WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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第一章 ひび割れた世界
其の一 予兆


 一つの世界が滅びの時を迎えようとしていた。

 

 無限無窮に広がる常夜の世界「近界(ネイバーフッド)」。その暗闇の海には、数多の星の煌めきがある。

 それら全ての星には人々が住まい、国を起こし文明を育み、それぞれの営みを連綿と続けてきた。

 

 そんな星々の一つ、「エクリシア」と呼ばれる惑星国家に、破滅の足音が近づいていた。

 近界(ネイバーフッド)でも上位に位置する国土と人口を有し、それらを背景とした高い科学技術を持つ軍事大国である。

 近隣の星々からも恐れられているエクリシアが、なぜ今存亡の危機を迎えようとしているのか。

 その理由は、彼らが住まう星そのものにあった。

 

 太陽から放たれる光は大地に滋味と熱気を与え、星を覆う大気は雨や風となって万物を潤す。人間はその広大な星のサイクルの恩恵を受けて暮らしてきた。

 しかし、エクリシアを初めとする「近界(ネイバーフッド)」の星々では、星の営みに費やされる全てのエネルギーが一つの巨大な装置によって賄われていた。

 

 星の中心にあり、星の活動そのものを支える動力炉は「(マザー)トリガー」。

 人間が生み出す生体エネルギー「トリオン」を用いて星に活力を与え続ける存在である。

 

 そして炉心である(マザー)トリガーに燃料として焼べられたのは、ただ一人の人間。

 数百年前に(マザー)トリガーと同化した彼は、今日に至るまで星と人の営みを延々と支え続けてきた。

 彼のように星に一身を捧げた者を、人々は「神」と呼び讃える。

 

 その「神」の寿命が、あと僅かで尽きようとしているのだ。

 

 神が死ねば、星も死ぬ。

 光は消え失せ大地は渇き、空気は澱んで生き物は死に絶えていくだろう。

 

 それは一つの世界、一つの星の終焉を意味する。

近界(ネイバーフッド)」に浮かぶ星々は、人の叡智が作り上げた箱舟だった。

 しかし箱舟は安住の地にたどりつくことは決して無く、生贄を求めながら暗黒の海を永遠にさまよい続けている。

 

 

  ×    ×    ×

 

 

 エクリシアの中心部。その小高い丘の上に、陽光に照らされ燦然と輝く巨大な建築物が聳えている。

 数多の尖塔を有し、優美な彫刻で随所を飾られたその建物は、度重なる国難を乗り越え今日まで民を導いてきた、エクリシアの象徴にして国政を担う「大聖堂」である。

 トリオンを用いて築かれた大聖堂は、幾星霜の年月を重ねているにも関わらず、奇妙なほどに真新しい。だが、民の祈りと崇敬を一身に受けてきたその佇まいは、見る者すべてに畏敬の念を抱かせざるをえない荘厳な風情を纏っている。

 

 教会の鐘楼から眺望すれば、教会を取り巻くようにして、城塞の如き建造物が三つ立ち並ぶのが見える。

 大聖堂の壮麗な外観とは似ても似つかぬ無骨な城壁を持つこれらは、教会の藩屏たる三大貴族が運営する、騎士団の居城である。

 彼ら貴族は教皇より施政権を預かり、教会に代わって国土を統治する実質的な支配者だ。

 そして彼らは祖先より忠義の心を受け継ぎ、祖国の防衛を担う戦士たちでもある。

 

 視線をさらに先へ移せば、山手には貴族の別邸が立ち並び、丘の裾野からは教会を囲むようにして広大な都市が広がっているのが見えるだろう。

 貴族の所領とは異なり、教会の直轄地であるこの「聖都」は、エクリシアで最も多くの人口を有する首都である。

 目抜き通りには多くの商店が軒を連ね、行きかう多くの人々で賑わっていた。

 その喧騒の中で、一際声を張り上げて歩く男の姿がある。

 

「くそっ、どこ行きやがった! ただじゃおかねえぞ」

 

 買い物客の群れをかき分けて、憤激した様子の男が靴音荒く歩いていた。手には使い込まれたのし棒を握り、怒りにつり上がった目はせわしなく辺りの様子を窺っている。

 

 男はパン屋の店主である。彼が憤慨しているのは、軒先に並べていた商品が少し目を離した隙に忽然と消え去ったからだ。珍しいことではない。多くの人口を抱えるこの街には、日ごとの食事にも事欠く貧民が数多くいる。彼らが行う常習的な窃盗は、市民共通の悩みの種であった。

 

 とはいえ、男はひとくさり毒づくと肩を怒らせながら来た道を戻って行く。店を長時間空けておくわけにもいかないのだろう。

 

「追跡を断念したようです。フィリア」

 

 表通りから小道へ折れた路地裏。昼日中でも陽光の届かない暗がりの片隅で、ごみ箱の影から無機質な女の声がした。

 

「まだ、ダメ」

 

 憚るように小声で答えたのは、高く澄んだ少女の声。見れば、粗末な衣服を纏った小柄な人影が、ごみ箱に張り付くようにしゃがみこんでいる。

 その両手には、襤褸切れで巻いた一抱えほどある包み。仄かな温かみと、立ち上る麦の芳ばしい匂いが、それが件の盗難品であることを物語っていた。

 

「姿を人に見られるだけでも不味いの。もう少し、此処で待つわ」

 

 フィリアと呼ばれた少女はそう呟きながら、辺りの様子を窺うべく慎重に物陰から頭を出す。

 年の頃は十に届くかどうか。褐色の肌をした、整った顔立ちの少女である。

 

 劣悪な栄養状態のせいだろうか、手足は枝のように細く、頬は痛ましいほどにこけている。

 雪のように白く細い髪も手入れが行き届いておらず、ぼさぼさに乱れ、埃にまみれている。

 ただ爛々と輝く黄金の瞳が、あどけない顔に似合わない強い意思と、知性の光を湛えており、少女はどこか、外見にそぐわぬ老成した雰囲気を纏っていた。

 

「大丈夫。此処なら絶対に見つからない」

 

 追われる身である焦燥など欠片も感じていないように、フィリアはそう断言する。

 その根拠は、彼女が持つある種の超感覚だ。女の脳裏で囁く声が、身の安全を保障しているのだ。

 

