WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の十七 領解(りょうげ)違い

 軍用車両の荒々しい駆動音が、夜の静寂を打ち破る。

 聖都から西方に広がる大穀倉地は、古くからイリニ家とその郎党が治める所領として知られている。

 広大な農地を貫く道路に照明灯は疎らで、深夜ともなれば行き交う者も無く、凝り固まった闇が世界を覆い隠しているかのようだ。

 

 その夜の海を、眩い光芒が真っ二つに切り裂いて進んでいる。

 イリニ騎士団の紋章を付けた車両が、暴走とも呼べる速度で道路を疾駆しているのだ。

 

「もっと速く、急いでくださいッ!」

 

 車両の後席から、叱責にも似たフィリアの声が放たれる。

 

 理由も知らされぬまま少女に運転を命じられた従士の男は、恐懼に身を竦めながらハンドルを握る。事態がただ事ならぬのは、少女の鬼気迫る態度で明らかだ。しかし速度計はとうに振り切っており、運転手は事故を起こさぬよう運転するのに精一杯である。

 

「~~~~っ!」

 

 焦燥の余り、知らずと歯を噛みしめるフィリア。両ひざの上で揃えられた握り拳は、爪が食い込むほど硬く握りしめられている。

 法定速度違反の暴走もあって、目的地のスコトノ本邸まであと少しの所まで来ている。

 けれども、一向に少女の胸騒ぎは収まらない。

 

 イリニ家が所有する戦争捕虜、オルヒデア・アゾトンがスコトノ家の夜会へと呼ばれたことを知ったフィリアは、ともかく手を尽くして彼女とネロミロスの接触を阻もうとした。

 イリニ本邸に連絡を入れ、すぐさまオルヒデアを連れ戻すように指図をしたが、未だ彼女を保護したとの連絡はない。

 

 そして何より彼女に絶望感を与えたのは、スコトノ家の対応である。

 少女は真っ先にスコトノ家へと連絡を取り、今すぐオルヒデアをイリニ本邸へ返せと強談したのだが、応対した家令は不得要領な返事でこちらを惑わすばかり。

 

 何事かの企みを確信した少女は、もはや事態に一刻の猶予も無いことを悟った。

 

「…………」

 

 後部シートに座るフィリアは無言でトリガーを起動し、トリオン体へと換装した。

 

 夜会に軍服姿のトリオン体で押しかけるなど侮辱にも等しい非礼だが、そんなことを気に掛けている余裕はない。

 必要とあれば武力を行使することさえ覚悟の上だ。それが後にどんな面倒事を引き起こそうとも構わない。

 

 緩やかな丘陵を超えると視界が豁然と開け、城塞の如きスコトノ本邸が見えてきた。

 

 しかし、フィリアを乗せた車両は門前で足止めを喰らう事になった。予定に無い訪問客を守衛が通さなかったのである。

 フィリアはすぐさまイリニ家の名を出し、恫喝に近い調子で守衛に迫った。

 流石に主家の名前は絶大で、守衛は哀れを催すほどに狼狽した様子で家令へと連絡を取った。

 

 が、屋敷の中から応答がない。

 守衛が内線が繋がらぬことを言い訳にした途端、フィリアは車両から飛び出し、稲妻のような速度で屋敷へと走る。

 

 そうして少女は案内も請わず、スコトノ本邸へと踏み込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――な、なぜあの娘が何故ここに!?」

 

 スコトノ家の広壮な玄関ホールに、軍服姿の少女が立つ。

 

 帰り支度を始めていた招待客らは、一様に闖入者の姿に仰天した。

 スコトノ派閥には、イリニ家による現行の騎士団運営に不満を抱く者が少なくない。そんな彼らに最も嫌われているのが、件のフィリア・イリニなのである。

 身内だけで行われるスコトノ家の夜会に、この少女が呼ばれる訳がない。

 

 それだけでも甚だ不審であるのに、少女はあろうことか軍服姿のトリオン体という、晩餐会に有るまじき姿で押しかけたのだ。

 

「っ、騎士フィリア・イリニ! トリオン体で他家へと押しかけるなど無礼であろう!」

 

 もはや狼藉ともいえる少女の所業に、スコトノ家の郎党が声を上げて抗議する。

 

「下がれ慮外者! 私をイリニの娘と知っての放言かッ!」

 

 しかし、少女は轟然と一喝し、熾火のように炯々と輝く瞳で周囲を睥睨する。

 

