WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の十二 黄金の時

 およそ二年ぶりとなる、最愛の母との再開。

 思いがけぬ対面に、フィリアは動揺の余り言葉を失い立ち尽くしてしまう。

 今まで重ねてきた不義理と、母の心を裏切ったという罪悪感が、少女の胸を締め付ける。

 

「――っ」

 

 居た堪れなさの余り、衝動的にその場から逃げ出したくなるフィリア。

 だが、そんな彼女を支えたのは――

 

「お姉ちゃん……」

 

 イダニコが決意に満ちた目で少女を見詰める。

 振り返れば、後ろに立つサロスとアネシスも、強い眼差しでフィリアを見詰めている。

 

 彼らはフィリアとパイデイアが抱える事情を何も知らない。

 なぜ、あれほど仲の良かった母娘が二年もの間お互いを避けているのか、その故は分からない。

 しかし二人の思いが、家族の絆が消えてしまったとは微塵も感じてはいなかった。

 

 毎月一日だけ許された母との面会日。

 パイデイアがフィリアのことを話題にしない日があっただろうか。

 そして面会から帰るたび、姉は待ちかねたかのように母の様子を弟妹たちに尋ねるのだ。

 

 幼い彼らとて、何か事情があるだろうことは察していた。

 それでも、弟妹たちにとって母と姉、大切な家族がいつまでも虚しくすれ違い続けていることは、胸を痛めてやまない出来事であった。

 ただ、彼らは固く信じてもいた。母と姉のすれ違いは、きっと容易く解消できるだろうと。

 

 血の繋がりではなく、心で通じ合った家族である。お互いに向かい合い、直接言葉を交わせば、蟠りなどは淡雪のように消えてしまうに違いない。

 それ故に、彼らは大きな決断を下した。

 敬愛してやまない姉の誕生日に、とっておきの贈り物を用意しようと考えたのだ。

 

 今日この日の為だけに、彼らはヌースと協議を重ね、アルモニアに何度となく頼み込み、そうしてようやく、母を聖都へ連れ出すことに成功した。

 

「…………」

 

 弟妹たちが、張りつめた表情でフィリアを見詰めている。

 家族の絆を信じているとしても、やはりこの対面は彼らにとっても勇気を振り絞った賭けだった。

 もし、このことで母と姉の仲が決定的に壊れてしまったら……

 そんな恐怖を、弟たちは歯を食いしばって堪えている。

 

 その健気な姿に、姉としての心が動いた。フィリアは自分の動揺を棚に上げて、まずは弟妹たちを宥めるために、ぎこちなくも微笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。……母さんと、お話してくるね」

 

 そう言って、少女は颯爽とした足取りで大広間へと進む。

 居並ぶ来賓たちも母子の間の奇妙な緊張感に気付いたようで、怪訝な表情を浮かべて成り行きを見詰めるばかりだ。

 そうして豪奢に飾り付けられた大広間に、妖精のように可憐なフィリアと、宝石のように美しいパイデイアが向かい合った。

 

「…………母、さん」

 

 それは、親子が語らうにはあまりに遠い距離。

 

 立ち止まったフィリアは、なんとか言葉を紡ごうとする。

 長きにわたる不義理を詫びるべきだろうか、それとも息災な姿を祝うべきだろうか。

 様々な思いが勃然と沸き上がり、小さな胸の中で濁流のように入り混じる。

 

 フィリアの前に佇む母は、まるで時を巻き戻したかのように、かつての美しい姿を取り戻していた。

 いつかに見た、トリオン体で形作った偽りの姿ではない。母は病との戦いに打ち勝ったのだ。

 市民から蔑まれながら、必死に病み衰える母を介抱した貧民時代が思い起こされる。

 あの絶望に閉ざされた日々。幾度となく夢想した健康な母が、目の前にいる。

 

 けれど、その体はやがて神の生贄として捧げられることになる。

 

「…………」

 

 改めて目の当たりにした残酷な現実に、フィリアは胸が痞えて言葉も出ない。

 何時まで経っても立ち尽くすだけの二人に、来賓たちも次第にざわめきだした。

 不穏な空気を払わなければならないと、少女は無理にでも行動を起こそうとする。すると、

 

「お誕生日おめでとう。フィリア」

 

