WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
日野家での時間は、緩やかに流れた。
数日経って熱が下がったフィリアは、それでも部屋から出ようとはせず、ベッドの上につくねんと座り込み、ぼんやりと壁を眺めて過ごしていた。
兄、てつことの対面は済んだ。兄は多くを問わず、ゆっくり療養してくれればいいと語り、てつこも警戒心こそ隠しもしなかったものの、異論を挟むことはなかった。
どうやらヌースからこちらの事情を聞いたらしいと察したフィリア。だが、少女は家族に会おうとはしなかった。無理心中に巻き込んだ相手に、どんな顔をして合えばいいのかわからない。
ヌースも同じ思いようで、彼女がフィリアを訪うことはなかった。ただ、
「これはシチューですな。おにくややさいをおなべでにこんだりょうりなのです」
リリエンタールだけが、フィリアの様子を見に足しげくやってくる。
フィリアの世話役に立候補したらしく、部屋から出たがらない少女に三度の食事を届けるのは彼の役目だ。
「おいしいですぞ! あたたかいうちにぜひ」
いちいち配膳の度に献立を説明し、つぶらな瞳で少女を見詰めるリリエンタール。
気鬱を病み、食欲などまるでわかないフィリアだが、幼児のように纏わりついてくる犬を邪険にすることもできず、渋々匙を手に取る。
物を食べ、身体を癒し、果たしてそれでどうなるのか。
無意味な生を過ごすことは耐え難い。しかし、死に安寧が得られないと知った以上、命を擲つことも躊躇われる。
休息と栄養を取ることで、次第に体力は戻っていく。
けれども、茫漠と過ごす時間は際限のない苦悩と絶望を産み、少女の精神を責め苛んでいた。
「……御馳走、さまでした」
「おそまつさまでした」
食事を終えると、リリエンタールはあれやこれやと熱心にフィリアへと話しかける。
幼いながらも少女の傷心を察して、何とか元気づけようとしているらしい。
身振り手振りを交えて一生懸命話すリリエンタール。フィリアは静かに話を聞き、時折相槌や質問を差し挟む。
何の打算も思惑も無く、赤心より紡がれるリリエンタールの言葉に、少女も幾らか苦悩を忘れ、取り留めのない会話に応じられるようになった。そうして食後の一時を過ごしていると、
「え、なになに新しい扉できてるじゃない」
と、可愛らしい少女の声が廊下から聞こえる。
「入るよ~! 今度は何の部屋作ったの?」
入室の許可も取らず扉を開けたのは、黒髪をショートカットにした可愛らしい女の子だった。年の頃はてつこと同じくらいか。少女はフィリアの姿を目の当たりにするや、
「って、え!? ……どちら様?」
目を大きく見開いて尋ねる。すると、
「何処繋がってんだか分からないんだから、いきなり部屋入んなって」
今度は少女の後ろからは、目つきの鋭いくせ毛の少年が現れた。
唐突な訪問者にたじろぐも、すぐにリリエンタールが説明してくれた。
彼女たちは日野家のお隣、春永家の双子の姉弟ゆきとさくらである。
日野家とは昵懇の仲で、こうしてよく遊びに来るそうだ。
「えーっと、外国の方? は、ハロー」
「いや、犬が日本語で話してんだから言葉通じてんだろ」
ゆきたちは見慣れぬ人物に興味津々で話しかける。だが、当のフィリアはうすぼんやりとしたまま、碌に返事もしない。
「あ、あれ~」
明るく社交的なゆきも、流石にフィリアの冷淡な態度には面食らったようだ。何か不興を買うようなことをしたのかと、焦慮に眉を寄せる。
「おわわわ、ちがうのですゆき! フィリアはきのうまでかぜでねこんでいたので、まだぐあいがよくないのです!」
大慌てでリリエンタールが弁解を並べ立てる。とはいえ、フィリアの来歴は伏せておくよう家族会議で決まっていたので、肝心なところは話せない。
