WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
「そんなに大した怪我では無かったよ。お腹の痣も一週間もすれば治るだろう。ただ、しばらく安静にして、あまり動き回らないようになさい」
「はい。承知しました先生」
優しい色合いで統一され、清潔に整えられた病室。そのベッドの上で、フィリアは老齢の医師から診察結果を聞かされていた。
謎の少年はフィリアを抱えるや、一目散に市街地にあるこの病院へと彼女を連れてきた。
大男に強かに殴られており、一時は意識も失っていた。何はさておき、まずは身体を調べなければならない。
病院を訪れたのは、戦闘用トリガーを持ったノマスの少女に、世にも奇妙な風貌の少年という取り合わせである。
一悶着があって当然の訪問者だが、老齢の医師と少年は顔見知りであったらしい。特に何も問題は起きず、フィリアは速やかに検査室へと運ばれた。
また、医師はフィリアの身元にも気付いたようだが、余計な詮索を受けることも無かった。あるいは、少年はそれを知っていてこの医院に彼女を連れてきたのだろう。
「何から何まで、本当にありがとうございました」
「いやなに、それが仕事だからねえ」
腹の痛々しい痣には湿布をべたりと張ってもらった。
医療用トリガーで精密な透過写真も撮影してもらったところ、骨にも内蔵にも異常はないとのこと。
ただ、軽い脳震盪を起こしていたらしく、しばらくは絶対安静を言い渡された。
「
「……はい。要らぬ心配を掛けてしまいますので」
医師の探るような視線に、フィリアは粛々と答える。
拳の形の痣など、医者が見間違えよう筈もないのだが、フィリアはこの怪我を一貫して転んだ所為だと主張していた。
「そうかね……分かったよ」
「……ありがとうございます」
正直なところ、フィリアは我が家を占拠していたならず者たちには、本気で怒りを覚えていた。ただ、憎み切っていたかといえば、必ずしもそうではない。
彼らとて、生きるのに必死なのだ。
それは他ならぬフィリアだからこそ、身に染みて分かる。
もしイリニ家に拾われることがなければ、病んだ母を抱えたまま暮らしが困窮していたならば、はたして自分は他人を傷つけられずにいただろうか。
彼らは、ありえたかもしれないフィリア自身の姿なのだ。
それを思えば、ただただ虚しさだけが心を吹き荒び、身体の痛みさえどうでも良くなってしまった。
そして、この事件は既に政治問題となっている。
貴族の子弟が、貧民のならず者に白昼堂々襲われたのだ。一つ間違えれば殺されていたかもしれない。
これを公表するかどうかで、イリニ家の施政方針は大きく変わるだろう。
無論、彼らは法を破った犯罪者だ。貴族としての立場からすれば、彼らを捕まえることは義務である。
ただしその結果、間違いなく貧民への風当たりはより強くなる。過酷な生活を強いられた彼らを、その境遇から抜け出したフィリアが追い詰めることになる。
そしてなにより、フィリアが襲われたことを知れば、アルモニアやメリジャーナも激昂するに違いない。
あの優しい人たちの怒りに染まった顔を、少女はどうしても見たくなかった。
ならば、今日の出来事は胸に秘してしまうべきだと、少女はそう考えた。
「もし、急にめまいがしたり気分が悪くなったり、お腹が痛くなったりしたら、すぐお医者に掛かるんだよ」
「はい。分かりました」
検査結果を知らせ終え、医師は退室した。
もう病院から帰っても問題は無いのだろう。少女はベッドから降り、身支度を整える。そこへ、
「や、お疲れさま」
青髪の少年が医師と入れ替わるように入室してきた。
「――あ、あの」
