アイシア   作:ユーカリの木

1 / 43
善悪の波浪
序章:Intro


 八代弓鶴(やしろゆづる)が魔法使いに助けられたのは、四年前の高校二年生の冬だ。学校で行われた魔法適正検査で陽性になった彼は、魔法使いになるのが嫌でひとり学校を抜け出した。でなければ国際機関の職員に捕まって魔法使いになることを説得させられるからだ。

 

 弓鶴は冷たくなってきた風に身を震わせながら、埼玉県大宮市の街をとぼとぼ歩く。時刻はまだ正午前で駅前の人通りはまばらだった。いつもの癖で持ってきてしまった竹刀袋で肩を叩きながら当てもなく彷徨う。

 

 職員は既に撒いていた。家に帰ると母親に怒られるだろうから、適当にマンガ喫茶で時間を潰そうと思った。それとも、友人の見舞いに病院に行くのも良いか。

 

 父親を魔法使いによって殺された弓鶴にとって、魔法使いは悪で、悪は罰せられるべき存在だ。そんな者になどなるかと憤っていた。だが、同時に高揚も感じていた。

 

 約三十年前、世界は魔法が存在することを知った。《連合》と名乗っていた魔法集団が、当時の技術ではできない立体映像を全世界各国の空中に映し出したからだ。これによって、世界は魔法の存在を知り、瞬く間に世界を覆った。

 

 しかし、魔法を使えるのは神に愛された人間だけだった。なろうと思ってなれるものではなく、完全に才能がものをいう存在だった。だから、弓鶴にとっても魔法は憧れだった。

 

 きっかけがあればいいと弓鶴は思った。魔法使いは嫌いだ。だが、悪いのは魔法使いではなく罪を犯す魔法使いだ。

 

 そんなことを考えていたからかもしれない。

 

 人通りが完全に掃けた裏通りを歩いていると、突然目の前に黒いバンが突っ込んできた。絶妙なドライビングテクニックで横付けされる。弓鶴が驚いて身を固まらせると、バンのドアが開いて全身黒づくめの男たちが現れた。全員が目元と口元だけが開いた強盗たちが使うマスクを被っていた。

 

 弓鶴は咄嗟に持っていた竹刀を両手で握った。これでも剣道には自信があった。小さい頃からやっているのだ。

 

 すぐさま正眼に構え振りかぶる。コンマ一秒後に振り下ろされる軌跡は、確実に眼前の男を捉えていた。

 

 寸前、腹部に鈍い衝撃。回り込んでいた男に横腹を殴られたのだ。文字通り脇が甘かった。

 

 弓鶴は息が詰まってその場でうずくまる。男たちが弓鶴の口元をガムテープで塞ぎ、両手両足を紐で縛ってバンに放り込んだ。完全にプロの手口だった。

 

「捕獲完了。出せ」

 

 男の一人が運転手に声を投げると、すぐにバンは発進した。一瞬の出来事だった。剣道など何の役にも立たなかった。

 

 芋虫状態になった弓鶴は、なんとかしようと両手両足を使って暴れる。今度は腹部に鈍痛。胃液が鼻から零れた。後部座席の男に殴られたのだ。

 

「大人しくしていろ。死にたくなければな」

 

 首筋に冷えた感触。弓鶴の脳裏に嫌な理解が訪れる。ナイフを首筋に突き付けられているのだ。暴れれば頸動脈を切られ殺される。

 

 急に恐ろしくなって弓鶴の身体が固まった。

 

 悔しかった。あまりの情けなさに涙が滲んで頬を伝った。

 

 弓鶴は今朝学校で聞いたことを思い出す。魔法使い候補者は、犯罪組織に狙われることがあるため注意する必要があると、国際機関の職員が言っていた。CMでもよく流れていることだ。

 

 つまり、弓鶴はその犯罪組織とやらに捕まったのだ。毎日メディアニュースで、更に今朝も言われたのに、全然危機感がなかったのだ。

 

 そして、そんな阿呆に待っているのは、どこかの国で魔法使いとして奴隷と同じように酷使される未来だ。束の間の希望が一気に絶望に入れ替わる。やっぱり魔法使いなんて最悪だと心の底から呪った。

