WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
白亜の外壁と数多の尖塔が立ち並ぶ優美で広壮な館。
前庭は一分の隙も無く整えられており、咲き誇る花々は荘厳な邸宅と見事な調和を見せている。
外縁を取り囲む柵にまで流麗な細工が施してあり、無骨な様子は微塵もない。
敷地に面した通りには塵一つ落ちてはおらず、人の営みの匂いさえ希薄である。
フィリアたちが暮らしていた猥雑で劣悪な貧民窟とは何もかもが異なる、まさに天上世界とでも例えるべき景観であった。
教会を頂く丘の麓には、エクリシアを統治する貴族の別邸が立ち並んでいる。
今、フィリアたちを乗せた車が向かっているのは、その貴族の中でも筆頭格の名門、イリニ家の邸宅である。
母パイデイアの生家であり、彼女を捨てた者たちの家だ。
イリニ家の擁する騎士たちが来訪したその翌日。フィリアたち家族はイリニ家の邸宅へと招かれることになった。
そうして、家族を乗せた車は護衛の騎士たちに囲まれながら、遠く貧民窟を離れ、荘厳華麗なイリニ家の正門を潜ろうとしている。
「ねえ、フィリア。怖がらなくても大丈夫よ。もうあなたたちに辛い思いはさせないわ」
晴れやかな微笑を浮かべ、パイデイアは対面に座る娘へと声を掛ける。
「………………はい、母さん」
だが、対するフィリアは沈鬱な面持ちで、絞り出したような声で短く応じる。
なぜ病み衰えた母が健康を取り戻したのか。なぜ母の存在を抹消したイリニ家が、突如として彼女たちを迎えに来たのか。
フィリアのサイドエフェクトは、既に望まぬ答えを導き出していた。
「おかーさん、もうびょうきよくなったの? また苦しくなったりしない?」
末の弟、イダニコが心配そうに母へとそう尋ねた。
年少の弟妹達は、まだ事態を正しく飲み込めていないらしい。ただ、母が元気になり、かつての明るい笑顔を取り戻したことだけを純粋に喜んでいる。
「ありがとうイダニコ。もう大丈夫よ、母さんこれからどんどん元気になるからね」
そういって、パイデイアはイダニコを膝の上へと抱き寄せる。
「今まで苦労をかけて、ごめんね……」
母は優しい手つきでイダニコの柔らかな金髪を撫でる。
それを見た上の弟サロス、妹のアネシスはそわそわと落ち着きがない様子だ。
病状が重かった頃は、こうして母に甘えることもできなかった。
「うふふ。サロスもアネシスも、こっちへいらっしゃい」
「お、オレはいいよ。別にそんなガキじゃねえし……」
「お母さん寂しいなぁ」
「うぐぐ……」
「もう。お母さんのおねがいよ、聞かなくてどうするの」
生意気盛りの弟が困惑していると、横から妹が助け舟を出した。そうして二人は母の両隣へと席を移す。
こうして、パイデイアの向かいに座っているのはフィリアだけになった。
「フィリア……」
「…………」
健康な体を取り戻した母を、フィリアは直視することができない。俯く少女に家族は戸惑うばかりだ。
パイデイアに健康が戻った理由、それは都合の良い奇跡が起きたからではない。
彼女は今「トリオン体」と呼ばれる仮想の体で娘たちと触れ合っている。
生体エネルギーであるトリオンを、「トリガー」と呼ばれる機器で表出し、形作った仮初の姿をトリオン体と呼ぶ。起動者のイメージに合わせて成型されたトリオン体は、当然ながら病や怪我とは縁がない。過日の姿を取り戻すことも何ら難しくはないのだ。
そうして換装された生身の肉体は、トリガーの内部へと格納されている。つまり、パイデイアの病が実際に癒えたわけではない。
それでも母が自由に動かせる体を得たことに変わりはなく、娘としては喜ぶべきなのだろう。しかし、フィリアの憂鬱は一向に晴れなかった。
そうこう煩悶しているうちに、車が止まる。
扉が開けられ、護衛の任についていたテロス・グライペインが声を上げた。
「お疲れ様でした。パイデイア様、お嬢様方」
騎士は礼を尽くして、母と子供たちを車外へとエスコートする。
害虫同前の扱いを受けてきた貧民窟の一家が、国を代表する貴族に賓客として遇されている。
吐き気がする。怖気が走る。フィリアは背筋に走る悪寒を止めることができない。
外れることのない直感が、事態の真相を雄弁に突き付けている。
この残酷な世界では、弱者は何も得ることができない。
