WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
小高い丘の頂に建つ教会と、それを取り巻く騎士団の砦。
丘の裾野には壮麗な貴族の邸宅が立ち並び、周辺は高級住宅街と、そこに住む富裕層を相手にした格式高い商店が軒を連ねている。
教会を中心とした半径三キロメートルほどのエリアは、エクリシアのいわば特権階級が住まう街区である。街並みは手入れが行き届き、景観は常に美しく保たれている。
丘を下りきって平野部に出れば、そこから先はエクリシアの市民たちが住まう区域だ。清閑とした貴族街とはちがい、住居と店舗が賑々しくひしめき、昼夜を問わず活気に溢れた街並みが、聖都を囲む城壁まで続いている。
その中でも一際賑わいを見せているのが、聖都を貫くアトレテス通りである。
喧騒に満ちたその大通りを、てくてくと小柄な人影が歩いている。
刺繍の施されたワンピースと大きな帽子は見るからに上質な仕立てであり、それを着る少女の高い家柄を無言の内に証明している。
ただ不思議な事に、少女はエクリシアでは忌み嫌われた肌をしていた。
本来なら市民の最下層に位地するべき存在が、触れ難い高貴な雰囲気を纏って歩いているのだ。
行き交う人々はその奇妙な少女に、揃って怪訝な視線を送る。
件の少女――フィリア・イリニは市民の眼差しをどこ吹く風と受け流し、繁華街をマイペースに歩いていた。
砦でニネミアと別れた少女は家へと帰らず、盛り場まで一人で繰り出すことを選んだ。
貴族の子女、それも彼女のように年端もいかない少女がお供も連れずに出歩くなど、本来あってはならないことである。
特にフィリアは出自故にトラブルを招きよせる可能性が高い。保護者も無しに外出するのは危険でさえある。
そんなことは百も承知の少女だが、それでも彼女は此処へ来ることを望んだ。
その理由は、今一度己の原点に立ち返るためである。
「……」
騎士団に務める彼女はなかなかの高給取りで、また遊びとも縁遠い性格のため、給金は溜まる一方だ。今日ぐらいは散財しても、誰も文句は言わないだろう。
だが彼女は店で買い物に興じることも無く、飲食店で美食に舌鼓を打つ訳でもなく、雑踏の賑わいの中をただ目的地へと歩いている。
ふとその時、鼻をくすぐる芳ばしい匂いがした。
そろそろ夕食の買い物客が来るのだろう。足を止めて出所を探ると、パン屋が軒先に商品を並べていた。何のことは無い、平和な市民の営みの一コマである。
しかし少女は僅かに顔を顰めると、決まりが悪そうに早足で店の前を通り過ぎた。貧民時代、何度かパンを盗んだ店である。顔を見られたことは無いためトラブルにはならないだろうが、胸に沸き起こる罪悪感はどうしようもない。
(昔はそんなこと、思いもしなかったのにな……)
貧民時代はいかにその日の糧を得るかで頭がいっぱいで、盗みに対する罪の意識はすぐに感じなくなってしまった。先の展望は何一つ見えず、辛い毎日を何とかやり過ごすために駆け回る日々。それを思えば、今こうして貴族の末席に加えられ、食べるに困らない生活の何と幸福なことか。
大通りにごった返す市民たち。彼らの表情は皆生き生きと輝いていて、活力に満ち溢れている。
路地裏に潜み物陰に隠れ、商品を盗み残飯を漁っていた当時の自分は、彼らから見ればいかに薄汚れていたことだろうか。
振り返れば、大通りの向こうに天高くそびえる教会が見える。以前は何の関心も持ち合わせていなかったが、そこに務めるようになった今はどうだろう。陽光を浴びて白く輝くその威容を目の当たりにすると、何やら胸の内から湧き上がる感情がある。
(最低だな、私って……)
しかし、少女は己の変容を増長の顕れだと心から軽蔑する。
自分は無価値である。というのが少女の変わらぬ自己評価だ。呪われたノマスの血を引く自分は、そもそも生まれるべきではなかったと、彼女は本気でそう思っている。