 烈火の如き形相と、あたりを払う威風に、居合わせた者どもは揃って気を呑まれてしまった。普段は冷静沈着で通し、部下に対しても丁重な態度を崩さない少女が、明らかに激憤している。

 フィリアの異常な振る舞いに、帰り支度を始めていた招待客らが訝しげな視線を送る。

 

「誰か、誰かあるか! 当家の楽人オルヒデア・アゾトンは何処にいる」

 

 爆発寸前の感情を寸でのところで抑えて、少女が周囲へと問うた。

 

「……」

 

 だが、招待客は不審そうに顔を見合わせるばかり。

 

 一楽人の名前など、いちいち覚えている筈がないと言わんばかりの困惑ぶりである。目端の利く者は、演奏席で目立っていた黒髪の乙女の姿を思い浮かべたようだが、所詮はそれまでのこと。

 

 ホールに居るのはネロミロスに招かれた中小貴族ばかりである。重要機密である神の候補の情報に、触れられる者はいない。

 にも関わらず、明らかに動揺した者が数名。いずれも年若い男ばかりだ。

 この貴族の子弟たちはネロミロスに心酔すること特に厚く、彼の側仕えのようなことをしている者たちである。

 

 フィリアは彼らの一人に詰め寄ると、

 

「彼女を何処へやった。遅疑なく応えよッ!」

 

 峻烈極まる態度で詰問する。

 

「――――」

 

 フィリアの気迫に恐れをなしたのか、それともネロミロスへの忠誠心が上回ったのか、青年たちは少女の問いに黙して答えない。

 

 このままでは埒があかない。

 少女は青年たちの頬桁を殴りつけたい衝動を抑え込むと、サイドエフェクトでオルヒデアの居場所を探ろうとする。

 

「ふぃ、フィリア様。オルヒデア・アゾトンは医務室です」

 

 とその時、怯えた男の声が聞こえた。

 

 群衆をかき分けて出てきたのは、細面の神経質そうな中年男だ。

 その顔には見覚えがあった。イリニ本邸の使用人である。つまりは今晩の外出におけるオルヒデアの監視役だ。

 

「彼女はその、宴席の最中に貧血で倒れまして……」

 

 仕事を放棄した監視役に一瞥もくれず、フィリアは医務室へと向かうべく歩き出した。サイドエフェクトは既に道順を弾き出している。案内はいらない。

 

 すると、スコトノ家の郎党たちが行く手を阻もうと少女に纏わりつきだした。

 彼らを鬼の気迫だけで一蹴すると、少女はもはや居ても立ってもいられず、スコトノ邸の廊下を走りだした。

 

 そしてたどり着いた医務室は、スコトノ家の郎党によって厳重に封鎖がなされていた。

 部屋の前はおろか、そこに続く廊下にいたるまで見張りが立っている。

 

「――ッ!」

 

 絶望的な予感に身を震わせながら、しかしフィリアは立ち止まらなかった。

 

「……退け」

 

 手を尽くして押しとどめようとする郎党を、聞くだけで殺せるような声で押しのけ、少女は進む。

 尚も縋り付いてきた何人かは、トリオン体の力で躊躇なく床を舐めさせた。

 そして――

 

 開け放しとなった医務室の前で、少女は膝から崩れ落ちた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 白を基調にした簡素な部屋に、紅い色彩が咲いている。

 

 目も眩むような紅の中に、オルヒデア・アゾトンは横たわっていた。

 

 真珠のように輝いていた肌は、白蝋のように冷たい色をしている。

 

 床に渦を描く絹のような黒髪は、紅色と溶け合い不思議な色目をおりなしていた。

 

 そして、嘗て魔法のように楽器を扱い、フィリアを夢幻の世界へといざなった手。

 

 白魚のように美しくも、弛まぬ努力によって固くなってしまった指。

 

 少女に傷を刻み、そして優しく癒してくれたその指先は、ピクリとも動かなかった。

 

 それなのに、彼女は微笑みさえ浮かべて、まるで眠っているように穏やかで――

 

「…………」

 

 見開かれた金色の瞳が、オルヒデアの亡骸を映し続けている。

 

 喉元を染める鮮血。床に落ちた鋏。そして無残に引き裂かれた純白のドレス。

 フィリアのサイドエフェクトは、オルヒデアの身に起きた出来事を委細漏らさず明らかにしていた。

 

