WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
日中の熱気が仄かに残る、ぬるく湿った夜の空気。
吹き抜ける風はどこか埃っぽく、何かが焼け焦げたような匂いが微かに香る。
イリニ邸の中庭は、草木が鬱蒼と生い茂る小さな森のような空間だ。
曲がりくねった小道をそぞろに歩けば、直ぐに周囲を囲む建物は見えなくなり、天を仰げば林冠に切り取られた夜空だけが見える。
聖都の喧騒からかけ離れた静謐の小世界は、しかしどこも命の息吹に満ち溢れ、一年を通じて片時も同じ姿を見せることが無い。
イリニ家当主アルモニアが、手ずから造園してきた美しい庭園は、幸いにも空爆の被害を殆ど受けていなかった。
「…………」
アルモニアは家人を連れず、一人で庭の歩道を歩んでいく。
多様な表情を見せる草木に何度となく慰められてきたアルモニアであったが、今宵の彼は瑞々しい新緑には目もくれず、ただ沈鬱な表情を浮かべるのみ。
小道を曲がると、生い茂る木々が一斉に途切れ、豁然と視界が開ける。
中庭の中心に設けられた芝生敷きの小広場。そこに建つ東屋に、小さな人影があった。
「いま帰ったよ」
アルモニアは東屋へと近寄ると、長椅子に腰掛ける矮躯の少女に優しく声を掛ける。
そこに居たのは、雪のように白く繊細な髪と、黄金を溶かしたような瞳をした、褐色肌の少女、フィリア・イリニであった。
「…………」
エクリシア史上でも類を見ない天才児。最年少で騎士叙勲を果たした気鋭の少女は、しかし現在、完全に心を失っていた。
「フィリア、寒くはないか? 何か、物は食べているかい?」
茫漠とした瞳で庭園を眺めつづけていた少女は、ようやく来訪者の存在に気付いたように、伯父の方へゆっくりと顔を向ける。
その瞳に精彩は無い。ただ音がしたから首が動いただけといった、まるで壊れかけた機械のような反応である。
「……ご当主さま?」
顔を向けてからやや置いて、ようやく目の前の人物を認識したらしい。フィリアは虫の鳴くように小さな、それも痛ましいほどに擦れた声で呟く。
「ヌースは、見つかりましたか?」
一言一言、たどたどしく言葉を探しながら、少女は言葉を続ける。
げっそりと痩けた頬、色艶の悪い肌。言葉は不明瞭で、視線さえ一点に定まらない。
少女はこの数日、まるで人形のように一切の生命活動を放棄していた。
食事もとらず、排泄も行わず、風呂にも入らない。気絶するようにして意識を失うまで、睡眠さえ取らないのだ。侍女が身の回りの世話をしているが、それにさえ何の反応も示さない。されるがままに着替えさせられ、無理やりにでも口に食事をねじ込まれ、それで何とか命を繋いでいる。
少女の心が砕け散ってしまったのは、先のノマス襲撃によって、最愛の家族を失ってしまったからだ。
少女の人生の全て。心の支えそのものであった家族は、既にこの世に無い。
彼女の母パイデイアは
唯一、行方が分かっていないのは自律型トリオン兵のヌースだが、彼女が護衛していたはずの弟妹たちが助からなかった以上、無事でいる可能性は低いだろう。
復旧作業を行っている騎士団員に申し付けてあるが、未だにヌースは見つからない。瓦礫に紛れてしまったか、それとも残骸も分からぬ程に破壊されてしまったか。
フィリアは朦朧としながらも、頑なにヌースを探し行こうとしたが、虚ろな状態の彼女を表に出す訳にもいかず、アルモニアが責任をもって見つけ出すと説得して、何とか屋敷に留めていたのだ。
「ヌースは、見つかりましたか?」
先と同じ言葉を、無感情で少女が呟く。
今や彼女の関心事はそれしかない。彼女の自我を繋ぎ止めているのは、家族の最期を見届けることだけだ。
三人の弟妹たちは、既に埋葬が済んでいる。
葬儀はまだ執り行われていないが、何日も遺体を放置しておく訳にはいかず、イリニ家の墓所へと早々に納められた。
塵となったパイデイアの亡骸も、同じ墓へと埋葬された。
