WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
どこをどう歩いたのか、何も覚えていない。
数えきれないほどの命の輝きで満たされていた聖都は、今や死と破壊の暗黒に塗れ、怨嗟と悲嘆に溢れかえっていた。
争いは終わることなく続いている。
遠く近くから聞こえる殺し合いの音。吸い込む空気は肺を焼かんばかりに熱く、塵埃によって何度もむせ返ってしまう。
けれど、そんなことは彼女にとって、もう何の関係も無かった。
地獄が顕現したかのような聖都に、小さな少女の姿がある。
白髪金瞳の少女フィリア・イリニは、荒れ果てた地面を何とか踏み分けながら、夢遊病患者のような力ない足取りで街路を歩いていた。
少女の身体は調整されたトリオン体ではなく、年齢そのままの姿である。教会にて母パイデイアが残した
ただ、彼女にその自覚があるかどうかは怪しい。
少女の黄金色の瞳は茫洋として焦点を結ばず、表情からは人形のように感情が抜け落ちている。
「たのまれたから……母さんに……」
ぼそりと、フィリアの口から独り言が漏れる。
少女はもはや正気ではなかった。母が目の前で命を落としたという事実を、彼女は受け止めることができずにいた。
「みんなの……所に、行かないと……」
パイデイアが最期に願った、家族と共にいてほしいという言葉。それだけを支えにして、少女は崩壊寸前の心を辛うじて縫い止めていた。
「わたしが、かんばらないと……がんばって……がんばって、それで?」
難しいことを考えると、頭が痛くなる。
少女はうんうんと首を振って唸ると、何はともかく細い足を前へと出す。
弟妹たちのいる場所は、サイドエフェクトが教えてくれた。
何か、色々な物が彼女を邪魔した気もするが、手の中にあったトリガーを使えば、みんな静かになった。
何故、こんなトリガーを持っているのだろうか?
その疑問が浮かぶと頭がひび割れるように痛むので、フィリアはこのことを考えないようにした。
とぼとぼと、頼りない足取りで廃墟を進む。
途中、奇妙な振動が聖都を包んだ。そしてどんよりと空を覆っていた雲が晴れ、夕焼け空が姿を現した。
その現象はノマスの兵団がエクリシアから撤退したことを意味するのだが、忘我のフィリアは終ぞ気付かなかった。
そうしてどれほど歩いたか。少女は懐かしい貧民街へと辿りついていた。
家族と共に半生を過ごした街。弟妹たちはきっとこの近くにいると、直感が訴えている。
記憶にあるそのままの街並みを、少女は何者かに誘われるように辿って行く。
大通りから脇道に入り、いつもの小道を右に曲がって暫く進むと、あの暖かで希望に溢れた我が家がある。
「いま、かえったよ」
思い出のままの我が家にたどり着いた少女は、立て付けの悪い木戸を小さな手で叩く。
けれども返事はなく、扉は固く閉ざされたままだ。
きっとまだ誰も帰っていないのだろう。いったい何処をほっつき歩いているのやら。日が暮れるまでは家に帰るようにと、あれほど言いつけているのに。
少女の頭は、もはや事象を正しく認識することさえ怪しくなっていた。
今、彼女は思い出の中にいた。
辛いことも、苦しいことも、嫌なことも全部、その扉の向こうでは意味を失う。
弟妹たちがいつもはしゃいで騒いで、ヌースが御小言をいって、そしてその側では、母が笑顔で座っている。
愛と喜びに溢れた、この世で最も美しい世界。
けれど、そこへ続く扉は開かない。鍵を取り出そうとして、持っていないことに気付く。
あれほど大事にしていた鍵が、何故無いのだろう。肌身離さず持っていたはずなのに。
困り果てたフィリアは、外出しているだろう家族を探しに再び歩き出した。
足元に転がっている何か――赤黒い肉の塊――のことは、気に留めることさえなかった。
「ヌース、ヌース。どこにいるの?」