そんな己が運よく貴族に拾われ、人並みの暮らしを得た途端、鹿爪らしく世相を語ろうというのだ。これが傲慢でなくば何なのか。
フィリアの認識がここまで歪んでしまったのは、幼少時から受け続けた差別によるものである。また国民一般に語られる歴史では、如何にエクリシアが苦難の道を歩んできたかが強調されるため、敵役のノマスはまさしく悪鬼羅刹のように描かれる。少女が自らに価値を見いだせないのも、無理のないことといえた。
それでも少女が意地汚く生き続けている理由。それは偏に愛する家族の為だ。
生きる価値のない、生まれるべきではなかった彼女に、惜しみない愛情をくれた家族。
フィリアの人生は彼女たちの為に捧げると決めていた。
ところが最近はどうか。環境と立場の変化で徐々にしがらみが増えていき、その分だけ家族を護る決意が薄れているのではないか。
騎士に叙勲され、ようやく遠征に選ばれる立場までのし上がったのだ。
全てはこれからの働きに掛かっている。今一度、従士時代の狂気じみた執念を取り戻さなくてはならない。
少女は繁華街を抜けると、聖都の外縁部を目指して歩く。
石畳は次第に痛みが目立つようになり、住居も古く手入れの行き届いていない家が多くなる。
さらに歩を進めると、街並みがはっきりと異なる区画に出る。
石と木で造られた前時代的な建物が、身を寄せ合うように密集した街。
そこは様々な事情からまっとうに暮らせなくなった者たちが最後にたどりつく場所、貧民窟と呼ばれる地域である。
聖都の北部の一角を占めるこの街は、高い城壁がすぐ側にあるせいで日照時間が短く、まだ昼日中だというのに既に薄暗い。
暗く湿った印象を受けるのは、何も影がかかっているからだけではない。
建物はどれも薄汚れてボロボロで、倒壊していないのが不思議な家屋さえ珍しくない。
曲がりくねった道は地面がむき出しで、汚水が所々で水たまりを作っている。
市民が挙ってエクリシアの恥部と蔑むその街に、フィリアは従容と足を踏み入れる。
もはやここまでくれば、目を瞑ってでも歩ける。
迷いなく少女が向かった先は、石造りの古ぼけた建物。
彼女たちが長らく住んでいた、思い出溢れる家である。
「…………」
目的の場所を前にして、少女は感慨にふける。
最後の記憶よりも、少し老朽化が進んでいるようだ。何しろこの家を離れてもうすぐ二年になる。筆舌に尽くしがたい苦難と試練を成し遂げられたのも、この家で過ごした思い出があったからだ。
フィリアは躊躇いながらも、木戸に手を掛けた。
鍵は掛かっていないが、立て付けの悪さはそのままだ。
少女は苦笑を浮かべながら、えいと小さな掛け声と共に戸を開いた。
そうしてかつての我が家に足を踏み入れると、
「……えっ!?」
少女の鼻を突いたのは、汗と垢の饐えた臭い。そこに酸化した安酒の臭いが加わって、耐えがたい悪臭が漂っている。
暗い室内を見渡せば、調度はあちこちが破損し、完全に壊れている物もある。床には残飯や空き瓶が無遠慮に転がって、虫がたかっている。
貧しいながらも清潔に整えられていたはずの我が家が、見るも無残に荒らされている。
完膚なきまでに穢された我が家を目の当たりにして、少女の胸に怒りと動揺が湧き起こる。
その所為だろう。少女は背後から近づく足音に気が付かなかった。
「手前ェここで何してやがるっ!」
酒やけした怒声と共に、フィリアの後頭部を強い衝撃が襲った。
× × ×
幸いにも、少女が意識を失っていた時間はそう長くは無かった。
「ん、うぅ……」
二度三度瞬きをして、ぼやけた視界を正常に戻すと、汚れた床板が目に飛び込んだ。
荒れ果てているが、そこは我が家の居間である。
どうして床で寝てしまったんだろう。それにこの汚れ様、さては弟が何かひっくり返してしまったか。と、少女は焦点の定まらぬ思考でぼんやりとそう考える。だが、
