WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の二十五 余燼 夜の海の片隅で

「捜索を打ち切るですって!? 恥を知りなさい! あなたたちはそれでも誇りあるエクリシアの騎士ですかッ!!」

 

 薄暗い遠征艇のブリッジに、憤激した女の声が響く。

 柳眉を逆立ててモニターに怒鳴りつけているのは、エクリシアはゼーン騎士団総長、ニネミア・ゼーンだ。

 彼女の前の投影モニターには、フィロドクス騎士団のジンゴとカスタノが映っている。

 

 ノマスが「パトリア号」を解体し、(マザー)トリガーを封鎖してから、既に一両日が経過している。

 戦闘そのものは、(マザー)トリガーが封鎖されてから半時と経たないうちに集結していた。

 ノマスは比較的損傷の少なかった起動都市群に市民を乗せると、エクリシアの軍勢を置き去りにして、一目散に戦場から離脱を始めたのだ。

 

 こうなれば、状況は緒戦の焼き直しになる。

 トリオン障壁によって(ゲート)が封じられた以上、エクリシアの兵団は逃げ回る機動都市軍を捉えることができない。

 

 さりとて(マザー)トリガーを制圧しようとしても、地下深くまで張り巡らされた防壁がそれを阻む。

 大量の土砂に加えて、防壁には電撃を発生させる迎撃機能が備わっており、投入したワムは防壁に触れるや即座に破壊された。

 

 エクリシアの装備では、撤退期限までに(マザー)トリガーを制圧することは不可能だ。

 完全な手詰まりである。フィロドクス騎士団はその日の内に本国への撤退を提言したが、それも当然と言えた。だが、

 

「ふざけないで頂戴! あの子たちを、イリニ騎士団の朋友を、こんな場所に置き去りにしていくというの!?」

 

 只一人、ゼーン騎士団のニネミアだけが、頑なに撤退を拒否していた。

 イリニ騎士団のアルモニア、フィリア両名はノマスの首都都市「パトリア号」へと突入し、深部まで到達したのだが、都市の崩壊に巻き込まれて消息を絶った。

 彼女は行方不明となった二人を、ギリギリまで捜索し続けるべきだと主張しているのだ。

 

「お気持ちは分かります閣下。ですが、あれほどの広大な範囲からお二人を探すには、時間も機材も、何もかもが余りに不足しています」

「だからと言って、諦めていい理由にはならないでしょう!!」

 

 沈痛な面持ちを浮かべながら諌めるジンゴに、ニネミアはなおも食って掛かる。しかし、

 

「残念ですが、「光彩の影(カタフニア)」で消息を掴めたときには二人ともトリオン体を失っていました。あの崩壊に巻き込まれてしまっては、生存は絶望的でしょう」

 

 ジンゴの主張を補足するように、カスタノがそう語りかける。

 フィロドクス騎士団の説明によれば、「パトリア号」の内部は、ノマスの手によってほぼ完全な通信封鎖が行われていたらしい。ニネミアが突入班の動向を探れなかったのも、それが原因だという。

 侵入が遅れたフィロドクス騎士団は、先行したアルモニア、フィリアに到頭追いつくことができなかった。

 

 深部まで到達した二人は、しかし(ブラック)トリガーを含めた敵の精鋭と交戦し、奮戦虚しく撃破された。フィロドクス騎士団の面々も敵からの思わぬ反撃を受け、彼らを回収できずに撤退する羽目になったという。

 

「確かに(ブラック)トリガーを失ったのは痛恨事ですが、これ以上損失を出してはなりません。深入りは避けるべきかと」

 

 生身のまま「パトリア号」に取り残されたアルモニアとフィリアが生き延びている可能性は皆無だ。その事実は、彼らが所持していた二本の(ブラック)トリガーの損失をも意味する。

 国威の象徴である(ブラック)トリガーの喪失は、或いはその使い手の命より重い。

 

「そんな事を論じているのではありません! 貴族の沽券に、人間の尊厳に係わる問題を話しているのよ! 故国に身命を捧げた人たちを置き去りにするなんて、許されることではないわ! ……たとえ、たとえ、それが遺体であっても、連れて帰ってあげるのが情けと言うものでしょう!」