「そんなに酷い怪我は無かったんだって? よかった、一安心だね」
少年はそう言いながら、気軽な足取りで少女へと近づく。そうして手にしていたフィリアの帽子を、そっとベッドの上へと乗せた。
「これは……どうして?」
「いやぁ持ってくるのを忘れてね。さっき取りにいったんだ」
晴れやかな笑みを浮かべる少年に、フィリアは怪訝そうに眉根を寄せる。素性も知れない彼に、此処まで良くしてもらう意味が分からない。
それでも少女は帽子を恭しく受け取ると、
「……助けていただいて、ありがとうございました」
と、素直に礼を述べる。
「私の事を御存じのようでしたが、改めまして、フィリア・イリニと申します」
「ああ、ご丁寧にどうも。僕はアヴリオっていうんだ。よろしくね」
少年は屈託なく微笑みながら、ベッドに腰を落とす。
「……アヴリオ様は、教会にお仕えしてらっしゃるのですか?」
と、少女は幾分自信なさげに尋ねる。立て続けに起こった騒動で、彼女の頭はパンク寸前だ。サイドエフェクトも今一つ働かない。
彼はトリガーを所持し、街中で起動している。エクリシアの要職に就いている人物に間違いない。
とはいえ、フィリアは少年の事をまったく知らない。このように目立つ容姿で、尚且つ少女と同世代というなら、余所の騎士団に所属していても風聞くらいは耳にするだろう。
他にエクリシアでトリガーの携行を許されているのは、教会の研究員や聖堂衛兵たちぐらいのものだ。
彼らとは面識が薄いため、フィリアの知らぬ顔がいても不思議ではない。
「そうそう。教会に出入りしてるんだ。今日は久しぶりのお休みだったんだけど……」
「それは、御迷惑をおかけしました」
生真面目な性格のフィリアが謝罪の言葉を口にすると、アヴリオはいやいやと大げさに手を振ると、それまでの経緯を語りだす。
曰く、街を散策していた少年は、偶然にも今を時めくフィリアの姿を見かけ、興味本位から後をつけることにしたらしい。しかし、貧民窟で少女を見失い、諦めて帰ろうとしたところであの騒動の音を聞きつけたそうだ。
その後の展開はフィリアも知る通りだ。
「だから、謝るとしたら僕の方かな? こっそり追いかけてたなんて気持ち悪いよね」
言葉とは裏腹に、アヴリオはまるで悪びれた様子も無く声を上げて笑う。まるで悪戯がばれた子供のような仕草だ。
フィリアからすれば、少年は命の恩人であるためそう粗略にもできないのだが、こうも邪気のない姿を見ていると、何やら肩肘を張って対応するのが馬鹿らしくなる。
少女の顔に、知らず知らずに笑みが浮かぶ。
「追跡に気付かなかったとは、随分な不覚です」
「そこは僕の腕前かな。気配を隠すのは得意でね。教会から抜け出すのもしょっちゅうさ」
「お仕事を蔑ろにするのは、あまり感心できませんね」
「だから叱られてばっかりでさ。最近はろくすっぽ休みも貰えなくてね嫌になっちゃうよ。まあ今日は出歩いててよかった。フィリアさんのピンチに間に合ったからね」
「はい。本当にありがとうございます」
他愛のない世間話を続けながら、フィリアは所持品を改める。アヴリオのおかげで無くなった物はない。ワンピースは少し汚れてしまったが、家人には言い訳できる程度だ。
「さて。じゃあこれからどうしよっか?」
少女の身支度が済むのを見計らって、アヴリオが気楽な声でそう言った。
「え?」
「もう一回あそこに行く? それともどこか遊びに行こうか。この近くなら美味しいクレープの屋台があるなあ。今日も出てるといいけど」
もう今日は大人しく自室で寝ていようと考えていたフィリアだが、少年の意見は違うらしい。アヴリオは勢いをつけてベッドから立ち上がると、うきうきとしたように微笑む。
