WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
「それでですね母さん! メリジャーナさんとニネミアさんはどんどん服を持ってこられてしまって、もちろん嬉しかったんですけれど、装いに疎い私はもう大変で……」
「あらまあ! ふふふ」
久しぶりに親子水入らずの入浴を楽しんだフィリアたちは、寝巻に着替えて屋敷の廊下を歩いていた。
二年もの間離れていた母娘である。会話の種は尽きることが無い。
フィリアは務めて楽しい話題ばかりを選んで、熱心に母へと語りかける。パイデイアも娘に友人ができたことが心底嬉しいのだろう。顔をほころばせて応じる。
パイデイアは一晩泊まり、明日の朝にイリニ家の本邸へと戻ることになっている。
今日は久しぶりに母娘二人で眠るのだ。弟妹たちには悪いが、今晩だけは母を独占させてもらいたい。
フィリアが恥ずかしそうにそんなことを言うと、パイデイアは上の弟サロスが最近は一緒に寝てくれないと可愛らしく不満を漏らす。
「それじゃあ、私はみんなを覗いて来るわ」
そういって、母は弟妹たちの私室を訪ねるべくフィリアと別れた。
毛足の長い絨毯を踏みしめ、少女は一人客間へと向かう。母に話したい事柄が、頭の中に次々と湧いて出る。
幸福な想像に包まれながら客間へと戻ると、扉の前に立ち尽くす人影があった。
× × ×
「オルヒデアさん!?」
フィリアが声を上げる。
広い廊下でさぞ寂しそうに立っていたのは、武侠国家ポレミケスの捕虜、黒髪の麗人オルヒデアの姿である。
彼女はフィリアの姿を認めると、憂いを帯びた端正な顔をへにゃりと崩し、泣き笑いのような表情になった。
「フィリア様。……よかった、私がお部屋を間違えたのではなかったんですね」
よよよと声に出そうな様子でフィリアたちに歩み寄る黒髪の乙女。
どうやら彼女はパイデイアたちに用事があり部屋を訪れたのだが、二人が入浴で席を外していたため途方に暮れていたらしい。
「オルヒデアさんは、その……」
尋ねる前に、フィリアの超感覚は事態をつまびらかに解き明かした。
オルヒデアとパイデイアはイリニ家の本邸で出会い、友人となったのだろう。そしてフィリアの誕生日を祝うため、無理を通して聖都の別邸へと二人してやってきたのだ。
ただ、おそらくオルヒデアは素性を隠し、使用人として誕生日会に出席したはずだ。神の候補としての警備もあるため、今日の内に本邸へと帰るに違いない。
客間へと来たのは、二人に別れの挨拶を述べる為だろう。
「お待たせをしてしまってすみません! さあどうぞ中に」
少女はともかく客室の扉を開け、半泣きの乙女を中へ通そうとする。
誕生日会に華を添えてくれた恩人である。本来ならフィリアの方から出向き、丁重に感謝の意を伝えるべきところだ。だが、
「ありがとうございます。ですけど、御車に待っていただいているもので……」
オルヒデアはやんわりとそう言う。
確かに今からイリニ家の領地へと帰るのであれば、到着は夜更けになる。そう長く話している時間はないだろう。
「あの、今日は本当にありがとうございました。あんな素敵な演奏を頂いて……とっても嬉しかったです。私、本当に感動しました」
フィリアはオルヒデアへと歩み寄り、感謝の言葉を告げる。
すると彼女は大輪の花が咲くかのような笑顔を浮かべ、
「お誕生日、おめでとうございますフィリア様。この目出度き日に列席できたことを、本当に嬉しく思います」
と、フィリアの両手を取ってそう言った。
「あの、お手が、その……」
少女は気恥ずかしそうにしながらも、ふとそんなことを言う。
白魚のように細く美しいオルヒデアの指は、しかし触れてみるとガサガサと硬く、それどころか怪我をしているらしき指もある。
乙女はフィリアの驚きに気付くと、
