天才兎に捧ぐファレノプシス   作:駄文書きの道化

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Episode:01

 篠ノ之 束のラボは驚く事に移動式である。逃亡と研究を両立する為に束が開発したこのラボは一定の場所には留まらない。そんな束のラボの住人であるハルは腕を組んで頭を悩ませていた。

 ハルの手には端末が握られている。これは束に与えられたものだ。空間ディスプレイを展開する等、多機能に優れた束のお手製の高性能端末。現在、端末が表示しているのはラボに備蓄されている食糧のリスト。

 

 

「期限が近いものがコレとコレだから……うん、今日はパスタにしようかな」

 

 

 期限が近いものをリストアップして食事の献立を立てる。備蓄は充分なので仕入れるのはまだ先で良いだろう、とリストを閉じる。

 ハルが束に保護され、束の身の回りの世話をするようになってから食糧や日用品の管理はハルが行っていた。必要があればお金出すから、と軽い調子で束は言っていたが、束は一体どこから研究資金を捻出しているのだろうか、と疑問に思う。

 

 

(まぁ、いいや。束が笑ってるならそれで。僕が心配しても仕方ないし)

 

 

 ハルは扉で仕切られた部屋を見る。今も束は部屋に籠もって研究を続けているのだろう。息抜きに茶でも煎れようかな、とハルはお茶の用意を始める。

 束は放っておけば当たり前のように徹夜をする。最初に空腹と睡眠不足で倒れた束を見た時は心臓が止まりかけた、とハルは過去を思い返す。それから自分が見てあげなければ、と心掛けるようになったのは結果的に良い事だったと思う。

 研究に没頭するのも良いがもっと自分の身体を労って欲しいとハルは思う。束が自分でブレーキをかけられないなら、その役目を自分がすれば良い。それが束の為になるならそれで良いだろう、と。

 

 

「クッキーでも作ってあげようかな」

 

 

 お茶だけじゃ口寂しいだろうし、少し休憩させないと。材料を用意し、キッチンに立つ姿は余りにも様になっている。束の喜ぶ顔を想像してハルは笑みを浮かべ、小さく気合いを入れた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……うにゃ」

 

 

 束の口から気の抜けた声が漏れた。ぐったりと椅子に背を預けて身を投げ出す姿はどこからどう見ても疲れている。長い事、ディスプレイと向かい合っていた為だろうか。ぼやける目を軽く揉みほぐした後、目薬を取り出して目にさす。

 じわり、と広がっていく爽快感に目を何度か瞬きさせて、また力を抜いてぐったりと身体を投げ出す。うー、あー、と意味の無い言葉が束の口から無造作に零れる。

 そんな束の耳に届いたのは扉をノックする音。はぁい? と扉の向こうに束は声をかける。中に入ってきたのはハルだ。ハルの手にはトレイがあり、ティーカップとクッキーが乗せられているのが見えた。

 

 

「束。差し入れだよ。……休憩してたみたいだね。丁度良かったかな?」

「ハルー! 愛してるー!」

「はいはい」

 

 

 束はバネ仕掛けの人形のように起き上がり、両手を挙げて喜びを露わにする。そんな束にハルは笑みを浮かべる。

 研究室の適当な場所に陣取って二人で肩を並べて座る。まずおしぼりを渡して手を拭かせる。それからハルは束にティーカップを手渡した。ティーカップの中身は紅茶だ。

 紅茶を口に運び、束は一息を吐く。紅茶の味は疲れた身体をリラックスさせてくれる。続いて口に運んだクッキーは控えめだが、しっとりとした甘さは糖分を求めていた身体には堪らない。

 

 

「んん~! おいしい!」

「どうもありがとう」

「ほらほら! ハルも食べてよ!」

 

 

 クッキーを一つ摘んで束はハルへと差し出す。差し出されたクッキーにハルはきょとん、と目を瞬きさせたが、束の意図を察してクッキーを啄むようにして受け取る。

 

 

「おいしいでしょ?」

「僕が作ったんだけどね。……でも、束が食べさせてくれたら味見した時よりおいしかったよ」

 

 

 少し恥ずかしそうに頬を掻きながら、けれど笑みを浮かべてハルは束に言う。にっこりと笑うハルの姿に束もまた笑みを深めた。

 ハルもクッキーを一枚取って束に向けて差し出す。

 

 

「はい。おかえしだよ。束、あーん」

「え?」

「だから、あーん」

「……あーん」

 

