「一夏くん、入るよ」
用務員室の扉をアリサがノックした。
「良いぜ」
「わかった」
その言葉の直後、アリサが扉を開けて入ってきた。そして入室早々楯無の存在に気がついた。
アリサはゼロに視線をむける。何故いるのかと目が告げる。
ゼロは勝手に来たと表情、ジェスチャーそして視線で返した。
少し不満気ではあるが納得したような表情のアリサ、それを見たゼロはひとまず安心した。
「それで一夏くん、ご飯食べるんでしょ?」
何の気もなしに、非常に極自然にアリサはゼロの隣に肩を寄せながら座った。
「そうだな、取り敢えずは食堂に行くか」
「……貴方達、仲いいのね」
楯無は人前で堂々と仲良くしている二人を見て、無人島に取り残されてしまったような気分になった。
(ああ~、しかもペアネックレスしてる)
二人の胸元を見ればペアネックレスがつけられてある。
楯無はまるでソレを見せつけられているようだった。
楯無は今まで彼氏ができたことがない。時々織斑百春をあの手この手でからかっているが、本人は男女の交際経験が全くない。
彼女は望みが高いのだ。
それなのにこの二人ときたら。
更織楯無、なんだかイライラする。
「というわけで、飯食うんで出て行ってもらえます?」
「そうね、これ以上は毒になる」
「流石はIS学園、食材の質と料理人の腕が一流だ。亡国機業の本部の食堂に負けてない。それに種類だ、様々な国の料理を揃えて各国から来る人間の不満をなくしている。拘りを感じる」
IS学園食堂、調理場の中を覗き込みながらゼロは料理人の腕とこだわりを褒めていた。
時間はまだ昼休みだが、もう終わりがけ、他の生徒はいない。
二人はゆっくりと食事を取ることにした。時間はどうしたと気にしてはいけない。ゼロの昼休憩はまだ充分に時間が残っているし、アリサも卒業までに必要な単位はすでに持っているので、次の授業を受ける必要はない。というか担当の先生が千冬の為、一回も出席していない。
二人は窓際のテーブルに座った。窓からは水平線が見え、飯を食べるには絶景すぎる。
二人の前にはそれぞれが食べる分だけの飯が置かれている。アリサは日替わり定食、ゼロはとんかつ定食のご飯とキャベツ大盛り。
「「いただきます」」
一キレのカツを頬張るとそれだけでこの食堂の料理人の腕がわかる。
高い。
暫くは食に関することは困らないと思いながら、ゼロはご飯をモソモソと食べ進んでいく。
特にこれといって会話があるわけではないのだが、二人はただ一緒に食事をするだけでも楽しかった。
こうして面を合わせて食事をするのは何年ぶりなのだろうか、およそ五年ぶりだろう。
時間が経つのは早いものだ。昔はまだ幼げのあったゼロとアリサも今は立派に育った。
二人はそんなことを思いながら、ご飯を楽しむ。
「「ごちそうさまでした」」
十数分で二人はご飯を食べ終えた。そして食後の余韻を楽しむ。
窓の外を眺め、時間を潰していく。
何時もならば何をしてるのか、ゼロは思った。
訓練がない日なら、今頃はお気に入りの喫茶店でコーヒーとケーキを食べて、午後からの仕事に備えている。
一人で過ごす時間も良いがこうやって二人で過ごすのも良い。
この落ち着いた時間が暫く続けば良いのに。
「おお、おお!ここにいたか!」
「イーリ、少し静かにしなさい」
入り口の方に二人の人影、そのうちの一人はゼロもあったことのある人物で、もう一人は写真でなら見たことのある人物だった。
二人がゼロ達に近づいてくる。
「アンタ、亡国のゼロだろ。アタシと戦え」
「出会って早々の発言がソレとは、アメリカの国家代表の脳は筋肉で埋め立てられてしまっているのか?」
ギョロリとゼロの鋭い目つきが近づいてきた人間の一人に向けられた。
「はっ、そんなつまらない話をする気はないさ。『亡国の黒いIS』、アメリカの上位のIS乗りの間ではちょっとした有名人なんだぜ」