「フィリアの意思を尊重します」

 

 再び頭を引っ込める少女に、女の声が応じる。

 不可解なことに、その声はフィリアの足元から発せられていた。店舗用のごみ箱とはいえ、人が二人も隠れられる大きさではない。

 

「ありがとうヌース。今夜はみんなでパンが食べられるね」

 

 フィリアが語りかける相手は、はたして人間ではなかった。

 

 蹲る少女の足元に浮いているのは、人の頭ほどの大きさをした白い楕円形の物体である。

 光沢のないエナメルのようにつるりとした外観をしたその器物は、正面に目のように見える二つの光点を持ち、背面には魚の尾びれを思わせる板状の突起を有している。

 それはトリオンで造られた命無き絡繰り人形「トリオン兵」と呼ばれる兵器であった。

 

 ここ近界(ネイバーフッド)では、人間の生み出すトリオンこそが、あらゆる社会活動を支える根幹技術となっている。

 トリオンは極めて効率のいい動力源であり、また不朽不滅の資材に変化するため、遠い過去より文明の勃興を助けてきた。

 

 また市民の生活のみならず、トリオンは軍事とも切り離すことのできないテクノロジーだ。トリオンはおよそほとんどの物理干渉を受け付けないため、これに抗するには同じくトリオンを用いるしかない。

 そして兵隊が持つ武器だけでなく、使い捨てのできる簡便な兵士として生み出されたのがトリオン兵だ。貴重な人的資材と異なり、損耗してもすぐに補充のできる無人兵器は、今では戦場の主役となっている。

 

 しかし、通常のトリオン兵はプログラムに沿って呵責なき戦闘を行うだけの機能しか持ち合わせておらず、こうして人語を解し、自発的に活動することはできない。

 

「引き続き周囲の走査を行います。……フィリア、足が辛くはありませんか」

 

 だが、ヌースと呼ばれたトリオン兵は少女に気遣いの言葉さえかけた。これはこの個体が近界でも数少ない、確固たる意思を持ち自ら行動を定めるトリオン兵『自律トリオン兵』であることを示している。

 自律トリオン兵を有する国は少なく、この大国エクリシアでも開発には成功していない。

 

「私は大丈夫。ヌースも隠れて」

 

 矮躯の少女が気丈にそう告げると、トリオン兵の輪郭が見る間に茫洋と崩れ、闇の中に溶け消えてしまう。体表を周囲の景色に合わせ、隠密モードへ移行したのだ。

 

「…………」

 

 盗んだパンを抱えたフィリアはそのまま、塑像のように身動き一つしなかった。

 足元の石畳は無残に剥がれていて、ぬかるんだ地面が少女の足元を汚す。掃除の行き届いていない側溝からはドブと汚物の匂いが漂い、折角のパンの香気を台無しにしていたが、それでも少女は泣き言一つ溢さず、ただひたすら忍耐強く待ち続けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうしてどれ程時間が経ったか、太陽は傾き、聖都を囲む城壁の向こうへ沈もうとしている。夕焼けに染まる街を、潜伏場所から抜け出したフィリアは足早に歩いていた。

 

 襤褸布をフードのように目深に被り、表通りを避け、人通りの少ない裏道を選んで通る。

 聖都の裏路地には職にあぶれたごろつきも多く、年端もいかない少女にとっては危険極まりない。

 

 それでも大通りが安全かと問われれば、フィリアに限っては否であった。

 ただの貧民の子供なら、市民から疎まれこそすれ直接的な被害を蒙ることは少ないだろう。しかし、フィリアはその特殊な出自から、特に市民からは姿を隠す必要があった。

 

 エクリシアでは数少ない褐色の肌を持つ者たちは、そのすべてが同じルーツを持つ。

 彼らは皆「ノマス」と呼ばれる別の国家の血を引く者たちなのである。

 

 狩猟国家ノマス。国土面積は中規模ながら、高いトリオン兵の製造技術と一騎当千の武勇を誇る戦士を擁する近界(ネイバーフッド)の有力国だ。

 このノマスはエクリシアと長きにわたる確執を抱えており、大規模な軍事衝突も過去に幾度となく発生した、いわば宿敵といえる国である。

 

 フィリアのようにノマスの血を受け継ぐ者は、その全員が戦利品としてエクリシアに連行された捕虜、ないしはその後に奴隷となった彼らが産んだ子供たちだ。

 フィリアもその例外ではなく、虜囚となった母から生まれた子供であった。もっとも、娘を産んですぐに彼女は亡くなったため、フィリアは生母の顔を覚えてはいない。

 

 これらの歴史的な経緯から、市民の多くはノマスの血縁者に拭いがたい忌避感と嫌悪を抱いている。

 通常は追い払われるだけの貧民も、ノマス縁の者というだけで市民から謂れのない暴行を受けたり、治安を担う騎士団に連行されたりすることもある。

 フィリアにとっては、人々の営みで賑わう街並みこそが油断ならない敵陣であった。

 

 少女は慎重に、しかし歩みを緩めずに家を目指す。ふとその時、彼女の耳に終業を告げる教会の鐘の音が聞こえた。

 折しも大通りを横断しようとしていたフィリアの目に、丘の上に聳え立つ教会の姿が映り込む。

 

 夕焼けに染まる世界に、清澄な鐘の音が響いている。荘厳華麗な教会は、聖都に住まう人々を慈しみ、導くかのように輝いていた。

 このエクリシアの中心にして聖地、そして地下に座す「神」を護る堅固な城塞。

 

 悠久の歴史をその身に刻み、終わりなき繁栄を誓う国家の象徴。

 この星に住まう者なら誰もが祖国への敬慕を新たにしてしまうような、完成された絵画の如き光景である。

 

「…………」

 

 だが、フィリアはどこか暗い眼差しでその情景を眇め見ると、足早に次の路地へと移動した。今はただ、早く我が家に帰りたいとの思いだけがあった。

 

「だいぶ遅くなっちゃった。急いで帰ろう」

「間もなく日没です。気を付けてください」

 

 フィリアが目指す我が家は、広い聖都の北部に位置する。城壁沿いに広がるその一画は、トリオン技術が発展する以前の姿を残した旧市街である。再開発の波に取り残されたその区画は、貧民たちの巣窟となっていた。

 

