WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の十六 惨劇

 エクリシア有力貴族の一つスコトノ家は、国土の西方に広大な領地を持つ名家である。

 古くからイリニ家に忠誠を誓うスコトノ家は、剽悍無比な騎士を代々輩出することで有名で、先代はイリニ騎士団の団長職をも務めていた。

 

 尚武の気風を貴ぶスコトノ家の本宅は、まるで城塞を思わせるような猛々しい外観をしている。

 そのスコトノ邸では今夜、来たるべき遠征に向けての決起集会が行われようとしていた。

 

「……はぁ」

 

 艶やかな桜色の唇から、悩ましげな吐息が漏れる。

 

 鏡の中に映るのは、簡素な意匠ながらも上質なドレスを纏った、黒髪黒瞳の美女である。

 邸宅の一室、楽人の為に割り当てられた控えの間にて、オルヒデア・アゾトンは化粧を施しながら、物憂げな表情をしていた。

 

(いやいや、頑張らないといけません。フィリア様があんなにも骨を折ってくださったのですから)

 

 黒髪の乙女は化粧台の前でぶんぶんと首を振る。

 周りの楽人たちは新人の奇妙な振る舞いに怪訝な表情を浮かべるものの、もう慣れたと言わんばかりに自らの用事に戻った。

 

 イリニ家がポレミケス戦役で得た捕虜オルヒデアは、その稀有な楽才を認められ、特例的にイリニ家が抱える楽隊に召し抱えられることになった女性である。

 戦火の絶えない近界(ネイバーフッド)では、国力の増産に関与しない技芸職は殆ど顧みられず、それはこのエクリシアでも同様であった。

 

 ただ例外として、有力な貴族に限っては、必ず自前の楽団や芸術家を抱えている。これは貴族の華やかな生活に、麗しき芸術が必要不可欠であるためだ。

 当然、貴族のお抱えとなるからには技芸優秀は勿論のこと、人品骨柄まで正しくあらねばならない。降ってきたばかりの捕虜がその一員になるなど、前例のない出来事である。

 

 横車を押したのは、今をときめく新鋭の騎士、フィリア・イリニである。

 

 当主の姪御の強い口利きで、オルヒデアは例外的に楽団の一員として認められることになった。

 未だ忠誠定かならぬ捕虜であるからか、イリニ本邸からは常に二人の監視が付いている。

 

 楽団も最初はその奇態な女を扱い兼ねたが、善良な性格と確かな腕前に、何度か公演を行った後にはすっかり馴染んでしまった。

 そんな彼女が物憂げな表情をしているのは、今日の舞台となるスコトノ家に、含むところがあるからだ。

 

(……悪い心を起こしては、いけません)

 

 オルヒデアはスコトノ家の当主、ネロミロスと面識がある。

 

 ポレミケスで拉致した捕虜をエクリシアで選別する際、その任に当たった者の中にネロミロスがいたのだ。

 

 バムスターの腹から出され、意識を取り戻したオルヒデアは、同じく捕虜となった数多のポレミケスの民を目の当たりにした。

 異国の地に怯え、未来を嘆く同胞たちを、エクリシアの戦士たちはまるで家畜を扱うかのように冷酷に取り扱った。

 

 その中でも、容貌魁偉なネロミロスの姿は嫌でも目に付いた。

 あたりを払う威容もさることながら、彼は機械のように振る舞う他の騎士とは違い、大声で捕虜を恫喝し、力ずくで屈服させようとしたのだ。

 その時の言説から、オルヒデアはネロミロスがポレミケス襲撃の実行部隊に属していたことを知った。

 

 戦場では相見えることはなかったが、故郷を滅茶苦茶にした男を目の当たりにして、憎悪の念が湧いたのは事実である。

 仇敵ともいえる男を囲む会に、自ら音曲を添えねばならないというのだから、苦悩するのは当然の反応だった。

 