ゼロに話しかけてきたのはアメリカの国家代表『イーリス・コーリング」、今はキャリアウーマンのようなスーツを着ている。
「お久しぶりね、こうして顔を見るのは初めてかしら?」
そしてその後ろから顔をのぞかせているのは『ナターシャ・ファイルス』、彼女もコーリングと同じようにスーツを着ている。
彼女とゼロは面識があるが、彼女がゼロの顔を見たのは今日が初めてだ。
前にあった時、ナターシャはゼロの顔が仮面によって隠されていたので見ておらず、彼女が見たのはゼロの上半身だけだ。
何故彼女たちがこの場所にいるのかというと、これも轡木十蔵の仕業なのだ。
轡木十蔵が亡国と深い繋がりのあるアメリカの大統領に頼んで、この二人をIS学園に呼んだのだ。
二人がこの学園ですべきことは生徒たちの強化、国家代表クラス二人からの指導は生徒たちに良い刺激になっている。
「貴方と会うのは初めてではないのでしょうか?」
「とぼけなくていいのよ、
そう言ってナターシャは銀の福音の待機形態を見せた。彼女もISと会話のできるようになった貴重な人間、ゼロの正体についても聞いたのだろう。
「唖々、そうか貴方は声が聞こえるんでしたね……だったら、隠しても意味がねえな。そうだ、俺が『亡国の黒いIS』その使い手だ」
ゼロの気配が変わった。
そして左手の袖をめくりあげて、自分の左腕に装着してある黒零の待機形態を見せた。
それを見て、イーリスは息を呑んだ。
「ナターシャ先生も声が聞こえるんですか?」
「ええ、あの一件以来ね」
声が聞こえる者同士で会話が盛り上がろうとする中、この場にいる人間の中で一人だけ声の聞こえないイーリスは疎外感を嫌った。
「おいおいおい、今話の中心はアタシだぜ。アタシに関係ないことはやめてくれよ……さあ、どうするんだい?今から戦おうぜ、蝶羽」
両手をテーブルにつけながら、イーリスはグイッとゼロに顔を近づけた。
「無理だな」
「何故!?ビビったのか?」
「違う、そろそろ午後の仕事が始まる。それが終わったら相手してやる。逃げも隠れもしない、安心しろ」
「本当か!?」
より顔を近づけようとしたイーリスの顔面をゼロは鷲掴みにして押し返した。
ゼロはコーリングの顔から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「但し条件がある。この場にいる四人以外、アリーナに入るのは禁止にしろ。でなければ戦わない」
「その程度の条件なら飲んでやるぜ。それじゃあ、終わるのを待ってるぜ!戻るぞナタル」
「急かさないでよ。それじゃあまたね」
イーリスはズカズカと、ナターシャはゼロに向けてウインクをしてから帰って行った。
「それじゃあ、俺たちも戻るか」
「そうね」
午後の仕事が始まる。
終わった。
「よっしゃあ、それじゃあ始めるぜ」
「ああ、良いぜ」
アリーナで対面するゼロとイーリス。
普段ならば自主練をしている生徒たちで賑わっているのだが、今日だけは静寂が占領していた。
アリーナにいるのは現在四人、ゼロ、アリサ、ナターシャそしてイーリス。
生徒たちは何事かと思って、アリーナに入ろうとしたが、イーリスが強制的に追い出して立ち入り禁止にした。
それだけイーリスは楽しみなのだ。邪魔をされたくない。
観客席にはアリサとナターシャがおり、広い観客席を独占している。
「それで、本気でたたかうのか?」
「ああ、本気だ。アタシはアンタの本気が見たいんだ。自分達が今何処にいるのか知りたいんだ」
「……そうか」
「それじゃあ行くぜ!」
二人が構え、そして走り出す。
「ファング・クエイク!」
「黒零」
両者、ISを展開。
その直後に両者二重瞬時加速を行い、超高速で距離を詰める。
組合を予想してイーリスは両腕を前に突き出すが、ゼロはそこから更にもう一度瞬時加速を行った。
三重瞬時加速。
ゼロは跳躍を行い、すれ違いざまにレッグラリアートを叩き込んだ。
