわけでもない。この数世紀は、常に自問自答の繰り返しである。
フランス絶対王政、ナポレオン。そして今度は社会主義という時代の潮流が、帝国に、そして私に問いかける。
『ハプスブルクよ、お前は何者なのか?』
ブルボン王朝もナポレオンの大陸軍も、我がハプスブルクは耐え凌いだ。イギリス流に「2度あることは3度ある」と泰然自若に構えておくべきなのか、あるいはドイツ流に「3度目には成功する」と、サンディカリストへの警戒を強めるべきなのか。破壊されるべきアンシャン・レジームなのか、それとも多民族国家の理想たる帝室なのか。
先の大戦において、我が軍は各地の戦線で苦戦を強いられた。ブルシロフ攻勢後の東部戦線は、ドイツ軍の支援がなければ、持ちこたえられなかっただろう。停戦協定でハプスブルクが主導権を握れなかったのも無理はない。
だが仮にハプスブルクに軍事力の裏付けがあったとして……社会主義者との外交が可能なのだろうか?
私は腕を頭の後ろで組むと、執務室の天井を仰いだ。葉巻とランプの煙で燻蒸された天井紙は、灰色と茶色で薄汚れている。
その光景に、ふと、自分の補佐官と交わした会話を思い出していた。
『ロールシャッハ・テストというものを、御存じですか?』
職務とは関係のない話で私の緊張を解きほぐそうとしているのか、それとも単に自分に興味のある内容を喧伝したいだけなのかはわからない。それでも、このような突拍子もないことを私に尋ねてくるのは、帝国広しといえども「道化師」ぐらいのものである。
心理学、あるいは精神医学なるものは、つい最近までは宗教か思想家の領域であった。学問として体系的に研究され始めたのは、ここ30年ほどの間のことである。それを考えれば、熱心なカトリック教徒であるデ=ガスペリが興味を示しても、さして不思議ではないだろう。
ロールシャッハ・テストは、スイスの心理学者が考案した心理分析に関する新たな手法だそうだ。なんでも紙のインク汚れを見せて、これが何に見えるかを被験者に答えさせるのだとか。被験者に頭脳で想像させ、言語化するための具体的思考を行わせ、そしてそれを第三者に伝えさせる。心理学者は、その回答や過程から心理状態や性格を鑑定するという。
私はそれを思い出しながら、天井の汚れを凝視した。
果たして今の自分には、それが何に見えるのか……等と考えるまでもなかった。
上下に並んだ2つのシミを見て、私の脳裏に浮かんだ回答は、地中海のコルシカ島とサルデーニャ島であった。
どこまでも職務熱心なことだ。私は自分自身の思考に半ば賞賛と呆れ混じりの拍手を送りつつ、薄汚れた天井を地中海に見立てた。
地中海を隔てて、2つのフランス政府が存在している。パリの革命政権と、アルジェの「第4共和政」だ。
パリの政府では、議会に代わりCGTが権力を掌握しつつある。彼らは敗戦責任は第3共和政を指導したブルジョアの無能にあるとして、旧体制や資本家を打倒されるべき存在だと公言する革命家の集団だ。往時のフランス革命を凌ぐ規模での人材流出が続いているが、むしろ革命体制の基盤を固める好機だとして、それを一顧だにする気配はない。無能な戦争に苦しめられたフランス軍将兵の多くは、パリの政府を支持している。
パリの政府にフーシェやタレーランのような存在が出てくるとしても、それは今ではないだろう。少なくとも、カール・レンナーのように、こちらの話が通じる相手とは考えないほうが良い。
それではアルジェの「第4共和政」はどうか?
彼らはアルジェを中心に地中海のコルシカ島を抑え、サルデーニャ島に撤退したサヴォイア王党派を支持することで、地中海に一定の勢力を確保している。
かつての革命戦争のように、彼らを正統政府として承認するのはどうか?あるいは外交的カードとして、パリへの圧力に使えるのではないか?