 

 しかし、ニネミアにとって(ブラック)トリガーの話は二の次である。彼女はただひたすらに同朋たちを国元に連れ帰ることだけを念頭に、捜索を主張している。

 彼女が密かに思いを寄せていたアルモニア。そして彼女が妹のように可愛がっていた友人フィリア。

 

 特に、フィリアについての思いは殊更に強い。少女を戦地へと連れてきたのは彼女だ。ならば、どんな形であっても彼女が連れて帰らなければならない。

 貴族たらんと己を作り上げてきたニネミアにとって、同朋を見捨てて逃げ帰るなど、誇りに掛けて許すことはできない。だが、

 

「……ゼーン閣下のお気持ちは御尤も。されど、どうかお聞き入れ願いませぬか」

 

 議論を遮るようにして、しゃがれた声が通信に混じる。

 会話に割って入ったのは、白髭鷲鼻の老人、クレヴォ・フィロドクスである。

 

「閣下! お怪我はよろしいのですか? 御無理をなさらないでください」

 

 エクリシアの最長老にして、今遠征の指揮官でもある老人の登場に、然しものニネミアも怒気を納めて尋ねる。

 彼は「パトリア号」内でノマスの(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」と交戦し、トリオン体を破壊された。衝撃は生身の体にも及び、壁面に叩き付けられたことで右腕とわき腹の骨を折る重傷を負っている。

 顔面が蒼白なのは痛み止めの効き目が薄れてきているためだろう。そんな有様でありながら、クレヴォはテーブルに左手を付き、ニネミアへ深々と頭を下げる。

 

「彼らを助け出せなんだのは、偏に我らフィロドクス家の落ち度。国元に帰ったのちは、如何なる叱責でも甘んじて受け入れよう。……ただ、我らは既に満身創痍。これ以上の戦闘は、残った騎士たちにをも危険に晒すじゃろう。ゼーン閣下にはどうか、撤退に御理解を頂きたい」

 

 苦しげに呻きながら、クレヴォは切々と騎士団の窮状を訴える。

 先の決戦で、エクリシアが持ち込んだトリオンは殆ど使い切ってしまった。「誓願の鎧(パノプリア)」の損耗も激しく、トリオン兵も残り少ない。

 

 只でさえ湯水の如くトリオンを消費するエクリシアの騎士である。

 遠征に投入された人員では、回復できるトリオンなど焼け石に水。次に大規模な戦闘が起こればとても持たない。

 これ以上ノマスの地に留まること自体が、看過できないリスクなのだ。

 

「っ~~」

 

 その辺りの事情が分からないニネミアではない。

 死者の尊厳を保つより、生者の今後を考えるべきとのフィロドクス家の意見は、指導者としてはまったく理に適っている。

 しかも、それを述べているは重傷を負った老人である。

 ニネミアは頭を下げるクレヴォを見ると、途端に自責の念に駆られる。

 

「……承知しました。ゼーン騎士団は、本国への帰還に同意します」

 

 感情と理屈の板挟みに煩悶していた彼女は、無念を滲ませた声で撤退に賛同する。

 手短に諸々のスケジュールを確認すると、彼女はフィロドクス騎士団との通信を終えた。

 面を伏せたまま、遠征艇のブリッジに立ち尽くすニネミア。

 彼女の紅い瞳が涙に濡れていたことに、気付いた者はいなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ゼーン騎士団との会議を終え、本国への撤退が決定されるや、フィロドクス騎士団の遠征艇ブリッジは安堵の息で満たされた。

 居並ぶ面々は当主のクレヴォに、二人の息子ジンゴとカスタノ、それに家令のエンバシアだけだ。騎士団の他の面々には撤退の為の作業を行わせており、当面の間ブリッジに立ち入ることはない。すると、

 

「想定外のこともありましたが、当初の目標は概ね達成しました。今回の遠征は成功と言っていいでしょう」

 

 先ほどまでの沈痛な面持ちとは打って変わって、明らかに上機嫌な様子でジンゴがそう述べた。

 

「口を慎め。誰が聞いているか分からんぞ」

 

 そんな息子の豹変ぶりに、クレヴォは疲れた表情で苦言を呈す。だが、

 

