「陽菜さんのところに、行かせてくれよ!!!!
パァーーーン!!
廃屋のビルの一室に響く、乾いた銃声が、天を裂く。大人というしがらみと、子供という純粋さを、わかつように。
須賀さんは驚愕の表情を浮かべ、僕を唖然と見つめている。当然だ。しっかりと上に向けたとはいえ、一度は向けられたんだ。視線には、僕への戸惑いや困惑、そして、恐怖。でも、僕には関係なかった。ただ、悲しかった。好きだった人に銃を向けている自分が。妨げるのが、僕のことをよくわかっている筈の人が。どうして、と。どうして、誰も彼も、わかってくれないんだろう。見てくれないんだろう。どうしてこうも大人は、人は、世界は、理不尽なのだろうと。
「どうして、どうして邪魔するんだよ!どうして解ってくれないんだよ!!俺は、ただ、陽菜さんを、陽菜さんを…
「帆高、お前…
僕は、情けなく、泣いてしまう。こんなことをしている場合ではないって、頭でわかっていても、ただ、ただ涙を流してしまう。心が、痛かった。
「森嶋帆高ァァ!!銃を捨てろ!!
リーゼントの警官を先頭に、複数の警官が部屋に突入し、僕に銃を向ける。その声に、僕は思わず銃を取り落としそうになる。でも、すぐに銃を警官たちに向ける。これ以上撃ちたいわけじゃない。誰かを傷つけたくもない。でも、捨てれない。ただ、持つことしか出来ない。そうでないと、大人の理不尽に、僕は飲み込まれてしまいそうだった。ただ、対抗手段として、いや、そんなこと、今はどうだっていい。早く、早く行かないと、僕は、陽菜さんは!!
「帆高……
「くっ!!
「森嶋くん!銃を下ろして!
「…撃たせないでくれよ!
須賀さんが、僕に近いてくる。ゆっくりとした足取りで、確実に。僕は、さらに溢れ出る涙を、感情を無視して銃を向ける。年配の刑事とリーゼントが声を荒げるが、無視して向ける。もう、涙でほとんど前が見えない。銃を向ける腕も、ガタガタと洗濯機のように震える。でも、僕は、それでも、僕は!!!
須賀さんは、僕の数十センチ手前で止まる。
「帆高は、会いたい、いや、救いに行きたいんだな?あの子を。そして、今なら助けられるんだな?
「え…
僕は、思わず須賀さんの顔を見上げる。須賀さんはいつもみたく腑抜けた顔でもなんでもなく、真剣な表情そのものだった。
「どうなんだ、答えろ!!
「っ…はい!!
僕は須賀さんを睨みつけるようにして答える。須賀さんはほんの一瞬だけ笑い、僕に背を向けた。そして、
「お願いします!!!!
その場で膝と頭を地面につけて、土下座した。しっかりと、見ている僕が痛くなるくらいに、地面に押し付けて…
「こいつを、帆高を、行かせてやって下さい!!俺も、捕まえてくれて構わない。冤罪でもなんでも、仕立て上げてくれていい。だから!
「はぁ?!あんたまでいきなり何言ってやがんだ!俺たちをからかうのもいい加減に
「お願いします!!
リーゼントの声を遮るように、須賀さんは叫ぶように話した。声が、震えている。いや、泣いているんだ…
「俺は、妻を、交通事故で、亡くしました。救いようのない、理不尽で…でも、こいつは!!こいつは違うんです!!まだ、理不尽だけどまだ、間に合うんです!だから、だから、行かせてやって下さい!!!
「須賀さん……
僕は、知らなかった…でも、わかった気がする。なんで、そこまで気にかけてくれるか、
須賀さんは座ったまま、俺の方へと振り向く。
「だいたいほら、こいつ、ただの家出少年で泣き虫のグズなガキですよ、そんなのに、大の大人が揃いも揃ってムキになって、怯えて、銃を向けて、情けなくないのかよ!!ええ!?
「だ、だが、拳銃を所持して
「そんだけじゃねえか!!こいつが、帆高が、そこらの不良のような撃つような奴に見えるか!?見えねえだろうが、なぁ、帆高、お前、本当に、俺を殺す気だったか?撃つ気だったか?
「ち、違いますよ、そんな、はっ!!