嘘や誤魔化しの苦手なリリエンタールの説明は、しどろもどろで怪しいものになる。
「ふ~ん、そっか。病み上がりのところいきなりお邪魔してごめんなさい。元気になったら色々お話しましょうね」
ただ、ゆきとさくらは和やかにそう非礼を詫びる。
フィリアに何らかの事情があることは察したようだが、強いて尋ねるつもりもない。二人は適当に会話を切り上げ、フィリアの部屋から辞去した。
「ほ、ほひ~」
何とかフィリアの秘密を守れたと、リリエンタールが汗まみれで息を付く。
そんな彼を茫漠とした目で眺める少女に、
「フィリアのひみつはわたくしめがまもりますぞ! ひのけのせんぱいなので!」
と、犬はにっこり笑って見せる。
「でも、ゆきもさくらもフィリアがネイバーだとわかっても、そんなにおこらないとはおもうのです……きっとすぐともだちになれるのです」
反応の鈍いフィリアを案じてか、リリエンタールがそう付け加える。
彼がそこまで信頼を寄せているということは、春永姉弟はきっと疑うことなく善人なのだろう。
「きょうはクリスマスなので、ゆきやさくらにあやもきて、みんなでパーティーをするのです。きっとのたのしいので、よければフィリアもいっしょに……」
そしてリリエンタールは、友人らが訪ねてきた理由を述べる。
今日は
「……私は、いい」
だが、フィリアはその誘いを断った。
気の置けない友人たちと過ごす一時に、どうして余所者の自分が参加できようか。
戦乱に怯えることもなく、穏やかで豊かな暮らしを営む
己の酸鼻極まる人生に思いを馳せると、フィリアの胸はさらに塞いだ。
× × ×
その翌日。日野家の居間ではリリエンタールが椅子に腰かけ、神妙な顔で唸り声を上げていた。
「ふむう……」
顎に手をあて眉根を寄せ、さも思案投げ首といった風を装ってはいるが、ぬいぐるみのような見た目の所為で、どこか珍妙な光景である。
「あまりあせって考えないほうがいいんじゃないかしら」
「ですが、フィリアはぜんぜんげんきがもどらないのです」
そんなリリエンタールに優しく語りかけるのは幽霊少女のマリーだ。二人は日野家の新たな居候を、如何にして元気づけるかの相談をしていたのだ。
「みんなともそうだんしましょう? そうしたらいい考えが出てくるかも」
兄はヌースを伴って所用に出かけており、てつこも学校の関係で外出したため、今日はリリエンタールとマリーの二人で留守番である。
「それもそうですな。わたくしめとしては、なにかたのしいことをして、フィリアの気もちをあかるくしたいのです」
「すてきだとおもうわ。リリエンタールのふしぎな力をつかえば、きっとあの人もよろこぶはずよ」
二人は和気あいあいとフィリアを喜ばせるサプライズを相談する。彼らがここまで少女を気に掛けるのは、心根が優しいという理由からだけではない。
リリエンタールは特殊な出自とその身に宿した力によって、長い間拘禁生活を余儀なくされていた。そしてマリーも、幽霊となった経緯は悲惨なものであり、日野家に迎えられるまでは孤独な日々を過ごしていた。
そんな彼らにとって、フィリアの痛みや苦しみは我が事のように感じられるのだろう。
幼いながらも直向きに、リリエンタールたちは少女を救う方法を模索する。
とはいえ、容易く名案が浮かぶはずも無く、会議はそうそうに行き詰る。日野家のインターホンが鳴らされたのは、そんな時であった。
「む? はーい! どなたですかなー」
兄たちが不在な今、日野家の代表は自分である。
常々立派な弟に成らんこと心がけているリリエンタールは、喜び勇んで訪問者を出迎える。そうして玄関扉を開けると、
「む、紳士! ロン毛ししょう!」
そこに立っていたのは、黒服に身を包んだ二人の壮年男性であった。
「おや? わんちゃんがお出迎えとは……お兄さんは不在ですかな?」
