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▼ Fly_High_!
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――感じていた浮遊感は消え、次には地に足を付けていた。
暗闇の中に浮かぶ、透明な円形状の足場だった。大きさは俺一人分しかなくて、厚みもそこまでない。例えるなら、俺のためだけに用意されている、ガラスの足場みたいな、そんな。
周囲に広がるのは、漆黒。よく見るとそれは闇ではなく、虚無のようだった。伸ばした手の先が、闇に蝕まれることもない。ただ、そこには俺だけが存在しているような、そんな曖昧な感触を覚えていた。
伸ばした左腕には、白いプロセッサユニットと、緑色の光があって。そうやってもう一方に目をやって、初めて右腕がずたぼろに引き千切られていることに気が付いた。
……ああ、ようやく思い出したぞ。
確か、ピーシェにかかっていた洗脳を解いて、地面に落ちて行って。
その間中、ずっと右腕に爪が突き刺さったままだったんだ。そりゃまあ、こうなるか。
もう使い物にならなさそうだなあ。ま、左腕がやられてないだけマシか。
俺、右利きだけど……そこはまあ、練習するしかないよな。
……いや、それよりも。
「ここ、どこ?」
口走った瞬間、目の前にぼう、と人影が浮かび上がる。
「ごきげんよう」
果たして現れたのは、ぺこりとお辞儀をする小ベールだった。
そうして顔をあげると、あら、なんていうように、口元を手で覆う。
「もう片っぽも、なくしてしまわれたのですね」
……ああ、右腕のこと?
仕方ないよ。それに、ピーシェが戻ってきてくれたから、その代わりと思えば。
「とにかく、みなさまがあなたのことをお待ちしておりますの」
彼女が告げると同時、俺を取り囲むように、今度は三つの人影が姿を表した。
「お久しぶりですわ」
恭しく頭を下げるのは、女神化した中ベール。
「退屈だったのよ? ほら、あなたの中って狭いから」
ため息と共に言ってきたのは、偽物のホワイトハート。
「私はそれほど待ってないけど。というより、まだあなたに負けたって認めてないからね!? 私が負けたのは、あのうさん臭いクソ女神だから! そこんところ、勘違いしないでよね!」
なんて、無駄に多い口を叩いてきたのが、偽物のうちの一つのブラックハートで。
……ええと。
「どういうこと?」
「ですから、ずっとお待ちしておりましたの。あなたに敗れた時から、この今まで」
やっぱり言葉の意味が分からなくて、首を傾げてしまう。
「ここは……そうね、あなたの夢の中、とでも思ってもらえればいいわ」
俺の考えを汲み取ってくれたのか、ホワイトハートがそう言った。
夢、か。なるほど。
だったら、さっきから感じてる違和感も、どこか現実味のない感覚にも辻褄が合う。
「私達はずっと、あなたの事をここから見てましたの」
「退屈はしなかったわ。存外、面白かったからね」
ちょっと待て。
「プライバシーは」
「にしても、またボロボロになってるじゃない。よくそんなやり方で、ここまでやってきたものね」
俺の意見を無視して、ホワイトハート。
いやまあ、俺って何かをどうこうする力があんまりないから。
どうしてもこういうやり方になっちゃうっていうか。
「危なっかしくて見てられないわよ」
ブラックハートが溢した瞬間、千切れた右腕の断面から黒い光が走り始めた。
眩く、けれど昏い光。やがてそれは静かに収束し、思わず閉じていた瞼をゆっくりと開く。
そこには。
「ほら、これで何とかしなさい」
面倒くさそうに言う彼女のものと同じ、黒い輝きを携えた右腕があった。
「これでいい?」
「ええ。上出来ですわ」
「もう替えはないから気を付けてよ?」
なんだかいろいろ言われてる気がするけど、その意図を理解することは終ぞできなくて。
「さて、では本題に戻りますわ」