 

 先ほど自分がハルにしてあげたように、束はクッキーを啄むように咥え、口の中に入れて笑みを浮かべる。

 こうしてクッキーが無くなるまで二人は交互にクッキーを食べさせ合う図が生まれる。クッキーが無くなれば、丁度紅茶も飲みきってしまった。

 束は満足げに唇を舐め取った。疲れた身体には充分な休息だった。そんな束にハルは微笑ましそうに見ていたが、不意に鼻をひくつかせて束に顔を寄せた。突然のハルの行動に束は首を傾げる。だが、すぐ何かに気付いたように気まずそうに目を逸らす。

 

 

「束、お風呂入った?」

「……て、てへ?」

 

 

 先ほどまで笑みを浮かべていたハルはどこへ行ったのか。何か言いたげな表情で束を睨むハル。束は目を左右に泳がせて視線から逃れようとするも、ハルが更に近づこうとした為、束は後ろに仰け反った。

 

 

「……束? 徹夜は良いけど、お風呂にはちゃんと入って、って言ったでしょ?」

「そ、そのね? ちょっと、その、手が止まらなかったかなー……? て、てへ?」

「……束?」

「う、わ、わかったからそんな目で束さんを見ないでよぅ! 入る、入るからぁ!」

 

 

 ハルは知っている。束は実生活はかなりのズボラだと言うことを。他人に興味がない束は他人に見せたり、他人の前に出るという意識が限りなく低い。なのでハルが来た当初はもっと酷かったのだ。

 研究に没頭していれば風呂にも入らない。食事は空腹寸前まで取らない。睡眠時間もばらばら。基本的に服は着回し。一緒に生活を始めたハルにとっては見たくもなかった、だらしない女性の私生活をまざまざと見せつけられたのだ。

 これはいけない、と束の生活習慣を改善しようとハルはこの点においては束に口うるさい。研究が束にとって何よりの楽しみであり、大事なものかを知っているから研究自体を邪魔する事はない。

 だが、その休憩の合間に食事や風呂に入る事を約束させたのだ。最初は束も研究に没頭して忘れる事も多かった。だが、ハルが根気よく注意した事によって改善されつつあった。

 例えばこんな事件もあった。束が風呂に入らなかった時の話だ。普段は注意で済ませるハルもこの時は怒ったのか、臭うよ、と束に告げたのだ。

 束はハルのストレートな一言にショックを受けた事がある。それから暫くハルが抱きしめさせてくれない、という束にとって罰ゲームがあったのだ。

 誰かに臭うと言われる事がこんなにもショックを受けるのだと、束が改めて気付いたのは果たして幸運だったのか、不幸だったのか。

 

 

「うー、面倒くさー」

 

 

 臭う、と言われるのは嫌だが、風呂に浸かるのも束は苦手だった。束にとって身を清める際にはシャワーで汗を流して、頭をすっきりさせる程度だった。

 風呂に長々と入っているのは好きじゃない。だからラボにも当初、シャワーしかつけていなかった。けれどハルが、女性がそんなんじゃいけない、と珍しく我が儘を言ったので風呂を新たに作ったという経緯がある。

 しかし束は風呂は苦手でも、風呂に入る事そのものは嫌じゃなかった。何故ならば脱衣所には自分だけでなく、ハルの姿もあるからだ。

 束は自分で髪を洗ったりするのが面倒なので適当に済ませていたのだが、それをハルに指摘されてからハルが一緒に入って髪を洗ってくれたのだ。それで味を占めたのか、束は風呂に入る際にはハルと一緒に入るようにしている。

 ハルとしては本当は断るべきなのだろう、とは思っている。だが束のお願いならば断り切れないのがハルなのだ。何度か抵抗を試みた事もあったが、それでもやはり断り切れず、今の習慣が出来てしまっている。

 

 

「かゆいところはありませんかー?」

「うー、無いよー」

 

 

 束は目をぎゅっ、と閉じて笑う。泡立てた手で束の髪を優しく洗っていくハル。昔は痛んだ髪も今ではしっとりと美しさを保っている。束も磨けば光る女性なのだ。埋もれさせるのは勿体ない、とハルは思っている。

 束が気を使わないなら自分が綺麗にしてやればいいや、とどこか投げやり気味にハルは思いながら束の髪を洗っていく。丁重に髪を洗い終えた後は蒸しタオルに束の髪を包んでおく。

 

 

