WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
教会の深層は
研究区画にもまして無味乾燥な廊下は、トリオンで分厚く補強され、侵入者を阻むための隔壁がそこかしこに設けられている。
まるで地下墳墓のように凝った空気が立ち込める廊下を、フィリアは一人歩いていた。
イリニ家に連なる者として権限は与えられていたものの、少女が実際に深層へと立ち入るのはこれが初めての事だ。
訪れる用事も無かったのだが、エクリシアの中枢にして神の御坐に近づくことに、少女が抵抗を感じていたのも事実である。
昇降機を護る聖堂衛兵には何も言われなかったが、おそらくノマスの血を引く人間が深層へ降りることは前代未聞なのだろう。彼らの表情には、拭いがたい緊張と困惑の色があった。
そしてフィリアも、
それでも少女は意気揚々と、足取り軽く教会の中枢を行く。そうして、
「ご当主様!」
休憩スペースの一角で、一人佇むアルモニアを見つけた。御付の者たちは、所用で席を外しているらしい。
「フィリア? いったい何故ここに? 何かあったのか」
と、金髪の偉丈夫が怪訝そうな声を出した。姪が来る予定などないのだから、当然の質問である。
「えっと、あの……」
喜び勇んで駆け寄ったはいいものの、アルモニアにそう問われてフィリアは答えに詰まってしまう。やはり徹夜明けで妙な調子になっていたのか、伯父に会いに行こうと思い立つや、半ば勢いだけでここまで来てしまったのだ。
「トリオン兵の更新プログラムを受領しに……その、それで……」
神経をすり減らす難しい会議中に、能天気な顔をしてやってきた相手を、一体誰が歓迎しようというのか。
平時なら、相手方の事情などは気を回し過ぎるほどに配慮する少女である。
自分の仕出かした不始末に蒼白になりながら、それでも少女は言葉を継いだ。
「ご当主様に、お会いできないかな、と思いまして……」
叱責を覚悟していたフィリアは、しかしアルモニアの反応が返ってこないことに気付く。
見れば、伯父は翡翠色の目を見開き、明らかに驚愕した様子である。
「……ご当主様?」
初めて見る伯父の表情に、フィリアの口から訝しげな声が漏れた。すると、
「――あ、ああ。そうか。ありがとう。いや、ご苦労だった」
伯父ははたと我に返って謹厳な表情を取り繕うと、ともかく少女の来訪を歓迎する。
「すみません。ご休憩中に押しかけて迷惑ではなかったでしょうか」
「いや、そんなことはない。ただ、君の顔をみて驚いただけだ」
罪悪感から体を縮こめて呟くフィリアに、アルモニアは優しく語りかける。
「そうだな。ああ、君の提出してくれた遠征計画書は実に役に立っている。あれだけ微に入り細を穿った内容なら、教会もトリオンの給付を渋る訳にはいくまい。とても助かっているよ」
当座の話題として、アルモニアは無難に仕事の事を口にした。
フィリアが打ち立てた砂塵の国アンモス攻略作戦を褒めつつも、アルモニアの精悍な顔には僅かな陰りがある。そもそも姪には安穏に暮らしてもらいたかった伯父である。順調に騎士団に染まりつつある少女に、複雑な思いを抱いているのだろう。
「そんな、たたき台にでもなればと思っただけで……」
ただ、当のフィリアは敬愛する伯父から賞賛されたことに、頬を赤くして恥じらいを見せるばかり。だが――
「そうだ、まだ時間はあるだろうか。もし昼食がまだなら……」
そう言いさして、アルモニアは異変に気付いた。
少女はさっと周囲を視線で探り、人通りが無いことを確かめると、ギュッと目をつぶり、小さな頭をぐいと押し出してきたのだ。
「「…………」」
静寂が空間を支配する。