 パイデイアが緩やかに歩を進め、狼狽える少女を優しくその腕で抱きしめた。

 

「ぁ……」

 

 およそ二年ぶりとなる母の抱擁。

 

 伝わる鼓動、体温、柔らかさ、そのすべてが遠い記憶と何一つ違わない。

 言葉を費やす必要などない。ただ触れるだけで、母娘は固い絆を再確認する。

 

「かあさん」

 

 フィリアの視界が涙に滲む。そうして少女は、そっと、遠慮がちに母へと抱き着いた。

 

 流麗な音曲が大広間を満たす。

 母と子の抱擁。その妙なる情景が、居並ぶ人々の胸を深く打った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 しばらく抱擁を交わしていた母娘は、その後何事も無かったかのように並んで席に着いた。

 

 そうして誕生日会は始まり、式次が滞りなく進んでいく。

 盛大に飾り付けが行われ、来賓も豪華極まる顔ぶれだが、今日はあくまで身内の誕生日会であり、晩餐会のように格式高い場ではない。

 ほどなく宴席となり、フィリアは来賓からの祝賀を受けることとなった。

 

「おめでとうフィリアさん」

「この良き日を共に過ごせることを、光栄に思います」

 

 止めどなくやってくる来賓相手に、愛想笑いで頬が釣りそうになったころ、メリジャーナとテロスが連れ立ってフィリアの元へとやってきた。

 残念ながら、ディミオス家当主ドクサは所用で欠席している。そのため、今日はメリジャーナがディミオス家の名代である。

 

 華やかな礼装に身を包んだ二人は、正しく美男美女の見本のような姿だ。

 そして彼らが輝いているように見えるのは、ただ美しく着飾ったからだけではない。

 

「メリジャーナさん、テロス様。お二人の方こそ、御婚約おめでとうございます!」

 

 フィリアは気品に満ちた振る舞いで答礼すると、今度は一転無邪気な笑顔で二人に話しかけた。

 

 このほど、テロスとメリジャーナは正式に婚約し、教会にも受理された。

 彼らが生気に満ち溢れているのは、そんな幸せのただ中にあるからだろう。

 暫しフィリアと談笑した後、彼らはさっとテーブルから離れた。まだまだ順番を待っている来賓たちは沢山いる。

 

 フィリアは心と言葉を尽くし、来賓たち一人一人に丁寧に応対する。

 この会場にはイリニ家に属する貴族たちの中でも、主だった面々が一堂に会している。

 

 彼らの中には未だにフィリアを拾い子として軽んじる者も少なくなかったが、誕生日会の力の入れようと、そして何よりパイデイアとの絆を目の当たりにして認識を改めたようだ。彼らは慇懃丁重な態度で少女に祝賀を述べていく。ただ、そんな中で、

 

「――――ふん」

 

 会場の隅に座り、さぞつまらなさそうな表情で酒を傾けている金髪の偉丈夫がいる。

 

 彼はスコトノ家当主、ネロミロスだ。

 イリニ騎士団の重鎮でありながら、人もなげな態度を取るネロミロスに、来賓たちは気まずそうに目配せを交わし、素知らぬ風を装うばかり。

 

 どういった経緯があったのかフィリアは聞かされていないが、スコトノ家は既に鬼籍に入った先代当主の折り、アルモニアによって騎士団団長の役職をはく奪されている。

 そのこともあってか、ネロミロスはイリニ家について度々不満を漏らしているらしい。加えて先の遠征時でフィリアとも諍いを起こしている。

 礼儀としては出席したが、必要以上に阿るつもりはないということだろう。

 少女としても、余り好き好んで相手をしたい人物ではないので、あまり関心を払わなかった。流石に彼も、この場で狼藉を行うことはないだろう。

 

 延々と続くかと思われた祝賀の嵐もようやく納まり、フィリアは自らの席に戻った。

 気疲れをおくびにも出さず、少女は凛とした佇まいを保っている。何しろ隣には母がいるのだ。気の抜けた姿は晒せない。

 少女は淑女たる気品をそのままに、しずしずとナイフとフォークに手を伸ばした。来賓の応対に追われ、折角の豪華絢爛な食事に殆ど手を付けていなかった。昼から何も食べていなかったため、空腹は限界に近い。

 