童女のような声で呼ばわりながら、フィリアは石造りの街をさ迷い歩く。
いつも彼女たちを見守り、慈しんでくれた家族。きっと彼女に聞けば、すべては解決するはずだ。
でも、ヌースの姿は一向に見付からない。
きっと弟たちに頼み込まれて、一緒に遊んでいるのだろう。いつもそうなんだ。厳しいようでいて、結局家族にはどこまでも甘く優しいんだから。
そうしてフィリアは凄まじい破壊の痕跡が残る大通りへと出た。
倒壊した建物も、地面に散らばるトリオン兵の残骸も、少女にとっては何の意味も持たない。直感に導かれるまま、漠然と荒れ果てた道を進む。
そうして、ようやく彼女は探し求めていた家族に出会った。
サロス、アネシス、イダニコは揃って地面に寝転がっていた。
「もう、こんなところで、なにしてるの?」
昼寝でもしているのだろうか。気持ちいいのは分かるけど、服が汚れてしまうし、危ないから駄目だといっているのに。
フィリアは地に伏せる弟妹たちの下へと歩み寄り、順々にその肩を揺する。
「おきて、もうおうちにかえらないと。ばんごはんのじかんだよ」
喉から出た声は、からからに擦れていて、まるで嗄れた老婆のようだった。
「……ねえ、起きて……みんな……寝ちゃったら、駄目、だよ……」
声が震える。涙の色が混じる。
三人の胸に広がる深紅の色。その衝撃が、少女を夢から覚ましていた。
トリオン機関を取り出された弟妹たちは、もう何も話してはくれなかった。
もはやすべては手遅れだった。取り戻せるものなど何一つ残ってはいなかった。
フィリアはようやく気付いた。
世界は、取り返しが付かないほどに壊れてしまったのだと。
× × ×
コンソールの淡い光に照らされた室内。ドミヌス氏族が所有する遠征艇の戦闘指揮所には、エクリシアから帰還を遂げた戦士らが一堂に会していた。
「皆、ご苦労だった」
投影モニター付きのテーブルに居並ぶ男女の内、最奥に座るレクスが威厳に満ちた声で一同を労った。
ノマスの遠征部隊は既に人員の収容を終え、現在祖国へと帰還している最中である。
遠征にはノマスの主だった氏族の殆どが参加したが、幸か不幸か、聖都の奥深くまで進攻したドミヌス氏族以外の部隊は、エクリシアの防衛部隊に早々に撃破されてしまったため、人的損害を殆ど出さずに撤退することができた。
「ユウェネスの傷はどうなんだ?」
そう切り出したのは、今遠征の副官を務めるアーエル氏族のマラキアだ。
彼は隔離戦場に誘導された兵の指揮を執っていたため、聖都攻略には参加していない。
「……容態は安定しました。ノマスに戻り次第、医療施設に搬送します」
質問に応えたのはモナカだ。彼女とレグルスは負傷したユウェネスを連れ、聖都の中心地から決死の逃亡を行った。そして遠征艇にたどり着いてからは、彼女は一睡もせずにユウェネスの治療に当たっていた。
「私たちは作戦を成功に導くことができませんでした……申し訳ありません」
疲労しきった顔で、モナカは力なく謝罪の言葉を口にする。
だが、一座の誰も彼女を責めることはしなかった。
「責があるとするならば皆がそうだ」
レクスが諭すようにそう言う。
そもそも成功の可能性が低い作戦であったのだ。生きて帰れただけで御の字である。
「あの巨神は一体なんだったんでしょう。あれさえなければ、きっとユウェネスさんたちは
さも悔しそうに呟くのは、最年少の戦士レグルスだ。
彼が言うのは、教会の奥から現れたエクリシアの秘密兵器「
戦闘に不向きとはいえ、ノマスが誇る二本の
一時は
のみならず、巨神は聖都の上空へと飛翔するや、市内に展開するノマスのトリオン兵を箒で塵を掃くかのように破壊していった。その圧倒的な殲滅力は、
「彼の国の奥の手だろう。見ることができたのは僥倖だった。次に備えることができる」
冷厳にそう言い放ったのは、ルーペス氏族のカルクスだ。
同じく潜入部隊のカルボーは、撤退時に手傷を負ったため休んでいる。