顔を真っ赤にしながら小刻みに震えるフィリアの意図は明白だ。頭を撫でて、褒めてもらいたいのだろう。
だが、アルモニアは突き出された白髪を眺めたまま、当惑の表情で固まってしまう。
もはや家族同然の間柄となった二人だが、今まで頭を撫でてやるなどしたことがない。
少女はその出自故にイリニ家では謙抑に振る舞っていたし、伯父の方は、この姪に対しては意図的に関係を深め過ぎぬよう努めていた。
「……」
やがて、意を決したようにアルモニアが動く。
そろそろと右手を挙げ、ゆっくりとフィリアの頭へと近づける。その気配を鋭敏に感じ取った少女が、びくりと肩を震わせた。
苦み走った秀抜な顔貌に似合わず、アルモニアの掌はごつごつと節くれだち、まるで巌を削りだして造ったかのようだ。
物心ついた時から剣把を握り、国家の為にすべてを捧げ続けた男の手である。
(いや……)
アルモニアの頬が微かに緩む。
十余年前、彼の歩んできた人生の意義は大きく変わった。彼が絶望と後悔、憎悪と憤怒の時を耐え忍んできたその意味は、国家ではなく――
「フィリア様? 珍しい所でお会いしましたね」
すると、アルモニアの掌がフィリアの頭に触れるその寸前、澄んだ女の声が響いた。
「「――ッ!」」
伯父は慌てて手をひっこめ、姪は即座に声の方へと向き直ると、何事も無かった風を装った。別に疚しいことをしていた訳ではないが、身内に甘い姿を人に見られるのは、あまり体裁のいいものではない。
「おお、誰かと思えば小さな騎士殿ではないかな?」
現れたのは、白い滝髭が印象的な鷲鼻の老人と、眼鏡をかけた怜悧な風貌の若い女性だ。
フィロドクス家当主クレヴォ翁と、その養女オリュザである。
「一別以来御無沙汰を重ねております。フィロドクス閣下」
エクリシアでも有数の貴人に、フィリアは丁重な挨拶を述べる。
考えるまでもなく当たり前のことだが、教会で行われているのは三大貴族が一堂に集まっての会議である。フィロドクス家の当主とその付き人が、付近をうろついていたとしても何らおかしくはない。
訪問者を前にして、アルモニアとフィリアはすぐに騎士としての仮面を被りなおした。
伯父と姪が醸し出していたぎこちない空気など、最初から無かったかのようである。
そして雑談もそこそこに、アルモニアとクレヴォは会議の場外戦を始めてしまった。社交辞令に覆い隠された会話は一見すると和やかだが、他家の内情を推し量り、要請と妥協、譲歩と協力を混ぜ込んだ裏取引そのものの会話である。
会話についていけないフィリアは、オリュザと並んで長椅子に腰掛け、手持無沙汰に伯父の姿を眺めることになった。
と、少女のお腹がくぅくぅと小さく鳴った。
そう言えば、折角アルモニアと昼食を一緒にできるところだったのだ。この分では、昼の休憩が終わってしまうかもしれない。
「さきほど遠目でお見かけしたのですが、フィリア様とイリニ閣下はじっと立ち尽くされていたご様子。一体何をなさっていたのですか?」
と、隣に座るオリュザが、さも不思議そうな表情でそう尋ねてきた。
「~~~っ!」
フィリアは知らずと頬を膨らまし、この少女にしては実に珍しいことに、恨みがましい目線で友人を睨め付けた。
× × ×
その日の夜。アルモニアと短い昼食を共にして英気を養ったフィリアは、騎士団の砦へ戻り、相も変わらず仕事の山と格闘を続けていた。
「それじゃあ先に帰るから。フィリアさんも適当に休むのよ~」
よよよと語尾を引き延ばして、ふらふらのメリジャーナが執務室から出ていく。午後になって、家の仕事で席を空けていた騎士たちがぼつぼつと砦に戻り始めた。メリジャーナは婚約者のテロスに仕事をおっ被せるように引き継いで、四日ぶりの帰宅である。