「……それが出来るのなら、苦労はしない」
確かに彼らと繋がりを持つことは、外交カードとなりえるかもしれない。現に我々だけではなく、イギリスやドイツも、そしてパリのフランス政府ですら、その存在を何らかの思惑により黙認している。ドイツに至ってはアフリカの旧フランス植民地の接収を続けているにもかかわらず、地理的には最も欧州大陸から近い北アフリカには、手を出そうともしない。
とはいえ黙認であって、承認ではない。
アルジェのフランス政府は、つまるところ敗残兵の寄り合い所帯である。旧第3共和政の主要政党、王党派、帝政復古派、経済界首脳、フランス軍の反ドイツ派高官……つまり社会主義大勢の中で居場所を失った勢力だ。
かつてのエミグレ(亡命貴族)の如く、彼らには資産や経験はあっても、手足となるべき国民が存在しない。現地政府や地元のフランス人はドイツ植民地への編入の混乱を嫌い、彼らを表向き支持しているとされるが、フランスの市民権を持たない現地人は冷ややかだという。
そんな彼らを結び付けているのは「背後からの一撃」をくらわせた犯人であるパリの政府への反感であり、ドイツ帝国に対する復讐心だけだ。内部における権力闘争のすざましさは、パリの比ではない。ハプスブルクだけが独断で動ける状況ではない。
……だからこそ、アルジェを相手にしないというパリ政府の対応は正しい。国内からの亡命や資本流出も、意図的に見逃されている。内部分裂により立ち枯れるのを待てば、自分の手を汚さずに済むからだ。むしろ旧体制の中で権力闘争を続けてくれれば有難いとでも考えているのだろう。
パリとアルジェ。どちらにしても今度ばかりは、ハプスブルクのお家芸である婚姻外交が通用しない相手である。アルジェの政府にお家騒動の火種を持ち込むわけにもいかないし、労働者一人ひとりに、皇族を嫁がせられるはずもない。まして彼らは、指導者の血脈で指導者を選ぶわけではないのだ。
そして我々は外患だけではなく、内憂にも備えなければならない。
ハンガリーのマジャール人と、南スラブ民族やチェコ人との対立は日に日に激しさを増している。遠くばかりを警戒していては足元を掬われ、足元ばかり見ていては狙撃されかねない。
想定外の事態であったという弁明は、何の言い訳にも慰めにもならない。外交の責任者である私には、頭の痛い日々が続く。
だが、それでもだ。
「It would have to be a truly ill wind if it blew no good to anybody」
(誰のためにもならない風が吹くとしたら、それは本当に悪い風だ)
こうも悪い風ばかり吹かされては、たまったものではない。
*
「よくもまぁ、ゴルディアスの結び目を解こうなどと考えたものだ」
「大公殿下に認めて頂くとは、実に光栄であります」
「私としては、開いた口がふさがらないという手合いなんだがね?」
フレンチ・フォークと呼ばれる先の割れた立派な顎鬚と、これに繋がる口髭を生やした人物が、どこか愛嬌のある振る舞いで肩をすくめている。
獅子のような厳しい髭に似つかわしくない優しげな、それでいて気安く言葉を掛けるのを躊躇わせる威風を同時に併せ持つ人物の名前は、ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=トスカーナ。名前の通り現在のトスカーナ大公家の当主であり、紛れもないハプスブルクの皇族だ。
前の帝国空軍総監、帝国空軍元帥にして陸軍上級大将。50歳を迎え、すっかりと老人と呼ぶにふさわしい年齢となったが、気力と体力共に、老齢と呼ぶには程遠い活力が漲っている。今は形式上のトスカーナ大公国の君主として、イタリア連邦評議会の議長(元首相当)を兼任している。
