地獄の底のアリス <Alice in the Underground> 作:龍河 神音
それからと言うもの女の子は毎日のようにイエローフラッグを訪れていた。バオも何も聞かずにいつものように水と軽い食事を提供した。軽食の内容は最初の二回こそ同じだったものの,それからは毎回別のものになった。あるときはカリカリに焼き上げたベーコンと少し古くなった硬い黒パン,具材がとけだして殆ど何も入っていないように見えるスープを出した。ぶーぶーと文句を言いたげな表情をして女の子は慣れた手つきで食べていた。あるときはスクランブルエッグに新鮮なサラダと肉汁たっぷりのウィンナーを出した。これは女の子にも好評で,普段と違ってお代わりまでしていた。
気が付けば女の子のために新しく食材を仕入れることもあったし,それを見ていた糞溜めの無法者から同じ注文をされることもあった。もともと食事は酒のついで程度しか用意していなかったが,こうして出してみればその売り上げは悪くない。まったく何がどう転ぶのか分からないと苦笑しながら食材を受け取る日々だ。
ああそういえば,バオは女の子についていろいろと分かっていた。他人の糞の臭いを嗅ぐ趣味なぞ無いのだが,こうしたバーをやっていれば自然と情報位は入って来る。それも小奇麗な常連客についてなのだから,他の糞野郎どもからわんさかと噂話を聞かされる。そのたびに御代を負けろだの勝手に話しただけだから一サタンも負けてやらねえだの言い合いになる。所詮猫のじゃれ合い程度でお互い本気じゃないのだから,適当な所で互いに折れるのが常だ。
女の子について知ったからといってバオの対応が変わるわけではない。銃口が向かなければ黄金夜会の奴らにも酒を出すし,地獄の悪魔にだって料理を出してやるだろう。女の子が天使か悪魔かなんてことはさておいて,毎回しっかりと金を出して大人しく食事を楽しむなら客には違いない。上客には少し贔屓したくなる気持ちは誰にだってあるが,バオにとってそれは食事メニューの充実という形になっているだけだ。何も変わったことなどありやしない。
きっと向こうさんも分かっているのだろう。このイエローフラッグではいっつもにへらーっと世の中の吐瀉物を何も知らないかのような純真無垢な笑顔で,狼に睨まれてなお呑気に草を食む羊のように食事をしている。それはそれはこんな世も末のバーに似つかわしくない風景で,名画に幼児が落書きでも描き足したかのような異物感があった。
「はい,おじちゃん」
「200バーツ、確かにあるな」
これもいつものやり取り。この程度の料理にしてみれば高い買い物だろう。女の子は疑問に思っていない風に払っているが、相場がどの程度か知らないというわけではあるまい。それでも払う価値があるのだと毎日食べに来ているのだから、別に今更値段の高低なんて語る意味もない。
置きっぱなしの皿を裏の流しへ持っていこうとして、女の子が立ったまま出ていかないのに気がついた。胡乱げな目でバオは女の子を眺める。
「どうした?」
「んー」
くりくりとした可愛らしい瞳が宙を泳ぐ。言おうか言うまいか悩んでいるようで、うーんうーんと唸る姿だけ見れば庇護欲が大いに駆り立てられる。大人しくじっと庇護されるかと言うと、どちらの面でも頷けないのはご愛嬌。
「えっとねー、ご馳走さま! 美味しかったわ!」
「そうかい,そりゃよかった。にしてもなんだ,なんで急にそんなことを」
「ん! 明日はちょっと来れないと思うから、改めてのあいさつ!」
「なるほどな。明後日は来るつもりってことでいいか?」
「ん!」
たとえそれが何者であれ、満面の笑顔は日陰者には眩しいものだ。ましてや幼い無垢な容姿をしているならばその破壊力、はかりしれたものではない。
不覚。ああ、不覚だ。カウンター越しに女の子の頭をくしゃくしゃと撫でている自分の姿に気がついた。まったくの無意識で、まるで親戚の子供にやってやるかのような自然さだった。