俺一人を置いてけぼりにしたまま、小ベールが続けていく。
「よくぞ、ここまで戦い抜きました。あなたの夢を守る意思は、確かなものです」
どうやら褒めてくれているらしい。そんなことをした自覚はないんだけどなあ。
「だから、私たちからあなたに、ご褒美をあげますわ」
ごほうび。
………………。
「俺、そういう趣味はないんだけど……」
「なに卑猥なこと考えてんのよ!」
男のままだったら喜んで受けたんだろうけど。なにぶんネプテューヌの体だからなあ、これ。
本人が別に居るとはいえ、できるだけ大事にしたいし。そういうのはよくないと思う。
いや……でも……食わず嫌いはよくないしな。据え膳喰わぬはなんとやら。
第一、そういうことをするにあたって、ネプテューヌに許可を取るのも馬鹿らしいし。
あっ、その……じゃあまず、一人ずつ順番に脱いでもらって……。
「自分で提案して言うのも何ですが、取り下げたくなってきましたわ」
「なんで私達、こんな奴に負けたのかしら」
そりゃまあ、なんていうか……然るべき結末っていうか。
きっと、俺達が偽物でしかないからだと思う。
「……とにかく。私たちは、あなたに力を貸す事に決めましたの」
若干の沈黙を置いてから、中ベールがそうやって話を切り出した。
でも力を貸すって、一体どういう?
「察しの良いあなたなら、分かると思ったのですが」
そして中ベールが、まっすぐと俺の瞳を見つめてから。
「あなたにとっての夢は、何ですか?」
――夢。
俺にとっての、夢?
「私たちは、女神の夢を叶える存在。それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
「だから私達にできることは、誰かの夢を叶えることだけ。それが、どんな夢であっても」
あ、そう。
つまりあれか、今までブランたちにやって来たことを、俺にやってやろうってことか。
でも、それって意味あるの? 別に中ベールたちが解放されるとか、そういうわけでもないはずなのに。
「さあね。そんなこと、私達が知る訳ないじゃない」
「もしかすると、無駄なのかもしれませんわ。徒労に終わるだけかも」
じゃあ、どうして。
「では、皆の夢を守るために戦うあなたの夢は、誰かが叶えてくださるのですか?」
……それは。
「けじめみたいなものですわ。私達、今になって自由になろうとは思ってませんの。だったら私達は私達らしく、役割を果たそうと思いまして。だってほら。敗者にできることは、勝者を称えることだけですもの」
「私は負けたなんて思ってないけどね。でも、こいつらがやるって言うから仕方なく……」
「あら、『こういう役回りも悪くないわね!』なんてワクワクしてたのは、どこの誰だったかしら?」
うるさいわね、なんてブラックハートが叫んでから、皆がごたごた騒ぎ始めた。
それを傍目に眺めながら、ふと思考する。
夢、かあ。改めて問いかけられると、パッと思いつかないな。他の人に聴くことはいっぱいあったけど……ああ、そうか。皆が少しだけ答えづらそうにしてたのって、こういうことなんだ。
……でも、やっぱり、俺にとって一番大切なことは。
「プラネテューヌの皆が、平和に暮らせること」
「それは、ネプテューヌという女神の夢ではありませんこと?」
答えると、すぐに中ベールが言葉を被せてきた。
……確かに、そうだ。これは俺の夢じゃない。ネプテューヌという女神が抱いている、夢。
俺もそれを願っているのは事実だけど、俺にとっての夢かっていうと、そうじゃない。
「じゃあ、もう一度聴いてあげる。あなたにとって、夢って何?」
ブラックハートの言葉に、靄が晴れた。
俺の、夢。ネプテューヌとしてではなく、偽物である
そう考えると、自然と手のひらへ目が行った。
……俺は、一人じゃ何もできない。ここ最近、そうひしひしと感じている。
ネプテューヌや皆みたいに、誰かを守ることもできない。
こいつらみたいに、誰かの夢を叶えるといった、明確な
