WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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第五章 「あちら」の話
其の一 幕間 ノマスの覚悟 前篇


 薫風吹き抜ける緑の園。穏やかな日差しに包まれた芝生敷きの広間に、嬰児の泣き声が響き渡る。

 力一杯に声を張り上げているのは、珠のように滑らかな褐色の肌をした、まだ髪の毛も生えそろわない赤子である。

 

 何がそんなに気に障ったのか、わんわんと大声で泣き続ける赤子。

 その姿は、草木が萌えいずるような瑞々しい生命力に満ち溢れていた。

 そして、赤子の泣き声に重なるように、優しい歌声が緑の園に響く。

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 穏やかな声で紡がれる歌が、初夏の陽だまりに溶けていく。

 いつしか赤子の泣き声は止み、広場は小さな小さな寝息と、それを慈しみ見守る人々の歓喜の吐息で包まれていた。

 火のついたように泣き喚いていた赤子は、にゃむにゃむと寝言を呟きながら、夢の世界に遊んでいる。

 

 まるでこの世に奇跡が有る事を証明するかのような、無垢で愛らしい赤子の姿。

 善美の象徴たる赤子を前にすれば、誰しもが頬を緩め、暖かな気持ちに包まれることだろう。しかし、

 

「眠ったのか? もう、大丈夫だろうか……」

 

 赤子を目の前にして、そう不安気に呟く男がいる。

 恐る恐るといった風に赤子に近づいてきたのは、麦穂のような金髪と、翡翠のように輝く瞳をした端正な若者だ。

 彼は産着にくるまれた褐色の赤子をおっかなびっくり覗き込み、安らかな寝息を立てている姿に心底安堵する。

 

「もう兄さん! 撫でる時は力を入れちゃダメって言ってるでしょ! 剣ばっかり握ってるから加減ができないのよ。そんなんじゃ、何時までたってもフィリアに泣かれるばっかりよ」

 

 と、青年を小声で叱責するのは、彼と同じ金髪翠眼をしたうら若き女性だ。齢の頃は二十に届くかどうか。青年とは、どうやら兄妹であるらしい。

 黄金のように煌めく長髪をなびかせた女性は、狼狽える青年を尻目に、寝入った赤子に飽くことなく慈愛の眼差しを送っている。

 

「い、いや、ちゃんと加減はしたんだぞ。なるべく優しく触ったつもりだったんだが……」

「ふーん、そう。じゃあなんでこの子は兄さんの抱っこの時だけ泣くのかしら?」

 

 たじろいだ様子で言い訳を並べる青年に、しかし金髪の女性は非難がましい視線を送るのみ。とその時、

 

「――ふふっ!」

 

 そんな二人の様子が面白かったのか、噴き出すような笑い声がする。

 

「アルは人に触るの下手っぴだからね。変に力みすぎたり、くすぐったかったり。ごついなりして気にしぃなのよ。お~よしよし、ぶきっちょなパパで大変でちゅね~」

 

 そう言って幼子に語りかけるのは、ゆったりとしたワンピースを着た二十歳そこそこの女性である。

 艶やかに輝く褐色の肌は健康的そのもので、深雪のように白く繊細な髪はざっくりと結い上げられており、見るからに活動的な雰囲気を発している。

 顔立ちは誰しもが目を見張るほど優美であり、また挙措動作からは、高貴な出自を窺わせる気品が漂っている。

 

 ただ、その黄金で拵えたかのような瞳は、まるであどけない少女のように輝いていた。

 白い歯を覗かせ茶目っ気たっぷりにほほ笑む姿は、初夏の日差しに負けぬ程に眩く、鈴を転がすような愛らしい声は、聴く者すべてを明るく元気づける。

 

 遠い異国。草原の国ノマスからやってきた女性は、太陽のように明るく暖かな心を、すこしも損なわずにソコにいた。

 

「……この子は多分、アルがいっぱい悩んで、苦しんでるのが分かるんじゃないかな。だから、お父さんの分まで泣いちゃうんだと思う。それでちょっとでも、アルの気が楽になってくれるように、って」

 

 膝の上に抱いた幼子を愛おしむように撫で、白髪金瞳の女性はそっと呟く。

 そうして寝入った我が子を、彼女は慈愛に満ちた表情で見守る。

 

「何時かこの子が、泣かずに済む日は来るのかな……」

 