一撃をくらい、地面を転がるイーリス。直様立ち上がるが、既にゼロからの追撃が迫っている。
ローキック、ハイッキック、回し蹴り、踵落とし、浴びせ蹴りと蹴り技のオンパレードがイーリスに襲いかかる。
一撃一撃が確実に殺すという意思が見られる。
(これが黒いIS乗りか……強いな。予想よりも強い。近接戦なら、今まで戦ってきた奴の中でダントツだ)
ゼロからの近接格闘を凌ぎながら、イーリスは次の一手を考える。
(それに機体の性能が高い。そしてそれを完全に操れている操縦技術の高さと攻撃に対する反応速度…………いいねえ、燃えてきた)
ゼロの実力に喜びながら、イーリスは次の一手を打つ。
イーリスは右手にナイフを呼び出して、素早く黒零の左肩を切りつける。
「先ずは一撃」
「ほざいてろ」
ゼロとイーリスの間にあった僅かな間合いが更に詰められ、ゼロになる。
詰められる際にゼロは右手でイーリスの右手首を掴んでナイフの動きを制限する。
ゼロの背中がイーリスの前面部に触れ、左手が淡い光を放つ。
これまでの時間はほんの一瞬、黒零の高い機動性能がイーリスに対処をさせない。
「ハアッ!」
気合の入った声と共にゼロは体内にあった空気を全てなくす勢いで息を吐き出し、全力のテツザンコウを繰り出してイーリスを大きく吹き飛ばす。
(重ッ!?アレただのテツザンコウじゃない。何か別のが入ってた?)
イーリスは空中で立て直すと、すぐ目の前にゼロが詰め寄っていた。
絡み合う両者、ゼロは落ち着いてイーリスの両手を掴んで力勝負を仕掛ける。
互いに全力でスラスターを噴かせる。パワーでは完全に黒零が上回っており、徐々にイーリスは後方に押し込まれている。
「どうした?アメリカ代表さんはそんなモノか?」
嘲笑いながら、ゼロは退屈そうに呟いた。
「舐めるな!」
イーリスがスラスターを噴かせる勢いを増し、同時に自分の行いが失敗であったと気づいた。
だが既に遅い。
ゼロはイーリスの体を引っ張り、その瞬間にスラスターを切った。
イーリスの肉体が前向きに傾く。イーリスはスラスターの勢いのままに突っ込み、ゼロはカニばさみでイーリスの肉体に抱きつくと、ファング・クエイクのスラスターの向きを意識しながら地面にイーリスの頭を地面に叩きつけるように仕向ける。
「ならあっ!」
イーリスはあたまが地面に着くよりも早く両手を地面につけて逆立ちのような体制になる。
そしてそのまま体を捻ってゼロを払い飛ばす。
ゼロは地面に着地後、後ろに大きく飛んで距離をとった。
「続けるか?」
「当たり前だ。今はっきりした。アンタはアタシが戦ってきたIS乗りの中で最強だ。最高のISに最良のIS乗り、敵として戦うのは燃えるねえ」
「そうか、ではもう少し上げるぞ」
黒零の右手がエネルギーを纏いランスを作り上げる。これは今までの黒零ではできなかった形状でこの前の束による調整によってできるようになった。
「そうだよな、まだ手は隠してるよな!」
イーリスはナイフを収縮して、今度は長剣とエネルギーガンの融合した特殊な形状の剣……ガンブレードを構えた。
「もう一度だ!」
剣先を突きつけて、発砲。まっすぐに向かって来る無数のエネルギーの弾丸をゼロは滑らかに、アイススケートをするかのように美しくくぐり抜けてくる。
ゼロの一突き目をイーリスは剣の腹で防ぐ。
続けて二突き目は素早く横に回り込んでからの攻撃、イーリスはこれも防ぐが今度は背後に回り込まれてもう一突き。
……嫌な戦いをする。
イーリスは思った。自身の機動性能の高さを生かした小回りの効いた今のゼロの戦いを、彼女は好まなかった。
彼女はしたいのだ。もっと力と力が激しくぶつかり合う戦いを。
それなのに、今のゼロは拒むように戦っている。
もっと真正面からぶつかって来い。
願いが肉体を昂らせる。
打ち込んできたランスを力一杯に弾き返す。弾き返された衝撃を利用してゼロはバク宙を行って距離を取る。
(今!)