「はい。実はこっそり猛練習をしたんです。フィリア様に喜んで頂けて、頑張った甲斐がありました」
と、はにかんで見せる。
「……っ」
まさか自分のためにここまで心を砕き、思いを尽くしてくれる人が家族以外にいようとは。フィリアは感激の余り、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「傷といえば、フィリア様のお手、随分良くなられましたね」
ふと、オルヒデアがそんなことを言う。
ポレミケス遠征の折りに彼女がフィリアにつけた傷は、今では殆ど完治しており、うっすらとその痕跡を残すのみとなっている。
「……良かったです。傷が残るようなことにならなくて」
乙女は少女の手をしげしげと眺め、安堵の息を吐く。
「まだそんなことを……お気になさらずともいいのに」
フィリアが困り顔でそう言うと、
「でも、お友達のことですから。ついつい、心配してしまって」
と、オルヒデアは頬を赤らめてそう言った。
改めて友人と宣言されて、フィリアも気恥ずかしさが込み上げてくる。
「あの、どうも、ありがとうございます……」
ぼそりとそう言って、二人は手を握り合ったまま固まってしまった。
「それじゃあせめて、お見送りさせてください」
我に返った少女がそう言うと、二人はようやく結んだ手を解いた。お互いの体温が、ほんのりと掌に残っている。
どこか気まずそうに視線を交わした後、二人はどちらからともなく微笑みを溢した。
そうして、少女たちは並んでイリニ家の廊下を歩きだした。
盛大な宴の後ということもあり、広大な館は何時にもまして人の気配がない。トリオンの節約の為、照明は光量が落とされており、よりいっそう物寂しさが漂う。
しかし、二人はそんな寂寞さなど無縁のように、玄関までの道すがら、取り留めのない雑談を楽しげに交わす。
曰く、共にイリニの本邸で暮らすパイデイアとオルヒデアは直ぐに打ち解け、今では昵懇の仲になったという。
二人は毎日のように談笑し、屋敷暮らしの無聊を慰め合ったそうだ。
特に、オルヒデアの視察の為、フィリアがイリニ本邸に来てからというものの、少女の話題は何よりの楽しみとなったらしい。
フィリアの誕生日会の話が弟妹たちから持ち込まれてからは、二人も揃って少女を祝うために、不自由な暮らしながらもあれこれと心を砕いたそうだ。
特にオルヒデアにいたっては、昼夜を問わず一日中ヴァイオリンの練習に励んだため、流石に家人が嫌がり、地下室に急きょ防音処置が施されたほどである。
「本当に、パイデイア様とフィリア様には助けてもらってばかりです」
澄み切った笑みを浮かべながら、オルヒデアが礼を言う。
「まさか異国の地で、こんなに優しい方々と出会えるなんて、思いもよりませんでした」
「それは……私も、同じです」
フィリアがそう呟く。
星の営みすらトリオンに依って立つ
限りある資源としての人間を、誰がどのように扱うか。
万民には決して行き渡らない幸福を、如何にすれば自分たちだけは享受できるのか。
国家という枠組みは、人々の生存権を保証するために生まれたものである。
此方と彼方に世界を分け、ただ我らが生きるために彼らから奪う。
そんな世界に暮らす人間にとって、他国人は恐怖を齎す存在に他ならない。
彼らは常に自分たちを害そうと企み、その機会を虎視眈々と窺っている。どの国であっても自国の民にはそう教え、警戒を怠らぬよう、決して心を許さぬよう戒める。
それがどうだろう。実際に目の当たりにした他国人は、決して悪鬼羅刹の如き敵ではない。己たちと何ら変わる所のない、心を持つ人間であったのだ。
「境界って、何なのでしょうね」
「え?」
オルヒデアはふと立ち止まり、神秘的な横顔でそう呟いた。
