地獄の底のアリス <Alice in the Underground>   作:龍河 神音

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気が向いたので。続きません。


Looking Lycoris Radiata 03

「この町にゃ触れちゃいけねえものがある」

 それは少し前に聞いたレヴィの言葉だ。世界の果ての糞溜めとも言えるこのロアナプラで過ごすようになるとは,かつてロックが岡島緑郎であった時には思いもよらなかった。一流企業である旭日重工に務めていた緑郎がそうとは知らぬうちに密輸に携わり,ラグーン商会なる組織に身代金目的で誘拐され,しかし重工から見捨てられてしまい,そのまま成り行きからラグーン商会に属するなど想像できるだろうか。出来るはずも無いだろう。目が覚めたら平和な日本で平和に過ごしている。最初の夜はどれだけそうなっていることを望んだことか。

 ロックがこの町で過ごすにあたり,レヴィからいくつかの注意を受けた。余所者の振る舞いをしてはならない,みだりに面倒に首を突っ込んではいけない,殺すなら躊躇うことなく一撃で,本当に色々だ。その中で特に印象的だったのは,冒頭の一言である。

 

 ホテル・モスクワ,三合会,コーサ・ノストラと言ったマフィアだ。――っと待て。最初に言ったのは少し語弊があるか。別に触れても問題はねえよ。ただ報復に(タマ)取られるだけだ。それが嫌ならって奴さ。話を戻すぜ。んで,そうした組織と別でまあ触れたくねえ個人もいるわけだ。組織の報復がってもんじゃなくて,個人の脅威度が高い奴らだ。ホテル・モスクワの幹部バラライカ,三合会(トライアド)の幹部(チャン)維新(ワイサン)――。

 組織のトップが多いってか。まあ強いから幹部だっつう話さ。それと――ああ,それ以外にもいたな。お待ちかねの組織に属さねえ個人のやべえ奴だ。平和ボケしてるような甘ちゃんにゃ信じられねえと思うし,別にそれでもかまわねえよ。あたしだって最初聞いたときは耳を疑ったさ。

 【それ】はバラライカや張維新みてえに名前が通ってるわけじゃねえ。むしろ名前を知ってるやつなんていねえんじゃねえか? 気が付いたらこの町に居て,気がつけば当たり前のように恐れられてた。予兆はあったのかもしれねえが,まあ些細なことさ。で,だ。そんなやべえ奴を「やつ」だとか「それ」だとかで言い続けるわけにもいかねえってんで,いつからか名前が付けられたのさ。陶器製の殺戮人形,人喰いマトリョシカ,まあ色んな名前が出たんだが,少しずつ名前が統一されたのよ。良識もねえ悪人(Mad)どもの集まるイエローフラッグ(Tea-Party)の,純真無垢で小奇麗な少女――地獄の底のアリス(Alice in the Underground)ってな。

 

 その時は話半分に聞いていた。まさかこんな糞溜めにそのような少女がいるとは思えない。どこぞの悪党がどこぞの娼婦を孕ませた程度のことなら考えられなくもないのだが,聞くところによれば西洋の片田舎で自然と戯れるのが似合うほどには小奇麗で無邪気な少女だという。この街でそのような無警戒な兎がいれば周りの獣に狩られるに違いない。だからこそのアンタッチャブル。だからこそ組織ではなく個人としての要警戒対象であるとレヴィは言っていた。しかしそんな存在が果たしているのかと半信半疑だった。

 さて,ロックがこの話を何の脈絡もなく思い出したわけではない。前日夜遅くにラグーン商会の仕事を片付けたロックはこの日は全くのフリーだった。ラグーン商会に籠っていてもいいのだが,昼日中から酒をやるのもいいだろうと手近な酒場に向かった。それはダッチからの紹介でもあった。

「この辺りで酒ならそこが一番だ。品揃えも悪くねえ,つまみも旨え,値段も手ごろと三拍子そろってるからな。店主も多少は知った仲だ,まあ飲んで食らうだけ,いつも通りに過ごすだけなら何も問題はねえさ」

 イエローフラッグという店名にどこか聞き覚えがあった。その時のロックは特に気にもしなかったのだが,今なら分かる,あの時のレヴィの忠告にあったアリスのいる場所だ。勿論そんなことを思い出すことができたのもカウンターのど真ん中,ちょうど店主の目の前の位置に,これはこれは小奇麗で可憐な少女が座ってフレンチトーストに舌鼓を打っていたから。つまりはそういうことだ,ロックと少女は酒を飲みたいという気紛れ程度の軽い思いから出会うことになった。

 

