日が落ちた頃、一夏はようやく高天原まで戻って来れた。
触れた鈴音の熱が忘れられずに、どこかぼんやりとしている。頭を冷やそうと思い、一夏は水を求めて食堂へと向かった。
食堂にはクロエがいた。空中ディスプレイを表示し、時折コンソールを叩いて何かのデータを纏めている。クロエは一夏が入ってきた事に気付いて顔を上げた。彼女はサングラスを外していて、異色の瞳が一夏を捉えた。
「お帰りなさい。……どうしたんですか? そんな顔して」
「……クロエか。何やってるんだ」
「現行IS強化改修計画の纏めですよ。今は打鉄用の改修案を纏めている所です。打鉄弐式の強化の為のスペック確認も含めてますが」
クロエはそこまで言い切り、とんとん、と机に指を乗せて叩く。いまいち作業が進まずに苛々していた所だ。止めよう、と思い至りクロエはディスプレイを消した。一夏はふーん、と相槌を打って水を汲みに行った。
「一夏、私の分もください」
「ん、わかった」
二人分のコップを用意して一夏は水を注ぐ。汲み終わった水をクロエが座っているテーブルまで持って行く。一夏から水を受け取ったクロエは礼を一言告げて口をつけた。ひんやりとした水が喉を通っていくと頭が少しすっきりとしていく。
一夏もまた水を飲んでいたのだが、冷やそうとすればする程、鈴音の熱を思い出して熱が引かない。結局、水を飲む手も止めてしまい、コップを握っていない手で頭をわしゃわしゃと掻き乱す。
「……何一人で百面相してるんですか? 気持ち悪いですよ」
「気持ち悪くて悪かったな。っていうか何でクロエはいっつも俺に噛み付いてくるんだよ。俺にだけ厳しくないか?」
「貴方にデリカシーがないからです」
「デリカシーって……俺の何がいけないんだ?」
「私は貴方の歯に衣着せぬ言い方が嫌いなんですよ。何でも素直に言えば良いって物じゃないんですよ」
ふん、と鼻を鳴らす。ここぞとばかりにクロエは普段、一夏に溜めている不満を口にした。
クロエは今までハルや束、ラウラと生活する時間が長かった。束はともかくとしてハルやラウラはクロエに気を使って生活をしていた。そしてクロエもまたそれは同じだった。
まだ自分が拾われてすぐの頃の話だ。ハルに常識という物を教えて貰ってから、常識をそういうものなのだと、ハルの言う常識を受け入れたクロエは自然と常識を尊ぶようになった。束がその常識とかけ離れている為に苦しんでいるという事も、成長するにつれてわかったのはその為だ。
普通である事はクロエにとって羨望の対象だ。自分の知る誰もが普通からかけ離れていたから。程度の差はあれど皆、それに苦しんできたから。だからこそ普通の生活に憧れた。食事を取り、住む場所があり、着る服があって、触れ合う隣人達がいる。そんな生活を何よりも大切に思っている。
だからこそ生活の上で気を使うのは当たり前の事だと思う。良好で円滑な人間関係、それが無ければ生活を維持する事は出来ないと考えるからこそ。
だからこそ無頓着な一夏の言動が気に障る。遠慮がない、と言えば親しみがある事の裏返しなのだとわかっていても、一夏の言動は妙に気に入らないのだ。
「素直の何がいけないんだよ」
「少しは相手を気遣えって言ってるんです。機微というものを少しは察してください」
「俺、結構気を使ってるつもりなんだけど……」
「そのつもりが私には一切感じられません。箒もさぞ苦労している事でしょう」
「……箒が?」
おや、とクロエは一夏の予想外の反応に目を瞬きさせた。箒は関係ないだろ、とでも言うと思ったが、一夏の表情を見るとどうやら真剣に悩んでいるようだ。
「箒が俺の言動で悩んでるのか?」
「……そうですね。ちょっと言い過ぎました。でも貴方は素直過ぎる。気持ちを伝えるのは良いですけど、全部が全部で気持ちを伝える必要はないじゃないですか」
「そういうものなのか?」
「ずっと好きだ、愛してる、なんて言えるのは本当に互いにそう思ってる相手だけですよ。その気もないのに好きだ、愛してるなんて言うのは相手に失礼でしょう。思いが軽くなって嘘っぽくなりますよ、言葉そのものが」
幾ら口で綺麗事を吐いても、示せなければ意味がない。ハルと束の姿を見てクロエは育ってきたのだから、そう信じている。ハルが献身的に束に尽くしたり、束が見せる直接的な愛情表現があってこその関係だと思っている。