「時々、パイデイア様とお話するんです。なぜ私たちは、延々と悲しい争いを続けているのだろうかと。もちろん、益のない世迷言なのは分かっているんですよ。誰も彼もが、幸せに生きられるほど、この世界は優しくありません。――でも、それでも、何故私たちは、敵を作ってしまうのでしょう」
清冽な夜気が満ちる廊下。窓から差し込む月の光が、黒髪の麗人を冴え冴えと照らす。
「こちら側とあちら側、そう境界線を引いてしまうから、相手が恐ろしく見えてしまうのではないでしょうか。だから、私たちは最初からお互いを知ることを諦めてしまうのかもしれません。本当はきっと、手を取り合うこともできるはずなのに」
玲瓏な声で紡がれるオルヒデアの言葉に、ふと、フィリアの脳裏に色鮮やかな情景が甦った。不思議な少年アヴリオと語らった、あの夕暮れの光景。
哀しみばかり溢れるこの世界に、それでも善美なるものは確かにあると知った日。
アヴリオやオルヒデア、そして母パイデイアたちが信じてやまない、世界の尊さ。
「……難しいことだと思います。やっぱり、そう簡単に他人を信じられるようにはなりませんから」
しかし、フィリアは緩く頭を振って応える。
敵国ノマスの子として、いわれなき悪意に曝され続けた半生。投げかけられる呪いの言葉の真意に、少女は幼いなりに理解を深めていた。
そもそも、悪意に理由などない。物を口にしなければ生きていけぬように、人は不満のはけ口を必要としているのだ。それがたまたま己であっただけのこと。仮に自分が標的から外れたとしても、今度は他の誰かが憎悪の対象になるだけなのだろう。
愛することと同じように、憎むことは人間の本性である。
憎むな、争うな。愛せよ、語らえ。そう訴えるのは容易いけれど、実際に出来る人は滅多にいない。
それでも――
「けど、その想いは、きっと素敵なことだと思います」
月光に照らされる黒髪の乙女に、フィリアはそう言う。
そして少女はオルヒデアと母パイデイアに向き直り、
「私には、誰も彼もに優しくするのは、ちょっと無理かもしれません。――でも、そんな優しい人たちを、心から護りたいと思います」
寂しげな、しかし強い意思を秘めた表情で、フィリアがそう告げる。
それは家族にも明かしたことのない、少女が抱く決意の欠片。
自分の愛する世界を、己を愛してくれた人々を護りたい、その切なる願い。
「――だから、私はオルヒデアさんも護ります。あなたはどうか、優しいままでいてください」
この世の悲しみは、すべて呪われた自分が引き受ける。愛する人々に幸せな暮らしを送ってほしい。その為には、少女は命さえ捧げる覚悟である。すると、
「私が優しいと、そう仰ってくださるのは、きっとフィリア様が誰よりもお優しい人だからですよ」
決意を披瀝する少女に、乙女が鈴を転がすような声でそう告げる。
「え?」
「私は、フィリア様が思うように出来た人ではありません。いくら心がけを良くしようと努めても、悪い考えは次から次へと沸き起こって……だから、そんな私が良い人のままでいられるのは、お相手の方が真実良い人だからです」
「母さんならともかく、私は……そんな……」
「いいえ、そんなことありません。ドジでのろまで、何をしても人様に迷惑ばかりかけてしまう私に、あなたはこんなにもよくしてくださいました。――フィリア様。私、夢ができたんです。私の奏でる音楽で、皆様を幸せにしたい。今日のお誕生日会のような、素敵な時間を多くの人にお贈りしたい。そうすればきっと、こんな私でも、世の中を良くする一助になれると思うのです」
そう言って、フィリアの頬にオルヒデアの嫋やかな指が触れた。
「だから、そんな素敵で優しいフィリア様にも、笑顔でいてほしいのです」
「――ふぇ」
頬を優しくつままれ、口の端を持ち上げられるフィリア。
間抜けな声を出す少女に、乙女は慈しみに満ちた表情を送る。