ならば、彼女たちへの厚遇は如何なる理由によるものなのか。
当然、代価を支払ったのだ。母は彼らと取引を交わした。
パイデイアは買い付けたのだ。子供の幸せな未来を、自分の命を手形にして。
× × ×
館へ足を踏み入れてすぐに、フィリアら親子は引き離された。何はさておき、パイデイアはイリニ家当主に謁見するよう求められていたからだ。
ヌースも母に付き添って当主との会談に臨む。どうやらイリニ家はこの自律トリオン兵の存在を知っていた様子であり、供応役のグライペインはヌースを見ても過度な驚きを見せなかった。
残された子供たちは使用人に案内され、迎賓室へと通される。
「どうぞ、お楽になさってください」
使用人の女に恭しくそう勧められるが、フィリアも含めた姉弟たちは置物のように立ち尽くしてしまう。
柔らかそうなソファに細緻な柄のカーペット。部屋中の調度品はどれも豪奢な細工が施されていて、貧民窟で暮らしていた少女たちでも一目で超のつく高級品だと分かる。
「……えっと、あのぅ」
「座らせていただきましょう」
母とヌースが不在の今は、長女のフィリアが弟妹たちに範を示さねばならない。困惑する弟たちを尻目に、少女は泰然と、さも勝手知ったる風情でソファに腰を据えた。
座面は身体が沈み込むほど柔らかく、生まれて初めて経験する極上の感触である。
だが、弟妹たちは緊張から、フィリアは不快の念からその座り心地を素直に堪能することができない。
子供たちが着座すると、部屋には菓子と飲み物を乗せたワゴンが入ってきた。
配膳されるそのどれもが、見たこともないような逸品ばかりである。
「ご遠慮なさらずに、さあお召し上がりください」
手を付けていいのか困惑する弟たちに、使用人が優しく語りかけた。
弟妹たちの反応は鈍く、硬く緊張したままである。
幼いなりに、彼らもこの厚遇に裏を感じているのだろう。そして使用人たちの恭しい態度に、ある種の侮蔑の感情が隠れていることにも薄々気付いているのだろう。
そう、周囲を囲む使用人たちの殆どが、少年たちを蔑んでいる。
市民にとって貧民の子供は無能で卑しく汚らわしい、国家の鼻つまみ者でしかない。
特に敵国ノマスの血を引くフィリアには、嫌悪を超えた敵意に近しい感情さえ見え隠れしている有様だ。
「いただきましょうか。母さんがお戻りになるまで、お行儀よくね」
母から引き離されて不安が募りだした弟たちに、フィリアは務めて優しく語りかけた。
これらの歓待に、罠などありはしない。母パイデイアがイリニ家の人間と結んだ契約の履行に過ぎないからだ。
「みんな、お食事の前には?」
フィリアが促すと、弟たちは謹厳な面持ちで祈りの言葉を口にした。
礼儀作法の行き届いた子供たちに、使用人らが感心した様子を見せる。
母の薫陶の賜だと、フィリアも少しは鼻を明かしてやった気になる。
貧民の子供相手に阿らなければならない使用人の心中も察せられるが、それでも頭から蔑まれるのは癪に触る。
何より弟妹たちの今後を考えれば、貧民窟の子供という印象はなるたけ早く払しょくせねばならないだろう。
彼らは今後、このイリニ家で暮らすことになるのだ。
「――っ! おいしい!」
居心地が悪そうにしていた弟たちも、ひとたび菓子を口にすればたちまち笑顔を見せる。
彼らのはしゃぎ声に、フィリアも少しだけ心が軽くなるのを感じた。
その後、食事を済ませた子供たちは豪奢な浴場へと案内された。
使用人が付いての入浴を済ませると、今度は髪やら何やらを整えられ、用意されていた新しい服へと着替えさせられる。
そうしてまた応接間に戻ると、そこには当主との会談を終えたパイデイアとヌースがいた。
「おかーさん!」
イダニコたちが母の周りへと駆け寄る。
貴族の装いに身を包んだパイデイアは、大粒の宝石のように玲瓏な美貌を湛えていた。
フィリアはその姿に現実を弥が上にも突き付けられ、一人唇をかむ。
パイデイアは一頻り子供たちの相手をすると、彼らに向き直った。
「みんな、大事なお話があるから聞いてくれる?」
いつもと変わらぬ優しげな声で、しかしどこか粛然とした調子でそう告げる。
母の真剣な様子に、弟妹たちは背筋を伸ばして応じる。
フィリアだけが、先を聴くことを拒むように俯いていた。