奇襲作戦で命を落としたテララの亡骸は、とうとう回収することができなかった。
「良く戦ってくれた諸君。残念ながらエクリシアの命脈を絶つことは叶わなかったが、それでも深手を負わせることはできた。此度の遠征は、決して我が方の敗北ではない」
レクスはそう言って、今一度ノマスの戦士たちに声を掛ける。
遠征の主目標である
「彼の国のトリオン資源は半減したはずだ。次代の神は矮小なものとなろう。向こう数百年に及ぶ災禍の芽を、我らは摘むことができたのだ」
ノマスの掲げた副目標。それはエクリシアの有望なトリオン能力者を、片端から殺していくというものであった。
このため、ノマスはトリガー使いからなる
彼らは混乱に乗じて、軍属民間人を問わず、優れたトリオン能力の持ち主を次々に殺害していった。
別けても、神の候補となる人間は最大の標的であった。
神の代替わりを控えるという時期に、ノマスとエクリシアの軌道が重なったのは、最早天佑である。
事前にその情報を察知したノマス遠征部隊は、仮に
結果として、その計画は見事に図に当たった。
神の候補として使えるような人間は殆ど全滅したはずである。のみならず、トリオン能力に優れた人間も数多く排除できた。これほどの被害を受ければ、今後の遠征にも支障をきたすだろう。
広大な国土を維持できなくなれば、当然ながらエクリシアは国力を大きく減ずることになる。以後も続くであろうノマスとエクリシアの戦争で、この事がどれほどの益になるかは計り知れない。
「国に帰るまで、暫し身体を休めておけ。まだ、戦は終わった訳ではない」
ブリーフィングが一息つくと、レクスは列席者に向けてそう言い放った。
「やはり、エクリシアは反撃を行うとお考えですか」
と、レグルスは神妙な面持ちで父に問いかける。
エクリシアとの邂逅にあたって、ノマスは戦争を二段階に分けて計画を立てていた。
すなわち、エクリシアへの侵攻と、エクリシアからの自国の防衛である。
しかし、今回の侵攻はかなりの戦果を挙げることができた。彼の国は手痛いダメージを受けたはずである。その傷を押してまで、コストのかかる遠征を行うだろうか。
「必ずエクリシアは来る。我らはそれに備えねばならぬ。――敵は傷を負った獣だ。死に物狂いで襲い掛かってくるだろう。決して気を緩めてはならない」
その疑問に対して、レクスは断固たる口調で答えた。
どちらかが死に絶えるまで、決して戦いは終わらない。凄惨な歴史がそう教えている。
× × ×
山の稜線に沈みつつある太陽は、晴れ渡ったエクリシアの空を茜色に染め上げていた。
聖都の中央、小高い丘の上に位置する教会も、夕日に照らされていた。
全ての市民が心に描く壮麗な教会は、しかし尖塔はへし折れ、壁という壁には無残な傷が走り、大門は焼け落ちるという、惨憺たる姿を晒していた。
ノマスの遠征艇がエクリシアを離れてしばらく経った頃。
聖都の上空を飛び回っていた巨大な人影が、教会の前に設けられた防御陣地の一画に降り立った。
二十メートルを超える巨大な甲冑は、エクリシアの守護神「
残敵の反応が完全に消え去ったのを確認し、巨神は再び神の御坐を護るために教会へと戻ってきたのである。
「おお、猊下よ。我らをお救い下さり、言葉も御座いませぬ」
巨神の眼前に並び、膝を付いて出迎えたのは、枢機卿ステマ・プロゴロスを初めとした教会の幹部たちだ。
彼らは教会防衛戦の折り、地下深くのシェルターに避難していたため命を長らえることができた。防衛部隊、市民に出た死傷者の数を考えれば惰弱の誹りを受けかねないが、国政を差配する重鎮たちであることを考えれば、それも仕方のないことだろう。
「もう医療部隊を動かしても大丈夫なはずだよ。市民たちには出来る限りの事をしてあげてほしい」
とその時、聳え立つ巨神の胸部ハッチが開き、中から空色の髪と瞳をした少年が現われた。