だから一夏を見ていると苛々とするのだと気付く。一夏は箒の事が好きなんだろう。箒もまた一夏の事を好きだと思っている。互いが互いを思い合っているのに、その気持ちを通じ合わせない。
互いが互いに思うだけ。それが奇妙なものに見えてクロエには仕方ないのだ。好きなのに互いに好きを通じ合わせない。なのに一夏は箒の事を好きだと思わせるような言動をする。
箒もそれを嬉しがってる。けれど明確な思いは口にしない。もどかしくてクロエは二人が揃う所にいるのが好きではない。自分が苛々するから。もどかしくなるから。
「秘めたる思いなら秘めてれば良いじゃないですか。それをいちいち匂わせて。好きなら好きって言えば良いじゃないですか」
「……難しい話だな。そりゃ」
「……そうなんですか? 私にはわかりません」
「なんていうかさ。自分から言うんじゃなくて、相手に期待するって言うのかな。自分から好きだ、って言うのは怖いさ。それで好きって思ってる事を感じさせる言葉が欲しいなんて……そりゃ虫のいい話だ。でも欲しいって思うだろ?」
「……わからなくはないですけど」
一夏の言っている事はわかる。好きになって貰える事は嬉しい事だ。だからクロエは努力してきた。束の期待に応えられるように。一緒に夢を追いかけてきた。今でも胸を張って束を好きだと言える。
けれど、自分の束への好意はハルの束への好意には及ばない。だからクロエはハルほどの愛情表現を束に求めない。束にハル程の愛は注げていないから。だから愛なんて求められない。
「貴方の言う通り、虫のいい話ですよ。結局は思いを通じ合わせたい、思って欲しいから期待するんですよね?」
「まぁ、そうだけさ」
「だったら一夏はさっさと決めちゃったらどうなんですか。箒、ずっとやきもきしてますよ? 伝えれば良いじゃないですか。そうすれば幾らでも……」
「……さっきさ」
「……?」
「俺、鈴に会ってきたんだ」
「えと、凰 鈴音さん?」
「あぁ。……俺、あいつにも告白されてるんだ。アイツとは幼馴染みだって言っただろ? 再会した時、告白するって言う約束だったからな。だから受けてきたんだ、告白」
「……なんですかそれ」
ふつふつと言い様のない怒りが込み上げてきた。クロエは箒が一夏の事が好きなのを知っている。本当に好きなんだと感じさせるからこそ、報われて欲しいと思っている。それは幸せな事だとクロエは知っているから。
ハルと束が幸せそうに笑っている姿を見てきた。だからこそはっきりしない一夏の言動が納得いかなかった。そして別の女の子から告白されているという事実も、妙に気に入らなかった。
「……それでOKでも出して来たんですか?」
「どっちも選べなかった」
「はぁ? 箒に好きになって貰って、あの鈴音さんにも好きになって貰って、どっちも好きだから選べない?」
「……そうだ」
なんでこんなにムカムカするんだろう、とクロエは思う。
「じゃあどうするんですか。箒の気持ちは、鈴音さんの気持ちは。どっちもなんて選べる筈ないじゃないですか」
「じゃあ聞くけど、俺の気持ちはどうなんだよ?」
「……それは。……でも、両方が好きなままでいたいなんて、そんなの叶う筈ないじゃないですか」
思わず声を荒らげてしまいそうになったのはどうしてなんだろう、とクロエは考える。
「叶うとか叶わないとかじゃなくて……好きなんだよ。選べって言うのかよ。俺に。どっちか捨てろって」
「……そうですよ」
「やっと気付いたんだ。こんなに好きになってたんだって。選んでくれて嬉しかったんだ。好きになって貰えて嬉しかったんだ」
「だったら! 応えてあげないとかわいそうじゃないですか!」
「そしてどっちかに泣けってか?」
「仕方ないじゃないですか……」
「……選べたら解決するだろうな。でも、俺はどっちも泣いてる姿を見たくねぇよ」
「そんなの我が儘じゃないですか!!」
どうしてこんなにも胸が痛いんだろう、と。胸を押さえながらクロエは叫んだ。
「何なんですか! 一夏! どうして貴方はそうなんですか!」
「何だよ、急に?」
「貴方はそんなに恵まれてるのに! どっちかしか得られないのに! 諦めないと駄目なんですよ! どっちもなんて欲張りだ! そんなの狡い!」
口にして気付く。狡い? 誰が? 一夏が? どうして狡いなんて思うんだろう。
箒と鈴音に愛されてるから? 二人を愛してるから? どっちも裏切りたくないと思ってるから? 何で? 何でこんなにも自分は怒っている?