「これからみんなは、このイリニ家の子供になります」
「――えっと、え?」
「今日からみんな、このお家に住むのよ。しばらくは慣れなくて大変だろうけど……」
案の定、母から告げられたのはイリニ家への養子入りの話である。
トリオン能力に優れた訳でもない最下層の市民が、一躍エクリシアの三大貴族の末席に迎え入れられたのだ。
幸運どころの話ではない。血統に固執し、それに由来する能力主義に凝り固まったエクリシアでは、前代未聞の出来事といっていい。
だが、状況を飲み込めていない弟たちは一向に歓喜の色を見せない。それどころかサロスは、
「えっと、それって……オレたち、母さんの子供じゃなくなるの?」
あの元気で生意気な弟が、不安を隠しもしないでそう訴えた。
パイデイアは翡翠色の目を見開き、息を呑んだ。そして、
「そんなことないわ。あなたたちは私の可愛い子供たちだもの。ずっと、ずーっと、私はみんなのお母さんよ」
と、子供たちの頭を撫でながら答えた。
その声が微かに震えていたことに気付いたのは、フィリアのみであった。
× × ×
今日の所は家族一緒に寝られるようにと、フィリアたちは豪勢な客間を与えられた。
天蓋付きの巨大なベッドに興奮していた弟たちだが、高級布団の手触りと日中の気疲れから宵の口には眠ってしまう。
パイデイアはベッドに腰掛け、すやすやと寝息を立てる子供たちを慈しむように眺めている。
そんな光景を、フィリアは一人ベッドから離れて見ていた。
「お父様が、フィリアにはおじい様ね。しばらく前にお隠れになられたの」
子供たちに布団を掛け直しながら、パイデイアが静かに語り始めた。
「……はい」
「今のイリニ家のご当主はアルモニア様。私のお兄さんで、あなたたちには伯父様にあたる人。母さん、おじい様とは仲良くできなくて、みんなには大変な暮らしをさせてしまったわ」
「私はそんなこと……一度も思ったこと、ないです」
「ありがとうフィリア。でも、もう大丈夫なのよ。イリニ家の人たちは私たちを迎え入れてくれたから。……もうあなたが痛い思いをすることも、酷い目に遭う事もないのよ」
心と身体を強張らせ、一向に警戒を解かないフィリアを諭すように、パイデイアは言葉を続ける。
これからあなたたちには貴族の子女としての新たな日々が始まると。大変なこともあるだろう、辛いこともあるだろう。それでも、虐げられることはもう二度とないのだと。
だが、少女は知っていた。そう遠くない未来、彼女は殴られるよりも罵られるよりも辛い現実に直面するということを。
パイデイアの話に偽りはない。ただ彼女はイリニ家と交わした取引を伏せている。
大貴族イリニ家が絶縁した女と貧民の子供たちを受け入れた理由。それは単なる温情からだけではない。
パイデイアは来たるべき「神」の選定の日に、
それが、子供の未来と引き換えに母が支払う対価。
フィリアのサイドエフェクトが、揺るぎない事実としてそう告げていた。
元々、パイデイアはエクリシアでも指折りの名門イリニ家の令嬢である。その血筋の確かさは言うまでも無く、彼女の比類なきトリオン量は家族もよく知る所であった。
そんな彼女を勘当し、ついぞ復縁も許さなかったのだから、パイデイアと先代当主との確執は相当な物であったことが窺える。エクリシアの国情を鑑みれば、優秀なトリオン能力者はどの貴族も喉から手が出るほど欲しいはずだ。
やっかいな先代が死に、ようやくパイデイアの囲い込みができた。というところだろう。
そんな契約を交わした彼女であるから、最早普通の生活は望めない。
パイデイアはこれから病気療養の名目で、イリニ家の所領へと移されることになっている。
もちろん療養と治療は行われる。神の代替わりまで身体が持たなければ意味がない。
それより大きな理由は、加齢によって衰えていくトリオン機関を最盛期に近づけるための、いわばリハビリとしての訓練を施すためだ。
また、彼女を領地に囲うのは、他貴族からの要らぬ干渉を防ぐためである。
有力貴族たちは血眼になって候補者を探しているはずだ。教皇権という絶大な力を巡り、毒蛇たちが策謀を張り巡らせている。パイデイアの身に、いつ不幸な事故が起きないとも限らない。
そしてそうした諸々の配慮を行う以上、パイデイアがイリニ家の擁する候補者の中でも最有力の位置にあるのは間違いない。