端正な容貌をした金髪碧眼の男が、丁重ながらももったいぶった口調でそう話しかける。瀟洒な佇まいと、どこか胡散臭い雰囲気を纏った彼は紳士ウィルバー。自ら紳士であると宣言し、また実際に紳士たらんと務める酔狂人である。
「昨日は悪かったっスね。組織も年末は忙しいもんで……」
もう一人の男は、やたらと丈の短い黒服を着た、長い黒髪の男だ。彼はローライズ・ロンリー・ロン毛。本名は不詳で、紳士の部下である。
「あにうえにようじですかな?」
ふざけた格好の二人に、リリエンタールが尋ねる。
不審者丸出しの二人だが、実は彼らは国際的な非合法組織の構成員である。冗談のような話だが、この世界を裏から支配する「組織」は実在するのだ。
彼らと日野家はとある縁から知り合いになり、今でも交友関係は続いている。一時期は居候していたこともあり、日野家には頻繁に顔を出す。
「ええまあ。クリスマスパーティーに参加できなかった埋め合わせを、と思いましてね」
犬の質問に答えながら、二人は日野家の居間へと通される。
紳士らは当然の如く紅茶セットを携帯しており、ロン毛に茶を淹れさせると、紳士は優雅に一服を始める。普段はこうしてお茶を飲んだりお菓子を食べたり、リリエンタールやマリーを相手にチェスに興じるのだが、今日は一息つくと、来訪の目的を果たすべく荷物を取り出した。
「ささやかですが、我々からの贈り物です」
二人の前に差し出されたのは、綺麗にラッピングされた箱である。
彼らは友人たちの為に、一日遅れのクリスマスプレゼントを用意してきたのだ。
「ほわぁぁああ!」
「わあ!」
リリエンタールとマリーが歓声を上げ、子供らしい純真さで贈り物を見つめる。
「は――しかし紳士にこれをもらうのは……」
けれども、ふと我に返ったリリエンタールはそう呟き、うぬぬと頭を抱える。
リリエンタールと紳士はライバル関係を結んでおり、日夜鎬を削る間柄である。そんな相手から贈り物をもらうのに、リリエンタールが抵抗を感じるのは当然だ。
「ご安心を。敵に塩を送る。という格言がありましてな。敢えて贈り物をして相手を磨かせるのも、ライバルの特権なのです」
そんな犬を見た紳士は、紅茶を片手に得意げに嘯く。
紳士の余裕の言に、ふむふむと納得したリリエンタールは遠慮なく包み紙を破いた。
「――こ、これは!」
すると中から出てきたのは、樹脂でできたおもちゃの剣である。
華美な装飾を排した質実剛健な意匠。歴戦の風格を漂わせたその一振りは、寸こそ子供の手に扱えるほどの大きさしかないが――
「ライトニングみつひこのけん!」
リリエンタールが瞳を輝かせて叫ぶ。
彼が愛してやまないテレビ番組、ちょんまげ
憧れのヒーローと同じ剣を得て、リリエンタールは大興奮だ。
「ありがとうごます!」
と、熱っぽく紳士に礼を述べる。そして、
「――とってもすてきよ。ありがとう」
マリーも喜色満面で紳士らに感謝を伝える。
彼女が受け取ったのは、フリルが沢山ついた夢のようなドレスだ。だが、大きさは随分と小さい。マリーの友人、人形シャーロットの為の服だ。
先ほどまで深刻な相談をしていたのも忘れて、子供たちは新しい玩具に夢中になる。
紳士らも満足そうにその光景を眺めている。と思いきや、子供たちの間に入って遊び始めた。兄やてつこらが帰るまで待つつもりなのだろう。しかし、
「あら? こまったわ……」
と、マリーが声を上げる。
早速シャーロットに新しい服を着せてやろうとしたのだが、今着ている服がなかなか脱がせられないのだ。
「どうしたのです?」
と、リリエンタールがかっこいいポーズの練習を止めて駆けつける。
どうやらボタンか何かが引っ掛かって上手く外せないらしい。
「このぎ、わたくしめが!」
と、二人して人形の服を脱がせにかかった。紳士らは手伝わない。不精なのではなく、レディの着替えを見るのは紳士的ではないとの理由らしい。