フィリアは虚脱状態に陥りながらも、弔いの現場に立ち会い委細すべてを見届けた。
家族皆が、同じ場所で眠れるように。
それは、残された自分が行わなければならないことだ。
故にフィリアは、ヌースの行方を探し求めていた。彼女たちを安らかに眠らせてあげなければならない。
それが、彼女の生きる上での最後の目的である。
「済まない。懸命に探しているが、まだ見つかってはいない」
「…………」
ヌースの捜索状況を告げると、フィリアはそれで納得したのか、また虚空へと視線を向けた。
悲しむことも、怒ることも無い。人形のように座る少女を目の当たりにして、アルモニアは慙愧に歯を噛みしめる。
「私は……」
フィリアに言葉を掛けようとして、しかし伯父は押し黙った。
今更彼女に何を話せばいいというのだろうか。慰めも、励ましも、真の絶望には何の救いももたらさない。
アルモニアは己の無力さに打ちひしがれ、ただ項垂れる。
フィリアの現状を知らぬ騎士団員の中からは、ノマスへの侵攻に彼女の参戦を期待する声も上がっている。
少女は聖都防衛線で格別の戦功を立て、また新たに誕生した
だが勿論、アルモニアにフィリアを遠征に連れていく気は毛頭ない。
また、パイデイアが残した
取り上げようとした際にフィリアが狂乱したこともあるが、そもそも彼女以外の適格者が見つかっていない。
いちいちテストを行う時間もなく、また技術者が解析した限りでは、かなり選り好みの強いトリガーであることが分かっている。
乏しいデータで照合を行った限りでは、フィリアの他に起動できそうなのは、既に亡くなった彼女の三人の弟妹たちだけということだ。
「…………」
アルモニアは無意識の内に、ズボンのポケットに手を添える。指先に触れる硬質な感触を確かめるも、彼は逡巡した後にソレを取り出さずに手を放した。
フィリアに渡すよう、パイデイアから預かった物。しかし、不安定な少女に今それを見せるのは、余りにも危険であった。
「もう、部屋で休みなさい」
アルモニアは絞り出した声でそう告げ、手元の端末で使用人を呼びつけた。
中庭を吹き抜ける風が木々をざわめかせ、濃密な緑の香を運ぶ。
二人は押し黙ったまま、視線を合わす事さえせずに東屋に立ち尽くした。
結局、アルモニアは少女に何一つしてやることができなかった。
それは今までも同じだった。何よりフィリアの幸せを願いつつも、それを為せない己の不甲斐無さを呪ってきた。
この手は、少女の頭を撫でてやることさえできない。
せめて迫り来る災厄から彼女を護ろうと誓いを立てた。だが、それさえも果たせなかった。
アルモニアは知らずと間に、拳を強く握りしめたいた。
今度こそ、この子の命だけは護ってみせる。男は天を仰いで固く誓った。
× × ×
「何故ですかお父様! 私も遠征に参加させてくださいっ!」
重厚な調度品に囲まれたフィロドクス家の当主執務室に、悲痛な女の声が響く。
執務机に両手を付き、身を乗り出して声を張り上げているのは、眼鏡を掛けた若い女性、オリュザ・フィロドクスである。
滅多な事では感情を表に顕さず、口さがない者からは機械のようだと言われる彼女が、端正な顔を驚愕と憤怒に歪め、泣き喚かんばかりに訴えている。
「もう決まったことなんじゃ。お主をノマスに連れていくことはできん」
オリュザの泣訴を冷徹に退けるのは、豪奢な肘掛椅子に腰かける滝髭の老人だ。
フィロドクス家当主「賢者」クレヴォは、鷹のように鋭い眼光で義理の娘を押し黙らせる。
「今回ばかりは事情が違う。自力で戦場を脱せられぬ者に、
尚も食い下がろうとするオリュザに、クレヴォは止めの一言を放つ。
現在フィロドクス邸では、ノマスへの侵攻について内々での会議が行われていた。
聖都防衛線で最も被害の少なかったフィロドクス騎士団は、来たる遠征では主力を務めることになっている。イリニ騎士団から二本の
トリガー使いをノマスへ送るのは、主にフィロドクス騎士団の受け持ちになる。その人員から外されたことに、オリュザは不服を申し立てているのだ。
