アイシア   作:ユーカリの木

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第二章:日向と日影が交わるとき 7

 秋葉原の上空はいまや魔法が飛び交う戦場となっていた。UDXビル屋上からは、堕天使による極光レーザーとケルベロスによる火炎弾がひっきりなしに撃ち出されている。それらをAWSの機動力ものを言わせて弓鶴たちは避ける。避ける。

 

 当然やられているばかりではない。反撃しなければ集中力が切れて死ぬのだ。アイシアが《土系分離》によって生み出した石英の礫を雨がごとく降らせる。そのすべてがエルヴィンによる鎖によって弾かれる。それらが地面に落ちる前にアイシアが魔法を消す。そうしなくば被害が甚大になるからだ。

 

 戦場が都市部である以上、アイシアはわざわざ威力の低い魔法を使わざるを得ない。

 

「なんとか接近して! これじゃあ有効打が放てない!」

 

 アイシアが腕の中で叫ぶ。理解はできるが、弓鶴にも限界はある。なにせまだ二年目になったばかりの新人なのだ。第八階梯魔導師を相手にしていまも生きていることが奇跡だ。

 

「無茶いうな! 俺は三次元立体機動が苦手なんだよ!」

 

「さっきカッコよく登場しといて今さら泣き言⁉」

 

「お前喧嘩売ってんのか⁉」

 

「そう思うなら格好いいところを私に見せて!」

 

 弓鶴は内心で舌打ちする。無茶ばかりを言ってくれる上司に物申したいが、そんな状況でもない。確かに近づかなければ彼も無力だ。

 

「頭下げて!」

 

 アイシアの警告。言われた通り頭を落とすと、頭上で狙撃弾が抜けた。一瞬でも気を緩めれば死だ。

 

 堕天使からの極光レーザーは、いまや同時に十条展開されている。ケルベロスによる火炎弾はその倍以上だ。それをかわしている弓鶴は、第六階梯かつ二年目のASU魔導師にしては優秀過ぎる成果を上げている。逃げ足だけで言えばだ。

 

「どうすりゃいい⁉」

 

「私の魔法を全部機動力に注ぐ! 呼吸を合わせて!」

 

 アイシアが精霊体系の《電磁結合》、因果魔法の《時流制御》を同時展開。二人が現実時間軸の系から外れ、独自の時間軸を形成する。

 

「八倍に設定するよ! 《時間観測》が途切れるけど、信じてるから!」

 

 一気に視界内の速度が遅くなる。これが《時流制御》を扱う魔導師の視界なのだ。相対的に八倍の速度となった弓鶴は上昇。アイシアの《電磁結合》による磁力がそれを後押しする。

 

 高度三千まで駆け上がった弓鶴がその場に留まる。一呼吸置きたかったのだ。

 

 抱かれたアイシアが弓鶴の顔を見つめる。まつ毛一本一本が鮮明に見える距離感。彼女の吐息が頬に触れる。アイスブルーの瞳には信頼の光があった。

 

「いい? これから一気に接近するよ。失敗したら死ぬけど、全部託すから」

 

 信頼が重すぎた。だが、やらねば死ぬのだ。ならばやるしかない。弓鶴も腹を括った。

 

「死にたくないからなんとかする」

 

 うん、とアイシアが睡蓮の笑み。

 

「行くよ!」

 

「了解!」

 

 弓鶴が空中を蹴る。AWSが大気の波を捕えて一瞬で超加速。二人は天から落ちる流星となる。攻撃範囲に入った二人目がけ、堕天使とケルベロス、狙撃主からの攻撃が一斉に放たれる。

 

 ひとつでも直撃すれば死。それでも、弓鶴はアイシアに呼吸を合わせることだけを考えた。彼女が頬をすり寄せる。直感に自分たちの運命を託した。

 

 墜落しながらの乱数機動。紙一重でかわす。恐怖は頭から締め出す。AWS、《電磁結合》、《時流制御》、直感、すべてを回避に注ぐ。目標を視界に捉える。

 