僕の方を向いた須賀さんは、声に出さずに口だけを動かした。行け!!!はっきりと、そう動いた。僕は、また泣きそうになる。わかってくれない大人だけじゃなかった!!思いを、僕を、理解してくれる人がいる!!僕は、感謝というか、親愛というか、満足というか、優しさというか、ともかく、初めての感情に、突き動かされていた!!須賀さんの目は、とても優しかった。須賀さんはそんな僕を見届け、再び前を向く。僕はただ、歯を食いしばり、覚悟を決め、その時を待つ。
「だろ!!ほら、こいつもこう言ってますから、だからさっさと銃を下ろして
「巫山戯るな!銃を二回も発砲してるんだ!
こっちが用心しない理由は
「じゃあその二発は誰かを傷つけたのか!?こいつはちゃんとした理由があって撃ったんだよ!!一発目は、あの子を守る為だった。だから
「だからといって撃っていい理由にはならない!それに、先ほどの発砲は、明らかに殺意が
「いや、あれにも理由があったさ。
「はぁ??一体どんな理由だ?
いつの間にか、警官達は銃を下げていた。須賀さんの話に完全に気を取られている。今しかない。須賀さんは立ち上がる。そして、
「俺の目を、覚まさせるためさ!!
「はぁ?お、おい、止まれ!ぐは!!
須賀さんは一気に走り出し、思いっきりリーゼントを殴りつけ、馬乗りになる。慌てて周りの警官が助け出そうとするが、それすらも巻き込んで暴れ回る。さすがに僕に1番近い警官も目を向けた。今だ、今しかない!
「行け!!帆高ァァ!!
須賀さんが叫ぶと同時に、僕は走り出した。
「っ、止まりなさい!おわぁ!
警官に向けて銃を投げつけ、そのままタックルするが如く突き進む。怯んだ警官を横目に、僕はさらに加速する。
「止まりなさぁい!!
「くっ!
年配の刑事が飛び出し、僕を遮ろうとする。少し、躊躇してしまう。理不尽な大人だろうと、年配の人を突き飛ばすのはさすがに気がひける。でも、僕は、それでも、僕は!
「ーー帆高ぁっ!!
突如、甲高い声が響き、ちっこい何かが刑事に飛びつき、押し倒した。僕はすぐにそれが何か、いや、誰かわかった。
「凪!!
何故ワンピース姿なのかはわからないが、あれは間違いなく先輩だった。そして、凪はめちゃくちゃに年配の刑事の顔を叩いたり、髪の毛を引っ張ったりしている。そして、俺を睨みつける。顔を見て思わず俺はハッとしてしまう。今までの大人ぶったそれではなく、ぐちゃぐちゃに泣きはらした、ただ姉の無事を祈る、弟のそれだった…
「帆高!!全部、全部が全部!お前のせいじゃないか!!だから!!だから!責任とって、姉ちゃんを取り返してこいよ!!!
ほんの、ほんのちょっとだけ笑いを浮かべ、凪は言い切った。いや、俺に求めた。もう、言葉入らない。俺は決意を込めて頷き、走り出す。もう、躊躇入らない。進もう、ただ、ただ、
「会いたいんだ!!!
思わず口から出てきた言葉に自分で驚きながら、俺は窓から飛び出した。筈だった…
「がはっ!!!
視点が急激に回転し、激痛に僕は声を上げる。………え…あれ、なんで…。窓から飛び出し、非常階段に居るはずの僕は、何故か、黒いスーツを着た人間に、床に押さえつけられていた。わからない、わからない。
「ふぅ、ギリギリでしたね。まぁ、確保出来たことですし、これで良しとしましょう。
僕を押さえ、いやほとんど馬乗りになって居るその人は、狐のようなつり目を細めながら、掛けている眼鏡をかけ直した。な、なんだ、こんな人、さっきまで、いなかったのに…呆然とする僕をよそに、会話は続く。
「これで全員ですか?全く、この程度も確保出来ないとは…都警も少し質が落ちましたか?
「な、なんだと!あんたらこそ、一体
「これ!口を出すな。黙っているんだ。
「くっ!しかし!
「黙っていなさい。彼らだ。わかるだろう?
「……はい。
黒スーツの舐め腐った態度にキレるリーゼントを、年配の刑事がたしなめている。僕にはさっぱりわからない。一体、何が…
「帆高!!大丈夫か!っ、おい、放せよ!ぐっ、痛え!!
「おい、いい加減抱っこは辞めろ!降ろせ!!
「 須賀さん!! 先輩!!ぐぅ!!
「帆高!!
