地獄の底のアリス <Alice in the Underground> 作:龍河 神音
まずは確実なことが一つある。銃火器弾けるこの町で,偶然にもその日は『イエローフラッグ』の周囲から銃声が絶えていたこと。二週に一度あるかないかで,バオにとっては安寧の日と言えた。朝から酔ってドンパチする輩もいない,奇妙な来客もいない。万々歳だ。
昨日は大きな抗争があったと耳の速い客から聞いた。最近騒がしい輩は大人しく眠りについて,今日のこの日は騒ぎが起こるようなことはないだろう。嵐の前の静けさという言葉があるが,嵐の後の静けさという言葉があっても良いだろう。或いは台風一過。空も晴れて清々しい。
こんな酒場に晴れが似つかわしくないのだから,似つかわしくない客も来るものだ。だからこそ今回の元凶といえる元凶は,いつものように外で騒ぐ悪漢では無く,空に輝く似つかわしくない太陽だろう。
とてとてと音が聞こえるような歩き方で,カウンターまで歩いてくる幼い容姿。「お水,ちょーだい」と舌っ足らずに言ってぽすんと椅子に座る。身長は低く頭がぎりぎり防弾仕様のカウンターからひょこんと飛び出る程度。見れば見るほどにその子はこんな荒くれの集まる酒場に似合わない。
「嬢ちゃん,どこの子だ? ママとパパはどうした」と水を出して問うバオ。女の子は聞いているのかいないのか水をくぴくぴ飲んで,にへらーっと気の抜けた笑顔を見せる。
「はっ,そうかい」
聞いていないと判断したバオは食器を拭く作業に戻った。この町で最もやってはいけないことは,他人の家の便器をのぞき込むこと。中に入っているのが糞ならまだしも,血や肉に塗れているのかもしれないし,ましてやその便器の中に住むことになるかもしれないのだから。バオは女の子にこれ以上問わなかったし,それは正解だったのかもしれない。或いはもしかしたら不正解だったのかもしれない。だがそれはバオには分からないことだ。
女の子は水一杯で一時間も居座った。何もすることがないとばかりにバオを見つめたり,椅子の背もたれを掴んで店内をのんびり見ていたりした。何が楽しいのか時折くすくす笑いもしたが,次第に飽きたのかゆーらゆーらと椅子を揺らして遊び始めた。バオはことここに至って女の子を煙たく思い始めた。「ここは託児所じゃないんだぞ」と言うも女の子の耳にも説法。やれやれとこれ見よがしに溜息をつく。
「おじちゃん,ありがとー」
女の子が立ち去ったのはそれからまた一時間後のこと。水の入ったグラスが空になっていることに気づいて思わず注ぎ足し,仕方ないとばかりに軽い食べ物まで出したのはバオの一生の不覚だ。或いは女の子の無垢な姿が為せる業か。ようやくかと疲れ切った表情だが,バオの口角は上がっていた。女の子の残した食器を洗おうと持ち上げて,ひらりと何かが落ちてきたことに驚く。見れば紙幣が何枚か。数えてみると中々に良い額で,本来バオが請求するだろう金額までいかずとも,治安のいい飯屋での値段位はあるだろう。
両親に渡されていたのだろうか。女の子の忘れ物かもしれないが,ここに残されているってことはこの料理の代金ってことだ。懐に収めるとバオは食器を洗い始める。同時に数人の男がイエローフラッグから出ていった。仕方のないことだろう。バオは静かに作業を続けた。他人の家の便器は覗きたくはない。
案の定,店の外から銃声がいくつか。店に被害が無いのが幸いだ。
しばらく待つと銃声は途絶えた。イエローフラッグの安寧を十三時間で終わらせた元凶だが,特段強い感情など抱いていない。バオとてこうした場面は何度も見たのだから,この程度で心を動かされていたらこの町で酒場など経営しない。せいぜいが血だまりを店の前で放置されると気分が悪い程度のものだ。少しだけ待てば元凶は死骸を連れて立ち去ってくれるだろう。或いは生きたままかもしれないが,大した違いではない。それから店の前の血を流そう。
