WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の十四 遠征の顛末

 涙で滲む目で、栗毛の少女が荒れ果てた街並みを眺める。

 これから失われる光景を心に焼き付ける為、弱さに涙したことを決して忘れぬため、トゥリパは走りながら流れゆく景色を見詰める。

 

 此処は武都の東部地区。メリジャーナに敗北を喫したトゥリパたち一行は、避難民を引き連れ防衛部隊と共に砦へと撤退している最中であった。

 まだトリオン体を保っている二十人余りの戦士を前後に分け、間に避難民を挟んだ隊列である。

 

「おい、何か通信おかしいぞ。状況はどうなってんだ!」

 

 すると、先頭部隊に混じって指揮を執るピニョンがそう叫んだ。

 

「俺の方も繋がらない。おい誰か、王宮と通信できる奴はいるか!」

 

 一行のまとめ役となっているペタロが、大声で皆に問いかける。

 その声で我に返ったトゥリパも通信を試みるが、ノイズばかりでまともに繋がらない。

 結局、防衛部隊の全員が、本部へ連絡を取りつけることはできなかった。

 

「このタイミングで通信妨害だと……エクリシアめ、何を企んでいる?」

 

 ペタロが歯噛みする。本部だけでなく、他の防衛部隊とも連絡が付かない。

 通信機の故障の線はあり得ない。何らかの方法で敵が通信を遮断したと考えるべきだろう。どちらにせよ通信は部隊の命綱である。もはや彼らは敵地に取り残されたに等しい。

 

「何か、霧みたいなの掛かってない?」

 

 後列を力なく走っていたトゥリパが、若干怯えを含んだ声でそう言った。

 景色を眺め続けていた彼女だからこそいち早く気付いた。

 街全体に霧のようなモノが立ち込め、辺りをうっすらと白く染めている。

 

「な、これはトリオンです! トリオンの霧が……くそっ!」

 

 防衛部隊の一人が悲鳴を上げる。

 どうやら通信を阻害しているのはこれらしい。だが、まだ情報が足りない。

 ペタロはトリオン体の戦士に、

 

「高台に上がって、霧の分布状況を見てきてくれ」

 

 と、そう指示を出す。

 程なくしてもたらされた情報は、霧の尋常ならざる進行速度であった。

 霧は王宮のある中央区画を起点にして、武都の外周へと止めどなく広がっている。

 通信妨害の予兆があれば、上層部からすぐに連絡があったはずだ。それさえなかったという事は、この霧は極短期間で立ち込めたことになる。そして、

 

「馬鹿なッ、いくらなんでも範囲が広すぎるぞ!」

 

 一つの都市を覆い尽くさんばかりの霧の量。そんなことを可能にするのは……

 

「まさか、(ブラック)トリガー……」

 

 ペタロのみならず、防衛部隊全員の顔から血の気が引く。

 敵はここにきて、切り札を投入したのだ。

 

「れ、レーダーに敵影多数。囲まれてます!」

 

 そして、驚愕はまだ続く。トリオン体の隊員たちが挙って報告するのは、レーダーを埋め尽くさんばかりの赤い光点だ。

 敵がいつの間にか、霧の中から現れたらしい。或いは、この霧がレーダーに細工をしたか。

 

「落ち着け! 火力を集中させれば敵じゃない!」

 

 ペタロが大声でそう叫び、部隊の鎮静化を図る。恐怖は避難民たちにも伝播し、緊張がどんどん高まっていく。そして、

 

「う、うわあっ!」

 

 街路の角から長い首を覗かせたのは、捕獲・砲撃用トリオン兵バンダー。その足元にはモールモッドが群れを成して行進している。

 進行方向を塞ぐように現れたトリオン兵を目にして、恐慌を来たす避難民たち。

 ペタロたち防衛隊は、声を枯らして彼らの離散を防ぐのに精一杯だ。

 

「撃て撃て! とにかく撃ちまくれ!」

 

 ピニョンがトリオン兵の群れを指さし、防衛部隊にそう叫ぶ。

 彼らは「傍えの枝(デンドロ)」の筒先を並べ、猛然と射撃を始めた。すると、

 

「おいちょっと待て、嘘だろこいつら幻だ!」

 

 弾丸はトリオン兵の群れを素通りし、後方の建物へと着弾する。

 このトリオン兵たちは霧が投影した映像だ。しかしレーダーにはトリオン反応がはっきりとあり、目視でも本物と見紛う出来である。

 

「くっそ、まんまと引っ掛かった。突っ切ろうペタロ。こいつら足止めだ」

 

 ピニョンの憤慨する声に、パニックを起こしていた避難民たちも、幾らかは正気を取り戻す。実害がないなら、迂回せずに最短距離で砦まで迎える。

 

「よし。警戒を怠らずに進むぞ。市民の安全が最優先だ」

 

 ペタロの指揮の下、一向は霧の中をひた走る。

 途中、道を塞ぐバムスターに触れれば、何の支障も無く通り抜けられてしまう。

 

「何だ、虚仮脅しかよ……」

 

