1922年の1月15日。セルビア王国亡命政府は、国王ペータル1世の逝去を公式に発表した。長く病床に伏していた老王の最後ははっきりとせず、暗殺説も囁かれている。
冒頭の発言は、老王の臨終の言葉とされている。この発言が報道されると、亡命政府を率いる摂政アレクサンダルは「事実無根」であると否定したが、廃太子ジョルジェ・カラジョルジェヴィチは「発言はあった」として、弟のアレクサンダルを批判した。
1903年5月。セルビア国軍内部の民族主義者による「黒手組」のクーデターにより、オスマン帝国からの独立の立役者であるオブレノヴィッチ王朝は、その歴史に幕を閉じた。兵士達は就寝中の国王夫妻を銃撃した後、かろうじて息のある2人を窓から池に投げ捨て、一説によれば遺体を切断して焼却したという。この蛮行を議会や内閣も黙認し、実行犯は処罰されなかったというのだから、尋常ではない。欧州各国は前代未聞のテロ行為に震撼。「セルビアの山猿」の悪評は決定的なものとなった。
オブレノヴィッチ家の断絶後、迎えられたカラジョルジェヴィッチ家のペタール1世は、セルビア王国の国際的地位の回復に尽力した。フランスで教育を受け、リベラルな自由主義者として知られたペタール1世は、数カ国後を解する学者肌の勤勉な性格であった。前王とは対称的に、模範的な立憲君主として議会に従った。これは国王自身の、西欧的な立憲君主制をセルビアに根付かせるという理想とも合致していた。しかし前王をテロにより排除した黒手組は王国内部に根をはり続け、サラエボ事件(1914年)を引き起こした。
1916年。開戦から2年でセルビア王国は本土を追われ、ギリシャ王国領のコルフ島に亡命政権を樹立した。亡命政府首相のニコラ・バシッチは、アレクサンダル王太子とセルビア軍部の承認の下、敗戦責任を押し付ける形で黒手組の構成員を一斉検挙。反逆罪で処刑した(1917年)。しかし時すでに遅く、セルビア亡命政府は、後ろ盾であったロシア帝国が革命により崩壊したこともあり、協商陣営内部での孤立を深めていた。
1918年頃からペタール1世が老衰により執務が不可能となると、アレクサンダル王太子は摂政として亡命政府を率いた。一方、ジョルジェはアレクサンダルの兄であったが、大戦前に素行不良によって廃嫡されていた。老王の遺言の存在を主張するジャーナリストや政治学者は、旧黒手組との関係性が指摘されている。ジョルジェ廃太子には、旧黒手組勢力と手を組むことで、亡命政府における政治的な地位獲得を目指す思惑があったと思われる。
ペタール1世の亡骸は「遺言」により、イオニア海のコルフ島に眠っている。
- 『バルカン半島秘史』民明書房(1967) -
18世紀から19世紀初頭は、産業革命後の近代資本主義社会への転換期であり、資本主義体制を巡る経済論争が多発した。その中でも1830年代から40年代のイングランドで通行われた通貨論争と呼ばれる論争は、政界のみならず経済界や学界の耳目を集めた。
周期的に発生する経済恐慌の原因はなにか。根本的な対策は存在するのか。存在すると仮定するなら、何が必要なのか。学者、政治家、経済人が、それぞれの立場と見解から喧々諤々の議論を戦わせた。
通貨発行を国内流通の貴金属量に一致させるべきだとする通貨学派に対して、銀行学派は通貨主義派の景気サイクルの説明の誤りを主張し、発券規制を否定した……
……と説明を受けても、何のことだかわからない。
通貨学派と銀行学派で意見が対立したという段落までは、かろうじて着いていけたものの、退蔵通貨だの、支払差額の逆順による為替下落だの、真正手形の割引原理だのといわれても、即座に理解出来るはずもない(時間をかけて説明を受けたところで、理解が深まるかは疑問だが)。黒板に所狭しと書かれた数式に至っては、何を書いているのかすら理解不可能である。
ミラノのスフォルツェスコ城内で、呪文のような講義を聴き続ける私のノートには、激戦の跡が克明に記されていたものの、残念ながら全体を埋めるには程遠い。私は自らの数学的才能の欠落に落胆した。
