WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
教会の鐘楼へと延びる長い螺旋階段を、妙齢の貴婦人が息せき切らせて駆け上っていた。麦穂のように輝く金髪と、翡翠のように深緑の瞳をした彼女はパイデイア・イリニである。
神の候補として教会で保護を受けていた彼女は、しかしノマスの襲来の報に接すると、ともかく戦況を一目でも確認しようと思い立った。
安全な地下シェルターで、それも最愛の家族と過ごしていたにも関わらず、彼女が居ても立ってもいられなくなったのは、この聖都の防衛に愛娘フィリアが携わっているからに他ならない。
「きゃ! な、何、今の爆発は……」
塔の頂へと辿りつかんとしたその時、鼓膜を破らんばかりの轟音と、地の底が抜け落ちたかのような振動が立て続けに起こった。
手すりにしがみつき辛うじて転倒を免れたパイデイアは、不吉な予感に胸を締め上げられながらも最後の階段に足を掛ける。
果たしてそこに広がっていたのは、掛け値なしの地獄絵図であった。
「――っ!」
パイデイアが言葉にならない悲鳴を上げてよろめく。
丘の上に立つ教会から見下ろせば、聖都の全てが一望できる。しかし、最早聖都は彼女の知る姿ではなくなっていた。
丘の中腹にある筈の騎士団の砦が、見るも無残な瓦礫の山と化している。
教会へと避難しようとしていた群衆が攻撃に巻き込まれたのだろうか。吹き付ける強風に紛れて、怒号と悲鳴が聞こえてくる。
余りの惨状に視線を遠方へと逸らすも、そこに広がっているのも別の地獄だ。
おそらくはノマスの爆撃によるものだろう。優麗典雅な聖都の街並みは、もはや見る影もなく荒廃している。あちこちから火の手が上がり、まだシェルターに避難できていない多くの市民たちが、街路を当てもなく逃げ惑っている。
さらに目を凝らして遠くを見れば、地平のように大地に線を引くそれ、聖都を囲む長大な城壁の所々が、まるで断線したかのように途切れていた。
エクリシアの市民が全幅の信頼を置いていた鉄壁の城壁が、無残にも破られたのである。
既にトリオン兵は大挙して市内に侵入しているらしい。
何故ここまで早く城壁が破られたのか、騎士団はノマスを撃退できるのか。そもそも敵は遠方の戦場に現れるのではなかったのか。
背筋が凍るような恐怖と共に、諸々の想念がパイデイアの頭に沸き起こる。それは生物として、命の危機に瀕した者として当然の反応と言えた。
しかし、パイデイアは顔色を蒼白にしたまま、口元を真一文字に引き締めた。
彼女は母親である。今考えることは、子供たちの安全のみ。
まずは情報を得なければ何の指針も立てられない。騎士団の指揮所は確認するまでも無く機能停止しているだろう。この場合、指揮権は教会を護る聖堂衛兵団に移っている筈。彼らから詳しい状況を聞かねばならない。
意を決したパイデイアは、鐘楼を降りるために踵を返した。すると、
「敵の狙いは
戦場と化した聖都の空気とはまるで不釣り合いな、爽然とした声が響いた。
パイデイアの前に立っていたのは、澄み渡る蒼穹を思わせる髪と瞳をした、十二、三歳ぐらいの少年である。
「エルピス、猊下……」
「や、久しぶりだね。パイデイアさん」
驚愕するパイデイアに、少年アヴリオ・エルピスは晴れやかに話しかける。
このエクリシアで最高の地位である教皇にして、国宝の
「フィリアさんもアルモニア君も、今のところは無事みたい」
まるでパイデイアの胸中を見透かしていたかのように、アヴリオが説明する。