「っ!」
即座に状況を思い出したフィリアは、全身をバネのように用いて立ち上がろうとする。しかし、
「――ぐっ!」
手足はきつく縛られていて、勢い余った少女は無様に床を転がってしまう。
「おい、なんだもう起きやがったぞ」
「ノマスのガキは頑丈だな」
物音に気付いたのか、二人の男が立ち上がり、寝転がるフィリアに近づいてきた。
「おい糞ガキ! 勝手に人様の家に入って何のつもりだ」
手入れの足らない頭髪に延ばし放題の髭をした中年男が、少女を見降ろしてそう凄む。息が酒臭い。かなり酔っているようだ。
「どうせ盗みに決まってんだろ。見ろよこれ、随分手癖が悪いみたいだぜ」
もう一人の男は素面のようだが、痩せすぎた顔に眼だけがギラついていて、見るからに陰惨で酷薄そうな顔をしている。
痩せた男がつまみあげているのはフィリアの財布だ。彼らはダイニングテーブルに少女のポーチを広げ、中身を検分していたらしい。
「大した腕じゃねえか。いったいどこから盗んできたんだ? これだからノマスの奴は信用ならねえ」
口ぶりは非難がましいが、痩せ男は下卑た笑いを浮かべながら財布を眺めている。子供の小遣いとはいえ、財布には貧民なら一月は余裕で暮らせる額が入っている。
彼らがそれを奪おうと考えているのは明らかだ。
(なんて無様を……)
少女は内心で歯噛みする。
少し考えれば予想できたはずだ。貧民街では居住権など存在しない。程度のよさそうな無人の建物があれば、新たに誰かが居就くことなど珍しくも無い。久しぶりに実家へ帰る嬉しさの余り、そのことを失念していた。貧民時代のフィリアなら、決して犯さなかったミスである。
おまけに彼らは、フィリアの事を頭から貧民の盗人だと判断しているようだ。
ポーチはともかく、着用している衣服も高級品なのだから、少女がやんごとなき身分の者だと判りそうなものである。しかし、ノマスの血筋の者は貧民ないしは奴隷というイメージが強すぎるのだろう。
騎士団の広報によってフィリアの顔はそこそこ売れている筈だが、彼らに気付いた様子は無い。我が身を鑑みれば、貧民時代は時事ネタや流行の話題などまるで頓着がなかった。住む世界が違う話題に、人は興味を持たない。
「どこから盗んだんだぁ? 言ってみろ。そうすりゃ仕置きは軽く済むと思うぜ」
髭面の男がしゃがみこみ、気持ち悪い猫なで声でそう言う。
どうせ金目のものは懐に入れるのだろう。ついでに窃盗犯を騎士団に突き出して、貴族から謝礼金もせしめるつもりに違いない。
勿論、消え失せた金品は少女が隠したと主張するつもりだろう。ノマスの貧民よりは、酒浸りのエクリシア人の方がまだ社会的な地位は上だ。
「……イリニ家の、お屋敷からです」
フィリアは掠れ声でそう呟く。
連中がフィリアを騎士団に突き出すつもりなら、話は簡単に済む。イリニ騎士団で少女の顔を見知らぬ者はいない。拘束されたフィリアを目にした時点で、この男たちは簀巻きにされるだろう。
当然ながら、アルモニアやメリジャーナには心配を掛けるし、フィリアのキャリアも地に落ちる。遠征の選抜にも影響が出るかもしれない。ただし、現状考え得る最悪の事態、此処で命を落とす事だけは避けられる。
冗談ではない。こうした連中は恐ろしく短絡的に行動する。もし少しでも面倒事の気配を感じれば、少女を殺して事態の隠ぺいを図ろうとするだろう。
つくづく不意打ちを許したのが悔やまれる。トリガーさえ起動できていれば、こんな輩など二秒でこの家から叩き出せただろうに。手足を縛られた現状、テーブル上のトリガーを奪取するのはリスクが高過ぎる。彼らの不見識につけ込むのが確実だ。
元より彼女に過分なプライドなど存在しない。目的の為ならば泥水を啜る事さえ辞さない少女である。ごろつきに頭を下げ、命乞いをするなど何ほどの事でもない。