トスカーナ大公のヨーゼフ・フェルディナンド殿下の理解も私と同程度であったようであり、私よりも先に万年筆が止まった。それでも何かを書こうとする努力を続けておられるのは、流石はハプスブルクの男子と称えられるべきものであったが、それよりも先に青年が黒板に新たな数式を書き込むので、結局、似た様な状況が幾度となく繰り返されるだけに終わった。警護役の侍従武官達は、涼しい表情で全面降伏を決め込んでいる始末だ。
軍人でありながら戦闘を放棄するとは何事だと、私がいささか見当違いな思考を巡らせていると、ようやく聴講生の手が止まっていることに、講師役の青年は気がついたらしい。黒板に向かって泡を飛ばしていた口を閉じると、訝しげな表情で生徒達(つまり私達)の方向を振り返った。
青年の貼り出た額は頭脳の冴えを伺わせるが、その印象の正しさは先程までの「授業」において、嫌というほど思い知らされた。丸眼鏡がずり落ちかける度に、チョークの粉だらけの手の指で何度も押し上げたために、綺麗に整えられた口髭はすっかり白くなっている。頭脳の回転や思考速度に、舌が追いついていない典型であったが、それがむしろ年相応の若さを醸し出している。
青年は粉だらけの顔で、各自の真っ新なノートと顔を二度三度と見比べた後に、口を開いた。
「……今までの説明で、御理解頂けましたでしょうか?」
「さっぱりわからないということだけは、理解出来た」
若干23歳にして「ウィーン大にハイエクあり」と、その名を二重帝国に轟かせる青年-フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクも、流石に大公殿下の答えは予想外だったらしい。真っ白な黒板を背景にしばらく呆然としていたが、大公殿下と私の態度と表情で、それが事実だと確認すると、自分の顔のパーツを、四方から中心に押し固めたようにして苦笑した。
ハイエク青年は手についたチョークの粉を、両手を打ち鳴らすようにして払うと、覚悟と決意を表情に漂わせながら発言した。
「では大公殿下。もう一度、最初から御説明を……」
「いや結構」
大公殿下は力強く、青年の提案を却下した。
*
「なかなか優秀な学生です。流石はカール・メンガーの流れを汲むオーストリア学派のお膝元というべきでしょうか」
私がトスカーナ大公への進講役である青年に対する不満をやんわりと伝えると、推薦したルイス・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵は「困ったお人だ」と言わんばかりに肩をすくめる。貴族よりも貴族らしいとされる大富豪の表情が、ハイエク青年のそれと重なった事に、私はひどく気分を害したが、自分自身の数学的な理解力と才能の欠如が理由であることを自覚していたため、それ以上の追求は避けた。
それでもロートシルト男爵に言いたいことがないわけではない。青年の授業は難解かつ複雑であり、肝心の御進行は失敗したわけではないが、成功したとも言いがたい。私はその点に関する不満を、率直に伝えた。
「大体、理屈にも限度というものがある。旧イタリア王国の通貨問題の現状についての説明をするはずが、どうして1830年代のイギリスの通貨論争から始まるのだ。アダム・スミスの考えを説明するのに、黒板いっぱいの数式が必要なのだ?」
私は「経済学者なら必要だろうが」と付け加える。ハイエク青年を擁護するわけではないが、彼はそれが説明の前段階として必要な知識であると判断したのだろう。だからといって、数式を黒板全体に列挙されたところで、数学者でもない我々には、そこから一定の法則や理論を導き出すことは……少なくとも普通の人間には難しい。それが普通だというのなら、私は普通でなくても構わない。
「御言葉を返すようですが閣下。彼の通貨問題に関する知識と現状分析に関しては……」
「確かに知識は一流だったよ。知識と分析はね。問題はだね……君はあの場にいなかったから、そのようなことが言えるのだ」
当代のウィーン・
「……そもそも通貨問題であれば、君が直接、御進講役をすればよかったではないか。君も殿下とは知らぬ間柄ではあるまい。あの青年よりも、君のほうがハプスブルク流に精通していただろう」
「将来有望な青年に、箔をつけてやろうという親心です」
