WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

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其の十 ただいま

「う、あぁ……」

 

 フィリアの喉から嗚咽が漏れる。

 

 静けさを取り戻した礼拝堂には、いつの間にか新たな人物の姿があった。

 鎧を脱いだアルモニアの隣には、彼と同じ金髪で、翠緑の瞳をした女性が立っている。

 春風のように柔らかで優しいその面差し、生けとし生けるものすべてを慈しむかのように微笑む女性は、フィリアの養母パイデイアだ。

 

「うそ……」

 

 夢にまで見た家族と、思いがけぬ再開を果たしたフィリアは、自分の目が信じられぬかのように呆然としている。

 だが、足だけは吸い寄せられるかのように彼らの元へと進んだ。

 

「あ、ちょ――」

 

 いきなり立ち上がり、魂を奪われたように歩き出した少女を、てつこが制止しようとするも、

 

「……行かせてあげてください。てつこ」

 

 と、ヌースが止める。

 

「あの人たちは誰なの? 敵ってわけじゃなさそうだけど……」

 

 事情の呑み込めない日野家の面々が、気を揉んで尋ねる。

 

「彼らはあの子の親です」

 

 端的にそう答えるヌース。

 

「でも、さっきの女みたいに危ない人かもしれないし……そもそも、あの人たちは誰の心から生まれたの? やっぱりフィリア?」

「いえ、その心配は無用です。それに、おそらく彼らは……」

 

 尚も怪訝な表情のてつこに、気遣い無用とヌースが言う。

 

「すみません。この場をお願いします」

 

 そしてヌースは飛翔し、フィリアの背を追う。

 

 蹌踉とした足取りの少女は、それでもなんとか祭壇前へと辿りつく。

 己が見ているのは幻ではないのかと疑うフィリア。しかし、不安気な表情を浮かべる少女を、アルモニアとパイデイアはそっと抱きしめた。

 

「あ、あぁぁ」

 

 その暖かさ。優しさ。肌から伝わる温もりや、匂いまでもが記憶と寸分も違わない。

 

「おとうさん! おかあさん!!」

 

 この三年間、懸命に押さえつけてきた感情が、遂に堰を切って溢れる。

 少女は滂沱の涙を流しながら、絶叫して二親に抱きついた。

 

「うぁああああああ!」

 

 母の胸に顔をうずめ、父に背を撫でられながら、フィリアは言葉にならない声を上げて泣き続ける。

 これまで大人びた印象しかなかった少女が、身も世も無く啼泣する姿に、日野家の面々は驚きながらも、深く心を打たれる。

 

 大して事情も分かっていないだろうに、感受性の強いリリエンタールなどは、少女の泣き声に釣られて涙を浮かべている。

 

「なんでわたしをおいってたの!? もうひとりはいやだよう!!」

 

 号泣はやがて泣訴へと変わった。

 少女は癇癪をおこしたように、二親に己の悲境を訴える。

 

「わたしだめだった! ひとりじゃなんにもできなかった! いきていくのもつらいの!」

 

 戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)を生き抜くためには、誰にも弱みを見せてはいけなかった。

 心に鉄の仮面を被り、脆弱な心をひた隠しにして戦い続けた少女は、愛する家族を前にした今、傷だらけの泣き虫な、ただの子供へと戻る。

 

「そうですか。やはりあなたたちを生み出したのは……」

 

 と、少女に追いついたヌースが、アルモニアとパイデイアを見てそう呟く。少女の二親はこの忠実なる友に手を触れ、長年の労苦を感謝する。 

 フィリアは依然、母の腕に抱かれながら嬰児のように泣き続ける。今までの苦労を必死に訴え、己や世間への悪罵を考え得る限り並べ立て、気が済むまで喚き散らす。

 

 次第に喉が枯れて来ると、今度は延々とすすり泣きを始めた。胸に蟠る感情が、尽きぬ涙と共に溢れていくようだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔には、あの年齢にそぐわぬ凛々しさは何処にもない。

 

 すると、いつの間にか少女の周りに新たな人影が生まれていた。

 小柄で華奢な三人の子供が、少女の背にそっと抱きつく。

 黒髪の少年はサロス。赤髪の少女はアネシス。金髪の少年はイダニコ。

 