 しかしその時、会場に流れていた音楽が途切れた。

 司会の者が言うには、これからダンスパーティーが始まるらしい。大広間の中央にスペースを取っていたのはその為だろう。

 フィリアは一瞬物悲しげな表情を浮かべ、おずおずと食器をテーブルに戻した。

 皆がこれから踊るというのに、主賓がいつまでも食べていては格好がつかない。

 

「残念ね、フィリア」

 

 無念さをぐっと飲み込む少女に、パイデイアが小声で話しかけた。

 

「大丈夫よ。後でお部屋に持ってきてもらえば」

「い、いえ母さん。そんなことは……」

「ふふ、見てれば分かるわよ。こういう時、主役は損よね」

「あぅ……」

 

 母と密やかに言葉を交わし、照れて俯くフィリア。そんな彼女に、

 

「でも、良ければ一緒に踊りましょう。きっとあなたも喜んでくれると思うわ」

 

 と、パイデイアはそんなことを言う。

 母に促されるまま、フィリアは会場の中央へと進んだ。

 貴族の嗜みとしてダンスの心得はある。ただ久しぶり過ぎて、ステップを覚えているか不安である。

 そんなことを考える少女に、母は悪戯っぽく微笑み、

 

「後ろを見てごらんなさい」

 

 と、そんなことを言う。何ごとだろうかと振り返り、

 

「――――っ!」

 そして、フィリアは言葉を失った。

 

 楽団が占める大広間の一角。そこに静々と歩み出てきたのは、艶やかな黒髪を靡かせた玲瓏たる女性だ。

 簡素ながらも美しいドレスを纏い、手には一挺のヴァイオリンを提げ、淑女が歩く。

 ただそれだけで、列席者の視線が彼女へと吸い寄せられた。彼女の纏う気品が、この会場の主役たるフィリアにも劣らぬものであったからだ。

 満座からの注目を泰然と受け止め、彼女、オルヒデア・アゾトンは楽団の中央に立った。

 

「――な、なんで」

 

 フィリアが困惑の声を漏らす。

 オルヒデアはイリニ家が抱える秘中の秘、神の候補である。

 それがこのような公の場に姿を現すなど、いったい如何なる理由があるというのか。

 そこまで思い至って、少女はその当たり前の事実に気付いた。

 

「――ふふ」

 

 フィリアと目の合ったオルヒデアは、微笑みと共にウィンクを送る。

 この場に彼女がいる理由など、一つしかない。

 オルヒデアはそっと弦に弓を添え、寿ぎの曲を奏で始めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 音楽こそ、ありとあらゆる人種を超える万能の言葉だという。

 それが揺るぎない真実であることを、居並ぶ人々は湧き上がる情動と共に思い知った。

 

「…………」

 

 大広間に響き渡る音曲、その圧倒的な表現力に、誰しもが言葉を失っていた。

 舞踏会が始まったというのに、誰もそのことに思い至らない。黒髪の乙女の見事な演奏に、魂を奪われたかのように聞き惚れるばかりである。

 

 しかし、それも長くは続かない。

 軽快なテンポの曲を耳にして、胸の内から律動が湧き起こってくる。

 意味も無く高揚し、身体を動かさずにはいられないような気分。喜びに満ち溢れた音曲に乗せられ、皆が手をとって踊り始めた。

 

「ほら、私たちも踊りましょう!」

 

 パイデイアに手を引かれ、フィリアも広間の中央に飛び込んだ。

 

 そうして始まった舞踏会は、貴族の催しにあるまじき光景となった。

 洗練された優美さも、上流階級の煩雑なルールも無い。

 下手でも構わない、間違えても平気。今この時を全力で楽しむことが正解であるかのような、笑顔と喧騒に満ちた一時。

 それを成している理由は、オルヒデアの奏でる音曲だけではない。

 

 広間の中央、まるで花の開くような満面の笑みを湛え、褐色の妖精が舞い踊っている。

 生命の息吹を感じさせるような、晴れやかで力強いステップ。

 それでいて、磨き上げられた宝石のような気品は少しも損なわれていない。

 

 少女が異国の呪われし子供という事など、一体誰が覚えていようか。

 母の健康を喜び、家族の絆を尊び、我が身の幸福に感謝する。

 一点の曇りも無いフィリアの満ち足りた姿に、皆が目を奪われ、息を呑む。

 