このまま他の貴族が有力な候補を立てられなければ――そう遠くない未来、フィリアは母と永遠の別れを迎えることになる。
「……フィリア?」
「少し、夜風に当たってきます。今日はいろいろありすぎて、混乱してしまって」
声をかけても返事をしない娘を心配したのだろう。パイデイアはベッドから降りようとする。
けれどフィリアは笑みを浮かべて母に断りをいれると、足早に客間を出た。
「私もついていきます」
「いいの、ヌース。……一人に、させて」
様子のおかしい少女を案じたヌースが付き添おうとするが、フィリアは硬い声でそれを拒んだ。
本心を言えば、彼女は声を上げて泣き出してしまいたかった。
家族さえいればそれでいいと、今からでも私たちの家へ帰ろうと、母に縋り付いて訴えたかった。
しかし、フィリアはパイデイアの思いを拒めない。
母の選択は娘たちの幸せを心から願った結果である。彼女の尊い願いが理解できるからこそ、少女は身を裂かれるような思いを味わっている。
ともあれ、少女は当てもなくただ漠然と歩みを進めた。昂ぶった感情を鎮め、建設的な思考を取り戻さねばならない。
分厚いカーペットを踏みしめ、フィリアはイリニ家の廊下を歩く。
邸宅のそこかしこには明かりがついており、まだ多くの使用人たちが働いていた。
屋敷内とはいえ、夜間に一人で出歩いているのを見とがめられると面倒である。
なるべく人目に付かない場所を探して屋敷をさ迷っていると、窓から夜風にさざめく中庭の風景が見えた。
切り取られた夜空には巨大な星々が煌めいている。その何れもが
エクリシアの人々は夜空に輝く星々を見て心を震わせることは無い。他国とは極論してしまえば殺し奪い合う間柄に過ぎない。平和を乱す敵国の姿を目にして心が和む訳もない。
フィリアも多分に漏れず、この星空を嫌悪していた。この世界は修羅が争う箱庭である。そして唯一の例外である理想郷
「――っ?」
ふとその時、フィリアの脳裏に誰かの声が浮かんだ。
明るく若々しい、華やぐような女の声。だが、発言者には心当たりがない。
ただ、何時か誰かが、この夜空を美しいといった記憶がある。
星々の輝きは数多の人の思いの証であると、それらが夜空に満ち満ちている世界は、きっと美しいに違いないのだと。
「ん……」
正体の掴めない過去の記憶に、フィリアは額を抑えてよろめいた。
眩暈のような軽い眠気。サイドエフェクトの暴走、或いは誤作動である。
そもそもサイドエフェクトは意識的に制御できる能力ではないが、未成熟な少女は甚だその傾向が強い。
本人が意識しない事象にまで「直観智」が働こうとするため、脳内が情報で溢れかえってしまうのだ。脳が酷使された結果、頭痛や酷い眠気を引き起こすこともしばしばである。思考を制限し、務めて考えないようにすることである程度は防げるが、ふと思い立った疑問などには際限なく動いてしまう。
そもそも、あらゆる事象に答えを導く「直観智」のサイドエフェクトでも、遠い記憶の微かな断片だけでは解が出ないのだから、考えるだけ無駄な話である。
これ以上脳に負担を掛けるのもよろしくないと、フィリアは過去への想念をすっぱりと断ち切った。
そうして改めて窓から覗くと、星明りに照らされた中庭は様々な植物が夜風に揺られ、得も言われぬ風情が漂っていた。
その光景に興味を惹かれたフィリアは、誘われるように中庭へ降り立った。
そうしてしばらく庭園を眺めていると、少女は奇妙なことに気付く。
屋敷の前庭と比べ、造景があまりに異なっているのだ。
もちろん、フィリアには造園のことなど何一つ分からないが、それでも一分の乱れも無く整えられた前庭と、いっそ野放図なほど雑多に植物が生い茂っている中庭の違いは明らかだ。
この中庭は、さながら小さな森であった。
幾本も植えられた多様な木々。下草は豊かに茂り、そこかしこで花が咲いている。しかし雑然とした印象はまったく抱かせず、むしろ見事な調和を感じさせる。
庭園には木々の合間を縫うように小道が敷かれており、回遊しながら景色を鑑賞することができる。
なにやら奇妙で面白かったのは、畑打ちをしたような一角があったことだ。
いや、実際に畑なのだろう。並んだ畝には芋やら根菜やらが植わっているのだから。
「――ふふっ」