 いずれも三年前に命を落とした、フィリアの弟妹たちである。

 涙に暮れる少女を励ますかのように、その身体に触れる子供たち。

 その時、フィリアの脳裏に卒然と様々なイメージが浮かんだ。

 

「――ッ!?」

 

 映像記録のように脳に風景が流れ込み、様々な感情が勃然と心に沸き起こる。その奇妙な体験に、フィリアは泣き濡れながらも混乱に陥る。

 そのイメージは、家族が過ごした様々な日々の記憶であった。沸き起こる感情も、その時に感じた思いそのままである。

 

 ただ不思議であったのは、何れの記憶も少女にはまったく覚えがない事であった。

 それが何時で、何をしていたのかははっきり分かる。ただし、見え方やその時に抱いた感情がまったく異なるのだ。

 

「――あ、あぁ」

 

 違和感の理由に思い当った時、フィリアは吾知れず嗚咽を漏らしていた。

 

 この煌めく映像と感情の波は、弟妹たち、そして父と母の記憶だ。

 少女と共に過ごした日々。彼らが何を見て、如何なることを考えていたのかが、まるで我がことのように感じられる。

 そして、何よりフィリアの心を打ち震えさせたのは、家族の記憶の中心に、常に自分の姿があったことだ。

 

「ふ、うぇ……」

 

 少女は感動の余りしゃくりあげ、あれほど流したはずの涙がさらに零れる。

 父が、母が、弟妹たちが、如何に自分を大切に想い、惜しみない愛情を注いでくれたことか。

 

「うぇえぇぇぇぇ」

 

 己が紛れも無く愛されていたことを再確認した少女は、嬰児のように泣き喚く。

 歓喜の想いが強ければ強いほど、家族を永劫失ってしまった事実が少女を苦しめるのだ。

 

「わたしもつれていって。ヌースといっしょに、みんなのところにいきたい」

 

 すすり泣きながら、幼子のように家族に訴えるフィリア。

 そんな少女を、アルモニアやパイデイア、サロスにアネシス、イダニコは、困ったような、それでいて愛おしげな表情で見つめる。

 しっかりと前を向き、生きて欲しいという家族の想いは伝わっているのだろう。けれど、少女は子供のように嫌々と駄々を捏ね、皆を困らせる。

 

 そうして泣き続けたフィリアは、暫くしてようやく多少落ち着きを取り戻した。

 家族を代わる代わる抱きしめ、意地でも離れないといった様子の少女に、弟妹たちが悪戯っぽい笑顔を向ける。

 

「……ぅ?」

 

 弟妹たちに背中を抱きかかえられ、腕を引かれて無理やり立たされる。泣き疲れた少女は然したる抵抗もできない。

 すると、今度はフィリアを慰めていたアルモニアとパイデイアが示し合せたかのように身体を脇へ避けた。

 

「え……」

 

 フィリアが呆然と呟く。豁然と開けた視界に、見知らぬ人物が立っていた。

 果たして何時の間に現れたのだろう。礼拝堂の最奥、祭壇の前に立っていたのは、少女と同じ褐色の肌をした女性であった。

 

「フィリアが、ふたり?」

 

 離れた場所から成り行きを見守っていたリリエンタールが、怪訝そうに呟く。

 

 彼が驚くのも無理はない。その女性は見れば見るほど、少女によく似ていたのだ。

 雪のように真っ白な髪に、黄金を溶かしたかのように輝く瞳。目鼻立ちや体格さえもが、フィリアに生き写しである。

 

 ただ、年齢と身に纏う雰囲気だけが明確に違う。

 祭壇の前に佇立する女性の齢頃は二十過ぎ。フィリアと比べれば姉のようにも見える。そして清冽で凛然とした佇まいのフィリアとは異なり、眼前の女性はすまし顔で立ち尽くしていながらも、隠し難い陽気さと茶目っ気を覗かせている。

 

 体に流れるノマスの血が教える。眼前の人物が誰なのか、少女は直ぐに合点がいった。

 

「あ……ぅ……」

 