「クロエ……? お前どうしたんだよ」
「どうして? わかんないですよ! なんで私は怒ってるんですか!? 一夏が欲張りだから!? なんで!?」
「クロエ、ちょっと落ち着けって」
「どっちも得られるなら、なんだって得られるじゃないですか! そんなの嘘だ! じゃあ私は、私達は何で今まで捨てて生きる事を選ばされて来たんですか!?」
あぁ、そうか。熱してきた頭で、ただどこか冷静な自分が囁く。
「何か捨てないと選べないんですよ! それが常識で、どうしようもない程の世界の仕組みだ! だから甘ったれた貴方の考えが嫌いなんです! 選べない貴方なんてただ弱いだけだ!! 弱かったら何も手に入れられないのに!! なのにどうして!? どうしてそんなに貴方は恵まれてるんですか!! どうしてそんなに愛されてるんですか!?」
――これは、ただの嫉妬だ。
ずっと諦めて生きてきた。何かを諦めないと生きていけないんだと思って生きてきた。
拾われて、救われて。それで充分だと思った。けれどそれでも世界が広がる度に、自分よりも幸福そうな姿を見る度にずっと思っていた。
羨ましいと。だから目に着いた。得られる事が当たり前のように、恵まれる事が当たり前のように生きている一夏が。
甘ったれた考えなのはこの際、別に良い。元々、自分とはスタート地点が違うんだ。彼は恵まれていて、自分は恵まれなかった。なら最初から持っているものが違うなんて羨む事じゃない。
だけど彼はそれでも求めようとする。何も手放さず、全てを得るんだと。そんな巫山戯た事を真面目に言うのだ。
「俺は別に恵まれてなんか……」
「恵まれてるじゃないですか!? 箒に、鈴音さんに愛して貰って! 他の皆にも好きになって貰って! こんなに恵まれてるじゃないですか!! なのになんでもっと先を求められる!? 無理なんですよ、人には抱えられない、いつか捨てる時が来るのに!! 馬鹿じゃないんですか!? 全てなんて得られない事を理解してくださいよ!!」
「なんだと……!?」
「私を見てくださいよ! こんな目で、普通に人前にも出れなくて! 怯えられるかもしれないからって! それでもたくさん愛して貰ってますよ! わかってますよ! 愛されてるって事ぐらい! 私だって恵まれてます! だから、これ以上なんて罰当たりだ! これ以上なんて欲張りだ!」
誰にも愛されなかったから。これからも人に愛されるのは難しい事を理解しているから。
今ある愛を必死に手元に置きたくて、離したくなくて、だから胸に留めておく。
それが正しい事だと信じてる。だからこそ一夏が理解出来ず、許す事が出来ない。
クロエはハルと束が幸せそうな姿を見るのが好きだった。あれが幸せの形だと信じていたから。だからほんの少しお裾分けをして貰うだけで充分だった。
それだけで良いって思わないと際限なく自分は求めてしまいそうだったから。
そうなったら怖い。愛してって叫ぶ度に皆が離れていくんじゃないかって。愛されない存在として生まれたから。愛されただけでも幸福で。それ以上なんて求めてはいけないんだと。
「出来ないんですよ! それが常識なんです! 貴方の言ってる事はただの我が儘です! 箒と鈴音の気持ちを本当に考えてるんですか!? 自分さえ良ければ良いんじゃないんですか!? 貴方は!?」
「――違うッ!」
「ッ!?」
「お前が否定するなッ! 箒の気持ちを、鈴の気持ちを! 俺の事は幾らだって否定しても良い! 最低な事してるさ! お前の言う通り、本当は選ばなきゃいけないんだろうよ!! それでも悩む事を許してくれたんだ!! なら考えるさ!! 常識でも、それを理由にして諦めたら何でも諦めなきゃいけないだろうが!!」
「だから常識なんですよ! 諦めてくださいよ! 諦めないといけないんですよ!!」
「諦めて、じゃあどっちか泣くのを認めろってか!? なら俺は諦めないッ!!」
強く一夏は言い切った。クロエの言葉に真っ向から反論するように強い意志を瞳に篭めて。