「……あ、はい。そうですね……」
少年のあまりに人懐こい仕草に、フィリアは胸中困惑を隠せない。
危局を助けてもらったとはいえ、彼とは初対面だ。基本的に人見知りの少女にとって、少年の気さくに過ぎる態度はちょっとした恐怖でさえある。
だが、アヴリオはフィリアの相槌を快諾と捉えたようで、
「よっし! それじゃあ行こうか」
と、大手を振って病室から飛び出していく。
「あ、待ってください!」
フィリアは慌てて帽子を被り、少年の後を追いかける。
「もう! 病院では走ってはいけません!」
暴悪に晒され身も心もボロボロであったはずの少女。しかし、この不思議な少年に振り回されていると、つい痛みを忘れてしまったようだ。
× × ×
結局、行動力の塊のようなアヴリオに引っ張られ、フィリアは聖都中を練り歩くことになった。
屋台街では菓子やジュースを食べ歩き、商店街では雑貨店や本屋を冷かして回る。公園の野外劇場では喜劇を観劇し、大いに盛り上がった。
恒常的に戦争を続けている
長らく貧しい暮らしを続けてきた少女にとって、立ち並ぶ商店はただの箱に過ぎなかった。また懐に余裕ができてからも、遊興に費やす時間などありはしなかった。
私欲の為に時間とお金を費やすことは、堕落の始まりだとさえ思っていた彼女だ。買い食い一つとっても、最初は強い抵抗を覚えた。
それが今、少女は飲み物を片手に喜劇を眺め、声を立てぬよう顔を真っ赤にして笑いを堪えている。
彼女一人でなら、きっとこうはならなかっただろう。
蒼穹のように輝く髪と瞳を持つ不思議な少年、アヴリオ。
彼は聖都のあらゆる場所に詳しく、また至る場所に知人がいて、それも職種や階層に隔たりが無い。ノマスの子のフィリアを連れていても、不思議と誰も嫌な顔をしなかった。きっと少年の底抜けの明るさが、嫌悪の心を塗り潰してしまったのだろう。
そんな彼にエスコートされると、それまで舞台の書き割りでしかなかった街並みに陰影が添えられ、鮮やかに色付いていくように見える。
少女の固く閉ざされた心に、新たな世界の姿が曙光のように差し込む。
家族と過ごす心地よさとはまた違った感覚。
フィリアは生まれて初めて、楽しさというモノを知りつつあった。
「いや~傑作だったねぇ! 最近じゃ一番良かったよ」
「ふ、くく……はい。そうですね」
劇が幕を下ろしても、興奮はまだ冷めやらない。
フィリアとアヴリオは感想を述べ合いながら、市民公園を散策する。
「笑い過ぎてお腹減っちゃったよ。あ、そうだ。此処からだとオルニス通りのカモメ亭がお勧めだよ。あそこのパンケーキは蜂蜜が絶品なんだ。もうちょっとすると酒飲みのオッチャンたちが来るから、行くなら今の内だね」
まだまだ遊び足りないとばかりに、アヴリオは笑顔でフィリアに振りむく。しかし少女は名残惜しそうな表情で、
「その……すみません。そろそろ門限の時間が近くて……」
と、そういって詫びる。
すでに日はだいぶ傾き始めている。これからイリニ邸まで戻る時間を考えれば、そろそろ家路につかねばならないだろう。
元々今日はメリジャーナと同伴で外出する予定だった。それも夕刻までには帰ると家人に告げている。
いくら騎士とはいえ、フィリアは未成年である。貴族の子女が一人で出歩くなど以ての外であり、本来ならメリジャーナと別れた時点で帰宅しなければならなかった。
それがついこんな時間まで遊びほうけてしまった。
叱責はともかく、これ以上遅くなれば家人の追及も厳しくなる。そうなれば、あのトラブルに感づかれないとも限らない。
「そっか、それならしょうがないな。あ、よかったら一緒に怒られようか?」
アヴリオは気楽な様子で、冗談交じりにそう応じる。フィリアはくすりと笑って、