 先導する戦士が、安堵に息をつく。

 初めて目の当たりにした時は全滅をも覚悟したが、種が割れてしまえば何という事も無い。ただ通信妨害も含めて、各戦線では大混乱が起きているだろう。

 トリオン兵の幻影を通り過ぎて、一行は砦への道を急ぐ。

 すると、道の角からモールモッドが現れ、隊列へと向かってくる。

 

「動きまでそっくりだな……」

 

 戦士は念のため「傍えの枝(デンドロ)」で射撃し、トリオン兵が幻影かどうか確かめる。すると、

 

「うおっ、こいつ本物だぞ!」

 

 装甲が弾丸を弾いた。このモールモッドは実体がある。

 ブレードを掲げて襲い来るトリオン兵に、戦士たちが慌てて防御陣形を敷く。だが、

 

「お、おいもっと来たぞ! あいつらも本物なのか!?」

 

 新手のトリオン兵がどんどん現れる。彼らは幻影のトリオン兵と混ざり合い、どれが実体なのか判別がつかない。

 

「これってかなり不味い状況じゃあ……」

 

 戦士たちが冷や汗を流す。幻影に気を取られれば即座に攻撃を喰らう。

 隊列の足はすっかり止まってしまった。足止めが敵の狙いとあれば、これ以上なく術中に陥ってしまったことになる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ポレミケスの防衛軍が詰める砦「練兵館」。

 膨大なトリオンを注ぎ込んで造られた堅牢な建物は、王宮とその地下に眠る神を護るための最期の防壁だ。

 

 だが現在、防衛部隊はトリオン兵の撃退、市民の救出の為に各方面へと散っており、砦には最小限の戦士しか残っていない。

 砦の内部は訓練用の大広間から錬士の執務室まで避難民で溢れかえっている。平時は市民の立ち入りが許されない王宮も解放され、収容しきれない避難民を受け入れている。

 混乱と悲鳴と恐怖が支配するその建物を、高空から見下ろす人影がある。

 

「ここまでは狙い通りに推移するとは……末恐ろしいな、フィリア殿は」

 

 レーダー対策を施した「誓願の鎧(パノプリア)」を纏い、悠然とスラスターを噴かして宙に浮いているのは騎士テロス・グライペインだ。

 彼は戦闘に参加せず、トリオン兵に紛れて武都の中心部まで潜入した。そして別働隊の動きに合わせて行動を開始したのだ。

 

 テロスの掌には、蓋の空いた薬壺のようなトリガーが浮かんでいる。そしてその器機からは霧のような微細トリオンが滔々と流れだし、凄まじい速度で市街地に広がっている。

 これこそエクリシアが誇る(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」だ。

 

 トリオンの霧を展開し、範囲内の戦況を支配下に置くトリガーである。

 敵の通信の妨害、レーダーのかく乱が主な機能だが、鮮明な立体映像を投影し、敵を惑乱させることも可能だ。戦闘向きの機能こそ無いものの、敵の動きを丸裸にし、尚且つ相互の連携を絶つこのトリガーは、こと集団戦では無類の効力を発揮する。

 

 霧に包まれた市街からは、敵勢の混乱する様子がはっきりと伝わってくる。

 支援能力に特化した(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」を緒戦から投入しなかったのは、その威力を最大に発揮できるタイミングをフィリアが指示していたからだ。

 

「さて、いよいよだ」

 

 敵の(ブラック)トリガーに砲撃されぬよう、テロスは市街地を縫うように飛翔し、トリオンの霧をばら撒く。

 時を同じくして、避難民の籠る砦を激震が襲った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 最初は、遠方の激戦の余波が避難所まで届いているのだろうと誰もが思った。

 だが、地面の揺れは徐々に大きくなり、また轟々と異様な音が近づくように響いてくる。

 防衛隊へ不安を訴えた避難民も多くいたが、彼らは突如として立ち込めた霧によって通信が遮断されたと大騒ぎしており、取りつく島もない。

 

 そして市民の恐怖は正に的中し、地下よりソレが現れた。

 避難民の密集する訓練用広間。その床が、突如として円形に陥没した。

 

 その上に居た数十人の市民が、差し渡し十メートルはあろうかという巨大な穴に音も無く吸い込まれる。

 周囲の市民が悲鳴を上げる。次の瞬間、地下より白亜の塔がせり上がってきた。

 巨大なミミズを思わせるそれは、エクリシアの新型捕獲用トリオン兵ワムだ。

 

「ひっ……」

「きゃああぁぁぁっ!」

 

 思いもかけなかったトリオン兵の侵入に、避難民たちはパニックを起こした。

 安全かと思われていた砦だが、床や基礎部分には外壁ほどの強度はない。

 ステルス処理されたワムは秘密裏に土中を掘り進み、たった今得物の棲家へと辿りついたのだ。

 

「うわあああっ!」

「た、助けてっ」

 

 ワムは身体をくねらせ、逃げ惑う市民を床や壁ごと飲み込んでいく。

 外殻からは細長い触手を何本も伸ばし、市民を捕らえては巨大な口へと運ぶ。

 