クロエには信じられない。どうしてそこまで強情になれるのか。どうしてそこまで頑なに諦めないと口に出来るのか。
「諦めないで、悩んで、悩んで! 最後まで悩んで! 本当にどうしようもなかったら諦める! 俺はまだそこまで足掻ききってない! 自分の気持ちもまだ全部わかってない! そんな状態で……諦めてられるか!」
「そんな……」
「好きなんだ! 失いたくないんだ! 捨てなきゃいけない理由なんて俺にはわからない! こんな大事な物を捨てなきゃいけない理由があるなら! そんな理由がある事が間違ってる!」
一夏もまた叫ぶ。初めて知ったこの気持ちを、貰う事が出来た好意を切り捨てなければならないなんて辛いんだと。愛してくれた事がこんなにも嬉しいんだと。
だから悩もうとしている。答えを決める為に。ただ、それでもそう簡単に諦めきれないのは、それだけ二人の思いが大事だからだと。
「馬鹿ですか!? 全部は得られないんですよ!?」
「それでも! この手に掴んでいられる内は掴んでいて良いだろう!? なんでクロエは離せる!? 大事なら手放すなよ!!」
「……ッ! 好きで……好きで私が手放して来たと思ってるんですか!? 巫山戯ないで!! 酷い……! 酷いです……ッ!! 何も理解してない癖に!! 私を否定しないで!!」
「じゃあ言ってみろよ!! クロエの言葉で諦めなきゃいけない理由を語れよ!!」
「……ッ……!」
「わかるさ。常識が大切な事ぐらい! でも……それで諦めたら全部諦めても良くなるだろ!? 俺はそれが嫌なんだ。一度何か諦めたらまた次、また次って!! そうなるのが怖い!! ならどれだけ我が儘でも、受け入れられなくても、諦める事はしたくないんだ!!」
諦めずに生きてきた一夏と、諦めて生きてきたクロエと。
いつしかこの二人がぶつかるのは必然だったのかもしれない。
千冬を守ろうと誓って、どれだけ無力でも力を求めて諦めなかった一夏と。
自身に与えられた境遇に涙して、諦める事で自分を守ろうとしたクロエと。
「どうして……!? 私は貴方が理解出来ない!! 手に残った幸せだけで良いじゃないですか!! 幸せなんて掴んでなきゃ消えちゃう!! どうして全部掴もうとするんですか!? どうせ取りこぼしてしまうのに!?」
「それが大切だからだろう!? 手放したくないぐらいに大事で!! 消したくないぐらいに求めていて!! だから守ろうとして何が悪いんだ!!」
「守れないじゃないですか! 選んでも選ばなくても泣かせてしまうじゃないですか!! 二人の一番には一夏はなれないんですよ!!」
「俺は納得できない!!」
「感情だけで物を言わないで!!」
「感情で物を言わないでどうやって好きって伝えるんだよッ!!」
一夏の叫びに、クロエの目が大きく見開かれる。
理屈を説くクロエと、感情を叫ぶ一夏と。二人の意見はただぶつかる。
「常識だからって諦めて! お前が自分の幸せを諦めたらそれしか得られないだろ!? 常識、常識って! 常識守ってれば人は幸せになれるのかよ!?」
「だって……! そうしないと……! 嫌……嫌だ!」
「何が嫌だって言うんだよ!?」
「……嫌……! 嫌……!! 良い子にしないと……!! 守らないと……!! ――また捨てられるのは嫌ァッ!!」
クロエの叫んだ言葉に一夏は目を見開いて言葉を止めた。クロエが何かに怯えるように身体を震わせている事に気付いたから。
熱していた頭が冷めていくようだった。心配げに顔を覗き込んで一夏はクロエの様子を窺う。
「……何言ってるんだよ、お前?」
「必要とされないと……良い子にしないと……我が儘言ったら……邪魔になるからぁッ!! 良い子になるのッ!! 私は!!」
「ハルや束さん疑ってるのか? ラウラもクリスさんも? 俺や箒だって誰もお前の事捨てたりなんかしねぇよ? なんだよ。捨てられたくないってのが――お前の本音じゃねぇのか」
「――ッ!!」
――ぱしゃん、と。一夏の顔に水が浴びせられた。
呆然と一夏は自分の髪や顔を濡らした水を見る。水滴がぽたぽたと音を立てながら落ちていく。