 だが、オルヒデアが当惑していたのはそれが理由ではない。

 元々恨みや怒りを溜めこむのが苦手な気質である。務めて相手の美質を探そうという性格もあり、そもそも他者を心から憎めない人間である。

 

 乙女が感じているのはもっと漠然とした、予感めいた不安だった。

 今日このひと時で、何かが大きく変わってしまう、崩れてしまうことのではないかという、根拠のない恐怖。

 

「そろそろ時間です」

「――っ、はい!」

 

 時計の針を、誰も戻すことはできない。

 オルヒデアは友から贈られたヴァイオリンを愛おしげに手にすると、楽人たちとともに宴席へと向かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「約束しよう諸君! 来るべきノマスとの闘争に於いて、我らは必ずや彼奴らの首を捩じ切り、積年の因縁に終止符を打つと!」

 

 豪奢に飾り付けられた大広間に、勇壮な声が響く。

 宴席の中央に立ち、居並ぶ聴衆に向けて演説をぶっているのは、獅子のように逆立つ金髪をした猛々しい偉丈夫、ネロミロス・スコトノである。

 

 エクリシアの仇敵ノマスを駆逐するという当主の剛胆な宣言に、会場に集う者たちは一斉に快哉を叫んだ。

 招待客の多くは男性で、それも年若い者たちの姿が目立つ。

 

 彼らはスコトノ家に属する従士、あるいは与する者たちで、言わばイリニ騎士団におけるスコトノ派閥の人間が、一堂に会している状況である。

 貴族としての地位を盤石にするため、配下との紐帯を強めるため、自然休戦期にはこのような催しは頻繁に行われる。ただ、

 

「その前に、まずは些事を片付けねばならぬ。砂塵の国アンモスなる弱小国家を踏み潰し、我らの猛々しい武魂を、無類なる精強さを遍く知らしめるのだ! さすればイリニの若殿も、我らこそが騎士団の背骨であることに気付かれるだろう!」

 

 演説の過激さ、聴衆の熱狂ぶりはやや異常に過ぎる。

 

 これは彼らスコトノ派閥の騎士団での立ち位置に理由がある。

 かつてイリニ家の先代当主、ディマルコが健在であった頃、スコトノ家はイリニ騎士団の第一軍団長として名誉をほしいままにしていた。

 それが、イリニ家の当主が代替わりした途端にその職を解かれ、今では無役の騎士として、一平卒に甘んじている始末である。

 

 ディマルコとその息子アルモニアは抜き差しならない軋轢を抱えていたようで、凄絶な家督闘争の末、アルモニアは父を押込にしてイリニ家の当主となった。

 スコトノ家はディマルコ側についたため、解職の煽りを受けたのである。

 

 ネロミロスはこれをアルモニアの報復と捉えており、主家に対して少なからぬ反発心を抱いている。

 そのため彼は、失墜したスコトノ家の威信を取り戻すため、武功を立てることに躍起になっているのだ。

 

 若き当主の狂おしい熱情が伝播したように、聴衆たちは口々に歓声と賞賛をネロミロスへと浴びせる。

 その一種異様な光景を、オルヒデアは会場の片隅から眺めていた。

 

「…………」

 

 スピーチを妨げぬよう演奏を中断した楽団席で、黒髪の乙女はただ一心に楽譜を読み進めていた。

 エクリシアの政治事情など、もとより関与する立場にない彼女である。友人が八方手を尽くして宛がってくれた仕事を全うするため、全力を尽くすばかりである。

 

 しかし、それでも耳朶を討つ雄々しい演説に、乙女の胸は刃物で切られるように痛んだ。

 生来暴力的な話が苦手な上に、敗北して虜囚になった身としては、蹂躙されようという他国に、どうしても己の境遇を重ねてしまう。

 

 ただし、乙女の悲嘆もそう長くは続かなかった。

 ネロミロスが演説を終え、皆が会食へと移ったからだ。

 