「そこまでご迷惑はかけられません。今日は本当に楽しかったです」
と、少年に礼を述べる。
「う~ん……あ、そうだ。フィリアさんイリニのお屋敷に帰るんだよね」
ここでお別れ、との雰囲気になりかけたその時、アヴリオがそんなことを言いだした。
「はい。そうですけれど……」
「じゃあ、最後の場所は決まりだね」
少年はにこやかに笑って、フィリアの手を引いて走り出した。
× × ×
そうして二人がやってきたのはエクリシアの中心部、教会である。
辺りには荘厳な鐘の音が鳴り響いている。終業を報せる鐘だ。
空は既に暮れ初めており、荘厳な建物が茜色に染まっている。
大聖堂では夜のミサの準備が行われていた。教父たちが出入りする中を、こっそり人目を避けるように身を隠しているのは、アヴリオとフィリアだ。
「こっち気付くなよ~……よし。さ、行こう行こう」
柱の陰に身を隠していた少年は、少女の手を引いて教会の奥へと走る。
「あの、この先は関係者以外立ち入り禁止では?」
「何言ってんのさ。僕は関係者だよ」
「そうではなくてですね……」
要領を得ない少年の回答に呆れながらも、少女は少年に連れられるまま回廊を走る。
教会は広く市民に開かれているが、それは聖堂内だけのこと。教会には関係者以外立ち入り禁止の区域が多数ある。見つかれば咎めを免れないだろう。
理性的で堅物ないつもの彼女なら、絶対に立ち入りを拒む筈だ。
しかし、フィリアは苦笑いを浮かべ、どこか浮かれたようにこの状況を楽しんでいる。
羽目を外して気が大きくなっている。というだけではない。何やら少年の持つ明るさに、少女も感化されつつあるようだ。
「さあこの上だよ。早く早く」
尖塔の基部にフィリアを連れてきたアヴリオは、トリオン認証式の扉を手慣れた様子で開ける。教会の塔はエクリシアで最も高い。そこから眺望を楽しもうというのが、少年の最後のプランだろう。
なるほど悪くない。イリニ家の屋敷も近いため、そう長居しなければ門限にも間に合いそうだ。
「結構階段キツイよ、生身で大丈夫?」
「ご心配なく。鍛えてますから」
大の男でも膝が笑う長さのらせん階段を、苦も無く駆け上がる少年と少女。
程なく彼らは塔の頂上へと辿りつき――
「わぁ……」
眼下に広がる絶景に、揃って言葉を失った。
世界が、金色に輝いている。
丘陵の向こうに沈む太陽。その優しい光に照らされて、聖都の街並みは幻想的な影絵のようだ。
あれほどの活気に満ちた大都市がこんなに小さく、愛おしい箱庭のように見える。
それは市中では決して見られなかった光景だ。
そして、その絶景に見蕩れる間もなく、世界は刻一刻と色を移し替えていく。
金色から赤みがかった紫へ、深く静かな濃紺へ。
光の諧調が織りなす神秘的な空は、その下に広がる街の風景さえも変えていく。
ぽつり、と街に灯りがともされる。
夜の気配が立ち込めると、まるで花が一斉に咲き乱れるかのように、聖都の街が光に染まっていく。
「ほら、ごらんよ」
陶然とその景色を眺める少女に、少年はそっと指で空を指す。
見れば、藍色の空には
大小さまざまな人造の星が、夜空を彩るように瞬く。
エクリシアの民ならだれもが嫌忌する戦乱の凶星が、この時ばかりは世界を慈しむように輝いている。
その絶景を前にして、一体どれ程の時間が経っただろう。
フィリアは未だ夢から抜け出せないように、熱いため息を吐く。
「……すごい、です。こんなの、初めて見ました」
「それはよかったよ。僕もここから見る景色が一番好きなんだ」
人好きのする笑顔を浮かべて、アヴリオがそう言う。
この景色をフィリアに見せることができて、心底喜んでいるようだ。しかし、