 複雑に入り組んだ石と木の建築群と、そこに住まう素性の定かではない貧民たち。

 聖都の中心部に住む市民たちは決して近づかず、貴族たちも処置に困るならず者の土地。

 

 悪評しか聞こえない貧民窟だが、その実、そこは市民が噂するほど危険な場所ではない。

 貧民窟には暴力を生業とする輩は殆どいない。なぜならそもそも奪う物がないからだ。

 

 この忘れ去れた街に住むのは身寄りのない子供や家族に捨てられた年寄、病人など、収奪され続けるしかない弱者ばかりだ。

 暴力で身を立てようとする者は、とうに都市の中心部へと移っている。

 

 それでもフィリアは、今日の収穫物を襤褸切れで厳重に覆い隠した。

 痩せっぽちの小柄な少女である。この街の疲れ切った住人でも、与し易い相手とみて襲い掛かるかもしれない。

 トリオン兵であるヌースの力を使えば撃退は難しくないが、そもそもヌースは存在自体が禁忌に属する。彼女はフィリア以上に人目を避けなければならない。

 

 始終辺りに気を配りながら、フィリアはようやく我が家へと帰ってきた。カビと埃の匂いが漂う、朽ちかけた石造りの家である。

 それでも、フィリアにとっては掛け替えのない、エクリシアで最も神聖な場所だった。

 

「いま帰ったよ」

 

 門前で声を掛けると、立てつけの悪い木戸がガタガタと音を立てて内側から開けられる。

 

「おかえり、フィリア姉!」

 

 元気によく少女を出迎えたのは、三人の少年少女たち。いずれもフィリアより幾分幼い子供たちだ。

 

 彼らはフィリアの弟妹である。とはいえ、実際に彼女と血が繋がっている訳ではない。その証拠に髪色や面立ちは誰一人として似通っていない。孤児であった彼女たちを引き取り養育した人物が同じなのだ。

 

 金髪の巻き毛が可愛らしい弟イダニコは七歳、黒髪で生意気盛りの弟サロス、赤毛でおしゃまな妹アネシスは共に八歳である。

 

「変わりは無かった? 今日はパンがあるから、テーブルで待ってなさい」

 

 フィリアが微笑みながらそう告げると、弟妹たちから歓声が上がった。

 

 最近は実入りが悪く、薄いスープだけの食事が続いていたためだろう。だが、弟たちの浮ついた様子はどうもそれだけが理由ではなさそうだ。

 

「姉ちゃん! ほら、早く入って!」

 

 サロスに腕を引っ張られ、フィリアは居間へと連行される。

 室内は丁寧に掃き清められ、調度品も綺麗に整頓されていた。いつもはフィリアか母が口うるさく言わねば片づけをしないのに、これはどうしたことだろう。

 古ぼけたテーブルの上には色とりどりの花が活けられており、湯気を立てるスープには申し訳程度の量でしかないものの肉が浮かんでいる。

 

「これは……」

「わたしが作ったのよ! 姉さんみたいに上手にできたか分からないけど……」

 

 そう言って、照れながらも自慢げに胸を張るのは妹のアネシスだ。

 だが、フィリアが疑問に思ったのはこの食事を整えた費用である。テーブルを彩る花は野に咲く物を摘んでできたのだろうが、この豪勢な料理はどうしたというのか。今の我が家にはほとんど金銭はないはずだ。

 それよりもフィリアを困惑させたのは、居間に座る女性の姿である。

 

「おかあさん、おねえちゃんかえってきたよ!」

 

 末の弟のイダニコが、イスに腰かける金髪の婦人へ歩み寄ってその膝へ抱きつく。

 彼女こそ、フィリアたちを引き取り養育した母、パイデイアであった。

 

「母さん! 起きだして大丈夫なんですか!?」

 

 端坐する母の姿を見るや、フィリアが狼狽した声を上げる。

 四人の子供を養うために働き続けた母パイデイア。

 もともと身体が弱かった彼女は重い病に倒れ、もう一年近くも床に臥せている。医者にかかることもできず、滋養の有る物も口にできない暮らしぶりでは、彼女の体調も一向に回復の兆しを見せないままだ。

 パイデイアは翡翠のように輝く瞳と、麦穂を思わせる豊かな金髪をした美しい女性だったが、今は見る影もなくやつれ、実年齢よりも遥かに高齢に見える。

 

「おかえりなさい、フィリア。それにヌースも」

 

 ベッドから起きて立ち上がることさえ辛いだろうにも関わらず、パイデイアは慈母のような微笑みをフィリアたちに向ける。

 

「ただ今戻りました。パイデイア」

 

 隠密を解いて姿を現したヌースが、フワフワとテーブルの上に浮かびながら答えた。

 存在そのものが禍を呼びかねない禁断のトリオン兵たるヌースだが、彼女もこの家の立派な一員である。我が家で姿を隠すことは誰も望まない。

 弟妹たちもヌースの立場は充分理解しており、彼女のことは決して外では漏らさない。少し御小言が多いところが玉に傷だが、彼女も愛すべき家族なのだ

 

 そもそも、ヌースは母パイデイアが所有するトリオン兵であった。

 元々は大貴族の令嬢であったパイデイアが実家を捨てて飛び出したとき、傍らにいたのがヌースである。パイデイアが出奔する理由となった乳飲み子のフィリアを、彼女と共に見守り育ててきた。

 

「あの、母さん。これだけの食べ物をどうして……」

 

 帰宅の挨拶もそこそこに、フィリアは卓上に並ぶ食事について問う。たかだか一食とはいえ、それにも事欠くのが我が家の窮状だ。

 

「さぁ、フィリアも席に着いて。みんな待ってるわ」

 

 やんわりと質問をいなされるが、フィリアの持つ超感覚は既に事の真相を察していた。

 母パイデイアは実家から持ち出した貴金属を現金に換えたのだろう。無論、本当に家族が困った時の非常用の資産であるから、換金したのはごく一部であろうが。

 そして、そうまでして現金を作り、今晩の食事に色を添えた理由は……。

 

「「「フィリアお姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」」」

 

 フィリアが席に着くや、弟妹たちが一斉に寿ぎの声を上げる。

 我が家の異変を目にするまで、まるで覚えていなかった。今日は彼女の十歳の誕生日なのだ。

 