 少女は母から弟妹へ、そして当主アルモニアへとパートナーを変え、なおも爛漫と踊り続ける。

 

「少しはしゃぎ過ぎじゃないか」

「ごめんなさいご当主さま。でも、とっても楽しくて!」

 

 くるりとターンを決めて、少女が朗らかに言う。

 暴走気味の少女を見事にリードしつつ、アルモニアは慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

 

 招かれた来賓たちは、自らたちも踊りつつ、そんな二人を横目で窺っている。

 これほど親しい中を見せつければ、もはや誰しもがフィリアを完全にイリニ家の一員として扱うことだろう。当主アルモニアの目論見通り、少女のお披露目は無事に成功したといえる。

 

 ただ、そんな外野の評価など、今の彼女たちにとっては取るに足らぬ些末事に過ぎない。

 このひと時が永遠であるかのように、その喜びが無限であるかのように、少女と家族たちは舞踏会に心から興じる。

 

 そうして、楽しい時間も何時かは終わりを迎える。

 皆の興奮が心地よい疲労に変わった頃、楽団が緩やかに演奏を終えた。

 

 気が付けば、夜はとっぷりと暮れている。子供の誕生日会であることを思えば、少々遅すぎる時間である。

 フィリアたちや来賓の皆も、まるで夢から覚めたように我に返り、歯目を外し過ぎたことを今更ながらに恥じ入る。

 

 しかし、誰もが心から沸き起こる、純粋な感動と充足感を覚えていた。まるで子供時分に感じたような、心地よい疲労に包まれた一点の曇りも無い快楽だ。

 忘我の心地に浸るのもつかの間、会場には何処からともなく拍手の音が鳴り響く。

 それはこの素晴らしい誕生日会への賛美であり、そしてその主役であるフィリアに向けられた、惜しみない祝福の証である。

 

「あ、あの……」

 

 爆音のような拍手に我に返ったフィリアは、自らに向けられた祝福の激しさに戸惑ってしまう。パーティーの主役として、何か礼を述べねばならないだろう。

 そんな少女の背中に、パイデイアがそっと手を添えて勇気づける。

 フィリアは意を決し、列席者へと向き合った。

 

「……私、こんなふうに皆さんにお祝いしていただけるなんて、思ってもみませんでした。――暖かくて、綺麗で、優しくて、……私、今日のことを絶対に忘れません。これからもずっと、イリニのお家の為に頑張ります。ですから皆様。こんな私ですが、これからもどうかお力添えを頂きますよう、心よりお願いいたします。今日は、本当に、本当にありがとうございました」

 

 少女は主賓として列席者に挨拶を述べ、優美な作法で辞儀をする。

 来賓たちは堂々たるイリニの姫君に向かって、より一層激しい拍手と祝福を送った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 誕生日会を無事に終えたフィリアは、イリニ家の客室で遅めの夕食を済ませていた。

 

 弟妹たちは既に自室で休んでいる。彼らは誕生日会の準備に精魂を使い果たしていたようで、宴席が成功裏に終わるやいなや、糸が切れたように寝入ってしまった。

 ヌースも弟妹たちを寝かしつける為に離れている。今、イリニ家で最も広い客間にいるのは、フィリアとパイデイアの二人のみだ。

 

 母が今晩を過ごすその部屋は、奇しくも少女が初めてイリニ家を訪れた時に泊まった部屋である。

 

「すっかり大きくなって……それに、とっても綺麗になったわね」

 

 食事を終えて人心地が付いた少女に、母パイデイアが微笑みかけた。二人は椅子に座り、食後の温かい飲み物を喫している。

 

「あの――母さん」

 

 両手に抱えたホットチョコレートに視線を落としていた少女が、意を決したように口を開いた。相談も無く騎士団に入ったこと、二年もの間母を避け続けたことを、何はともかく詫びねばならない。

 

「ごめんなさいね。フィリア」

 

 だが、少女が言葉を継ぐ前に、パイデイアは神妙な口調で謝罪を切り出した。

 

「許して欲しい……なんて、とても言えないのは分かっています。こんなに長くあなたたちを放っておいて、いまさら母親ぶる資格なんて、無いことも……」

「なっ――そんなこと!」

 

 反駁しようとするフィリアに、パイデイアは力なく頭を振る。

「フィリアは賢いから、きっと沢山考えて、自分で道を選んだのでしょう? ……でもきっと、それをさせてしまったのは、私の所為よね」

「あ――ぅ……」

 