 女性の正体が分かると、フィリアは尚更戸惑った。

 なぜ今、なぜこの場に彼女は現れたのか。

 自分と瓜二つの容姿をしたこの女性こそ、ノマスはドミヌス氏族の姫君レギナである。

 少女を産んだ、実の母親だ。

 

「ぅ……」

 

 夢にまでみた家族との再会を果たし、得難いひと時を過ごしていたというのに、彼女はいったい何用で現れたのか。

 血の繋がりは確かにある。けれど、レギナはフィリアを産んですぐに亡くなったと聞いている。事実として、フィリアは彼女の顔さえ覚えていない。

 

「あ、まって……」

 

 だが、弟妹たちは少女を急かすように引っ張り、レギナと対面させようとする。

 救いを求めてアルモニアとパイデイアを見るや、彼らも笑顔で頷くばかり。

 あれよあれよと言う間に、少女はレギナの前へと引き立てられた。弟妹は用事が済むや、さっさと後ろに下がってしまう。

 

「……う、あ……えっと……」

 

 感情を爆発させ、あれほど泣きじゃくった後である。心は乱れきっており、まともな言葉が一つも出てこない。

 そもそも、例え冷静な時に会ったとしても、今まで碌に気にもかけなかった人間相手に、何を喋れというのか。

 

「その……」

 

 もじもじと立ち尽くしているうちに、フィリアは多少の冷静さを取り戻した。すると、今度は己の狂態を思い出し、恥じ入るように赤くなる。袖でぐしゃぐしゃになった顔を拭くが、目元は腫れ、頬は涙痕でてらてらと光っており、酷い有様である。

 

 と、その時、何時まで経っても動かない少女に変わって、レギナが颯爽と歩き出した。

 彼女はフィリアの眼前に立つと、真正面から娘と向き合う。

 

「あ、うぅ……」

 

 一点の曇りも無い眼に見詰められ、フィリアは思わず首を竦める。だが、

 

「あ、あの!」

 

 逃げてばかりいては駄目だと、少女は勇気を振り絞って話しかけた。だが次の瞬間――

 

「――ぁ痛っ!」

 

 ゴチン、と凄まじい打撃音が礼拝堂に響いた。

 

 目の奥で星がチラつくような凄まじい衝撃。遅れてきたのは、文字通り頭が割れんばかりの痛みである。

 

「痛ぅ~~」

 

 咄嗟の事に、フィリアは何が起こったかも分からない。反射的に頭を押さえて蹲るうちに、ようやくレギナに拳骨を喰らわされたことに気付いた。

 

「な、何するのいきな――」

 

 怒り心頭に発した少女は憤然と立ち上がり、当然の権利として抗議しようとする。が、

 

「わ――きゃ――う――」

 

 発言を許した覚えはないと言わんばかりに、続けざまに三発の拳骨が容赦なくフィリアの頭に振り下ろされた。

 

「い、いたそうですな……」

 

 その様子を遠くから見ていたリリエンタールが、顔面を蒼白にして震えあがる。他の面々も、愁嘆場がいきなりどたばた劇(スラップスティック)に変わってしまい、困惑を隠せない。

 

「ううぅぅぅぅぅ」

 

 猛烈な痛みに、フィリアは頭を押さえて蹲るばかり。対して、娘を力いっぱいぶん殴った母親レギナは、腰に手を当て満足そうにフンと息をつく。

 

「わ、私が、何を……」

 

 ようやく立ち直ったフィリアが、目に涙を浮かべて抗議する。いきなり手加減なしの暴力に曝されたせいか、非難しつつも明らかに怯えている。すると、

 

「わ、こ、今度はなに……」

 

 レギナは両手を伸ばし、フィリアの両頬をがっしりと挟み込んだ。

 

「わ、わ、わ……」

 

 そしてぐいぐいと少女の首をねじり、身体を真後ろへと向けさせる。抵抗しようものなら首の骨を折ってやるぞと言わんばかりの強制ぶりだ。

 

「な、何! いったいなんなのこの人!」

 

 余りの暴虐ぶりにフィリアが思わず悲鳴を上げる。だが、振り返った先にいたパイデイアたちは、苦笑を浮かべて見物している。

 

「ちょ、ちょっと! いい加減怒りますよ!」

 

