「まさか、お前とこうして酒を飲み交わす日が来るとはな。正直、想像してなかったよ」
千冬はグラスに入った氷を揺らして言う。千冬の視線の先には束の姿がある。束は舌で唇を拭って、笑みを浮かべて千冬に視線を返した。アルコールの所為だろう、束の頬は朱色を帯びている。
高天原の食堂に残っているのは千冬、束、真耶の三人だ。未成年組はともかく、束はクリスも誘ったのだが、彼女はこの場を辞退してさっさと休んでしまった。下戸という訳でもないのに、と束は唇を尖らせた。
そんな束の姿を見て、千冬は改めて束が変わったのを実感した。昔は他人に興味を抱く事もなかった束が、飲みを断られて唇を尖らせる姿なんて想像もしなかったからだ。それがおかしかったからか、千冬の顔には自然と笑みが零れる。
「私もねー。ちーちゃんと酒を飲む日が来るとは思ってなかったさ。それにオマケも加えてなんて、ね」
「私はオマケですか……」
オマケ扱いされた真耶は苦笑を浮かべる。真耶の反応を見て千冬は笑みを零す。そこで真耶のグラスが空になっている事に気付く。だが酒の瓶は束の手元にある。
束は千冬の視線に気付いたのか、酒の瓶を手にとって真耶のグラスへと酒を注いだ。束が注ぐと思っていなかったのか、真耶は驚いたように束を見た。真耶の驚きを気にした様子もなく、酒を注ぎ終わった束は小さく鼻を鳴らす。
「オマケさ。私の対等はちーちゃんぐらいだからね。真耶だっけ? 真耶はちーちゃんと横に並び立てると思う?」
「それは……。まぁ、難しいですね」
「そうそう。それを弁えてても横に並ぼうとしてるでしょ? まだそう言う奴は評価して良いんだ、って思えるようになったのさ、私もね」
「お前にとって、自分以下の人間をようやくオマケと割り切れたという事か」
「まぁね。傲慢なんだろうけどさ、それが事実だしね。わざわざこっちから合わせてやる必要なんて無いよね」
けらけらと笑いながら束は酒を煽った。饒舌なのは普段から変わらない束だが、酒が入って多少、陽気になっているようだ。
「真耶、あまり気にするな。こいつなりにお前の事を認めたって事さ。わかりにくい事この上ないがな」
千冬が真耶を名前で呼ぶのはプライベートの場であり、酒が入っているからだろう。よく見れば千冬の顔も大分赤い。こうして千冬と飲む事もある真耶だが、今日の千冬のペースは早いように感じる。
それはきっと束がいるからなのだろう、と真耶は感じた。二人は口で言い合う事が多いが、嫌悪の感情はまったく見られない。まるでじゃれ合うような二人は、逆に見ていて微笑ましいと思う程だ。
「良いんだよー。私は私のペースで生きるからさ。合わせられる奴だけ合わせてくれれば良いの」
「昔は私ぐらいしかいなかっただろうに。……それに、お前は変わったよ」
「まぁね。じゃないと真耶がここにいても無視してたし、むしろ追い出そうとしてただろうねー」
「そこまでですか……」
「そこまでさ」
真耶は淡々と言う束にどこか寂しいものを感じた。確かに、束は追従する者がいない程の天才だ。だが、こうしてお酒を飲み、笑って、怒って、泣いたりする。間違いなく人間なのだ。なのに誰も彼女といる事が出来なかった。一体どれだけの孤独なのだろう、と。
真耶の視線に気付いたのか、束は気まずそうに頬を掻いた。少し眉を寄せて、不機嫌さをアピールする。ぴん、と立てた指で真耶を示して束は言う。
「ちょっと。哀れむの禁止ね。私、変な同情とか嫌いなんだよね」
「あ、すいません……」
「良いよ。楽しく生きてるから。人並みに悩んだりはするけどね。今は間違いなく、胸張って幸せだって言えるしね」
「幸せか……。束、まさかと思うが、ハルにもう手を出したとか言わないよな?」
「ぶはっ!? ごほ、ごほっ……! ごほっ……!!」
「わ、わぁっ!? だ、大丈夫ですか!?」
千冬の問いかけに束は酒を噴出した。そのまま噎せ返ってしまい、目に涙を浮かべる。
真耶は束を心配するように声をかけるも、束はすぐに返答が出来ないのか、咳き込みながら横を向いてしまった。そんな束の様子を見て、千冬はニヤリ、と笑みを浮かべた。