「ぜんぶ消して!」

 

 アイシアが発すると同時、弓鶴は同田貫の刀身を生み出し、切っ先に極大魔法を展開する。

 

 弓鶴にとっての切り札。あらゆるすべてを“物質”と知覚し強制分解する黒点。《断罪の輪》が産声を上げる。制御は上々。展開時間こそまだ短いが、それでもアーキ事件の頃よりも伸びた。この修練の結晶をいまこそ見せつけるとき。

 

 ビル屋上に突っ込む。衝突寸前、あと二十メートルというところでアイシアを手放す。《時流制御》が消える。だが、彼女が《電磁結合》で直接背中を叩いてくれた。

 

 まずは一刀。堕ちた天使を袈裟に斬りつける。この世に具現している現象ごと“物質”と知覚して分解。堕ちた天使を地獄へ叩き戻す。そのまま移動爆破魔法で鋭角飛行。

 

 二刀目。ケルベロスのひとつの首が弓鶴に反応。凶悪な口を開き、頭を噛み砕かんとする。一瞬の逡巡。だが、信じた。

 

 紫電が走りケルベロスが仰け反る。アイシアが《電磁結合》で生み出した電撃をケルベロスに流し込んだのだ。一直線にケルベロスに肉薄した弓鶴が同田貫を突き出す。黒点がケルベロスに触れ、幻想を現実から追い出す。断末の咆哮を響かせケルベロスが現実から退場する。

 

 無数の鎖が弓鶴を狙う。左足を床に叩き付け、腰を捻って右足を大きく踏み出す。

 

 三刀目。袈裟斬り。一本の鎖を黒点で斬り捨てる。すると、空間を覆いつくさんばかりに宙を泳いでいた鎖がいっぺんに消えた。鎖を生み出す“説話魔法”ごと分解したのだ。

 

 黒点が消える。展開時間の限界だ。

 

「ASU!」

 

 エルヴィンが烈火のごとき憤怒の表情で吠えた。書が燐光を生む。

 

「魔法使いは死ね!」

 

 狙撃手もライフルを弓鶴に向けた。

 

 弓鶴はどちらも相手にせず、爆破移動魔法で一気に飛び上がった。

 

 眼下で紫電の嵐が起きた。狙撃手の身体が大きく弓なりになる。アイシアが全身から凶悪な電流をまき散らしたのだ。荒れ狂う蛇となった電撃が大気を破壊し、コンクリートを砕く。電撃の蛇から逃れるため、エルヴィンが瞬時にビルから飛び降りる。

 

「弓鶴!」

 

 叫んだアイシアも、エルヴィンを追うべく躊躇なくビルから落ちる。弓鶴もそれを追って宙を舞う。

 

 エルヴィンがAWSを起動し反転。上空へと駆けあがる。アイシアもそれを受けて磁力で己を反発させ急制動。飛び上がった彼女の身体を弓鶴が受け止めそのままエルヴィンを追う。

 

 アイシアが《時流制御》を展開。見かけ上の周囲の速度が落ちる。彼女が腕を突き出し更に追加で魔法を発動。

 

 アイシアの手のひらを通じ、水のクオリアが現実世界に膨大な水を生み出し超高速で射出。音速を超え、かつ出口を絞られた水は、閃光となってエルヴィンへと迫る。

 

 精霊魔法の《水系分離》で作ったウォータージェットだった。陽光に煌めく水の糸には、威力を高めるために《土系分離》で生み出した研磨剤を混ぜている。その威力は鉄板すら切り裂く。当然、人体など簡単に切断する悪魔の糸だ。

 

 エルヴィンが旋回。水の糸もそれを追う。あと一手が欲しい。弓鶴の専門は近接戦だ。遠距離魔法はアイシアに任せるしかない。だが、真下は人口六万人を超す秋葉原だ。下手な魔法を使用すれば被害が出る。空中戦は分が悪かった。

