WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
一面に広がる畑では、青々とした麦の穂がそよ風に揺れていた。
何処までも続く麦畑の海を渡るように、無骨な車両が進んでいる。
フィリアを乗せた車両は聖都を離れ、一路イリニ家の本宅を目指して進んでいた。
(今年の出来はどうなるのかな……)
車中のフィリアは、後席の窓からイリニ家の荘園をぼんやりと眺める。
エクリシアは国土に比べて人口が過密気味で、食料自給に余裕があるとは言い難い。凶作が続くと麦価は恐ろしく値上がりし、市民の財布を直撃することになる。
貴族としては税収の減少を憂うべきなのだが、未だ貧民時代の感覚が抜けない少女は、ついそんなことを心配してしまう。
今日もまた、フィリアはオルヒデアの経過観察を行うため、イリニ家本宅を訪れようとしていた。
ちなみに、彼女は現在生身である。イリニ騎士団の正式な公務だが、他ならぬオルヒデアがトリオン体よりも生身の方が好ましいと言っていたためだ。
「ふう……」
聖都からイリニ家の所領までは結構な距離があり、往復するだけでも一苦労である。
イリニ家の子女として、フィリアは神の候補という機密事項に触れても問題のない立場におり、またオルヒデア自身が少女のことを気に入っていることなどから、視察は半ば彼女の担当業務になりつつあった。
どちらにせよ、捕虜の細かな変化を観察するのに少女のサイドエフェクトほど役に立つものはない。下手に視察員を変える必要はないだろうとの判断である。
少女としてもオルヒデアの暮らしぶりは気になるので、様子を見に行くのに不満は無い。面倒な書類仕事も減らしてくれるので、どちらかといえば有難い話でもある。
ただ、彼女にとって困るのは、本宅には母パイデイアが起居していることだ。
彼女との対面を頑なに避ける少女は、今回も本宅に連絡して、事前に母の在宅時間と砲門が重ならないよう調整してもらった。
実の所、パイデイアは表向きには神の候補としては扱われていない。本宅では病気療養中の当主の妹という立場で日々を過ごしている。
身内から生贄を出すというのは余り外聞がよろしくないため、可能な限り情報は秘匿される。
かく言うフィリアも、パイデイアが神の候補であるとはまったく聞かされていない。
おそらく事実を知る者は当主アルモニアと当事者であるパイデイア、それに相談役のヌース。後は騎士団でも古参の幹部であるドクサぐらいのものだろう。
そもそもパイデイアはずば抜けたトリオン能力の割に、エクリシアでは全くの無名である。一時はイリニ家から抹消された人物のため、彼女のことを知る人間はほとんどいない。
おそらく身の回りの世話をする使用人たちも、パイデイアが神の候補であるとは気付いていないだろう。
唯一の例外は、サイドエフェクトでその事実を知り得たフィリアだけだ。
「……やっぱり、時間がかかりますね」
延々と続く麦畑の向こうに、ようやく巨大な邸宅が見えてきた。
フィリアは視線を車内へと戻し、隣の座席に置いてあるトリオン製の長櫃にそっと手を乗せた。
× × ×
「ふわああ! ありがとうございますフィリア様!」
イリニ本宅の地下。豪奢な家具で飾られた一室に、歓喜の声が響き渡る。
部屋の主、黒髪の乙女オルヒデアが瞳を輝かせて見詰めているのは、ケースに収まった真新しいバイオリンと、その横に積み重ねられた楽譜の山だ。
「喜んでいただけて、何よりです」
前回の別れ際の約束通り、フィリアはオルヒデアに手土産として、これらの品々を持参していた。
彼女がいくら音楽好きだからといって、幾分安直なチョイスではないかと思ったが、もとより捕虜に与えられる品には制限がある。
いろいろ悩んだ末での贈り物だが、大層気に入ってくれたらしい。
「あ、御免なさい。お客様にお茶もお出しせず……どうぞお掛けになって下さい」
しばらくはバイオリンを嬉しそうに眺めていたオルヒデアであったが、フィリアが立ちっぱなしなのに気付くと慌てて席を勧め、隣接する厨房へと歩いて行った。
基本的に捕虜の食事は屋敷の者が用意するため、地下の調理場に食材は置かれていないものの、茶や嗜好品などは多種多様に取り揃えられている。
フィリアは優美な椅子に腰を据え、オルヒデアが戻ってくるのを待つ。
今日の目的は、彼女に課した課題の達成具合と、それを含めたミーティングである。
少女は随分気楽な気分で、すわり心地のいい椅子に身体を預けていた。だが、