「どうした? あれだけハグだの、公衆の面前でイチャついてるお前の事だ。どこまで行ったんだ?」
「ば、ばばば、馬鹿じゃないの!? いっくんもデリカシーないけど、ちーちゃんも大概だよね!?」
「したのか? してないのか?」
「し、してる訳ないでしょ!?」
顔を真っ赤にして束は叫んだ。アルコールだけでなく、羞恥心まで加わった束の顔は茹で蛸のように真っ赤になっている。
なんだ、と千冬はつまらなさそうに呟いた。仮にも教師がそんなノリで良いのかと、真耶は千冬に呆れた視線を向けている。千冬はまるで気にした様子は無いが。
「とっくに手を出していたと思ったが……そう言えば意外と純情だったな? お前」
「ぐぬぅ……!」
「あー……でも、私もちょっと気になるかも」
「……何が気になるってさ」
むすっ、と。束は不機嫌そうに頬を膨らませてしまった。束の表情がツボに入ったのか、千冬はくつくつと喉を鳴らして笑っている。真耶も思わず可愛い、と思ってしまった。
詫びのつもりなのか、束のグラスに酒を注いでやりながら千冬は話を続けた。
「で、実際どこまでは行ったんだ? キスぐらいはしてるんだろ?」
「…………」
「お前は都合の悪い事を指摘されると黙る癖がある。知ってたか?」
「うるさいっ」
千冬の指摘に誤魔化すように束は酒を煽った。一気に酒を飲み干した束は据わった目で千冬を睨み付ける。
「何? 恋人がいないからって僻み? そういうの束さんは困るんだけど」
「言ってろ。……純粋に気になるのさ。言ってしまえば、ハルも私のもう一人の弟さ。それに親友の恋路だ。少しぐらい話してくれても罰は当たるまい」
「うぐっ……」
「でも私も気になります。お二人を見てると本当、羨ましいぐらいに仲睦まじいですから」
真耶が言葉通り、羨ましそうに束に言う。職場の関係もあってあまり男に縁がない事を真耶は気にしている。今度、IS学園の教員で合コンでも企画しようか、という位には。
改めて真耶はハルを評価してみる。ハルは物腰柔らかく礼儀正しい。昼食を食べている姿を見かけた事もあるが、料理も出来るという。顔立ちは千冬に似ているが、千冬に比べれば目元が優しく、穏和な印象を受ける。彼氏としては文句なしだ。本当に羨ましい、と真耶は唇を尖らせた。
「……何が聞きたいって言うのさ」
「まずはキスだな。キスはいつしたんだ?」
「……3年前かな?」
「……待て? 3年前にキスして、お前はハルとまだシテないのか?」
「出来るわけないじゃん。ハルが何歳だと思ってるの?」
「しかし15歳相当だろう? ……ハルもよく耐えているな。不能という訳でもないんだろ?」
「本っ当に、デリカシーないよね! ちーちゃんは!」
千冬の言葉には、束だけでなく真耶も顔を真っ赤にしてしまった。束は誤魔化すように酒を注いで飲み直す。真耶も同じようにちびちびと酒を口に運んだ。
別に構わんだろう、と千冬は眉を寄せて酒を煽っている。どうしてこの人はこんなに男前なんだろう、と真耶は苦笑する。
だが真耶は知らない。これから執拗にからかわれて激怒してしまった束が、悉く千冬の地雷を踏み抜き、掴み合いの喧嘩が始まってしまう事。二人の間に板挟みになる悲劇が迫っている事を、真耶が知るよしもなかったのである。
* * *
その日の昼食時、珍しくハルは一人だった。
いつも集まるメンバーなのだが、いつも全員が集まる、という訳ではない。一夏は鈴音と二人で食べる事があるし、シャルロットもセシリアや、他のクラスメイト達と食事を取り行く事もある。
箒も剣道部に入り、今日は部員達に誘われて行ってしまった。普段は一緒にいるクロエとラウラも、今日は簪と一緒に食事に行っている。簪の調整する打鉄弐式の話もあるのだろう。人が多いのは苦手だと言う簪に遠慮して見れば、ハルは一人になっていた。
「……ふむ」
ぱくり、と自分の作った弁当を口に運ぶ。こうして一人になるのは随分と久しぶりだ、と。ハルに向けられている視線は多いのだが、誰もハルに寄ってくる気配はない。