なんとか顔を捩って向けると、凪先輩や須賀さんも僕と同じように黒スーツに押さえつけられている。…いや、先輩は抱っこされている。長い黒髪のカツラが取れていてもワンピースが似合っているのは流石というべきか…いや、そんなこと、今はいい、とにかく、僕は行かないと。動こうとしたその時、僕を押さえつける力がさらに強まり、少し声が出てしまう。黒スーツ達は揃って無表情だ。正直、怖かった。まるで、ロボットのような…僕らの会話がまるで聞こえていないかのように、淡々と作業をこなしている。須賀さんや先輩は、いつの間にか何処かへ運ばれていた。年配刑事は少しネクタイを緩めながら、僕を押さえている黒スーツへと話しかける。
「ふぅ、協力感謝しますよ。しかし、公安ともあろう方が、まさかこんな事件の確保に協力してくださるとは、私はもう何年も刑事をやっとるが、こんなことは初めてですわ。いやぁなんとも手際のよろしいことで。全く、感服いたしましたわ。
「これくらい我々にとっては当然のことです。それに、我々にとっての本命は外しましたから、せめてものということですよ。
「おや、取り逃がしたということですか。
「いえ、嘘のタレコミだったようです。それでも万が一と考え、潜伏していたら、このような茶番劇が始まり出したので、手を出したという次第ですよ。
「ちゃ、茶番だって!!この、ぐはぁ!!
僕は思わずキレて言い返す、が、すぐさまさらに押さえつけられる。だんだんと、息苦しくなってさえきた。空気が薄い気がする。でも、僕の頭には、さっきの年配の刑事の言葉がよぎる。この、黒スーツの連中が、公安だって?確か、公安って、日本のスパイとかなんとかくらいしか知らないけど、そんなことはどうだっていい!!なんてタイミングが悪いんだ!!なんて、世界は、ここまで、僕に、僕らに、理不尽なんだ!!!僕は、僕はただ、救いたい、だけだというのに、それだけなんだ!なのに!!
「どう…して……どうし……て、じゃま…ばっかり……どうして…
「この餓鬼は何処へ向かおうとしていたのですか?
「なんでも屋上にもう一人の行方不明の女の子がいるとか言ってましてな。見ませんでしたかね?
「我々は10時間前からここで待機していましたが、誰もこの建物に入っていません。無論、屋上も。
「そうですか…他に、要件は?
「いえ、もう特には…一度署に戻ろうかと。
当たり前だ。陽菜さんは、あの、ホテルから空へと行ってしまったんだ。いるわけがない。でも、僕なら、世界の秘密を共有した、僕なら!!
「なら、その少年を引き渡して貰えませんかね?少し、一緒に確認したい事もありますし
「何がですか?
「色々と話を聞く限りでは、どうもそこまで悪い子ではなさそうなんでね。ここまでしているのは、全部その少女のためだとか。もう私のような歳になると、そういうのが大層可愛く、羨ましく見えるものでね。どうせなら、一緒に屋上まで確かめに行ってやりたいんですよ。
「しかし、我々は
「ああ、帰って頂くなりなんなりしてくださって構いませんよ。もちろん、報告書にはきっちりと公安の協力があったと書かせていただきますから、ご安心を。
僕は思わず年配の刑事の顔を見上げる。とても優しい顔で、僕を見ていた。思わぬチャンスが出てきた。これならと、僕の瞳は希望に輝いた。
「いえ、やはり我々が署に連れて行きます。少し、動向が激しいですからね。それに、屋上に通ずる非常階段は昨日の豪雨で破損し、登るのは大変危険と考えます。
「だ、だがね、万が一居たら
「今、部下に確認させます。…おい、頼んだ。…それでは、我々は常に時間に押されているので。おい、さっさと立て。
「ウォォ!!
黒スーツは僕を掴み上げ、荷物のように運ぼうとする。ふざけるな、だが、チャンスだ。この隙に、暴れて逃げ出すしかない!!首根っこを引っ張り上げられた瞬間に立ち上がり、振り向きざまに殴りかかる。
「うが!!!
「ふ、その程度で、うまくいくと思っていたのか?