 オルヒデアはヴァイオリンの弓を握り直し、指揮者の振るうタクトを注視する。列席者が豊かなひと時を過ごせるよう、今は心を込めて演奏するばかりだ。

 そうして宴席もたけなわとなった頃、問題は起こった。

 

「え……私と、ですか?」

 

 楽人の入れ替えの為席を立ったオルヒデアに、配膳をしていたボーイが話しかけてきた。

 ネロミロスが是非オルヒデアと話がしたいというのだ。

 

「それは……ですが……」

 

 乙女は困惑した様子で言葉を濁す。

 そもそも彼女は楽団に所属しているものの、本来は虜囚の身である。

 

 演奏を行えるのは特例で、彼女に行動の自由はない。勝手な事をすれば、イリニ家から派遣された監視役が飛んでくるだろう。

 だが、乙女が助けを求めて会場の隅を窺うも、そこに控えている筈の監視役の姿が無い。どうやらスコトノ家の若党に絡まれ、何処かへ誘導されたらしい。

 

「……承知いたしました」

 

 穏当に断る手立てがない以上、受けるよりほかに道はない。

 イリニ家の楽人としてこの場にいる以上、無碍に誘いを断ってネロミロスの不興を買ってしまえば、両家の関係を損ねることになってしまう。

 

 そうなれば、折角フィリアが苦労して斡旋してくれたこの仕事を続けることができなくなるかもしれない。

 己のことは構わないが、あの少女に迷惑を掛けることだけは何としてでも避けたい。

 

(大丈夫です……少し、お話をするだけ)

 

 オルヒデアは意を決し、祖国の敵である騎士の元へと赴いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 乙女の抱いた不安は、残念なことに的中することとなった。

 

「さて、まずは一献」

「ありがとうございます」

 

 オルヒデアは勧められた席に着くと、注がれたワインに礼儀程度に口を付ける。

 

 ホストのネロミロスは随分と酔っていたが、まだ理性はしっかりと残しているようで、座に迎えた乙女を郎党に紹介すると、その比類なき楽才を惜しみなく賞賛し、また自身の芸術に対する造詣の深さを得々と語った。

 

 それだけならば、音曲を愛でるだけの他愛ない席になっただろう。

 しかし、ネロミロスと郎党たちは、次第に会話の中に嗜虐的な揶揄を差し挟み、また無遠慮に肢体を舐め回すような視線を乙女に投げかけだした。

 

 男たちは明らかにオルヒデアの抱える事情に通じている。彼らは表面的には紳士然として振る舞っているが、敗軍の将である彼女を嘲る思いが言葉の端々に滲んでいた。

 

 そんな悪意に曝されても、乙女は終始謙抑に振る舞い、まるで嫌がらせに気付かぬ風に、ともかく波風を立てぬよう努めた。

 そうして暫く意地の悪い酒に付き合っていると、

 

「それにしてもイリニ家も酷いことをなさる。いくら楽才があるとはいえ、貴女ほどの稀有なトリオン能力の持ち主を、奴婢同然に扱うとは……」

 

 と、ワイングラスを弄びながら、ネロミロスが如何にも嘆息したように言いだした。

 

「確かに貴女の音曲は素晴らしいが、請われて人に披露するものでもありますまい。奏楽は趣味としてなさればよろしい。天与の才を腐らせるなど愚の骨頂であろうに」

 

 朗々と言葉を続けるネロミロスに、オルヒデアは面持ちを固くする。

 この勇壮なる貴族の男は、乙女の技芸の深遠さを認めつつも、所詮は卑賤の仕事と傲岸に断じたのだ。

 

 持って生まれたトリオンの力と、それを如何に国家の為に役立てるか。それこそが人間の価値を決める唯一にして絶対の基準であると、この男は認識している。

 彼の思想は近界(ネイバーフッド)ではごく当たり前もので、誰にも咎めることはできない。

 