きっかり十分後に店の前に出てバオが見たのは予想通りの血だまり。今回は何があったのやら先ほど店を出た荒くれの死骸が落ちていた。大方同じ狙いの者同士,悲しい巡りあわせでもあったのだろう。女の子の死骸が無いところを見るとそのまま連れ去られでもしたか。肉塊を路地へ蹴り飛ばして,バケツ一杯の水をぶちまける。血の匂いはどうしようもないし,別に気になりはしないから放置だ。
やがてこの日の"日常"は頭から消えていく。人の命が消えるなんて当たり前,忘れても仕方ないことだ。
翌日,女の子がイエローフラッグを訪れた。一切の傷跡は無く,笑顔の輝きは昨日の一割増。取り繕った笑顔でも無く純真無垢な子供そのもの。昨日に悪漢どもに捕まって捌け口にされたのか,或いは殺されてしまったのかと思っていたバオは,幽霊でも見た気分だった。女の子は無邪気に「お水ちょーだい」と言った。
グラスに水を注ぎながらバオは思案する。確かに昨日,自分は死骸を目にしたはずで,掃除した覚えもある。それ以前に銃声を何発も聞いたはずだ。件の渦中にいたであろう女の子がこうも変わらぬ調子でいるなんてありうるのだろうか。
今日が昨日ならばこの状況にも辻褄があうのだろう。女の子に会ったのは実は今日が初めてで,昨日は大きな抗争があった日。なるほどそれならば分からなくもない。
小さく「んなこたねぇよ」と毒づいて,なみなみと限界まで注がれたグラスを差し出す。女の子はきらきらとした笑顔で受け取って,ちびちびと飲み始めた。やっぱり昨日と何一つ変わらない様子だ。服装は違うけれど,それ以外に何も変わったところなんて――。
――いや,ちょっと待て。
バオは女の子の姿を改めて見た。そうだ,何一つ変わっちゃいない。身体が汚れているとか傷がついているとかそんなことは無い。何も変化が無さ過ぎる。それこそ昨日のドンパチなんて一切なかったみたいに。
気が付けば他人の糞尿を覗きこんで,そこに死体が無いか探してしまっている。バオは自分の行為を顧みて,これ以上はいけないと思った。この女の子はただの無垢な幼い子どもではない。もっと得体のしれない怪物だ。だがそれ以外何だというのだろう。肥溜めだろうとマフィアだろうとイエローフラッグに来たならば共通の客だ。怪物が来たところで騒ぎを持ち込まなければ客には違いないだろう。
「嬢ちゃん,何か食っていくかい」
「んーっと,じゃあ昨日のちょーだい」
返ってくるのは無邪気な声。分かったことは別に藪をつつかなければ女の子はお人形さんでいてくれるということ。マトリョーシカの中を開けて本当に同じ人形が入っているのか確認する必要なんてない。昨日みたく不愛想に「ほらよ」と渡せば何も言わずに太陽みたいな笑顔で受け取る。
――日陰者の地に太陽か。なるほど,こりゃ凶兆だわな。
なんてナンセンス。どうにも格好はつかないらしい。
女の子は今日も水一杯と軽い食べ物で一時間を費やした。昨日の焼き増しのような風景で最初に思った通り今日は昨日なのではとバオは何度も感じた。そのたびに何度も馬鹿かと自分に呟いて,女の子がけらけらと笑うところまでがセットである。
今日はこっそりとではなく立ち去り際にしっかり分かるようにお代を置いた。それは昨日より多く,今回の注文の金額ぴったりだった。
「はいよ。確かにお代はもらったぜ」
女の子が出ていけばやはりそれに続けて出ていく野郎どもがちらほら。女を捌け口としか思わないような輩ばかりで,鴨撃ちに出るような気分だろう。それで鰐に食われては意味が無いのだが,きっと彼らはそんなこと思いもしない。鳴り響く銃声に案の定だとバオは呟く。
ゴミを片付けるのは自分なんだがなと愚痴を零しつつ,女の子の残していった食器を洗い始めた。おそらく女の子は明日も来るのだろう。
続きません。