 家族の助勢が得られぬと悟ると、フィリアは勇を振るって暴君に抗議する。だがレギナは娘の言葉には一切耳を貸さず、かえってその後頭部を鷲掴みにする。そして、

 

「え――」

 

 レギナは教会の信徒席側へ向けて、フィリアの頭を無理やり下げさせた。勿論、自らも共に深く腰を折っている。

 

「あ…………」

 

 今更ながらに行為の意図を察したフィリアが、間の抜けた声を出す。

 

 この一連の騒動で、もっとも迷惑を蒙った者は誰か。

 言うまでもない。フィリアの自殺願望の巻き添えを食ったリリエンタールたちだ。それなのに彼らは、万難を排して少女を助けようと駆けつけてくれた。

 にもかかわらず、フィリアは彼らを突き離し、家族との再会に現を抜かしていた。とんだ恩知らずと謗られても仕方のないところだ。

 

 まずは親として、理非曲直を明らかにする。

 その為にレギナは、フィリアに痛烈な仕置きを加えたのだ。

 

「あ……あの!」

 

 少女は意を決して口を開く。すると、頭を押さえつけていた手は直ぐに離れた。

 

「皆様をこのような仕儀に巻き込んでしまい、お詫びの言葉もありません。本当に、本当にすみませんでした」

 

 と、リリエンタールらに向けて真摯に謝罪を述べる。すると、

 

「ほ、ほわぁああ! フィリアがげんきになったのです!」

 

 正気を取り戻した少女に、犬が歓声を上げる。他の面々も、ともかく少女が無事でよかったと胸を撫で下ろすばかりだ。

 

「別に、アンタが全部悪いって訳じゃないわよ。半分はうちのバカ犬の所為なんだから」

「おぶぶ、そうなのでした……」

 

 ただ、てつこだけがそっぽを向いて混ぜっ返す。何やら含羞の色を浮かべているのは、先ほど柄にもなく少女を励ましたのを思い出したのだろう。

 

「皆様……ありがとう、ございます」

 

 落命しかねないほどの危険に遭わせたのに、彼らは純粋に少女の無事を喜んでいる。

 その純粋さと善良さに、フィリアは顔を上げて心から感謝の意を述べる。すると、

 

「あ――」

 

 感動に立ち尽くす少女を、レギナがそっと背後から抱きしめた。

 その腕はどこまでも優しく、悲しいほどに力強い。

 きっと、こうして娘を抱擁することをずっと待ち望んでいたのだろう。

 

「…………」

 

 胸元に回されたレギナの手に、そっとフィリアが手を重ねる。途端に、母の想いが娘の心へと流れ込んだ。

 

「あぁ――」

 

 フィリアの誕生からレギナの死までは、一年にも満たない。だが、その短すぎる時間の中で、彼女が如何に娘を慈しみ、愛したか。

 母から受けた無限の愛情を知ったフィリアは、今ひとたび涙を溢す。

 それは先ほどまでの嘆きと怒りによるものではない。この上なく満ち足りた歓喜に伴う涙であった。

 

 そして、存分に娘を抱きしめたレギナは、一転してフィリアを再度振り返らせた。

 

「おかあ、さん」

 

 照れくさそうにそう呼ばう少女に、レギナは太陽のような笑みで答える。そして、

 

「はい。……はい」

 

 母に頭を撫でられながら、フィリアは真剣な面持ちで頷く。

 レギナが愛娘に、最後の教えを伝えているのだ。

 

 そこに言葉は必要ない。本当の愛は、ただそこにあるだけで伝わる。

 無事に母子の和解が住むと、それまで遠巻きに二人を見守っていた家族がやってくる。

 

「はい。必ずこの子を幸せにします」

 

 と、ヌースもレギナに触れ、思いを交わす。

 すると、アルモニアがそっとレギナの側に寄り添った。お互いを見つめる瞳には揺るぎない信頼と愛情がある。

 彼ら夫婦は、今一度娘を力強く抱きしめた。

 

「うん。……私、もう大丈夫だから」

 

 名残惜しそうに身を引いたフィリアが、家族を見渡してそう言う。

 

「きっと、大変なことも沢山あるだろうけど、私、ヌースと一緒に、ちゃんとやれるから」

 

