WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
それからさらに数日後。
フィリアの容態は、一時に比べれば随分と落ち着いていた。
三食をきちんと取り、夜には休み、そして昼間は日野家と少しずつコミュニケーションを取るようになった。
年末の忙しい時期、兄やてつこは方々の用事で家を留守にする。幼いリリエンタールやマリーの面倒を、フィリアが代わりに見るのだ。
てつこは余りいい顔をしなかったが、子供たちはすっかり
むしろ、少女は細かいことによく気が付き、不在の兄に変わって幾らか家事までこなしてくれた。それも、てつこが不快に思わぬ絶妙な塩梅で、である。
応対こそ相変わらず冷淡なものの、初対面の頃のような危うさは成りを潜めている。相変わらずヌースとはまともに顔を合わせないが、それ以外は概ね良好な経過とみていいだろう。
そしてさらに日は過ぎ、大晦日の夜。
「ふんほ! ふんほ!」
両手を高々と天に掲げ、短い足を懸命に動かして、前後に行ったり来たりをしているのはリリエンタールだ。
「……それは?」
居間でいきなり珍妙な踊りを披露し始めた犬に、フィリアが小首をかしげる。すると、
「じょやのかねをつくれんしゅうをしているのです!」
と、犬は大真面目にそう答えた。
彼はこれから兄たちと共に、近所の寺院に参拝に行く。そこで年越しの祭事に参加するらしく、イメージトレーニングに余念がない。
「ゆきたち来たわよー!」
「はーい!」
玄関から呼ばうてつこの声に、リリエンタールが小走りで駆けていく。
フィリアも後を追って玄関に向かい、突っ掛けを履いて犬と共に外へ出る。
「おまたせました!」
玄関先でリリエンタールを待っていたのは、兄にてつこ、春永家のゆきとさくらに、紳士とロン毛である。
「それじゃあフィリアさん。後をお願いします」
見送りに出た少女に声を掛ける兄。フィリアは行事に参加するつもりはなく、日野家で留守番である。
「いってらっしゃい。くらいから気をつけてね」
同じく留守番組のマリーが手を振る。
彼女は幽霊という事情もあり、また人混みが苦手なため家で大人しくしているつもりだ。それに夜も遅いので眠いのだろう。マリーはどこかぼんやりとした表情をしている。
「はーい!」
元気よく返事をして、リリエンタールらは出かけて行った。
「……そろそろ、休みましょうか」
「うん。すこし、ねむたくなってきたわ」
一行を見送ったフィリアはマリーを連れて家に戻ると、共に三階へと上がる。
マリーは自分の部屋に入ると、人形のシャーロットと一緒にベッドへと潜りこんだ。
「……今日は、何の本を読もうか?」
フィリアはベッドのわきに椅子を寄せ、本棚から絵本を探す。
「くじらごうがいいわ!」
リクエスト通りの本を取り出すと、部屋の電気を消す。サイドランプの薄明かりの下、少女は朗読を始めた。
「くじら号はきれいなさんごしょうのうみをいきます。きれいなさかながたくさんついておよぎます」
穏やかで優しく、心に染み入るような声。
マリーは幻想的な絵物語を心に思い描きながら、静かに瞼を閉じる。
そうしてフィリアが絵本を読み終わる頃には、マリーはすっかり寝入っていた。
「…………」
この世の浄福を体現するかのような、安らかで愛らしいマリーの寝顔。幽霊少女をしばし黙然と眺めていたフィリアは、やがて明かりを消すと部屋を後にした。
居間へと戻ってきた彼女は、迷いなく部屋の片隅へと歩を進める。そして、
「この家を出る。準備して」
と、座布団に端坐するヌースへと語りかけた。
「何故、ですか……」
長らく会話の無かった少女から唐突にそう切り出され、ヌースが困惑する。
「私たちの痕跡を残さないように注意して。ここで作ったものは無い? 全部処分する」