出来損ない、っていうのはあながち間違いじゃないんだと思う。
ネプテューヌはこんな小さな手でも、誰かを助けることができるのに。
この偽物の手では、誰も助けられない。何も、救うことなんてできない。
……でも、さ。
本当にそれでいいのかな。
俺のこの手が届かないから諦めるなんて。助けられない事実から、目を背けるなんて。
そんなこと俺にはできない。ネプテューヌの姿を借りている身で、できるはずがない。
無謀ってことは分かってる。身の程に合わない願いだってことも。
でも、それでまた大事な人を失うなんて、そんなことはもう二度としたくない。
だから。
「俺の、夢は」
プラネテューヌのみんなだけじゃない。
ゲイムギョウ界に生きる、全ての人を救うため。
助けを求める人に、この手を届かせるため。
誰かの夢を、夢で美しく終わらせるため。
大切な人を二度と失わないため。
この手で、守り抜くため。
俺、は――
「空を、飛びたい」
虚構は晴れ、世界に色彩が戻り始める。
夢から醒める刻が来た。
■
はじめに見えたのは、透き通るような空の色だった。
「……あれ?」
感じるのは内臓が浮かび上がるような感覚。強い風が、俺と、ピーシェの頬を撫でていた。空色の瞳と目を合わせる。それは一度だけ地面へと向けられた後、またこちらへ。
「ねぷてぬ?」
「なに」
「……落ちてるんだけど?」
…………。
「うわあああああああああ!?」
「ちょっとおおおお!!!」
何が力を貸すだバーカ! 現状、どうにもなってねえじゃねえかこれ!
アレか?「力が欲しいか?」「欲しい!」「アンケートにご協力頂きありがとうございました」みたなノリなのか!? そこそこ古いから知ってる奴少ないだろ絶対!
なんで心の中で叫んでも、それを聴く奴なんて誰もいるはずなくて。
「ねぷてぬ、やばいやばいやばい! そろそろ潰れちゃうって!」
迫ってくる地面に、ピーシェが叫んだ。
……落ち着け。さっきのは走馬灯なんかじゃない。幻想でもない。
あれは確かに、俺が見た夢なんだ。俺の中に居るあいつらが見せてくれた、夢。
その証拠に右腕には、ブラックハートがくれた黒い腕がある。
それなら。
「……ねぷてぬっ!」
小さな、震える声のピーシェを抱きしめる。
守らないと。二度と離れ離れにならないって、一緒に帰ろうって誓ったんだ。
だったら、どうすればいい? どうすれば、大切な人を守ることができる?
……ネプテューヌは。
彼女はどうして、この世界を、大切な人たちを守れるんだろう。
どうやって、こんな小さな手でみんなを救ってるんだろう。
どうすれば――彼女みたいに、この空を自由に飛べるんだろう。
そう考えれば、すぐに答えは見つかった。
ああ、なんだ。
そんなに簡単なことだったんだ。
だとすれば、俺が口にする言葉は、ただ一つ。
「――変身っ!」
体の中に、二つの力の本流を感じる。片方はシェアエネルギー。もう片方は……アナザーエネルギー、なのかな。その白い力と黒い力はぐるぐると混ざり合って、俺の中心に集束したあと、一気に解き放たれた。
全身が作り替えられていく感覚。小さな少女の体から、女神の体へ。全身に纏うのは、光すら呑み込む暗闇みたいなプロセッサユニット。……ちょっと悪役っぽい気がするけど、言ってられないか。
そして、背中には――六枚の、
鋼鉄によって形作られた、天使のような、それでいて荒々しい羽。鈍い光を携えたそれは、それぞれが意思を持ったかのように動いている。その中央には、光。上から紫と菖蒲、黒と金、白と緑の結晶が、それぞれの翼の中央で輝いていた。
三対の翼が風を切る、ふわり、と浮かび上がるような感覚。そうして彼女の体を抱えてから、ゆっくりとラステイションの教会の屋上へと降り立った。
……意外と、素直に言うこと聴いてくれたな。あいつらが送ってきた物だから、もっとこう、乱暴というか、手心があると思ってたけど。
「ねぷてぬ? それって……」