 その表情に一抹の不安を感じ取ったのか、金髪翠眼の女性が切なげにそう呟く。

 赤子とその母親は、極めて危うい立場にある。この世の全ての幸福に満たされたかのような光景は、しかしいつ崩れるとも知れない薄氷の上に成り立っている。

 彼女の呟きは、一向に晴れない前途を案じてのものだ。しかし、

 

「来るよ。――ううん、私たちで、この子を連れていかないと」

 

 我が子を腕に抱く母は、力強い声で断言する。

 愛娘の待ち受ける未来を、必ず輝かしく優しいものに変えてみせる。それは彼女ならずとも、親となった誰もが抱く願いだろう。

 

「でも、やっぱり不安だよ。今がこんなに幸せだと、いつか壊れてしまうんじゃないかって思って……」

 

 晴れやかな宣言を聞いても、金髪の乙女の面持ちは未だ曇ったままだ。そんな彼女に、

 

「だいじょーぶだって。見たまえこの子の愛らしさを! まずはアルのお父様を落として、それから私の家族を籠絡しちゃえばいいんだよ。一度抱っこさせちゃえばきっと皆メロメロだよ。――なんせ、この堅物ぶきっちょのアルを骨抜きにしたんだから」

 

 銀髪の母は朗らかに笑ってそう言う。

 その邪気の無い笑顔に、金髪の乙女も釣られて笑い出す。

 引き合いに出された青年は一人ばつが悪そうに頬を掻いていたが、やがて女性二人の笑い声が収まると、愛する妻と子に寄り添うように芝生へと腰を下ろした。

 

「ああ――約束する。お前とこの子を、きっと幸せにしてみせる。必ずだ」

 

 そう言って、青年は妻の肩に腕を回し、力強く抱きよせた。

 愛する夫の不器用な、それでも真摯な告白に、妻は一層笑顔を輝かせると、

 

「うん――頼りにしてるよ、旦那さま!」

 

 と、この世の全てを寿ぐようにそう言った。そして――

 

「勿論、あなたも一緒だよ」

 

 彼女は我が子を抱いたまま、すっと手を差し延ばす。

 細い指先が撫でたのは、彼女たちの歓談を眺め続けていた撮影者だ。

 

「私たち家族をこれからもよろしくね! ヌース」

 

 ノマスの姫君レギナはそう言って、満面の笑みを浮かべる。

 うららかな初夏の陽光に包まれ、家族は優しい時間を過ごした。

 何者にも侵せない澄明な幸せが、確かにそこには存在していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 投影モニターとコンソールの薄明かりに照らされた室内。

 さして広くも無い部屋には様々な機械が詰め込まれ、息苦しいほどの狭さとなっている。

 

 固い面持ちで椅子に座っているのは、栗毛の編み込みを下げた褐色肌の女性だ。

 年齢は三十を少し過ぎたほど。柔らかな面立ちにも関わらず、発している雰囲気は神経質そうで、どこかガラスのような危うさがある。

 

 彼女は狩猟国家ノマスの技術顧問、シビッラ氏族のモナカだ。

 勤務服の上に白衣を纏ったモナカは、気遣わしげな様子で背後を振り返る。

 彼女個人の執務室には、もう一人の人物がいた。

 

「見せたいものというのはこれか? 時間を無駄にするな」

 

 彼女の背後に腕組みをして立っていたのは、四十ほどの年頃と見える白髪金瞳の偉丈夫だ。冷厳な瞳でモナカを見遣るのは、ドミヌス氏族ケレベルの子レクス。

 ここ狩猟国家ノマスにて、最大の権勢を誇る大氏族の長である。

 

「必要なのはエクリシアのトリガー、トリオン兵、戦術、それら諸々の情報だ。関係のない映像記録など、検めている暇はない」

 

 にべもなくそう言って、レクスは視線を投影モニターの奥へと投げかける。

 

 トリオン製の機械に囲まれた台座の上に、人の頭ほどの大きさをした白い物体が鎮座していた。涙滴型の胴体に、魚の尾びれを思わせる突起を付けたそれは、ノマスが先の遠征時、エクリシアから鹵獲した自律型多目的トリオン兵ヌースである。

 

 プログラムに従って破壊活動を行うだけの通常のトリオン兵とは異なり、自律型トリオン兵は、自ら思考し、判断し、言葉を発することができる。

 しかし、何本ものケーブルに繋がれたヌースは、まるで置物のように身動きひとつせず、意思を表明することもない。

 これは活動に必要なトリオンが、彼女に供給されていないからだ。

 