 けれども少女は呆然と腰を抜かしたまま、身動ぎ一つしない。

 慌てた様子の郎党たちは、ともかく少女を現場から引き離そうと、両脇を抱えて無理矢理引きずろうとする。

 

 視界から遠ざかっていく友の亡骸を、フィリアは何の表情も浮かべずに眺めていた。

 するとその時、遠雷のようにくぐもった男の声が聞こえてきた。

 

「――」

 

 廊下の彼方から断続的に聞こえる声は、不鮮明ながらもはっきりと怒気を孕んでいる。

 動物が音源を探るかのように、フィリアは機械的に首を動かした。

 

 そして少女は、廊下の彼方にその男の姿を見つける。

 獅子のように逆立つ金髪をした大男、ネロミロス・スコトノが、白衣を着た年配の男性の胸ぐらをつかみ、何事かを大声で喚いていた。

 

 彼自身も顔を負傷しているようで、侍女が怯えながらも流れる血を拭こうとしている。

 だがそんな侍女の献身さえ癇に障ったのか、大男が侍女を殴り倒すのが見えた。

 

 ネロミロスは混乱と激憤の渦中にあった。何せ主家が要する神の候補を、まったく無益に死なせてしまったのである。失態どころの話ではない。

 彼はオルヒデアへの呪詛を吐きながら、家付きの医師に何故助けられなかったかを詰問している。

 

 そもそも、彼はこのような事態に陥るなど少しも想定してはいなかった。

 神の候補とはいえ相手はただの捕虜、つまりは奴隷である。貴族が戯れに奴隷に手を付けることなど珍しくも無い。

 

 相手とて貴族の寵を得るまたとない機会なのだから、喜んで体を差し出すのが当然であった。よしんば拒んだとしても、逆らうことなどできはしないのだから、女は泣き寝入りするしかない。

 

 たとえ事が明るみになったとしても、所詮は実害のない話である。他家の奴隷に手を出したことは問題だが、それとて軽い注意で済む筈であった。

 それがまさか、オルヒデアが自ら命を絶つなどという、全く想定外の出来事が起こったのである。

 

 遠くに見えるネロミロスは、まだ大声で何かを叫んでいる。

 それは何とか乙女の死を事故に偽装しろという、まったく恥知らずな要求であったが、フィリアは内容など一切耳に入っていなかった。

 

 ただ、サイドエフェクトが示したことの顛末。その元凶を目の当たりにして、彼女の中で何かが千切れた。

 

「あ、あ、あああああああああああああっ!」

 

 喉奥から獣のような絶叫を迸らせ、少女が廊下を激走する。

 

 理性も分別もすべて頭から消え去ったフィリアは、ただ全身を支配する衝動に突き動かされ、ネロミロス目がけて突進する。

 疾風のような速度と身の毛もよだつ叫び声に、居並ぶ郎党は腰を抜かすばかり。

 

 異常に気付いたネロミロスが、驚愕した表情で迫りくる少女を見た。

 

 剣を抜くことさえ思い至らなかった少女だが、その身体はトリオン体である。拳一つ振るえば、男の顔面など一瞬で血煙に変わるだろう。

 生身のネロミロスに、抗する術など有りはしない。だが――

 

「――!」

 

 転瞬、フィリアの視界の半分が、突如として消失した。

 

 トリオン体を破壊できるのはトリオンによる攻撃のみ。何者かが、フィリアの半身を縦に切り裂いたのだ。

 

 一瞬の後、少女のトリオン体が黒煙を噴き上げて爆発する。

 立ち込める黒煙の中に、小さくなったフィリアがいた。トリオン体が破壊されたことで、トリガーに格納されていた生身の肉体が廊下へと現出したのだ。

 

「っう、あ、あああああっ!」

 

 それでも、少女の暴走は止まらない。

 

 フィリアは我が身に起こった出来事さえ認識できていないのか、雄叫びと共に再びネロミロスへと躍りかかった。

 

 トリオン体から生身への変化に感覚が切り替わっていないのか、少女は何もないところで足を縺れさせて転ぶ。

 彼女はすぐに立ちあがると、狂ったようにネロミロスへと挑みかかった。

 

 小柄な少女が大男に挑みかかる様は、滑稽を通り越して悲痛でさえあった。

 骨格も筋力も、何もかもが違い過ぎる。少女が必死になって攻撃を加えたところで、大男には何の痛痒も与えられないだろう。

 

 それすら分からないほどに、少女の心は絶望でどす黒く染まっていた。

 