呟いたピーシェの瞳を、まっすぐと見据えながら。
「君を守りたかったから」
それはきっと、どこまでも遠くへ飛べる、世界を、皆を救う翼。
助けを求める人に、この小さな手を届かせるため。
誰かの夢を、夢のままで美しく終わらせるため。
そして、大切な人を二度と失わせないために。
「飛べるようになったんだ、俺」
ピーシェを守るためなら。君が、隣にいてくれるのなら。
どこまでだって高く、飛んでみせる。
「怪我、ない? 大丈夫?」
「……だ、大丈夫。ありがと」
すると、ピーシェは少しだけ俯きがちになって、小さく言葉を漏らす。
…………。
「もしかして、照れてんの?」
「なっ!? いや……だったらどうしたのさ! 照れて悪い!?」
「ううん。可愛いな、って思った」
「はぁ?!」
うわっ。
「あ、あんま暴れんなよ! 落っことしちゃうから!」
「なら急に変なこと言わないでよ! ねぷてぬのくせに生意気!」
「悪かったって! 普段も可愛いって思ってるから!」
「はぁ~~~!?!?」
なんッ……ちょ、蹴るな! 蹴るなって! 痛い痛い痛い!
「本当に何なの……女神のねぷてぬもプルルートも、変身したら性格変わるし」
「……もしかして、今の俺もそんな感じ?」
自覚はない。ただ、変身する前よりかはだいぶ気分というか、調子が良い気がする。
浮かれてる、って言えばいいのかな。今なら何でもできそうな、そんな全能感。
「でもさ、女神化しても考えてることは変わんないって聞いたけど」
「ねぷてぬ、いつもそんなこと考えてたの……?」
え。
「俺、ほんとになにかマズいこと言ったの?」
「……ねぷてぬがいいって思うなら、それでいいと思う」
「何その言い方……ちょっ、こっち向け! 俺の眼を見て言えよ! おい!」
「きっと他の女の子にもそういうこと言ってるんだ」
「だから何を!?」
駄目だ、本当に何を言ったかの自覚がない。考えてることがそのまま口に出てる感じ。下手すると愚痴とか失言とか平気で口にしちゃうな、これ。どうにか制御する方法ってないのか。
「とにかく、早くここから降りようよ」
「……うん」
再び背中の羽を広げて、空へ。
ずどん、と腹の底に響くような爆音が響き渡ったのは、その直後だった。
「今の……」
「ねぷてぬ、下っ!」
言葉が紡がれるよりも先に、俺達の周囲を黒い陰が取り囲む。
……いや、違う。これは。
「掴まれ!」
「うん!」
頷いたピーシェと視線を交わしてから、上空へと一気に舞い上がる。
俺達が居た場所に無数の剣閃が迸ったのは、その数瞬後だった。
「あれ……もしかして、全部?」
「そう」
ブラックハートの分身体。それも、さっき戦っていた数より遥かに多い。
……どうして? 乗っ取られていたノワールは隔離したから、そこまで力は残っていないはず。
そうして思考していると、ブラックハートの一人がこちらへ飛んでくるのに気がついた。
すぐに右手に剣を展開。ピーシェを抱えつつ、向かい来る彼女へ腕を振り上げて――。
「ちょっと! 私よ私! 本物だから!」
なんて言葉をかけられたのと、大ネプとワレチューを吊り下げているところを見て、すんでのところで剣を収めた。ああ、本物か。今回、小さかったり大きかったりがないから区別しづらいんだよね。
「しょうがないよ。私も何回か本物のノワールちゃん攻撃しそうになっちゃったし」
「しっかりしてよね。というよりあなた、その姿……」
……まあ、それは後でゆっくり話すとして。
「どうしてこいつを連れてきた?」
「ちょっ、やめるっちゅ! お前、オイラに当たりキツくないっちゅか!?」
いや、そりゃだって。
「敵だし……」
「でも、かわいそうだったから連れてきちゃった。それにあの偽物のノワールちゃんたち、このネズミさんも攻撃しそうだったの。だから、放っておけなくて」
「……どういうこと?」
剣の先で何回かつっつくと、ワレチューはすぐに口を開いた。
「そもそもオイラ、あのオバハンに言われて手伝ってるだけっちゅよ……だから見逃して」