 

 アイシアが奥歯を噛む。水の魔法を解いた彼女が叫ぶ。

 

「一分ちょうだい!」

 

「なんとかする!」

 

 集中するためかアイシアがまぶたを閉じる。弓鶴は空中を蹴って加速。視界に淡い光。説話の書が再び開いたのだ。

 

 堕天使が三度誕生する。いくら倒そうが、基盤となる魔導書がある限り、幻想は何度でも蘇る。

 

 弓鶴は舌打ち。虚空を蹴って急上昇。エルヴィンに頭上を取られているのだ。極光のレーザーを撃ち込まれたら秋葉原の街に直撃する。それだけは避けなければならない事態だ。

 

 エルヴィンを超え頭上を取る。視界には鎖が縦横無尽に走りだす。鎖まで生み出したのだ。高位魔導師の魔法発動の速さには頭が下がる。

 

 乱数機動を取りながら鎖を潜り抜ける。極光レーザーが同時に十条、放射状に発射される。

 

 弓鶴は意識を極限まで研ぎ澄ます。乱数機動を取りつつ上昇。すぐ傍を極光レーザーが通り抜ける。そこかしこに死が充満している。一分が果てしなく長い。《断罪の輪》は準備しているが、使用タイミングを誤れば隙ができて死ぬ。

 

 鎖が足首を掠める。痛覚が集中を邪魔しにかかる。なんとか無視。極光レーザーが取り囲むように展開される。さらに逃げ場を封じるように鎖がぐるぐると螺旋を描く。完璧な詰み手だ。頭上しか逃げ場がない。

 

 悪寒。一瞬だけ眼下を一瞥。赤黒い空間から首だけを出したケルベロスが、火炎弾を放っていた。二秒後に被弾する。直撃すれば焼死。それをどうにかしても極光レーザーが閉じられて死ぬ。避けても鎖に捕らえられ追撃を食らって死。

 

 死、死、死。

 

 左腕だけでアイシアを抱きかかえる。ここしかないと、右手に握った同田貫の柄から刀を生み出し切っ先に《断罪の輪》を発動。

 

 急旋回して下から迫る火炎弾へ横凪。炎が断末魔を上げる間もなく強制分解。十条の極光レーザーが周囲三六〇度から迫る。腰を捻り、大気の波を蹴ってその場で横回転。裂ぱくの横凪。弓鶴自身でも驚くほどの渾身のタイミングで放たれた剣閃が、十条の極光レーザーを纏めてこの世から放逐。今度は鎖が踊る。斬り返しによる斬り上げ。同田貫が鎖を斬り飛ばす。同時、《断罪の輪》が鎖すべてを抹殺する。

 

 これで敵の詰み手を一時的に凌いだ。だが、弓鶴の《断罪の輪》もこれが限界だった。刀身ごと錬金魔法が消える。高位魔法はそう何度も使えない。

 

 エルヴィンは再び同じ手を使うだろう。今度こそ逃げ場がない。もう一分。あとはアイシアに任せるしかない。

 

「ありがと、信じてた」

 

 アイシアの柔らかい声が弓鶴の耳朶を撫でる。

 

 突如、周囲の空間の温度が下がった。アイシアが両手をエルヴィンへと突き出す。

 

 エルヴィンが異常を察知。すぐさまAWSで逃亡を図るが、既に遅かった。彼の動きが不自然に止まる。

 

 精霊魔法によって《水系分離》と《土系分離》を同時発動し、エルヴィンを中心とした周囲二十メートルに濃霧が発生。大気の温度が、滝が落下するがごとくに落ちる。それは、水を操る《水系分離》と物質の固体化性質を宿す《土系分離》を組み合わせた絶技。

 