「当主の決定に異議を申し立てるのか? 不遜が過ぎるぞ」
冷然とした声でそう告げたのは、黒髪を撫でつけた四十見当の男性、クレヴォの嫡子ジンゴだ。
冷ややかな視線で不敬を咎めるジンゴに、オリュザは言葉を失って項垂れる。
養女という立場の彼女には、会議に於いて何の発言権もない。当主クレヴォが溺愛していなければ、所詮は只の小娘である。
「まあ、親父もオリュザちゃんを心配してるのさ。大丈夫だって、俺らに任せておきなよ」
どこか嘲るような調子でそう言うのは、くすんだ金髪の軽薄そうな男性、カスタノだ。
ジンゴの弟である彼は、なおも不服そうなオリュザを眺め、わざとらしく肩をすくめる。
「なあオリュザ、何もお主が力不足だなどと考えてはおらんよ。国元で復興の指揮を執る者も必要なんじゃ。どうか聞き分けてはくれんかね」
クレヴォ翁は飽く迄も穏やかに、重ねてオリュザを諭す。
ノマスへの出征に当たり、彼女を連れていくことはどうしてもできない。
彼女は
進行性の脳腫瘍である。この病によって、生身のオリュザには視力が殆ど無い。また眩暈や立ちくらみといった不調を来たすこともしばしばである。
この事実はフィロドクス家の重要機密であり、知る者は家中でも殆どいない。
盲目の彼女がトリオン体を失ってしまえば、敵から逃げおおせることなど不可能である。それも、味方の援護が望めない敵地なら尚更だ。
とはいえ、「
最前線には出ないと言う条件付きで、何度か遠征にも参加したことがある。
しかし今回、オリュザはノマスへの遠征からは外されるという。勿論、「
オリュザはこの決定をどうしても承服できなかった。今の彼女には、戦う理由が明白にあったからだ。
「お願いです。私にもノマスと戦わせてください。戦場に立てなくとも構いません。オペレーターでもなんでも、私に出来ることなら何でもいたします」
再度頭を下げて頼み込むオリュザに、居並ぶ面々は困惑を隠せない。
クレヴォに格別の恩義を感じている彼女は、老父に極めて献身的に尽くしている。彼の指示なら事の是非すら問わない。盲従と言っていいほどに忠実だ。
それが今、彼女は面と向かってクレヴォに異を唱え、自らを戦いにつれて行ってほしいと懇願している。
以前の彼女ならあり得ぬ光景だ。
「何か、事情が御有りの様子。お嬢様のお考えを聞いてみてはいかがでしょうか」
そう言って仲裁に入ったのは、会議に列席している最後の一人、六十手前の年頃の、実直そうな風貌の男性だ。
彼はエンバシア・カナノス。フィロドクス騎士団の軍団長にして、フィロドクス家の家令を務める古参の騎士である。
エンバシアは恭しい態度でクレヴォに話しかけ、オリュザの存念を聴くように具申する。
滝髭の老人は難しい表情のまま首肯し、愛娘に目顔で問いかける。
そうして彼女は、訥々と胸の内を語りだした。
「此度の戦で、多くの人が死傷しました。家中の皆さまだけでなく、他家の人たちも。……私は、彼らの代わりに戦いたいのです。彼らの無念を、怒りを、ノマスに刻み付けてやりたいと、心からそう思うのです。私情で戦に臨むなど、お許しいただけないのは尤もだと存じます。私が「
感情を表さない人形のような美貌から、静かな調子で紡がれる言葉。
しかし、そこに込められた鬼気迫る情念は、居並ぶ誰もがはっきりと感じ取れた。
今まで命じられるがままに戦っていた彼女が、初めて自ら敵を見定め、打ち倒したいと言う。
それでも、クレヴォは首を縦に振らなかった。
「…………分かりました。無理を申し上げたこと、どうぞお許しください」
心情を披瀝するも、それが受け入れられなかったことを悟ると、オリュザは悄然と肩を落とし、クレヴォの前に指貫型のトリガーを置いた。
「うむ。彼らの無念は必ずや晴らす。もう下がってよろしい」
「はい、お父様……」
オリュザに申し渡されたのは、本国の復興指揮を執ることと
居並ぶ面々に頭を下げ、彼女はクレヴォの執務室を後にした。