 ヌースはノマス本国に連れ去られるや、即座に全機能を停止させられ、モナカによって機構を解析されていた。

 不世出の天才科学者レギナによって造られたヌースは、ノマスがやっとのことで開発にこぎ着けた自律型トリオン兵を遥かに上回る性能を有している。

 またそれだけではなく、ヌースはエクリシアの重要な軍事機密を多数保存しており、それらデータの抽出と解析が急ピッチで進められていた。

 

 ノマスの指導者たるレクスは、その進捗状況を聴くためにモナカの執務室まで足を運んでいた。しかしそこで彼が見せられたのは、遠い過去の映像記憶であった。

 

「ですが、このトリオン兵はレギナの事を知っているんです。私たちから奪われてしまったあの子の、それからの日々を……」

 

 十余年前、エクリシアによって拉致されたノマスの姫君レギナ。レクスの妹に当たり、モナカにとっては無二の親友であった彼女。

 ヌースの映像記憶の中には、彼女が彼の国で如何に生き、そしてどのような最期を遂げたのかが、克明に記録されていた。

 モナカは彼女の兄であるレクスに、その詳細を伝えようとしたのだ。だが、

 

「アレは死んだ。死んだ人間に囚われつづけることは許されない。我々には国を護る使命がある」

 

 レクスは諄々と諭すような調子で、モナカにそう告げる。

 つい先日、ノマスはエクリシアに空前絶後の規模の攻撃を仕掛け、そして彼の国に未曽有の大損害を与えることに成功した。

 

 しかし、エクリシアがこのまま泣き寝入りをすることなど考えられない。必ずや兵馬を揃え、ノマスに逆襲を行うことだろう。

 来たる敵襲に備え、ノマスでは昼夜をおかずに防衛戦の準備が進められている。

 モナカに与えられた任務は、速やかなる敵戦力の究明だ。故人の面影を偲んでいる時間など、どこにもありはしない。

 

「防衛はかねてより練られていた計画通りに行う。お前に与えられた仕事はこれだけではない。急ぎ情報を取りまとめよ」

 

 レクスは峻厳な面持ちでそう命じると、執務室の扉を開けて退出した。

 部屋に残されたモナカは逡巡した後、作業を進めようとコンソールに手を伸ばし、そして何度も視聴した親友の映像記録を再生する。

 

「……私は、間違っていたの?」

 

 唇を噛みしめながら、モナカは暗い部屋で独りごちる。

 

 親友を連れ戻すため、そして彼女を辱めた連中に報いを受けさせるために、モナカはこの十余年余りの年月を憎悪と憤怒に塗り固めてきた。

 元は何の学識も無い侍女だった彼女が、艱難辛苦を乗り越えノマスの技術開発室チーフにまで上り詰めることができたのは、その胸にエクリシアへの怒りが滾っていたからだ。

 しかし記録の中にあるレギナの姿は、復讐に血道を上げてきたモナカを困惑させるに十分なものだった。

 

 酷烈なる責苦を受けたはずの親友は、何者をも怨んではいなかった。

 彼女はモナカが知る天真爛漫な心根のままに、誰も彼もに幸福が有らんことを願い、そして愛する我が子と世界の為に、鮮烈なる生を送ったのである。

 

「どうすればいいの。どうすれば、よかったのよ……」

 

 レギナは尊い志を貫いて生きた。それはモナカが愛してやまなかった、親友の有り方そのものである。

 けれども、己はどうか。失ったモノを取り戻そうと死に物狂いで足掻き、そして今、彼女は果たして親友に顔向けできる自分であるのだろうか。

 

 薄暗い執務室に、陰鬱なため息が溶ける。

 暫くの間、モナカは声も上げずに映像記録を眺めていた。しかし、やがて彼女は緩慢な動きで、己に課せられた責務に取り掛かる。

 レクスの言った通り、これは過去の記憶に過ぎない。何度見直したところで、これから先の未来は変わらない。

 

 レギナの祈りは届かなかった。世界は依然、残酷なままだ。

 虚無感に心を苛まれながら、モナカはただコンソールを操作し続けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 惑星国家ノマスは、国土のほぼ全域を広大な草原が占める緑の星だ。

 