「敵は速攻戦の構えだと思う。多分、隔離戦場からうちの主力部隊が戻ってくるまでには撤退するんじゃないかな。まあ、それまで持つかどうかだけどね」
穏やかな表情のまま、アヴリオはまるで他人事のようにそう言葉を続ける。
先代の神の弟君にして齢数百を数えるこの男は、これほどの惨劇を前にしてさえ一切の動揺を面に顕さない。
怪物のような少年の精神性に、パイデイアは知らずと間に後ずさる。だが、
「どっちにせよ、この教会が激戦地になるのは間違いない。今ならまだお子さんを逃がすこともできるよ」
そうパイデイアに提案したアヴリオの顔には、確かな哀切の念があった。
この少年は長きにわたるその生に於いて、
「逃げるなら早い方がいい。北の方はまだそこまで敵のトリオン兵が侵入していないらしいから、シェルターに逃げ込めれば此処より安全だと思う」
アヴリオはそう言って胸壁の上へと登った。そして、
「どうか、誰しもにせめてもの救いがありますように」
誰ともなしにそう呟くと、少年は鐘楼から真っ逆さまに飛び降りた。
パイデイアは驚愕して塔の下を見下ろすと、小さくなった青色の頭が、何の問題も無かったかのように教会へと入っていく。
彼女は知らぬことだが、戦況の不利を我が目で確かめたアヴリオは、いよいよ自らも戦場に赴くことを決意した。地下に座する専用の鎧「
そして残されたパイデイアも、階段を滑り落ちるような速度で駆けおり、テロスたちの待つ地下階へと急いだ。
途中で通り抜けた大聖堂は、避難してきた市民で溢れかえっていた。
武威の象徴であった騎士団の砦が破壊された事実は、続々とやってくる避難民によって知らされたらしい。となれば、絶対安全と思われていたこの教会も怪しい。恐怖に駆られた避難民は聖堂衛兵に詰め寄り、埒も無い問答を繰り広げている。
このままでは避難民たちが恐慌状態に陥るのもそう遠くない。
パイデイアは速やかに子供たちを避難させるべきだと、胸の内で決断した。
教会の有する戦力は精鋭なれども、その数は少ない。堅牢な教会に拠って戦うとはいえ、押し寄せるトリオン兵を撃退できるという保証はない。
その上、抱え込んだ避難民は恐懼の余りヒステリーを起こしかけている。下手をすれば防戦中に内側から崩れるかもしれない。そうなれば、教会に籠る人間は皆殺しにされるだろう。
パイデイアは一般人立ち入り禁止の昇降機に飛び込むと、一目散に地下階を目指す。
教皇アヴリオの言うことが確かなら、今ならまだ家族を落ち延びさせることも可能だ。
敵の目的はこの教会の深部にある
「母さんっ、どこ行ってたんだよ!」
地下に着くや、愛息サロスが息せき切らせてパイデイアの下へと駆け寄ってきた。傍らには妹のアネシス、弟のイダニコの姿もある。
地下に居た彼らも、聖都を取り巻く不穏な空気は察しているのだろう。一様に不安な表情を浮かべていたが、それでも気丈に母を見据えている。
そんな息子たちを呼び集めると、パイデイアは彼らを確と抱きしめた。
「ノマスの、敵の国のトリオン兵が教会を目指してそこまで来ているの。ここはもうすぐ戦場になるわ」
「なっ――なら、俺がみんなを護るよっ!」
母の切迫した声に、サロスがいち早く反応した。彼だけではない。アネシスとイダニコも、己ができることをすると口々に応え、母を支えようとしている。
「……っ」
パイデイアは沸き起こる感情に胸を詰まらせ、子供たちを痛いほどに強く抱擁する。
「ううん。それよりも此処から逃げないといけないの。……兵隊さんたちの、戦う邪魔になるからね」
彼女はそう嘘を付き、子供たちの表情を眺める。皆恐怖を感じつつも、母の言うことをはっきりと理解しているらしい。