 オルヒデアはただ、鬱々と黙するばかりである。

 そんな乙女の沈黙を肯定的な反応と受け取ったのか、ネロミロスはさらに上機嫌に舌を回す。

 

「貴女のような才女が、籠の鳥として飼われているのは余りに不憫だ。我がスコトノ家なら、そんな真似は決して行わないというのに」

 

 そしてネロミロスは、得物を狙う蛇のような眼光でオルヒデアを見ると、

 

「私なら、貴女の悲境を救うことができる。どうだろう、我がスコトノ家に身柄を移されては」

 

 と、にじり寄るようにそう言った。

 

「……私はイリニ家の虜囚です。そのように申されましても、困ってしまいます」

 

 あまりに露骨な勧誘に、乙女は息も絶え絶えに言葉を絞り出す。態々彼女を宴席へと呼んだのは、自陣営への引き抜きが目的であったらしい。

 乙女の遠回しな拒否に、男は嘲るように鼻を鳴らすと、

 

「敗軍の将としては殊勝な心がけだな。――だが心配は無用だ。私が意見をすれば、イリニのご当主殿も無碍にはできまいよ」

 

 と、総身に自信を漲らせて詰め寄る。

 

 見れば、周りの郎党たちもオルヒデアを囲むかのように立ち位置を変え、乙女に無言の圧力を加えている。

 ネロミロスはなおも乙女が返答に窮している様子を見てとると、

 

「勘違いしているようだが、イリニ家に居ても今後の栄達は見込めんぞ。あの小娘、いやフィリア殿()、か。アレは一見上手く立ち回っているように見えるが、所詮は人寄せの為の広告塔に過ぎん。二人目になれるなどとは思わぬ方がいい」

 

 と、いささか機嫌を損ねたように吐き捨てる。

 

 少女の名が出た途端、座の空気が危ういほどに張りつめた。酒気を帯びた郎党たちが、一斉に怒気を放ったのだ。それが派閥の対立によるものか、それともノマス憎しの感情から来ているのかは分からないが、彼らは少女に強い敵愾心を抱いているらしい。

 

 針の筵に座るような空気の中、オルヒデアは一つ深呼吸をすると、凛冽な気迫を身に纏わせた。友人を辱められた以上、心は固く決まっている。

 

「――いえ、やはり私の一存では決められぬことです。加えて申し上げれば、私はイリニ家での暮らしに何の不自由も感じてはいません。有難いお申し出とは存じ上げますが、謹んでお断りいたします」

 

 と、乙女は眦を決して昂然とそう言い放った。

 

「――ッ!」

 

 ネロミロスの酔眼に、激情の色が差す。

 ここまではっきりと拒絶されるなど思いもしなかったのだろう。居並ぶ郎党たちも怒りの余り言葉を失って立ち尽くした。

 

 座に異様な空気が漂う。物別れに終わった和平交渉のような、一触即発の気配である。するとその時、

 

「いや申し訳ありませんスコトノ卿!」

 

 イリニ本邸から使わされた監視役が、剣呑な空気に割って入った。

 痩身で肌の白い如何にも吏僚めいた男が、作り笑顔に脂汗を浮かべながらやってくる。

 スコトノ家の郎党から接待を受けているうちに、監視対象が騒動を起こしかけているのだから、動揺も無理からぬことだろう。

 

 いまいち頼りにならない人物でも、オルヒデアにとっては待ち焦がれた援軍である。

 

「すみません。不調法故、酔ってしまいました。放言の程、平に御容赦頂きますよう……」

 

 もはやここは敵地も同然。一刻も早くイリニ邸へと戻らねば。乙女はこれを切欠とばかりに、宴席から抜け出すべく立ち上がる。だが――

 

「なっ!?」

 

 突如として視界がぼやけ、平衡感覚を失う。

 オルヒデアは咄嗟にテーブルに手を付いて転倒を免れようとするも、体が鉛のように重く、まるで言うことを効かない。

 