殴りかかった手を簡単に受け止められて、逆に僕は鳩尾に殴り込まれた。呼吸が…できない…意識が…意識が…僕が……助けなきゃ…いけないのに…
僕の意識はゆっくりと暗闇へと沈んで行く。そんな僕の視界に最後に映ったのは言い争う年配の刑事と黒スーツだった。ぐにゃぐにゃした思考で、罪悪感や、謝罪、哀しみに、浸る。僕の一部分はまだ諦めちゃいけないと反抗しようとするが、疲れた身体と頭はそれに応えることはなかった…
「…ひ、…な…さん…………必ず………おれが……たすけに…あい…に……
口に出せたかどうか、僕にも分からなかった。でも、確かにこれは、届いたと思う。晴れた空から降り注ぐ陽の光の暖かさ故の悲しさを感じながら、僕は眠りについた。
僕は、夢を見た。さわやかな草原に、陽菜さんが寝転んでいた。そして、泣いていた。泣いているのに、なぜか、僕には、陽菜さんの表情から悲しみを感じられなかった。ただ、涙を流すものとして、流しているだけのような…そんな気がした。分からない、分からない筈なのに、分かる。本当に、分からないんだ。感覚的というか、さも当然というか、何というか、理解出来ないはずなのに、理解する、いや、してしまう、させられてしまう…そして、流し、溢れた涙は、夏美さんに見せてもらった動画に出てくる魚になって、陽菜さんの周りを飛び、いや、泳ぎ回っている。
徐々に徐々に、陽菜さんを覆い隠すほどに増えて、その度に少しずつ、陽菜さんが見えなくなって行く。そして、陽菜さんの体の至る所から、魚が飛び出し始めた。そして、魚が出て行ったところが、どんどん透明になり始めた。あの、ホテルで見たような、透明に…
ああ、ああ、ああああ、だめだ、だめだよ!陽菜さん!陽菜さんが、陽菜さんが、消えてしまう!!
夢の中で、僕は声に出す。だけど、陽菜さんには届いていないようで、まるで反応がなかった。僕はわかってしまった。あの魚は、陽菜さんなんだ。陽菜さんの一部であり、記憶であり、陽菜さんなんだ!!それが、陽菜さんから出て行ってる。だめだ、だめだ、だめなんだ!!陽菜さんが、消えてしまう!!!
そんな僕の思いを他所に、魚はどんどん溢れだしてゆく。溢れ出した魚たちは、陽菜さんの周りから離れ、そして、草原の土へと還って行く。いや、違う。ここは草原じゃない。多分、空の上。ここは、積乱雲の、大地なんだ。てことは、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、そんな、そんなことは…
陽菜さん!!だめだ!自分を、自分をもっと持って!!もっと捕まえて!!そうしないと、そうしないと!!!!!あ、あああ、あああああ、あああああ
魚が徐々に少なくなり、陽菜さんが見えてくる、筈だった…でも、そこには何もなくて、ただ、ただ、穏やかに揺らぐ、草原だった…
「陽菜さん!!!!!!
僕は、叫んだ自分の声で、目覚める。真っ先に目に入ってきたのは、最近寝起きしていた須賀さんの事務所の壁ではなく、ましてやみんなで泊まったホテルの壁ではなかった。一面が灰色の、曇り空のような壁だった。憂鬱とした気分を醸し出すそれは、全くもって、知らない壁に違いなかった。自分の目から流れる涙を無視して、呆然と左を向くと、ドラマでよく見た、鉄格子が部屋のドアの代わりにはまっており、そして、脇には申し訳程度のカーテンと、むき出しの便器が置いてあった。いわゆる、留置所という場所だろうか?始め、僕は何故こんなところにいるのか、さっぱりわからなかった。ふわふわと、風邪を引いているような頭を右に向けると、窓があった。僕は、食い入るように見つめた。別に、はまっている鉄格子を見つめた訳じゃない。天から振り落ちる、水滴を、雨を、見ていた。そこからエンジンが全開になるように、僕の頭もフル回転し始めた。
「そうだ、そうだ!!僕は、あの後、はっ!!!!
僕は夢の最期の場面を思い出していた。魚が、草原の土へと還る場面。違う、違う違う違う!!あれは草原じゃない!積乱雲、雲だ!てことは、この雨は、あの魚……まさか、そんなことって…
「陽菜さん!!だめだ!捕まえて、すくい上げて!!そうしないと、君が、陽菜さんが、流れて、消えてしまう!!!!!