「――――」

 

 感極まって言葉に詰まるフィリアに、小さな紙包みを持ったイダニコが歩み寄ってきた。

 

「おねえちゃん。これ、みんなからのプレゼント!」

 

 受け取って開いてみると、中には細かな飾りが施された櫛が入っている。

 母が取り崩した蓄えだけではなく、弟妹たちが身を粉にして稼いだ金銭も用いたのだろう。その苦労と込められた思いを察し、少女の胸に熱いモノが込み上げる。

 フィリアは両手で櫛をそっと包み、愛おしそうに抱きかかえた。

 

「……ありがとう。本当に、お姉ちゃんとっても嬉しい!」

 

 目じりに涙を輝かせながらも、朗らかに笑うフィリア。

 今日、彼女が始めて見せた、年相応のあどけない笑顔であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 皆で食前の祈りを済ませ、パンを裂く。

 

 普段は街で下働きをしたり、物売りをしたりして家計を助けている弟たちだが、今日ばかりは疲れた顔も見せず、笑顔で料理に舌鼓を打ち、フィリアの為に歌を歌う。

 

 フィリアが度々盗みを働いていることは、共犯のヌース以外誰も知らない。知らせるつもりもない。

 盗みに対する良心の呵責は、当の昔に擦り切れて無くなっていた。

 自らの行いを正当化する気はもちろんないが、日々を生き抜くことだけに腐心する毎日では、事の善悪など論じてはいられなかった。

 

 そうして、心温まる一時はすぐに過ぎて行く。

 誕生日会もお開きになると、フィリアはパイデイアをベッドまで介添えし、弟たちを寝かしつける。無理を押して動いたであろう母の体調が不安なため、ヌースには彼女の看病を頼んだ。

 

 家人の声が絶えた居間には、寂寞とした空気が立ち込める。

 フィリアは家の雑事を手早く片付けると、トリオンランプの薄明かりを頼りに針子の内職を始めた。

 随分旧式の照明器具だが、この界隈では貴重品である。盗難を避けるため、明かりが外に漏れないよう窓は厳重に閉めてある。

 

 音のない薄暗がりで、黙然と手を動かし続けるフィリア。

 

「――――っ」

 

 日もとっぷりと暮れ、成長期の少女には起きているのも辛い時間である。睡魔に気を取られた彼女は、過って針で指先を刺してしまった。

 

「…………」

 

 指先を咥えて止血する。布に血が付かないよう、しばらくは手を止めなければならない。

 

 ふとできてしまった空白の時間。

 誕生日という節目の日を迎えたためだろう。フィリアはぼんやりと、自らの半生について思いを馳せていた。

 

 年齢にそぐわぬ程に現実的な性格の少女である。普段なら、過去への思索など何の益体もないことと忌避するような彼女だが、やはり今日は感傷的になっているらしい。

 

 物心がついた時、既に実母はいなかった。彼女を養育したのは貴族の娘パイデイア。エクリシア三大貴族の一つ、イリニ家の子女である。

 フィリアはエクリシアがノマスとの戦争で獲得した捕虜から生まれた。パイデイアは黙して語らないが、実母と彼女の間には深い親交があったのだろう。

 

 母パイデイアは生まれつき体が弱く、子を成すことが難しかったため二十歳を超えても嫁ぎ先が無かった。また、彼女はエクリシアが国是とする強兵政策にも強く反対の意思を持っていたため、イリニ家では飼い殺しのように扱われていたらしい。

 

 それでも、大貴族の娘であったパイデイアには、悠々自適の暮らしが約束されていたはずだった。

 貴族の立場に加え、彼女のトリオン能力はエクリシアでも突出した物だったからだ。

 

 国家の運営に欠かせないトリオン。それを生み出す「見えない内蔵」トリオン機関は、ある程度の確率で遺伝する。

 トリオン能力の優劣で国力が決する近界においては、優生学的な手段に訴えてまでトリオン能力を増幅させようとする企ては珍しくない。

 それはこのエクリシアでも同様だ。貴族と称される一族は何百年もの長きに渡り、血を掛け合わせ選別し、優れたトリオン機関を持つ者を人為的に生み出してきた。

 

 そして、母パイデイアこそ、名門イリニ家が得た稀代の器であったのだ。

 病弱で子供が望めないといえ、破格のトリオン機関を持つ彼女の前途は、如何様にも開けたはずだったのだ。

 そんな母は、突如として貴族の立場を捨ててイリニ家を出て行った。

 

 理由は奴隷が産んだ娘、フィリアの為であった。価値のない劣等民として処分される運命にあった赤子を助けるため、パイデイアは生まれた家を捨てた。

 その後は誰に頼ることもなく、彼女はフィリアや同じような境遇であった孤児たちを養い、一人で育ててきた。

 世間知らずの貴族の女がどれ程の苦労を重ねてきたのか、フィリアには想像もつかない。だがそのために、彼女は一年前に重い病を得てしまった。

 

 それは唯一の働き手を失う事を意味しており、家族が飢えるのは時間の問題であった。

 イリニ家からの支援は、受けられそうにもない。出奔したパイデイアの名は、すでに一族の名からは消し去られており、また余程の理由があるのか、母はフィリアに決してイリニ家に近づくなと厳命していたからだ。

 

 このままでは、家族皆が飢えて死ぬ。

 しかし不幸中の幸いであったのは、当時僅か九つに過ぎなかったフィリアに、既に自活に足るだけの知性が育っていたことだ。

 

 フィリアの知育を促進したのは、彼女が生まれ持った異能力である。

 それは優れたトリオン能力が脳や神経系に働きかけることによって発現する様々な超感覚「サイドエフェクト」と呼ばれるものだ。

 

 彼女に備わったのは「直観智」のサイドエフェクト。

 ありとあらゆる事象に対して、即時に最適解を得る能力である。

 

 詳しく説明するなら、感じ得た情報を統合、検証して最適無謬の答えを一瞬ではじき出す能力。とでも言うべきものか。

 ようは限度を超えた察しの良さ、感の鋭さである。

 

 こう聞くとさぞかし万能で神懸かった能力に思えるかもしれないが、実際にそこまでの力はない。

 前提条件として判断材料が必要なため、まったく何でもかんでも分かるというわけではない。また導き出される答えもその事象に対するフィリアの知識と理解、知性から生ずるものであるから、答えが精密さに欠けることも多いのだ。