「フィリア様も、もうお戻り下さい。後は私が片付けておきますから」
金髪碧眼の美男子、テロス・グライペインが透き通る笑顔で少女へと告げた。
「お心遣いありがとうございます。でも、私はまだ元気いっぱいですから」
だがフィリアはそう言って、頑なにデスクから離れようとしない。敬愛する伯父に褒められて、やる気に満ちているらしい。
ただ、いくら気力が充実しているとはいえ、肉体的な疲労は隠せるべくもない。
まだ十二歳になったばかりの少女である。トリオン体ならいざ知らず、生身の体ではどうしても体力的に限界がある。
「なりません。休める時に休んでおくのも騎士たる者の心得です。フィリア様が体調を崩されれば、総長も悲しまれますよ」
婚約してからというものの、この青年貴族は蕩けるような美貌にどっしりとした貫禄を備えつつあり、言葉の端々に重みが宿っている。
主家の娘として、また一人前のレディとして丁重に扱ってくれるテロスに、フィリアも強く抗弁することはできない。
「では、最後にこれを総長室まで届けていただけますか。それが済んだら、お屋敷に戻ってゆっくりお休みください」
尚も不服そうな少女に、テロスは来期の防衛計画を纏めたメモリーチップを渡すと、優しい口調でそういった。
「……分かりました。それではお先に失礼いたします」
上役にそうまで言われては断れない。フィリアは辞儀を述べ、執務室を後にした。
そうして少女は人も疎らな砦の中を進み、主が不在の総長室へとやってきた。
アルモニアはまだ教会から帰っていないが、代わりに秘書が部屋に詰めている筈だ。
しかし、ノックを鳴らすも返事が無い。
「フィリア・イリニ。入室します」
総長室に鍵が掛かっていない。怪訝に思った少女は部屋へと立ち入る。
「まったく不用心な」
部屋には明かりが点いたままだ。少女のサイドエフェクトが、直ぐに単なる秘書の不在だと教えてくれる。
メモリーチップを机の上に放置するわけにもいかないので、フィリアは秘書が戻ってくるまで部屋で待たせてもらうことにした。
「…………」
荘重な調度で飾られた厳粛な総長室には、フィリアが贈ったポプリの華やかな香が漂っている。
少女は立ち尽くすのに飽きると、しげしげと部屋を眺めまわし、それにも退屈すると、
「――ちょっとだけなら」
と、アルモニアの執務席に腰掛けてみる。
「……」
何処からともなく湧いてくる気恥ずかしさに、フィリアは頬を赤らめる。
ただ、こうして椅子に浅く腰掛け、机の天板を指でなぞると、少女の胸に得も言えぬ感情が込み上げてくる。
慈愛に満ちた伯父、誉れ高き貴族、並び立つ者なき剣士。
思慕でもなく、畏敬でもなく、憧憬でもない。
泣き喚きたくなるような切なさと、陽だまりに包まれたような安らかさと、何にも増して抑えがたい喜びが入り混じったような、まったくもって不可思議な感情。
アルモニアへの思いに胸を膨らませる少女。だがその時、
「――っ! あ、あの、これは……ち、違うんです!」
総長室の扉が開かれ、秘書が戻ってきた。
イリニ家に長年仕えている壮年の男性は、主の執務室に座るフィリアに目を丸くして驚いている。
その後、フィリアは言葉を尽くして自分の所業を弁解する羽目になった。
事実を言ってしまえば、伯父の職場で姪っ子が遊んだだけの話であり、秘書もそのことは重々承知している。
ただし、イリニ騎士団総長の椅子を、ノマスの血を引く養子が弄んだという事実は、捉えようによってはかなりの面倒事を引き起こしかねない。
特に、フィリアの早すぎる昇進を快く思わない一部の人間にこの事が知れれば、嬉々として攻撃材料に用いるだろう。