人目に付かない場所を選んで食べている、というのもある。そしてハルはもう一人の男子生徒である一夏に比べれば絡みにくいのだ。人体実験の被害者という重い過去もあれば、世界を騒がすロップイヤーズのトップ、篠ノ之 束のお気に入り。
話しかけるには少々ハードルが高い。故に、どっちかと言えば絡みやすい一夏に生徒達が流れてしまうのは仕方ないだろう。鈴音にはご愁傷様、としか言えないが。それでもハルに興味を抱くのはゼロ、という訳ではない。
「お隣、よろしいかしら?」
「……?」
そう、こうして自分に購買部で買ったのだろうパンを見せつける生徒がいるように。
ハルがまず見たのはネクタイの色だ。色は黄色、上級生を示す色だ。IS学園の制服は改造が認められていて、中には原型が残らない程、制服を改造する者もいる。
それでもリボンかネクタイの着用が義務づけられているので、その色で学年がわかるようになっている。そしてネクタイの色が黄色なのは2年生だ。ハルは口の中に含んでいたものを飲み込んで返答した。
「別に構いませんよ」
「ありがとう。お邪魔させてもらうわ。ハル・クロニクルくん?」
「えぇ。気になさらず。更識 楯無さん」
あら、と。名前を呼ばれた上級生は上品に微笑んだ。猫のように細められた目がハルを面白そうに見据えている。
「私の事も知ってる訳だ?」
「えぇ。……とはいえ、そんなに多くは知りませんよ。更識 楯無さん。このIS学園の生徒会長にして、日本を支える、暗部に対抗する対暗部組織「更識家」の御当主である事ぐらいしか。あ、あとロシア代表でしたか?」
「……充分知ってるんじゃない」
ジト目でハルを見つめながら、よいしょ、とハルの隣に楯無は腰を下ろした。ハルは食べている途中の弁当を指し示して問う。
「パンだけでもあれでしょう? おかず、多目に作ってるんで食べてください」
「良いの? まぁ、それを目当てで君に話しかけたのもあるけどさ」
「お仕事は大変ですね」
「本当ね」
さっ、と楯無が開いた扇子が口元を隠す。ハルはただ笑みを浮かべているだけだ。互いに目を細めて視線を交わす。
しかし、力を抜くように吐息し、楯無は扇子を閉じた。呆れたように微笑みながらパンの袋を開けた。
「……貴方はやり辛いわね」
「何がでしょうか?」
「言わせたいの?」
「関わり合いたいになりたいのに、言葉を隠されると信用が出来ないんですけどね」
「……本当やり辛い。これでも私はね、人との距離を測るのが得意だと自負してるんだけど……貴方、隙がないのよね」
「そうですか?」
「人に心を開いていない。まぁ、信用して貰えないのは仕方ないわよね」
再び開いた扇子。そこには「至極当然」と書かれていた。先ほどまでは無地だった筈の扇子に文字が浮かんでいる事にハルは興味深げに扇子を見る。
楯無の言う通り、ハルは楯無の事を一切信用していなかった。それも楯無の立場を考えれば仕方ないだろう。それにハルは腹を探られるのは嫌いだ。だから自然と楯無への対応は定まっていく。
「ペースを握ろうにも、そもそも掴ませるペースもない。まるで雲ね。見えている筈なのに掴めない」
「そう言う風に人に称されたのは初めてですよ。これでも人当たりが良い人間で通ってるんですけどね」
「上辺は、でしょう? そうして貴方は人をいつも探っている。こちらが開けば開き、こちらが閉ざせば貴方も閉ざす。本当、やり辛いわ」
扇子で口元を隠しながら楯無は言う。ハルはただ微笑むだけだ。まるで楯無の言う事を肯定するように。
「貴方、篠ノ之博士に似てるんじゃない?」
「僕が?」
「興味のない人間、貴方にとって関わるべき価値のない人間。あなたは等しく見ている気がするわ。在る程度の関わりだけ持ってれば良いぐらいにしか思ってない。
篠ノ之博士も興味のない人間には非友好的と聞いているわ。君も、私にはそう見えるわ。世に騒がれる男性IS搭乗者なのに、一夏くんと違って人を寄せ付けないのは貴方の本質かしら?