おどけた表情と口調で語ったルイス氏は「この状況で私が表に出るのは、色々と不都合がありますので」と、さらりと付け加えた。言葉だけを解釈すれば、体よく難題を学生に押し付けただけではないかという気がしないでもないが、今のイタリア情勢と国内政局を考えれば、あながち見当違い配慮とばかりもいえない。
同じ社会主義政権であるフランスのパリ政府がフランス本土を確保し、中央銀行であるフランス銀行に収蔵されていた兌換用の莫大な金塊を確保出来たのとは対照的に、旧イタリア王国は内戦に突入したことにより、国家の統一に失敗した。
旧王国領は北西のイタリア社会主義共和国(トリノ)、北東のイタリア共和国(ミラノ)、南のラツィオ州の教皇領と両シチリア王国、サルデーニャ島の「サルデーニャ=ピエモンテ王国」に分断された。北イタリアの大都市や工業地帯は戦場となり、ゼネストや暴動、避難民の流出によって荒廃した。
トリノの社会主義者がなりふり構わずローマを抑えようとしたのは、フランスのようにイタリア銀行(中央銀行)の準備金を確保する目的があったようだ。しかし実際にローマを支配したのは、教皇庁とカトリック系の民兵組織。教会の権威を社会主義者が認めるはずもなく、民兵にイタリア全土の治安を維持できるはずもない。
これではボナルド・ストリンゲル(イタリア銀行総支配人)がイタリア金融界の発展に尽力した巨人であり、辣腕の持ち主であったとしても、どうしようもない。かくして旧イタリア・リラの通貨としての価値は暴落し、イタリア半島には世界史に類を見ない状況が生じた。
「複数の地域通貨が、1国の法定通貨にとって代わったのです。件のハイエク君ほどではありませんが、私も銀行家の端くれとして、イタリアの通貨の現状については関心を持っています」
これはルイス氏に限ったことではない。経済学者に言わせれば、内戦後のイタリア半島は「経済学史上、稀に見る貴重かつ大規模な社会実験」だったという。1国の支配体制と経済秩序が同時に、それも短期間に崩壊した悪夢のような現状は、彼らにとっては通貨の本質を研究するための、大いなる実験場になった。ボナルド・ストリンゲルが聞けば、その巨躯を震わせて激高しただろうが。
他国のことながら、私としても「実験場」という表現には不快感を感じる。もっともハプスブルクの権益をイタリア半島で確保しなければならない下心のある私に、良くも悪くも学者として純粋な彼らを批判する資格があるのだろうか。その意味では私も彼らと同類かもしれない。
内戦集結から約2年。イタリア共和国にはハプスブルク帝国内の経済界と金融界が全面的に経済支援を行い、トリノはパリの政府が全面的に後押しすることで、通貨の安定を取り戻すための悪戦苦闘を続けている。そして前者に関しては、普段は私とトスカーナ大公のイタリア政策に関して不平しか口にしない帝国内部の保守派も、共和国をハプスブルク勢力圏に組み込む好機だとして、全面的に支持している。
確かにこの状況でロートシルト家の当主が、イタリア連邦評議会議長のトスカーナ大公と会うことは、よからぬ憶測を呼ぶかもしれない。もっともロートシルト家推薦の学生から御進講を受け、同じ建物内にいるだけでも、痛くもない腹を探られるのは間違いない。それを考えれば、どこまで実効性のある配慮かは疑わしいものだ。
そして後者に関しては……まぁ、どうでもよい。国外の植民地と権益をすべて切り捨て、貴金属の国外持ち出しを規制し、新たに兌換紙幣を発行することで経済秩序を再編しようとしているようだが、成功するならそれもよし。失敗するならなお良しだ。社会主義者同士の結束とやらがどこまで持つのか、見ものである。
北イタリアを2分したイタリア共和国とイタリア社会主義共和国は「自国こそがイタリア王国の継承者である」と主張するかのように、イタリア・リラの使用を継続した。トリノとミラノに設置された新たな中央銀行による発券と兌換が間に合わなかった地域では、旧リラに互いの中央銀行印を押した。無論、お互いの実効支配地域では使用不可能だ。
このような状況でも、荒廃したポー平原を中心とした工業先進地域である北イタリアの経済が決定的に破綻しなかったのは、イタリア銀行のボナルド・ストリンゲル総支配人が職務を投げ出さず、尽力し続けた点が大きい。