彼はエクリシア教皇アヴリオ・エルピス。
「…………」
アヴリオはハッチの上に立ったまま、眼下に広がる聖都の惨状を無言で眺めていた。数百年にも及ぶ長き生の中、ただひたすらに祖国に尽くしてきた彼は、この光景を如何な思いで受け止めているのだろうか。
「教会の警護はもういいよ。ごめんね、時間を取らせちゃって」
暫しの間黄昏に佇んでいた少年は、視線を足元へと向けると、そこに立つ金髪の偉丈夫に声を掛けた。
「いえ、危局に馳せ参じることができず、申し開きもありません」
応えたのは、イリニ騎士団総長アルモニア・イリニである。
アヴリオの出撃と入れ違いに教会へと駆けつけた彼は、そのまま防衛部隊を再編し、市内のトリオン兵が駆逐されるまで教会の守備に就いていた。
「君たちも市民の救出に向かってほしい。一人でも多くの命が救われるように、全力を尽くしてください」
「はい」
教皇の命に首肯して応えると、アルモニアは手勢を連れて教会を後にした。
そんな彼の姿を見送りながら、アヴリオは再び荒廃した世界に目を向ける。
彼が愛してやまなかった命の輝きは、もうどこにも見出すことはできなかった。
× × ×
教会を離れたアルモニアは、隔離戦場から駆けつけたイリニ騎士団の兵と合流し、救助部隊を再編した。
そして他の騎士団と連携して、速やかに救助活動を開始する。
しかし、総長たるアルモニアは直接現場に赴く訳にはいかず、仮の指揮所で部隊の指揮を執ることになった。
聖都全域に散らばった兵士たちが、市民の救助を行う。すると、次第にエクリシアが受けた被害が明らかになってきた。
次々と上がってくる報告は、指揮所に詰める者たちの顔色を失わせるに十分なモノであった。
死人の数が、尋常ではない。
聖都まで侵攻を許してしまったことで、市民たちに多大な被害が出ただろうことは誰しも覚悟していた。
しかし、実際に判明した死者数は、現時点で既に予想を遥かに超えている。
防衛部隊の報告から、どうやらノマスは惑乱に用いたトリオン兵の他に、レーダー対策を施したトリオン兵を多数聖都に放っていたらしい。
それらが何と、市民たちを見境なしに殺し回っていたと言うのだ。
「……」
然しものアルモニアも、渋面を隠すことはできなかった。
その不文律を、ノマスは完全に破った。
ただ、アルモニアにそれを責める資格はなかっただろう。十余年前の戦争では、エクリシアの方がノマスに同じことをしたのだから。
「……ともかく、負傷者の救助が優先だ。遺体は捨て置いても構わない。一人でも多くを助けるんだ」
アルモニアは務めて平静な様子でオペレーターに指示を下す。
責任者が狼狽を見せれば、下々の者にも動揺が広まってしまう。
救助活動は、ある意味では戦闘よりも過酷な作業だ。迅速に、円滑に、そして辛抱強く救助を進めていかなければならない。
暗澹たる報告ばかりが届き、指揮所の空気は鉛のように重い。それでも、彼らは人々を助けようと懸命に動き続けていた。
そうして暫くの時間が過ぎた頃、
「総長! 騎士フィリアが見つかったとのことですっ!」
オペレーターの一人がそう叫んだ。
「――っ! ……そうか。生死は?」
アルモニアは驚愕に目を見開き、そして一拍の内に動揺を押し殺すと、厳粛な声でオペレーターに問うた。
彼の家族は、今まで誰一人として安否が判明していなかった。
だが、責任ある立場の者として私心に駆られる訳にはいかず、捜索を優先させることはできなかったのだ。
「無事です。トリオン体も維持しており、負傷した様子はないとのことです」
その報告に、アルモニアは謹厳な面持ちで頷いた。
内心では腰が抜けるほどの安堵を覚え、今すぐにでも指揮所を飛び出したい思いに駆られたのだが、懸命にその情動を押しとどめ、おくびにも出さないように振る舞う。
「その、しかし、騎士フィリアは確かに無事なのですが……」