「はは、親父殿は心配性だな。配下の連中に咎めるような輩はいねえよ。ちゃんと、道理を弁えた奴を選んで連れてきたからな」

 

 次男のカスタノは酷薄な笑みを浮かべて混ぜっ返す。

 

「……イリニ閣下は姪御殿と共に戦死。羽翼たるディミオス卿も意識不明の重体とあっては、イリニ騎士団は立ち行きますまい」

 

 控え目にそう呟いたのは、コンソールを操っていたエンバシアだ。

 当主アルモニアと姪のフィリアが死亡したことで、イリニ家には直系の継承者がいなくなった。傍流から後継ぎを出すにしても、揉めに揉めるだろう。

 

 加えて、配下の家々を取りまとめていた譜代の家臣、ディミオス家のドクサもこの戦で重傷を負っている。

巨人の腱(メギストス)」の使い手レクスによる拳打をまともに喰らった彼は、生身となった状態で都市外殻へと叩きつけられた。

 すぐさま同朋が救出し、遠征艇で治療が行われたが、胸骨と背骨が砕け、内蔵にも深い傷を負っている。一命こそ取り留めたものの意識が戻るかは不明であり、仮に目覚めたとしても、重い後遺症が残るだろうとのことだ。

 

 当主、跡継ぎ、そして股肱の臣を失ったイリニ騎士団は、今後衰退を余儀なくされるだろう。

 そして動員できる兵隊が居なくなれば、勿論貴族としても立ち行かなくなる。

 エクリシアの国勢を預かる三大貴族の一角、イリニ家の没落。

 これこそ、ノマス遠征に当たってフィロドクス騎士団が秘密裏に企てた計画の目的である。多少の損害や想定外の事件は出来したものの、全体としては完璧に近い仕上がりになった。

 

 当主が居なくなれば、イリニ騎士団に属する家々を切り崩すのは容易い。主家が没落したとなれば、彼らは寝技を使うまでも無くフィロドクス家へと靡くだろう。

 同じく三大貴族の一つゼーン家も、配下の調略は順調に進んでいる。知勇兼備のアルモニアに比べれば、若輩者のニネミアは与し易い相手だ。

 これで、エクリシアの覇権はフィロドクス家が握ることとなる。首謀者の兄弟が喜びを隠しきれないのも無理はない。

 

「それにしても流石はノマス。質、量ともに申し分ない捕虜が得られたな」

 

 投影モニターに映し出された戦果を眺めつつ、ジンゴが得意げに笑う。

 今回の遠征の()()()()であるトリオン能力者の獲得も、大成功に終わった。

 捕虜としたノマスの民は莫大な数におよび、また優秀なトリオン機関を持つ者も数多くいる。彼らを絞り上げれば、先の防衛戦で蒙った被害を補うに十分なトリオンが得られるだろう。

 

「大国の名に恥じないねぇ。俺たちに使われるために、精魂込めて育ててくれた訳だ」

 

 陰惨にそう嘯くのはカスタノだ。

 膨大なトリオンを投じて行われた遠征が無事成功したことは、エクリシアの民を大いに喜ばせることだろう。発表の際に上手く味付けをすれば、アルモニアたちの戦死さえも覆い隠して大勝利と喧伝できる。だが、

 

「……(ブラック)トリガーが回収できなかったことは、痛手ではあったがな」

 

 歓喜に沸く息子たちに冷や水を浴びせるように、クレヴォがそう呟く。

 イリニ家伝来の「懲罰の杖(ポルフィルン)」と新造の(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」は、結局「パトリア号」と共に失われてしまった。アルモニアたちが破壊していればいいが、ノマスの手に渉ってしまえば厄介だ。

 

「はっ! あれだけ痛めつけてやれば満足に運用もできんでしょ。それにこっちだってあの「悪疫の苗(ミアズマ)」を鹵獲したんだ。直接扱える(ブラック)トリガーが増えたんだぜ? フィロドクス家(うち)にとって損な話でもないでしょうよ」

 

 クレヴォの危惧を、カスタノが笑い飛ばす。

 確かに(ブラック)トリガーを二本も失ったのは言い訳のしようも無い大失態だが、エクリシアはノマスの(ブラック)トリガーを一つ奪い取ることに成功している。

 