1900年に総支配に就任したストリンゲルが、当時の王国政府から与えられた職務は、後進国であったイタリアを中央集権化させ、近代化と工業化を推し進めるために中央銀行としての機能を整備することにあった。
それから20年後、彼は正反対の地方分権……と呼ぶのも疑問だが、敗戦と内戦という未曾有の混乱の中、敗戦後の半島の金融秩序を支え続けた。それが自らの20年数年以上の成果を否定する役回りであるにも関わらずだ。イタリア経済の、裏も表も知り尽くしたストリンゲルでなければ、不可能な偉業だっただろう。
「イタリアに人材がいないわけではありませんでした。ボナルド・ストリンゲルしかり、ジョヴァンニ・ジョリッティしかり。国家戦略の失敗は局地的な、あるいは個人の戦術的成功では取り返しがつかないということなのでしょう」
ルイス氏は、珍しく本当に困ったように笑い、それを見た私は、知らず身体を強張らせていた。
この人物は-というよりも、ロートシルト家の歴代当主は、いつでもそうであった。初代ザローモンが1848年革命でウィーンを追われた時も、2代目のアンゼルムがオーストリア国内の反ユダヤ思想と対峙した時も、3代目のアルベルトがドイツ帝政やイタリア統一戦争で苦境に立たされた時も、そして当代のルイスが今回の大戦でロンドンやパリのロスチャイルド家の同胞と、敵味方として戦わなければならなくなった時も。
彼らは鉄火場になればなるほど、穏やかな笑みを浮かべる。ロートシルトの敵対者達は、歴代当主の微笑を悪魔の如く恐れたものだ。
私は自分の感じた嫌なものを切り替えるように、ハイエク青年の講義では語られなかったイタリア半島情勢への見解を問うた。
「サルデーニャ島では『サルデーニャ・リラ』なる通貨との交換が始まったそうだが、君はこれをどう見る?」
「短期的にはピエモンテの回復を諦め、アルジェのフランス政府の支持の下で、島内に籠城するつもりなのでしょう。隣接するコルシカの地元自治体は、アルジェに対する忠誠を明らかにしていますし。実現性は別として、半島の経済秩序とは別に、新たな通貨を発行する事は、短期的には悪くはないかと。旧サヴォイア王党派の資金があれば不可能ではないのでしょうが……」
ロートシルト家当主は、そこで初めて口ごもる。
ナポレオン戦争で財を成した偉大なるロスチャイルド家の初代マイアー・アムシェル・ロートシルトは、5人の男子に事業と財産を分与し、それぞれに家を立てさせた。長男が創業のフランクフルトを継承し、次男がウィーン家、3男がロンドン家、4男が南イタリアのナポリ家、そして5男がパリ家の祖となった。
このうち、今回の大戦まで残っていたのはルイス氏のウィーンと、ロンドン、そしてパリの3家である。創業のフランクフルトは、ハプスブルクに忠誠を尽くしたことで帝政ドイツの中で勢いを失い、ナポリはリソルジメントに抵抗して、両シチリア王国に賭けたことで家を畳んだ。そして今回、パリ家が1919年の敗戦と革命により、スイスに逃れた。
ハプスブルクや中央同盟陣営に属することになったウィーンも、通商関係の断絶により経済的損失を被ったが、敗北した協商陣営のロンドン家やパリ家は、それを上回る被害を受けたという。パリ家は没落し、ロンドン家も戦時中の当主交代の最中で指導力を発揮出来る状況にない。その結果、事業規模や資産総額ではロンドンやパリに劣っていたウィーンが、自動的に押し出されるような格好で、ロートシルトの指導的立場に上り詰めた。
現在の状況をルイス氏が望んでいたとは、私には思えない。まして偉大なる家祖が「5兄弟とその子孫が結束し、利益を分配せよ」と言い残した3家が潰れ、その遺命にそむくような形での台頭である。
「……莫大な資産や財産があったとしても、1家だけで出来ることは限られています」
思うところがあるはずだが、ルイス氏はおくびにも出さない。
「サヴォイアの残党がサルデーニャ島での支配権を確保出来たとしても、それ以上のことは出来ないでしょう」
「海軍戦力を保有していても2度のリソルジメントは不可能であり、イタリア半島の通貨秩序に及ぼす影響も少ないと?」