好意には好意を、腹の探り合いには腹の探り合いを。まるで鏡のように反応が返ってくる。そう、貴方はとっても素直なのね?」
「……参考になるご意見です」
「だから止めるわ。貴方の腹を探りたいならストレートに聞いた方が情報を得られそうだもの。下手な小細工は嫌いなのでしょう?」
頂くわね、と楯無はハルの弁当からおかずを1つ取り、頬を綻ばせた。
「あら、おいしい」
「そう言っていただけて何よりです」
「ん。……難しいわね。素直になるって」
「そんな事、言われても知りませんよ」
「厳しいわね」
ハルから貰ったおかずを摘みながらパンを囓る楯無の表情は苦い。だがハルは意に介した様子もなく食事を進めている。
楯無はまるで薄い一枚の壁を感じた。ハルと自分を隔てるその壁はハル自身が生み出したものだろう。
「腹の探り合いはごめんですよ。ご飯が不味くなる」
「……そうね。それは私も同意。私の配慮不足だったわね」
「良いですよ。言いましたよ? お仕事は大変ですね、って」
「……心遣い、痛み入るわ」
楯無はハルの言葉に目を丸くして、困ったように笑みを浮かべた。本当にやり辛い相手だと楯無は思う。察した上での譲歩なのだろう、この食事の席は。
楯無はIS学園の生徒会長だ。彼女にはIS学園の生徒達を守る義務がある。その為の謀略も必要ならばこなして見せよう。それは楯無の心からの本心だ。
その為にロップイヤーズとの円滑な関係を望む訳なのだが、正直手強い。ロップイヤーズの面々で最も篠ノ之 束と結びついているハル。だからこそ、楯無は食事の相席を望んだ。彼との関係を構築する為に。
しかし、楯無が本心を晒さなければ、ハルもまた本心を晒さない。だからこその腹の探り合いとなる訳だが、彼は薄い笑顔の下に全てを隠してしまう。
「貴方とは別の形で会いたかったわねぇ。同じ立場にいてくれたら心強かったわ」
「ご評価頂き光栄ですよ」
「心にも思ってない事を……。まぁ、私は生徒会長なのよ。私には生徒を守る義務がある。それがどこの国、組織に所属しようとも、ね?」
「そして更識家、ひいては日本の利益になれば、ですか?」
「隠しても仕様がないわね。そうよ、そう。あーもう、貴方の相手は出来ればしたくないわね」
歩み寄るにはこちらの思惑を晒さなければならない。でなければ彼は応えない。自分が主導権を握れない相手は本当にやり辛い、と何度目かわからない感想に楯無は歯を噛んだ。
ハルはそんな楯無を見て、ふむ、と呟く。やや悩むようにして眉を寄せていたが、力を抜くように吐息して楯無に告げる。
「僕も、平和に学園生活が終えられれば文句はないですよ」
「そう。それで? 貴方は友達とか作ろうと思わないの? 一見、人当たりが良くても、そのままじゃ友達が出来ないわよ?」
「……友達ですか。そうですね、でも難しいですよね?」
「何がかしら?」
「既に優先順位の1番が決まってて、それを譲るつもりがないから、どうしても二の次なんですよね。それを理解してくれる人じゃないと付き合える気がしない」
ハルにとっての優先順位は束が1番だ。これは絶対に揺るぎない。
「出来れば束と一緒にいたいんですよ。それが一番、僕にとって幸せな時間だから。それが揺るがないから、どうにも友達と時間を作ろう、って思わないんですよね。束、家族、友達の順ですから」
「本当、身内にだけ注がれる愛情ねぇ。それ以外には本当に厳しい事」
「楯無さんみたいに背負えないだけですよ。皆なんて。僕はそんなに強くなれない。だからせめて束だけは守りたい。それだけですよ」
ハルにとって束を勝る価値など無い。束の為ならば自分すらも惜しくない。無論、束を愛するからこそ、自分を大切にして、末永く彼女を支えていきたいと思えるようになったが。
だからかつての一夏に憧れた。多くの人を救う、だなんてとても自分には言えなかったから。眩しく見えたのだ。そしてハルから見れば楯無も充分眩しい人だ。
「……ふむ。話せて良かったわ。篠ノ之博士に敵対しない限り、貴方もまた敵対しない事がわかったから」
「そうしてくれると助かります。それなら僕も少しは楯無さんを信用出来ますから」
「もっと信用してくれても良いのよ?」
「ははは、寝言は寝てから言ってくださいよ?」
「あら? なら添い寝でもしてあげましょうか?」
「束がいるので間に合ってます」
「……心底幸せそうに言われると、イラッ、とするわね」
ハルに惚気られた楯無は思わず口元を引き攣らせた。そんな楯無の反応に、ハルはただ笑みを浮かべて返すのみだ。
そのまま他愛のない応答をしながら食事を進める。最初に話した頃よりかは気安くはなっていたが、ハルと別れた後、楯無は思う。
(もう出来れば、彼とは一対一では話したくないわね……。篠ノ之博士と一緒にいる時なら隙が出来るかしら? ……いえ、そうなると今度は篠ノ之博士に睨まれるわね。本当、厄介な人達ね)
「強敵・難敵」。開かれた扇子に書かれた文字が楯無の心を表していた。
「言葉で心を伝える。でも、言葉で心を隠す。なんで? 雛菊には理解出来ない……」 by雛菊