 酒精ではない何かが、脳を麻痺させている。

 気付いた時には既に遅く、必死に意識を保とうとするも、思考は千々に乱れ、暗黒の淵へと吸い込まれていく。

 

「――ぁ」

 

 全てが二重輪郭となった視界で、未だ憤怒の瞳をしたネロミロスが酷薄にほほ笑むのが見えた。

 乙女は酒杯と食器を巻き添えに、音を立てて床へと倒れ伏した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 昏倒したオルヒデアはスコトノ家の医務室へと運ばれ、診察を受けることになった。

 

 だが、医師は予め言い含められていた通りに軽い貧血だと診断すると、患者を残してそそくさと部屋から出て行く。

 そうして無機質なベッドに寝かされた乙女は――

 

「うう、ん……」

 

 瞼を開けると、乳白色の天井が見えた。

 霞がかった意識の中、オルヒデアは反射的に体を起こそうとするも、強い嘔気と眩暈に咽いでしまう。

 

「っ、けほっ」

 乙女は口元を抑えながら、それでも気力を振り絞って上体を起こした。

 

 寝台に敷かれた清潔なシーツと、乳白色の壁、そして鼻を突く医薬品の匂いが、此処が医務室であることを教えてくれる。

 そこまで思い至って、ようやく彼女は己の身に降りかかった出来事を思い出した。

 

「――っ!」

 

 咄嗟に周囲を見渡すオルヒデア。すると、

 

「ようやく目を覚ましたか。どこまでも鈍重な女だ」

 

 診察用の椅子に腰かけたネロミロスが、酒の入ったグラスを片手に乙女を睥睨していた。

 

「ぅ……」

 

 沸き起こる恐怖心から、乙女は思わずベッドの上で後ずさる。

 大男は女の反応に嗜虐的な笑みを浮かべると、グラスに残った酒を一息に飲み干す。

 

「あ、あなたは……」

 

 恐怖と混乱で取り乱しそうになる心を紙一重で抑え、乙女は冷静に状況を掴もうとする。

 

 それとなく着衣を調べるが、乱れはない。吐き気と気だるさを除けば身体にも異常はなく、どうやら最悪の事態は免れたらしい。

 だが、飲み物に何か薬物を盛られたのは確実であり、また状況から察するに、ネロミロスは最初から彼女を嵌めるつもりだったと考える他ない。

 

 そしてそこまで直接的な手段に訴えた以上、乙女をこのまま返すつもりはないだろう。

 

「あの役立たず共に助けを求めるなら無駄だ。お前が医務室から出てくるのを大人しく待っているだろうよ。まあ奴ら愚民とて、俺と事を構えるのがどういう意味かは弁えているからな」

 

 監視役や楽団員とどうにか接触できないかという乙女の思考を読んだように、ネロミロスがそう嘯く。

 イリニ家の人間たちは、患者の安静を理由に医務室から遠ざけられている。スコトノ家が責任を持つと断じたのでは、彼らもそれ以上強気に出ることはできない。

 

「このようなご無体をなさるなど、およそ人の上に立つ者の行いではありません」

 

 震える声でそう咎めつつ、オルヒデアは医務室のドアを注視する。なんとかこの部屋を抜け出して、助けを求めなければならない。

 

「ふん、何を言うかと思えば世迷言を。世を動かしているのは一握りの力ある人間だ。無能な雑魚共に何の権利がある。羊は皮を剥ぎ、肉を取るために飼われているのだ。市民を生かしているのは、我らの温情に過ぎん」

 

 そう嘲笑いながら、ネロミロスは椅子から立ち上がった。

 息が酒臭い。乙女がこん睡している間も飲んでいたのか、かなり酔いが回っている。もともと粗暴の気質はあっただろうが、酒でタガが外れかかっているらしい。

 