 室内の警護に当たっていた戦士が攻撃を加えるが、毛ほども効いた様子はない。そして応援を呼ぼうにも、通信は妨害されている。

 ワムはトリオン能力に優れた人間を的確に見分け、次々と捕らえていく。

 

 この瞬間を導くため、エクリシアの騎士たちは陽動や時間稼ぎなど、様々な手練手管を講じて敵の目を欺いてきた。

 その成果が実り、避難所は阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。

 

 正しく入れ食い状態だ。また襲撃は王宮を囲む四つの砦すべてで同時に行われており、捕虜は莫大な人数になるだろう。

 めぼしいトリオン機関の持ち主を捕らえると、ワムは侵入した穴から再び土中へと潜った。欲を掻いて離脱できなければ元も子もない。防衛隊に襲撃が伝わるまで今しばらく時間がかかるが、長居は禁物である。

 

 ヌースによって操作されたトリオン兵は、熟練兵も同然の素早さで現場から撤退を始めた。

 城壁の外まで辿りつければ、(ゲート)を潜って完全に離脱できる。

 追っ手は掛かるだろうが、捕虜の救出にはワムが彫り抜いた地下トンネルを進まなければならない。生き埋めの危険が付いて回り、また人数も揃わぬ以上、無理には追跡してこないだろう。

 

 この時点で、エクリシア側の勝利はほぼ確定したといっていい。

 近界(ネイバーフッド)でも稀に見る大勝利である。この戦略を立てたのが、僅か十一歳の少女であることを、誰が信じられるだろうか。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「襲撃は成功。ワムは現在撤退中。追跡者の反応はありません」

「分かった。次は――」

「残りのトリオン兵を投入し、騎士の撤退を援護します」

「うん、お願い。くれぐれも攻めすぎないようにね」

 

 荒れ果てた武都の南部。薄く霧がかかった廃墟の街並みに、フィリアは一人立ち尽くしていた。

 周囲に敵影はなく、破壊されたトリオン兵があちこちに無残な姿となって転がっている。

 塵煙が風に巻かれ、鎧の表面を洗っていく。

 

 今回の侵攻戦、既に大勢は決した。

 ポレミケスには捕虜を奪還するだけの戦力は残っていないだろう。それどころか、避難所が襲撃されたという情報を共有できているかも怪しい。

 

 騎士たちはその任を終えたので、「光彩の影(カタフニア)」を維持する必要のあるテロス以外は母船に帰還させる。

 あとは擾乱目的でトリオン兵を投入し、ワムが離脱地点まで帰ってくるのを待つばかりとなった。

 だが、果たしてこれで作戦は完了したと言えるだろうか。

 

「どうしましたかフィリア? あなたもすぐに撤退を。ルートをナビします」

「ああ、うん」

 

 母船から届けられるヌースの声に、少女は力なく応える。

 今回の遠征の目的が、「神」の候補を見つけるためのものだとすれば……

 

「ごめんなさいヌース。私、まだ戻れない」

 本当の目的は、まだ達していない。フィリアのサイドエフェクトが、そう語りかける。

 

「……行くね」

 

 少女はスラスターを噴かし、瓦礫の山を飛び越える。

 目指すは武都の中心部。そこに、彼女の求める敵がいる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 王宮の物見塔に、オルヒデアは立っていた。

 絹糸のような黒髪を風に靡かせた美しい乙女。白く透き通った肌と、柳のように細い腰、見るからに華奢で繊細な肢体は、とても戦場には似つかわしくない。

 

 そんな深窓の姫君に相応しい気品を漂わせた彼女は、今や異形の姿となっている。

 彼女の右腕が、身長ほどもある長砲身へと置き換わっていた。肩から胸、首から顔に掛けて、どこか生物的なフォルムをした武器が乙女を浸食するかのように纏わりついている。

 

「ああ兄様、私はどうしたら……」

 

 眼下には濃密な霧の海が広がっている。

 高所に陣取り、(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」で長距離砲撃を行っていた彼女は、現在困惑の渦中にあった。

 

 本部と通信が途絶え、一行に復旧の兆しを見せない。

 (ブラック)トリガーの担い手として戦場に出てはいるものの、彼女は戦士としてのキャリアが浅く、砲撃は本部の指示に従って行っていた。

 その本部と連絡がつかなくなった今、彼女は果たしてどう動いたものか、思案に暮れていた。

 

「ええと、一旦中に戻って……でも持ち場を勝手に離れてしまっていいのかしら……」

 

 恐ろしい見た目にも関わらず、童女のように慌てふためくオルヒデア。

 兄と連絡がつかなくなったことも、彼女の動揺を一層深めている。

 

「伝令、伝令です!」

 

 そんな彼女を呼ぶ声。見れば、階下から王宮警護の戦士が階段を駆け上ってくる。

 兵士が早口に語る内容は、オルヒデアから言葉を失わせるに十分なものであった。

 新型トリオン兵の強襲により、避難所から多数の市民が拉致されたこと。また霧状トリオンによって通信が遮断され、各地の部隊が窮地に陥っていること。

 