 けれども、突如として少女の進撃は止まってしまう。

 何者かが背後からフィリアを抱きかかえ、身動きを封じたのだ。

 

「――はなせ、はなせっ! はなしてようっ!」

 

 少女は甲高い悲鳴を上げつつ、自らを拘束する腕に爪を立て、噛みつこうとする。

 腹と胸に回された腕は万力のように力強く、まったく振り解けない。少女は遮二無二後ろに手を伸ばすと、拘束者の髪の毛を毟り、耳を引っ張った。

 

 呼びかける痛切な声も、抱きしめる腕の優しさにも、少女はまるで気付かない。

 

「フィリア、落ち着くんだフィリア!」

 

 少女の暴走を止めたのは金髪碧眼の偉丈夫であった。

 

 イリニ家当主アルモニア・イリニが、悲痛な表情で姪を抱き留めているのだ。

 

 アルモニアがフィリアの暴走を知ったのは、彼女がイリニ騎士団を飛び出して直ぐのことだ。余りに突飛な少女の行動に戸惑った秘書が、ともかく教会へと直行し主人にその事実を伝えたのである。

 

 その後、アルモニアは全ての予定をキャンセルし、急いでフィリアの後を追った。事後の対応に追われ、少女に連絡できなかったことが今となっては悔やまれる。

 

 アルモニアがスコトノ家へ駆けつけた時、少女の異様な叫び声が聞こえた。

 そしてネロミロスに襲い掛かる彼女を「懲罰の杖(ポルフィルン)」で両断し、寸でのところで凶行を阻んだのである。

 

「っ……」

 

 アルモニアは精悍な顔を苦渋に歪め、なおも暴れ続ける少女を抱きしめ続ける。

 フィリアは駄々っ子のように手を振り回し、怒りと呪いの言葉を誰彼かまわず喚き散らしている。

 

 それはまさしく、癇癪を起した子供であった。

 過酷な貧民生活を生き抜くため、そして家族を護るために、早熟せざるを得なかった少女が、今初めて幼児のように感情を爆発させている。

 見るに堪えない、哀れを催すほどに悲痛な叫び声。

 

 いくら少女が暴れようと、アルモニアのトリオン体が傷つくことは無い。しかし、その胸の内には、身を切り刻むような自責の念が湧き起こっている。

 

 いつしか、少女の怒声に涙の色が混じり始める。

 訴える言葉を知らぬ嬰児のような泣き声が、長く尾を引いて屋敷中に響いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 スコトノ本邸で起きた騒動は、程なくエクリシア全土に知れ渡ることとなった。

 

 何しろ現場に居合わせた人間が多すぎた。スコトノ家の郎党はともかく、パーティーの招待客や使用人といった無関係な者の口を塞ぐには、あまりにも事件がセンセーショナルに過ぎた。

 

 死亡した奴隷の楽人がイリニ家の神の候補であったという事実は秘匿されたが、今となっては詮無い事である。

 

 民衆の間では、少女騎士フィリア・イリニに対する同情の声が圧倒的に高く上がった。

 奴隷の女を手籠めにしようとした挙句、死に至らしめたというネロミロスに非難が集まったのは当然のことだが、巷間に噂されたフィリアと被害者との友情譚も、この世論を大きく後押ししたらしい。

 

 だが、エクリシアを賑わせた騒動は思いもよらぬ展開を見せた。

 事件後、ネロミロスは捕虜を不当に虐待した廉で、アルモニアから強い譴責を受けた。

 罰則が不当に軽いように思えるが、これは法に則った順当な処分である。

 

 被害者オルヒデアの身分は奴隷であり、市民のように権利を有している訳ではない。また彼女の死因も自害であるため、ネロミロスにそこまでの罪を問うことはできなかった。

 加えて、多数の問題を抱えるとはいえネロミロスはイリニ家の柱石の一人である。これから警戒期に入ろうという時期に、スコトノ派閥の戦力を失う訳にはいかない。

 そうした政治的な向きからも、ネロミロスへの処分は寛大なものとなった。

 

 逆に、重罰を下されたのはフィリアである。

 

 彼女は他家に押し入り狼藉を働いたとして停職処分を下され、屋敷での謹慎が申し付けられることになった。

 少女への過酷な処分は、当主アルモニアの意向によるものだ。配下の家々や市民に対して、身贔屓を行わない厳格な為政者であることを示したのである。

 

 奴隷を死に追いやるより、貴族の家で狼藉を働く罪の方が重い。

 