「んなこと今聞いてねーんだよボケ」
「はいっちゅ!」
それで。
「あのブラックハートの狙いはイエローハート……っていうか、今お前が抱えてるそいつっちゅ」
「あたし?」
こてん、とピーシェが首を傾げる。そこでようやく、納得がいった。
「実験してたんだ、ピーシェで」
「そうっちゅ」
「でも、壊しちゃった」
「え」
「いや、何か触ったら壊れちゃって。何もしてないのに」
「何てことしてくれるんっちゅか! あれ一つ作るのがどんなに大変か知らないんっちゅか!?」
「知るわけねーだろ」
「……話が見えてこないんだけど?」
少し苛立ったような様子のノワールに向けて、説明。
「つまり、マジェコンヌはイエローハートを使って、人工的に女神を生み出す実験をしてたんだと思う」
「……なにそれ。私達にケンカ売ってる?」
青筋を立てながら言うノワールに、ワレチューはばつが悪そうに視線を逸らしていた。
「だって……全部、あいつがやれっていうっちゅから……」
「話は後で聞く」
だから、まずは。
「あいつらを何とかしないと」
「そうね」
眼下のブラックハートは、未だに増殖を続けているようで、それは蠢く影にも見えた。
「あああああああ!」
最早、言葉すらもなかった。獣のような慟哭を挙げながら、黒い陰がこちらへ迫ってくる。
狙いは、俺――否、腕の中のピーシェ。
「奴の狙いはピーシェだから、俺が引き付ける」
「え?」
「だから、ノワールは二人を下ろしてから、構えてて」
「ちょっと……ああもう! どうなっても知らないからね!」
大丈夫。きっと、ノワールなら。君なら、自分の夢を絶ち切れる。
ノワールにはその強さがある。その黒い心は、こんなもので砕けるはずがない。
「翔ぶよ、ピーシェ!」
「うん!」
暗闇から逃れるように。雲すらも突き抜けて、太陽の真下まで。
もっと高く、果てしなく。君と一緒に――空へ!
――そして。
「わあ……」
眼下に広がる光景に、ピーシェは目をきらきら輝かせながら、そんな声を漏らしていた。
太陽は未だ遠く、しかし地面も遥かな距離に。それはきっと、深海に似ていた。どちらに落ちてもおかしくないような、けれど心が透き通るような解放感を感じる、そんな光景。ピーシェを抱えたまま、その場でくるりと一回転すると、世界そのものがぐるりと回るような、そんな錯覚を覚えていた。
これこそが、女神の見てる光景なんだ。世界を守るために空を駆ける、守護者の視線。
「すごい……すごいよ、ねぷてぬ!」
「うん」
髪をさかさまに垂らしながら、ピーシェはそうやって俺に笑いかけた。
「……ごめんね、ピーシェ」
「ねぷてぬ?」
「今まで、君に何もできなかった。諦めるしかなかったんだ。俺は一人じゃ何もできないから。こんな小さな手じゃ、君を守ることなんてできなかった。ずっと、君を一人にしてた」
でも、今は違う。
俺のこの背中には、大切な人を守るための翼がある。
「もう一人になんかさせない。寂しい思いも、させたくない」
「うん。私も信じてるよ、ねぷてぬのこと」
その言葉をくれるだけで。そうやって、笑顔を浮かべてくれるだけで。
「……ありがとう!」
直後に聞こえたのは、頭の上から鳴り響く慟哭だった。
「ああああっ! 返せっ! 私たちの……みんなの、夢を!」
体の所々から分裂体を生み出しながら、ブラックハートがこちらへ手を伸ばしてくる。いや、もう手なのかも分からない。指はいくつも生えてるし、肘もめちゃくちゃについてる。偽物どころの話じゃない。
あれはもう女神の偽物でも、夢を叶えるための装置でもない。ただの怪物。夢の残骸。
確かなのは、絶ち切らなくてはならないもの、ということだけ。
「ピーシェ、行くよ」
「うん!」
ぎゅっ、と強く抱きしめられる。彼女の息遣いが、鼓動が、体に直に伝わってくる。
ピーシェが傍に居てくれることが、俺に確かな強さを、絶ち切るための勇気をくれた。
……いける。これなら、きっと!