女の子にとっても予想外だったのだろう。だからこそずっとずっと奥に籠めていた本質が一瞬だけ表層に表れた。一瞬だけ、女の子は年不相応な表情を見せた。
だから――だから何だと言うのだろうか。バオにとってその程度、重要なことではない。あくまでも一瞬だけの変貌で、そのあとは無邪気な女の子へと戻ったのだ。女の子をどうこうしようなんて思っていないバオにとっては何も問題にはなりえない。
何事もなかったかのように手を放してやると,女の子も何もなかったかのように店から出ていった。それでいい。世はなべてことも無しだ。
翌日のロアナプラはここ数日の静けさが嘘っぱちのように騒がしかった。誰も彼も拳銃を手に周囲を警戒しているのはいつも通り、怒声が飛び交い銃声が響くのもまあいつも通りといえばいつも通り。だが空気だけが違っていた。いつもと違う針詰めた空気。ぴんと張った糸ではない。触れれば刺さり、触れずとも飛び出してくる袋詰めのそれ。握り締めれば手は穴だらけとなるだろうよ。
こんな日のイエローフラッグはいつもオープンカフェでの営業だ。改装屋が来て全自動でじめじめした薄暗から解放してくれる。改装屋に耳なんていう高尚なものは一切ない。キャンセルの声をあげても無視だ。改装の依頼は必ず成し遂げてくれる。たとえそれが依頼していないものでも。ああ、本当に
以前の騒ぎは確かあの女の子が来る前の日のことだ。人づてに聞いた話だと,このロアナプラに目をつけた台湾の梅聯幇が三合会とやり合ったという。結末は届いていないが,張のことだ,何事もなかったように片をつけたのだろう。今回はどこが関わっているのやら。静かにバオはため息をつく。
こんな日に店を開くなど正気の沙汰ではないのだが,事前に予見できるわけでもなく,ことが終わって開店しなけりゃよかったと後悔してばかりだ。そこまで考えるに至りバオは名案が浮かんだ。そうだ,今日は閉店にしちまえばいいのか。これぞ天啓,かのジャンヌダルクのように神の啓示を受けた気分だった。
『店主不在につき本日休業』の看板を入口に掲げて,ぐっと思い切り背伸びをする。急に降ってわいた休みだ,何をしようか。仕入れについては問題ない,新商品の開発も必要ない。売春宿にでも行って楽しむのも悪くない。いや,自室でのんべんだらりと過ごすのもいいだろう。下手に外に出て風穴だらけになっちゃ意味が無い。暇をつぶせるだけのものは十二分にある。二階の宿に置いてあるカメラの映像を楽しむも良し,趣味の利き酒をするのもよし,暇なんて来るはずもない。
そんなことを考えながらも,結局その日やったことは色々な料理の研究だった。いくつか駄目になりそうな食材があり,勿体ないとばかりに始めてしまったが最後,存外熱中してしまったのである。太陽が中天を過ぎ地平線に差し掛かる段になってバオはようやく時間に気づいた。なんて勿体ない時間の使い方をしてしまったのかと思う反面,楽しめたから良いかと思う自分もいた。料理を楽しむなんてまったく自分らしくない。最近は自分のペースが乱されてばかりだと悪態をつくが,バオも心底そう思っているわけではなかった。ただただいつもの癖とばかりに口から出てしまっただけだ。
いつからこんな平凡なことに楽しさを見出すようになったのか。確かに昔からその素質はあっただろう。だからこそこんな肥溜めでバーなんて開いて糞どもに酒を提供しているのだ。しかし今のバオがそれについて答えるならば,あの女の子がイエローフラッグに来てから――正確にはあの女の子に食事を提供するようになってからと言うだろう。毎回作るたびに輝かしいばかりの笑顔を見せられてはたまらないというものだ。
あの女の子が来るのは明日だと言っていた。つまりはそういうことだろうと思っているが、敢えて深みに足を踏み入れる気もない。ただの客とバーテンダーでしかないし、その立ち位置で問題はない。ただ二日ぶりなのだから少しくらいは上等な料理を振る舞ってやるくらいはいいだろう。
存外バオは女の子のことを気に入っていた。
続きません。