 イリニ家の迅速で果断な裁きに、市民の事件への関心も次第に薄れていった。

 

 もうすぐ警戒期に入れば諸々忙しくなるため、市民もゴシップに現を抜かしていらなかったのだろう。

 不幸な奴隷の死は、直ぐにエクリシアから忘れられた。

 

 だが、その消せない事実に苦しみ続ける者がいる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「フィリア。少しでも構いません。何か口にしてください。サロスたちも心配しています」

 

 聖都にあるイリニ邸、そのフィリアの私室前。

 扉に向かって話しかけるのは、少女の家族のトリオン兵ヌースである。

 

 スコトノ本邸での騒動の後、フィリアはしばらく精神の平衡を失った状態にあった。

 事件を想起すれば瘧を起こしたかのように震えだし、所構わず泣き喚いたかと思えば、怒りを露わにして自傷行為に走り出す。

 

 アルモニアが謹慎処分を下したのは、彼女を人前に出さない為でもあった。少女の心は平穏を必要としていた。屋敷に収容したのは、彼女を少しでも安楽な環境に置きたいが故である。

 

「……食事を置いておきます。どうか、身体を大事にしてください」

 

 扉からはいくら経っても返事が返ってこない。

 食事を乗せたカートを部屋の前に置くと、ヌースはどこか悄然とした様子で廊下を去っていく。

 

「…………」

 

 その扉の向こう、照明の落とされた薄暗い部屋の中に少女の姿はあった。

 

 貴族の居室としては調度品の少なすぎる部屋。天蓋付きの豪奢なベッドの上で、フィリアは膝を抱えて座っている。

 

 食事は喉を通らず、胃液だけを吐き続けた頬はげっそりとこけ、ひと時の安眠さえ得られない毎日に、目元には深いくまができている。

 もう幾日風呂に入っていないのか、油の浮いた髪はぼさぼさに乱れ、顔色は死人のように悪い。

 

 アルモニアによって保護されたフィリアは、ともかく聖都のイリニ邸へと連れ帰られた。

 その後、少女はしばらく混乱状態が続き、しばしば錯乱を引き起こした。

 

 現在は何とか落ち着きを取り戻したが、今度は陰鬱とふさぎ込み、食事もとらずに部屋に引きこもっている。

 少女は誰とも口を利かず、アルモニアが手配した医師はおろか、パイデイアら家族の面会にさえ応じようとしない。

 

 家族を誰よりも愛し、心の拠り所としている少女が、何故彼らを顧みないのか。

 それは少女が、己が家族と触れ合う資格を失ってしまったと認識しているからに他ならない。

 

「…………」

 

 生気を感じさせない落ち窪んだ瞳で、フィリアは茫洋と扉を眺めた。

 食欲はまるでなく、また胃に物を入れたところですぐに吐き戻してしまうのだが、それでも一応は食事に手を付けようと少女は立ちあがる。

 

 すると視界の端、サイドテーブルの上に、瓶詰のポプリが見えた。

 

「~~~~ッ!」

 

 脳裏にオルヒデアとの思い出が鮮明に浮かび、少女は途端に口元を抑えてえずきだした。

 沸き起こる吐き気を抑えながら、部屋付きの洗面所へと駆け込み、胃液をぶちまける。

 最早何度目かも分からない嘔吐に、なけなしの理性と気力が持ち去られていく。

 

「っはぁはぁ……」

 

 洗面所の床に力なく座り込む。

 

 少女の心がここまで追い詰められてしまったのは、オルヒデアの死を通して、自らが成した罪科に気付いてしまったからだ。

 

 混乱から我を取り戻したフィリアは、当然のように友人に死をもたらしたネロミロスを激しく憎んだ。だが、その死の遠因を考えていくにつれ、少女は自らの身体が氷のように冷えていくのを感じた。

 

 ――オルヒデアの死は、すべてフィリアに責がある。

 

 彼女が惨死したのは、楽人になったからでも、少女と友誼を結んだからでも、エクリシアに捕らわれたからでもない。

 彼女の兄ロア・アゾトンが死んだとき、オルヒデアの死は確定した未来となったのだ。

 

 もし彼女がフィリアの攻撃を凌ぎ切り、ポレミケスに残ったとしても、兄の死を知った彼女は緩やかな死を選んだだろう。

 それは命よりも大切な家族を持つ、他ならぬフィリアだからこそ分かる。家族を失えば、フィリアとて生きていられる筈がない。オルヒデアが最後に尊厳を護ったのは、それ以外のすべてを失っていたからだ。