自然とフィリアが笑みをこぼす。鬱屈としていた気分が解けていくようだ。
イリニ家に来て以降、気を張り続けてきた少女が初めて穏やかな表情を浮かべる。
この屋敷にこのように素敵な場所があったとは、思いもしなかった。
しばらく道なりに進んでいると、芝生敷きの広場に出た。
東屋の椅子に腰かけ、フィリアは心穏やかに景色を眺める。
夜風に乗って、花と緑の香が届いた。
× × ×
それからどれほどの時間が経ったか。
思いのほか冷える夜気に、フィリアはくしゃみをして目が覚めた。
迂闊にも転寝をしてしまったらしい。
慌てて辺りを見回すが、時刻が分かりそうなものはなにもない。
「……しまった」
少女は小声で悪態をついて、すぐに客間に戻るべく立ち上がった。間違いなくパイデイアは心配しているだろう。いや、すでに娘を探して出歩いているかもしれない。まだ病が治ったわけでもないのに。
焦りのままに走り出そうとしたその時、彼女は向こうから歩みくる人影を見た。
「――――!」
驚きはどちらのものだっただろうか。
フィリアとその男性はお互いを見つめあったまま立ち尽くしていた。
歳の頃は三十の半ばほど。長身で隆々とした体躯に洗練された衣服を身に着け、撫でつけた髪は麦穂のような金髪。理性と品格で磨かれた威厳ある容貌を、翡翠のような瞳が彩っている。
少女は一目で理解した。彼こそ母パイデイアの実兄、イリニ家現当主アルモニアその人であると。
「君は……そうか、パイデイアの娘か」
「初めて御意を得ます。本日より当家に御厄介になる、フィリアと申します」
男の粛然とした声に対し、フィリアは貴人への作法でもって挨拶し、深々と頭を下げた。
今ひと時だけは、顔を見られては不味い。少女は地面を睨み付け、沸き上がる情動に必死に抗う。
この男が、母を殺そうとする者だ。
大病を得て困窮の底にあった妹を見捨て、今になって富貴栄華のためにその命を利用しようと手を差し伸べた男。
怒りと憎しみでフィリアの頭蓋がはち切れそうになる。
しかし、今この男の機嫌を損ねるのは不味い。少女は伏したままの姿で、必死に凶相を抑え込んだ。
「私はアルモニア・イリニ。君の母パイデイアの兄だ」
「それは……ご当主様とは知らず、御無礼を」
「いや、いい。……顔を上げなさい」
「はい。ありがとうございます」
少しの時間を稼いだフィリアは何とか自然な表情を取り繕い、改めて当主アルモニアの顔を見る。
(――――っ)
沸き立っていた怒りが急速に冷め、そして困惑に置き換わっていく。
「君はもうイリニ家の者だ。そう構えることもない」
落ち着いた声でそう告げるアルモニア。
しかしフィリアのサイドエフェクトは、その怜悧で峻厳な容貌の裏に、濁流のような感情が渦巻いているのを感じ取った。
喜びか、悲しみか、戸惑いか、怒りか。
だがその強い感情の中に、嫌悪や侮蔑は欠片たりともない。
敵国の血が流れる貧民の娘に、屋敷の殆どの人間が不快を感じていたというのに。
それに何より少女を混乱させたのは、この男はきっと、フィリアの事を心の底から案じているのだろうと感じたことだ。
(――――なんでっ)
胸中の困惑が、思わず口を突いて出そうになる。
なぜ、そんな顔で私を見るのか。
なぜ、そんなに私を気に掛けているのか。
なぜ、そんなに思っているなら母を助けてくれなかったのか。
揺れ動く感情を御すことができない。フィリアは癇癪を起した子供のように、今にも泣き叫びそうな顔をしていた。
だが、そんな少女の悲憤にアルモニアが気付くことは無かった。
彼はフィリアから視線を逸らして背を向けると、
「とはいえ、こんな時間に出歩くのは感心せんな。パイデイアも心配しているだろう」
と、厳格ながらもどこか洒脱めいた調子でそう告げる。
「……すみません。お庭を眺めているうちに、寝入ってしまいました」
フィリアの弁解に肩越しの一瞥を寄越すと、アルモニアはすぐにまた庭木へと視線を転じる。
何か、接する距離を掴みかねているような気配である。
「まだ夜も冷える。風邪をひかぬうちに部屋に戻りなさい」
だが、アルモニアはそれきり話の穂を継ぐこともなく、フィリアに就寝を申し付けた。
「はい。お心遣いありがとうございます」
元よりそのつもりだった少女は、当主に礼を述べると急ぎ足で森の歩道へと向かう。すると、