「きゃああっ!」
絹を裂くような悲鳴と、がしゃんと陶器の割れる音が調理場から聞こえてきた。
「――っ!」
フィリアは放たれた矢のように飛び出し、隣室へと踏み込む。するとそこには、
「ああ大変! えっと、どうしましょう、えっと……」
広い調理場の真ん中で、右往左往しているオルヒデアの姿があった。
ティーカップを落としたのだろう。床には陶器の破片が散らばり、テーブルの上には茶葉が撒き散らされ、トレーの上の焼き菓子に掛かっている。
そして水を入れ過ぎたのだろうか。火にかけられたケトルは盛んに湯気を立て、噴きこぼれを起こしている。
オルヒデアに怪我がないことを確認すると、フィリアは何はさておき調理場の火を落とした。
「あの、フィリア様、これはその……」
「危ないですので破片にお手を触れないように。いま箒を持ってきます」
狼狽するオルヒデアを尻目に、フィリアは足早に部屋を後にした。
地下階には一通りの家具や設備は揃っている。少女は物置へ迷いなくたどり着くと、箒と塵取りを掴んで戻ってきた。
本来ならばメイドに任せる仕事だが、それをしてしまうとオルヒデアのヘマが明るみになってしまう。
少女はさっそく証拠隠滅に取り掛かった。
「私もお手伝いを……」
「そうですね。ではテーブルの上をお願いします」
気まずそうなオルヒデアにも作業を言い付け、床に散らばった破片を箒で集める。
作業は直ぐに済んだ。床を掃き清め、テーブルを拭けばそれで終わりである。
どちらにせよカップの数が減ってしまっているので、家人に報告はしておかねばならない。怠れば食器を管理している使用人の責任になってしまう。
自分の不手際から割ってしまったと伝えておこうとフィリアは考える。まあ家人も気付くだろうが、オルヒデアは何というか、つい庇い立てをしてしまいたくなる雰囲気がある。そこまで酷くは責められないだろう。
「…………」
乙女は美しい顔を曇らせ、俯いている。
「さて。ではもう一度始めましょう」
少女は何事も無かったようにケトルを火にかけ、ティーカップを並べる。
「フィリア様にそんなことをさせるわけには……」
「私はどうも、何かしていないと落ち着かないのです。一緒にさせてくださいませんか」
「……はい。それでは是非に!」
二人は並んで調理場に立ち、お茶の用意を始める。
案の定、オルヒデアはこちらの銘柄には詳しくなく、茶葉を入れ過ぎそうになったり、湯音を間違えかけたりする。
それでもフィリアの補助もあり、何とか美味しいお茶を淹れることができた。
二人は応接室までティーセットを運び、ようやく席に着く。
華やかな香気を漂わせるお茶と、贅を凝らした焼き菓子を前に、フィリアはようやく来訪の目的である面談を始めた。
「さて……では早速、オルヒデアさんの技能試験の結果についてですが……」
仕事を割り当てる為、エクリシアに連れてこられた捕虜には例外なく技能試験が課させられる。オルヒデアも数日前にその試験を受けていた。
「抜きんでて適性があった業種は、その……」
「無いんですね……覚悟していました」
散々たる結果をどう伝えたものかと少女が言いよどんでいると、乙女は暗い影を落とし、力なく微笑んだ。
オルヒデアは身体も健康で、頭のめぐりも人並み以上ではあるのだが、何につけてもとにかく間の抜けたところがある。
技能試験も筆記は好成績を収めたのだが、実技訓練では何か反抗の意思でもあるのかという程に失敗ばかりを繰り返していた。
特に専門的な知識も無く、技能面では最も低いランクの捕虜との判定が下された。
「私はいっつもこうなんです。何をしてもダメで、人様に迷惑ばかりかけて……」
「でも、素晴らしいトリオン機関をお持ちではないですか」
「……ありがとうございます。でも、それは授かりものですから」
何か嫌な記憶でも思い出したのか、オルヒデアは笑顔のままに大きなため息をつく。
実の所、神の候補である彼女は、職業適性がどうあれこの館から出されることはない。
「お気を落とすことはありません。オルヒデアさんは、素晴らしい演奏の腕をお持ちではないですか」
それでも、少女は落ち込む乙女を何とか元気づけようと、音楽の才能を褒める。
残念なことに、エクリシアに連れてこられた捕虜は年季が明けるまでは奴隷も同じで、職業選択の自由は無い。
彼らは強制的に製造、生産職に割り当てられ、演奏家や画家といった、国力とは無関係な仕事に就くことは許されない。
「私はオルヒデアさんの音楽は素敵だと思いますよ」
「本当ですか?」
