WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
降り注ぐ柔らかな日差しと、風に乗って運ばれる爽やかな緑の香。
優しく暖かな歌声と、どこか遠慮がちなごつごつとした掌。
言葉にできない感覚の中、それでも疑いようのない安らぎを感じる至福の時間。
まどろみの中、過ぎ去りし日の幸福な思い出に包まれていた少女は、しかし、凄惨な争いの音で目を覚ました。
「うぅ……」
「――フィリア!」
呻き声を上げる少女に、傍らにいた自律型トリオン兵ヌースが声を掛ける。
「あ……ぬーす?」
「私が分かりますか? ここが何処か、今が何時かは分かりますか」
起き抜けの寝ぼけた声で問いかける少女に、ヌースは飽く迄平静な声で、意識レベルのチェックを行う。すると、
「ヌース! ヌース!! ――嘘、そんな、ヌース、やっぱり生きて――けほっ」
「はい。はい。私は此処にいます。落ち着いてくださいフィリア。無理に話しては、だめ」
探し求めていた家族の姿を見つけたフィリアは、歓喜の余り大声を上げ、噎せてしまう。
そんな少女を優しく窘めながら、ヌースは簡易の検査を続ける。
「えっと、私は……え?」
覚醒し、五体の感覚が戻ってくると、フィリアは自分が何者かに背負われている事に気付いた。
視界を塞いでいるのは、麦穂のように煌めく金色の髪。
小さな体をしっかりと受け止めているのは、広くたくましい背中。
「よく頑張ったなフィリア」
そう少女に語りかけるのは、伯父のアルモニア・イリニだ。
軽く、連続して上下に揺さぶられる感覚がある。彼は少女を背負い、長い階段を延々と登り続けていた。
「伯父様! そうだ、クレヴォ閣下が、フィロドクス騎士団が裏切りました! 一刻も早く本隊と連絡を取り――」
「いいんだ。それは終わった。もう大丈夫だよ」
失血と疲労で思考が纏まらないにも関わらず、少女はアルモニアに警告を発する。
だが、彼は穏やかな声で少女を制した。それから、少女を保護するまでの経緯を簡単に説明し、危機は去ったと安心させる。
「もうすぐ脱出地点に到着する。ヌース。間違いないな?」
「はい。急ぎましょう。……辛いでしょうが、お願いします」
「パトリア号」を縦に貫く百数十メートルの非常階段を、子供とはいえ人を一人背負って登り続けるのは、鍛え抜いた騎士であっても簡単な事ではない。
それでもアルモニアはペースを落とさず脚を動かし続ける。遠く近くから聞こえてくるのは、
アルモニアはヌースから封鎖計画の詳細を聞かされている。苦し紛れのはったりではない。一刻も早く都市を出なければ生き埋めにされてしまう。だが、
「上に、行くんですか?」
フィリアが不安気な声で尋ねる。
都市の出入り口は、下層に設置されたタラップと、中層に設けられた外部都市との連絡橋だけだ。
とはいえ、タラップは格納されており、また連絡橋は殆どがエクリシアによって切断されたため、実際には外殻を突き破るしか都市の外部へ逃げ出す方法はない。
ヌースならシステムに介入してタラップを降ろすことも可能だろうが、どちらにせよ、脱出を考えるなら下層を目指すのが常道だ。
「ああ。心配しなくていい。ヌースが都市の見取り図を教えてくれた。もう少しだけ、頑張ってくれ」
ヌースはモナカと取引を交わし、
トリオン体を失ったアルモニアでは、都市の外殻を打ち破ることは不可能。フィリアを脱出させるため、彼はヌースと協議し策を練った。
「此処だ。着いたぞ」
そして彼らがたどり着いたのは、「パトリア号」の最上層に位置する一画。分厚い隔壁で閉ざされたその場所は、ノマスが所有する遠征艇の格納庫だ。
「ロックを解除しました。さあ中へ」
操作パネルに万能索を伸ばし、ヌースがすぐさま隔壁を開ける。
扉の先には巨大な空間が広がり、そこには大小様々の遠征艇が鎮座している。
「パトリア号」からの脱出が困難と判断したアルモニアたちは、遠征艇を奪取し、直接ノマスから撤退しようと考えたのだ。
「少しだけ待っていて下さい」
広大な格納庫へと立ち入るや、ヌースはフィリアたちの側から離れ、管制室へと向かう。暫くして戻ってくると、彼女はアルモニアに耳打ちをし、何事かを相談する。そして、