フィリアは淡々とそう告げると、トリガーや種々の品々を雑嚢に放り込み、日野家から渡された衣類も脱ぎ、己の物と着替える。
「此処を離れ、何処に行くと言うのです?」
少女の指示に反駁するヌース。
「…………」
彼女は沈黙で答える。見れば、日野家にある食料や金銭には一切手を付けていない。何を考えているかは明らかだ。
「考え直してください。この家の人間は我々に友好的です。私たちを売り渡すようなことは決してないと、あなたも分かっている筈です」
少女の背を追いながら、ヌースは懸命に翻意を促す。
けれど、フィリアは説得に一切耳を貸さず、靴を履いて外へと出る。
「――」
吹き荒ぶ寒風が容赦なく吹き付け、薄着のフィリアは思わず顔を顰めた。
だが、日野家を離れる好機は今を措いては他にない。この家には常に誰かしらが居て、また銘々が少女の動向に鋭く意識を向けている。
年越しの祭事に参加する為、日野家の一同は今晩二か所の宗教施設を周るらしい。蓮乃辺市から離れる時間は充分にあるだろう。
「お願いです。早まった真似は止めてください。あなたはこの家の者たちとも親しくなったのでしょう? 彼らが心配するとは思わないのですか?」
抑揚のない、それでいて悲痛な声でヌースが語りかける。とその時、
「私たちが居座り続ければ、それだけこの家に迷惑が掛かる」
余りにしつこく話しかけられた為か、フィリアが足を止めてそう答える。
「違います。彼らは心からあなたの事を案じているのですよ。何も伝えずに黙って姿を晦ますなど、受けた恩義に背く行いです」
ヌースは道理と感情の両様から少女を押し留めようとする。
「……そんなの、どうだっていい」
懸命の説得に苛立ったのか、フィリアがそう吐き捨てた。
「私はもう疲れたの。……毎日、寝ても覚めても悪夢を見てるよう。リリエンタールたちの、この家の人の優しさに触れるのが辛い。私が失ってしまったものを、見せつけられているようで……」
胸を押さえ、苦悶に顔を歪めながらフィリアが述懐する。
「私たちがいた世界にも、この
痞えながらも、少女は言葉を振り絞る。
「死んでも、救われることはないのかもしれない。それどころか、幽霊になってずっと苦しむことになるのかもしれない。でも、このまま無為に生きていても、きっと同じ」
家族を失い、祖国から裏切られた彼女が、戦乱渦巻く
友として、後見人としてフィリアを生誕から見守ってきたヌースは、助言を与えることがあっても、常に少女の意思を尊重してきた。けれど、
「駄目です。それだけは、それだけは認められません」
今日ばかりは、少女の想いを真っ向から否定する。
「命を粗末にするような真似をして、あなたの家族が喜ぶと思うのですか? パイデイア、サロス、アネシス、イダニコ、アルモニア。彼らの顔を思い出しなさいフィリア。あなたは彼らの想いを、レギナの願いを否定するつもりですか!」
思わず声を荒らげ、ヌースは少女を叱りつける。
機械に有るまじき感情の発露に面食らったフィリア。今まで共に過ごしてきて、彼女がここまで怒りを露わにしたことはない。
だが、それが却って少女の感情を昂ぶらせることになった。
「うるさい! 私に指図しないで!」
箍が外れたように怒鳴りつけるフィリア。だが、
「いいえ。言わせてもらいます! あなたは家族の想いを裏切っています。今のあなたをみれば、あの子たちはさぞ嘆き悲しむでしょう!」
ヌースも負けじと言い返す。
胸に蟠る澱を吐き出すかのように口論する二人。彼女たちは憤怒も露わに、己の主張を声高に叫び、相手の無理解を詰る。そして、
「今更家族を引き合いに出すのはやめて! 母さんも父さんも死んだ! だいたいあなただって約束を破ったじゃない! サロスたちを護ってくれるよう頼んだのに、あの子たちは助からなかったっ!!」