「待ちなさい。少し……いいだろうか」
アルモニアは幾分戸惑ったような声でフィリアを呼び止めた。
「――は、はい」
振り返った少女は従容として男の言葉を待つ。
「この庭を、どう思う。……いや、君の感じたままに教えてほしい」
質問の意図が読めず、フィリアはどう答えたものかと言葉に詰まった。しかしそれも一瞬の事、生気に満ちた中庭に思いを馳せると、少女の口からは思うがままの感想が滔々と溢れだした。
「とても、とても素敵な場所だと思います。いろんな草木がめいっぱいに枝や葉を伸ばして――でも少しも争うようなことがなくて。豊かで、温かくて、優しくて。……今日お館に来たばかりですけど、きっと一番好きな場所です」
「……そうか」
少女の返答を聞くと、アルモニアは瞑目して小さく首肯する。
「呼び止めてすまなかった。ここでの生活には戸惑うこともあるだろうが、ゆっくりと馴染んでいけばいい」
当主の声はどこまでも穏やかで、まさしく不憫な姪を気遣う伯父そのものであった。
そのアルモニアの姿を見て、フィリアの脳裏に一筋の光明が浮かぶ。
か細く不確かな、しかし家族を救いうる可能性を秘めた道。
「あの、厚かましくもお願いがあるのですが……」
「なんだろうか」
「このお庭に、また来てもいいですか」
「もちろんだ。ここは君の家だ、なにも気にすることはない。ただ、あまりパイデイアを心配させないように」
「ありがとうございます。母さんにもちゃんと謝ります」
フィリアはぎこちないながらも笑顔を作り、アルモニアに礼を述べた。
まずは彼と縁を繋ぐこと。それを梃子にして、事態に介入できる隙間を作る。
「あの……ご当主様。お先に休ませていただきます」
「ああ、ゆっくり休みなさい」
就寝の挨拶を交わして、少女は帰途に就く。
取るべき道筋ははっきりと見えた。しかしそれを実現させるには、並々ならぬ努力と幸運が必要だろう。
けれど絶対に諦めない。決意の炎が轟然とフィリアの胸を焦がす。
足に力を込めるあまり、少女は自然と走り出していた。
× × ×
その翌日から、フィリアたち家族の新しい生活が始まった。
パイデイアは約定通り、聖都から遠く離れたイリニ家の所領へと移ることになった。
次代の神の座を揺るぎない物とするため、彼女はこれからひたすらトリオン機関を酷使し、同時に病魔をその身体から追い出さねばならない。
必然として、彼女の送る生活は徹底的に管理されたものとなる。子供たちとの面会は、一月に一度しか許されない。
僅か一日の事とはいえ、それは過酷な運命を課せられた妹に報いるため、アルモニアが示したせめてもの温情であった。
だが、幼い子供たちにそれを理解するのは酷というものである。
「やだっ! 絶対嫌だ! オレだって母さんといっしょに行くっ」
恥も外聞もなく喚きたて、パイデイアの腰元に縋り付くサロス。
同じくアネシスとイダニコも涙ながらに母のドレスにしがみついている。
只一人、長女のフィリアだけが穏やかな表情でそんな弟たちを慰めていた。
「大丈夫。母さんとはすぐにまた会えるから」
初日の張りつめた空気が嘘のように、フィリアはイリニ家の環境に順応しつつあった。
無論ノマスの出自という宿業ゆえに、使用人からは未だに忌避されていたが、当の少女はそんなことは露ほども気にしていない様子である。
フィリアたち姉弟は復縁したパイデイアの子供として、正式にイリニ家の一員となった。だが、フィリアは使用人たちを威圧するような真似は見せず、大貴族に拾われた幸福な貧民として、あくまで分を弁えたように振る舞っている。
イリニ家での立場は弟たちと共に自力で勝ち取らねばならない。それこそが今の少女に科せられた戦いなのだ。
「そうよ。お母さんはこれから空気の綺麗なところに行って病気を治すの。そうすればもっとみんなと一緒にいられるわ」
母の優しい嘘に、怒るでもなく悲しむでもなくフィリアは笑顔で応じた。
心を曇らせる必要はない。なぜならパイデイアの言葉は嘘にはならないからだ。
母と家族は、永劫離れることはない。フィリアが必ず繋ぎとめる。
「みんなのこと、頼むわね」
「お任せ下さい。パイデイア」
抑揚の無い声でそう答えるのはヌースである。
自律トリオン兵という特級の軍事機密である彼女はしかし、フィリアたちのお目付け役としてイリニ家への滞在を認められた。