「――なに?」
だが、困惑した面持ちで報告を続けようとするオペレーターに、不吉な気配を感じ取ったアルモニアは思わず眉を顰めて問い返した。
× × ×
時が止まったかのような静寂の中、少女の口ずさむ歌が紅の世界に解けて消えていく。
それは、母が子を寝かしつけるための子守唄。幾度となく耳にした、遠い記憶の中の歌。
聖都の北部、貧民街の外れに位置するその場所に、フィリア・イリニの姿はあった。
瓦礫の散乱する古い道路は西日を浴びて血の色に染まっており、その中心に座して歌う少女は、まるで一幅の絵画のような美しさであった。
「……」
そんな彼女を遠巻きに囲んでいるのは、市民の救助に当たっている騎士団の兵たちだ。しかし、彼らは要救助者と思しき少女を前にして、困惑した様子で立ち尽くすばかり。
「……済まない。通してくれ」
そんな兵たちを退かせたのは、アルモニア・イリニだ。
彼はフィリアの異常な様子を耳にするや、部下に指揮を預けて現場へと急行した。
「な――危険です総長っ!」
座り込むフィリアへ近寄ろうとしたアルモニアを、兵の一人が慌てて制止する。
フィリアを保護しようとして、既に数名の兵がトリオン体を失っていた。
正気を失ったと思しき少女は、周囲に近づく者を無差別に攻撃しているのだ。
しかも、攻撃手段はまるで不明。少女に近づいただけで瞬時にトリオン体が破壊されるため、兵たちも彼女を保護することができないでいた。
「構わない。行かせてくれ」
しかし、アルモニアは決然とそう言って、少女へ歩みを進めていく。と次の瞬間、
「――っ!」
爆音と共に、アルモニアのトリオン体が四散した。
だがそれでも彼は引くことなく、歌を口ずさむ少女の背に向け、暖かな言葉を掛ける。
「フィリア。迎えに来たよ」
その言葉が通じたのか、フィリアは首を逸らして伯父の姿を眺め見る。
「ご当主、様……?」
きょとんとしたその表情は、まるで年端もいかぬ童女のようで――如何に今までの少女が歪な日々を歩んでいたのかを、アルモニアは思い知らされることになった。
「怪我はないか? よく無事でいてくれた」
優しくそう語りかけながらも、彼は少女の痛ましい姿に思わず目を背けそうになった。
フィリアの膝元には、三人の子供たちが横たわっていた。
サロス、アネシス、イダニコ。彼女の弟妹たちは、まるで春の花園で昼寝でもしているかのように、仲良く並んで眠っている。
フィリアは彼らの頭を膝の上に乗せ、髪を手で梳いてやりながら、子守唄を聞かせていたのである。
「みんな……みんな……死んで、いなくなって……」
茫とした眼差しのまま、少女が譫言のように呟く。今にも泣き出しそうに顔を歪め、それでも一滴の涙も流れない。総身を苛む哀しみと絶望を、吐き出すことさえできないかのように。
「――っ!」
思わず、アルモニアは駆けだしていた。
周囲を囲む兵らが息を呑む。生身となった彼が再び攻撃を受ければ、待ち受けているのは確実な死だ。
けれども、少女は彼を拒むことはなかった。
アルモニアはフィリアの小さな身体を抱きしめ、その顔に頬を寄せる。
「でもお前は生きている。生きていてくれたんだ……」
激情を押し殺した声で、彼は少女に言葉を紡ぐ。
この地獄と化した戦場で、誰も彼もが生死の境をさまよって、それでもなお、少女の命は此処に脈打っている。
全てを取りこぼしたかに思えた。だが、残されたものはあった。
痛いほどの力強い抱擁に、フィリアは困惑したように伯父の横顔を見遣る。
「……帰ろうフィリア。みんなを連れて」
アルモニアが熱を帯びた声でそう囁く。けれど、
「帰る……どこに、帰ればいいの?」
フィリアは茫然としてそう呟いた。
もう世界は壊れてしまったのに、一体どこに行けばいいのか。
少女は訳も分からぬまま、己を抱きしめ続ける男をぼんやりと眺めていた。
第五章へ続く