「――ッ!!」
最後にフィリアが放った一言が、痛烈にヌースへと突き刺さった。
自律トリオン兵は返す言葉を失い、悄然として空中に浮かぶ。
「…………」
無益な舌戦を終えたフィリアは、乱れた息を整えると再び歩き出した ヌースは力なくその後を付いていく。その時、
「……人ん
日野家の門前に立つ人影が、不快気にそう謗る。
長い黒髪を二つ結びにした目つきの鋭い少女は、日野家の長女てつこだ。
彼女はフィリアを凝然と見つめ、さも面倒臭そうに息を吐いた。
× × ×
「何故……まさか!」
予想だにしなかったてつこの帰宅に、フィリアは動揺を顕にする。
長距離を全力で駆けてきたのだろう。彼女はうっすらと額に汗をかいている。明らかに出奔を知って戻ってきた様子だ。
何故てつこはフィリアの動向を知ることができたのか。理由はサイドエフェクトで直ぐ明らかとなった。少女は背後のヌースへ刺すような視線を向ける。
「挨拶もせずに出ていくつもり?
てつこの隣には、ヌースの子機が浮いている。自分ではフィリアの説得が難しいと考えたヌースが、万が一の事態に備えて日野家に預けていたモノだ。
「礼を失したことはお詫びします。……長らく世話になりました」
フィリアはそう言って、日野家の敷地から出ようと歩き始める。だが、
「話はまだ終わってない。アンタ、これから何処に行くつもり?」
立ちふさがったてつこが問い詰める。
「……あなたには、関係のないことです」
「大ありよ。誰が濡れ鼠になってアンタを引き上げたと思ってるの? 勝手に死なれちゃこっちも寝覚めが悪いのよ」
「…………」
自殺願望を直截に詰られ、フィリアが歯を強く噛みしめる。
「とにかく、一度家に戻りなさいよ。……あたしでも、兄貴でも、話なら聞くから」
語気を緩め、気遣わしげに語りかけるてつこ。だが、
「私の、邪魔をするな」
フィリアは憤怒を宿した双眸でてつこを睨みつけ、
「あなたたちに引きとめられる謂れはない。怪我をしたくなければ、道を開けなさい」
抜き身の刃のように硬く冷たい声で、そう告げる。
「……そう。まあ、言って聞くとは思ってなかったけど」
決裂の言葉を耳にするや、てつこは腰を落として拳法の構えを取り、
「そっちがその気なら、殴ってでも止めるわよ。どっちにしろ、話し合いよりこっちの方が得意だし」
決然とそう述べる。
「…………」
衝突は不可避と感じ取ると、フィリアも体を軽く開き、戦闘態勢を取った。
事ここに至った以上、武力を行使してでも速やかにこの場を離れる。
てつこに危害を加えれば、お人好しな日野家でもボーダーへの通報を躊躇わないだろう。だが、追っ手が掛かる前に自分を始末してしまえば済む話だ。
これ以上、日野家に関わるのは御免だった。善良無垢な彼らと付き合うと、己の劫罰を眼前に突きつけられる思いがするのだ。
てつこの佇まいは明らかに実力者のソレだが、トリガーは使用しない。ボーダーに検知される恐れがあるし、加減を誤って大怪我をさせかねないからだ。そして、
「――!」
弾指の間をおいて、先に動いたのはフィリアだった。
生身でありながら飛燕の如き速度で踏み込んだ少女は、てつこを一撃で昏倒させるべく、顎を狙って拳打を繰り出す。だが、
「な――」
まるで狙いを予期していたかのように、てつこが掌で打撃を弾いた。
しかも、ただ防いだだけではない。絶妙な角度で釣り込むように力を加えることで、フィリアの体勢まで崩したのだ。
「ッ!」
次いでてつこが繰り出したのは、腹部を狙う砲弾のような拳。
百戦錬磨のフィリアは瞬時に防御姿勢をとるが、転瞬、てつこの拳が突如として掌へと変じ、防御の為に翳した左手首を掴み取る。
(――擒拿術!)