この一瞬をイーリスは見逃さなかった。
瞬時加速で距離を距離を詰めながら、ゼロに向けてガンブレードで発砲する。宙を舞うゼロはランスでこれを防ぎながら、次のイーリスの行動を観察する。
ランスが螺旋回転を始める。
着地、ゼロの目の前にはイーリスが迫っている。
右腕を前に突きつける。
(スラスターで移動しながらの突きか?)
次の一手を予想する。
しかし、次にゼロがとった行動はイーリスの予想外のことであった。
腕から射出されるランス、回転のかかっていたソレはまるでライフルの弾丸のように高い貫通性能を持ってイーリスの腹に迫った。
「うぉっ!?」
咄嗟の出来事にイーリスは急ブレーキをかけてランスをブレードで受け止めたが、大きく後ろに下がってしまう。
「驚くのは早いぜ」
ゼロが追撃の一手を仕掛けてくる。
右腕の多機能腕を使用、今度は右手の掌にエネルギーの刃で作られた丸鋸を生み出す。
超高速回転する鋸が生み出すキンキンと響く高音は他者に恐怖心を芽生えさせる。
「シャラァッ!」
イーリスはランスを弾き飛ばし、直様迫ってきていたゼロを迎え撃つ。
丸鋸の斬撃はギョリギョリとガンブレードの刀身を削り取っていく。
イーリスはゼロを押し返そうとするが黒零の方がファング・クエイクよりも力が優っているため、逆に押し込まれてしまう。
だからイーリスは横に転がり、追いかけようとしたゼロに発砲して動きを止めた。
「その腕!……便利だな」
「だろ、俺も気に入ってるんだ」
「本当……厄介だよ」
イーリスは新たに両腕にナックルガードを装備させた。
近接格闘装備しかないのかとゼロは思ったが、まだガンブレードがあるだけましかと割り切った。
丸鋸からランスに切り替える。
今回追加された二つの機能はゼロの提案によって生まれたモノである。
今までの多機能腕は、殴る、撃つ、斬るといった要素はあったが、穿つや削るといった要素はなかったので提案された。
今日が実践での初めての使用、ゼロ的には満足だったので問題はありません。
本来ならば零落極夜と併用するのだが、今回はやめている。
もし同時に併用したならば、相手の胴体を一撃で貫いたり、装甲を削りながら殺すことになる。
流石にソレを国家代表、それも亡国機業と深い繋がりのあるアメリカにやるのはマズイ。
ランスを超回転させて貫通能力を上げる。零落極夜は使っていないので問題はない。
破壊の大槍。
両者ともに技の威力は先ほどよりも上がっている。
それがぶつかる。
攻撃の反動でぐらつきそうになる肉体を両者持ちこたえて、何度も敵に攻撃を仕掛ける。
ランスの回転がもう一段階速くなり、周囲に紫電がまとわりつく。
イーリスの体に悪寒が走る。アレを食らうのはマズイ。
距離をとって防御の構えを取る。
ゼロがランスを大きく振りかぶる。
「超爆裂!」
その一撃はまるで一筋の閃光のよう出会ったとイーリスはのちに語った。
防御なんてモノはくだらないといっているかのような圧倒的な攻撃力。
(ヤバイヤバイマズイ!)