「急ぎましょう」
ヌースとの話が纏まると、アルモニアは整然と並ぶ遠征艇の中から、五メートルほどの大きさの小型船を見つけだし、迷いのない足取りで近いた。
ヌースがロックを解除し、キャノピーが開くと、アルモニアはフィリアを慎重に抱きかかえ、二人乗りのコックピットの後方シートへと乗せる。
「機体のチェックを頼む。私は物資を探してくる」
そしてヌースはパイロット席に乗り込むと、万能索を伸ばして機体を制御下に置き、発進の準備を始める。
また同時にフィリア共々機体にトリオン供給を行う。すると、
「ねえ、ヌース……私、私……」
シートに身を横たえた少女は、前方で作業を行っているヌースへと話しかけた。
聖都での惨劇によって生き別れた家族に、話したいことや聞きたいことが沢山ある。
だが、出血と疲労によって、少女の思考は酷く散漫になっている。折角取り戻した意識が、徐々に黒い靄に覆われていくようだ。
「はい。はい。なんでも話してください。私は、此処に居ますから」
ヌースは高速で作業を続けながら、そんな少女に優しく答える。覚醒を維持させるには、とにかく会話を続けるのがいい。
フィリアはヌースと別れてからの出来事を、たどたどしくも切々と語っていく。
母の最期。弟妹の死。故国が受けた深い傷。それから己が如何なる思いを抱いて、ノマスの地で戦ったのか。
「…………」
ヌースは時折相槌を挟むだけで、少女の独白に耳を傾け続けている。
フィリアの語る内容は、ヌースにとっても知らぬ出来事ばかりだ。別けても家族の死は深い衝撃であったが、それでも彼女は一人残された少女を慮り、取り乱すようなことはなかった。
そうして幾らかの時間が過ぎた。ヌースは機体のチェックを完了させると、器機を操作しすぐさま発進できるよう準備を整える。すると、
「食料と水だ。それと、医療キットも見つかった」
両手に鞄を下げたアルモニアが船へと戻ってきた。
格納庫内を漁り、航行に必要な物資を入手してきた彼は、それらを手早く船に積み込む。
「ありがとうございます。安全圏まで離脱してから、直ぐにフィリアの傷を処置します」
「頼む。機体はどうだ?」
「機体に問題はありません。酸素も十分に搭載されています。ただ……やはり、トリオンは全く残されていません」
「そうか……私も管制室で調べたが、備蓄は根こそぎ使い切ったようだな」
遠征艇が星々の間を航行するには、莫大な量のトリオンが必要になる。
ノマスはエクリシアとの決戦に、国内のあらゆる備蓄をつぎ込んだ。その上、今回は自国での防衛戦である。遠征艇のトリオンなど真っ先に使い込まれたのだろう。
「離陸はできるか?」
「私たちのトリオンを全て用いれば、おそらく」
「……確実な手段を取る」
「では…」
「ああ。話していたように頼む」
言いよどむヌースに、アルモニアは淡々と次善の策を指示する。
船に貯蔵してあるトリオンでは、ノマス国内を脱出するのが精々で、とてもエクリシアまで帰還することはできない。
ならば、持久策だ。
船の中で搭乗者からトリオンを集め、それを用いて船を動かす。
一旦ノマスを脱出した後、暗黒の海を漂いながら燃料を溜めるのだ。
当然、船を動かせるようになるまで日数が掛かる為、エクリシアに帰還することは不可能になる。トリオンが溜まった時点で、軌道上の近い国家を目指すことになるだろう。
「次にこの軌道上に接近するのは氷の国パゲトンです」
「無事に辿りつけるか?」
「不測の事態が無ければ、ほぼ間違いなく」
「分かった。それでいこう」
淡々と話を続けるアルモニアとヌース。そんな二人の姿を、呆然とした様子で眺めていたのはフィリアだ。
「ああそうだ。忘れないうちに渡しておかないと」
どこか不安そうな眼差しの少女に気付くや、アルモニアはヌースとの会話を一旦中断すると、穏やかな笑顔を浮かべながら己の懐を探る。
「――!!」
アルモニアが差し出した物に、驚愕したフィリアが金色の瞳を大きく見開く。
「忘れ物だよ」
それは六つの宝石と真珠のようなトリオン球に彩られた、世にも美しい銀の鍵であった。
「あぁ……」
フィリアの口から、嗚咽にも似たため息が零れる。