関節技を仕掛けられると察知したフィリアは、身体を捻りながら後方に宙返りして、力尽くで拘束を解いた。
そして体勢を立て直すべく後方へと距離を取ろうとするが、てつこは影のように纏わりついて離れない。
迅雷の如き鋭さで、てつこが回し蹴りを放つ。フィリアは両腕で防御するが、受けても尚、骨の髄に響くほど重い。
「っ……」
手練れと予想はしていたが、まさかこれ程の猛者だったとは。
いくら卓越した腕前を持とうと、安寧の日々を過ごしていた
しかし、驚駭はてつこも同じだった。
自惚れではなく客観的な事実として、同年輩で己に比肩する武術家などそうは居ないだろうと思っていた彼女は、フィリアの並はずれた技量に危機感を新たにする。
「悪いけど、手加減できないわよ!」
てつこは攻勢へと転じ、猛烈な拳打の嵐をフィリアへと浴びせかける。
豊富な戦闘経験と超絶のサイドエフェクトを以てしても、猛攻を防ぐのは至難である。
対して、フィリアの揮う
「く……」
十手、二十手と交わすうちに、形勢が明らかにてつこへと傾いていく。
フィリアは攻撃を凌ぐのに精一杯で、徐々に追い詰められていく。
解せないのは、「直観智」のサイドエフェクトを用いているにも関わらず、状況が一向に打破できないことだ。
サイドエフェクトに従い最適な行動を取ろうとするも、てつこはこちらの動きを予期していたかのように技を変化させ、機先を制することができない。
(まさか、動きが読まれている!?)
まるで予知能力者を相手にしているかのようなやり辛さ。この感覚は、少女の父にして剣の師匠であるアルモニアと立ち会った時に近い。
フィリアは知る由もないが、
十代前半でその奥義を会得したてつこは、正に天才といっていい。
「ぐッ!」
打撃戦では勝ち目がないとみて組みつきにかかったフィリア。だが、てつこは密着状態にもかかわらず背面から勁力を放ち、少女を毬のように弾き飛ばす。
「……ちょっとは頭冷えた?」
母屋の玄関付近にまで吹き飛ばされたフィリアに、てつこが労わるように声を掛ける。
しかし、少女は無言のまま立ち上がると、玄関の引き戸をずらし、隙間から一本の傘を抜きとった。
「これしきで、私を止めるつもりですか」
一向に萎えぬ闘志と共に、フィリアがそう吐き捨てる。
「頑固そうとは思ってたけど、よっぽどね」
ため息をつきながらも、てつこは対手の変化を鋭敏に読み取り、さらに警戒を強めた。
傘を正眼に構えたフィリアは、身に纏う雰囲気が一変していた。同じく達人のてつこだから分かる。彼女の本来の流儀は剣だ。
つまり、ここからが本番。てつこは集中して拳を構える。
転瞬、フィリアの姿が掻き消えた。
「――!」
先ほどの疾風のような踏み込みとは異なる、動きの掴めない幻のような歩法。
毫の間も無く、瞠目するてつこの首筋に、雲耀の速度で傘が撃ち込まれる。
「ッ!」
超人的な反射速度で辛うじて斬撃から逃れるてつこ。
いくら柔く脆い傘といえども、あの速度で殴られれば大怪我、昏倒は免れない。
レンガを砕くほどの剛拳を容赦なく打ち込んでいるてつこが言えた義理ではないが、いよいよフィリアも本気になったらしい。
今までの小手調べとは違う。本気で互いを傷つけあう、或いは命の取り合いにまで発展しかねない段階へと、闘いは進んだのだ。
「この!」
リーチに差がある。受けに回っては不利と、てつこは果敢に拳打を打ち込む。
だが、得物を手にしたフィリアは、先ほどまでとは比べ物にならない技の冴えを見せた。