トリオン技術の開発を一手に引き受ける教会に知られれば、叱責を免れない背信行為である。軍事技術の独占など、エクリシアの全ての勢力を敵に回す行為に等しい。
エクリシアの国力向上のためには、未知の技術の塊であるヌースはすぐさまリバースエンジニアリングを行い、製造過程を暴かねばならない。
それを良しとせず、イリニ家の邸内に留め置くのは、偏に当主アルモニアの判断である。
そうまでして一トリオン兵を庇う理由だが、どうやら当主とヌースは古くから面識があったためらしい。
パイデイアの放逐時には既にヌースは誕生していたのだから、面識があるのも当然といえるが、子細な関係まではフィリアも知らされていない。
どうやら話すつもりもないらしく、ヌースは過去について口にすることもない。
「サロス、アネシス、イダニコ。パイデイアが困っています」
忠節なる家人にそう諭されても、子供たちはいやいやと頭を振るばかり。
結局、少年たちが別離を受け入れるまでは長い時間がかかった。それでもパイデイアの言葉を尽くした説得を受けた彼らは、別れの時には笑顔を取り繕う程の気概を見せた。
そうしてパイデイアは聖都を去り、残されたフィリア達には貴族の子弟としての暮らしが始まった。
まず起こった変化は、少女たちに科せられた日々の勤めが労働ではなく、勉強へと変わったことだ。
語学、数学、歴史にトリオン工学。また社会制度や貴族としての礼儀作法、はては武芸にいたるまで、授業はあらゆる分野に及ぶ。
イリニ家の一員として相応しい教養を身に着けるため、専属の家庭教師たちが朝から晩まで付きっ切りで教鞭をとるのだ。
エクリシアでは市民階級の子供たちは教会の運営する学校へと通うのだが、貴族の子弟はその限りではない。幼少期から実家で教育を施され、貴族として相応しい振る舞いと知識を徹底的に叩き込まれるのだ。
その後の進路は個人の資質によって異なる。トリオン能力に秀でた者たちは騎士団へと入って国防を担い、利発な者は教会の指導部へと招かれ政争に参加する。特に秀でたところのない者であっても所領の運営という仕事が待っている。
どちらにせよ、これは少女たちが正式にイリニ家の一門として扱われていることを意味する。
養子相手に大層な力の入れようだが、フィリア達に高度な教育を受けさせるのは当主アルモニアの意向である。
どういった理由があるのかアルモニアは未だ妻帯しておらず、イリニ家に世継ぎはいない。血の繋がりがないフィリアたちに家督が巡ってくることはまずありえないが、そのことも教育熱に影響しているのではないだろうか。
とはいえ、それでも環境の大きな変化に子供たちは大層戸惑うことになった。
サロスなどは勉強漬けの毎日にほとほと嫌気がさしており、アネシスは過剰なまでに周りに気を使う。末のイダニコは母を思って泣かない夜はない。
そうした日々がしばらく続いたのだが、思いのほか屋敷の人間は子供たちに優しく、またパイデイアから基礎教育を受けていたこともあり勉強に付いていけなくなることもなく、柔軟な幼子たちは十日も経つ頃には新しい生活に馴染み始めていた。
――そして、フィリアといえば、
「採点をお願いします。先生」
「――え、ええ。そう、もうできたの」
少女はその類まれな知性を以て、連日にわたって教師を瞠目させ続けていた。
もともと一度見聞きしたことは殆ど忘れず、「直観智」のサイドエフェクトがある。
初等教育は三日目にして不要と判断され、更なる高等教育が施されることとなった。
この日の課題は教会に務めるトリオン技術者用の問題集であったが、大人であっても頭を悩ませる難問をフィリアは難なくこなしていく。
少女は既に神童の評価をほしいままにしていた。
「だぁ~~もう! 姉ちゃんオレのも片付けてよ!」
「だめよサロス。自分でしないと意味ないじゃない!」
恨めしそうにぼやくサロスを、アネシスが叱りつける。
流石に弟妹たちにはそこまでは求められず、年相応の内容を学んでいるが、彼らにも今の所目立った問題はない。むしろ同年代と比べれば熱心に取り組んでいることもあり、優秀な生徒たちといえるだろう。これもパイデイアの教育の賜である。
「うん。アネシスは偉いね。イダニコはどうかな?」
「おねえちゃん。見て見て」