「教会の通用口から出て、北へ向かって丘を降りていくのよ。詳しい場所はヌースに伝えておくから、言う事をしっかり聞いてね」
パイデイアがそう言うと、イダニコが肩から下げていた鞄から、自律トリオン兵ヌースが出てきた。彼女はパイデイアから外の詳しい状況と、今後のプランを簡潔に伝えられる。
「……分かりました。必ず、この子たちを護ります」
「頼れるのはあなただけなの。お願いね、ヌース」
ヌースが抑揚のない、しかし普段よりも重々しい声で承知する。パイデイアはそっと手を伸してヌースのボディを撫で、この古い友人に感謝の念を伝える。
「あれ、ちょっと待って、母さんはどうするの?」
母とヌースが交わした会話の違和感の理由に思い当ったのだろう。娘のアネシスが、不安な声でそう言った。
パイデイアは一言たりとも、子供たちと同道すると口にしていない。
「私は、教会に残らなくちゃいけないの」
「そんなっ!」
母の告白に、子供たちが悲痛な叫び声を上げる。
血よりも濃い絆で結ばれた家族である。逃げる時は皆一緒だろうと、彼らがそう思い込むのも当然だ。
子供たちは血相を変え、母にその理由を問う。
「大丈夫。私は大丈夫だから……」
けれど、パイデイアは子供たちの質問には答えず、ただ彼らを元気づけるのみ。
彼女が教会に残る理由。否、残らねばならない理由。それは彼女の桁外れのトリオン能力にある。
トリオン兵の中には、対象のトリオン能力を検知し、追跡する機能を持つ物がいる。
パイデイアが有する稀有なトリオン機関は、必ずやそれらのトリオン兵を誘蛾灯のように引きつけることになるだろう。シェルターまで彼女が付き添えば、道中の危険度が跳ね上がることは確実と言えた。
幸か不幸か、子供たちのトリオン機関は並以下の出力しか持ち合わせていない。息を潜めて慎重に動けば、敵の探知を免れることは十分に可能だろう。
神の候補としての立場も、貴族の子女としての肩書も関係ない。
彼女は母であるがゆえに、ここで子供たちと別れねばならなかった。
「お母さん、僕嫌だよッ!」
末の弟イダニコが、涙で双頬を濡らしながら痛切な声でそう訴える。
彼だけではない。サロスもアネシスもパイデイアに縋り付き、一緒に逃げようと泣訴している。
そして彼らは、それができないなら自分たちも教会に残るとまで言い出した。
何者にも絶ちがたい親子の情。しかしパイデイアは子供たちの訴えを退け、毅然と教会から脱出することを言い付けた。
「母さん……」
「大丈夫。もし本当に危なくなったら、私も逃げちゃうから。それに、ご当主様や――フィリアも、頑張って戦ってくれている筈よ。私たちが危なくなれば、きっと助けに来てくれるわ」
そう言って、パイデイアは不安気な子供たちの頭を優しく撫で、勇気づける。
「パイデイア、ではまた、後で」
「うん。子供たちをお願いね。ヌース」
自律型トリオン兵は相変わらず平坦な、しかし切実な思いを宿した声で旧友に語りかける。
パイデイアはヌースに供給索を出すよう頼むと、選別とばかりに膨大なトリオンを提供した。ヌースには非常用として幾らかトリオン兵の卵を搭載している。有事となれば、それらを孵化させて手勢として操ることができる。
また子供たちにも緊急用のトリガーは持たせてある。武装は持たないが、トリオン体になるだけで生存率は格段に上がるだろう。
シェルターまで向かうのはそう難しくないはずだ。
「お母さん、絶対にまた会えるよね」
気丈に涙を堪えながら、イダニコがそう尋ねる。パイデイアは慈母の微笑みを浮かべ、