 

 ――そんなときだ。彼女が助けてくれたのは。

 

 不意に、路地裏を走っていた車が急ブレーキを掛けた。慣性に従って後部座席の中を転がる。運転席の後部に顔面をしたたかに打つ。脳が揺さぶられて頭がふらふらした。

 

「どうした⁉」

 

 後部座席の男が叫ぶ。運転手が即座に怒声で返した。 

 

「ASUだ‼」

 

 男たちの動きは素早かった。即座にバンのドアを開けて外に躍り出たのだ。中にいる弓鶴には何が起きているのか分からなかった。そして空気が破裂したような破壊音が耳朶を叩く。視界に紫電が撒き散らされているのが見えて、雷でも落ちたのかと思った。次々と人が倒れる音が聞こえた。

 

 突如、騒音が凪に支配された。

 

 足音。

 

 誰かバンにが近づいてくる。

 

「対象を無力化完了。候補者は命に別状なし」

 

 弓鶴の耳に声が届いた。耳を撫でるような柔らかい少女の声だ。

 

 視界に少女が映った。歳の頃は弓鶴と同じくらいか。目を惹いたのはショートボブに切られた銀糸の髪。陽光に輝く銀糸には、ブラウンのメッシュが入っていた。その下にある顔は精巧にできたフランス人形のようで、一輪の花のように可憐な表情だった。まるで有名な絵画から現実世界に抜け出したかのような、現実味のない美しい容姿だった。

 

 少女は派手な深紅のローブに身を包んでいる。よく見れば、学校で見た国際機関の職員のひとりだった。

 

 少女が優しく微笑む。見る者の心を穏やかにする、睡蓮の笑みだ。

 

「もう大丈夫だよ」

 

 少女が弓鶴に手を差し伸べる。

 

「ようこそ、魔法使いの世界へ」

 

 きっかけはこれだと思った。弓鶴の目の前にいま、正義の魔法使いがいた。自分がなるべきものはこれだと思った。

 

 声も出せず身動きできない中で、弓鶴は彼女と同じ職場で働くと心に誓った。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 その日、十一歳になる更科那美(さらしななみ)は地獄の淵にいた。

 

 埼玉県川口市にある児童養護施設の一室。施設長室の隣にある古風の畳部屋には、一組の布団が敷かれていた。夜だというのに明かりは灯されておらず、開けられた障子から窓越しに舞い落ちる月光のみが唯一の光源だった。

 

 毛布が剥ぎ取られた布団の上には、巨漢の中年男が胡坐をかいていた。中年男は興奮した目をギラギラと光らせて、宵闇の中を真っ直ぐに見つめている。

 

 そこから約畳一畳分ほど離れた位置に那美はいた。絹のような輝く長い髪に、濡れた瞳、血色の良い艶やかな唇は十一歳とは思えぬほどの妖艶さを醸し出していた。体つきは細いが女を感じさせる丸みを帯びており肉感的で、その手の趣味の持ち主には心をざわつかせる何かを持つ、そんな少女だった。

 

「来なさい」

 

 中年男が声を上ずらせて言った。その口元はひたひたと這うように笑っていた。那美は中年男――施設長が恐ろしく、己の身体を抱きしめて後ずさる。その様をじっくり眺めた施設長は、ゆっくりと立ち上がると躊躇のない足取りで那美に近づいてきた。那美はそれが大鬼が襲い掛かってくるように感じ、より一層怯えを強めた。

 

 那美は知っていた。施設長は、たびたび気に入った幼女をこの部屋に連れ込んでは、何かいやらしいことをしているのだ。被害者は脅されているのか誰ひとり口を割らず、何かに怯えるように身体を震わせるようになった。不信に思った那美は消灯時間の過ぎた施設内を徘徊し、この場所を突き止め、中で何が行われているのかを知った。

 

 大鬼に組み敷かれた友人は、口元を縛られて声を出せないようにされ、裸に剥かれて大鬼の身体を打ち付けられていた。

 

 地獄だと思った。

 