「はあああっ!」
右腕にブラックハートの剣を展開、そのまま盾と接続、アナザーエネルギーの剣を展開。
思ったよりも刀身が大きくなって驚いたけど、むしろ好都合。このまま、一気に!
「いっけええええ!」
漆黒の刃が暗闇を切り裂いていく。隙間から覗くのは、青空。
そうして突き抜けた先、目を見開いた彼女の胸へもう一度、ブラックハートの剣を突き立てた。
落ちていく。頬を撫でる風は強く、女神化によって伸びた髪はびゅうびゅうとはためいている。流れ星になったようだった。黒い羽を広げ、暗黒の尾を引いていく。昏く落ちていく俺の、その先には。
「ノワール!」
俺と同じ剣を構えているブラックハートが、こちらへ舞い上がっている姿が見えた。
二人は安全な場所へ避難させたらしい。それなら。
「もっと……もっと、速く!」
俺の言葉に応えるように、六枚の翼が羽ばたき、漆黒が輝きを増していく。
「合わせて!」
うん!
「インフィニットスラッシュ!」
あ、技!? うわっ、やばい! 必殺技とかなんも考えてなかった!
あーっと、えーと――
「――アナザースラッシュ!」
剣閃。俺とノワールの影は重なって、二つの光がブラックハートを切り裂いた。
その瞬間、俺達の周囲を覆っていた陰が、ぼろぼろと崩れていく。それは、零れ落ちていく砂のようだった。どれだけ大事に掬っても、手のひらの隙間から垂れていくような、そんな儚さがどこかにあった。
それはきっと、夢の残骸。決して届くことのない、ノワールの望んだ理想。
「どうして……あなたたちは……」
消えゆく最中、ブラックハートがぽつりと言葉を漏らす。
「私はただ、あなたを救おうと……」
「救うだなんて、勝手なこと言ってるんじゃないわよ!」
ぴしゃりと、強くノワールが言い放った。
「ここは私の国! 私の全てなのよ! それなのに、あなたはこの国をめちゃくちゃにして……! 私を信じてくれる人を、裏切ろうとするなんて! そんなこと、私は望んでない! だって……だって……!」
そこでふと、ノワールは静まって。
「信じてくれる人がいるからこそ、私は女神でいられるのよ」
――呪いなのかもしれない。それはノワールを縛り付ける枷。一人の少女を殺す信仰心。
でも、その信頼があるからこそ、ノワールはノワールで、ラステイションの女神でいられるんだ。
「……そう。あなたは……強い、女神ね」
「当たり前よ。そうじゃないと、国民を守れないからね」
剣を構える。その切っ先は、消えゆくブラックハートの額へと構えられて。
「さよなら。私の夢」
言葉と同時、静かな剣閃がブラックハートを――彼女の夢を、絶った。
黒いアナザーエネルギーの粒子が、空へと舞い上がる。それは一度宙を漂ったあとに、俺の方へと集まってきた。また、あの感覚。俺ではない何かが、心の中へと入っていく。もう、怖くはなかった。
「これで、終わりね」
「うん」
「……あなた達には世話になったわ。この埋め合わせは、どこかで」
「別にいいよ」
ノワールが無事でいてくれれば。今も変わらず、この国の女神でいてくれれば。
「何よそれ」
「俺も、ノワールを信じてるってこと」