「背中流すから後は自分で洗ってね」

「全部洗っても良いんだよ?」

「ヤダ」

 

 

 束の冗談にハルは軽口で返して背中を流す。背中を流すまではタオルで身体を覆ってもらっているのだが、背中を流す際にはタオルを外さなければならない。普段は髪で隠れて見えないうなじや背中が見えて気恥ずかしくなる。

 なんとか無心で束の背を流し終えれば、今度は自分の番だ。代わるように束がハルの背中に回る。

 

 

「私も背中流すー!」

「ん、お願い」

 

 

 互いに身体を洗い終えれば二人で湯船に浸かる。束が先に入り、ハルが束に抱きしめられる形で湯船に浸かる。二人でまったりと息を吐きながら時間を過ごしていく。

 これが二人のいつものお風呂風景。たまに泡風呂などで束が遊ぶ事もあるのだが、よほど煮詰まった時でなければ泡風呂に浸かる日は来ない。

 

 

「なんでアヒルなんだろうね、こういう玩具って」

「知らない」

 

 

 束が手を伸ばして湯船に浮かぶアヒルの玩具をつつく。ハルを抱きしめているのでハルの背中には束の豊かな果実が押しつけられているのだが、正直気が気でない。煩悩は退散せよ、とただ無心になろうと心掛ける。

 すぐに上がろうとする束に子供のように100を数えさせる。風呂を上がった後は濡れた束の髪を乾かして櫛で梳いてやるのがハルの習慣だ。束の髪に触れながらハルは満足げに言う。

 

 

「枝毛も随分無くなったね」

「そう? 前より櫛に引っかからなくなったのはわかるけど」

「ちゃんと自分でこれだけケアしてくれれば僕も何も言わないのに」

「ヤダ」

「ズボラ」

「ちーちゃんよりはマシだよ! ……あ」

 

 

 束は気まずげに口を閉ざした。ハルが眉を寄せたからだ。ちーちゃんと言うのは織斑 千冬の事。つまりハルにとってはオリジナルと言うべき存在なのだが、ハルは千冬の事を快くは思っていなかったりする。

 別に自分の境遇を怨んでいる訳ではない。ハルが千冬を快く思っていないのは束にとってズボラな判断基準を与えたのは千冬のズボラさが原因の一つになっているからだ。

 自分のオリジナル、という事もあるし、写真で見せて貰った限りでは美しい女性なのだ。なのにどうして自分の持っているものを大事にしないのかと、ハルにとっては文句が出る相手なのだ。だから言い訳に千冬を使われるのがハルには嫌だったりする。

 

 

「人を言い訳に使わない。良いね?」

「ぶー……はーい」

 

 

 よろしい、とハルは一言呟いて束の髪に櫛を通した。抵抗なく櫛を通す髪の感触にハルは笑みを浮かべた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「おいしい!」

 

 

 ハルが夕食に作ったのはペペロンチーノ。シンプル故に作り手の技量が試される料理なのだが、束にとっては好評なようでぺろりと平らげてしまう。

 

 

「日本食も良いけど、ハルの料理は何でもおいしいから好きだよ!」

「それは嬉しいけど、作り甲斐がないなぁ」

「んー、じゃあ今度あれ作ってよ! ローストビーフ!」

「束ってお肉好きだよね。まぁ、いいや。じゃあ今度はローストビーフを作っておくよ」

 

 

 束が笑みを浮かべて言ったオーダーにハルは了承する。後でレシピにもう一度、目を通しておこうと思いながら。

 束は自分の分のペペロンチーノを食べきってしまったのだが、まだハルの皿にはペペロンチーノが残っていた。まるでそれを子供のように見つめる束。じー、と口でわざわざ言うオマケまでついている。

 

 

「……しょうがないな。ほら、あーん」

「あーん!」

 

 

 見かねたハルが苦笑してフォークにペペロンチーノを搦めて束に差し出す。そうすれば束は満面の笑みでペペロンチーノに食いつくのであった。

 食事が終わって一息を吐いていたのだが、風呂にも入って身体を温め、食事を取って満腹になった束は疲れからか眠気が襲って来たようだ。こっくりこっくりと船を漕いでいる。

 束が船を漕ぎ始めたのを見てハルは束のベッドのシーツなどを取り替えておく。シーツの交換が終わった頃には束も半ば眠りに誘われている状態だったので、束の手を引いてベッドまで連れて行く。