僕は、窓に飛びついた。ぶつかった衝撃で、鉄格子が音叉のように振動し、音を出す。
ガァァーーンンンンーー。その音が、妙に東京へと向かう、フェリーの音を、思い出させた。でも、それはあの時の、島から、鳥籠から抜け出せる喜びのそれではなく、まるで、俺と陽菜さんの別れを告げる、切なくて、悲しい音色だった…掬い上げようと伸ばす手は、鉄格子に阻まれて、窓に触れることさえ、出来なかった。
「そんな……こんな…こんなことって……俺は……俺は………陽菜さん……
僕は、その場に、ただ、泣き崩れることしか、出来なかった……僕は、世界の理不尽に、不運に、運命に、折れてしまった……
何分、何時間経ったのか、わからない。気が付けば、外がだんだん明るくなり始めていた。雨が、やみ始めている。晴れ間が、人々に爽快感と、希望と、やる気を与える明るさが、空を覆い始める。雨雲は、まるで除け者のように、晴れ間に追い出されて行く。人々はそれを好意的に受け止めるに違いない。何も、何も知らないままに…ポツポツと、降り注ぐ雨も、その数を減らしてゆく。僕にはそれが、どうしても、陽菜さんの消失を思い浮かべてしまった。あの、魚となり、降り注いだ雨を、陽菜さんを、僕はただ、眺めているだけで、何も出来なかった…申し訳なさと、無力感と、悲しみと、別れと、ただただ、僕は、打ち拉がれていた…
気がつくと、いつのまにか夜になっていた。起きた時と同じく、僕は簡易ベッドに腰掛けたままだった。消灯の時間が来たようで、部屋は暗かった。格子のドアからは、廊下の光が漏れてはいたけれど、気にする程でもなかった。ふと、昼間に何があったかを思い出す。何か、色々と聞かれていた気がする。なにもかにもが、どうでもよくて、ただ、過ぎればいいと思ってた。時間とか、そういうものではなくて、感情というか、悲しみというか、ともかく、僕は、今になって漸く現実を、今を理解し始めたということだ。断片的に覚えているのは、僕の反応ぶりにキレるリーゼントと、それを抑える年配の刑事さん、あと、なんだかよくわからなかった、お医者さんのような人。聴診器とか、持ってなかったし。なんだったんだろう。まぁ、どうでもいいか。ドスっ、という音を奏でながら僕はベッドに横たわる。見るものもなにもないから、仕方なしに窓を眺める。だってそうだ。もう、あそこに、陽菜さんはいないから……陽菜さん、陽菜さん……陽菜さん……
こみ上げる悲しみと、後悔と、懺悔とを、頰に流しながら、ただただ、僕は彼女のいない空を見つめていた。明るい月の光だけが、僕を許してくれるかのように、照らしていた。視界の端で、何かが光っていた。なんとなく気になって、体を少し起こす。それは、窓枠に残っていた、直径2センチほどの、水たまりだった。いや、そこまで小さいなら、水たまりとすら言えないかもしれないけれど…昼間の雨が、たまたま蒸発せずに、残っていたんだろう。ぼんやりとそれを眺めていた。
「これも…陽菜さんの一部で、陽菜さんなんだ…なのに、僕は……触れることさえ…僕は……僕は……
伸ばしても届かない。そうわかっていても、伸ばさずにはいられなかった。すぐさま僕の手を鉄格子が、理不尽が、現実が、阻んだ。……僕は……どうすれば……何をすれば……いいのだろう……ぼんやりと、考えていた。
「……ん?
視界の端で、何かが動いた、いや、跳ねた?
よく見ると、それはさっきの水溜りだった。
水溜りから、あの、夢で見た魚が飛び跳ねている。まるで、小さい頃にみた、イルカショーのようだ。ぴょんぴょんぴょんぴょん、跳ねている。
「ふふ、なんだか、陽菜さんらしいな
と、なんとなくそう呟いた。僕を励ましているような、しっかりしなさい!と、怒っているような。そんな気がした。現に僕は、だんだん、心が温かくなるような、なんというか、明日に希望が持てるというか、不思議な気持ちだった。いつまで続くかなと、思っていると、突然だった。それには何の規則的な法則とか、ルールとかではなく、そう、本当に、ただ唐突だったとしか、いいようがなかった。ぴょんぴょん跳ねていた魚達が、急に息を潜めるかのように跳ねなくなったと思ったら、一斉に水たまりから飛び出して、ぐんぐんと空へと駆け上がっていった。あれよあれよと水たまりは小さくなり、やがてなくなった。
「え、ええ!ちょ、ちゃっと!!