忘れもしない。この銀の鍵こそ、彼女がイリニ家に迎えられてから初めて迎えた誕生日に、弟妹たちから贈られた祝いの品だった。
六つの宝石は家族の証。中央に輝くトリオン球は、アルモニアからの贈り物だ。
少女はこの銀の鍵のペンダントを、何時如何なる時でも肌身離さず身に着けていた。家族の象徴である銀の鍵は、どんなに辛い時でも、彼女に生きる意味を思い出させてくれた。
しかし、己の手が罪なき人々の血に塗れていると気付いた時、少女は家族との縁に縋ることを禁じ、この鍵を自室の机に仕舞い込んだ。
「何故、伯父様がそれを……」
疑問が浮かぶも、少女はすぐさまその答えに思い当る。
「パイデイアから預かったんだ。返すのが遅れてすまない」
鬼気迫る形相で戦い続ける少女に、何とか心の平穏を取り戻してほしいと、少女の母パイデイアは銀の鍵をアルモニアへと託していた。
だが、直後に聖都防衛戦が勃発し、終結後のフィリアは心身の平衡を失った。
渡す機会を得られなかったアルモニアは、銀の鍵を御守りとして携えてノマス遠征に赴いた。そこへ、図らずも回復したフィリアがやってきたのだ。
「このペンダントを、君が重荷に感じているのは知っている。けれど、どうか忘れないでほしい。フィリア。君の幸せを願う人は確かに居た。君がこの世に生まれてくれて、心から喜んだ人は居るんだ」
限りない慈愛を込めて、アルモニアがフィリアに言葉を掛ける。
そうして彼は少女の首に銀の鍵を掛けてやると、次いで小さな掌に何かを握らせる。
「君にも間違いなく起動できるはずだ。ただ、これの為に危険が及ぶようなら、捨ててしまっても構わない」
少女の指には大きすぎる漆黒のシグネットリング。アルモニアが所持していた「
イリニ家伝来の家宝たる
「お、伯父様――」
呆然としていた少女が、辛うじて上ずった声を出す。
この状況で彼が
「い、嫌っ! 嫌です! 伯父様も一緒に逃げましょうっ!!」
アルモニアはフィリアたちを逃がし、自らは「パトリア号」に残るつもりなのだ。
そのことに気付いたフィリアが、悲鳴のような声で抗議する。
「なんで、なんでですかっ!? いや、嫌です! もう一人は嫌っ! 誰かが居なくなるのは嫌っ! 折角仲良くなったのに、やっと家族になれたのに、伯父様まで私を置いて、私の前から居なくなってしまうんですか!?」
遠征艇のシートから身を乗り出し、今にも涙を溢さんばかりに顔をくしゃくしゃにして、フィリアが吼える。
「…………」
だが、アルモニアは困ったような笑みを浮かべ、癇癪を起こす少女の肩に両手を添え、優しく制するのみ。
「ヌース! ヌースも何とか言って! 伯父様が、伯父様が……」
アルモニアが効く耳を持たないと気付くや、少女は姉でありお目付け役のトリオン兵に助勢を求める。
「フィリア……それしか、方法がないのです」
だが、ヌースから返ってきたのは、少女をさらに絶望へと追い込む言葉だ。
ノマスの格納庫にトリオンは全く残されていなかった。
フィリア、アルモニア、そしてヌースに残されたトリオンを用いて発進させることができるのは、最も小さなこの船のみ。
それでも必要最低量には足りず、ノマスから離脱することさえ確実性に欠ける。しかし、ヌースに計算させた結果、遠征艇に乗るのが一人だけなら、ほぼ間違いなく離脱が可能だろうとの結論が出た。
何とかトリオンに融通が付けばアルモニアも共に脱出できるのだが、何時都市解体が始まるか分からない以上、他の部屋からトリオンを探すことも、トリオン機関の自然回復を待つこともできない。
もとよりアルモニアとヌースは、少女の命を何より優先するつもりであった。たとえ犠牲になるのがアルモニアではなくヌースであったとしても、彼女は自ら望んでその身を捧げただろう。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」
だが、そんな事情など、フィリアに分かる筈も無い。
少女は怒りと悲しみの余り取り乱し、コックピットの窓枠を両手で力いっぱい叩く。
「なら私も残る! また誰かが居なくなるなら、また家族と別れることになるなら、私も此処で皆といっしょに死ぬ!!」