結局、秘書も鍵を掛けずに用足しに行った負い目もあり、双方が何も見なかったことにすることで話は纏まった。
「それでは、確かにお受けとりいたしましたので」
「はい。総長にもよろしくお伝えください」
できれば伯父が帰ってくるまで待ちたかったが、理由もなく居座る訳にもいかない。後ろ髪をひかれながら、フィリアは秘書に防衛計画書を渡した。するとその時、
「――?」
執務室にコール音が鳴り響く。何か通信が入ったようだ。
秘書が端末を操作し、内容を確認する。退室の機を逃してしまったフィリアは、ぽつりと立ち尽くしたままだ。
「ああ、騎士フィリアがいてくれて丁度良かった」
と、通信を確認した秘書が少女を見てそんなことを言う。
「何か、私に関係することでしょうか?」
「イリニ家の本邸からの通信でして。ご当主様は教会ですから、こちらに送ってきたのでしょう。家の運営に関する報告書なのですが、私ではどうにも裁可できないもので、よければ騎士フィリアにも御一読いただけたら……」
「そんなことを言われても、私には何の権限もありませんし……」
「いやなに、明らかに問題がありそうな箇所が無いか、見ていただくだけですから」
そう言って、秘書は投影モニターを起動した端末をフィリアへと渡す。
少女は困惑しながらもそれを受け取り、データにざっと目を通した。
今期の収支見込みや荘園、領民の管理状況。はては家財道具の更新費用や、使用人の給与明細に至るまで、細々とした報告が並んでいる。
イリニ家の一員として内外に認められたフィリアだが、家の運営など、内向きの用事は今まで担当したことが無い。
そもそも、子供に家の切り盛りをさせる必要などないのだから当たり前である。
「……ふむ」
だが、全く初めての仕事であるにも関わらず、フィリアは神妙な面持ちで次々と資料を読み込んでいく。
書かれている数字に間違いはないか、判断に誤りが無いかは、少女の持つサイドエフェクトが教えてくれる。正誤を確認するだけなら、彼女以上の適任者はいない。
驚くべき速度でデータチェックを済ませるフィリア。だがそれでも、この分量にはいささか閉口せざるを得ない。
騎士団に加えて領地の運営まで行うなど、体がいくつあっても足りる仕事ではない。大貴族とは如何に過酷な立場であることか。
フィリアは伯父の負担を少しでも減らすため、これからは内向きの仕事も覚えてみようと、半ば本気でそう決意した。
「ざっと見た限り、特に問題はなさそうでした」
データに目を通し終え、少女がそう言う。
計画書を届けるだけの予定が、随分遅くなってしまった。フィリアは今度こそ秘書に挨拶し、退室しようとする。すると、
「今度は何でしょう」
又しても、総長室に通信が入った。自分にも関係する事かと、少女は居住まいを正す。
「いや、大したことはありませんよ」
だが、内容を確認するなり秘書が手を振ってそう言った。
壮年の秘書はまったく些末事のように、軽い調子で口を開く。
「ただの業務連絡です。本日行われるスコトノ家のパーティーに、イリニ家から楽団を手配したとの報告です」
――その報せを耳にした途端、フィリアの顔から音を立てて血の気が引いた。少女のサイドエフェクトが、理由の分からない異常な警告を発したのだ。
総身が粟立つほどの異常な悪寒。何か、決定的な何かを間違えてしまったという、根拠のない確信。
あるいはそれは、底なし沼に首まで浸かっていたことにようやく気付いた絶望にも似て――
「う、ぁ……」
フィリアは説明のできない恐怖と緊張、憤怒と悲嘆に言葉を失う。
もはやここが尊貴な総長室であることすら覚えていない。
サイドエフェクトがかき鳴らす警鐘に突き動かされ、少女は狂った獣のような勢いで部屋を飛び出していった。