「良くできてるね、あと少しだよ。このままだとサロスがビリかな?」
「ちくしょー。やりゃいいんだろ、姉ちゃん」
フィリアは弟たちの席を巡りながら声を掛けた。できれば彼らの勉強を見てやりたいところだが、彼女には成すべきことがある。
「では先生。午後の課業まで自由時間を取らせていただきます。ヌース、みんなをお願いね」
「承知しました」
この時間は課題を片付けた者から昼の休憩を取ってもいいことになっている。フィリアは教師に断りを入れると、学習室から退席した。
そうして彼女が向かった先は、屋敷の厨房である。
使用人から漏れ訊く話では、今日は行動を起こすに絶好の機会のはずだ。
「なんだぁ? また来たのかお嬢様」
伝法な口調でフィリアを迎えたのはこの屋敷の料理長である。脅かすような声音だが、何度か厨房を使わせてもらったこともあり、立ち入りを咎められることはない。
以前から危惧していた使用人たちの態度は、この十日ほどで目に見えて改善されていた。
当主であるアルモニアが家族同然に扱っていることが大きく、また弟妹たちの素直で愛らしい性格も幸いしたようだ。彼らも人の子、人の親である。貧民の出自とはいえ、可愛い子供に情が移らないはずがない。
しかし、フィリアの場合は少し事情が異なっている。子供としての可愛げに欠け、ノマスの血を引く少女には、まだ抵抗を感じている者も少なくない。
その点この料理長は、彼女にも分け隔てなく接してくれる数少ない一人であった。
「厨房の隅をお借りしてもよろしいでしょうか」
「今日は自分で作るのかい。そんなに俺の料理が食べたくないと見える。悲しいねぇ」
「そんなこと仰らないでください。今日はお天気がいいので外でお昼にしようかと。……また、お料理を教えていただけませんか?」
「朝の内に言っといてくれよ。こっちにも仕込みってもんがあるんだからな」
既に何度か厨房に通い、料理を教わるのは馴染となっている。料理長は疑うことも無く、ローストした鶏肉と生野菜、芳ばしい焼き立てのパンを用意した。
もともと家事全般をこなしていたフィリアである。昼食はそう時間もかからず出来上がった。味も上々であり、他のコックからも太鼓判を貰う。
少女は礼を述べ、大きめのバスケットに料理を詰めると上機嫌で厨房を後にした。
「――さて」
ここからが、計画の第一歩である。
フィリアはバスケットを手にしたまま屋敷の通用門へと歩く。
程なく屋敷の裏門が見えてくる。トリオン製の監視装置は常に起動しているものの、今日はこの時間、御用聞きが日用品の搬入を行う予定だ。詰所の人間はその対応の為、一時的に不在となる。その僅かな時間を衝けば、屋敷から出ることができる。
たかが外出になぜここまで回りくどい手段を取らなければならないのか。
それはフィリアたちがいわばパイデイアに対する人質であるためだ。
パイデイアが神の贄となることを承諾したのは、偏に子供の幸福を願ったからだ。
イリニ家に預けた子供たちに万が一のことがあれば、パイデイアがどういった行動に出るか分からない。一度は貴族の立場を捨てたほどの女性である。決して従順なだけの人物ではない。
そうした次第から、フィリアたちの生活には常に監視の目が付いていた。
使用人は片時も側を離れず、外出などは余程の理由が無ければ許されない。
しかし、計画を実行するためには屋敷に閉じ込められていてはどうにもならない。
そのため少女は屋敷を抜け出す機会を窺っていたのである。
とはいえ「無断外出」はあくまでイリニ家の不興を買わないものでなければならない。イリニ家との関係を拗らせては元も子もないからだ。
「……えへへ」
そう。つまり、自作の料理を褒められた子供が、つい養父にそれを届けたくなったかのような、そんな罪のない理由からでなくてはならない。
フィリアは自然な素振りで監視装置の前に身を晒し、嬉しそうに笑みを浮かべ、バスケットを揺らしながら誰も居ない通用門を通り過ぎた。
事前に警備環境と予定を調べ、偽の動機をでっちあげるため厨房に出入りし、監視役が不在の僅かな時間を用いての犯行。
どれも自然にできたはずだ。後で受ける叱責もそう重くはならないだろう。
そうまでしてフィリアが目指すのは、大聖堂を護る三つの騎士団が一つ、エクリシアが誇る勇武の名門、イリニ騎士団である。