「この霧は敵の(ブラック)トリガーによる可能性が濃厚とのこと。オルヒデア様には御出陣いただき、トリガー使いを排除するよう指令が下されました!」

「そ、そんな……お言葉ですが、私は……」

 

 戦士の通達に、オルヒデアは目に見えて狼狽する。

 彼女には対人戦闘の経験が殆どない。確かに「灼熱の華(ゼストス)」は強力無比だが、果たして自分にそんな大役が務まるのだろうか。そしてなにより――

 

「それに、まだ皆さまの避難は終えられていないのでは……」

 

灼熱の華(ゼストス)」の効果範囲は恐ろしく広く、どれほど威力を絞っても市街を巻き込んでしまう。最後の手段として市街地を爆撃する作戦は聞かされていたが、それも市民と防衛部隊の避難が済んでからのはずだ。

 

「如何なる犠牲を払ってでも、敵のトリガー使いを撃破せよとの命令です。もはや一刻の猶予もありません。この霧が晴れねば味方の救出もままならず……オルヒデア様。どうか御出陣を!」

 

 沈痛な面持ちで戦士は頭を下げる。伝令役の彼は指令を持ってきただけだ。その心境はオルヒデアと同じなのだろう。

 

「……分かりました」

 

 反論の余地が無いことを悟り、オルヒデアは硬い声で答える。

 身体の震えを隠すように、乙女は毅然とした眼差しを市街へと向ける。

 その視線の先、霧に呑み込まれた市街の空を、悠々と我が物顔で飛翔する人影がいる。

 エクリシアの騎士が、まさにオルヒデアに挑むかのように姿を現していた。

 

「――っ!」

 

 咄嗟に砲身となった右腕を構え、オルヒデアが砲撃を放つ。

 天を切り裂く光芒は、しかし騎士を捉えることなく素通りし、遥か彼方で大輪の花を咲かせる。

 まるで砲撃を見越していたように華麗な回避を見せた騎士は、そのまま霧深い市街へと降りていく。

 あの騎士が霧を操っているかどうかは不明だが、その確率は決して低くはないだろう。

 

「い、行きますっ!」

 

 オルヒデアは恐れを振り切り、高台から身を投げた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 南方へと逃げた騎士を追いかけ、オルヒデアは霧の立ち込める市街を疾走する。

 視界は悪いが、トリオン体の補正でなら十分先を見通せる。敵味方を間違えることはないだろう。

 

 厄介なのは、道を塞ぐトリオン兵の幻影である。

 霧によって投影されたこの立体映像は、見た目では本物と区別できぬ精密さを持ち、尚且つレーダーにも反応する。移動の際に音がしないので注意を払えばそれと気付くが、本物のトリオン兵と混成で出てきたときは始末に負えない。

 だがそれも、ノーマルトリガーが相手であった場合の話である。

 

「消えて下さい!」

 

灼熱の華(ゼストス)」から放たれた弾丸が炸裂し、球状の光が市街地を飲み込む。

 爆発が収まった後には、すべてを焼き尽くされた空間だけが残った。

 

 幻影も実体も関係なく、建物やトリオンの霧さえも呑み込むその威力は、まさに(ブラック)トリガーに相応しい。

 ただその高位力の反面、「灼熱の華(ゼストス)」には重大な欠点がある。いくら威力を絞っても、火球のサイズは直径二十メートルを下回ることが無い。

 

 近距離の相手に撃てば己をも巻き込むため、位置取りには常に気を配らねばならない。

 そして問題なのが、担い手であるオルヒデアにそこまでの技量が無いことだ。

 

 かといって、彼女を前線に投入した上層部の判断も、間違いとは言い切れない。

 敵が纏う鎧の頑強さは尋常ではなく、ノーマルトリガーでの破壊はほぼ不可能と見ていい。霧を排除せねば被害状況すら纏めることができない状況だ。未熟であろうとも(ブラック)トリガーを用いねば、局面を打破することができない。

 

 彼女を補佐するために、王宮警護に当たっているトリガー使いが距離を置いて付いてきている。最悪、オルヒデアは敵の騎士と相打ちになっても構わない。後の事は彼らが上手く計らってくれるだろう。

 それでも、乙女の心から恐怖は消えない。

 

(兄様、私に勇気をください……)

 

 敬愛する兄の姿を胸に思い描き、乙女は先の見えない廃墟をひた走る。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「言った通りの手筈でお願い」

 

 朽ち果てた商店のカウンターに身を隠し、フィリアは通信越しに指示を出す。

 

「敵(ブラック)トリガーの火力は「誓願の鎧(パノプリア)」を以てしても防げるものではありません。今一度、再考を願います」

 

 母船から返答するヌースの声は、何時にも増して硬く冷たい。彼女がここまで怒っているのは、フィリアにとっても初めての経験だ。

「神」の候補として最も相応しい者は誰か。少女のサイドエフェクト「直観智」が示した相手は、砲撃型(ブラック)トリガーの担い手である。

 フィリアはそのトリガー使いを狩るため、待ち伏せを行っているのだ。

 