「半島というよりも、北イタリアのピエモンテへの影響力は限られると表現したほうが、この場合は正確でしょう。イタリア銀行の総支配人の努力を軽視するわけではありませんが、結局のところ武力による強制力の裏づけのない通貨は信用されません。海軍では海賊行為は出来ても、揚陸する陸上戦力がなければ……」
アオスタ公爵-今はサルデーニャ=ピエモンテ国王エマヌエーレ・フィリベルト1世を自称している-が主導した王党派クーデター、それもピエモンテという御膝元での無残な失敗を指摘するルイス氏。
確かにトリノにはパリが、ミラノにはウィーンという陸軍戦力の後ろ盾があるからこそ、貨幣経済から物々交換に退化することは避けられている。そしてアルジェの政府に、地中海を越えて派兵する意思はあっても能力はない。少なくとも、今のところは。
しかし、そうするとわからない。私は首をかしげながら続けた。
「では南イタリア、両シチリア王国や教皇領はどうなのか。かの国はリラどころか、何十年も前に使用していた自国の独自通貨を復活させた。聖書の解釈とは異なり、教皇庁財務局にとって、通貨の発行など未知の領域だろう。献金を管理したり、資金運用するのとは訳が違う」
北イタリアの混乱とは対照的に、両シチリア王国はシチリア・ドゥカート、教皇庁財務局はバチカン・リラの独自発行を始め、それは軌道に乗りつつある。ローマの準備金に手をつけたわけではない。そんなことをすればトリノの社会主義者に軍事介入の大義名分を与えるようなものだし、そもそもストリンゲルが認めるはずがない。
シチリア・ドゥカートは旧リラとの期限を定めた兌換を認めてはいるが、軍事力という点では教皇庁と似たようなもの。旧イタリア王国海軍の多くがサルデーニャ島や、アルジェのフランス海軍基地に逃亡した今、旧王国軍を主体とした民兵レベルの武力しか保有していない。
「顧客が求めるものを、注文を頂く前に用意をする。それが我がウィーン家のやり方です」
軍事力による強制力を伴った裏付けを問う私に、ルイス氏は左手の人差し指を立てて発言した。
「誤解を恐れずに言いますと、南イタリアは農業以外、まともな産業も商取引も存在しませんでした。あったとしても、その取引規模は知れています。収穫予定の農産物を裏づけとするだけでも、需要と供給の双方を満たせるほどに小さなもの……そして1919年に内戦が始まった段階で、鉄道と港湾施設は機能を停止しました。南部では北部の工場労働者向けの小麦がダブついていたのです」
つまりウィーン・ロートシルトは、南イタリアで余剰穀物を安く買い叩き、ハプスブルク領邦内で売りさばくことで莫大な(といってもロートシルト家としては知れた額の)利益を得ていたということに他ならない。これではトスカーナ大公と面会させるわけにはいかない。私は先ほどまでの、自分の考えをきっぱりと捨て去った。
それにしても欧州各地で依然として食糧不足が深刻だった時期に、南イタリアでは食料が余っていたとは。それこそ貨幣の信用の裏づけになりえるほどに。帝国内の政情不安に頭を悩ませていた私としては、笑えない話だが。
「笑い事ではありませんが、笑ってしまうような話ではあります」
至極真面目な表情で頷いてから、ルイス氏は続けた。
「リソルジメントに両シチリア王国が対抗出来なかった大きな理由は、南イタリア全体の後進性……近代化と工業化の大幅な遅れでした。そして今回の王政復古がさしたる抵抗もなく行われ、独自通貨の再発行なる無謀な挑戦が成功している理由が、約60年前とほとんど同じだった。こうなりますと皮肉といいますか、運命の悪戯というものを感じさせますな」
語り終えたルイス氏は、にこやかに笑いながら両手を膝の上で組む。私はルイス氏の微笑みの奥に、コペンハーゲン会議で会談した2人のイタリア人の顔が浮かんた。
両シチリア王国のルイージ・ストゥルツォ暫定首相は、調整能力と交渉手腕に長けた政治家であり聖職者だが、経済通というわけではない。この1月に67歳で死去された教皇猊下の懐刀である国務長官のパチェッリ枢機卿も、それは同様だ。「黒い貴族」である彼に、金融政策や通貨政策の専門知識は求められていない。
それにも拘らず、両国が新通貨発行という偉業を成し遂げることが出来た理由。ハプスブルクの共同財務省が北のイタリア共和国で手一杯の状況にある中、ローマのイタリア銀行の準備金だけでは、如何ともしがたいノウハウと人員を提供したのは、どこの組織か。