 精霊魔導師にとって、あらゆる諸存在は四大元素によって成り立っている。これを起点とすると、あらゆる要素はすべて四種に区分できるということである。《精霊遷移》は、指定した諸存在の要素を切り取り、性質を変化させたり切り出した要素を更に強めることを可能にする。

 

 アイシアは大気の気体という性質を固体化、つまり温度を摂氏マイナス二七三.一五度――絶対零度の領域にまで落としたのだ。

 

 猛烈な速さで大気が凝固していく。堕天使とケルベロスの首ごと、エルヴィンの身体が絶対零度の領域に捕らわれ生きたまま凍てつく。

 

 人間は、絶対零度の領域で生きることなどできない。しかもただの絶対零度ではない。大気に直接固体化の性質を付与しているのだ。熱で温度を上げることすら不可能。熱は分子運動だ。その運動すら動きを止められるのだ。

 

「あらゆる動きを完全に止める、この氷の監獄から逃れることができるなら逃れてみなさい!」

 

 アイシアが吠えた。完全に負け戦の状態から逆転したことに興奮しているのだろう。弓鶴とてそうだ。

 

 間違いなく勝った。

 

 突如、エルヴィンの身体から黒い光が溢れた。絶対零度の氷が跡形もなく砕け散る。

 

 強烈な怖気。

 

 死だ。いま目の前に死がある。《神曲》の地獄の門すら軽く凌駕する濃密な死が、いま現実に這い出そうとしている。眼前のなにかに対する恐怖が弓鶴を襲う。腕の中のアイシアも震えていた。

 

 どこからともなく頁が溢れ出す。魔法転移の前兆だ。黒い光を囲うように頁が舞う。

 

 そして、頁が淡い燐光を残して、黒い光ごと消え去った。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 銀の鈴を鳴らす。ただそれだけでASU魔導師たちが踊り狂う。

 

 ASUと説話魔導師の存亡をかけた戦いだというのに、ISIA日本事務局関東支部内では、滑稽なショーが繰り広げられていた。

 

 ニコラが三冊の書と説話魔導師を従え、ISIA日本事務局のエントランスを進んでいく。彼らの目的は、ASUの浮遊都市へ直接殴り込みに行くことだ。そのためには、ISIA支部にある転送室から直接転送するしかない。それ以外の方法ではまともにASU本部には行けないからだ。

 

 当然、ASUとてそんなことは理解している。水際で阻止しようとエレベータから、ニコラ達を捕縛するべく魔法使いたちがやってくる。

 

 魔法使いたちの姿を視界に捉えたニコラが銀の鈴を鳴らす。魔法使いたちが唖然とした表情で踊り出す。生半可な魔法使いではこの銀の鈴から逃れることはできない。ただひとつの幻想で超エリートの魔法使いたちが無力化されていく。

 

 ニコラを止めるには超高位魔導師が必要だった。そしてASUは必ず超高位魔導師を動員してくる。

 

 ふいに、物理法則が乱れるような錯覚をニコラは覚えた。全身が粟立つほどの威圧感。

 

 そして、ひとりの女性が現れた。ASUの深紅のローブに身を包んだ、赤毛のショートカットの女性。グレーの瞳には己の正義を宿したまばゆい輝き。法を支配する律法体系の超高位魔導師。

 

「ジャンヌ・トゥールーズだ。ニコラ・ロワイエ、貴殿をASUへの反逆行為で捕縛する」

 

「遂に重犯罪魔導師対策室のジャンヌ殿が現れたか」

 

 ニコラは感嘆を吐き出しながら銀の鈴を鳴らす。聞く者を踊りへと誘う幻想の響き。だが、ジャンヌはそれを一瞥しただけで砕いた。ジャンヌの肉体は、物理法則から外れた超常現象を無効化する法則を適用されているのだ。

 

「貴殿の《魔笛》は知っている。論文を読んだことがあってね。血を流さず敵を無力化する素晴らしい魔法だと思う」

 