 エクリシア側は既に撤収段階に移っており、市内には敵の足止め用のトリオン兵が展開しているばかりで、主戦力の騎士はテロス・グライペインしか残っていない。

 その彼も、城市の外縁部まで引きさがり、ワムが離脱ポイントに到達するのを待っている。

 つまり、フィリアはほぼ独力で(ブラック)トリガーの担い手を打ち取らなければならない。ヌースが反対するのも当然だ。

 

「大丈夫。もし悪い目が出ても、私はきっと無事に帰れるよ。約束するから」

 

 務めて明るい声で、少女はそう言う。

 サイドエフェクトのお墨付きがあるかのような物言いだが、実際の所、彼女の「直観智」は成否両方の可能性を示していた。

 敵を討ちとれる可能性も高いが、フィリアが捕虜になる、ないしは命を落とす可能性も十分にあった。

 

 しかし、勝負から降りるという選択肢はない。

 母を助けるため、家族の幸せな未来を掴むためなら、少女は我が身すべてを掛け金にすることも厭わない。

 

「……フィリアの意思を尊重します」

「ありがとう」

 

 ヌースが折れたところで、テロスから通信があった。

 敵の(ブラック)トリガー使いはフィリアを追って、想定通りのコースを進んでいるらしい。

 

「感謝いたします、騎士グライペイン。――それでは、状況を開始します」

 

 フィリアは「鉄の鷲(グリパス)」の剣柄を握りしめ、静かに襲撃地点へと移動する。

 テロスの「光彩の影(カタフニア)」の効果で、少女は敵のレーダーに掛からない。逆に敵の行動はこちらに筒抜けである。奇襲はいとも容易く成功するだろう。

 とはいえ、戦力的にこちらが不利という事に変わりはない。奇襲のアドバンテージを失わぬ間に(ブラック)トリガーを討ち、捕虜を連れて戦線から離脱せねばならない。

 

「――ふぅ」

 

 鎧の中で、フィリアは静かに息を吐く。

 目的を果たすためには、猛りも恐れも必要ない。

 少女は己の精神を、鋭く透明に研ぎ澄ましていく。

 そして、一瞬の好機は訪れた。

 スラスターを全開にして、フィリアは路地より躍り出た。

 標的は(ブラック)トリガー使いではなく、後詰の兵隊だ。

 

「な――」

「って、敵――」

 

 長剣が閃き、声を上げる暇さえ与えず二人の戦士の首が落ちた。

 

「「鷲の爪(オニュクス)」」

 

 距離が遠かった幸運な数名は、武器を構えるだけの猶予があった。

 しかし、オプショントリガーによって凄まじい切れ味となったフィリアの剣は、対手を受けた武器ごとを容易く切り裂く。

 僅か数秒で、五名いた戦士たちはトリオン体を失った。

 幾ら奇襲を許したとはいえ、彼らとて王宮を守護する腕利きの戦士たちだ。それを一瞬で葬り去ったフィリアの剣技は、もはや尋常の域には収まらない。

 

「さて……」

 

 フィリアは剣を提げ、街路の先でこちらに砲口を向けているオルヒデアを見る。

 右腕が変化した長大な砲身を除けば、息を呑むほど美しい女性である。後方で起こった戦闘に、遅まきながら気付いたのだろう。彼女は恐怖と混乱に美貌を歪めながらも、揺らぐことのない意思で砲身を構えている。

 すぐさま撃ってこないのは、周りに生身の戦士たちがいるからだ。

 フィリアの予見通り、敵の(ブラック)トリガーは効果範囲が広すぎるのだろう。

 

「……」

 

 少女は首を動かさず、視線だけで膝を付く戦士を見る。

 彼らを人質にして、オルヒデアを武装解除させるのも一つの選択肢だ。

 見たところ、彼女の振る舞いはあまりに軍人らしくない。おそらくは(ブラック)トリガーと適合したが故に戦場へと狩り出されたのだろう。

 それに、気優しそうな性格が透けて見えるような顔をしている。人命を交換条件に出せば、投降する可能性も十分にありそうだ。

 

(いや、駄目だ)

 

 しかし、フィリアのサイドエフェクトはその方針を却下した。オルヒデアは良くとも、戦士たちがその展開を許すまい。

 彼らはオルヒデアとは異なり、戦士としての覚悟を備えている。人質に取れば、即座に自害するだろう。そうなれば、フィリアは盾なしで砲火の前に曝されることになる。

 

「仕方ない、か」

 

 フィリアは嘆息一つで覚悟を決め、もう一つのプランを実行するためスラスターを全開にする。そして、

 

「「鷲の羽(プテラ)」」

 

 長剣のオプショントリガーをも起動し、弾丸を上回る速度で一直線にオルヒデアへと飛翔する。

 少女の剣が届くまで、もはや一秒とかからない。だが、

 目を焼くような極光が轟然と沸き起こり、フィリアとオルヒデアを飲み込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 膨大な熱量が「誓願の鎧(パノプリア)」の外殻を一瞬で熔かし、内部のフィリアのトリオン体をも焼き尽くす。

 技量に乏しいオルヒデアが、エクリシアの騎士を討つべく密かに考えていた戦法。それは己をも巻き込んでのゼロ距離射撃、つまりは自爆であった。

 