何も相手の動きを読むのはてつこの専売特許ではない。フィリアにはサイドエフェクトがある。条件は五分だ。
ならば、後は身に着けた技量、積み重ねた手練が勝敗を別つ。
不慣れな徒手格闘とは異なり、曲がりなりにも獲物を手にしたフィリアは、イリニ家伝来の剣術を十全に揮い、怒涛の如きてつこの攻撃を凌いでいく。
のみならず、鋭い返し技でてつこの技に綻びを作ると、一瞬の間隙を突いて強烈な反撃を叩き込む。
腕や足を雨傘が強かに打つ。これが本身の剣なら斬り飛ばしているところだが、それでも痛打は免れない。
「っ痛いわね!」
だが、てつこも負けてはいない。打たれた数だけ、フィリアに拳を叩き込む。その威力はフィリアの筋骨を軋ませ、内臓を震わす。
二人の少女は凄まじい形相で、凄絶な打ち合いを始める。
お互い必殺の威力を有する攻撃を警戒してか、前掛かりには攻めかからない。決定打を欠いたまま、一髪千鈞を引く攻防が目まぐるしく繰り広げられる。
錯綜する秘剣と絶技が、夜気を切り裂き地を穿つ。
若くして入神の域に達した武芸者二人。本来ならば出会うはずもなかった異なる世界の住人が、今ここに魂を賭けて鎬を削る。
しかし、激闘が決着を見ることはなかった。
「フィリア! てつこ!」
庭で争っている二人を見るなり、大声でそう呼びかけたのはリリエンタールだ。
祭事に出かけていた日野家の面々らが、今になって戻ってきたのだ。
「二人ともやめないか!」
暴風のように入り乱れ、本気の拳打と斬撃を交わしている少女らを目の当たりにしては、温厚な兄も流石に顔色を変える。
「これはこれは……由々しい事態ですな」
「てつこちゃんとまともに渡り合うとか、あの子何者なんスかね……」
紳士の表情からも飄逸さが消え、ロン毛も目の前の争いに呆けている。
「な、何? てつこが喧嘩してるの? 嘘!!」
「ってかあいつ足早すぎだろ。何しに帰ったかと思ったら……」
隣家の春永家の姉弟、ゆきとさくらも驚愕の表情を浮かべている。そして、
「……フィリア? てつこと何してるの?」
騒動の所為で目が覚めたのだろう。母屋の玄関からは、幽霊少女のマリーが姿を現した。
「くっ……」
危惧していた事態が起きてしまった。フィリアは眉を顰めると、てつことの打ち合いを中断し大きく間合いを離す。
「なにをしているのですてつこ! さきにいってフィリアをひきとめるのではなかったのですかな!?」
「だから引きとめてるじゃない。危ないからふん縛るまで近寄るんじゃないわよ」
狼狽も露わに二人を仲裁しようとするリリエンタールに、てつこが冷厳に答える。このままで終わる筈がないと感じているのだろう。てつこは構えを崩さぬまま、フィリアの一挙手一投足を油断なく見据えている。
「そこまでだ二人とも! 女の子が喧嘩なんてするんじゃない」
兄も慌てて間に入る。紳士らや春永家の二人も、心配そうに彼女の周りに駆けつける。
「わ、痣になってるよ。痛そう」
「痛いわよ。まだあいつに一発分貸しがあるの」
身体を改めるゆきに、苛立たしげに答えるてつこ。
そしてフィリアと言えば、すっかり場の空気が白けてしまったことに焦慮したのか、
「私はこの家を出ていきたいだけです。邪魔立てしないでください。……あなた方に、無用の危害は加えたくありません」
切々とそう告げる。
「…………」
途轍もない騒動を引き起こしたフィリアに、居合わせた面々が訝しげな視線を送る。日野家の面々以外は、彼女が
誰もが軽々しく口を開けず、辺りに静寂が満ちる。とその時、