去り際の表情は哀切を極め、今にも泣き出さんばかりであった。
× × ×
「さて、ようやくこれで本題に移れますな」
オリュザが去った後の執務室にて、ジンゴが忌々しそうに息を吐きながらそう言った。
壁際に控えるエンバシアに目配せをすると、彼は部屋付きのコンソールを手早く操作した。壁のトリオン構成が変化し、より防音性が高められる。
もともと機密性に配慮した執務室だが、これで完全に外部からの聞き耳を防ぐことができる。
これから先の会話は、絶対に外部に漏らすことはできない。
別けてもオリュザには気を付けなければならない。聴覚系のサイドエフェクトを持つ彼女は、望むと望まざるとに関わらず音を拾ってしまう。
「オリュザちゃんがあんなに反対するとはねぇ。いや可愛げがあって結構結構。親父も娘の成長が嬉しいでしょ」
相変わらず軽い口調でカスタノが言う。ただでさえ軽薄な物言いだが、言葉の端々には隠す気も無い嘲りの気配がある。
「……話を詰めるぞ」
クレヴォが鋭い視線で息子二人を睨みつける。
元々、巷間で取りざたされるほどに仲の悪い親子である。さらに扱う話題の陰険さに、老人の顔も固くならざるを得ない。
「まずはトリガーの分配です。これは付いては相性が有るので仕方ありませんが……」
ジンゴに促され、エンバシアが書類をクレヴォに渡す。
態々紙を使っているのは、後々火にくべて抹消する為だ。この計画は、フィロドクス騎士団の公式記録に残されることはない。
「我がフィロドクス騎士団が所蔵する
そう言いながら、ジンゴは書類のページをめくる。
そこにはフィロドクス騎士団で検討されたノマスの攻略方だけでなく、それとはまったく別の計画が記されている。
「我ら全員が
氷の如く冷たい表情で、ジンゴがクレヴォに念を押す。
「ま、親父も頑張ってくれるでしょ。可愛い子供の為だもんなぁ」
険しい表情で書類を読み進めるクレヴォに、カスタノが弄うような声を掛ける。
「……構わん。これで進めろ」
老人は夜叉のように鋭い眼光で息子たちを睨みつけながらも、低く平静な声で呟いた。
「かしこまりました。では早速準備に取り掛かります」
「分かっておるな、万が一にも外部に漏れるようなことがあってはならんぞ」
「それは勿論、気を付けますとも。父上は安心して待っておられればいい」
当主からの了承を貰うと、ジンゴとカスタノは笑みを浮かべて執務室を後にした。
二人の息子が退室すると、クレヴォは目頭を押さえて深いため息をつく。
それは賢者と呼ばれる普段の印象からは程遠い、疲れ果てた老人の姿だった。
「わしを軽蔑するか、エンバシア?」
「いえ、御主人様。私は貴方にお仕えするのみです」
自嘲の言葉を吐く老人に、家令は変わらぬ忠誠の言葉を述べる。そして、
「加えて申し上げるならば、たとえ道理に外れていようとも、子を思う親心に勝るものなどありはしません。私はそう理解しています」
「……どの道、地獄に落ちる身だ。せめて何かを残してやらねばな」
クレヴォは手を動かし、トリオンで大きめの灰皿を作った。
書類をその上に乗せ、火をつける。
揺らめく炎を眺める老人の瞳は、只々侘しさに染まっていた。
× × ×
夏の強い日差しが容赦なくエクリシアに降り注いでいる。
未だ瓦礫の撤去も済んでいない聖都では、茹だるような暑さと風に舞う塵灰で、市民の健康状況の悪化が案じられ始めている。
そんな聖都の惨状に比べれば、イリニ邸の中庭はまるで別天地のようであった。
市街の喧騒から切り取られた小さな森では、草木が変わることなく風に靡いている。
芝の上に立つ東屋は風が良く通り、日陰の中にいれば酷暑も然程気にならない。
どこまでも静謐で、清浄な小世界。
そこに人形のように座しているのは、少女フィリアだ。
「…………」
フィリアは相変わらず生気を失った瞳で、ただ漠然と空中を眺めている。
自発的にこの場所に来たわけではない。