 近界(ネイバーフッド)の他国と比して広い国土を持つノマスだが、年間を通して降水量は少なく、土地が肥沃とは言い難い。条件の良い場所では畑作も行われているが、国民の口を満たしているのは主に牧畜である。

 食糧事情に余裕が無いことから、ノマスは国土面積に比べて総人口はやや少ない。人的資源トリオンが何を差し置いても求められる近界(ネイバーフッド)では、不利な国家形態と言えるだろう。

 

 しかし、ノマスの民はそれぞれの血族が共同体を作り、固い紐帯で結ばれている。のみならず、彼らはノマスという国家そのものに強い帰属意識を抱いており、他国にありがちな、権力を巡って血なまぐさい内部抗争を起こすことが殆ど無い。

 全ては部族間の協議によって決められ、また一度決まったことに対しては、家族が助け合うように、全ての部族が力を尽くして事に当たる。

 

 食糧生産と人口に乏しいノマスが近界(ネイバーフッド)でも有数の大国になれたのは、この独自の気風に拠る所が大きい。一頭地を抜く技術力と、精強で鳴らしたトリガー使いたちは、国民の団結力の賜であった。

 そして今、彼らは不倶戴天の怨敵、聖堂国家エクリシアと対峙している。

 

 どこまでも広がる草原に、巨大な建造物が建っている。

 緑の海に忽然と現れたるのは、亀の甲羅を思わせるようなドーム状の建物だ。大小合わせて三十余りの建物が、まるで羊が群れるかのように並んでいる。

 

 付近に比較物が無いため分かり辛いが、桁外れに巨大な建造物である。

 比較的小さいドームでも、差し渡しは三百メートル余り。高さは七十メートルに近い。群れの中央に位置する最大のものでは、何と全長は一キロにも届き、高さ二百メートルはあろうかという威容を誇っている。

 

 さらに驚くべきことに、それらの建物は草原を悠々と移動しているのである。

 ドーム状の建物の外縁部からは、象の足を思わせるような巨大な足が三対六本生えている。それらが大地を踏みしめ、遠目にはゆっくりと、実際にはかなりの速度で草原を移動している。

 

 これらの巨大建築群こそ、ノマスが誇る「機動城塞都市」である。

 

 この巨大な船にはノマスの民が部族単位で住み、それぞれの生活を営んでいる。都市が移動するのは家畜の遊牧の為であり、普段は都市同士が一堂に会することはないのだが、現在はエクリシア迎撃のために全ての都市が集結していた。

 各都市は緊密な連携を取り、防衛準備に勤しんでいる。怨敵の襲来を待ち受ける都市は、緊迫した空気に包まれていた。

 

「――よっ!」

 

 最も巨大な機動都市、ドミヌス氏族が持つ「パトリア号」の内部を、軽快な足取りで駆ける少年の姿があった。

 ドミヌス氏族の直系であることを示す、白い髪と金色の瞳。

 年の頃は十四・五歳ほどの、凛々しい面立ちをした彼は、ドミヌス氏族レクスの子レグルス。ノマスで最高の権勢を誇る部族の嫡男である。

 

 都市の内部は複数の階層に分けられており、そのうちの上層部には市民が暮らす数多くのコンパートメントがある。

 吹き抜けに面して設けられた部屋の数々は、まるで巨大な集合住宅を思わせる。

 

 それらを結びつけるため空中に張り巡らされた回廊を、レグルスは急ぎ足で進んでいた。

 彼は若年ながらも防衛部隊に名を連ねる有力な戦士である。

 エクリシア襲来を間近に控え、防衛計画を滞りなく遂行させるための作業が夜を徹して行われており、少年も司令部付の兵として、朝から晩まで休むことなく都市を駆けずり回っていた。今も、機動都市の城壁に備え付けられた砲台の動作確認を終えてきたばかりである。

 

「お~い、レグルスちゃん!」

 

 司令部に戻ろうと急ぐ少年を、賑やかな声が呼び止めた。

 見れば、少年がいる場所よりさらに上層の居住区画から、恰幅の良い中年の女性が親しげに手を振っている。

 

「なんですかーウィタおばさん!」

 

 レグルスは足を止めて女性へと声を張り上げると、同時にトリオン体の腕部を変形させた。近接格闘トリガー「採集者(ブラキオン)」を起動した少年の両腕が、白亜の籠手に包まれる。