 悲しみを堪えるかのような母の困り笑顔に、フィリアは言葉に詰まってしまう。

 

 彼女はきっと、少女が騎士団に志願した真の理由に気付いている。

 すなわち、母の代わりの生贄を自らの手で探そうという企てを。

 

「ねえフィリア。母さん、とっても幸せなのよ? こんなにかわいい子供たちに囲まれて、今日まで暮らすことができて」

 

 まるで人生を振り返るような母の言葉に、フィリアの鼓動が跳ね上がる。そして、

 

「だ、駄目です母さんっ! 母さんはもっと幸せに、わ、私たちも、――みんなで幸せにならなくちゃいけないんですっ!」

 

 フィリアは顔を真っ赤にして立ち上がり、大声を上げる。

 その剣幕に、パイデイアは目を見開いて驚いた。

 とにかく大人びていて、自制の効いた子であったフィリアが、母の前でここまで感情を露わにしたことなど、果たしていつ以来だろうか。

 

「わ、私のことなんて……家族が幸せになれるならどうでもいいんです。いいえ、むしろ全然平気、へいちゃらです。騎士団に入ってよかったんです。皆さんに良くしてもらえて、今日みたいにお祝いまでしてもらえて。――それに、私、街の人たちから手を振ってもらえたんです。こんな私でも、頑張ればみんなが褒めてくれるんです」

 

 少女は熱に浮かされたように言葉を続ける。自分の選択を母が悔やむことはないと、自分は今満ち足りているのだと、母に懸命に伝えようとする。すると、

 

「――っ!」

 

 パイデイアが立ち上がり、フィリアをそっと抱きしめた。

 柔らかな感触と温かい体温が少女の全身を包み、安らぎの匂いが鼻孔を満たす。

 頭蓋を満たしていた熱い血が、急速に冷めていくのを感じる。

 

「あ、あの、母さん?」

 

 母は無言で娘を抱きしめ、優しく頭を撫で、髪を指で梳いた。

 ゆっくりと、丹念に、まるで二年の歳月を埋めるかのようなパイデイアの抱擁に、フィリアは次第に気恥ずかしさが込み上げてくる。

 

 それでもフィリアは控え目に母の腰へと手を廻し、火照った顔を母の胸へと埋める。

 母の顔が近い。伸びた身長を、成長した身体を知ってもらおうと、少女は無意識に胸を張り、踵を浮かしてみる。

 

 そうして暫し抱き合っていた二人は、やがてどちらともなく離れた。互いの温もりが、まだ身体に残っている。

 

「ねえフィリア。忘れないで。母さんは何時でもあなたの味方よ。……ううん、母さんだけじゃないわ。サロスにアネシス、イダニコ。もちろんヌース。それに、兄さんや、あなたの……」

 

 言いさして、パイデイアはフィリアの頬に手を添える。

 

「あなたが生まれてくれて、生きていてくれて、救われている人がこんなにもいるの。だから、自分がどうなってもいいなんて言わないで――あなたたちの幸せだけが、母さんの願いなの」

「っ……」

 

 母の赤心よりの願いに、フィリアは感極まって言葉を失ってしまう。

 本当は訴えたいこともあった。母が自らの幸せを願うように、娘もそう思っているのだと、声を限りに伝えたかった。

 だが、フィリアはただ俯き、か細い肩を震わせるばかりである。

 

 言葉にしたところで、解決する話ではない。

 貴族となった今なら分かる。「神」の選定は、もはや家族の問題などという矮小な話ではないのだ。

 万民の上に立つ権力者として、貴族に課された高貴なる義務。それが国家の保全であり、民の安全の保障である。

 

 フィリアの取り得る選択肢は何も変わらない。

 ただ、母の代わりとなる生贄を探し出すのみである。そんなことを、今更パイデイアに伝える利点は一つも無い。

 少女はただ、母の深い愛情に感激し、家族の心が繋がっていたことをひたすらに喜ぶばかりであった。

 

 自分の声など、世界にはきっと何ももたらさない。

 この残酷なる世界を唯一変革しうるのは、純粋なる力のみ。

 幼いフィリアは傲慢にも、そう信じて疑わなかった。

 

 

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