 大男の発する圧力に、乙女は思わず身を竦めた。

 まだ眩暈のする体調で、男を躱して扉まで走れるとは思えない。また大声を出すことも考えたが、防音と人払いは入念に済ませているだろう。

 

「先程も言いましたように、スコトノ家に御厄介になる気はありません。……そもそも私は楽人としての生き方に満足しています。再び戦場に立つつもりはありません」

 

 乙女は自らの至誠が通じるものと、一縷の望みを託してそう言葉を紡ぐ。

 だが、ネロミロスは返答替わりに哄笑を上げると、

 

「いいぞ。愚かさもここまで来ると、なかなかに愛い」

 

 そう言いながら、オルヒデアの座るベッドへとにじり寄る。

 

(ブラック)トリガーを担いながら虜囚となったお前に、戦士としての価値など見い出すと思っていたのか。俺が必要としているのはお前の(はら)だけだ」

 

 余りの暴言に、乙女は瞬刻の間我を失ってしまう。

 

 ネロミロスが求めていたのは、オルヒデアの稀有なトリオン能力であった。主家と諍いを起こすリスクを冒してもなおここまで強引な手段に出たのは、彼女の血を家系に組み込む為である。

 

「妾として飼うてやる。望み通り、戦場から離れて音曲と戯れる日々が送れるぞ」

「――い、嫌っ!」

 

 悍ましい貞操の危機に、オルヒデアは思わず悲鳴を上げる。

 その悲痛な声に興を削がれたのか、ネロミロスは立ち止まって鼻を鳴らすと、

 

「物分かりの悪い女だ。どの道お前が生きながらえようというのなら、俺に傅くほかは無いものを……」

 

 と、さも小馬鹿にしたように言う。

 

「それは、どういう……」

 

 怯えた子猫のようにベッドの隅で震える乙女に、大男は嫌らしく口辺を釣り上げ、

 

「お前がイリニ家で後生大事に飼われているのは、エクリシアの新たな神にするためだ。後何年かで、お前は(マザー)トリガーの生贄にされるのよ」

 

 と、禁断の言葉を口にする。

 

「――っ!」

 

 だが、オルヒデアは苦渋に満ちた表情を浮かべただけで、然程の動揺は見せなかった。

 

 明らかに通常の捕虜とは異なる厚遇から、半ば予測がついていたことである。

 ともすれば、フィリアやパイデイアが時折見せていた罪悪感の正体に合点がいき、彼女たちの苦悩に惻隠の情が湧いたほどだ。

 

「これで分かっただろう。あのノマスの穢れた小娘が、如何にお前を上手く騙していたかを。――イリニに居てはお前に未来はない。だが俺なら、お前が神とならぬよう手を廻すことも可能だ」

 

 ネロミロスは弄うように言葉を続ける。

 

 実際の所、オルヒデアが神の候補として選ばれるかどうかは未知数であり、これは露骨な誘導であり、恫喝であった。

 

 そもそも、この猛々しい青年貴族は女を気遣うという感覚をまるで持ち合わせていない。

 トリオン能力を血統に組み入れたいという望みは本物だが、仮にオルヒデアの能力を引き継いだ子供が生まれれば、用済みになった彼女を生贄に捧げるぐらいは平然と行うだろう。

 

 とはいえ、今ネロミロスの内にあるのは、オルヒデアの気品に溢れる美貌を、瑞々しい肉体を凌辱せんという欲望だけである

 

「俺の物になれ。それが賢明な選択だ」

 

 勝ち誇った笑みを浮かべ、男は乙女の身体へと手を伸ばす。

 

「お断りです。もしこれ以上無体をなさるなら、私は精一杯抵抗します」

 

 だが、乙女は欲望に塗れた手を跳ね除けるように、決然とそう言い放った

 先ほどまで恐怖に震えていたはずの細い身体に、清澄な決意と闘志が漲っている。

 

「――なんだと?」

 