「ルイス卿、貴兄はナポリ家の復讐を……」
「復讐にこだわるのは非生産的な行為ですよ、議長閣下」
私の言葉をゆっくりと、しかし確固たる口調で遮ると、ウィーン・ロートシルト家の当主は私の疑問に答えた。
「タルムードには『与える側は誰か受け取るか知らないで施し、受け取る側が誰から与えられたのかを知らないで受け取る』という言葉があります。金融業を主要な家業としてきた我々がいうのも可笑しな話かもしれませんが、金銭の貸借は簡単です。ですが精神の上での一方的な貸借関係は、精神衛生上、大変よろしくありません……これでは、議長閣下の疑問への答えになりませんかな?」
「……君は、ロートシルト家の家業が慈善事業だとでも言いたいのかね」
「それでは我々は、ただの偽善者となってしまいます」
ルイス氏は首を横に振ると、再び静かな笑みをたたえた。
「今は亡きナポリ家がフランチェスコ2世陛下から頂きました恩義については、少なからずともお返しすることが出来た。私はロートシルトの一族に連なるものとして、その様に考えているだけですよ」
*
1922年1月22日。闘病中のローマ教皇のベネディクトゥス15世猊下は、天へと召された。
7年と5ヶ月弱の任期の間を通じて、猊下は世界大戦と内戦という理想と現実の間で苦悩と苦渋の決断を強い続けられた。大戦直前の1914年に選出されたベネディクトゥス15世は、世界大戦に際してベネディクトゥス提案による停戦を呼びかけられたものの、主要国からは黙殺された。
戦後はイタリア内戦の戦禍からレオニー市周辺を守りぬくことに苦心され、ローマ周辺の治安を回復させる為にカトリック系民兵の組織を支持したことは「時代錯誤の祭政一致」と批判を浴び、昨年のコペンハーゲン講和会議では「宗教国家」への反発が相次いだ。カトリック国を中心に教皇領再建の承認を得たものの、国務長官時代から政教協定(コンコルダート)の締結国拡大を悲願としていた猊下としては、不本意な批判だったに違いない。
「道化師」は今、両シチリアのルイージ・ストゥルツォ暫定首相と共に、ローマに滞在している。システィーナ礼拝堂の煙突からの白い煙-ミラノ大司教のアキッレ・ラッティ枢機卿が、新教皇ピウス11世猊下として選出された場面に立ち会った「道化師」であれば、ベネディクトゥス前教皇時代を如何に総括するだろうか?
少なくとも、私の目の前に座るセルビア正教徒の老人のように、皮肉げな眼差しをローマに向けることはないはずだ。
「新たに漁夫の指輪*1に指を通す資格を得たミラノ大司教の出生地は、旧ロンバルド=ヴェネト王国領内だそうですな」
セルビア王国亡命政府の元首相ニコラ・パシッチは、児童向けの挿絵にサミクラウス*2を描かせれば、10人が10人ともこのように表現するであろう、胸元まで伸びた豊かな白く長い顎髭を扱きながら、その人相風体に似つかわしい、77歳の老人とは思えぬ豊かな声量を発した。
この一見すると好々爺のような雰囲気を漂わせた老人は、暴力と腐敗が蔓延していたオスマン時代からセルビア政治に関与してきた。魑魅魍魎渦巻くバルカン半島の中で、近代セルビア王国の舵取りを長らく担って来た老人の外見に騙されたものは、この闘士の前に屈する事となった。現に摂政アレクサンドルと対立して辞任したとされるが、彼の率いる急進党は、依然として亡命政権の主要勢力を占めている。
本来であれば同じ部屋の空気すら吸いたくない相手ではあるが、こちらからの会談の要請を受け入れた老人がミラノまで出てきた以上、会わないわけにもいかない。私は厳しい表情を意図的に作り上げる事で、老人と相対する覚悟を決めた
「それもデージオ御出身だとか。私の記憶が確かであれば、かの地は社会主義共が実効支配する地域からも程近い場所……」
バシッチ老人は、うっすらとした笑みを口元だけに浮かべたままで、発言を続けた。
「最前線に近いミラノの大司教を互選するとは、社会主義者からすれば南北から挟み撃ちにされるようなものではありませんか。ローマの枢機卿達は随分と大胆な選択をしたと見えます。最も、これが鍵のかかっていない部屋で行われた決定なら、なお良かったのですがね」