 灼熱の極光に塗りつぶされた二人は、痛苦を感じる間もなくトリオン体を失う。

 光が消え去ると、街は円形に削られ、地面には巨大なクレーターが穿たれていた。

 そしてすり鉢の底には、換装の解けたオルヒデアと、最早原型も分からぬ程に焼け溶けた、「誓願の鎧(パノプリア)」の残骸がある。

 

「…………」

 

 トリオン体を失った戦士が次に取るべき行動は、逃走一択である。特にオルヒデアは国防の要となる(ブラック)トリガーを持つのだから、そのことについては耳にタコができるほど聞かされている。

 

 戦士となってからこちら、毎日走り込みだけはひたすら続けさせられてきた。生来鈍くさい彼女でも、今なら休みなしで都を一周できるほどの体力は付いている。

 そんな彼女が、逃げ出すのも忘れて奇妙なオブジェとなった鎧を凝視している。彼女の注意を引いたのは、鎧の残骸から伸びた褐色の小さな手だ。

 

「そんな、なぜ……」

 

 狼狽も露わにオルヒデアが鎧へと近づく。熔解した鎧の前面から覗くのは、褐色の肌と白い髪をした十かそこらの子供である。

 トリオン体の体格は変更が可能であることは知識としては弁えているものの、二メートル近くはある「誓願の鎧(パノプリア)」を操縦していたのが、こんな幼い子供だったとは。

 

 彼女の脳は咄嗟にその事実を受け入れられなかった。

 戦場に居るべきではない幼子の姿。それに憐憫の情を抱いたことが、彼女の命運を分けることになった。

 

「ねえあなた! しっかりして、眼を開け――」

 

 死んだように動かない子供に、オルヒデアは今にも泣き出しそうな顔で声を掛ける。

 その瞬間、金色の双眸が、乙女を射抜いた。

 

「お、おおおあぁぁっ!」

 

 獣の咆哮にも似た絶叫を喉から迸らせ、褐色の少女フィリアが鎧の残骸から躍り出る。

 雄叫びに肝を潰して立ち尽くしたオルヒデアへと飛びかかった少女は、その小さな腕を乙女の首に巻きつけ、裸締めを決める。

 

「が、――くぁ」

 

 少女は非力を補うため、全体重をかけて乙女の首からぶら下がる。

 気管を潰さんばかりの容赦ない絞め技に、オルヒデアはたまらず地面に倒れ込むと、本能的な危機感から必死の抵抗を試みる。

 

 少女の腕に爪を立て、力の限り掻き毟る。

 鮮血が迸るが、フィリアの拘束は一向に緩まない。

 

 狂乱に陥ったオルヒデアは、背後にある少女の頭を殴りつけ、引っ掻き、それでも効果が無いと分かるや、細い腕を掴んで強引に振り解こうとする。

 もはや意識を失いかけている乙女は、生存本能の導くまま少女に容赦ない攻撃を加える。

 

「――っ、く!」

 

 体格差、筋力差から、徐々にフィリアの拘束が緩んでいく。元々大人と子供である。本気になって抵抗されれば、少女に制する術はない。

 

「ヌースっ!」

 

 不利を悟ったフィリアが、怒声にも似た大声でそう叫んだ。

 あと数秒で失神させられるところだったが、オルヒデアは必死の抵抗で少女の腕を振り払うことに成功した。

 

「かひゅ――ごほ、かは……」

 

 地面に膝を付き、呼吸に咽ぶオルヒデア。

 突如として我が身に降りかかった暴力に、まるで意識が追い付いていない様子だ。

 

「ああぁぁっ!」

 

 再び聞こえてきた雄叫びに、乙女が怯えた様子で振り向く。

 すると、鬼の形相をした少女が地を蹴ってオルヒデアへと突進してくる。

 小さな体の一体どこにそんな力があるのか、フィリアは乙女に組みつくと、そのままクレーターの外縁部まで押し出そうとする。

 

「はな……やめ――さい!」

 

 オルヒデアも少女を引きはがそうと足掻き、二人はもつれ合いながら地面に転がる。

 そんな二人を、巨大な影が覆い隠す。

 

「な――きゃっ!」

 

 フィリアの要請を受けて駆けつけたのは、ヌースが操るトリオン兵バムスターだ。

 オルヒデアは大口を開けて迫りくるバムスターから逃れようともがくが、腰にしがみついた少女がそれを許さない。

 そしてトリオン兵に呑み込まれところで、二人の意識は途絶えた。

 

 ――ポレミケスで行われた最後のトリガー使いの戦いは、こうして幕を下ろした。

 その後、トリオン兵によるかく乱、「光彩の影(カタフニア)」の霧による援護が功を奏し、ワムは一体もかけることなく城壁の外へと到達。(ゲート)で速やかに回収された。

 捕獲用トリオン兵の回収を確認すると、テロス・グライペインは霧を引き払い、遠征艇へと帰還する。

 

 イリニ騎士団の駆る遠征亭は、本国エクリシアを目指して撤退を始めた。

 彼らが去った後のポレミケスには、破壊の限りを尽くされた街並みと、打ち捨てられた亡骸だけが残された。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ん……う?」