「ってあれ、ちょっとどうしたのさ!?」
少年が驚いたように声を上げる。
「え――?」
振り向いたフィリアはそこでようやく、自分が涙を流していることに気付いた。
「あ、あれ……これは……」
目じりを伝い、止めどなく流れる涙滴を、少女は困惑した様子で慌てて拭う。
「大丈夫かい、どこか痛むの?」
「い、いえ。そんなことは……」
アヴリオは気遣わしげにフィリアの様子を窺うが、少女はただ溢れる涙に困惑するばかり。
一先ず体の不調によるものではないと分かると、少年は少女を床に座らせ気持ちが落ち着くのをじっと待つことにした。
「どう? 少しはマシになったかい」
「……はい」
ハンカチを握りしめ、フィリアは俯いて答える。
いつしか日は完全に沈み、エクリシアには夜の帷が下りている。
「すみません。またご迷惑を掛けてしまいました」
「なんてことないよ。ただビックリしただけさ――ただ」
少女の謝罪を飄々といなして、少年は茶目っ気たっぷりに肩をすくめる。そして、
「もし、君の心を傷つけてしまったのなら、心から謝らせて欲しい」
思いもがけないほど真摯な態度で、彼はそう頭を下げる。
その眼差しと表情には輝く知性と荘重な品格が溢れていて、あの陽気な少年と同一人物であるとは思えないほどだ。
「――そんな、違います!」
真剣に詫びるアヴリオに、フィリアは声を大にして異を唱える。
「本当に、何でもないんです。ただ、……ただ」
あまりも綺麗で。と少女は溢す。
暗黒の海を巡る
それは、このエクリシアも例外ではない。
この残酷な世界では、個人の抱いた喜びや悲しみ、怒りといった感情など、泡沫のように儚い事象に過ぎない。
闘争という名の支配者が、脱落者を犠牲にしてこの世界を動かし続けていく。
世界は私の為にあるわけではない。
フィリアはとっくの昔に、そんな当たり前の事実に気付いていた。
だからこそ、彼女はその定理を重く受け止め、世界の法則に従って生きてきたのだ。
全ては、彼女の小さな幸福の為に。
それなのに、
「なんで……こんなにきれいなんですか?」
この世界は、途方も無く美しい。
身を打ちふるわす喜びに、胸の奥から溢れる愛しさに、少女は引き裂かれるような嘆きを感じる。
この世界が汚泥に塗れ、悲嘆の上に成り立っているのというのなら、我慢もできる。納得もできる。それは純然たる生存競争なのだろう。
けれど、この美しさはなんだろうか。
もし美が善性を体現するというのなら、この世界は愛に満ち溢れていることになる。
そうなれば彼女の、否、
その事実に思い至った時、フィリアの胸にどうしようもない虚無感が押し寄せ、嬰児の如く涙が溢れてしまった。
いつか、アルモニアが言っていた。世界は斯くも美しいと。
それがこんなにも残酷な美であるならば、気付かぬ方がまだしも幸せだった。
「すみません。だから、決してアヴリオ様の所為ではないんです」
たどたどしい口調でそう弁解するフィリア。
少年は一先ず少女を落ち着かせようと、そっと背中を撫でる。そして、
「綺麗なのは、きっとそこに人がいるからさ」
と、優しい笑みを浮かべてそう言った。
「……えっ?」
少女は怪訝そうに聞き返す。
人がいるからこそ、世界は美しい。
それは記憶の奥底で、何時か誰かが口にしていた言葉ではなかっただろうか。
「ほら、見てごらんよ」
アヴリオに促され、フィリアは街灯りの広がる夜景を望む。
「この一つ一つに人が暮らしてる。数えきれない命があるんだ。そりゃあ綺麗に決まってるさ。今日僕らがあった人の数なんて、ほんのちょっとだろ? それでもあんなに楽しかったんだから」
少年は誇らしげ胸を張り、そう言ってフィリアを元気づける。