「勿論よ。今まで母さんが嘘をついたことがあった?」
と言って、子供たちと再会の約束を交わす。
そうして何とか聞き分けた子供たちは、ヌースに連れられて教会を後にした。
残ったパイデイアは一つ深呼吸をすると、意識を切り替える。
これから先は、己が生き延びることを考えねばならない。家族の為なら、彼女は武器を手にし、戦場に立つことも覚悟できる。
博愛の心では、降りかかる火の粉を払うことはできない。母として幸福な十余年を過ごした彼女は最早、理想に殉じて死ぬことは許されない。
「レギナ……ごめんね。でも、できることは全部しなきゃいけいの。私は、あの子たちの親だから」
ふと、パイデイアの脳裏に在りし日の親友の姿が浮かぶ。
彼女は懊悩を胸に秘めたまま、教会の防衛に加わるべく走り出した。
× × ×
市街地を疾風のように駆け抜ける敵集団を捕捉した時、ネロミロス・スコトノは知らずと間に凄絶な笑みを浮かべていた。
頼みとする城壁が飴細工のように溶かされ、イルガー特攻によって騎士団の本拠地たる砦も破壊されるという未曽有の危機にありながら、それでもこの狂猛な騎士の闘志は萎えることを知らない。
ノマスの目標は
これらの情報は――ネロミロスにとっては甚だ業腹なことながら――イリニ騎士団の騎士フィリアによって、聖都防衛軍の全部隊に伝えられていた。
聖都に侵入した敵部隊は、トリオン兵をばら撒いて惑乱を行いつつ、一路教会を目指している。北部はフィロドクス騎士団総長クレヴォが指揮を執っている御蔭で、城壁が崩落したにも関わらず、未だ市街地への敵の侵攻を許していない。
教会へ攻めかかる敵部隊は三つ。
そのうちの一隊をネロミロスが見つけたのは、まったくの僥倖であった。
城壁が崩落し、イルガーの爆撃によって防衛部隊は算を乱した。戦力を結集させようにも、指揮所は沈黙している。そんな折に入ったのがフィリアの通信だ。
ネロミロスはその知らせに接するや否や、即座に聖都の上空へと飛び上がり、敵の主力を探し求めた。
本来ならば、ネロミロスは部下の従士たちを取りまとめねばならない立場ではあったが、それより敵の侵攻を挫くのが先決との判断を下したのだ。
とはいえ、ネロミロスには下心もあった。
ノマスが投入したトリオン兵の数は膨大だが、教会を攻め落とすためのトリガー使いは少数のはずだ。これは遠征を仕掛けた側が避けられないハンデである。勿論、敵のトリガー使いは手練れ揃いだろうが、それ故にどれも値千金の首級だ。
ネロミロスはもともと名誉欲の極めて強い男である。
聖都防衛に回されたときは切歯扼腕したものだが、現状それが幸いした。
騎士の殆どは隔離戦場にあり、聖都に駆けつけるまではどう頑張っても数時間はかかる。功名を立てるなら今をおいて他にはない。
「
そしてまたネロミロスは、その目論見が自惚れにならぬ程の武勇を有していた。
そうして彼が見つけたのが、レクス率いる部隊であったのだ。
「ノマスの賊共よ。よくも分際を弁えず我が国を汚してくれたな。もはや許さん。ここが貴様らの墓場と知れ!」
荒れ果てた街路へと降り立ったネロミロスが、剣と大盾を構えて吼える。
敵のトリガー使いは四名。取り巻きのトリオン兵が厄介だが、やれぬ数ではない。猛き騎士は裂帛の気合と共に、騎乗したトリガー使いへと斬りかかる。だが、
「っ、臆したかっ!」
レクスたちは見事な馬術で散開して攻撃を躱すと、猛然と進軍を再開した。まるでネロミロスの存在など眼中に無いかのような振る舞いである。
当然、大兵の騎士は憤激してその後を追う。