 その後、怖くなった那美はすぐにその場を去って自室に戻り、布団を被って朝まで怯えて過ごした。誰にも言えなかった。誰も信じてくれないと思った。施設長は人気者で、誰からも愛される人で、那美とて施設長のことが好きだったからだ。まさか中身が鬼であるなど思いもしなかった。

 

 そして今日、那美はその地獄に連れ込まれた。教育係の人に来週の勉強について呼ばれ、消灯直前に部屋を出た途端に意識を失い、気づけばここにいたのだ。それが偶然なのか計画的であったのかは那美には分からない。だが、そんな彼女にもひとつだけ理解できることはある。

 

 地獄はすぐそこにあった。

 

 施設長が下品な笑みを浮かべてやって来る。那美もじりじりと下がるも、その動きが止まる。背中はもう壁だった。那美がそれに気づいたときには、施設長に腕を掴まれていた。反射的に引いた手を無理やり引っ張られ、強引に抱きしめられる。かつて温かく父性を感じたふくよかなお腹が、今や気持ちの悪い肉塊に思えた。じっとりとした汗が絡みついてきて思わず叫んだ。

 

「やめ――っはっ……」

 

 那美の声が聞こえるや否や、施設長が腕に満身の力を込めた。必然的に、腕の内側にいる那美の身体が締め付けられる。背骨が折れるほどの力で圧迫された那美は息を詰まらせ叫びを止める。

 

「黙っていなさい。女の子はこうやってみな女になるんだ。那美もその日が訪れたということだ。怖いことはない。黙って受け入れなさい」

 

 施設長の優しい声。だが、その裏に秘めた欲望が隠されていることに那美は直感的に気づいた。

 

 施設長は、なにか自分を徹底的に破壊することをしようとしている。逃げろ。早く、早く!

 

 訴えかけてきた本能に従って暴れようとするも、大人の力には敵わなかった。

 

「暴れるんじゃない。暴れる子はこうだぞ」

 

 ひときわ激しく身体を締め付けられる。強烈な圧迫感と息ができない苦痛が全身に駆け巡った。動物のような鳴き声が漏れた。身体が潰れてしまうかと思って恐怖感で絶望しそうになった。そんな中でも、冷静な部分が掃除のときによく使う雑巾が絞られたときはこんな気分だろうかと思った。

 

 施設長がくつくつと喉の奥で笑みを転がす。地獄の窯の底に存在する鬼の笑みだ。

 

「声を出してはいけない。出したらもう一度同じことをするぞ。分かったら二回頷きなさい」

 

 あと一度だってあんな体験はしたくなくて、那美は必死で二度首肯した。満足そうに大きく頷いた施設長が、那美の背に這わせていた両手を柔い肩に置く。一瞬逃げられるかと思ったが、指が肩に食い込むのではないかと思うほどの力で掴まれて、痛くて身体が竦んで動けなかった。

 

 施設長が唾を啜る気色悪い音を鳴らす。

 

「さあ、大人になる時間だぞ。那美」

 

 あっという間に身体を持ち上げられると、那美はそのまま布団の上に組み敷かれた。怖くて声が出なかった。その様を眺めていた施設長は愉しそうに頷き、那美の寝間着に手を掛ける。下半身が急激が重くなる。施設長が那美を逃がさないように鬼の尻を乗せていた。

 

 本能が大音量で警鐘を鳴らす。逃げろ! 早く! 今すぐに逃げろ!

 

 なのに身体が動かなかった。ただ怖かった。圧倒的な恐怖が那美の身体を縛り付けていた。指先ひとつ満足に動かせなかった。

 

 施設長がボタンをひとつひとつ外していく。歳不相応に成長した胸部が外気にさらされる。施設長の興奮が高まる。那美はただ涙を目じりに溜めることしかできなかった。

 

 施設長が那美の頬を撫でる。気持ち悪い。施設長が那美のズボンに手を伸ばす。吐き気がする。施設長の荒い鼻息が近づいてくる。嫌だ。施設長の舌が那美の頬を這う。逃げたい。鼻で息を鳴らした施設長が上半身を上げて那美を舐め回すように見下ろす。誰か助けて。こんなのは嫌だ。怖い。誰か。誰か。誰か……!