クロエが先ほどまで飲んでいた水のコップを握って一夏に向けていた。残っていた水を一夏にかけたのだろう。だけども、その顔は恐怖に引き攣っていて、同時に自分が何をしたのかわからない、と呆然としていた。
「……つめて」
「……ぁっ……ご、ごめ……」
「いや、俺も頭が冷えた。……悪い、クロエ」
一夏は自分が熱くなっていた事を自覚して謝罪した。水を浴びせられた事で逆に頭が冷えた。熱を逃がすように頭を振る。感情に任せて言い過ぎた、と後悔が胸を突いた。
クロエは身が竦んだように佇んでいた。自分の身体を抱きしめるように両腕を回しながら。一夏はそんなクロエの様子に眉を寄せて、クロエの方へと回り込みながら彼女に話しかける。
「クロエ? お前、大丈夫か?」
「こ、こないで……」
「お、おい?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、私は……ッ!」
何をやっているんだろう、と。クロエは己を省みて泣きたくなった。いいや、泣き叫びたかった。感情のままに任せて叫んで、感情を発散させて楽になりたかった。
自覚したくなかった。こんなに自分が怯えていたなんて事実に。それを自覚させた一夏が恐ろしかった。なんで? なんで? と何度も疑問が浮かぶ。震える唇を噛みしめて、クロエは一夏を見た。
堪えきれない。感情の波が堰き止められない。涙が落ちて頬を伝う。唇を震わせて息をしながらクロエは遂に言葉にしてしまった。
「なんで……?」
「クロエ?」
「どうして優しいの? どうして頑張れるの? どうして? 報われるかもわからない努力をどうして出来るの!? 全部無駄になるかもしれないのに!? だったら頑張ったって意味無い!!」
それが、あまりにも眩しい。羨ましい。愛される貴方が。だから感情が止まらなくなる。
「……クロエ、お前」
「諦めてよ……。私の前で全部掴むなんて言わないで! 嫌い、嫌い、嫌い!! 一夏なんて大嫌いッ!! 私の心をどうして暴いたの!? ねぇ、なんで!?」
髪を振り乱してクロエは叫んだ。
「やめてよ!! 壊さないで!! 私を壊さないでッ!! 捨てられたくないから良い子になるの!! 良い子になったの!! もう私は一人じゃない!! 束様にお仕事も任せて貰えた!! 友達も家族も出来た!! 一人じゃない証がいっぱいあるの!! もう大丈夫なの!! だから止めて!! 暴かないでよッ!! 私の心を晒さないでよッ!! 私は怯えてない!! 私は寂しくない!!」
こんなにも愛されているのに怯える事が止められない自分が情けなくて。
自分の情けなさから震えているのに、クロエは自分の弱さに触れた一夏を睨んでしまう。自覚させたのも、暴いたのも一夏だから。不当な怒りだとは理解していてもどうしようもなかった。だから仇を睨むようにクロエは一夏を見る。
クロエの視線を受けていた一夏は、一瞬迷ったように、だがしっかりとクロエへと視線を返してクロエの頭に手を伸ばしてた。一夏の手がクロエの頭を撫でる。
クロエの動きが止まる。一夏の指がクロエの髪を梳くように。優しく、何度も慰めるように。呆然として動けないクロエを無視して一夏は申し訳なさそうに表情を変えて告げる。
「……ごめんな。俺の気持ちを押しつけちゃったみたいで」
「……っ」
「でも、クロエ。聞いて欲しいんだ。クロエが俺に怒ってくれて良かったんじゃないかって思うんだ」
「なんで……?」
「だってお前、本当は辛いんだろう? 怖いんだろう? だったらそれ、ちゃんと言わないと誰にも伝わらないと思うんだ」
「だって……」
「迷惑かけるとか、そんなの考えるなよ。だってお前が辛いんだろ? お前が辛いなら……ハルや束さん、ラウラやクリスさんだって、俺や箒も皆も辛いさ。だってお前が苦しんでるのに手を差し伸べられない」
「でも……」
「皆、嫌がらないさ。だってクロエは頑張ってるんだ。だったら報われて然るべきだろ? 手を伸ばして、頭を撫でる。よくやったなって言う。俺にだってこれぐらいは出来る」