「本当です。感動は力に変わります。音楽は立派な仕事になりますよ」
フィリアに励まされると、オルヒデアもだんだんと力が湧いてきたようだ。
明るさを取り戻した乙女は、フィリアの褒め言葉に照れたように微笑む。
「ありがとうございます。本当にフィリア様はお優しいのですね」
そう言われて、少女は内心で己の浅ましい所業に恐れ慄く。
オルヒデアが音楽家として活躍する日は、未来永劫やってこない。
育成が間に合えば、彼女は
たとえそうはならなかったとしても、これほどのトリオン機関を持つ人間を、エクリシアがみすみす放っておくはずがない。
おそらく彼女は適当な貴族の男と娶せられ、子供を産むことを強制させられるだろう。
他国の女という立場なら、妾として扱われるかもしれない。
大事なのは、彼女のトリオン能力を次代に引き継ぐことだ。
トリオン機関はある程度の確率で遺伝する。子供は多ければ多いほどいい。
優生学的な手法に則ってでも、優秀なトリオン能力者を確保する。エクリシアの貴族階級では当たり前に行われていることだ。
勿論、彼女は大事な母体であるから、至極丁重に扱われることだろう。
美しい彼女のことだ。相手となる男も本気で熱を上げるかもしれない。
運命次第では、ある種の幸福も手に入れられるだろう。
ただし、そこには彼女の自由意思、選択の余地は微塵も無い。
オルヒデアには、神となって朽ち果てるまでエクリシアの礎となるか、籠の鳥となって一生飼われ続けるか、そのどちらかの未来しか待っていない。
「あの、御気分でも悪いのですか、フィリアさん?」
急に言葉を失い、心なしか唇を青ざめさせたフィリアに、オルヒデアがさも心配そうに声を掛けた。
「ああいえ、大丈夫です。少し、面白くもないことを思い出しただけです」
軽く頭を振って応える少女に、乙女は何やら思い当ったように頷く。
年端もいかない少女が軍で働いていれば、嫌な目にあうこともあるのだろう。そう納得したオルヒデアは、
「でしたら、今日は御存分に休憩なさったらどうですか?」
と、そんなことを言いだした。
「仰る意味が分かりかねますが、どうしてそんな話に?」
「嫌なことは忘れるに限ります。ぐっと羽を伸ばしてお休みになられれば、きっと気分もよろしくなりますよ」
「いえ、お気持ちは嬉しいですが、そう言う訳にもいかないので……」
「まあまあ。私の我儘に付き合わされているということにすればいいんです」
オルヒデアは善は急げと言わんばかりに立ち上がると、壁掛けの通信装置に向かって話しかける。相手は家令だ。彼はこの屋敷でオルヒデアの生活を監督している。
捕虜には健康を保つため、日に数時間の外出と運動が許されている。その許可を、今取り付けようとしているらしい。
「はい。ええ、ありがとうございます」
無事に許可が下りたのだろう。通話を終えると、乙女は花も恥じらうような笑顔を浮かべ、フィリアへと寄ってくる。
「私のお目付けとして、付いて来ていただきたいんです。お願いします。ね?」
「……分かりました。でもそんなに長くは駄目ですよ」
その邪気のない笑顔には、フィリアといえど抗うことはできない。オルヒデアの細くしなやかな手に引かれ、少女は地上を目指して歩き出した。
× × ×
そこは光と色彩に溢れた、いとも美しい空間であった。
イリニ本宅の中庭には、広大な敷地に様々な植物を集め、それらを見事に用いた幾何学式庭園が広がっている。
丁寧に刈り込まれた生垣は流麗な文様を描き、花壇には色とりどりの花が咲き乱れている。まるで絵画の世界に踏み込んだような、何処を向いてもため息が出る完成された空間である。
軟禁中のオルヒデアは敷地の外に出ることを許されないため、気晴らしによく中庭を散策するらしい。
「フィリア様。向こうに噴水があるんです。とても綺麗なんですよ」
「はい。お供します」
長衣の裾を棚引かせ、乙女は浮かれたように足を進める。純白の衣が日の光に輝き、まるで妖精が緑の園で戯れているが如き光景だ。
対照的に、無骨な軍服姿のフィリアは颯爽とした足取りでその後をついていく。
「あ、そう言えばフィリア様はこのお家の人でしたね。お庭のことなど、当然ご存じでしたか?」
「いえ。そんなことはありませんよ」
フィリアが本宅に出入りし始めたのはごく最近の事で、中庭に立ち入ったのもこれが初めてである。
庭園は確かに美しく整えられており、イリニ家の並々ならぬ富強ぶりがうかがえる。
しかし正直なところ、少女は大庭園の威容に感心はするものの、あまり感動したという風ではなかった。