 

 寝とぼけた自分の声で、フィリアの目は覚めた。金色の瞳を瞬かせ、睡魔の残滓を追い払う。

 すると、視界いっぱいに広がるのはオリーブグリーンの板壁だ。

 少女の脳が、徐々に覚醒していく。

 前後の記憶を鮮明に思い出したフィリアは、慌てて上体を起こした。そして、

 

「――ぁ痛!」

 

 ごちんと頭を天井にぶつけ、少女は声にならない悲鳴を上げる。

 ここは遠征艇内でフィリアとメリジャーナに当てられた個室。その狭い二段ベッドの上段である。

 

 少女の記憶は、(ブラック)トリガー使いと組み打ちし、諸共にバムスターに呑み込まれたところで途切れている。

 こうして自室で寝かされているということは、なんとか無事に撤退できたらしい。

 

 どれだけ気を失っていたかは分からないが、ともかく詳しい情報を集めようと、少女はベッドから降りようとする。すると、

 ばさばさと、物が床に落ちる音がする。

 何事かと、狭いベッドからフィリアは顔を出す。すると、

 

「――!」

 

 そんな少女を力強く抱きしめたのは、薄紫色の髪をした女性、騎士メリジャーナだ。

 

「…………あ、あの」

 

 無言で抱き着いてくる同僚に、フィリアは困惑した声を出す。

 というより、少々苦しい。

 彼女は男女問わず羨むような豊満な体型の上、軍隊暮らしで力も強い。そんなに思いきり抱き着かれては、窒息しそうになる。

 

「よかった……本当に……」

 

 けれど、涙混じりの声でそう呟かれては、フィリアも抱擁を受け入れるほかない。

 小さな部屋の中で、二人は暫しの間、お互いの生存を喜び合った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「あんな無茶をするなんて、私そんなこと教えてませんからねっ!」

 

 ようやくメリジャーナが落ち着きを取り戻し、解放されたフィリアであったが、今度は長いお説教が待っていた。

 彼女は少女が単身と(ブラック)トリガー戦ったことに、強い不満があるらしい。

 

 隊長であるドクサの了承を取りつけた上での行動であり、別に作戦違反という訳ではない。また人選に関しても、あの時まともに動けたのはフィリアとメリジャーナだけで、尚且つメリジャーナの鎧は損傷が著しく、距離も遠かった。

 妥当な判断であっただろう。それに危険度は高かったが、試すだけの価値がある作戦だった。

 

「こんなに怪我をして……」

 

 だが、メリジャーナはそんなことを議論したいわけではない。

 フィリアの両手と顔には、ガーゼや包帯が巻かれている。

 敵の(ブラック)トリガー使いを抑え込んだとき、抵抗を受けてできた傷だ。

 

 取っ組み合いをしていた時は何も感じなかったが、今となってはなかなかに痛い。傷は思ったよりも深かったらしい。

 少女が寝ている間に、船内の医療機械で負傷の具合を調べたそうだ。

 ひっかき傷と打撲の他に問題は発見できなかったが、念のため本国に戻ってからは精密検査をうける必要がある。

 ともあれ、相手が女性でよかった。あれが屈強な男性であれば、逃げられるどころか逆に捕らえられていたかもしれない。

 

「ホントにフィリアさん分かってるの!?」

 

 眦を釣り上げて怒るメリジャーナ。しかし、その目は赤く腫れぼったい。

 

「……はい。御心配をおかけしました」

 

 フィリアは透き通るような笑顔を浮かべて、メリジャーナに応える。

 体調も安定していると分かると、二人は伴ってブリッジへと向かった。

 

「おや、小さな英雄様の御帰還だぞ」

 

 入室するやいなや、野太い声でそう囃し立てたのはドクサ・ディミオスだ。彼は豪快に笑いながら、フィリアの目覚めを祝う。

 

「フィリア様、お気分は如何ですか? もし体調が優れないようでしたら、お休みになられていてもかまいませんよ」

 

 金髪の美男子テロス・グライペインは、紳士然とした口調で少女の体調を気遣う。

 もう一人の騎士、ネロミロス・スコトノの姿は無い。メリジャーナに道すがら聞いたところ、彼も多少の負傷があり、自室で休養しているらしい。

 あの出来事があったため、フィリアとしてもあまり会いたくない相手だ。顔を会わす機会が減ったのならば、まあ喜ばしいことだろう。そして、

 

「フィリア……とても、心配していました」

 

 円卓の中央に座しているのは、少女の掛け替えのない家族、自律トリオン兵ヌースだ。

 

「うん。……ごめんね。ありがと」

 

 フィリアはヌースのボディをそっと撫で、言葉では語り尽くせない感謝の思いを告げる。

 そうして他の同僚へと向き直ると、

 

「ご迷惑をおかけしました。皆さまの御助力のおかげで、再びエクリシアへと帰ることができます」

 

 丁寧に頭を下げ、礼を述べた。

 それから、フィリアは自らの席に腰を据え、ポレミケス侵攻戦の詳細な成果を確認する。

 