「そう……ですね」
しかし、少女は未だ浮かない顔だ。
彼女の心を曇らせているのは、人の営みを無慈悲に奪い去るこの戦乱の世界だ。
「こんなにも人がいるんだからさ――だから大丈夫だよ。その内きっと、誰かがいい方法を見つけてくれるさ」
「――えっ?」
すると、少年は困ったように頬を掻き、蒼く煌めく瞳を細めてそう言う。
「君みたいな優しい子だと、やっぱり嫌になるよね。こんなに戦いばっかりしてちゃさ」
まるでフィリアの心情を見透かすかのように、少年は朗々と言葉を続ける。
闘争を宿命づけられた
程度の差はあれど、そこに暮らすほぼすべて人々は戦いを肯定している。相争い、奪い合うことは、当たり前の日常として受け入れられているのだ。
そんな
恒久の平和を願う彼らは一様に、この世界の残酷な仕組みに心を痛めてしまう。
彼は、そんな人間がいることを知っているのだろう。
「もっと、世の中が良くなればいいんだけどなぁ」
少年は遠い目をしてそう呟く。
「……アヴリオ様は諦めたんですか?」
どこか他人任せなその言い草に、フィリアは猛然と腹を立てた。
少なくとも、少女は母を救うために必死に努力してきたつもりだ。少年が本当にこの世界を憂いているというのなら、彼はいったい何をしてきたというのか。
「僕は駄目だよ。馬鹿だからさ」
「そんなこと、やりもしないうちから決めつけるんですか!?」
フィリアがそう非難すると、アヴリオはにやりと笑って、
「あ、よかった。ちょっと元気でてきたかな」
と、混ぜっ返す。
「な、何を……」
「そうだね。……その通りだ。僕も頑張らなきゃいけないか」
少年はそう独言すると、改めて眼下の絶景を眺めた。吹き込む夜風が蒼い髪を弄ぶ。
「世界を、良くする方法ですか……」
「よかったらフィリアさんも一緒に考えてよ。僕はどうにも自信無いしね」
「そんな方法があったら……」
いつの間にか涙も収まったフィリアは、アヴリオと並んで壮麗な夜景に見入る。
アルモニアはこうも言っていた。世界は残酷だが、それでも尊いモノは確かにあると。
フィリアにとって、それは家族の絆に他ならない。家族を護るためなら、フィリアは何であろうと敵に回す覚悟だ。
それは少女にとって揺らぐことのない、「こちら」と「あちら」を隔てる基準である。
けれどもし、この
きっと世界は、別の姿を見せるのではないか。
まるで現実味のない夢想に、少女は思いを馳せる。
ついそんなことを考えてしまう程、目の前に広がる光景は美しさに満ちていた。
× × ×
不思議な少年アヴリオと教会で別れ、フィリアはイリニ邸へと帰ってきた。
随分長居をしてしまったため、門限はとっくの昔に過ぎている。
家政婦長にこってりと怒られたが、幸いにも事細かに追及されることはなかった。しでかした不品行は、門限破りだけで済みそうだ。
アルモニアはまだ帰宅していない。騎士団で幹部たちと会議をしているはずだ。
「……疲れた」
湯あみを済ませ、自室へと戻ってきたフィリア。緊張が解けると、どっと疲労感が押し寄せる。
今日はフィリアの人生でも稀に見る濃密な一日であった。
朝方に服選びを迷っていたのが、遠い昔に感じるほどだ。
そう、服といえば、まだやるべきことがある。メリジャーナとニネミアに買ってもらった服は、既に屋敷に届けられていた。
それらを検品して、クローゼットに収めねばならない。
ワードローブの管理など、別に女中に頼んでおけば事足りる用事だが、折角二人に選んでもらった衣服である。
他人任せにするのはなんとなく義理を欠く思いがある。少女は衣服を受け取りに、のそのそと廊下へ出た。すると、
「あれ、姉さん帰ってきてたの!?」