「うでがぬけましたぞ。もうすこしです」
人形の服と格闘するリリエンタールとマリー。上手くボタンが外せ、あと少しで脱がすことができる。と思われたその時、
「ノ、ノーーーー!!」
誤って力を入れてしまったのか、ビリリと音を立ててシャーロットの服が破けてしまう。
「――!!」
驚愕に目を見開き、白い肌をさらに白くするマリー。
リリエンタールは狼狽も露わに、あわあわと右往左往する。
紳士たちも変事に気付いたようで、何事かと慌てて覗き込む。
突如出来した大事件に、日野家の居間は阿鼻叫喚の騒動に陥った。
× × ×
この日、フィリアは昼過ぎに目を覚ました。
自律神経が完全に狂っているらしく、最近は睡眠が極度に不安定になり、寝つきも悪い。クリスマスの夜は明け方までまんじりともせず過ごし、気が付いた時には太陽は高く昇っていた。
「……」
霞がかった頭のままベッドから抜け出すフィリア。
しばらくうっそりと佇んでいると、テーブルの上に食事が置いてあることに気付く。
リリエンタールが運んできたのだろう。拙い字でメモ書きが添えてある。
別段空腹を覚えた訳でもないが、フィリアは席に付いてブランチを取る。食べないと犬が心配する為だ。
そうして食事を終えると、今度は当然の身体活動として催してくる。
フィリアは億劫そうに部屋を出ると、一階のトイレを目指して廊下を歩いた。
思えば、不自然極まる造りをした家である。
建物そのものは二階建てのはずなのに、少女の部屋は三階にある。しかも窓から外を見れば、空中に直接首を出すことになるという、物理法則を無視した現象が起きる。
同じ階には広い浴場があるが、これも母屋の建坪からして明らかにおかしい。まるで三階部分が丸ごと特殊な空間になっているかのようだ。
ただ、材質や反応を見るにトリオンでできている訳でもないらしい。
窓から庭を見ると、ゴムで出来たような黒くて大きな人型が洗濯物を干している。喋る犬にしてもそうだが、まるで童話の中のような風景である。
いくら
ただ、フィリアには特に関心を抱いた様子はない。彼女の頭にあるのは、己への罪悪感と世界への絶望だけである。
「…………」
赤い階段を降りながら、取り留めの無い考えを巡らせる。
いつまでも無為徒食を続けることはできない。何時か終わりの時は来る。勢いに任せて死ねればよかったのだが、生き延びてしまったがゆえに少女には恐れが芽生えていた。果たして己は、今度こそ死ぬことができるのだろうか。
知らず知らずのうちに思考が死に塗りつぶされるフィリア。とその時、
「ぎゃわ――――!!」
悲痛な叫び声が、階下から聞こえた。
「――ッ!」
声の主は、問うまでも無くリリエンタールである。絶叫を耳にしたフィリアは懊悩を忘れ、弾かれたように走り出した。
三段跳びで階段を駆け下り、悲鳴の発信源であろう居間の扉を開く。
気鬱など関係ない。あれほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた犬の危機を見過ごすなど、少女の性格からして出来る事ではない。
勢いよく居間に踏み込んだフィリア。しかし、そこで彼女が見たのは、想像とはずいぶん異なった光景だった。
「うぶぶ、うぶ……あれ、ふぃりあ?」
目に涙を浮かべ、ずびずびと鼻を鳴らしながらフローリングに蹲っているのはリリエンタールだ。その周りには、黒ずくめの男が二人と、深刻そうな表情の幽霊少女マリーが座っている。
「…………?」
初対面の男二人に警戒を向けるが、彼らも怪訝な表情でフィリアを眺めている。場の気配からして、彼らが狼藉に及んだ訳でもないらしい。
ならば悲鳴の原因は? サイドエフェクトに頼るまでもなく、理由は一目で明らかとなった。
リリエンタールが手にしているのは裁縫針だ。それで突いてしまったのだろう。小さな手には血が滲んでいる。