「……あっそ。移民はいつでも歓迎してるから」
言葉の強さとは裏腹に、ノワールは確かに笑ってくれた。
……さて。
「帰ろうか、ピーシェ」
「うん」
ピーシェが頷いた、その瞬間。
景色がぐいん、と上に引きずられていくのが、見えた。
「ちょっ」
「うわっ!?」
風を切る感覚。頬に当たる風は、今まで感じたどれよりも強い。
やばい、気が抜けてたかな。えっと、翼……翼……。
あれ。
「ピーシェ? 今の俺ってどう見える?」
「え? いつものねぷてぬだけど……」
なるほど。つまり、変身が解けたっていうことか。
………………。
「なんでええええええええ!?」
「たすけてえええええっ!」
あっ、声がちょっと遅れて聞こえてくる! めっちゃ早く落ちながら叫ぶとこうなるんか!
いやそんな気づきを得てる場合じゃないわ! ノワール! ノワール助けて!
「ちょっと……! 駄目、追い付かないわ! なんでいきなり変身解除してんのよ!」
いや知らんて! 知らんてーッ!
「ねぷてぬ、もっかい変身! 変身して!」
あっ、そっか! それでいいじゃん!
じゃ早速……
「変身!」
………………。
…………。
……。
「ダメでした」
「なんで!?」
「俺が聞きたいよおおおっ!」
え、何なのまじで!? 時間制限アリ!? なら最初にそう言えや!
……あれ? これ本当に詰んでない? ノワールも追い付けなさそうだし。
そんな。ここまできて、そんなことって。
「ピーシェ、掴まってて」
「ねぷてぬ!?」
「できるか分かんないけど」
両足を女神化、体勢を整え直して、ピーシェをしっかり抱きしめる。
「ねぷてぬ!? ダメだよ! そんなことしたら、ねぷてぬがしんじゃう!」
「でも、ピーシェを守れなかったら何も意味ないんだよ!」
叫ぶと、ピーシェは驚いたように、すんと黙り込んでしまった。
……ああ、そういえばピーシェの前で叫ぶのって初めてだったかな。
ごめんね、怖い思いさせて。別に怒ってるわけじゃないんだよ。
それだけは、最後に伝えて――
「ちょっと」
なんて声が聞こえたのは、俺が口を開くのと同時で。
「プルルート!」
「早すぎるわよ、諦めるの。私達のこと、忘れてたわけじゃないでしょうね」
なんて面倒くさそうに言うと、俺の手からピーシェを受け取ってくれた。
「プルルート……」
「ピーシェちゃん、無事だったのね。やっぱりねぷちゃんに任せて正解だったわ」
なんていう二人の会話は、すぐに聞こえなくなっていく。
………………。
「俺は!?!?!?!?!??」
「大丈夫ですわ、黒ネプちゃん。私がいますから」
なんて、急に表れたグリーンハートが俺のパーカーをつかみ取った。
「ぐえ」
「あら」
「ちょっ……もうちょい優しく」
「ごめんなさい。でも、無事でよかったですわね」
そりゃまあ、そうだけど。
なんて返すと、俺の意思を汲み取ってくれたのか、ベールは俺を二人の傍へと近づけてくれた。
「プルルート、ねぷてぬ……」
空色の瞳が潤む。零れ落ちそうになった涙を、ピーシェがぐっ、と堪えて。
「ただいま!」
陽だまりのような笑顔を浮かべる彼女に、俺とプルルートは。
『おかえり、ピーシェ!』
■