「おいおい嘘だろ。あのイリニ家から盗むとか、とんでもないガキだな」
痩せ男が大げさに驚いて見せる。動作が不自然なまでに大仰だ。目もどこか虚ろである。何か怪しい薬でも服用しているのだろうか。
「……」
フィリアは怒りを押し隠し、男たちの反応を待つ。
「おい、これってトリガーじゃねえか?」
痩せ男がトリガーに気付いたようだ。二人は醜悪な笑みを一層濃くする。
市民の戦闘用トリガーの所持は法で固く禁じられている。トリガーを所持、携帯できるのは従士あるいは騎士だけだ。つまり、少女の主張に裏付けが取れたことになる。
「これで誰を殺すつもりだったんだ? ノマスの奴はこれだから見逃しちゃなんねえんだ」
酒臭い息を撒き散らしながら、髭面の男が唸る。市民の通例通り、彼もノマスの血族に強い憎悪を抱いているらしい。
もはや少女にとってはどうでもいいことだ。もうしばらく屈辱に耐えれば、彼らは正当な裁きを受ける。
フィリアは無言で身じろぎ一つしない。男たちからは恐怖で身動きが取れないように見えるだろう。この窮地にあっても、あくまで少女は冷静そのものであった。
――次の瞬間までは。
「このペンダントはどうするよ?」
「――っ!」
痩せ男がこれ見よがしに手から提げているのは、宝石に彩られた銀細工の鍵である。
ようやく少女は己の違和感に気付いた。肌身離さず身に着けていた大切なペンダントを、失神中に奪われていたのだ。
「いいじゃねえか。値が張りそうだ」
「バカお前ェ、こんなん足が付くに決まってんだろ。もし俺らが売ったってばれりゃ、縛り首になるぜ」
「じゃあどうすんだよ、貴族に返すか? 褒美に色が付くかもな」
「もしくは、潰して地金にしちまうかだな」
下卑た声で盗品の始末を検討する男たち。
それを耳にした時、フィリアの頭から一切の見境が消し飛んだ。
「それに触るなっ!!」
怒号を放ちながら、少女は跳ね起きるように地面から立ち上がる。両足を縛られていながらよろけもしない。
騎士団で苛め抜いた少女の身体は、生身であっても驚異的な運動能力を持つ。
床板を蹴ったフィリアは、放たれた矢のように痩せ男へと飛びかかった。そして、
「ひぃぃぃっ!」
狼が得物に襲い掛かるように、ペンダントを摘まむ指に喰らいつく。
「い、痛え、痛えよぉ! 何しやがるこのガキぃ!」
痩せ男の喉から情けない悲鳴が零れる。
少女の白い歯が薄汚れた男の指に食い込み、鮮血を滴らせる。
家族の愛の証であるペンダントは彼女の生きる意味であり、魂の尊厳そのものだ。
心の奥底を泥足で踏みにじられ、フィリアは過去にないほど激昂していた。
その怒りのほどは、あるいは殺意の域にまで達しているかもしれない。
普段の冷静沈着な態度はあくまで処世の為。彼女はまだほんの子供である。感情を完全にコントロールするなど不可能だ。
もし彼女に一片の理性でも残っていたなら、テーブルの上にあるトリガーを奪取しようとしただろう。ただしその場合、おそらくフィリアはごろつき共を殴り殺していたに違いない。
少女は悪鬼の形相を浮かべ、指を噛み千切らんばかりに力を込める。痩せ男はパニックになって腕を振り回すが、いたずらに傷を広げるばかり。だが、
「ノマスの雌犬がっ!」
髭面の男が駆け寄り、フィリアの腹を思いきり殴りつけた。
「――がっ」
幾ら鍛えた身体とはいえ、体格差は如何ともしがたい。少女の細い身体がくの字に折れ曲がり、肺の空気が絞り出される。
そうして顎の力が緩んだところに、痩せ男が思いきり腕を振り払った。
「――く、ぁ」
吹き飛ばされた少女は床をはね転がって壁に激突し、ピクリとも動かなくなった。
「っ痛ぇ、噛みやがった、噛みやがったぞこいつ!」
「殺されてェのか糞ガキぃ!」
思わぬ少女の反撃を受け、ごろつき二人は完全に怒り心頭に発していた。