思い起こすのは聖都の別宅の中庭。あの雑多な植物が生い茂った小さな森の姿である。
自分はあの場所が本当に好きなのだな、と少女は胸の内で笑みを溢す。
そうして庭園を散策するうちに、二人は広場へとたどり着いた。丁度庭園の中心に当たる広場には壮麗な噴水が設置してある。
噴水を眺めながらさらに奥へ進むと、芝生敷きの広大な空間が広がっている。
オルヒデアは枝ぶりの良い広葉樹へと進むと、その根元にポンと腰を下ろした。
そして隣の地面を軽く叩き、フィリアを招待する。
もとより乙女の我儘に付き合うつもりであった少女は、特に嫌がりもせず芝生に座った。
(なるほどこれは……)
日差しをたっぷりと受けた芝生は暖かく、頬を撫でる風は心地いい。
また木陰から辺りを見渡せば、庭園はより一層明るく煌めいている。
ぼんやりと時間を過ごすなら、まさに打ってつけの場所だろう。
「これは確かに、心地がいいですね」
フィリアが目を細め、芝の感触と花の香りを楽しんでいると、隣のオルヒデアが急に立ち上がった。そして少女の前に進むと、透き通った声で歌い出す。
同時に手足を優美に動かして、ポレミケス伝統の舞踊を始めた。
オルヒデアは朗々と、春の息吹を祝う歌を口ずさむ。
無伴奏でありながら、オルヒデアの歌声は一つも音を外すことがなく、それでいて情感豊かで胸に迫るものがある。
また雲の上を進むような不思議な足運びと、躍動的な腕の動きは見事に歌詞を表現していて、歌い踊る乙女はまるで春を告げに来た妖精のようだ。
フィリアはぽかんと口を開けて、優美華麗な舞踊に見蕩れるばかりである。
「すごい、すごいです」
一曲終わると、少女はぱちぱちと両手を打ち鳴らしてオルヒデアを褒め称える。
乙女は運動として、庭に出ては故国の曲を舞い踊ることを日課としていた。
踊りながら歌うのはなかなか過酷で、いい運動になる。
しかし、今日の彼女はフィリアを慰撫ずるために、舞いを披露したようだ。
「ありがとうございます。騒がしかったらどうしようかとおもったのですけれど……」
「そんなことありません。他にもお聞きしたいぐらいです」
「まあ、本当ですか!」
少女の反応に嬉しくなったのか、乙女は別の曲を口ずさみ、舞の手を続ける。
なかなかに激しい舞の最中でも、歌声は途切れも擦れもせず、音も外さない。
幼少時に蒲柳の質であったオルヒデアは、舞踊を通して気力体力を養った。
また軍に入ってからは随分鍛え上げたこともあり、舞の一曲や二曲では疲れることもない。
久しぶりの観客を得て嬉しかったのだろう。
オルヒデアは二曲、三曲と続けて踊り、興が乗ってきたのかさらに別の曲を舞いだした。
これに参ったのがフィリアである。
彼女は木陰に座って鑑賞しているだけで、別に疲れるようなことは何もしていない。
しかし、感受性の強い少女は、乙女の舞の圧倒的な表現力に見事に当てられ、三曲目が終わるころには早くも頭がパンクしそうになっていた。
それでもフィリアは、生来の真面目さと純粋な感動によって、オルヒデアの舞から目を離すことができない。その結果、
「――あら?」
気持ちよくレパートリーの何割かを舞い終えたオルヒデアは、木陰に座るフィリアが安らかな寝息を立てているのに気付いた。
感動の余り、気疲れから寝入ってしまったのである。
そんなことを知らぬオルヒデアからは、或いは無礼な態度に映ったかもしれない。
しかし乙女は優しげな微笑みを浮かべると、少女の隣へと座りこんだ。
火照った体に、吹き抜ける風が心地いい。
オルヒデアが横を向くと、フィリアのあどけない寝顔がすぐそこにある。
雪のように白い髪が風にそよぎ、褐色の頬はつやつやと輝いている。
必死の形相で乙女に喰らい付いてきた戦場の鬼、そして冷厳な態度で捕虜を扱う騎士。それらの印象からは考えもつかない、可憐で愛らしい寝姿である。
「……あら、いけない」
見れば、フィリアは膝を崩し、木に縁りかかっている状態である。
そんな不安定な体勢であるから、体が徐々にずり落ちかけている。
オルヒデアは優しく少女を抱きかかえると、小さな頭を己の膝の上へと乗せた。
それから乙女は小さな声で、
「可愛いぼうや
愛しいぼうや
あなたの枕に優しい夢を
あなたの布団に素敵な星を
銀の光が窓から差して
金の光に変わるまで
可愛いぼうや
愛しいぼうや
あなたに安らぎありますように
あなたに幸せありますように」
と、少女の頭を撫でながら、子守り歌を口ずさんだ。