 うー、と唸りながら目を擦る束の姿はまるで子供のようでくすり、と笑いが零れてしまった。

 

 

「ほら、束、着替えて?」

「……やだ」

「やだ、じゃなくて……。あぁもう、わかったから。手、上げて。脱がすから」

 

 

 仕方ない、と溜息を吐いてハルは手早く束の服を脱がしていく。流石に下着まで着替えさせる訳にはいかないので下着は自分で着替えさせたが、パジャマはハルが手早く束に着せる。

 ハルの手つきがやけに手早く、手慣れているのは長時間、下着姿の束を眺めているのは気まずいのでハルが身につけてしまったスキルである。

 

 

「ハルも一緒に寝よう……?」

「……じゃあ着替えてくるから」

「……やだ。そのままでいいから寝よう?」

「いや、着替え……」

「いいから……」

 

 

 眠いと束は我が儘は酷くなる。普段から我が儘な束なのだが、眠たい時の束は手強い。現にハルの服の裾を掴んで離す気配はないようだ。

 こうなれば諦める他ないとハルは束と一緒に布団に入る。疲れていたのだろう、ハルを抱きしめたまま束はすぐに眠りについてしまった。規則正しく寝息を立てる束の顔を見て、ハルは笑みを浮かべる。

 

 

「おやすみ、束」

 

 

 束に優しく告げて、ハルもまた目を閉じた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 目を開ける。眠気でぼやけた意識ははっきりと物事を認識をしない。何度か瞬きをした事によって目が覚めて、束は自分が抱きしめているハルの存在に気付く。

 ハルは束の胸に埋めて眠っていた。ハルの穏やかな寝顔を見て束は笑みを深めた。こうして一緒に誰かが眠っているという事が暖かくて心地良かった。

 

 

「……一人じゃない」

 

 

 束の呟き。そこには束のどれだけの思いが詰まっている事か。

 束は孤独だった。そして孤独にも慣れていた。昔から天才の片鱗を見せていた束は誰からも浮いた存在だった。

 自分が理解出来ることを同い年の子供は理解する事が出来ない。自分と違う者を異端として弾こうとするのは子供達の幼い心理だ。

 故に束には友達が出来なかった。千冬という自分とは違う天才と出会うまでは。だから孤独には慣れている。いや、慣れるしかなかったのだ。

 束は孤独を嫌っている。孤独は冷たくて寂しいからだ。自分を孤独にした世界に対しては憎しみすら抱いている。自分を腫れ物のように扱った両親すら疎んでいる。自分を認めなかった人間を自分もまた認めない。

 世界なんてつまらない窮屈な箱庭だと束は思っている。今も理解出来ない癖に自分の知識を得ようとする者達が後を絶たない。欲望に塗れた人間など醜いだけだ。だから人間なんて嫌いだ。

 

 

「ハルがいて、出会えて良かったよ」

 

 

 けれどハルは束を嫌わない。ただ受け入れてくれる。彼が苦しみを味わった原因は間違いなく自分にあるのに。全てを知ってもハルは束を憎むそぶりすら見せない。ただ純粋に束を慕ってくれている。

 ハルが何を考えているのか束はよくわからない。いつの間にか食事や身の回りの世話をしてくれるようになっていて、自分の為に甲斐甲斐しく世話をしてくれる。

 戸惑いを覚えたのは事実だ。だけど、どうしようもなく嬉しくて、手放しがたくて、困らせるとわかっていても束は甘える事を止められそうにない。自分の為に尽くしてくれる彼を手放したらまた冷たい孤独に戻らないといけない。

 研究は楽しいから没頭しているのと同時に、自分の世界に閉じこもる事によって孤独を忘れようとする逃避である事に束は気付いている。宇宙に飛び出したい、という夢も逃避から来ている自覚もある。

 だからたまには研究を止めて、何もせずに彼と過ごすだけの日もあっても良いんじゃないか、と。そう思えるようになった事は束にとって間違いなく幸福な事だった。少なくとも束はそう信じている。

 

 

「……ハル」

 

 

 手を伸ばしてハルの頬に触れる。顔にかかった髪を払ってやると小さく呻き声を上げた。その様が可愛くて頬が緩む。

 眠気はまだ取れない。降りて来た瞼をまた持ち上げるのは少し億劫だ。だからもうちょっとだけこのまま眠っていたい。ハルを改めて抱きしめて束は目を閉じた。二人の寝息が再び部屋に息づくようになるまで、あともう少し。


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