 しかも、鹵獲したトリガーはその騎士団に所有権がある。エクリシアで最も多くの兵員を抱えるフィロドクス騎士団なら、適合者は難なく見つかるだろう。

 カスタノの言う通り、イリニ家を弱体化させフィロドクス家の力を高めるなら悪くない展開だ。

 どの道、ノマスと再び軌道が接近するのは十余年後。それまでには、エクリシアはフィロドクス家によって更なる発展を遂げていることだろう。

 

「……もういい。ともかくお主ら、忘れてはおらんだろうな」

 

 笑み崩れる息子たちを冷めた目で見つめながら、クレヴォがそう切り出す。

 ジンゴとカスタノがアルモニア暗殺計画を立てたのはエクリシアの大権を握るためであったが、クレヴォがその陰謀に加担したのは全く別の理由からだ。

 

「分かっていますとも。次の教皇は間違いなく我らが義妹、オリュザが務めることになるでしょう」

 

 謹厳な面持ちで答えたのはジンゴだ。そして、

 

「安心しなよ親父殿。俺たちはお飾りの教皇になんてなるつもりはないさ。あの子が変わりにやってくれるなら、阻む理由なんてない」

 

 カスタノも浮ついた笑みをひっこめ、真面目な様子でそう言う。

 クレヴォがアルモニア暗殺計画を裁可したのは、偏に養女のオリュザの為だ。

 

 フィロドクス家の主だった者しか知らぬことだが、オリュザは進行性の脳腫瘍を患っており、余命は数年と申告されている。

 エクリシアの医療技術では根治不可能な病である。

 愛娘に降りかかった不幸を嘆くしかなかったクレヴォだが、そんな彼に一縷の光明が差したのはつい先日の事だ。

 

 神の代替わりに備えて諸々の準備が進められる中、オリュザが(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」の適合者であることが判明したのだ。

 エクリシアの国宝「不滅の灰(アナヴィオス)」は、トリガーそのものが無限にトリオンを生み出すという規格外の性能を有する。

 また、このトリガーの超絶の機能はそれだけではない。驚くべきことに、「不滅の灰(アナヴィオス)」を機動した者の肉体は齢を取らなくなるのだ。

 

 トリガーを用いてトリオン体を生成した場合、肉体はそのトリガーへと収納される。

 しかし、「不滅の灰(アナヴィオス)」のトリガー内では時間の進みが極限にまで停滞しているらしく、肉体は収納された瞬間からまったく変化しないと言うのだ。

 その証拠として、現教皇アヴリオ・エルピスは在位二百年を超えながらも、少年の姿を保ち続けている。

 不老不死の身となり、悠久の年月を(マザー)トリガーの護り手として過ごす。その為に、エクリシアの教皇には「不滅の灰(アナヴィオス)」の適合者であることが求められた。

 

 そして図らずも、難病を抱えるオリュザにその適性が認められたのだ。

 クレヴォはこれを運命だと感じ取った。老いさらばえた己より先に身罷る運命にあった愛娘に、延命の可能性が生まれたのだ。

 

 是が非でもオリュザを次期教皇に仕立て上げる。その為に、彼は悪辣な策謀を巡らせた。

 アルモニアを暗殺し、イリニ家の勢力を削いだのも計画の一つだ。

 

「よいか。まだ全てが成し遂げられた訳ではない。油断なく今後も動向を探れ」

 

 モニターの薄明かりに照らされながら、クレヴォが刃のように鋭い眼光で息子らを見る。

 

「ええ。此処までしておいて他家に神を輩出されては、すべてが水の泡ですのでね」

 

 言われるまでも無いとばかりに、ジンゴが頷く。

 

フィロドクス家(うち)の候補以上の奴がそうそう見つかるとは思えないが、まあ、手は尽くすとしますか」

 

 カスタノはわざとらしく肩をすくめてそう言う。

 オリュザを教皇の座につかせるには、フィロドクス家から神を出さねばならない。そのことについても、彼らには十分な勝算があった。

 ノマスの侵攻で候補者が殺されたというのは他家を欺くための嘘で、フィロドクス家は、次代の神に相応しいトリオン機関の持ち主を既に確保していたのだ。

 