かつての領邦であった北イタリアの影響からか、トスカーナ大公家はハプスブルク帝室の中でも、極めて自由主義的な、悪く言えば奔放な気質で知られる。そのため当代のトスカーナ大公は政治的にはリベラルであり、保守派が主導した旧イタリア王国崩壊後のイタリア連邦構想=リソルジメントの否定と、オーストリア主導のイタリア半島秩序の再編にも、大公家の本領が回復されるにもかかわらず、一貫して否定的であった。
そして大公が懸念したとおり、民族主義者と社会主義者が結びついたことで、イタリアは内戦へと突入した。
事実上の停戦が発効された今も、復古されるはずだった旧トスカーナ大公国領は、トリノのイタリア社会主義共和国が実効支配を続けている。連邦加盟国の中で実効支配を続けているのは、ミラノのイタリア共和国、ナポリの両シチリア王国、そしてラツィオ州の教皇庁のみ。トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、そしてサンマリノ共和国の亡命政府は、形ばかりの代表者が参加しているに過ぎない。
トスカーナ大公は「皇帝陛下の恩顧に報いるためならば」と、この馬鹿馬鹿しくも、帝国とイタリア半島にとって重要な役割を謹んで引き受けられた。以来、大公殿下は治める国のない元首として振る舞われ、各国代表者から構成されるイタリア連邦評議会の議長として、連邦本部のあるミラノと、ローマ、ナポリを往復する日々を過ごしておられる。
そんなハプスブルクの長い歴史と、それに伴う膨大にして無意味な伝統の重要性と、形式主義の愚劣さを知る大公からすれば、ポルトガルの王政復古は奇跡のように思えたのだろう。実際に関与した私としても、成功したのが不思議なほどだ。
ポルトガルの王政復古クーデター、すなわち国王マヌエル2世の復帰には、ブラガンサ王家内部の対立解消という大きなハードルが存在した。
遡ること、およそ100年前。国王マヌエル2世の曾祖母であるマリア2世の御世である。いわゆるミゲリスタ戦争(1823-34)で、マリア2世は叔父ミゲル1世と、王位を争った。
構造としては、絶対王政論者の保守主義者であるミゲル1世(地主や教会勢力に支持)と、自由主義者(商工業者や都市部の住民)に支持されたマリア2世の対立という、この時代にはありきたりのものであった。マリア2世の実父であるブラジル皇帝や諸外国も介入した結果、マリア2世側が勝利した。
この時にミゲル1世を支持した勢力、中でも特権を奪われた教会や貴族を中心とした保守派は、戦後もミゲル1世を正統な王として支持し続けた。これがミゲリスタである。そして1910年の革命で、マリア2世の曾孫であるマヌエル2世も共和派に国を追われた。
結果、ポルトガルのブラガンサ王家は、2系統の王位請求者を抱える事になった。自由主義者は「正統な国王」であるマヌエル2世を支持するが、保守主義者はミゲリスタの王位継承者こそ正統な国王であると主張。自由主義に媚びた結果、国を追われた偽王を嘲笑した。両陣営は王政復帰後の政権構想でも悉く対立。ただでさえ劣勢な王党派は、この対立により王政復古は不可能と思われていた。
「それにしても、先帝陛下も物好きなことをなされる。この場合は罪深いと呼んだほうが、実情に即しているかもしれぬが」
「帝室はライヒシュタット公(ナポレオン2世)を保護されたこともありました。それを考えれば、不思議ではありません」
「ま、それはそうだな。それに戦に負けて国を追われた我がトスカーナ家が、ブラガンサ家のことを言えた義理ではなかろうな」
トスカーナ大公は先帝批判とも受け取れる発言に続いて、自らと大公家の境遇を自嘲するような発言をする。大公としても何か思うところがあるのだろうが、先帝批判に同調したと勘ぐられては困る。私は口を噤んだ。
国を追われたミゲル1世は、自分の支援者であったオーストリアを頼った。彼は32年の亡命生活をスペイン内乱(カルリスタ戦争)に介入するなど、政治的な火遊びを繰り返し続け、1866年に死去した。
そのミゲル1世の唯一の男子が、二重帝国の陸軍軍人であるブラガンサ公のミゲル2世である。今年69歳を迎えるポルトガルの王位請求者が、何故ハプスブルクに仕えているかといえば、偉大なる先帝陛下が、彼の-父親とは似ても似つかない、温和で篤実な気質を気に入られたからだ。