 捕虜の数は二百人以上。加えてこちらの人的損害はなし。

 大国エクリシアでもほとんど記録にない、桁外れの大勝利である。

 

 それに加えて、本遠征ではポレミケスの砲撃型(ブラック)トリガーを鹵獲することができた。これだけでも、捕虜百人に勝る戦果だろう。

 近界(ネイバーフッド)では(ブラック)トリガーは軍事力の象徴とされる。今回入手したトリガーを加えると、エクリシアが保有する(ブラック)トリガーは全部で八本となる。

 これは近界(ネイバーフッド)全域を見渡しても稀有な所有数だ。エクリシアの武名は諸国に轟くことだろう。

 

「本遠征の勲功第一は、間違いなくお嬢ちゃんだな」

 

 ドクサは笑いながら、ぐりぐりとフィリアの頭を撫でる。

 

「ちょっとお父さ……隊長! フィリアさんはまだ怪我が治っていないのよ!」

 

 慌ててメリジャーナが父のごつい掌を引きはがす。

 

「おおすまん。つい嬉しくなってな」

「スキンシップが過剰なのよ! フィリアさん。こっちにおいでなさいな」

「――ふふっ」

 

 ドクサとメリジャーナ親子のやり取りに、知らずとフィリアの顔がほころぶ。

 そんな少女の気持ちが伝染したのか、ブリッジに集う騎士たちは一様に和やかな表情を浮かべる。

 会戦前の緊張が嘘のような、平和で満ち足りた時間が流れた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 夕焼けに染まり、宝石のように輝くエクリシアの街並み。

 教会の尖塔からその光景を眺めるのは、空色の髪と瞳をした少年アヴリオ・エルピスだ。

 少年は朗らかな笑みをたたえ、幾度となく目にした眼下の景色を飽くことなく見つめる。

 

「――おや?」

 

 そんな彼の至福の一時に、無粋な電子音が水を差す。

 アヴリオは腕輪型の端末を操作し、立体映像を投影する。

 

 そうして報告書を読み進めるうちに、彼の表情から感情が抜け落ちていく。

 普段は人懐こい笑顔を欠かすことが無いだけに、無表情となった少年の顔は、その異相もあって何か底知れぬ凄みがある。

 

 一通り通信内容に目を通すと、少年は厭わしげな仕草で投影モニターを消し去った。

 再び胸壁へと腕を掛け、絶景へと目を向けるものの、その表情に笑みが戻ることは無い。

 

「……ふう」

 

 アヴリオは心から潤いが失われたことを悟ると、ため息をついて階段へと歩く。

 丁度その時、階下から足音が聞こえた。

 

「またこのような場所に居られたのですか」

 

 大儀そうに階段を上ってきたのは、顔中に深い皺の刻まれた老齢の男性だ。

 彼は枢機卿ステマ・プロゴロス。

 枢機卿とは、教皇の補佐を職務とする最高顧問である。

 教会ではナンバー2、すなわちこのエクリシアおいては国権の次席に座る貴人の中の貴人だ。

 

 特に、教皇の存在が一般市民に秘匿されている現在では、国事行為の全てを担うこの老人は、実質的にエクリシアの元首であるといってもいい。

 寒風吹きすさぶ高台に、供も連れずに来ていい立場の人物ではない。

 

「ああ、ごめんね。やっぱりここが落ち着くんだ。見てごらんよ。いい景色だ」

 

 そんな要人を相手に、アヴリオは常と変らぬ軽い調子で言葉を吐く。

 

「さようなことは結構。また勝手に教会を抜け出したそうですな」

 

 ステマはその不敬を咎めることもせず、孫を叱りつけるような調子で声を尖らせる。

 

「御身は掛け替えのないエクリシアの至宝であると、常々申している筈ですぞ」

「あはは……」

 

 苦笑を浮かべて素直に頭を下げるアヴリオ。

 

「せめてお勤めだけは忘れないようにしていただきたい。今エクリシアが重大な局面にあることは、あなた様も良くご存じでしょう」

「うん。返す言葉もないよ」

 

 余り悪びれた様子も見せず、少年は気楽に手を振って答える。

 

「そう言えば、イリニ騎士団が遠征から帰ってくるようですな。何でも途轍もない戦果を挙げたとか……」

「報告書は今しがた読んだよ。(ブラック)トリガーまで鹵獲したってさ」

「それは何と! 流石はイリニ騎士団ですな。いや実に目出度い!」

 

 衒いも無く相好を崩し喜ぶステマを尻目に、アヴリオは胸壁へと向かい、複雑な表情で聖都の街並みを眺める。

 

「そうかな。まあ、目出度いことなんだろう。きっとね」

 

 少年の脳裏に浮かぶのは、世の不条理にたった一人で抗い続ける少女の姿。

 

「まったく、嫌な世界だなぁ」

 

 吐息と共に吐き出した小さな声は、風に紛れて夕焼けの中に消えた。

 あの健気で心優しい少女に、せめてもの幸福があらんことを。

 少年は叶わぬ望みと知りながら、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

                                 第三章へ続く

 

 

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