ネロミロスの追撃を阻むべく襲い掛かったのは、護衛のトリオン兵たちだ。
ヴルフ・ホニンは尾部のブレードを振り回し、ヴルフ・レイグはトリオン弾を乱射する。
見事な連携によって四方から浴びせかけられる攻撃は、練達のトリガー使いであっても容易には回避できない密度である。機械仕掛けで動いているとは思えないその動作は、トリオン兵の精強さで知られるノマスの面目躍如といったところか。
が、エクリシアのトリガー技術も負けてはいない。
通常のトリオン体なら一溜まりもなく破壊される攻撃を、ネロミロスの纏う「
と同時に振るわれたネロミロスの長剣が、狼型トリオン兵数体を両断する。
堅牢な鎧には微かな跡が付いているだけで、機能には何の問題も無い。
「――ぬっ!」
ただ唯一効果があったのは、ヴルフ・ベシリアが放った粘着弾だ。敵の行動を阻害するための弾丸に、装甲の硬軟は関係ない。
堅牢無比なエクリシアの鎧といえども、この武器は十全に効果を発揮する。
しかし、ネロミロスが幸運であったのは、彼が大盾トリガー「
放たれた粘着弾をネロミロスは反射的に大盾で防御した。盾にへばりついた鳥もち状のトリオン弾を見て、すぐさまその効果を解した大男は、舌打ちと共に弾丸の届かない上空へと飛翔する。
「雑魚に構っていられるか」
そう吐き捨てながら、騎士は猛然とスラスターを噴かして先行するレクスたちを追う。
いくら騎乗用トリオン兵ボースが優秀だとしても、空を飛ぶ騎士から逃れることはできない。ノマスの兵団を追い越したネロミロスは、またしても彼らの眼前に立ちふさがるように地に降り立つ。
「鼠賊どもが、逃げられると思うなよ」
憤然と恫喝する大兵の騎士を前に、然しものノマスの精兵たちも足を止める。その時、
「面倒だ。此処で打ち殺しておくか」
と、そう呟いたのは先頭を駆るレクスだ。彼は吼える犬を見るかのような厭わしい目で、立ちはだかる騎士を見遣る。
その蔑みの視線に、気位の高いネロミロスが反応しない訳がない。
「――死ね」
激昂したネロミロスは、レクスたちへ突撃を仕掛けた。大盾を前面に構え、長剣を振りかざし、鎧の質量と機動力を最大限に利用したシールドチャージである。
生半な攻撃では盾を貫くことなどできはすまい。哀れな敵は盾で押しつぶされるか、たとえ耐えたとしても、振り下ろされる長剣に両断されるしかない。
数多の戦士を屠ってきた、ネロミロスが誇る必勝の攻撃である。だが、
「な――」
大盾を構えた騎士がレクスへとぶち当たるその刹那。稲妻が直近に落ちたかのような凄まじい轟音が響いた。
と同時に、突進を仕掛けたはずの騎士の体躯が、進行方向と真逆に弾き飛ばされる。
街路の舗装を削り取りながら、ネロミロスは建物の壁に激突してめり込んだ。
「ば、馬鹿な……」
塵煙が立ち込める中、瓦礫の山より体を起こしたネロミロスは慄然とした声で呟く。
交錯の刹那、果たして何が起きたのか。
事実は余りにも単純であった。騎士の大盾が触れようとした瞬間、レクスは拳で大盾を殴りつけたのだ。
ただそれだけで、重量と速度に勝る筈のネロミロスは、まるでボールを弾き返されたかのように彼方へと吹き飛ばされたのである。
体感しても尚、俄かには信じがたい出来事であった。しかし、彼の手にある大盾は、取っ手を残して完全に砕け散ってしまっている。ノーマルトリガーではおよそ破壊不可能とされる「
「耐えたか。やはり以前よりも格段に性能が増しているらしいな」
ボースに騎乗したまま、白髪金瞳の壮漢が冷然と言葉を紡ぐ。
遅まきながらに、ネロミロスは己の失策を理解した。