痩せ男は泣き喚きながら呪いの言葉を吐き、髭面の男は怒りの余り意味不明となった罵声を少女に浴びせる。
「か……えせ、かえし……て」
床に伏したまま動かないフィリアは、それでも目だけを爛と光らせ、うわごとのようにそう呟き続ける。
「手前ェ自分が何したか分かってんだろうな、ああ!?」
「――ぅ」
怒り狂った髭面は床を踏み抜かんばかりの勢いで少女に詰め寄ると、頭髪を掴んで乱暴に引きずり起こす。目は血走り口の端には泡を吹かせ、最早正気の様相ではない。
「売女が盾突きやがって! ぶっ殺してやる!」
「ぐっ」
髭面は掴んだ頭を地面に叩きつけ、少女を再び這いつくばらせると、太い脚を高々と持ち上げた。
このまま全体重をかけ、思いきり踏みつけるつもりだ。
大男のストンピングを受ければ、少女の細い骨などひとたまりもなく砕け、内臓は破裂するだろう。しかし、朦朧としたフィリアには、それを避けることなどできるはずもない。
もはや少女の運命は風前の灯かと思われた。その時、
「そこまでにしなよ」
険を含んだ少年の声が、荒れ果てた室内に響いた。
× × ×
闖入者の声に、髭面の男は驚いたように振り返る。戸口に立っていたのは異様な風体の少年だ。
着衣は平民のそれだが、凛々しい顔だちは高貴な生まれを思わせる。また蛮行の現場に居合わせて怯むこともなく、その立ち姿は年齢にそぐわぬ程に堂々としている。
そして何より目を引くのが、澄み切った蒼天のように青く輝く髪と瞳だ。
エクリシアでも類を見ない容姿の少年だ。姿から出身階層を推し量るのは難しい。
少年は不快そうに顔を顰め、男たちを眇め見ている。
「手前ぇこのガキの仲間か!」
興奮とアルコールの為か、はたまた暴行の現場を押さえられたことへの恐怖か。
髭面の男は怒鳴り声を上げ、大股で少年へと歩み寄る。
「通りすがりだよ。それよりその子をすぐ医者に連れて行かなきゃ」
大男の圧力を平然と受け流し、少年は淡々とした口調でそう言う。
「うるせえ! ノマスのガキなんざ殺したって何の問題もねえだろうが」
少年の異様な態度に怯んだのか、髭面が虚勢を張るかのように吠える。
「死んでいい人なんて、何処にもいやしないよ」
そんな男を心底憐れむように、少年はどこか悲しげにそう呟く。
「なあ、おいアンタ……」
すると、成り行きを見守っていた痩せ男が、
「こいつは盗人なんだ。勝手に家に入り込んで荒らしてやがった。それにほら、見ろよこれ。あのイリニ家から盗んだって白状したんだぜ」
テーブルのポーチを持ち上げ、自らの正統性を主張する。少年の身分が分からぬ以上、とにかく抱き込もうという判断だろう。
「……それをイリニ騎士団に持っていけば、君たちは縛り首になるだろうね」
だが少年はより嫌悪の表情を強めて、そう吐き捨てる。
「ああ!? 何言ってんだ。俺たちは被害者だぞ。この傷を見ろ。この雌ガキが噛みやがったんだ」
「まあ、それはいいよ。とにかく荷物をその子に返してあげなよ。それから……」
傷跡を見せびらかす痩せ男に素気無く応じ、少年は縛められたフィリアへ向かって歩き出す。その時、
「――ガキが指図するんじゃねえっ!」
一向に主張を受け入れられないことに腹を立てたのだろう。髭面の大男が少年の顔面を思いきり殴りつけた。
「――!」
少年は木端の如く吹き飛び、椅子をなぎ倒しながら食器棚へとぶつかる。
フィリアの時とは異なり、まともに顔に入っている。頬骨が砕けるどころか、下手をすれば首の骨が折れていてもおかしくない倒れ方だ。だが、
「~~あ、ああ、がああっ!」
悲鳴を上げてのたうっているのは、髭面の大男の方であった。見れば、少年を殴りつけた右手の指はあらぬ方向に曲がり、赤黒くはれ上がり始めている。
「むやみに暴力を振るうから、そういうことになるんだよ」
服の埃を払いながら、少年が何事も無かったかのように立ち上がる。痛みにすすり泣く大男を、侮蔑と憐憫と諦念が混ざったような複雑な視線で眺めている。