 ニコラの背後にいた説話魔導師達が書を開く。燐光と共に幻想が現実に召喚。怪物や妖精、炎や電撃といった超常現象がジャンヌへ一斉に注がれる。彼女は眉ひとつ動かさなかった。彼女に触れる前に幻想が霧散する。

 

 律法体系の《法策定》は、現実の基盤となるあらゆる法則に新たな法則を追加する高位魔法だ。ジャンヌは、物理法則のみをこの空間に適用しているのだ。魔法で生み出された物理法則を超える存在はことごとく消滅する。物理法則を超越することが神髄とされる説話魔法を完全に封殺する魔法だった。

 

 つまり、この場において、書から奇跡を引き出す説話魔導師は無力だ。

 

「貴殿らの魔法は私には届かない。もう勝敗は決した。そろそろ白旗を上げてはくれないか?」

 

 ジャンヌが手を差し出して言う。彼女は魔法使いの中でも常識的な価値観を持つ希少人物だ。ASUで正義と言えば彼女を指す。ニコラもそれはよく知っている。それでも、その手を掴むわけにはいかなかった。

 

「たとえこの身を堕とそうと、私は誓ったのだ。いまさら退けぬよ」

 

「貴殿は戦を嫌う真っ当な魔法使いではないか。なのにまだ戦うのか?」

 

「同胞が立ち上がり、フェリクス殿が旗頭となった。私にとってはそれ以上に勝る意味はない」

 

 ニコラがすべての書を閉じ、新たに書を開く。

 

「ジャンヌ殿、退かれよ。我々の敵はあなたではない。ASUの《二十四法院》。あやつらを殺れば、すべては変わろう」

 

「《過激派》の長どもを狩るつもりなのか?」

 

「然り」

 

「貴殿らの目的は《二十四法院》の《過激派》を一掃し、魔法使いの力学を変えることか」

 

「少なくとも、私はそう聞いている」

 

 ジャンヌの瞳に怪訝。

 

「話し合いはできないか? 我々は貴殿らの最終目標が分からないんだ。いまならまだ話し合う余地はある」

 

 ニコラが笑む。この期に及んで話し合いを提案するジャンヌを馬鹿にしているのではない。殺し殺されが普通の魔法使いにおいて、一般社会において当たり前の提案ができる彼女の存在が嬉しいのだ。

 

「ジャンヌ殿に危害は加えたくはない」

 

「そう思うのならこの手を取ってくれ」

 

「あなたが《二十四法院》になれば、何かが変わったのかも知れぬな」

 

 ニコラが残念そうに首を振る。開いた書からは昏い光が滲み出ていた。生ある光を食らう濃密な闇だ。ジャンヌの表情に焦り。

 

 頁が舞い、ニコラを覆いつくす。

 

「ゆえにさらば。さらば。さらば。私はこの瞬間、悪魔に命を差し出す」

 

 ジャンヌが遂に気づく。

 

「まさか――それは《レメゲトン》か⁉」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 天王洲の倉庫は静かだった。ただ一人だけが悠然と立ち、その姿を呆然と眺める少女。そして、床に倒れる三人の魔法使いの姿があった。

 

 フェリクスがブリジット達を見下ろし、声を放り投げる。

 

「どうした? 俺を止め、円珠庵を助けるのではなかったのか?」

 

 ブリジットが顔を歪め、手をついて立ち上がる。

 

 三人がかりでフェリクスと対峙し、一瞬でやられたのだ。なにがどうなったのかすら理解できない早業だった。

 

「さすが最高位魔導師。三人がかりでも止められないか」

 

「なに、まだ本気は出してない。お前たちが生きているのがその証拠よ」

 

 だろうね、ともはや敬語を棄てたブリジットが曖昧に笑う。通常なら、初撃で三人とも死んでいるはずだった。それだけの力量がフェリクスにはあるのだ。いま呼吸し会話をしていることは奇跡だった。

 

「いまのはエアリアルかい?」

 