 レグルスはトリオン体の腕を二十メートル余りも伸ばすと、上部デッキの手すりをしっかりと掴んだ。そして腕の長さを定寸に縮め、瞬く間に階上へと移動する。

 

「何か困りごとですか?」

 

 危なげなく回廊へと着地した少年は、知人の女性に親しげに声を掛ける。

 ノマスの民にとって、同じ船に暮らす人間は家族も同然だ。問題が起きたというのなら、手を貸すのに何の躊躇いもない。

 しかし、ウィタおばさんは快活に笑うと、少年の胸に大きな布包みを押しつけてくる。

 

「あたしたちは大丈夫だよ。自分の事は自分でできるさ。それよりもレグルスちゃん! 忙しくてあんまり食べれてないでしょ? 皆でパンを焼いたのよ。ちょっと持っていきなさいな」

 

 暖かい布包みからは、焼き立てパンの香ばしい香りが立ち上ってくる。

 彼女たち市民も、エクリシア襲来に備えて懸命に働いている。こうして炊事を行ってくれるのも、有難い協力である。

 

「ありがとうございます。指揮所の皆で頂きますね」

 

 陣中見舞いに思わず顔を綻ばせると、レグルスはウィタおばさんに折り目正しく礼を述べた。

 そうして布包みを胸に抱いたままアトリウムを飛び降りようとする。と、

 

「ああ、ちょいと待っとくれ」

 

 少年はウィタに引きとめられた。何事かと振り向けば、彼女の背中からおずおずとした様子で、十二歳ぐらいの女の子が姿を現す。

 

「ほらウェネフィカ。お兄ちゃんに挨拶したかったんでしょ?」

 

 ウェネフィカと呼ばれた少女は、恥ずかしそうにウィタの裾に掴まって俯いている。

 そうして何度か母親に促されると、少女は意を決した様子で顔を上げ、レグルスをしっかり見詰めると、

 

「が、頑張ってねレグルス君!」

 

 と、大きな声でそう言った。

 戦争に於いて矢面に立つトリガー使いは、どの国でも崇敬の念を集める。それは優れたトリオン能力を持つ彼らが、国家の上部に君臨するからだ。

 

 しかし、ここノマスでは少し事情が異なる。ノマスの民にとっては、外敵と戦う者も、羊を追う者も、子供を育てる者も、等しく立派な人物として扱われる。

 もちろん、地位の上下や権力の大小は存在するが、それは建前だけの事で、胸の内には何の隔意も無い。彼らは巨大な家族なのだ。

 

 だからこそ、我が身を張って皆を護る戦士には、格別の信頼と尊敬が寄せられる。

 家族を護る同朋の、勝利と無事を祈って。少女は心から少年に声援を送る。

 

「ありがとう。頑張るよ!」

 

 レグルスは少女の頭を優しく撫でると、満面の笑みを浮かべてそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 アトリウムを飛び降りて居住区画の大通りへと着地したレグルスは、そのまま戦闘指揮所がある階下へと向かった。

 機動城塞都市「パトリア号」の中層は、ノマスの中枢たる施設が軒を連ねている。

 トリガーの研究開発区画に、防衛部隊の基地区画。重鎮らが寄りあい、国家の行方を定める議事堂もある。また都市の運行を行うブリッジもこの中心部の下層に位置し、現在そこが戦闘指揮所となっていた。

 

 開放的な造りの居住区画とは異なり、中層以下は狭い通路で複雑な区分けがなされ、迷路のような作りとなっている。

 殺風景な通路は、まるで巨大生物の体内に迷い込んだかのようだ。

 しかし、この都市で生まれ育った少年にとっては勝手知ったる我が家も同然だ。レグルスは軽やかな足取りで通路を進んでいく。とその時、

 

「……」

 

 少年の足が不意に止まった。

 彼が通りかかったのは、中層に設けられた医療区画である。

 来たる戦闘に向けて準備を行っているのは此処も例外ではなく、医療スタッフたちが慌ただしく駆け回っているのが見える。

 

「耳に入れておかない訳にも、いかないよな……」

 

 今の所レグルスには医療区画に用事はない。しかし、少年は暫し迷った後、スタッフに断りを入れて病室の一つに足を踏み入れた。

 小さな個室には窓も無く、無機質なトリオンの壁が四方を囲んでいる。

 