明らかに大怪我を免れない暴行を受けながら、少年が平然としている理由。それは、
「と、トリオン体……」
痩せ男が驚愕も露わに後じさる。
トリオン体は物理的な衝撃には非常識なまでの耐久力を持つ。すなわち髭面の男は、少年の形をした鉄塊を本気で殴りつけたも同然だ。拳が壊れるのも当然の結果だろう。
「な、なんで、お前は……」
そしてこのエクリシアに於いてトリオン体で活動できる者は、治安維持を司る騎士団関係者だけだ。このごろつきたちは、法の執行者に手を挙げたことになる。
「っ――う、動くな!」
痩せ男がフィリアのトリガーを掴んだ。
このままでは牢屋行きになるのは明らかだ。破れかぶれで最後の抵抗を試みるつもりだろう。
「……それを
すると少年は物憂げにそう呟き、ゆっくりと歩を進める。まるで馬鹿馬鹿しい悪戯を咎めるような表情と口調だが、震えあがるほどに凄絶な威圧感を発している。
見た目は子供だが、トリオン体はそのものが強大な兵器である。銃口を突きつけられているのと何ら変わりない。
「ひ、ひぃ!」
「もういいでしょ。それを置いて、彼を医者に連れてってやりなよ。追い掛けたりしないからさ」
無様に悲鳴を上げる痩せ男に、少年は一転して優しい調子で話しかける。
それで意地も尽きたのか、痩せ男は痛みで失神しかけている髭面を無理やり立たせると、這う這うの体で家から逃げ出していく。
「――さて」
ごろつきを追い払うと、少年は一転して真面目な表情となり、未だ地に伏せるフィリアへ急ぎ足で向かった。
「あなたは……」
「意識はあるね。ちょっと御免よ」
少年はフィリアの目元に指を当て、瞼を開いて瞳を覗き込む。瞳孔の収縮を調べているのだろう。
「~~っ!」
凪いだ湖面を思わせる、吸い込まれそうなほど深く澄んだ青い瞳。
気が付けば、額が触れそうなほど近くに異性の顔がある。フィリアの霞がかった思考が、羞恥によって急速に鮮明となる。
「このトリガーは君のだね。起動できるかい」
打撲痕を調べるなど、一通りの触診を行うと、少年は痩せ男から奪い返したトリガーをフィリアの手に握らせた。
「それと、はいコレ。大事な物なんだね」
それから少年は思い出したように、フィリアの首に銀の鍵のペンダントを掛けてやる。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。さ、トリガーを起動して」
「は、はい……」
促されるままにフィリアはトリガーを起動し、トリオン体となる。
トリオン体に換装した際、生身の体はトリガーへと格納される。外部からの干渉を遮断するため、いたずらに傷を悪化させずに済むのだ。
「さて、失礼するよ」
「わっ、ひゃっ!」
フィリアの胸にポーチを預けると、少年は少女の身体をヒョイと横抱きに持ち上げた。
戦闘用のトリオン体は十五・六歳をイメージしてデザインされている。首一つ大きいフィリアを少年が抱き上げるという少々不格好な体勢となったが、トリオン体の彼にとって華奢な少女の体重などどうということもない。
「あ、あの、降ろしてください! 私はなんとも――」
「はいはい大丈夫だよ。すぐに着くから安心してね」
フィリアの抗議を聞き流すと、少年は足早にフィリアの生家を出て、貧民街の通りに彼女を連れ出す。
「ひ、人に見られます! あの、ちょっと」
「見られると困るのかい? わかった。じゃあ舌を噛まないように気を付けてね」
言うやいなや、少年はフィリアを抱えたまま超人的な脚力で地面を蹴り、瞬く間に建物の上へと飛び上がる。
「~~っ!!」
そうして、少年は猛烈な勢いで屋根伝いに走り出した。
まだ日も高い。波のように広がる赤い瓦屋根が、陽光を受けて燦然と輝いている。
陰惨な諍いなどまるでなかったかのように、聖都は変わらずその威容を誇っていた。