 

 ポレミケスへの侵攻を立案し、推し進めたのは紛れもないフィリアである。

 少女が運命に関わってしまったが故に、乙女は非業の死を遂げることになったのだ。

 

 そしてオルヒデアの死は、フィリアにもう一つの真実を突きつけた。

 すなわち、少女が引き起こした数々の死、その揺るがし難い罪咎である。

 

「うあっ、――ぐぷっ」

 

 遠征から帰って数日後、フィリアはバムスターやワムから取り出され、小山のように積まれたトリオン機関を見た。

 

 ――あの白いキューブの一つ一つに、人の命が宿っていたのだ。

 

 彼らはオルヒデアと同じく、少女にとって何の恨みも因果もない、それどころか戦う力さえ持たない人々であった。

 彼らにも幸福な人生があり、掛け替えのない家族がいたはずだ。

 彼らもオルヒデアと何ら変わらぬ、善き人々であったはずなのだ。

 

 それをフィリアは、何の思慮も巡らせることなく、まるで草を刈り集めるかのように無慈悲に奪った。

 

 己の成した罪科に慄然となった少女は、それきり何も考えられなくなった。

 ただ沸き起こるのは、血に塗れた己に対する深い嫌悪と、家族との縁に縋れなくなった絶望だけであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうしてどれ程の時間が流れただろうか。

 

 吐く物も吐きつくし、流す涙も尽きたフィリアは、洗面所へと座り込み、ただガラス玉のような瞳で茫漠と中空を眺めていた。

 

 栄養失調に不眠を重ねた脳は、まともに思考を結ばない。

 家族との絆も、教会の聖句も、彼女の心を救ってはくれなかった。

 夢と現が曖昧になった少女の脳裏には、今までの記憶が断片のように蘇る。

 

 それは彼女が受けた、痛みと屈辱の日々であった。

 

 ただ肌の色が違うというだけで手ひどく殴られ、口汚く罵られた。

 やがて人目につかぬことを学習し、鼠のように薄暗い路地をはいずり回るようになった。

 食べられそうな物ならなんでも口にした。空腹を紛らわせるため泥水を啜ったこともあった。

 そんなみすぼらしく、惨めで汚い少女に、記憶の中の誰しもは嫌悪の眼差しを送り、侮蔑の言葉を吐きかけていた。

 

 ――何故?

 

 その疑問の答えは、既に知っている。

 それはフィリアがノマスの血を引く、呪われた子供だからだ。

 

 生んでくれた母を喪い、育ての親まで病気にした。

 友人から最愛の家族を奪い、命まで捨てさせた。

 無辜の人間を数多く殺め、その上まだ屍の山を築こうとしている。

 少女は関わる者を不幸にし、死と破壊だけを振り撒いてきた。

 

「ああ、なんだ……」

 

 擦れた声が、乾いた唇から零れる。

 

「何を勘違いしてたんだろう。私は……」

 

 彼らは何も間違っていなかった。フィリアは呪われた、忌むべき人間だったのだ。

 だからこそ、少女は家族の為に尽くしてきた。

 少女を受け入れてくれた最愛の家族。その幸せだけを願って、今日までを生きてきた。

 

「私は……幸せになるべきじゃなかった」

 

 少女の喉奥から、くぐもった声が絞り出される。

 血が滲むような、乾いてひび割れた奇怪な声。

 

 段々と音量を増し、狭い洗面室を揺るがすそれは、少女の哄笑であった。

 

「私なんかが、何も貰っちゃいけなかった」

 

 黄金の瞳に、鈍く澱んだ光が灯る。

 

 少女は今、自分の進むべき道をはっきりと見出した。

 彼女が求めるものは、愛する家族の幸せな未来。

 それ以外は何もいらない。近界(ネイバーフッド)の全ては、その願いのために使い潰されるべきなのだ。

 

 家族に幸せな未来を齎すためには、世界を「こちら」と「あちら」に分けなければならない。そして、罪なき人々を傷つけた自分は、もう「こちら」側には居られない。

 

「私は、ただの剣になればよかったんだ」

 

 家族の未来を妨げる者は、全て斬る。もし己自身がその道に立ちはだかるのなら、それすら斬って捨てればいい。

 

 誤った悟道に達した少女は、顔を喜悦に歪め、何時までも高らかに笑い続けた。

 

 

 

                                    第四章へ続く

 

 

 

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