ただイリニ邸に仕える家人が、彼女を慮って連れてきただけの事。中庭は奇跡的に無事だったが、屋敷はいたる所が損壊している。それらの修理で慌ただしくしている邸内は、心神を失ってしまった彼女の療養にはよろしくないだろうと考えたのである。
一方、当のフィリアにとっては、自分のいる場所などどうでもよかった。
最早彼女には、まともな思考能力さえ残されてはいない。
彼女の望みはヌースを見つけ、家族の最期を見届けることだ。それだけが、彼女が未だに息を続けている理由である。
自分で探しに行きたかったが、それは止められた。アルモニアが――敬愛する伯父が待っていろというから、只々じっと待っているのだ。
しかしアルモニアはこの日、騎士団を率いてノマス侵攻へと出立したのだが、フィリアにそのことは知らされていない。
眩い日差しに照らされた中庭で、抜け殻となった少女は流れる時に身を任せていた。
「~~~~!」
とその時、深閑とした中庭に、何やら人の話し声らしき音が響いた。
少女の居る東屋からは何を話しているか聞き取れないが、その人物はこちらに近づいているようで、徐々に声は大きくなっている。
とはいえ、たとえ会話の内容を聞き取れたとしても、心を失った少女にとっては何の意味も無い。少女は置物のように身じろぎひとつしないままだ。
「分かっています。少し話をするだけよ」
中庭の小道を通り抜け、来訪者はフィリアの居る東屋へと歩を進める。
イリニ邸の使用人に案内されて現れたのは、眼光鋭い黒髪紅瞳の美女、ニネミア・ゼーンである。
彼女は困惑顔の使用人と、二言三言言葉を交わす。
心の平衡を失ったフィリアに外部の人間を合わせぬよう、家人にはアルモニアから指示がなされている。仮にもイリニ騎士団のエースが心神喪失状態なのだ。秘匿は当然と言えるだろう。
加えて言うならば、少女は家族を失った際に暴走し、味方である騎士たちにも牙をむいた。精神を安定させるため、パイデイアの
「案内ご苦労でした。下がりなさい。二人で話がしたいの」
しかし、ニネミアはそう言って使用人を追い払う。
未だに心配顔の使用人であったが、反論せずに引き下がった。この年若い大貴族の当主がフィリアの友人であることは周知の事実である。念のためアルモニアにも連絡を取り、面会の了承は得ている。
使用人が一礼して引き下がると、芝生敷きの広間にはニネミアとフィリアだけが残された。
だが依然として、少女の瞳は中空に向けられたままだ。
「……あなた、こんなところで一体何をしているの?」
数秒の沈黙を挟み、ニネミアが刺々しい口調でそう言った。
今日はエクリシアの騎士団がノマスへと出立する日である。ゼーン騎士団を率いるニネミアも、領地へと赴き遠征艇に乗り込む手筈となっている。
そんな彼女がイリニ邸を訪れたのは、ぎりぎりになって渡された作戦計画の中に、フィリアの名前が記載されていなかったからである。
しかし、そんな彼女の問いかけにも、少女は無言を貫いている。
今の少女にとっては、外界の全ての出来事は、自分とは関わりあいの無い事なのだ。
「随分と生意気な態度ね。何とか言ったらどうなの、フィリア」
あくまで厳しい口調で、しかし声音には隠しきれない憐憫の情を匂わせて、ニネミアが問う。
するとフィリアは首をゆっくりと動かし、傍らに立つニネミアへと顔を向けた。
自分の名前を呼ばれた事は、辛うじて判別が付いたのだろう。
しかし、少女はガラス玉のような瞳を向けるのみ。話しかけたのがニネミアであることに、はたして気付いているのかどうか。
「…………」
ニネミアが言葉に詰まる。
彼女がフィリアを訪れたのは、遠征不参加の理由を糾すためである。同じく友人の内、メリジャーナとオリュザも人員から外されているが、メリジャーナは重傷を負ったため、オリュザは本国防衛に回されたことになっているが、持病が理由だと察しはついた。
ただフィリアだけが、確たる理由も分からないまま本国に残されているのだ。
少女が精神の平衡を失ったらしいという噂は耳にしていた。