 

 ただし、この能力は即座に答えを導き出す上に、その答えが外れることが無い。

 とはいえ、サイドエフェクトを診断したヌースが言うには、この「直観智」はまだ発展途上の能力らしい。脳に極端な負荷がかかるため、無意識に力をセーブしているそうだ。 

 

 この異能に引きずられた結果、フィリアはすでに大人と変わらない判断と行動ができるようになっていた。

 少年期との早すぎる決別を終えた彼女は、知力と体力を振り絞って働き、家族の生活を支え続けた。

 

 最初は母の仕事先を頼って働いていたものの、子供であるフィリアではいくら能率よく働いても給金は雀の涙しか貰えず、家族の口を満たすことはできなかった。おまけに年齢にそぐわない態度が気味悪がられ、ノマスの出自の貧民ということもあって彼女はしばしば悪意の対象にも選ばれた。

 

 状況が好転したのは、篤志家として有名な大貴族ゼーン家の屋敷に出入りできるようになってからだ。

 エクリシアの三大貴族の一角であり、ここ聖都にも巨大な邸宅を構えるゼーン家。

 武闘派として名高い家であったが、時の当主は意外なほどに温厚善良な人物として知られており、貴族としては珍しく下層民の窮状に心を痛めていた。

 領地では貧民に寛大な施政を行い、教会にも支援政策を提言していると聞く。

 

 そのため屋敷で働く人々も貧民に理解があり、フィリアは知恵を絞って何とか知遇を得ることができた。

 一目でノマスの血を引くと分かる容姿が足を引っ張ったものの、サイドエフェクトを活用して働く彼女は屋敷の使用人たちに重宝がられた。

 現金収入こそ大したものではなかったが、施しとしてよく食べ物を貰えたので、食うや食わずやの生活からは脱出できたのだ。

 

 だが三か月前、その慈悲深い当主は遠征先の国家で戦死を遂げた。

 そして代替わりした当主は先代とはまったく考えの異なる人物で、エクリシアの国力を圧迫する貧民には強権でもって当たるべきとの考えだった。

 当然、屋敷内に貧民が出入りしていることを喜ぶはずがない。そして悪いことに、フィリアの容姿はエクリシアの仇敵、ノマス由来のものである。

 

 少女は問題が起こる前に先んじて屋敷を去ったが、そのためにまた生活は厳しいものになった。

 盗みを働くようになったのはその頃からである。そうでもしなければ、いよいよ暮らしていくこともままならなくなる。

 事実を知っているのはヌースだけで、家族には未だゼーン家で奉公していると嘘をついていた。

 

「…………ふぅ」

 

 知らずに、ため息が零れていた。

 

 何故、私たち家族はこんなに苦労しているのだろう。怨嗟の入り混じった疑問が、フィリアの胸の内で蟠る。

 サイドエフェクトがわかりきった答えを返す。

 それは世界が私たちの為にあるわけではないからだ。

 冷酷で取りつく島もない、世界の理。では、

 

 ――そんな世界で私が生きる意味は?

 フィリアの脳裏に、人生に対する当然の問いかけが思い浮かぶ。すると、

 

 それは母や弟妹が私の生を望んでいるから。私を思ってくれているから。

 いつもの答え。変わらない、そして最高の答えが彼女の脳裏に浮かぶ。

 

 暗黒の海に光り輝くしるべのように、フィリアを導く羅針盤。

 そう、私は家族の為に生きている。

 フィリアは静かに、そして力強く己の意思を確かめる。

 

(どんなことがあっても構わない。パイデイア母さんとサロス、アネシス、イダニコ。それにヌース。

 みんなが私の幸せを望んでくれている。

 生まれてくるべきではなかった子供。生かしておく価値も無かった私を、家族は優しく包んでくれる。

 辛いことなんて何もない。私はいくらでも進んでいける)

 

 テーブルに置かれた櫛が目に留まる。

 フィリアの生きる意味。人生の証。

 この良き日の思い出を胸に刻み込めば、フィリアは決して挫けはしないだろう。

 決意も新たに、内職の続きをしようと意気込むフィリア。そこへ、

 

「……フィリア、まだ起きているの?」

 

 奥の部屋からパイデイアの声が聞こえた。

 

「母さん、どうかしましたか?」

「いいえ、フィリアがあんまり根を詰めているのではないかと思って、ね?」

「もう寝るところでしたよ」

 

 フィリアは裁縫用具を仕舞い、パイデイアの寝室に顔を出す。そうしてベッドの側に立ち、母に寄り添った。

 

「じゃあ、久しぶりに一緒に寝ましょうか」

 

 すると、パイデイアがそんなことを言った。

 フィリアは何とも言い難い羞恥を感じ、俯いてしまう。

 

「ね、母さんのお願い」

「…………うん」

 

 だが、母は娘の葛藤を見透かしているように笑ってみせた。

 いくら聡明で大人びているとはいえ、彼女はまだ十歳の子供なのだ。

 しばらく照れていた様子のフィリアだったが、最後には居間の明かりを消して寝室へと戻ってきた。衣服の汚れを念入りに落とし、髪を櫛で梳かしてからベッドに潜りこむ。

 

「また何かお話をしましょうか。でも、賢いフィリアにはもう退屈かしら?」

「そんなことない! あ、えっと……母さん、私、また「玄界(ミデン)」の話が聴きたいです」

 

 優しく頭を撫でるパイデイアに、フィリアは何度も聴かせてもらった話をねだった。

 このエクリシアのように「近界(ネイバーフッド)」の国家は夜の暗黒に浮かぶそれぞれの星の上に根を下ろしている。

 

 だが、夜の暗黒の向こうには、果てしない海と広大な大地に恵まれた星が存在する。

 それが「玄界(ミデン)」。

 

 そして驚くべきことに、玄界(ミデン)(マザー)トリガーによって成り立っているのではなく、その存在は不変不朽であるというのだ。

 フィリアたちの住まう星の国は、(マザー)トリガーによって生かされている。

 星の規模や活動期間は、(マザー)トリガーと同化した神によって左右され、トリオン能力にすぐれた人物が神となれば国土が広がり、逆に先代より劣った人物が神となれば国土は小さくなる。