マリーが絆創膏を貼ってやっているが、どうも一度や二度ではないらしい。リリエンタールの手は絆創膏で覆われそうになっている。
「びず……どうしたのですかフィリア。げんきになったのですか!」
それでも少女が居間へとやってきたのが嬉しいのか、リリエンタールは涙を浮かべたまま笑顔になる。
「あ……」
長らくまともに言葉を発していなかったせいか、咄嗟に返事ができない。
「その……悲鳴が、聞こえたから……」
それでも何とか呟くと、途端にリリエンタールは恥じ入ったように小さくなり、
「おさいほうをしていたら、ちょっとしっぱいしてしまったのです」
と、たどたどしく事情を説明する。話を纏めるに、どうやら彼らは人形の服を修繕しようとしていたらしい。
「――ッ!」
人形の持ち主がすぐそばにいることに改めて気付き、フィリアが蒼白となる。
件の少女マリーも、初対面の時の記憶がよみがえったのか、表情を強張らせてサッとソファーの後ろへと隠れる。
「ああ! ちがうのですぞフィリア! マリーはこわいおばけではないのです!」
両者の反応を目の当たりにするや、リリエンタールは傷の痛みなど忘れたかのように仲裁に乗り出した。すると、
「こちらの御嬢さんはどなたか、ご紹介を頂けますかな?」
ややこしくなりそうな気配を察知してか、紳士がリリエンタールにそう水を向ける。
フィリアとしても初対面の二人組は気になるため、自然とマリーから注意が離れた。
そうしてリリエンタールが互いを紹介するのだが、フィリアは出自を伏せねばならず、紳士らはそもそも来歴が不明なため、どうにも要領を得ない。
一先ず危険のない事だけを確認すると、フィリアと紳士らはなおも怪訝そうに顔を見合わせる。
「……あ、その……リリエンタールは、何を?」
気まずい空気の中、ともかくフィリアは悲鳴を上げた件について尋ねることにした。
返ってきたのは、人形の服を破いてしまい、みんなで繕おうとしたのだが、誤って針で手指を刺してしまった。と、見たままの事情である。
「うぶぶ……どうしてもうまくいかないのです」
自らの力不足を嘆くリリエンタール。
「シャーロットには新しいおようふくを着せたからへいきよ。あとでお兄さんにたのんでみましょう?」
マリーはそう言って犬を慰めるが、彼は一刻も早く服を治そうと躍起になっている。自分が服を破いてしまったという罪悪感もあるのだろう。
ならば紳士たちはどうしたのだろうかとフィリアが視線を向けると、
「いやあ……お恥ずかしい話ですが、
と、紳士が輝く笑顔でそう宣う。
「できなくはないんスけど、たぶん綺麗には仕上がんないと思うんスよね」
そしてロン毛のほうも、自信たっぷりに手に余ると答える。
この上なく駄目な返事を聞かされ、フィリアは思わず非難がましい眼差しを向けるも、当の二人は困った困ったと首を振るばかり。そして、
「……その服を、見せてくれますか?」
数拍の間を置いて、意を決したフィリアが口を開いた。
思いがけない提案に、皆の視線が集まる。
フィリアは膝を折ってフローリングに座ると、リリエンタールからシャーロットの服を受け取り、損傷個所を子細に検めた。
「うん。これなら……」
破断面は綺麗でほつれも無く、布地が薄くなっている様子も無い。どうやら縫い合わせていた古い糸が弾みで切れてしまっただけらしい。
別段難しい処置も必要無く、この場にあるソーイングセットで間に合うだろう。
「……少し、お借りしますね」
フィリアはリリエンタールの手から針と糸を受け取ると、縫い代から古い糸を丁寧に抜き取り、淀みない手つきで破れを繕い始めた。
「おおーー!!」
その様を見ていたリリエンタールとマリー、紳士にロン毛までもが、揃って感嘆の声を漏らす。