だが、エクリシアの興廃を賭けた戦を控えた今、フィリア程の使い手が不参加というのは巨大な戦力の喪失である。ニネミアは友人の状況を我が目で確かめるために、イリニ邸を訪れたのだ。
果たして、少女は彼女が予想していた以上に――完膚なきまでに壊れていた。
生気の消えた瞳。痩せこけた頬、芯の抜けた居住まい。
胸中に渦巻いていた疑念と怒りが、急速に嵩を下げていく。かつての英気溌剌としたフィリアの姿は何処にも見られない。ここに座っているのは、憐れむべき小娘に過ぎない。
「……私はこれから戦いに赴くわ。あなたは何故、時間を無為にしているの?」
それでも、ニネミアは絞り出すように言葉を吐いた。
「ノマスへの遠征よ。立ちなさいフィリア。――立って、戦いなさい」
ニネミアは膝を突き、少女の細い肩を両手でしっかりと掴んでそう言う。
ノマスへの遠征の事は、フィリアに伝えぬよう使用人から言い含められていた。けれど構わない。抜け殻となった彼女に、再び活力を与えられるならば。
「…………」
だが、少女はまるで言葉の意味が分からないといった風に、能面のような無表情でニネミアを見詰めるのみ。
「メリジャーナも、騎士グライペインも、まだ目を覚まさないわ。あなたは騎士なのよ。この国を護ると、私に言ったでしょう? ――義務を果たしなさい。あなたは、誇りあるエクリシアの貴族なんだから」
指が食い込むほどに強く少女の肩を掴みながら、ニネミアが言葉を続ける。
少女を見詰める赤い瞳が、微かに濡れている。
無理なことを口にしているのは理解している。道理に外れていることも分かっている。それでも彼女は、少女を戦場に立たせるために説得する。
「ご家族を亡くして辛いのはわかるわ。……でも、だからこそ、あなたは戦わないといけない。ここで何もしなければ、きっと一生後悔する。……私が、そうだったから」
ニネミアも、父であるトラペザ・ゼーンを亡くしている。それも、異国での戦死である。
急ぎ家督を継いだ彼女だが、とうとう仇の国への侵攻は叶わなかった。
報復が為されなかったことは、ニネミアを大きく傷つけた。貴族としての面目を失っただけではない。胸に抱いた悲しみも、怒りも、それら諸々の激情を、彼女は吐き出すこともできなかったのである。
織火のように彼女の胸中に燻る感情。父の死を前にして立ち竦んでしまった己を、今でも彼女は許せていない。
フィリアの傷心は、ニネミアがその時に負った傷より尚深いのだろう。けれど、ここ諦めてはならない。残された者は、前に進むしかないのだ。この残酷な世界では、立ち止まることは死を意味するからだ。
「…………」
ニネミアの切なる願いも虚しく、フィリアの表情には漣ほどの変化も見られない。
黒髪の乙女は唇を噛み、初めて端正な表情を歪ませた。
「あなたはっ! あなたは悔しくないの!? 憎らしく思わないの!? あなたの家族だけじゃない、皆、皆死んでいったわ! 私の部下も、多くの民も。私たちの他に誰が、彼らの無念を、恨みを晴らしてやれるというのよ!?」
憤怒に声を荒らげ、ニネミアがそう叫ぶ。
しかし、その怒声とは裏腹に、彼女は今にも涙を溢さんばかりの表情をしている。
歳若いニネミアは、惨禍に見舞われた民の心を、誰よりも痛切に感じ取ってしまったのだろう。高潔な貴族たらんと己を律してきた彼女は、民の庇護者として、代弁者としてノマスへの復仇に燃えている。
だが、痛切な乙女の言葉も、心を失った少女には響かない
「…………」
フィリアは相変わらずガラス玉のような瞳で、虚しくニネミアを見詰めるのみ。
「~~~~!」
乙女は思わず少女の頬を打とうとして、そして寸での所で思いとどまった。
この少女もまた、戦禍の犠牲者なのだ。ならば彼女は貴族として、少女の分まで戦わねばならない。
「……もういいわ。ゆっくり養生なさい」
ニネミアは肩を落とすと、悄然とした様子で東屋を後にした。
森の小道に消えていく友人の姿を、フィリアは茫洋とした瞳で見送った。