「きっとフィリア様には、大変な御事情と固い決意が御有りになるのでしょう。私ではお力添えは叶わないやもしれません。ですが、それでも、フィリア様には幸せになっていただきたいのです」
大輪の花が開くような微笑みと共に、オルヒデアがそう告げる。
「……はい。頑張ります」
「うふふ。鋭意努力なさってください」
どこまでも真面目に応えるフィリアに、乙女は満足そうに応じる。
環境に依らず運命に依らず、真なる幸福とは、つまるところ個々人がそれぞれ見い出していくものに他ならない。
この危ういほどに純粋で直向きな少女に、少しでもそれを分かってほしい。
世に生まれ出でたことに、人と紡いだ縁に、そして自らを取り巻く世界に、感謝と喜びを告げる。誕生日という節目の日に、その本当の意義を知ってもらいたい。
それは少女を愛した全ての人々からの、崇高な贈り物であった。
心地よいひと時は瞬く間に過ぎ去っていく。やがて二人は屋敷の大門を潜り、車寄せまで歩み出た。すると、待ち構えていた本邸の使用人が二人に近づいてくる。車両もライトを点灯させたまま停まっており、直ぐにも出立するつもりらしい。
「それではフィリア様、お見送りありがとうございました。どうぞお達者で」
使用人たちの姿を見て取るや、オルヒデアは謹直な面持ちとなり、恭しく別辞を述べた。
彼女はあくまで他国の人間、イリニ家の虜囚である。一門に連なるフィリアを前に、不遜な態度は許されない。
「――オルヒデアさんっ!」
使用人に促され、従容と歩み出した乙女に、少女が思わず声を上げる。
切迫した少女の声音に一同が振り向いた。
「また……またすぐに、会いにいきますから!」
物のように扱われるオルヒデアの姿に堪えられず、喉を突いて出た言葉。
彼女の味方は確かにここに居るのだと、言葉足らずもそう伝えたかった。
「……はい。また今度、です」
その思いは、確かに乙女へ届いたようだ。
オルヒデアは驚愕の表情を浮かべ、そして見る者すべてを虜にするような、絶世の笑顔で答えた。歓喜の一滴が、乙女の眦で真珠のように煌めく。
そうして、オルヒデアを乗せた車両はイリニ家の別邸を後にした。
残されたフィリアは名残惜しそうに遠くを眺めていたが、やがて一つくしゃみをすると、いそいそと屋敷の中に戻った。
湯冷めをしてしまったかもしれない。そういえば少女は風呂上りであった。
そして母を待たせていることを思い出し、フィリアは客間へと戻るべく足を速める。すると、
「オルヒデアさんに、ちゃんとお礼は言えた?」
玄関ホールの柱の陰から、パイデイアがひょっこりと姿を現した。どうやら何時からか二人の後をこっそりと付け、会話を盗み聞きしていたらしい。高貴な育ちの割に、案外茶目っ気のある母だ。
「はい。……ちゃんと伝えられたか、自信がありませんけれど」
「大丈夫よ。きっと。お母さんが保証します」
客間への帰り道を、母子二人はゆっくりと歩く。
それは二年の月日を取り戻すような、何物にも代えられぬ時間であった。
「話すことがいっぱいあって困っちゃうわ。今晩は夜更かししちゃいましょうか」
「はい。今日は特別です」
「ふふふ、いつも口酸っぱく叱られてるサロスたちに知れたら、怒られちゃいそうね」
「秘密にしておけばいいんです。あの子たちったら、何時までたっても言うことを聞いてくれないんですから……」
「フィリアは何か、お話ししたいことはある?」
「それじゃあ、母さん。……私もう一度、
自然と重なる歩調も、何気ない会話も、懐かしい母の匂いも、何もかもが愛おしい。
少女は生涯で最も幸福な今日という日を、決して忘れぬよう心に刻み込んだ。
そして――
(大丈夫。私ならきっと出来る。次こそ文句ない候補者を捕まえられれば、母さんもオルヒデアさんも、みんなを護れるんだ。――私が戦って、勝って、そうすれば、みんなで幸せに……)
少女の深奥に秘められた決意が、鈍く鋼色に輝いた。