少女の手は流麗に、迷いなく動き、見る間に服を直していく。縫い目の細緻さ、目の揃い方はミシンも斯くやという程で、繕われた箇所は何処が破れていたかも分からない。
貧民時代に様々な仕事を掛け持ちしていたフィリアは、針子の内職もしていたことがある。また弟妹たちにも服を余り買ってやれなかったため、彼らの着古した服を繕ってやるのもフィリアの勤めだった。
戦場に身を置くようになってからは久しく手にしていなかった針と糸だが、身体に染み付いた技術はそう簡単に忘れられるものではない。
「これで……はい。できました」
パチリと糸を切り、埃を払ってやると、シャーロットの服は見事に元の装いを取り戻した。目の前で繰り広げられた華麗な技に、リリエンタールたちが歓声を上げる。
「すっかりもとどおりなのです! ありがとうごます!」
そしていつの間にか近くにやってきたマリーは、
「すごい……まほうのゆびだわ!」
と、嬉しそうに修繕された服を覗き込む。
「――!!」
「あ――」
幽霊少女の接近に、思わず身を強張らせるフィリア。マリーもそれに気付いて、慌てて引っ込もうとする。そんな二人を、
「ま、まつのです!」
と、リリエンタールが引きとめる。
小さな手を伸ばし、フィリアの手とマリーの腕を掴む。
「おはなしあいを、するのです!」
彼はフィリアとマリーの確執を、誰にも増して気に病んでいた。この機を逃せばさらに和解が遠のいてしまうと必死の形相で叫ぶ。
リリエンタールの嘆願に、二人は思わず居住まいを正す。そして、
「…………あの、シャーロットの服をなおしてくれてありがとう。この子もとてもよろこんでいると思うわ」
長い沈黙の後、マリーがそう呟いた。
まだ恐怖が消えていないのだろう。消え入りそうに小さく、儚げな声。それでも心からの感謝は、ありありと伝わる。
「……その子、シャーロットっていうの? 素敵な名前、だね」
そしてフィリアも、穏やかな表情でそう答える。彼女が怯えていたのは、幽霊という存在についてだ。大人しく可愛らしいマリーには、何の嫌悪も無い。
「ほわぁぁあ!」
初めてまともに言葉を交わした二人を見て、リリエンタールが快哉を叫ぶ。
「この間は……いきなり暴力を振るってしまって、ごめんなさい」
そしてフィリアは、マリーに初対面の時の非礼を詫びた。
「ううん、いいの。わたしも、びっくりさせてしまったかしらって、ずっと気になっていたの」
マリーは喜色を浮かべ、謝罪を快く受け入れる。
無事に蟠りを解いた二人にリリエンタールは大喜びし、事情を知らない紳士にロン毛もなぜか満足げに頷いている。
「……あなたは、本当に幽霊なの?」
お互いに改めて自己紹介を交わすと、フィリアが躊躇ったようにマリーにそう尋ねた。
「ええ。わたしはずっと前にしんでしまったみたいなの。でも、リリエンタールに、てんごくにいくのはあとでもいいっていわれて、このお家にきたのよ」
「……そう」
マリーの回答に、フィリアは複雑そうな表情で頷く。幽霊少女への抵抗は消えたが、死者の魂がその後も残り続けるというのは、彼女にとって恐怖すべき事実である。すると、
「いちどフィリアもおばけになってみるといいのです。そうすればきっとこわくなくなるのです」
と、リリエンタールがそんなことを言い出した。
「え?」
言葉の意味を正しく理解できないフィリア。
だが、リリエンタールはさも名案を思い付いたと言わんばかりに、マリーに何やら頼みごとをする。
そして幽霊少女がフィリアの手に触れた次の瞬間、
「――な!?」
ふわりと、重力が消え去ったかのようにフィリアの身体が軽くなった。
まるで宇宙空間にでも放り出されたかのように、全身が空中へと浮かびあがる。
変化はそれだけではない。少女の体が衣類も含めて半透明に透けているのだ。いや、正しく実体が消えている。何か掴める物はないかと振り回した手足が、ソファーをすり抜けたのだ。