飛びかかってきたゼロの一撃を全力で受け止める。しかしゼロの一撃は破壊力が高すぎる。
イーリスのつけているナックルガードが悲鳴を上げる。
破壊音が混じり始める。
このままではマズイと判断して、上に向けてゼロを押し返した。
そしてこの瞬間にイーリスは違和感を覚えた。何故自分よりもパワーがあるのに、簡単に押し返されてしまったのかと。
(…………罠か)
気づいた時には既に遅かった。
上空にはランスを解除して右手を硬く握りしめていた。
躱せるか……いや、不可能だ。相手は何処に逃げてもゼロは追い詰める。
だから彼女は、敗北した。
「気はすんだか?」
「……ああ、満足だ。裏の世界にはアンタくらい強いやつはいるのか?」
ゼロに敗北して、地面に大の字で寝転がっているイーリスはゼロに尋ねた。
表の世界の強い人間とは戦い尽くしたイーリスだが、ゼロのような亡国機業もしくはネオといった組織に所属している人間と戦った経験はあまりなかった。
「……そうだな、守りの戦いだったら上司が俺より優れている。だが、攻めの戦いだったら仲間内にはいないな……敵にはいるが」
「敵にいるのか、アンタ並のやつが」
「同じ機体に乗ったとしたら勝てるか怪しい奴が一人だけいる。まあ、世界探せば他にもいると思うがな」
ゼロは何度も戦ったことのある敵の事を思い浮かべた。
「そうか、世界は広いな。アメリカの頂点になっても、まだまだ上はいるのか。今日はありがとうな」
「……そいつはどうも。おお、寒い」
秋風が身にしみたのか、ゼロはブルリと体を震わせた。コートを呼び出して、羽織そそくさとロッカールームに戻って行った。
戦いが終わったらもうどうでもいい。
シャワーを浴びて着替えも終えたゼロはアリサと一緒に用務員室に向かっていた。
「そういやぁ、再来週から修学旅行らしいな」
「ええ、今年は例年と違って海外に行くらしいのよ。一夏くんも行く?」
「ははっ、そいつは無理だな。確か英独仏だろ?かあー、金持ってるよなあ」
周囲は既に薄暗くなっており、アリーナから用務員室に向かうまでの用務員室には枯葉が落ちており、ふたりはパリパリと踏みつけながら歩いている。
「…………アリサ、先に行っててくれないか」
「……そうね、暫く時間かかりそうね。ご飯はどうする?」
「先に食べててくれ。一人で食う」
「わかった」
アリサは早足に帰って行き、残ったゼロは少し遠くを見た。
「よう、久しぶりだな。織斑千冬」
「…………ああ、久しぶりだな……一夏」
そこにいたのはゼロの義理の姉である織斑千冬。遠巻きから二人の事を見ていたようだ。
大方、話しかけようとしたが決心がつかなかったのだろう。今も何を話したら良いのかわからない様子で、視線を逸らしたり、合わせたりを繰り返している。
「……ハア」
そんな様子の千冬を見てゼロは思わずため息がこぼれてしまった。
「目元のクマ」
「……?」
「一見綺麗にアイロンがけをしているように見えて、実は袖の先までかけてはいないスーツ…………てめえ、まだ家事が下手なのか?それに食生活の荒さも見えるな。晩酌のビールの飲み過ぎだろう……そんなんじゃうわついた話の一つも聞かないのも納得だ」
再開して早々の遠慮のない駄目だしに千冬は心が折れそうになったが何とか踏みとどまった。
ここで折れてしまったら、何も進まない。
「……そうみたいだな。何年も自分で頑張っているんだが、私は家事仕事がてんで不向きみたいだ。人と戦うのは得意でも、家を守る事は不得意らしい」
自嘲しながら話す千冬はとても哀愁が漂っていた。
「……そんな悲しい事言うなよ」
ゼロの小さな呟きは誰に届くわけでもなく、近づいてきた闇夜に吸い込まれて行った。
「その、なんだ、背丈、大きくなったな」
ゼロの背丈は完全に千冬の背丈を抜き去っていた。
一緒に暮らしていた頃はまだ千冬の方が大きかったのだが、行方不明になって、何時の間にか抜かしていた。
「そりゃあなあ、あんたの見てない所でスクスクと育ったんだよ…………あんたも、そんなに小さかったか?」
「ああ、ここ数年は身長は変わっていない」
千冬は少しだけ嬉しそうだった。
千冬はゼロ……一夏に声をかけるのが怖かった。本来ならば自分は声をかけるべきではないと思い、迷っているうちに気づいたらこんな時間になっていた。
「そうか……そんなに大きくなかったんだ。もっと大きく見えてたんだがな」
遠くを見つめるゼロ、彼の瞳には少しの悲しさがあった。
子供の頃は大きく見えた背中が、今はなんだか小さく見えてしまう。
馬鹿にしているわけではない。