激憤して声を荒らげる少女を、アルモニアは困ったようにあやす。まるで駄々っ子に手を焼いているかのような、穏やかな表情である。
「ヌース。済まない。この子の事をよろしく頼む」
「はい。必ず、必ず護ります」
もう時間がないとばかりに、アルモニアはヌースに出発するよう促す。
尚も納得しないフィリアは抵抗を続け、有ろうことかコックピットから身を乗り出して船から降りようとする。
そんな少女をアルモニアは軽々と制し、シートに無理矢理座らせる。それでも手を振り回して抵抗する少女を眺めているうちに、彼の内に抑えがたい愛情が込み上げてくる。
そして――
「え――」
そっと、アルモニアの手がフィリアの頭に触れた。
白く柔らかな髪を、太く硬い指が梳る。
壊れ物に触るかのようにぎこちなく、それでも心からの慈しみを込めて、アルモニアが少女の頭を撫でた。
思いがけずアルモニアに触れられて、フィリアは喚くのを止めて身体を硬直させる。
驚いただけではない。このごつごつとした感触に、少女は覚えがあった。
どこか遠慮がちで、なのに力加減を間違えた、ひどく不器用な掌。
快感や安心とは程遠く、それでも情愛の念だけは確かに籠った愛撫。
この思いは、この気持ちは、一体誰から貰ったものだったか。
遠い過去の記憶から、少女のサイドエフェクトが一瞬で答えを導き出す。
「……おとう、さん?」
フィリアの口から零れた言葉に、アルモニアが目を見開いた。
その仕草に、少女は己の直感が正しかったことを知る。
「うそ……なんで、なんで、いってくれなかったの?」
呟くフィリア。その金色の瞳から、一筋の涙が零れる。
「フィリア。私も……そしてレギナも、ずっと君の事を思っていたよ。エクリシアにも、ノマスにも縛られることはない。君は自由だ。どうか、幸せに――」
少女の父は困ったような笑みを浮かべ、フィリアへと語りかける。
だが彼が積もり積もった思いを言葉にしようとしたその時、格納庫に激震が走った。
「ッ――」
「都市の解体が始まります!」
それまで成り行きを見守っていたヌースが、緊迫した声でそう告げる。いよいよ、ノマスが
「発進するんだ! さあ早く!!」
「ま、待ってっ!」
フィリアは機体の外へと身を乗り出そうとするが、それより一瞬早く、キャノピーが下りた。透明な壁が、少女と父を隔てる。
「お父さん! お父さん!! お父さんッ!!」
フィリアは風防を何度も叩きながら、涙に塗れた顔で叫ぶ。
アルモニアは優しい微笑みを浮かべ、そっと少女の掌に己の手を重ねる。
だが、何時までもこうしては居られない。振動はさらに強まり、ミシミシと格納庫全隊が悲鳴を上げている。
「行け!」
アルモニアは機体から手を放し、鋭くそう言い放つ。
甲高いリアクターの駆動音と共に、船が空中に浮かび上がった。
前方に放電音と共に現れるのは、漆黒の
そしてフィリアとヌースを乗せた小型船は勢いよく発進し、
「…………」
娘と旧友を無事に送り出せると、アルモニアは安堵の息を吐く。
そして彼は何をするでも無く、崩壊が始まった格納庫のど真ん中に、落ち着き払った様子で腰を下ろした。
思えば、この「パトリア号」は彼が心の底から愛した女性が生まれ育った街である。
高貴な出自とは思えぬ程利かん気な彼女は、毎日都市の方々で遊び回り、多くの人々に可愛がられたと言う。
きっとこの格納庫にも、何度も足を運んだことだろう。
「まさか、こんな形で来ることになるとはな……」
そう溢すアルモニア。彼の脳裏には、妻と娘と過ごした掛け替えのない日々が甦る。
過ちの多い人生だった。悔いが残らないと言えば嘘になる。娘の苦難に満ちた将来を思えば尚更だ。
だがそれでも、アルモニアの面には穏やかな笑みが浮かんでいた。
彼はようやく、己を欺かずに娘の名を呼ぶことができたのだ。
「私が頭を撫でると、どうしても泣かせてしまうんだな。……またレギナに笑われる」
ただ残念なのは、最期に見る娘の姿が泣き顔であったことか。
「なあ、あの子を護ってやってくれ」
誰に聞こえるでもない祈りの声が、空漠とした格納庫に溶けてゆく。
「パトリア号」が完全に崩壊したのは、それから程なくしてのことだった。