先帝陛下は彼を「ポルトガル王族」として遇し、ミゲル2世はこれに応える様に軍人として仕え、陸軍中将に上り詰めた。
「君はどう思う?」
唐突に、トスカーナ大公は私の横に立つ「道化師」の見解を尋ねた。
「イギリス人は、自分の手を直接汚さない陰謀にかけては、並ぶものがありません」
相手がハプスブルク皇族であろうと、この男には関係がないらしい。それまで黒子のように控えていたデ=ガスペリは、何時もの様に自身の見解を臆することなく述べ始める。
「そしてイギリスが自分の手を直接汚したものは、驚くほど稚拙で陰惨で悲惨極まるものばかりです。ビルマの王室しかり、ムガル帝国の皇族しかり……もっとも、両者は共に稚拙な外交によって、自分達の首を絞めた側面があるのも事実ですが」
その発言には、どことなく冷淡な感情が滲んでいるように聞こえるのは、気のせいではあるまい。ナポレオン戦争の例を取り上げるまでもなく、いつの時代もイギリスは大陸諸国のような直接的な戦禍とは、ほとんど無縁であった。まして今次大戦でも直接的な戦場とならなかったイギリスに対する大陸諸国の反感は根強い。
自分のようなアングロフィリア(イギリス贔屓)が少数派であることは理解していたつもりだったが、こうも露骨に投げかけられては堪らない。私はわざとらしく咳払いをして、デ=ガスペリの話を打ち切らせた。
1919年の段階から、ポルトガルの王党派による反共和制クーデター計画は存在していた。協商陣営での参戦は明らかに外交的な失政であり、アフリカ植民地軍の敗北や経済的混乱によって、共和制の威信は大きく傷ついていた。
それでも王政復古には大きな障害が存在した。ミゲリスタとマヌエル2世との対立に加え、ミゲリスタのミゲル2世が現役の二重帝国の軍人であるという点は、どう取り繕ったところで内政干渉の批判を免れない。
1920年。コペンハーゲン停戦調印後も欧州大陸で混乱と内戦が続く中、ブラガンサ公ミゲル2世は、誰にも注目されることなく、ひっそりと「ミゲリスタとしての王位継承者」の地位を、長男で12歳のドゥアルテ・ヌノに譲った。これが王妃との間に嫡子がいないマヌエル2世側への、政治的なメッセージであることは明らかであったが、当のポルトガル共和政府ですら、国内の騒乱に追われていた為、この動きを軽視した。
「王政復古論者というものは、国の東西を問わず、同じような発想にたどり着くのだろうな」
「イギリス人は他人の失敗から、教訓を正しく学び取れる事が出来るのでしょう」
大公殿下に続いて、デ=ガスペリが付け加える。
つまり大公殿下は「市井の人間」に相槌を打たれた。欧州のどの王室よりも典礼や儀礼に拘るハプスブルクでは、ありえない振る舞いである。それでも殿下は一切気分を害した様子もなく、むしろ楽しげに「道化師」の顔を覗き込んで尋ねた。
「君はフランスが失敗して、ブラガンサが統一出来た理由は、どこにあると考えるかね?」
「ダビデ王の王妃であったアビガイルには、多くの美徳がありましたが、それに自惚れることのない、思慮深く勇気のある人物でした。ペルシャのアハシュエロス王の王妃であったエステルは、慎み深く賢明ながらも、必要とあれば大胆に語りました。謙虚で勇気と胆力のある女性の存在が、鍵だったのでしょう」
両者の成否の理由を女性にあるとした「道化師」の指摘に、トスカーナ大公は「わが意を得たり」と、深く頷き、そしてかっかと豪快な笑い声を上げられた。どうやら、このイタリア人の率直な物言いが気に入られたらしい。これを軽々しいと感じるか、気さくな人柄だと感動するかで、大公殿下に対する評価は分かれるのだろう。
旧フランス王家の正統派とオルレアニストの合流は、ブルボン朝正統派のシャンボール伯爵の死という好機を生かせなかった。マリー・テレーズ伯爵未亡人の意向もあり、正統派はスペインの王位継承者であるカルリスタ系の男子を後継者に指名。この決定を巡り強固な支持基盤であるユルトラが分裂したことで、収拾がつかなくなった。