一夏にとって千冬の背中は大きく見えていた。
無敵に見えた。
でも大きくなると彼女にかかっていた重さを理解できた。
だから今こうして自分の目の前にいる弱々そうな千冬を見て辛くなった。
「……巣を飛び立った雛鳥達は戻らない」
「……」
千冬の突然の呟きに、ゼロは視線を逸らした。
ゼロは既に飛び立って行った鳥、千冬という巣から飛び去って己の巣を遥か遠くで作り上げてしまった。
だから、もう戻ってくることはない。
その事を、千冬は理解した。
先日の束との電話で理解した。
それでも理解した事は彼女の進歩の一つなのかもしれない。
「俺は昔はあんたに憧れていた……孤高で強そうだった背中を見ていた……見ていたはずだったんだ」
ゼロは近くにあったベンチに座り、優しい瞳で千冬を見た。
「あの時、もっと大人だったら良かったのにな……そうすれば、俺とあんたはこんな風にならなかったんだよ。どっちもどっちだ。あんたは守るのに必死だった。手に持っているモノを零さないようにするのに一杯一杯で、持っているモノに目がいかなかった」
もう手遅れだ。関係は元には戻らない。その事に二人は気づいている。
「俺は飢えていた。誰かからの愛に飢えていた。だからあんたとは相入れなかった。あんたは守る事に精一杯だったからな」
千冬は顔を逸らした。
「そう、気まずそうにするなよ。過ぎてしまったことだ。俺はもう何も思ってない。俺も何も言わなかった。あんたも何も言わなかった。お互い様だよ」
ゼロは薄暗くなった道にポツンと立っている街灯の光を見た。
「俺はあんたらのいる場所には戻らない。決めちまったことなんだ。俺が自分の意志で、誰からの言葉でもなく、自分で決めたんだ。今はあの場所が俺の居場所だ」
強い信念が込められたゼロの瞳が千冬の目に写った。
その瞳を見て、千冬は瞳を閉じて満足げに頷き息を吐いた。
「……そうか、私も区切りがついた。この前束に言われたよ。一夏は離れた、それを理解しろとな。その意味がわからなかったが、今ようやくわかった。お前は飛び立ったんだな」
千冬は踵を返して、ゼロに背中を見せた。
「私はこれ以上お前のやり方には何も言わない。だが、これだけはせめて言わせてくれ。同じ巣には戻ってこなくてもいい、でもせめて同じ土地には帰ってきてくれよ」
もう家族には戻れない。それならばよき隣人でいてくれないか、千冬はそう言いたかった。けれどそれを言ってしまうのはゼロの道を邪魔してしまうと思い、言えなかった。
それだけを言い残して、千冬は夜道を歩き始める。
「そっか…………ありがとう、千冬姉」
姉と呼ばれた。
千冬は振り返りたかった、一夏の顔を見たかった。
だがそうはしない。振り返れば決断が弱まってしまう。また甘い言葉を言ってしまいそうになる。
目から流れ出てくる涙を止めることなく、千冬は気高く振る舞う。それが一夏の憧れていた自分の姿なのだから。
「馬鹿者、織斑さんか、織斑先生と言わんか。お前は用務員で私は教師だ」
わずかながら、涙が声の中にあっ。
それにゼロは気づいた。
「すまん、そうだったな」
けれど言及しなかった。
「そうだ、わかればいいんだ」
涙を拭うことなく、千冬は去って行った。
残されたゼロはベンチに座ったまま空を見上げた。
薄暗くなった空には満月が浮かんでいた。亡国機業の本部から見ていた者と何か違う気がするするが、ウサギか女神の横顔かの違いだと結論づけた。
「もう良いぜ、出てきても」
ゼロが背後に向けて声をかけると、物陰から一夏の弟である百春があらわれた。
「何か言いたいことはあるか?」
「ないよ、これは兄さんが決めた道だ。僕は何かを言える立場じゃない」
「冷たいな…………それにしてもてめえは小さいな」
ゆっくりと立ち上がる。
「僕の身長は平均よりも少し高い、僕が小さいんじゃなくて兄さんがデカイだけだ」
二人は向かい合って立つが、ゼロの方が背が高い。双子同士でここまで背丈が変わるのかと言いたくなるほど、十cmくらいゼロの方が高い。
「それでご用件はなんだ?俺はこれからアリサとの晩御飯を楽しみたいのだが」
高い位置から見下し、挑発的に笑いながらゼロは百春に問いかける。
ゼロは既に百春が何を言いたいのかわかっている。百春の方からソレを言ってくれるのはゼロにとってはとても都合の良いことであった。
自分が面倒をしなくて良いので。
「俺を鍛えてくれ」
「良いぜ、だが地獄を見る気でいろよ」
轡木十蔵がゼロに与えた任務は三つ。
その最後の一つは。
『織斑百春の実力を上げること』