 決然と告げる少女に、皆が頷く。

 そして家族に背を向けると、フィリアはヌースと共に礼拝堂を歩き出した。

 

 一歩一歩力強い足取りで、リリエンタールたちの元へ。

 その姿を見送る家族は、淡い光に包まれ消えていく。

 

 もう、少女は振り返らなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ご迷惑をお掛けしました。ところで、そもそもこの世界は何なのでしょうか?」

 

 リリエンタールらと合流したフィリアは、開口一番そう尋ねた。

 この世界は自分の心が元となって生み出され、しかもそれを成したのがリリエンタールであるらしいことはサイドエフェクトで理解している。

 

 ただ、何がどうなってこの超常世界が生まれたのかは判然としない。

 兄やさくらから説明を受けるが、案の定彼らも詳しい理屈は知らないらしい。しかし、

 

「心を改める、ですか」

「そうなのです。フィリアのなやみがなくなれば、おうちにかえれるのです」

 

 この危険極まる世界から抜け出すには、フィリアが強く帰還を念じなければならないと、リリエンタールが言う。

 

「妙ですね。私はもう、この場に居たいとは思っていませんが……」

 

 家族との邂逅で、フィリアの自殺願望は完全に消え去った。理屈から言えば、もう元の世界に戻っていてもおかしくない。

 いったい何が一同の帰還を阻んでいるのだろう。皆が揃って首を捻る。

 とその時、天地をひっくり返すかのような激震が、大聖堂を襲う。

 

「――危ない!」

 

 信徒用の長椅子が横滑りに動き、重たい祭壇が雪崩を打って崩れる。

 それらの調度品が当たれば大怪我は免れないが、ごむぞうが身を張って一同を庇い、てつことフィリアが機敏な動きで皆を誘導したことで、一先ずは無事に済んだ。だが、

 

「まだ揺れてる。これは……」

 

 低い地鳴りは延々と続いている。原因に心当たりが浮かんだフィリアは、皆を引き連れ急いで大聖堂から出る。そして、

 

「ああ……やっぱり、まだ私は、私を許せていないんだ」

 

 丘の上に君臨する醜悪な怪物を見つけ、少女は深く嘆息する。

 

「のわわわわ……」

 

 その怪物の姿に、リリエンタールのみならず、居並ぶ皆が揃って怖気を震う。

 

 激震を引き起こしたのは、カーラビーバの蛇体に「恐怖の軛(フォボス)」の上半身が融合した、人蛇の如き奇怪な大怪獣であった。

 その化け物の頭部、「恐怖の軛(フォボス)」の顔に当たる部分が大きく歪んでいる。精悍な兜で覆われていたであろう顔面が、生々しい人間の首へと入れ替わっている。

 

 みだれ髪を振り回し、刻一刻と人相を変える異様な顔貌。

 大聖堂でフィリアを手に掛けようとした無貌の怪物が、カーラビーバと「恐怖の軛(フォボス)」の身体を得て蘇ったのだ。

 天を裂かんばかりの悍ましい金切り声を張り上げ、無貌の怪物がフィリアを威嚇する。

 

「うん。何が言いたいか分かるよ。あなたは、私が生み出したんだから」

 

 怨嗟、憎悪、悲嘆、殺意。ありとあらゆる負の感情が入り混じったその叫び声を、フィリアは従容と受け入れる。

 この怪物こそ、フィリアが犯した罪の化身。そして少女に罰を与える刑吏なのだ。

 

「なななな、こんなかいじゅうのいうことをきいてはだめなのです! たべられてしまいますぞ!」

 

 落ち着き払った少女の姿に、またぞろ命を粗末にする気かとリリエンタールが叫ぶ。

 

「うん。大丈夫だよ。食べられたりなんかしない。するもんか」

 

 だが、フィリアは清爽の笑みと共にそう答える。

 

 生きる意思を取り戻したとはいえ、人生で犯した罪が消える訳はない。否、だからこそ、人はその罪に向き合い、贖う術を探さなければならない。

 フィリアは世界中の戦場を渡り歩き、数多の人を不幸にした。その自分が、簡単に死んでいいはずがない。

 