この不条理極まる事態を引き起こした原因について、心当たりは一つしかない。
ノマスが有する
その能力は、規格外の性能を持つトリオン体を作り出すことだ。
「
「
およそ近接格闘に於いては最強を誇るトリガーであり、その脅威についてはエクリシアの騎士ならば誰もが知っている。
単身では決して挑んではならない難敵に行き当ってしまった事実に、倨傲なネロミロスも流石に色を失う。
もはや一も二も無く離脱するより手はない。幸いにして、「
「く、くそっ!」
飛翔しようとしたネロミロスに襲い掛かったのは、二足歩行の新型トリオン兵クリズリだ。その数は二体。周りにはヴルフの群れも迫りつつある。
まるで騎士が強引に逃げようとするのを見越したかのように、クリズリの一体はスラスターを猛然と噴かせて飛び上がり、ネロミロスの頭上から襲い掛かる。
地上のクリズリと連携した凄まじい攻撃。降り注ぐトリオン弾の間隙を縫って、鋭利なブレードが襲い来る。
特に、地上のクリズリが振るうブレードは厄介だ。トリオン弾なら余程の事が無い限り「
「舐めるなああっ!」
だがそれでも、ネロミロスは騎士であった。たとえ激昂していたとしても、身に着けた武芸には一点の曇りも無い。その剣は極めて迅速に動いた。
ネロミロスは首筋を狙った斬撃を掻い潜ると、ブレードの基部、クリズリの肩から生えた長腕の一本を斬り飛ばした。次なる一手を失ったクリズリの懐に飛び込み、長剣「
いくら頑強なクリズリといえども、「
まずは一体。騎士は己の技量を確かめ、萎えかけた闘志を昂ぶらせる。しかし、次の瞬間、
「がっ――なんだとっ!」
ネロミロスが苦悶の声を上げる。
頭上に陣取っていたもう一体のクリズリが凄まじい勢いで急降下し、四本の腕と巨体を以て騎士を地に組み伏せたのだ。
必死にもがいて抵抗するが、ビクともしない。クリズリは桁外れの膂力に加え、背面のスラスターを噴かせることで、騎士を押しつぶさんばかりに圧迫している。
間合いを潰され、長剣を振るうこともできない。混乱の余り、ネロミロスの頭からは一時、全ての思考が失せた。
とす、と奇妙な音を耳にしたのはその時だ。
クリズリの巨体に阻まれ、視界も何もあった物ではないネロミロスには、その音の意味するところを理解することができなかった。
異変は急速に顕れた。
突如として、ネロミロスの右脚が動かなくなったのだ。クリズリに抑えられているからではない。それどころか、右脚はクリズリの圧迫から逃れた部位である。それが、まるでトリオン体の伝達系が切断されたかのように、感覚そのものが消え去っているのだ。
まるで氷と化したかのような己の下腿部。そこから冷気がせり上がってくるかのように、上腿部が動かなくなり、そして氷の冷たさは腰部にまで及ぶ。
首から下が動かなくなるまで、数秒しかかからなかった。
もはや拘束の必要もなくなったと見たのか、クリズリがのそりと立ち上がる。
辛うじて自由の効く首を動かして、ネロミロスは己の右脚に突き刺さっている漆黒の杭を目の当たりにした。
鎧の中で、傲岸不遜の騎士が驚愕に目を見開く。
ノマスが有する
その機能はあらゆるトリオン製の器物の支配だ。小枝にも似た漆黒の杭を打ち立てられたが最後。機械、トリガー、トリオン兵、トリオン体に至るまで、トリオンでできた全ての物の操縦権が、この小さな杭に奪われることとなる。
彼の纏う「
のみならず、鎧の下のトリオン体にまでその支配は及んでいることだろう。
何時の間にあらわれたのか、顔面を蒼白にするネロミロスを見下ろすようにして女が立っていた。