 ブリジットの問いにフェリクスは当然だとばかりに笑う。

 

「あれは俺が使役する中でも風に長けた奴でな。敵の無力化には重宝する。いまは前線に従わせているゆえ、あれが扱う風のみ拝借したがな」

 

 さて、とフェリクスが話題を変える。

 

「これで俺の半分の一端だ。まだやるか? 警護課と敵対するつもりはないのだがな」

 

 ブリジットが笑う。そんな馬鹿はいないとばかりに。

 

「もちろん、引かせてもらう。さすがに勝てない相手には挑まないさ」

 

「ほぅ。仕事を放棄するか?」

 

 いや、とブリジットの口元にシャーロットを彷彿とさせる悪魔の笑み。背後のラファエルとオットーも立ち上がる。

 

「あなたの相手がもう来るよ」

 

 ふいに、フェリクスを取り囲むように空間が歪んだ。時間の始点と終点を結ぶその円環は、捕らえた相手を永遠に繰り返す時間の檻に閉じ込める魔法の監獄。因果体系における《時間制御》、《因果収束》、《因果改竄》の三種の魔法を組み合わせた超高位魔法。

 

 フェリクスの鷹の目に懐かしさが蘇る。

 

「《次元回廊》……ラファランか」

 

「伯母上の情報から、フェリクス殿が転移していないのは分かっていたからね。当然呼んでいたよ」

 

 ふたりの魔法使いが魔法転移で現れる。ASUの深紅のローブ姿のラファラン・ラロと、銀糸が眩しいアリーシャ・ラロだ。

 

 ラファランが、フェリクスを細い目で眺める。

 

「終わりだフェリクス。振り上げた拳を下ろせ」

 

「俺の性格は知っていよう? この身朽ち果てるまで突き進むのみ」

 

「《次元回廊》からは逃れられない。いまだかつて誰一人として破った者もいない」

 

 フェリクスの口元には、弟子を湛える師の笑みがあった。

 

「お前の執念が生み出した魔法だな」

 

「そうだ。葬れない魔法使いは永遠を生きてもらう」

 

「お前の全力の一端、俺の魂に響いたぞ。できれば直接やり合いたかったものだが、そろそろ頃合いだ。ニコラもエルヴィンもどうやら逝ったようだ。なれば俺は行かねばならぬ」

 

 そのとき、フェリクスの姿がぶれた。身体が淡い燐光を放つ。中から現れたのは、三十代半ばの金髪の男性。そして、彼の胸の前に一冊の書が開かれていた。書からは漆黒の光が内側から《次元回廊》を侵食していた。

 

「カスパール・ルフェーヴル……だと?」

 

 ブリジットが驚愕の声を漏らす。先刻まで眼前にいたフェリクスは、カスパールが変身した姿だったのだ。

 

 原理はこうだ。フェリクスが《説話筆記》で自伝を作成。その魔導書を使い、カスパールが《幻想召喚》で“フェリクス”をその身に降ろしたのだ。超高位魔導師と高位魔導師が揃うことで可能な身代わりだった。

 

 カスパールの視線がラファランへ注がれる。

 

「ラファラン殿。フェリクス殿より言伝です。俺を止めたくばグリーンランドへ来いと」

 

 ブリジットは戦慄した。日本事務局関東支部への攻撃は囮。当のフェリクスはASU本部があるグリーンランドにいたのだ。エルヴィン、ニコラ、カスパールは捨て石となったのだ。

 

 ラファランが奥歯を噛み、わなわなと身体を震わせる。沈黙を守るアリーシャは瞠目していた。

 

「お前らは、何を呼び出したのか分かっているのか……?」

 

 カスパールが笑う。

 

「もちろん。説話の叡智です」

 

 《次元回廊》が砕けた。頁が溢れる。大量の頁が、カスパールと漆黒、そして円珠庵を包み込み宙へと消えた。

 

 

 

 


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