異常事態に驚くフィリア。だが、彼女を幽霊にしたマリーや、それを嗾けたリリエンタールは楽しそうに笑っている。それどころか、
「もっとたくさんおばけをだすのです!」
と、さらに煽る始末。
そしてマリーが手を振ると、テーブルやぬいぐるみ、紅茶セットといった器物から、その形の幽霊が抜け出して、縦横無尽に居間の中を飛び回りだした。
幽霊少女マリーは様々な器物から幽霊を取り出すことができる。それが生き物の場合は、身体ごと幽霊にしてしまうのだ。
「すごいでしょう! たのしいでしょう! おばけになるのはこわくないのです!」
いつの間にか幽霊化したリリエンタールが、くるくる回りながらフィリアの側を飛んでいく。
居間は幽霊化したあらゆる物が飛び交い、収拾のつかない騒動になってしまった。
「わかった! わかりましたから! もう元に戻して!!」
混乱したフィリアが大声で叫ぶ。
すると、窓際に居たロン毛がさっとカーテンを開いた。
陽光が差し込むや、幽霊はたちまち淡雪のように消え去っていく。
そしてフィリアとリリエンタールも幽霊化が解け、フローリングの上にどさりと落ちる。
「どうでしたかな!? おもしろかったですかな!?」
未だ興奮冷めやらない様子で、リリエンタールが問いかける。だが、
「………………」
むくりと立ち上がったフィリアは腰に手を当て仁王立ちすると、犬を真上から見下ろし、
「そこに、座りなさい」
氷のように冷たい声でそう命じた。
「おわわ……」
「元気づけようとしてくれたことには感謝します。――でも、やり方というものがありますね?」
そうして怯えるリリエンタールを相手に、フィリアは厳然とした態度で御小言を述べる。
威風辺りを払うフィリアのお説教に、自然とマリーも紳士もロン毛も粛然と背筋を伸ばして聞き入る。
「うぶぶ。もうしわけないのです。そういえばひとをおばけにするのはてつこにもきんしされていたのです」
「まったくもう……せめて相手に何をするか、説明してからになさってください」
縮こまって詫びをいれるリリエンタールに、フィリアが呆れたように息を吐く。
もとより全くの善意から出た行動なので、本気で怒っている訳ではない。しかし、リリエンタールのはしゃぎぶりが如何にも子供らしく無軌道なので、つい小言を垂れずにはいられなくなったのだ。
「さあ、お説教はこれで終わりです。立っても構いませんよ」
そう言うフィリアは、今までになく柔らかで血が通った表情をしている。
「うぶぶ……てつこに、いいますかな?」
「内緒にしておいてあげます」
べそをかくリリエンタールを眺め、フィリアの口辺に思わず微笑みが浮かぶ。だが、
「――ッ!」
春の日差しのように穏やかだった少女の顔貌が、突如として険しく強張った。
「ふむ? どうしたのですかフィリア?」
少女の急激な変化に戸惑うリリエンタール。
何やら様子がおかしいと、マリーや紳士らも心配そうな視線を向ける。
「……いえ、なんでも、ありません」
少女は能面のような無表情を取り繕うと、そそくさと居間から出て行ってしまう。
廊下に出るや、彼女は端正な面立ちを苦悶に歪ませる。
「私は……何を……」
フィリアの胸にどす黒い感情が湧き起こる。
少女はリリエンタールやマリーに、亡き弟妹たちの姿を重ねあわせていたことに気付いたのだ。
もう取り戻すことのできない、家族との暖かな日々。
自ら望んで遠ざけ、そして永久に失った宝物。
家族を顧みなかった自分が、今更他人に姉のように振る舞うなど、どれだけ愚かで罪深い所業であることか。
「はっ……くぅっ……」
思わず、フィリアは胸を押さえて壁に寄り掛かった。
息が乱れる。心臓が早鐘を打つ。様々な思い出が無作為に脳裏に浮かび、思考がまったく定まらない。
かつてないほどに強烈な罪悪感と絶望が、刃物のように少女の心を切り裂いた。