 アルモニアとパイデイアに会い、少女は心に淀んだ澱を吐き出した。

 サロス、アネシス、イダニコたちによって、少女は再び愛を知った。

 そしてレギナは、生きる者の義務を少女に教えた。

 

 ――フィリアは愛されている。過去の話ではなく、今もずっと。

 

 たとえ送り主が亡くなったとしても、貰った物が消えることはない。

 愛も、想いも、願いも、すべては胸中で皓々と輝き続けている。

 

 そして他者から多くを貰った人は、他者に同じだけ施さねばならない。

 人はそうして、連綿と営みを紡いできたのだから。

 

「どうすれば、あなたに許してもらえるのか分からない。でも、私はあなたに、自分自身に殺される訳にはいかないの!

 ――それじゃあきっと、何にも解決しないから!」

 

 怪物を真正面から見詰め、決然と言い放つフィリア。

 その想いに呼応するように、天が、地が、街が、怪物が、淡い光と共に輪郭を崩していく。少女が自らの心を制したため、世界が崩壊を始めたのだ。だが、

 

「ギイイイィィィッ!!」

 

 それでも怪物はフィリアを許さない。

 無顔の怪物は両手を構えると、桁違いのエネルギーを圧縮し始める。

 目も焼けんばかりの極光。解き放たれれば、大聖堂の聳える丘ごとフィリアたちを消し飛ばす威力になるだろう。

 

「身勝手なのは分かってる。――でも、私はまだ生きていたい」

 

 無貌の怪物が、フィリア目がけて砲撃を放つ。

 しかし、少女は昂然と胸を張り、死の閃光を迎え撃つ。

 転瞬、世界全てが白光に染まった。瞼を閉じても突き刺さる極光が、一同から視覚を奪う。

 

 そして皆の視力が回復した時、少女の心が生み出した怪物は原型を留めぬ程に破壊されていた。

 

「ごめんね。……でも、もう少しだけ」

 

 吾知れず、フィリアがそう呟く。

 破滅の光を退けたのは、一同を半球状に取り囲む透明な壁であった。

 

 満天の星の如き輝きを見せるその壁は、(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」。ありとあらゆる攻撃を跳ね返す無敵の盾である。怪物が砲撃を放つ直前、フィリアはパイデイアの残したトリガーを起動し、一同を護ったのだ。

 怪物はその巨大な上半身を完全に失っていた。砲撃が如何に凄まじい威力だったか、それだけでも一目瞭然だ。

 

 のみならず、怪物の砲撃は蒼天に巨大な風穴を開けていた。

 比喩例えではなく、空に本当に真っ白な穴が開いているのだ。そして、その穴を中心にして、まるでガラスが砕けていくかのように、世界がバラバラに散っていく。

 

「これで、元の世界に戻れるのかな」

「やったのですフィリア。じぶんのこころにかったのです!」

 

 ようやく元の世界に帰ることができると、皆が快哉を叫ぶ。

 そんな中、フィリアだけが何処か感慨深げに周囲を見渡している。地獄のような世界だが、此処は間違いなく己の心そのものだったのだ。

 自分の有り様が変われば、この世界も変化するのだろうか。余り来るべきではないと知りつつも、少女はそんな事を考えてしまう。

 

 やがて、崩壊は少女らの足元にまで及んだ。

 見渡す限り、白一色の景色。しかし、先ほどの閃光のような目に痛い眩さではなく、洗い立てのシーツのように、真っ白なキャンパスのように、何処までも広がるような、開放感のある光景だ。

 

 そして、いよいよ世界が終焉を迎えようとする。その時、

 

「すこし、じゃなくていいのです」

 

 と、何時の間にか少女の傍らに居たリリエンタールが呟いた。

 

「え?」

 

 先ほどの少女の独白を聞いていたのだろう。リリエンタールはたどたどしく、それでも己の想いを伝えようと言葉を紡ぐ。

 

「もっとたくさん、よくばってもいいのです。だって、たのしいことやうれしいことはいっぱいあるのです。だいすきなひとといっしょにいるのに、じかんはいくらあってもたりないですぞ」

「……うん。そうだね」

 

 真心からそう告げる犬に、フィリアは穏やかな表情で同意する。

 そうこうしているうちに、崩壊は一同の足元にまで及んだ。

 