「あ……ぅ……」
苦しげな少女の呻き声が聞こえる。
「ふたりとも……けんかは、だめ、よ……」
消え入りそうな声でそう呟くのはマリーだ。
夜闇に茫と浮かぶ真っ白な少女。その顔貌が、見て分かるほどに痛ましく歪んでいる。
家族として慕うてつこと、ようやく打ち解けてきたフィリア。二人の激し過ぎる喧嘩を目の当たりにして、動揺が収まらないのだろう。
人形シャーロットを固く抱きしめたマリーは、今にも泣き出しそうだ。
意思表示の乏しい少女がここまで感情を面にするのは滅多なことではない。衝撃の程は推して知るべしだろう。
「ねえフィリア。かさは人たたくものじゃないわ。……てつこも、ね?」
蹌踉として歩み来るマリーを、皆が気遣わしげに見遣る。
「そ、そうですぞ! ふたりともおちつくのです!」
異様な空気を打ち消そうとするかのように、リリエンタールがそう叫ぶ。
「フィリア……もう、いいのではないですか?」
子供たちの無垢な言葉に勇気づけられたかのように、それまで傍観を貫いていたヌースが言葉を掛けた。ただ、先の口論が余程堪えているのだろう。態度こそ平静だが、壊れ物に触れるような気遣いがある。
「…………さい」
項垂れて仲裁を聞いていたフィリアが、ぼそりと何事かを呟いた。
顔を上げた少女の瞳に、瞋恚の炎が宿っている。
「うるさいっ! 知ったような口を利くな! 誰も助けてなんて頼んでない! 構って欲しいだなんて望んでない! 私の事を思うなら、どうして放っておいてくれないの!?」
激昂して叫んだフィリアは、手にした傘を再び構え直す。
「――ッ! みんな離れて!」
戦闘の気配を感じ取ったてつこは、即座に迎撃態勢を取る。
刹那、フィリアが再び飛燕のように踏み込み、神速の斬撃を打ち込む。が、機敏に反応したてつこは、掌打を振るってその一撃を払う。その時、
「おぶッ!」
予期せぬ乱入者が、交錯する二人の間に踊り込んだ。
「「な――」」
驚愕は、フィリアとてつこ双方の喉から漏れた。
衝突する二人の間に割って入ったのはリリエンタールだ。咄嗟に動作を止めようとするがもう遅い。傘と掌は小さな犬にぶち当たり、勢いよく吹き飛ばす。
「ちょ、リリエンタール!」
ぬいぐるみのように庭を跳ね転がり、ガレージのシャッターに打ち付けられた犬を見て、てつこが我を忘れて駆け寄る。最早、フィリアとの戦いなど眼中に無い様子だ。
「た、大変だ!」
兄やゆきとさくら、紳士にロン毛にマリーまで駆けつけ、容態を窺う。
「うぶ、うぶぶ……ふたりとも、けんかはやめるのです」
技を中断したためか、それとも当たり方が良かったのか、幸いにもリリエンタールは軽傷で済んだらしく、ふらつきながらも直ぐに立ち上がった。
「はなせばきっとわかるのです。かんたんに、ぼうりょくをふるってはいけないのです」
痛ましく鼻血を出しながら、土まみれの犬が懸命に訴える。
てつこや兄が犬の体を探るが、大きな怪我はなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす一同。しかし、リリエンタールはまだぼんやりとした様子で、仲直りをするよう二人に頼み込んでいる。
「アンタねえ……いきなり飛び出してくるなんて何考えてるのよ」
てつこが呆れ顔で叱るも、犬はうぶうぶと唸るばかり。
一先ず鼻血を拭いてやったところで、一同はようやくフィリアの事を思い出し、庭へと視線を向ける。
すると、少女の様子が一変している。