 

 必然的に、近界の星は人口に因む問題を抱えやすい。

 耕地面積はその時々の星の規模に左右されるため、人口の増加が妨げられる。しかし、産業・軍事の基幹となるトリオンは人間にしか生み出せないエネルギーであるため、国の人口はそのまま国力へと直結する。

 

 そのためエクリシアのような軍事国家は食糧事情が許すギリギリの人口を抱えることになってしまう。

 食糧自給に不安があるなら、他国との交易で不足分を埋めようとするのが自然な考えだ。しかし星々を渡る往還船を飛ばすには莫大なトリオンが必要で、コストの面からまったく現実的な手段ではない。

 

 軍事力と食糧生産の板挟み。

 エクリシアはその問題に対して、人口抑制で対処しようとしている。

 国にとって有益な者だけを残し、そうでない者は淘汰する。

 

 選定基準はトリオン能力と技能である。

 トリオン能力に優れた者、何がしかの分野で成功を収めた者は、貴族やそれに類する者として取り立てられ、国家から優遇を受ける。

 トリオン能力はある程度の確率で遺伝するため、優秀な人間には多くの子孫を残してもらおうとの措置なのだろう。

 

 だが、その制度ができたのは数百年前。宿敵ノマスによる台侵攻を受け、国家の立て直しが急務とされていた頃だ。

 そして何百年も経てば門閥が形成され階層は完全に固定化する。今のエクリシアでは、物資、権力、トリオンすべてを持つ貴族の周りに市民が侍り、貧民は彼らを支えてそのおこぼれを頼りに生活している有様だ。

 

 エクリシアの国民には日に一度、教会に参じてトリオンを供出する義務がある。いわばトリオン税といったもので、その際にトリオン能力も測定される。

 供出したトリオンの量に応じて幾らか金銭も出るので、貧民はこぞって列に並ぶ。しかし貧民は押し並べてトリオン能力が低く、回収量は悪いと聞く。今では例外的に生まれるトリオン優良児を逃さないための検査という意味が強い。

 

 しかし、フィリアはこの制度を利用したことが無い。

 母パイデイアから、絶対に使わないよう固く禁じられていたからだ。

 

 教会で供出を行えば身元がばれる。そうなれば、イリニ家の面々に見付かり家族がバラバラにされてしまうとの話であった。

 惜しい事には、フィリアのトリオン機関は稀に見るほどの能力を持っており、制度を利用できれば生活は格段に安定したであろうことだ。

 イリニ家とは何のかかわりも無い弟妹たちは毎日教会へと通い詰めているが、彼らのトリオン機関では、五人家族を養えるだけの謝礼は貰えない。

 才ある者を引き上げるための政策が、今では無力な人間を切り捨てるため試練と化しているのだ。

 

 そして、近年では産児制限まで導入されつつある。

 それも下層階級を標的にしたもので、建前上は「子供の為に計画的な」子育てを推奨するためらしいが、子供を産むためには貧民では到底払えない税を国に納める必要がある。

 法律がもう一歩進めば、子供の数に応じて税を取り立てるなど直接的な口減らしもあり得るかもしれない。

 淘汰の対象となるのは、やはり下層階級の人間である。

 

 そんな国に暮らすフィリアにとって、果てしない大地を持ち永遠に生き続ける星「玄界(ミデン)」はまさに理想郷のように思えた。

 

「家族みんなで行きましょう。私が連れて行きます」

「まあ、楽しみにしてるわね」

「母さん、私は本気です。きっと母さんの病気も治るから」

 

 玄界(ミデン)の話を母から聞くと、決まり事のようにフィリアはそう言う。

 

 勿論実現は難しいのだが、方法が無いわけではない。彼女のサイドエフェクトははっきりと道筋を示していた。

 母の病態がもう少し落ち着けば、騎士団へと志願する。

 

 国家の守護を担う貴族所有の軍事集団は、原則として全ての国民に門戸を開いている。

 貧民の、しかも敵国の血が混じったフィリアだが、トリオン能力は一級品である。イリニ家が持つ騎士団には流石に近寄ることはできないが、身元を隠せば他の騎士団に潜り込むことはできるだろう。そうすれば、家族を飢えさせずに済む。

 

 そして功を上げれば他の星へ行くこともできるはずだ。

 さらに出世すれば、往還船を手に入れることもできるかもしれない。そうすれば玄界(ミデン)へ行くことも夢ではない。

 気の遠くなるような話だが、そこまでいかなくても彼女が出世すれば確実に家族の暮らしぶりは良くなる。

 

 だが、フィリアはその計画を胸に秘め、決して母には漏らさなかった。

 パイデイアは他国民を拉致する国策に真っ向から反対している人だ。自分や家族の為に娘がその片棒を担ぐつもりと知れば、傷つくに決まっているだろう。

 

 フィリアはパイデイアの博愛精神を尊重していたが、同時に酷く哀れで虚しい願いだと思っていた。

 他国の人間を拉致してトリオンを絞り取る。それはどの国でも恒常的に行っていることである。資源に限りあるがあるのなら、余所から奪うしかない。

 それは厳然たる人の営みであり、倫理が介在する余地はない。

 

 この世界は、常に犠牲を必要としている。

 

 我と彼、「こちら」と「あちら」。大切な者とそれ以外。

 その線引きをどこに設けるのか、つまるところそれだけの話でしかないのだ。

 

 現にこのエクリシアでも、貴族は貧民からなけなしのトリオンと労働力を搾取し続けている。国の中でさえ虐げられる者と奪う者が存在するのだ。いまさらどうして国の外を慮らねばならないのか。

 フィリアは家族の為なら、どんなことでも厭わない。

 既に盗みも働いてしまった。殺人とて受け入れる覚悟はあるし、家族が幸せになるためなら命を惜しむつもりもない。

 彼女には守るべきものがある。その為には何を捨ててもいい。

 

「母さん、私がんばるね」

 

 ベッドの中でフィリアは赤子のようにパイデイアに抱き着いた。そんな少女を優しく撫でながら、

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 母は優しい声で、子守唄を口ずさむ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 それから数日後、フィリアは場末の食堂で朝から馬車馬のように働いていた。

 

「ちょっとアンタ! 店の掃除は終わったのかい?」

「はい、女将さん」

 