「……でも、我が儘な子は、嫌われます」
クロエは一夏の言葉を否定するように首を振る。我が儘を言えば嫌われてしまうから。だからそっと胸に秘めておかないといけない、と。
けれど一夏は言う。頭を撫でながら気にするな、と。まるで笑い飛ばすかのように。
「もっと我が儘言った方が良いと思うぞ、俺は。ほら、束さんなんか見てみろよ。あれは我が儘の固まりだぜ? それでもクロエは束さんが好きだろ?」
「はい……。嫌いになんてなりません……! ずっと、ずっと……! 大好きな人だから……!」
「皆、そう思ってるよ」
「一夏も……?」
「え? ……俺か? ……そうだな。皆、俺を助けてくれて、色んな事を教えてくれて力をくれるからな。……何で諦めないのか、ってそれが理由なのかな」
「……諦めない理由?」
「皆に誇れる自分になりたい。認められてないって思ってるとかそんなんじゃなくてさ。俺は尊敬出来る人達と一緒にいる。なら……そんな人たちといるなら、俺自身が俺を尊敬出来るような人にならないと、って思うんだ。お前の嫌われたくない、と少し似てるかな?」
「……一緒ですか?」
「……多分な。結局、皆から思われたいって思う気持ちは変わらないと思うんだ。俺はだから頑張って、クロエは我慢する事でやってきたんだ。だからぶつかってたんだよな。俺等」
だからきっと同じだ、と一夏は笑ってクロエに言った。はにかむように笑う一夏の笑顔を見てクロエはきゅっ、と唇を噛みしめた。
「……撫でてください」
「……ん?」
「私が良いって言うまで……頭を撫でてください」
「え? ちょっとそれは長くないか? ほら、もう泣きやんだろ?」
「止めたら泣きます」
へにょり、と。一夏は困ったように眉を寄せた。そんな情けない一夏の顔を見てクロエはくす、と笑った。
「我が儘、言って良いんですよね?」
「……限度はある」
「じゃあ色んな我が儘を言います。出来る限り叶えてください」
「……出来る限り、な」
「はい。だから……我が儘、言います」
「おう。言ってみろ」
もうどんな我が儘も受け入れてやろう、と半ば一夏が投げやりにクロエに告げる。クロエは笑みを浮かべて言った。
「――責任取ってください」
「……え?」
「弱い自分なんて知りたくなかったのに。貴方が全部晒した。だから……責任取ってください。私を慰めてください。私を、守ってください」
「…………」
「……我が儘、言いました」
「……クロエ」
「一夏は私を泣かせました。我が儘を言えと言いました。だから言います。私を好き放題した責任取ってください」
本当に一夏とは真逆で、思いは秘めないといけないと思っていた。口にしてしまえば思いなんて軽くなってしまうから。だから本当に思い合っている相手じゃないと言っちゃダメなんだと。
でも、違ったんだ。思いは口にしても軽くならない。沸き上がって来るように何度も何度も言葉に出来る。ただ口にするのは恥ずかしくて、思いで胸がいっぱいになるから。だからきっと皆は言わないんだろうと。
「私の弱みを握ったんです。だから……守ってくださいよ。ずっと」
「お、落ち着けクロエ……!」
「言い逃れるつもりですか!?」
「ち、違うって……! あ、こら、抱きつくな、絡みつくな、誰か、誰かぁああああ!! クロエがおかしくなったぁああああ!?」
「失礼な。こうしたのは貴方じゃないですか?」
「そ、そうかもしれないけど、そうじゃないだろ!?」
クロエを引き剥がそうとする一夏と、一夏にくっつこうとするクロエがじゃれ合う。そんなじゃれ合いの中、クロエは困り果てる一夏の顔がおかしくて笑う。笑みを浮かべて捕まえた温もりを離さないようにしっかりと掴みながら。
二人の騒ぎを聞きつけ、次々と駆けつけてきた高天原の住人達が何があったのかと一夏に詰め寄り、一夏が涙目になりながら弁明を叫ぶまであともう少し。
「好き? 嫌い? 嫌いだけど好き? 好きだけど嫌い? ……結局どっち? 好き、嫌いは難しい」 by雛菊