 

 那美は縋るように視線を飛ばす。

 

 鎧があった。

 

 床の間に飾られたそれは、施設長が大切にしているという、日本の昔の鎧だった。手入れを欠かさずにしているからか汚れひとつなく、月光に照らされて美しく輝いていた。肉の欲望が支配するこの場には似つかわしくない、あまりにも鮮烈な姿だった。

 

 思わず那美は口の中で叫ぶ。

 

 ――助けて!

 

 そのとき、鎧の目が翡翠色に光ったように見えた。

 

 那美は錯覚だと思った。

 

 錯覚ではなかった。鎧は緩慢な動作で動き出すと、飾られていた日本刀を持って右で抜き放ち、一瞬にして施設長の傍まで跳んで刀を振り抜いた。

 

 斬閃。

 

 ごとり、と施設長の両腕が転がる。切断された腕から鮮血がほとばしった。生臭い血が那美の顔に振りかかる。

 

 鬼の絶叫。

 

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」

 

 腹の底を絞って出したような凄絶な叫び。その場に仰向けに倒れた施設長が、芋虫のようにのたうち回る。

 

 むっとするような血の泉の中で、那美は放心状態で鎧を見ていた。翡翠色の淡い光に包まれた鎧は、施設長をじっと見下ろしていた。そして、命令を待つ忠犬さながらに那美の様子を伺っているようにも見えた。

 

「……わたしを、助けてくれたの?」

 

 施設長の叫びに混じって消えそうな那美の声。だが、鎧は確かに聞き取った。鎧が那美の言葉に呼応するように頷いたのだ。

 

 急に心に力強さが宿った気がして、那美は腕に力を入れて上半身を起こす。施設長を見ると、喉を潰しながらもまだ畳の上で転がっていた。

 

 ふと、施設長がこんなにも叫んでいるのに誰も来ないことに思い至った。誰かが来たらまずいことになる。那美の脳裏にそんな言葉が過った。

 

 しかし、その不安を鎧が打ち砕いた。鎧が握った刀で四方を指した。その先を追っていくと、この部屋を覆うように翡翠色の光が煌めいているのが見えた。鱗粉のように淡い光をまき散らすそれは、血なまぐさい現場にあっても幻想的だった。これが外へ声を漏らさないようにしているのだと那美は感覚で理解した。

 

「わたしは、魔法使いになったの?」

 

 鎧が再び頷く。

 

 こんな場面なのに、その事実が那美の心を躍らせた。

 

 魔法が欲しかった。なにもかもを覆す魔法があれば、両親を交通事故で失った自分も幸せになれるかもしれない。そんな藁にも縋る思いが通じたと思った。

 

「たす……たすけ、て……」

 

 いつの間にか、叫ぶことを止めた施設長が那美の下へ這ってきていた。先刻まで虐げる側だった鬼は、いまこの瞬間助けを乞う弱者に堕ちた。

 

 気持ち悪い。吐き気がする。いっそ死ねばいいのに。わたしを、わたしの友達を壊そうとした奴は、死んで消えてしまえばいいのにと、那美は強く思った。

 

 そして、鎧が動いた。

 

 鎧が日本刀を横に薙いだ。空気すら切裂かんとする速度で持って放たれた斬撃は、施設長の首を容易に切断した。

 

 紅の雨が吹き荒れる。命の灯よ散れというように。血の飛沫が花弁となって降る。降る。ここは地獄とばかりに。

 

 紅い雨滴、血の匂い、ねっとりとした感触、すべてが那美には非現実的に感じられた。まるでこの瞬間が嘘のようで、物語の中にでもいるように現実感が曖昧で、とても刺激的で高揚感に支配される。

 

 施設長の首。血の海の中をごろりごろりと転がっていく。

 

 全身で血を浴びた那美は、鮮烈な姿となって月光に照らされていた。血化粧に彩られた十一の少女の黒い瞳が鈍く光る。

 

 気づけば那美は口元を吊り上げて笑っていた。

 

 それは、先ほどまで嫌悪していた施設長と同じ、狂気の笑みだった。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。