 ベッドの上にごろりと寝転がっているのは、くせ毛の黒髪をした二十そこそこの青年だ。

 彼はドミヌス氏族のユウェネス。レグルスのはとこに当たる人物だ。

 レグルスと共にエクリシア侵攻に加わったユウェネスは、撤退戦の折りに吹き飛んできた瓦礫に右脚を切断された。

 レグルス、モナカらの懸命の応急処置で辛くも一命を取り留めた青年だが、重症には変わりなく、本国に戻り次第こうして入院生活を続けている。

 

「お、レグルスじゃん、お疲れ」

「あ、起きてましたか」

 

 少年が入室するや、青年は大儀そうに上体を起こして声を掛ける。どうやら寝ころんでいただけで、寝入っていた訳ではなかったらしい。

 青年は何気ない手振りでブランケットを掛け直し、ひざ下の失せた右脚を隠した。

 

「……お加減はどうですか。何か、入用の物はありませんか?」

 

 介添え用の椅子に腰を下ろしたレグルスが、柔らかな調子で尋ねる。

 

「薬効いてるから痛みはマシだよ。まあ頭ぼーっとするけどな」

 

 対してユウェネスは、ごく軽い声で答えた。

 平時と変わらぬ飄々とした態度だが、目元は落ち窪み、頬はこけ、肌艶が悪い。

足を切断するほどの重症がそう簡単に癒える訳がない。のみならず、五体の一部を永遠に失ったという事実は、彼の精神に深い傷を与えているだろう。

 

「暇過ぎてどうにかなりそうだぜ。何か面白そうな話とかないのかよ?」

 

 しかし、青年は憔悴した様子などおくびにも出さず、暢気な声で問いかける。

 

「今は皆忙しくて、そんなこと言ってられませんよ。暇しているのはユウェネスさんだけですから」

 

 ユウェネスの明るい調子につられて、レグルスも思わず軽口を叩いてしまった。

 重傷を負った同朋をどう慰めればいいのか。そんな少年の心配を、青年は涼風のような爽やかさで吹き飛ばしてしまう。

 

「ちゃんと傷病休暇扱いなんだぜ。堂々と休んで何が悪いってんだ」

「お医者様に聞きましたよ。看護師さんをからかったり、勝手に病室から抜け出したりしてるそうですね。怪我人の自覚があるならちゃんと休んでくださいよ」

 

 大げさに非難声を上げる青年を、少年は半眼で睨みつける。

 この男は余程退屈が嫌いなのか、意識を取り戻したその日の内に病室を抜け出そうとして取り押さえられ、また外出できないとなると、自分の病室に他の入院患者を呼びつけ、盛大に賭けカードに興じるなどして、スタッフを散々に困らせているらしい。

 これが僅か数日前に片足を失った重症者などと、一体誰が信じるだろうかという放蕩ぶりである。

 

「いやいや、こう不安なご時世だと、みんな鬱屈としちまうわけさ。病は気からっていうだろ? みんなでパッと気晴らしするのも、養生の一つじゃないすかね」

「それ、カルクス翁や父さんの前で言ってみたらどうですか?」

 

 揉み手で弁解を並べ立てるユウェネスに、レグルスは冷笑で答える。

 けんもほろろな態度の少年だが、その胸中では、青年への尊敬の念が溢れていた。

 

 彼は、心身に負った傷と懸命に戦っている。

 普通なら再起不能の怪我を負いながらも、青年は己を見失わず、その事実と向き合おうとしている。

 自分が彼と同じ目に遭ったとして、果たしてこのように振る舞えるかどうか。

 レグルスは改めて、ユウェネスの中に近界(ネイバーフッド)に生きる戦士としての覚悟を見た。だが、

 

「まあいいや。ところでさっきから滅茶苦茶いい匂いがするんだけど。……そろそろ、我慢するのもきつくなってきたなぁ」

 

 折角少年が見直したというのに、青年はだらしのない顔つきで、小鼻をひくひくと膨らませている。どうやら布包みのパンを、目ざとく見つけていたらしい。

 

「あ、これは指揮所に持っていく分です。ユウェネスさんのはありませんよ」

「はぁ!? 嘘だろおい!!」

 

 余りに意地汚い顔をしていた青年に、少年が冷や水を浴びせかけた。

 

「おい頼むよ。こっちは三食点滴と不味い流動食ばっかりなんだぜ。そろそろ固形物食わねえと顎の使い方忘れちまうよ」

「……まったく、仕方ないなあ」

 