僕は焦って窓に駆け寄り、顔を引っ付けるようにして、天を見上げた。魚達は群れで行動しているかのように、列をなして、真っ直ぐに天に、空に、雲に向かっていた。そして、すぐに見えなくなった。突然の別れに呆然とする僕だったが、同時に、心の中に、なにかこう、もやもやとした、日頃の父への怒りが湧き出るような、ともかく、僕をめちゃくちゃに動かしてくれる衝動、情動を、感じだ。ドクンドクンと、心臓が鼓動を始める。どうして、どうして僕は、ここまで熱くなっているんだろう。感覚的に、いや、心が先に理解をしてしまって、僕の頭を置いてけぼりにしていた。でも、考える、すぐにわかるはずだから、考える。…………………………そして、気付いた!!!
「はっ!!陽菜さん!!そうか、そういうことなんだ!!陽菜さん!!!
僕は思わず、叫んでしまった!そうか、そうなんだ!!とても簡単なことだった!!単純明解で、理不尽だとか、大人の偏見だとか、思い込みだとか、全部全部、関係ない!!陽菜さんは、陽菜さんはまだ、空にいるんだ!!あの雲で、僕を待ってくれているんだ!!そうじゃなきゃ、あの魚は、空に帰らなかったと思う。だったら、 僕がすることは、一つしかない!!遠くから、夜間見回りの警官の足音が聞こえてくるけど、関係ない!!そうだ!そうだよ!僕たちには、関係ないんだ!!陽菜さんは、待ってくれているんだ!なら、僕は、僕は!!
「陽菜さん!!待ってて、絶対、絶対に、僕が、俺が、救いに、迎えに、会いに行くから!!!!!!!!!
僕はいつのまにか、大粒の涙を零していた。でも、これは悲しみとかじゃない。揺らぐ視界に月の光が混ざって、それはまるで、初めて陽菜さんが、僕に晴れを届けてくれた時のようで、美しく、晴れ晴れしかった……
そして、数日が過ぎた。
ブォォォーーーーーンンンンン
出航を告げる汽笛が、僕の体を撼わす。徐々に、僕は東京から、陽菜さんから、離れて行く。あの後、僕はさんざと泣いた後、現実を、前を向けるようになった。刑事さん達の質問にハキハキと答える僕をみて、リーゼントの刑事さんは困惑した表情を浮かべ、年配の刑事さんは優しく笑ってくれていたのが、印象的だった。当然ながら、僕にはさまざまな罪が課せられた。銃刀法違反だとか道路交通法違反だとか、果ては殺傷未遂まで。だけど、僕は今、島へと戻るフェリーの中にいる。まぁ、僕の両隣には私服の警官が二人いるから、自由とは言い難いけれど、かなり酌量された処置だった。なんでも、僕の家庭の状況とか、刑事たちが僕を過剰に刺激したとか、その他諸々が重なったらしい。ともかく、僕は高校卒業までの保護観察処分という処置に落ち着いた。恐らくだけど、須賀さんや夏美さん、あの年配の刑事さん達が、色々と便宜を図ってくれたのだろう。…みんなに、僕はさよならさえ言えなかったけれど、仕方がない。行動には、結果が伴う、それを痛いほど実感することとなった…
陽菜さん……
僕は、窓から外を見る。東京はどんどん遠く、小さくなってゆく。もうすぐ、見えなくなるのだろう。過ごした日々、思い出、辛いこと、嬉しいこと、全てが、あそこに詰まっていた。少し、泣きそうになった。でも、僕は歯を食いしばって、泣かなかった。だって、陽菜さんは泣いていないから。あの日以来、泣いていないんだ。その証拠に、東京はもう十日ほど雨が降っていない。僕を、待ってくれているんだ。もう、落とさないように、自分を、捕まえているんだと思う。
待っていて、陽菜さん。僕が、俺が必ず、君を、迎えに行くから!!!
心の中で、強く、強く、思う。これは、願いなんかじゃない。僕の、決意だ!!届いて欲しい、思いなんだ!!だから、陽菜さん、待ってて!!
そして僕は、やってくるチャンスを待った。約2年半、長いけれど、待つしかない。こっそり抜け出すとかは、考えなかった。みんなの期待とか、優しさを裏切ってまで助けても、多分、陽菜さんは喜んではくれないと思う。だから、だから僕は、待ったんだ。でも、チャンスは、僕の予想よりも早く、僕に飛び込んで来た……