女はその場に屈みこみ、何の気負いもなく甲冑に手を触れる。途端に「
「き、貴様、俺をどうするつもりだ!」
露わになったネロミロスは憤怒の表情で女に喰ってかかる。もはや形勢を逆転する術などないが、虚勢を張ることで最後の意地を通すつもりなのだろう。
だが、女は男の歪んだ顔見るや、侮蔑も露わに一つ舌打ちを溢す。
彼女にとってはあくまで念のための確認である。発せられる声は明らかに男のものだったが、万に一つもこの鎧の中に探し求める少女がいないとも限らない。
予想通りの結果と分かると、女は背後を振り返り、
「打ち殺すよりは、ケダモノ同士食い合わせた方がよろしいかと」
柔らかな顔立ちに似合わぬ程に酷薄な目をした女、シビッラ氏族のモナカは憎悪の滲む声でそう言った。
「許す。擾乱程度には使えるだろう」
モナカの後方、騎乗したままのレクスが泰然と答える。
「ふざけるなっ! ――や、やめろっ! 貴様には戦士の誇りは無いのか!」
恐慌を来たしたネロミロスが泡を飛ばして叫ぶ。この期に及んで、彼の頭にあるのは名誉のことだけだ。まだ戦死なら構わない。
「あら、あなたのような狂った獣が、まともに死ねると思って?」
モナカは嘲弄するかのようにそう謳うと、支配の最期の工程を執り行う。
「があああああああっ!」
葉脈のような漆黒の線が、ネロミロスの顔面と甲冑の兜を覆い尽くした。大男が絶叫を喉から迸らせる。
本来、「
「他人の苦痛は碌に解さない輩でしょうに、自分の痛みにはしっかり反応するのね」
叫び続けるネロミロスの顔が、閉じた兜によって覆い隠される。外部音声出力もオフにした。彼は人型の棺桶となった「
「さて、このまま教会にでも突撃させましょうか」
操り人形となった騎士を前にしてモナカが呟く。エクリシアの「
「少し時間をかけすぎたな。後続の部隊が迫っている」
と、レクスが街路の彼方を見据えながらそう言う。
戦況は上空を飛ぶトリオン兵バドから、全ての戦士にリアルタイムで伝えられている。
どうやらエクリシア勢はノマスの狙いに気付いたようで、市街を襲うトリオン兵は捨て置き、進行する襲撃部隊を優先目標に定めたらしい。
ネロミロスの処理にかまけていた間に、騎士に率いられた敵の一団がレクスたちを猛追してきていた。
「レグルス。兵団三個を率いて敵の足止めをしろ。モナカ、
これ以上敵に足止めされる訳にはいかない。
レクスは実子レグルスにトリオン兵の群れを分け与え、遅滞戦闘を行うように命じた。捨て駒として鹵獲した騎士も用いる。敵の動揺を誘えれば儲けものだ。
「はい。必ずや任を果たします」
押し寄せる敵軍を相手に時間稼ぎを行うのは、これが初陣となる少年には過酷極まる役割である。しかし、生真面目な少年は固い面持ちのまま、凛とした声で答えた。
他の三人は
「間違っても捕まるんじゃねえぞ。捕虜を奪還する予定なんてないんだからな」
激戦に赴く少年に、ユウェネスが忠告の言葉を投げかけた。口調は軽くとも、彼の総身からは真摯な態度がありありと伝わってくる。
「分かってますよ。ユウェネスさんこそ、仕事をする前に流れ弾に当たらないでくださいね」
「こいつ……そんだけ生意気言うならちゃんと帰ってこいよ。時間厳守だからな」
「はい。了解しました」
そう言って、レグルスはボースの背を叩き、馬首を返した。
背後に付き従うのは三体のクリズリと百を超そうかというヴルフの群れ。そして幽鬼のように歩みを進める「
一同は散開し、それぞれ再び進軍を始めた。タイムリミットまではまだ遠い。戦は始まったばかりである。