 国土の維持どころか、拡張まで可能とする新たな神。

 神を出せば、フィロドクス家は次の数百年間エクリシアを牛耳ることができるだろう。もちろんオリュザが教皇となるのも確実だ。

 だが、神の代替わりまでにはまだ幾らかの猶予がある。幸運に恵まれた他家が、更なる適格者を見つけ出さないとも限らない。

 イリニ騎士団、ゼーン騎士団の力を削ぐのはそのためだ。

 

「父上。そろそろ休まれてはいかがですか? 些事は我々が片付けますので」

 

 知らずと間に険しい表情を浮かべていたクレヴォに、ジンゴが丁重にそう進める。

 孝行息子を絵に描いたような口ぶりだが、別に父を慮ってのことではない。此処でクレヴォに万が一のことがあれば、ジンゴらにとっても面倒なことになる。

 

「……ああ。そうさせてもらう」

 

 クレヴォは特に反論もせず、エンバシアに介添えされてブリッジを後にした。

 

「…………」

 

 救護室への途上、老人の脳裏に戦場での光景が甦る。

 クレヴォに裏切られ、驚愕の表情を浮かべるフィリア・イリニ。少女の叫び声が、彼の耳に木霊する。

 

「何故、何故か……」

「如何なされましたか? 旦那様」

 

 思わず呟いたクレヴォに、エンバシアが訝しげに問いかける。だが、

 

「いや、少し疲れただけだ」

 

 クレヴォは苦りきった表情でそう答えるのみ。

 自分を慕ってくれた幼子を、愛娘の友人であった少女を、クレヴォは卑劣にも背中から撃った。

 七十年以上生きた老人にとっても、これほど後味の悪い経験は稀だ。

 

「相も変わらず、この世界は残酷であることよ」

 

 クレヴォが誰に告げるともなくそう溢す。

 近界(ネイバーフッド)に浮かぶ全ての星は、常に人間の血を求めている。

 誰かの幸せを願うならば、他者の不幸でそれを贖わねばならない。その為に、近界(ネイバーフッド)に住まう民は「こちら」と「あちら」を峻別する。

 あまりにも無慈悲で残酷な、動かしがたい世界の摂理。

 そんな世界を長きにわたって見続けたクレヴォの、それは偽らざる嘆きであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 唸り狂う猛吹雪が、世界を真っ白に染め上げていた。

 視界は数メートルも無く、ただ茫漠とした景色の中、吹き付ける風の音だけが響く。

 

 ノマスから発進した小型艇は、近界(ネイバーフッド)の暗黒の海を十日余り漂った後、無事に氷の国パゲトンへと辿りついていた。

 

 だが、折悪しく着陸直後に猛吹雪に見舞われ、搭乗者たちは船から降りることができないでいた。

 いや、そもそも彼女たちに、行動する意思があったかどうか。

 

「レーションを温めておきました。……少しずつで構いませんから、食べてください」

 

 二人乗りの小型艇の中で、優しく囁くのは自律型トリオン兵ヌースだ。

 彼女は万能索で吸い口のついた銀色のパウチを持ち、操縦席の後方シートへと差し出している。だが、何時まで経ってもレーションは受け取られない。

 

「フィリア……」

 

 後部シートに座る少女フィリアは、両膝を抱えて俯いたまま声一つ漏らさない。

 エクリシアとノマスの激闘で、少女は余りに多くのモノを失った。

 母と弟妹を亡くし、同朋から裏切られ、そしてようやく父と知ったアルモニアさえ失った。見ず知らずの異国に命からがら逃げ延びた彼女に、どんな言葉が届くというのか。

 

「……では休みましょうか。大丈夫です。私はずっと、そばにいますから」

 

 フィリアの状態が思わしくないと悟ったヌースは、食料を脇に置くとコックピットを浮遊し、少女の足元へと近づく。

 

「…………」

 

 とその時、フィリアは俯いたまま、無言で膝を抱えていた手を解いた。

 ヌースはその意を察し、少女の胸元へと浮遊する。少女はヌースを両手で抱き寄せると、滑らかな体表に額を押し付け、力いっぱい抱きしめた。

 