 気勢を削がれた男を尻目に、オルヒデアはベッドから降りて力強く立ち上がった。

 そしてネロミロスに面と向かい合い、

 

「あなたがどれ程の武勇を誇り、高位高官にあるかは関係ありません。誰が命惜しさに、友人を侮辱した方へと傅きましょうか。人を侮るのもいい加減になさいませ!」

 

 凛然とした佇まいで、乙女がそう吠えた。

 その気高い姿と身に纏う気風は、武侠国家ポレミケスの姫君に相応しい力強さである。しかし、

 

「――くっ!」

「その強がりが何処まで持つか見ものだ。すぐに泣きながら許しを請わせてやる」

 

 乙女の清廉な決意は、却って大男の獣性に火を点ける結果となった。

 ネロミロスはオルヒデアの肩を鷲掴みにし、壁へと押し付けた。片手で乙女の顔を無理やり上向かせ、得物を喰らわんばかりに顔を近づける。

 

 その時、ぱしっと、乾いた音が響く。

 オルヒデアが平手でネロミロスの頬を張ったのだ。

 

「っ、この阿婆擦れが!」

「――あっ!」

 

 乙女は大男の太い腕に薙ぎ払われ、医務室の備品棚に衝突して倒れた。

 

 ネロミロスの顔貌が憤怒に赤黒く染まっている。痛みなどあろうはずがない。己が下等と断じた女に、顔を打たれたという屈辱に激怒しているのだ。

 

「雌犬如きがこともあろうにこの俺に手を上げるとは、万死に値するぞ!」

「……女を手籠めにしようとする卑劣漢に、何を遠慮いたしましょう。抵抗すると、申し上げたはずです」

 

 よろよろと立ち上がりながら、乙女はなおも闘志に満ちた瞳でネロミロスを睨む。

 その手には、備品棚から落下した大振りの鋏が握られていた。

 

「これ以上、私に触れることは許しません」

 

 そういってネロミロスに切っ先を向けるも、手は細かく震えている。猛り狂う大男と真っ向から対決する勇気はあれど、もとより暴力を苦手としている女性である。

 しかも相手は生身の身だ。トリオン体とは違い、もしもということがある。オルヒデアはこれほどの悪意を向けられてもなお、他者を傷つけることを恐れていた。

 

「はっ、虚勢を張るのはよせ。お前の臆病ぶりは俺の耳にも入っているぞ。どうした、手が震えているぞ。それで俺が刺せるのか?」

 

 フィリアが記したオルヒデアのレポートを、イリニ騎士団の幹部であるネロミロスは閲覧することができた。

 乙女の可憐な威嚇に、大男はひとまず怒りを鎮め、代わりに残虐な笑みを浮かべる。

 

「私もポレミケスの女です。武侠の国と呼ばれる所以を、知らぬとは言わせません」

 

 鋏を構えながら、乙女は横目で医務室のドアを確認する。錠を外し、何とか外に逃げ出すことができれば、この状況を切り抜けられるはずだ。

 主家の虜囚に手を付けようという、ただでさえ際どい橋を渡っているのだ。いかに粗暴なこの男でも、人前では狼藉を続けられまい。

 

(兄様、私に勇気をください……)

 

 脳裏に浮かぶは、故郷に一人残った愛する家族の顔。だが、

 

「武侠の国? 雑魚ばかりの弱小国家が、恥ずかしげもなく良く名乗れたものだ。――ああ、そうだ。あの小娘がお前に隠していたことがまだあったぞ」

 

 レポートに記された禁忌。

 

「お前の兄は、この俺が縊り殺してやった」

 

 絶対に告げてはいけないその事実を、ネロミロスは高らかに謳い上げた。

 

「――えっ?」

 

 間の抜けた声が、辺りに響いた。

 

「え、今、……なん、と?」

 