 ロックとて無思慮ではない。アンタッチャブルに好んで触れようなどとレヴィの忠告を無視するはずもない。一人きりでテーブル席を占領するのは褒められたことでもないが,この時間のイエローフラッグは伽藍洞,別段おかしなことでもない。カウンターで店主のバオに酒を受け取り軽いつまみを注文し,素知らぬふりをして適当なテーブル席へと移った。あとは予定通り酒が切れたらそのまま帰ればいい。アリスなる少女と話す必要なんて一つもない。

 ロックの極めて冷静なロイヤルミルクティーのように甘い考えは,少女の無邪気さには一切通用しなかった。フレンチトーストを食べ終えた少女は周りをきょろきょろと見まわした後,何を思ったのかロックのいるテーブル席へと向かってきたのである。突然のことにロックは驚いて身動き一つ取れなかった。

「こんにちは,お兄さん!」

「君は――」

 ぴょんと椅子に飛び上がって,ロックが固まっているのをいいことにつまみを一切れ掻っ攫う少女。怖いもの知らずの無邪気な西洋人形はガラスのような碧眼でロックを見つめていた。

「私は……えっと,アリスっていうの。アリス=リデルよ。お兄さんは?」

「――ロック」

 そういえばダッチは特別忠告などしていなかったと思い出す。アンタッチャブルがこのイエローフラッグにいることなどダッチは承知しているはずだ。それでも何も言わなかったのはどういうことか。――言っていた,何も問題はないと。

 レヴィも言っていたはずだ。純真無垢な少女,マトリョシカ。外面(そとづら)は無害な兎の皮を被っていると。

「……そういうことか」

「どうしたの,お兄さん」

「何でもないよ。俺はロック,えっと……アリスちゃんだっけ。どうしたのかな」

「えっとね,初めて見るお兄さんだったから珍しいなあって思ったわ。それでね,少し気になって話しかけたの!」

 少女は(わら)ってつまみをぱくり。笑顔を大輪の花と表現することは多々あるが,少女のそれはリコリスみたいなものだ。取って食わなければ毒はない。ああ,ダッチの言っていたことはそういうことなのだろう。ロックは別に少女趣味(アリス・コンプレックス)じゃあない。

「確かにここに来るのは初めてだね」

「ん。お兄さんは最近来たのかしら?」

「まあ,うん。そうなるね」

「そうなの。お兄さんは――」

「そこらへんにしとけ,嬢ちゃん。分かっちゃいるだろうがうちの常連の新入りだ,あんまり矢継ぎ早に構わないでやってくれ」

 頼んでもいないつまみを持ってきてバオが少女の肩を軽く叩いた。

「こいつが食っちまった分だ,お代はこいつにツケておくから安心しろ」

 少女は不満そうに唸るものの気に障った様子は無く。ロックとしては命綱無しの綱渡りを渡り切った気分で,そうとは気づかれないようにほうと息を吐く。

 バオの置いたつまみは飾りっ気のないただの腸詰肉を無造作に皿に乗せただけの品だ。それでこそ果ての酒場にゃ相応しい。一口ぷちりと噛みしめれば肉汁が無遠慮に口内を蹂躙して襲い掛かってきた。ああ,美味い。

「嬢ちゃんが邪魔したな。――そういうこった,嬢ちゃん。まあ次の機会にな」

 それだけ言ってバオはカウンターへ戻る。少女を連れていくようなことはしなかったが,少女はバオに従ってとてとてと歩いていく。

「ん,じゃあね,お兄さん。お話楽しかったわ」

「ああ」

「それと,綺麗なお兄さん。お船には気を付けてね!」

 ロックが何かを言う前に少女はカウンターまで行ってしまった。ロックはつまみ片手に静かにグラスを傾ける。

 アリスと名乗る少女はまったく普通の幼い少女だった。アリス=リデル――ああ,なるほどまさしくその通りだ。それでこそ不思議の国の少女(Alice in Wonderland)に違いない。彼女は無邪気なアリス――それでいい,それだけだ。

 気が付けばグラスは空っぽ,つまみももう殆どない。今日はもうお腹がいっぱいだ。飲むもの食うものが無くなりゃもう酒場に用はない。ロックはお代を置いてイエローフラッグを立ち去った。

 

 

 糞塗れの肥溜めには似つかわしくないお人形は今日もまたあの場所にいるのだろう。ロックはあの碧い硝子の瞳があまり好きではなかった。何もかも見透かされていそうで,無垢の中に一切の光は無くて。ああ,小奇麗な西洋人形はあの酒場に似つかわしくない。

 愚者どもの船団(ring-ding ships)と踊る刺青女(レヴィ)を見ながらロックは思った。

 ああ,それでも。不気味な人形を差し引きゃ,イエローフラッグは悪くはない。ダッチの言う通りだ。飲んで食らうにゃ悪かない。




ダッチは得体のしれない人質をアンタッチャブルと接触させるほど馬鹿じゃない。だから岡島緑郎がイエローフラッグを訪れることはなかった。それだけ。

続きません。
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