東方諸教会のセルビア正教徒である老人の、カトリックを揶揄するような物言い。それが挑発である事を承知しつつ、私は老人に対して、あくまで表面上の外交官としての儀礼的な態度崩さないまま応じた。
「御老体。それは16世紀以来、イタリア半島出身の教皇が長く続いてきたことへの批判ですかな」
「いやいや、貴国が拒否権を……教会法の廃止されたそれではなく、軍事援助や経済援助の打ち切りをカードとして使われなかったことが意外だと思いましてな」
意図的にこちらを嬲るような真似をする老人の言動に、私は頭の中で舌打ちをした。
特定国による教皇候補への拒否権が発動されたのは、1903年8月のコンクラーヴェが最後である。前々教皇のピウス10世が選出されたが、この時の有力候補にノーを突きつけたのが、他ならぬ我がハプスブルクの先帝陛下だ。有力候補だったバチカンの国務長官と、オーストリア国内の保守派政党のキリスト教社会党(CS)との深い関わりを懸念したためであるが、これによりローマとの関係は一時的に悪化。そのためピウス10世は就任直後に、教会法の改正により拒否権を廃止した。
確かにナポレオン戦争後、各国が世俗化の傾向を強める中でも、ハプスブルクはローマとの関係を強めてきた。だからといってローマがウィーンの、ウィーンがローマの支配者になったことは、一度たりとも存在しない。
そしてセルビア正教徒の老人が、事実誤認をしているわけでもない。今上の皇帝陛下がカトリックへの信仰心を「中欧における教皇」として揶揄されている現状を皮肉っているのだ。
「御老体。私はセルビア正教会の総主教の選び方に口を出すつもりはない」
交渉のテーブルで主導権を握りたいという、老人の思惑は理解出来る。しかし老人の振る舞いは、如何にも子供染みているように私には思えた。これが50年以上もセルビア政治の中心で民主化の為に戦い続けた老人のすることなのか。
「パリとトリノを社会主義者と批判されるが、御老体も若い頃は社会主義者として、オブレノヴィッチ家と戦われたと記憶しているが」
さして熱心なカトリックではないと自認している私であっても、異教徒に信仰の拠り所を面白半分で嬲られるのは不愉快である。明確に不愉快であるという感情と、それ以上の発言は許容しないという意図を伝えると、「サミクラウス」は後退した毛髪の残る頭部をぴしゃりと叩いた。
「いやいや、これは然り。我が急進党は、議院内閣制に基づく自由主義政党です。確かに若気の至りで、そうした団体に所属したこともありましたがね」
老人は自分の振る舞いを気にする素振りも見せずにかっかと哄笑した。落ち窪んだ眼底の目だけは私の一挙手一投足を見逃すまいと爛々と輝いており、それが余計に私にとっては不快に感じられた。
この老人。サミクラウスというよりも、悪童にジャガイモと石炭を配るというクネヒト・ループレヒトかもしれない。スパの大本営でふんぞり返っている茹でたジャガイモ野郎(ルーデンドルフ参謀総長)の口に、石炭でも詰め込んでいればいいのだ。私はそんな愚にもつかない考えを巡らせることで、憂さ晴らしをしていた。
「帝国政府が、今回のコンクラーヴェに影響力を発揮したという事実はありません。無用な、それも見当違いの疑いは迷惑極まりない」
「えぇ、まったく。われわれも1914年7月23日の最後通牒は、迷惑極まりないものでしたよ」
「……帝国の皇族に対するテロリズムをっ……」
私は感情的に反論しかけたが、それ以上の言葉をぶつける事を、万難の努力により飲み込んだ。そしてバシッチ老人の目が冷たく絞られたのを確認し、それが正しい判断であったと確信した。
目的達成のためには、自分が泥を被ることも汚れ役に手を染めることも厭わない。バルカンにおいてセルビアのために戦い続けてきた政治屋としての矜持を、私はまざまざと見せ付けられた気がした。
私は咳払いをして、コーヒーカップを手に取り口に含む。コーヒーとは異なる苦味を一緒に飲み込むと、私は口元に薄い笑いを浮かべる老人と向き合った。
「それでは、交渉を開始しましょう」
「お手柔らかにお願いしますよ」
私と「サミクラウス」は、オーストリア=ハンガリー軍撤退後の旧セルビア王国領を巡る非公式交渉を開始した。