 テーブルを空拭きしていたフィリアを胴間声で呼びつけながら、恰幅のいい女将がカウンターから出てくる。

 女将は常に不機嫌そうに眉根を寄せているが、きょうは格別に虫の居所が悪いらしい。

 常連客には愛想よく振る舞うが、貧民の小娘相手にはイラつきを隠す必要も無いのだろう。今日はいつにもまして慎重に振る舞う必要がある。

 

「…………フンっ!」

「どうでしょうか?」

 

 一頻り店内を眺めてから、女将は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 然したる問題が見つからなかったのだろう。まずは一つ、叱責を免れたようだ。サイドエフェクトで確信しているとはいえ、その様子にフィリアも安堵の息をつく。

 

「終わったならもっと早く言いな。サボるつもりじゃなかったろうね!」

「すみません。女将さん」

 

 半ば難癖のような小言にも、少女は心底申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

 

「次は厨房のお手伝いをすればよろしいでしょうか」

「分かってるなら自分で動きな、いちいちアタシを煩わすんじゃないよ。ああ、言わずもがなだけど、お客の前に出るんじゃないよ。アンタみたいな呪われた子を使ってるのが知れたら、何て言われるか分かりゃしないんだから……」

 

 女将に追い払われるようにして、フィリアは厨房へ入る。

 

 彼女のこのような態度だが、世間一般の貧民に対する扱いに比べれば温情に満ちているといっていい。特にフィリアのようにノマスの血が混じっている者にとっては破格の待遇だろう。

 定期的に仕事をくれて、尚且つ仕事でミスをしたり不興を買ったりしない限りは給金も満額支払ってくれる。これ以上望みようのない条件であり、この店からの現金収入がフィリア達一家のか細い命綱となっている。

 

 そうして慌ただしい昼時を乗り切ると、今度は夜の営業まで仕込みに追われる。

 厨房は男所帯でミスをすれば口の前に手が飛んでくるような環境だが、裏を返せば仕事でしくじらない限り罰は受けない。

 

 フィリアの厨房での仕事は食材の下ごしらえだ。とはいえ、食材の数はあまりに多く、子供の体力では無理のある作業量だ。しかし、少女はサイドエフェクトを活用し、最適な段取りで仕事をこなしていく。

 大人以上の仕事をこなしても給金に色が付くことはないが、仕事を与えてくれる以上文句はいえない。支払いを反故にされて蹴り出されることなど珍しくもないからだ。

 

 夜も更けて酔客が帰り始めると、戦場のような騒がしさだった厨房もようやく落ち着きを見せる。

 とはいえ少女に休む暇は無く、洗い物の山を必死に片付け続けている。

 すると食器の触れ合う音に混じって、客同士の会話が聞こえてきた。

 

「それがよぉ、いまいち遠征が上手くいってねえらしいぜ」

(マザー)トリガーのお眼鏡に適う奴なんてそうは居ないだろうしなぁ……じゃあ次の神はウチの人間から出るのか?」

 

 話題はどうやら、エクリシアの次代の神についてらしい。

 (マザー)トリガーに捧げられ、星の動力源となった神。彼らは数百年もの長きに渡りその任を全うするのだが、決して永久不滅という訳ではない。

 神といえども元は人間。定命の存在なのだ。

 

 国家の存亡に係わる問題であるため、神の情報は一握りの指導層しか知りえない最重要機密である。

 それでも人の口に戸は立てられないもので、どうやらエクリシアの神の寿命が近いらしいことは、既に周知の噂となっていた。

 

「それについては貴族さま連中、いろいろ企んでるみたいだぜ。なんせ神を出せば向こう百年デカい顔できるってもんだ」

「上の事情なんて俺たちに関係あるかぁ? 貴族の面より国がデカくなるかどうかだろ」

「違いねえ。いい加減人が多くてうんざりだ。貧民窟なんて通りがかったらガキばっかだぜ。あいつら犬猫みたいに子供作ってんじゃねえだろうな」

 

 酔客たちの口さがない議論が続いている。

 

 神の代替わりは国家の命運を左右する問題だけに、一般市民の関心も非常に高い。今やどこに行ってもこの話題で持ちきりだ。

 神の交代は国家滅亡につながる危機だが、逆に国家が飛躍する好機でもある。

 先代を上回る能力を持つ神を見つけることができれば、星は一挙に豊かになる。経済や食糧事情など、逼塞したエクリシアの諸問題を解決することもできるだろう。

 

 そして、神の代替わりについて市民以上に熱心に取り組んでいるのが、貴族階級の者たちである。

 エクリシアの貴族たちは教会から領地と施政権を与えられており、立場上は教会に従属する存在である。

 

 しかも、次代の神を輩出した家の当主はその功績により、次の教皇の座を約束される。

 教会に君臨するということは、すなわちエクリシアの頂点に立つということである。

 その声望と権力は、如何な大貴族といえども及びもつかない。

 神の代替わりは貴族の権力闘争の一面を孕んでいるのだ。

 

(先代様はそれで亡くなったっけ……)

 

 以前にフィリアが屋敷で働いていた大貴族、ゼーン家にもその影響はあった。

 国家の指導層である大貴族にとって、優秀な神を見つけることはもはや責務といってもいい。

 ゼーン家の前当主は穏健な人物だったが、神を選出し教皇の座に就くことは一族郎党の悲願である。周囲に突き上げられるようにして国外へ出兵し、そしてあえなく討ち死にしてしまったのだ。

 

 数多の思惑と欲望が錯綜する政治の世界。

 けれど、フィリアにとってはどうでもいい話題の一つに過ぎなかった。

 

 確かに国家の一大事であり、影響は貧民の立場にも及ぶ。しかし、彼女にそれをどうこうすることはできないし、論じたからといって腹が膨れる訳でもない。

 神の候補についての噂話を統合すれば、国土の拡張は難しいまでも現状維持程度なら候補は揃っているらしい。それなら貧民の生活にもすぐ影響が出るようなことはなく、後は貴族様方の問題である。それこそフィリアには何の関係も無い。

 

(う、まだ居座る気なの……)

 

 少女の目下の懸念は、酒が入って気持ちよく議論を戦わせている酔客たちだ。

 閉店時間を過ぎても一向に帰る素振りを見せない客に「早く帰れ」とひたすら念を送る。

 