 オルヒデアから、一瞬にして覇気が消え失せた。

 端正な顔は青ざめ、瞳は動揺に揺れ動いている。耳にした言葉の意味が分からない。理解したくないと、本能が拒んでいる。

 

「あの二刀の剣士なら、俺が手ずから始末してやったわ。あの小娘も狡猾なものよ。懐柔に障りがあるからと、態とお前に知らせぬようにしていたのだからな」

 

 乙女の意気喪失した姿に、ネロミロスは企てが図に当たったとほくそ笑んだ。

 

「……う、うそ、嘘よ、そんな、嘘に決まっていますっ!」

 

 オルヒデアが取り乱したように大声を上げる。

 事実、彼女は混乱の極みにあった。

 只でさえ、野獣のような大男に暴力的に迫られるという窮地にあるのだ。その上、自らが寄る辺としていた唯一の肉親の死を、どうして受け入れられようか。

 

「分かったか。お前にはもはや帰る場所などないのだ」

 

 小生意気な女が狼狽する様に、ネロミロスの胸にどす黒い歓喜が湧き起こる。

 

 女を屈服せしめ、凌辱し、尊厳を奪う。

 悪い意味で男性的かつ貴族的な男は、ようやく理想通りの状況が整ったと感じると、思うままに欲望を滾らせ、乙女に襲い掛かった。だが、

 

「――痛ぁっ!?」

 

 オルヒデアを床に押し倒し、ドレスを荒々しく破いたネロミロスが、突如として苦悶の声を漏らして飛び下がった。

 床には紅い斑点が打たれている。見れば、大男の左頬が縦にざっくりと裂かれている。呆然自失としていたはずのオルヒデアが、鋏を振るって抵抗したのだ。

 

「貴様! よくもこの俺に……貴様あぁぁぁっ!」

 

 面を傷つけられた屈辱に、今度こそネロミロスが激昂した。

 言葉にならぬ呪詛を喚きたて、凶相の大男が女へと飛びかからんとする。しかし、

 

「――っ!」

 

 もはや事の前後を忘れ、乙女への狂猛な殺意に支配された筈のネロミロスが、ぴたりと足を止めた。

 

 その視線の先に、オルヒデアは端然と立っていた。

 裂けたドレスから覗く肌を隠しもせず、長く艶やかな黒髪は無残に乱れている。

 それでも尚、乙女から発せられる品格と気迫は、獣と化したネロミロスを押しとどめるほどの力があった。

 

「あなたのような臆病者に、兄が敗北する筈がありません」

 

 凛然とそう言い放つオルヒデアの瞳に、もはや動揺の色は微塵も残っていない。

 ネロミロスに押し倒されたその刹那、乙女は既に何もかもを諦めていた。

 

 だがその時、彼女の脳裏に浮かんだのは、このエクリシアで得た掛け替えのない友、フィリアの姿であった。

 

 あまりも聡明であったため、不器用にしか振る舞えない女の子。

 どこまでも優し過ぎるが故に、一人で抱え込むことばかりしてしまう、小さなお友達。

 

 兄の死について、あの少女が如何に苦しんだだろうかを、乙女はありありと思い浮かべることができた。

 もし願いが叶うなら、あの子の重荷を降ろしてやりたい。他ならぬ友人だからこそ、その罪を分かち合ってあげたい。

 

 他者への痛切な哀惜が、己の不幸を嘆く心を吹き飛す。

 そうして乙女は、強靭な意志を取り戻したのだ。

 

「私は誰のものにもなりません。下がりなさい下郎!」

 

 けれど、その切なる願いが叶うことはない。

 オルヒデアに面罵されたネロミロスは、最早人とも思えぬ形相で乙女へと躍りかかる。

 

(大好きですよ。フィリア様)

 

 自らの運命を悟った乙女は、春の木漏れ日のように穏やかな笑顔を浮かべると、胸中でそう呟いた。

 

 そして残された己の尊厳を護るため、手にした鋏を――

 

 

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