一方でブラガンサ王家には、優秀な女性が揃っていた。ブラガンサ公2世の実母アーデルハイト(1831-1909)は、欧州王室に名を知られた賢婦人であり、ミゲル2世と6人の娘達を、ポルトガル王子と王女に相応しく育て上げた。
この母の積極的な売り込みもあり、ミゲル2世は欧州王室でもまれな閨閥を獲得することが出来た。姉はスペイン王族(カルリスタ系王位継承者・正統派フランス王位請求者)、妹5人はオーストリアのカール・ルートヴィヒ大公の継室(現在の皇帝陛下の祖父)、バイエルン王族、パルマ=ブルボン家(現在の皇后陛下の御実家であり、一人は皇后陛下の実母)に嫁いだ2人と、ルクセンブルク大公という具合である。
またこの姉妹達は、母の意志を受け継ぎ、一致結束してミゲリスタのために働いた。
ミゲル2世が政治活動から退いた後、12歳の家長に変わってミゲリスタ系の代表者となったのが、4女のアルデグンデスである。すでに未亡人であり64歳と高齢だった彼女は、12歳の甥ドゥアルテ・ヌノの後見人としてミゲリスタ派の摂政に就任した。
「ハプスブルクでもミゲリスタでも、女は強いのだろうな」
トスカーナ大公は、どこかおどけた言葉とは裏腹に、真剣な眼差しで続ける。
アルデグンデス摂政は就任直後、ロンドンに渡航。「ブラガンサの王位継承者をマヌエル2世で一本化し、後継者はドゥアルテ・ヌノとする」という条件をマヌエル2世側に突きつけ、ほとんど一人で合意案を纏め上げた。
彼女を除く5姉妹達も、ロンドンでの交渉を影ながらサポートした。自分達の閨閥や一族を通じて、協商国、中央同盟、中立国に積極的に働きかけ、ポルトガルの安定のためにはブラガンサ王家の復古が必要であると結束して説いて廻ったという。
彼女達は誰もが無理だと考えたゴルディアスの結び目を切るのではなく、正面から手作業で解してしまったのだ。
「同席したイギリス外務省関係者が、呆れるほどの交渉手腕だったそうです、こちらはシクストゥス公子(皇后陛下の義兄)を補佐役として付けたつもりだったのですが、ほとんど出番がなかったとか」
「……協商国との和平交渉も、シクストゥス公子ではなく、彼女達に任せればよかったのではないか?」
トスカーナ大公は笑いながら、顎髭を扱いてみせる。私は一瞬、それが協商国との和平交渉に携わった私への皮肉ではないかと疑ったが、大公殿下の表情には、そのような冷笑は見られなかった。
「まったく、どうしてこんなに女性が強くなったのか……君は、どう思う?」
大公殿下は、再び「道化師」を試すかのような質問を投げかけた。彼は相変わらず笑いもせずに、「断るまでもありませんが」と、無愛想にも思える口調で答えた。
「アダムとイブが始まりであったように、男性と女性がいて、初めて子供が産まれます。両者のどちらが優れているというわけではありませんが……ですが、子供を生むことが出来るのは女性だけです。そして、ここ数年の間に戦争や流行病により、近代国家では考えられないほど、多くの人間が短期間の間に犠牲となりました」
カトリック的な世界観に基づく自身の理想を語る時、この「道化師」は驚くほど雄弁となる。
「私は、全ての人間の魂の価値は平等であるという考えを信じておりますが、それでも全体的に少なくなれば、価値が相対的に上昇するのは、道理というもの」
私と大公殿下は、彼の説明を興味深く聞いていた。それは小気味よい説法や演説を聴くかのような、どこか無責任な爽快さを楽しんでいた側面は、たしかにあったかもしれない。
それでも次の表現には、私は殿下と顔を見合わせて、閉口した。
「平和の創造は至難の業であり、平和の破壊は容易であるというのが、先の大戦の教訓です……壊すことしか出来ない消費者より、生産手段を独占している製造者の発言力が強くなるのは、至極当然ではありませんか?」
過ぎない