 ここの仕事は払いがいいものの拘束時間が長い。

 弟妹たちは積極的に家事をしてくれるものの、まだ子供である。ヌースが様子を見てくれてはいるが、母の介添えもフィリア以外では心もとない。

 

(帰れ。早く帰れ……)

 

 サイドエフェクトで穏当に帰らせる方法を探るが、答えが出ない。常連客で女将の覚えがいいのが致命的だ。

 結局、随分と夜も更けたところでようやく店じまいとなった。

 

 眠たそうな女将の機嫌を損ねないように給金を受け取り、夜道を足早に帰る。

 貧民窟の入り口に差し掛かったところで、フィリアはようやく異変に気付いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

(なに……静かすぎる……)

 

 旧市街に立ち入ってから、辺りに人の気配がない。

 

 もともと貧民窟は活気とは程遠い場所ではあるものの、今夜はまるで住人全てが死に絶えてしまったかのように静まり返っている。

 フィリアはこの街に暮らして十年近くになるが、こんなことは初めてだ。

 

 住人が居なくなった訳ではなかろう。誰もが息を殺して引きこもっているのだ。

 そしてサイドエフェクトに頼るまでもなく、静寂をもたらした原因はすぐに見つかった。

 

 通りに豪奢な車が留まっている。荒れ果てた街並みに似つかわしくないそれは明らかに貴族の所有物であり、牽引しているのは白い甲殻に覆われた馬のような存在である。

 威力偵察・輸送用トリオン兵「ボース」

 戦場ではその速力を生かし、主に物資の輸送や機動戦に用いられるトリオン兵である。しかし、純然たる戦闘兵器のトリオン兵が、何故貧民窟にいるのか。

 

 そして車の周りに立つ人々。

 揃いの礼式兵装を纏い、トリオン小銃「鉛の獣(ヒメラ)」を掲げる彼らの姿は見紛いようもない。エクリシアを守護する騎士たちである。

 

「な……」

 

 フィリアは言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 狼狽も無理からぬことだった。彼らの正体には覚えがありすぎる。

 外套に縫いこまれた紋章を見れば明らかだ。母の生家、イリニ家の騎士が我が家の前を占拠しているのだ。

 

「――――っ」

 

 衝撃のあまり、少女はしばらく正体を失っていた。けれど、彼女は気を強く持ち直して男たちの前へと歩みを進める。

 サイドエフェクトは彼らから直接的な被害を受けることは無いと示している。

 

 それになにより、あそこは彼女の家なのだ。

 なぜ自宅に帰るのに、誰かの顔色を構う必要があるのだろうか。

 フィリアは半ば自棄になったようにズンズンと歩く。そうでもしなければ恐怖から逃げ出してしまいそうだった。

 

「おい、そこの子供。こっちに来るんじゃ――」

 

 お互いの顔がはっきりと視認できるところまで近付くと、騎士の一人が威圧するように声を上げる。

 だが彼は途中で言葉を切り、慌てたようにフィリアの家へと入っていく。

 

 数秒の後、兵士は我が家から一人の男を連れて出てきた。

 年は二十の中ほどで、スラリと背が高く端正な顔立ちをした金髪の青年であった。

 青年は嫌になるほど優美な仕草でフィリアの前まで歩みくると、仰々しく片膝をついて少女に視線を合わせる。そして、

 

「私はイリニ騎士団第二兵団隊長、テロス・グライペインと申します。――レディ、宜しければあなたの名前をお聞かせ願えませんか?」

 

 と、涼やかな声でそう尋ねた。

 グライペイン家といえば、イリニ家の直属の臣下となる有力貴族である。

 まかり間違っても、貧民窟に足を踏み入れる立場の人物ではない。

 

「……私はそこな家に住まう者で、パイデイアが娘フィリアと申します」

 

 フィリアはともかく、サイドエフェクトが導き出した最適解に従い、母に教わった貴人に対する作法でもって返答した。すると、

 

「おおやはり! 我々はあなたのお帰りを心待ちにしていたのですよ」

 

 テロスと名乗った男性はにこやかに笑みを浮かべ、恭しくフィリアの小さな手を取る。そして少女をエスコートするように歩き出した。

「あなた方に待ってもらう謂れなどない」そう口を突いて出そうになった罵声を寸でのところで飲み込み、フィリアは無表情で後に続く。

 今は何より、状況の把握を優先すべきであった。

 

「さあどうぞ。母御殿がお待ちですよ」

 

 テロスに連れられ、フィリアは我が家の玄関先に立たされる。青年は優麗な微笑を崩さぬまま、少女の手で木戸を開けるよう促した。

 

「…………」

 

 フィリアをいつも温かく包んでくれる家族。少女が生きる唯一の意味。

 

 我が家の扉は大聖堂の門よりも遥かに尊い、天国の扉だ。

 しかし、彼女は生まれて初めてその扉に手をかけるのを躊躇っていた。

 サイドエフェクトが警鐘を鳴らす。この扉の向こうには、彼女にとって最も望ましくない事態が起きていると。

 

「どうしたのです? さあ……」

 

 テロスがむずかる子供をあやすような声で囁く。

 フィリアはさながら自死を求められた罪人のような心地だった。

 この扉を開ければ少女は絶望に押しつぶされることになる。けれど彼女には、背後を囲む騎士たちの圧力を退けることなどできない。

 

「……いま、帰りました」

 

 絞り出した声は途切れ途切れで、か細く震えていた。

 だがそんな声でも、最愛の家族が聞き漏らすことは無かった。

 ガタガタと音を立て、木戸が勢いよく開く。

 そして少女は、母の腕に抱きしめられた。

 

「ああフィリア! お帰りなさい……」

 

 病み衰えた姿ではなく、パイデイアは過日の美しい姿を取り戻していた。

 痩せ衰えた肢体は健康的なふくよかさを取戻し、立ち上がることさえ苦痛を伴っていたにも関わらず、歩みには少しの淀みもない。

 長らく艶を無くしていた髪は黄金のように輝き、翡翠色に輝く瞳は、涙できらめきながらも揺らぐことなく娘を見詰めている。

 

 その瞬間に、フィリアは全ての状況を理解した。

 

 今まさに、少女の世界は滅びようとしているのだと。

 

 

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