「あ……ぁ……」
先ほどまでの凛呼たる立ち姿は何処へやら、フィリアは手にした傘を取り落とし、狼狽も露わに立ち竦んでいる。
顔からは血の気が引き、黄金の目は虚ろに虚空を泳いでいる。
「わ、わたしは……そんな……」
少女の変貌に、てつこたちが息を呑む。暴力的な気配は見る影も無く消え去り、ただ彼女は恐怖に打ち震えている。尋常の様子ではない。
「あ……わたくしめは、へいきですぞ……」
そんなフィリアに、よろめきながらもリリエンタールが歩み寄る。が、少女は怯えたように後ずさり、低く呻き声を漏らす。
「……たしは……いつも、そうだ」
独白を溢す少女に、皆が視線を送る。
戦場暮らしで荒みきってしまったとはいえ、元より善良で心優しい性格であったフィリアが、日野家に恩義を感じていなかった筈がない。
別けても、初対面から一貫して好意的な感情を向け、何くれとなく世話を焼いてくれたリリエンタールには、並々ならぬ感謝の思いを抱いていた。
その犬を、彼女は力の限り殴りつけた。父から教わった技で、痛めつけた。
「いつも、誰かを……傷つけて……」
危ういバランスで保たれていた精神の均衡が、この一事で完全に崩れた。
脳を支配していた憤怒が淡雪のように消え去り、代わりに沸き起こった自己嫌悪が思考をどす黒く染めていく。
「いるだけで……周りを、不幸に……」
正気を失ったフィリアに、一同が心配そうに顔を見合わせる。彼らもまた善良な性向の人々である。てつこと大喧嘩を繰り広げたとはいえ、明らかに狼狽した少女を責める者はいない。それどころか、
「ちょっと……うちのバカ犬は平気よ。どうしちゃったのよ」
と、てつこが気遣わしげに声を掛ける。
だが、フィリアはそんな言葉など耳に入っていないかのように首を振り、己の頭を両手で抱え込むと、
「生きているのが、間違いだったんだ。
――私は、生まれてくるべきじゃなかったんだ!!」
喉も裂けんばかりに絶叫する。
「な、ちょっとアンタ……」
呪いの言葉を吐き散らすフィリアに、てつこが駆け寄ろうとする。だがその時、
「おいちょっと待て! また光ってんぞコイツ!」
と、春永家のさくらがリリエンタールを指差して叫ぶ。
「なわ!?」
見れば、リリエンタールの小さな体が、ぼんやりと発光している。しかも、その光は見る間に強くなり、
「嘘でしょこんな時にッ!」
眩い閃光となって夜闇を白く塗りつぶした。そして――
「ああ……」
フィリアが呆然と嘆息する。
目を開けた時、一同が立っていたのは日野家の庭先ではなかった。
天には灼熱の太陽が輝き、足元には青々とした草が生い茂っている。
彼らが居たのは、広大な草原を見下ろす丘の上であった。土埃の混じった熱風が、容赦なく吹き寄せる。
異様な熱気の原因は、眼下に広がる光景にあった。
麗しい緑の大地を、白亜の外殻に身を包んだ異形が蹂躙している。
それは巨大な蜥蜴や、或いは虫や、はたまた魚や哺乳類、或いは人の形を取っている物さえあった。
地上を埋め尽くさんばかりのトリオン兵が、敵も味方もないかのように、互いを攻撃し合っているのだ。
いや、それだけではない。巨大なトリオン兵の陰に見え隠れするのは、明らかに人間と思しき兵隊たちだ。
服装も人種もことなる彼らは、やはりそれぞれが武器を持ち、終わる事のない殺し合いを繰り広げている。
「やっぱり、私は
誰かの血で、誰かの命を贖い続けるこの世の地獄。
フィリアが幼少より目の当たりにしてきた世界が、今ここに顕現した。