「……私、がんばったんだよ」

 

 涙を滲ませた声で、フィリアが呟く。

 

「いっぱい痛かったり、辛かったり、悲しかったりしたけど、それでも私、精一杯がんばったんだよ」

「はい……はい。よく知っています。ずっと見ていましたから」

 

 イリニ家の使者が貧民街に訪れたあの日、フィリアの世界は変わった。

 愛する家族を護るため、幸福な未来へと至るため、少女は修羅の世界に自ら足を踏み入れた。

 それから過ごした二年余りの月日が、彼女にとって如何に過酷であったか。

 安寧など何処にもなく、貪欲に力を求め続けた。母の代わりを探すため、遠い異国に押し入って、命を掛けて戦った。だが、

 

「でも、何にも、何にもならなかった……」

 

 悲鳴のような囁き声が、ヌースの聴覚に届く。

 

「私には何にもできなかった! 何一つ、誰一人助けられなかった! お母さんも、サロスもアネシスも、イダニコも――お父さんだって!」

 

 喉から絞り出したかのような、小さく擦れた声でフィリアが叫ぶ。

 

「沢山人を傷つけたのに――殺して、荒らして、壊して……オルヒデアさんだって、私が殺したも同然なのに……なのに、私は、私は何もできなかった! ううん、それだけじゃない。私は復讐さえできなかったんだ! 母さんの、みんなの仇をやっと見つけたのに、私は、私は結局……」

「……フィリア、落ち着いてください。私はあなたが生きていてくれた。それだけで、本当に救われています」

 

 悔恨の情を吐き捨てる少女に、ヌースは寄り添い続ける。

 

「冷えますね。ヒーターの温度を上げましょうか」

 

 項垂れるフィリアを宥めながら、ヌースはそう言って器機を操作する。

 トリオン体の少女に暑さ寒さは直接的な害にならないが、染み入るような寒さは精神をも疲弊させる。治療は施したといえ、少女は生身に大怪我を負ったのだ。少しの負担でも掛けるべきではない。

 ただ、船に残された食糧、トリオンは残り少ない。数日中に行動を起こす必要がある。フィリアが回復しなければ、最悪ヌース単独ででも、この国の民に接触しなければならないだろう。

 

 それから、しばらくの時が過ぎた。

 夜半、吹雪はようやく収まり、周囲は夜の静けさに包まれていた。

 深閑とした闇の気配。雪に音が吸われ、目を瞑っていれば世界に誰もいなくなったかのような錯覚を覚える。

 

 微睡んでいたフィリアは、ふとした拍子に目を覚ました。

 少女が感じた違和は、辺りが妙に明るいことだ。

 トリオンを節約する為、船は照明を消してヒーターのみを付けている。計器類のぼんやりとした灯り以外に光源は無いはずだ。

 

 にも関わらず、少女のいるコックピットは奇妙な光にぼんやりと照らし出されていた。

 様々な色が溶け合ったかのような、淡く柔らかな白光。

 何気なく天を見上げたフィリアは、驚きに息を呑んだ。

 

「ッ――」

 

 晴れ渡った夜空には、まるで漆黒の緞帳に宝石をちりばめたように、満天の星が輝いていた。

 色も大きさも異なる様々な星々は、近界(ネイバーフッド)の夜の海を行き交う国の姿だ。

 それらが放つ光が積もった雪に反射して、幻想的な光景を作り出していたのだ。

 

「……なんで」

 

 だが、その美しい景色を目の当たりにしたフィリアの口から零れたのは、悔しさに滲んだ問いかけだった。

 

「どこの国でも、酷い事しかないのに。どんな人でも、辛い思いばっかりしてるのに 

 ……なんで、世界はこんなに綺麗なの?」

 

 フィリアは思わず嗚咽を漏らし、顔を覆って蹲った。

 この無情なる世界で、これからどうすればいいのか。

 護るべき人も、帰るべき場所も、生きる意味さえ見失った。

 

 絶望に責め苛まれた少女は、ただ涙を流すことしかできなかった。

 

 

                                  第六章へ続く

 

 

 

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