「お帰りなさいフィリア。今日は楽しかったですか」
アネシスとヌースに鉢合わせた。
妹は風呂上りなのだろう。赤毛を緩く束ね、体中からほかほかと湯気を立てている。
彼女たちの世話を焼くヌースは、いつもと変わらぬ様子で側に付き従っている。
「姉さん姉さん! すっごい沢山服が来てたよ!? あれ全部姉さんの? 今日買ったの?」
既に大量の衣類を目にしていたのだろう。アネシスが飛び跳ねるようによってくる。彼女はフィリアと違い、おしゃれに興味深々の年頃だ。綺麗な服が気になって仕方ないのだろう。
「ああ、うん。一応目を通しておこうと思って……」
「わ! それじゃあサロスとイダニコも呼んでくるね。ちょっと待ってて姉さん!」
それに、ここしばらくは弟妹と過ごす時間も無かった。きっとフィリアと同じく、彼女も寂しい思いをしていたに違いない。
アネシスは喜び勇んで兄弟たちの部屋へと駆けていく。
どうやら、まだ休む訳にはいかなくなったらしい。それでもフィリアに不満を感じた様子はなかった。
家族と過ごす一時は、何にも増して彼女に活力をもたらす特効薬なのだ。
それからフィリアの部屋で、アネシスがプロデュースするファッションショーが開かれることになった。
観客はちょっと照れて不服そうなサロスと、ニコニコと満面の笑みを浮かべるイダニコ。
モデルはもちろんフィリアその人。撮影記録係はヌースである。
「さ~てぇ、まずはこれだっ!」
アネシスの見立てで服を着させられ、ウォークインクローゼットから突き飛ばされるように出てくるフィリア。
モデルとしての技能には甚だ欠けるが、スラリと長い手足と小さな顔は、衣装を十分に引き立てている。
「お姉ちゃん、すごくキレイだよ! お姫様みたい」
「……あ~、まあ、いいんじゃねぇの?」
イダニコは手放しで賞賛するが、サロスはそっぽを向いておざなりに褒める。それでも頬が仄かに赤い処を見ると、姉のイメージチェンジは充分衝撃的だったらしい。
「姉さん姉さん、戻って戻って! あ、そこでくるっとターンして、そうそう!」
衣裳部屋からアネシスが小声でモデルに指示を飛ばす。
フィリアは気恥ずかしそうに身を捩りながらも、律儀に妹の要求に応えてやる。
そんなこんなで、新しい姉のお披露目会はどんどん続く。
衣装はまだまだ沢山ある。これを全部着る機会は流石になさそうだ。少し大きいが、気に入った物があればアネシスに譲ってあげればいいかもしれない。
フィリアはそんなことを考えながら、ヒートアップする妹にせっつかれるように衣装を着替えていく。
するとその時、場違いに冷たい電子音が部屋に響いた。
「――っ!」
音の出所は、ベッド横のサイドテーブルだ。
騎士団支給の腕輪型端末が、着信を知らせている。
「ちょっとごめんね」
フィリアは着替えの途中のまま、早足でベッドへと向かう。
そうして端末を起動し、投影モニターで通信内容に目を通す。
そんな姉を見守る弟妹たちは、不安そうに表情を曇らせている。
彼らにとって、最年少で騎士となった姉は自慢の存在だ。それでも、愛する姉が危険な任務へと赴くことを、心配しない訳がない。
「うん。お待たせ。次は何を着ればよかったかな?」
しかし、フィリアは通信にサッと目を通すと、何事も無かったかのように弟たちに向き直った。
姉の変わらぬ様子に、弟たちもホッと胸をなでおろす。
そうして、再び家族の和やかな時間が動き出す。
温かい笑顔に囲まれながら、フィリアは騎士団からの通達に考えを巡らせていた。
イリニ騎士団の次なる派兵先は、武侠国家ポレミケス。
――その遠征員に、フィリアも抜擢された。
いよいよ、彼女の真の戦いが幕を開けたのだ。