 みっともなく懇願するユウェネスに、レグルスは大げさに嘆息してみせると、布包みからパンを取り出した。青年の大好物の揚げパンである。

 

「こっそり食べて下さいよ。あと、もし具合が悪くなったりしたら、ちゃんとお医者さんに……」

「おう、分かってる分かってる」

 

 ユウェネスはひったくるようにパンを掴むと、早速齧り付き始めた。レグルスが小言を続けている間にも、揚げパンが胃袋へと消えていく。

 その間、青年の片手は抜け目なく布包みをまさぐり、二つ目を掴もうとしていたが、これは少年が無言でセーブし、失敗に終わった。

 

「いや旨かった。生きてるって素晴らしいよな」

 

 瞬く間に揚げパンを食し終えたユウェネスは、名残惜しそうに指を舐め、どっかりとベッドに背中を預ける。

 レグルスはそんなはとこの姿を、どこか複雑な表情で見つめていた。少年が見舞いに訪れたのは、ただ差し入れを渡すためだけではない。

 どう会話を切り出したものかと、少年は逡巡する。とその時、

 

「そういや、「万化の水(デュナミス)持つことになったんだって?」

 

 ユウェネスは何の気負いもない表情でそう呟いた。

 

「――っ、は、はい。ユウェネスさんの「万化の水(デュナミス)を、僕が預かることになりました」

 虚を突かれたレグルスが、緊張した面持ちで答える。

 

 ノマスの国宝「万化の水(デュナミス)」は、あらゆるトリオンを自由自在に変化させる機能を持つ超絶の(ブラック)トリガーである。

 

 以前はユウェネスが扱っていたこの(ブラック)トリガーを、彼の負傷に伴ってレグルスが用いることが先日の族長会議で決められた。「万化の水(デュナミス)」は適合者の選り好みが激しく、他に起動できる者がいなかったからだ。

 少年はこの事を知らせるために、激務の合間を縫って青年の病室を訪れたのである。

 

「ユウェネスさんには遠く及びませんが、それでも全霊を尽くして任を全うしますので、どうか了承いただきたく……」

 

 レグルスは固い声音で、青年に己の覚悟を述べる。

 近界(ネイバーフッド)の戦争では、(ブラック)トリガーは戦略兵器として扱われる。所有数が国力の指標にされるのだから、その強力さは推して知るべしであろう。

 

 そして(ブラック)トリガーの担い手に選ばれることは、国を代表する戦士になることだ。その双肩には自国の命運が賭けられる。護国の盾として、彼らは決して敗北の許されない立場に立たされる。

 未だ少年のレグルスにとって、それがどれ程の重圧であるかは想像もつかない。ましてや彼は、ユウェネスから引き継ぐ形で国宝を預かってしまった。 

 

 また、(ブラック)トリガーが与えるのは力と責任だけではない。その担い手には、全ての国民から惜しげもない名誉と尊敬が贈られる。

 少年は青年が得ていたそれら諸々を、心ならずも奪ってしまったことを気にしているのだ。だが、

 

「悪ぃな。面倒掛けちまって」

 

 逆にユウェネスはレグルスを気遣うように、申し訳なさそうな声でそう呟いた。

 

「いけるって親父さんに頼んだんだけど、却下されちまった。お前にはキツイ仕事ばっか押し付けちまうな……」

 

 自嘲めいた笑みを浮かべ、ユウェネスはレグルスを見遣る。

 

「別にできる範囲でいいんだ。あんまり無茶なことはするんじゃないぞ。命あっての物種なんだからな。ただでさえ、あのトリガー扱いにくいんだから」

 

 レグルスに重責を負わせることを心から悔いているのだろう。ユウェネスはそう言って、恐縮する少年の頭を乱暴に撫でた。

 

「なんかあったら遠慮なく聞けよ。何だったらこっそり俺にトリガー返してくれてもいいんだぜ。――あ、試しに今貸してみろよ。扱い方教えてやるからさ」

 

 青年はそう言って、陽気に笑う。少年もつられて笑うと、一拍おいて真顔になり、

 

「病室を抜け出したのも、同じ手口でしたよね。トリオン体になると逃げだすから、ユウェネスさんにはトリガーを絶対渡さないよう、看護師さんに言われました」

 

 と、冷たい目で青年を睨みつけた。

 

 

 

 

 

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