 無限無窮に広がる白の世界。天地さえも定かではないが、不思議と不安はない。きっとこのまま、元の世界に帰れるという確信がある。

 徐々に光が強くなり、視界が白くかすんでいく。その刹那、

 

「あ――」

 

 フィリアが驚愕の声を漏らした。

 純白の世界にいつの間にか立っていたのは、絹のような黒髪と、濡れるような瞳をした麗しい女性だ。

 

「オルヒデア、さん」

 

 記憶のままの容姿をした乙女は、白く染まりゆく視界の中、確かに少女に向けて微笑みを送った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 気が付くと、一同は日野家の庭先へと戻っていた。

 夜色は墨を流したように濃く、隣家の灯りはもう消えている。

 吹きつける夜風は身を刺すほど冷たく、思わず皆が身震いした。

 

「はー、しんどかったー」

「今回はマジで危なかったな」

 

 と、春永家のゆきとさくらが帰還を喜ぶ。

 

「いやぁ、何とか無事に帰れてよかったよ。あ、フィリアさん、怪我は大丈夫? すぐに手当てしないと」

 

 そう問いかけるのは兄だ。

 幸いなことに、皆はかすり傷一つ追っていないが、少女は精神世界の怪物によって手を酷く引っ掻かれていた。

 

「ありがとうございます。でも、血ももう止まりましたし」

 

 フィリアはそう言いつつ、そっと手を隠した。あまり人に見せるものでもない。

 

「そ、そうだったのです! きゅうきゅうばこをとってくるのです!」

 

 と、リリエンタールがわたわたと慌てる。死と隣り合わせの大冒険から帰還したばかりとは思えないほど元気満点だ。すると、

 

「お、おはずかしい。おなかがへってきたのですな」

 

 と、リリエンタールが盛大に腹の虫を鳴らした。

 精神世界での戦いはあまりに過酷だった、無理からぬことだろう。

 

「じゃあ、少し早いけどおせち出しちゃおうか」

 

 お腹を空かせた犬を見て、兄が朗らかにそう言う。

 

「ああそう言えば、皆様、新年あけましておめでとうございます」

 

 とその時、紳士ウィルバーが一堂に向けてそんな事を言い出した。どうやらフィリアとの騒動に巻き込まれているうちに、とっくに日付は変わっていたらしい。

 

「ホントだ。もう元日じゃない」

 

 と、てつこが呆れたようにぼやく。すると、

 

「は! おせちをたべているばあいではないのですあにうえ! じょやのかねをつきにいかなくては! ああ、いやでもフィリアのけがをはやくなおさねば……」

 

 と、リリエンタールが息巻いてそう言う。

 

「鐘突きならもうとっくに済んでるわよ」

「なわ――」

 

 てつこに指摘され、リリエンタールはショックの余り硬直する。イメージトレーニングまでして、余程楽しみにしていたのだろう。

 

「あの……私の所為で、すみません」

 

 そんな犬を見かねて、フィリアが思わず謝罪を述べる。すると、

 

「おぶぶ……へっちゃらなのです。また、らいねんいけばいいのです」

 

 と、犬は鼻水を垂らしながらも強がって見せる。

 

「うーん。この後は初詣に行く予定だったけど、皆はどうする?」

 

 皆に尋ねたのは兄だ。

 

「私はパス。疲れたし、服汚れちゃったし。もうお風呂入って寝るわ」

 

 てつこがきっぱりとそう答える。

 見れば、一同はだいたい同じような考えらしい。

 結局、今夜はこの場で解散し、明日の朝、皆で揃って初詣に行くことになった。

 

「じゃあ、また明日ね~」

 

 ゆきとさくらが隣家へと帰っていく。

 そして日野家の面々も母屋に戻ろうとする。が、

 

「ちょっと、何でアンタらも入ろうとしてんのよ」

 

 さも当然の如く上がろうとする紳士らを、てつこが半眼で睨む。

 

「ふふ。埃に塗れた紳士の前に、素敵な温泉がある。これは運命といっていいのでは?」

「アジトまで戻るのがちょっと面倒なんスよね」

 

 悪びれも無く風呂を貸してくれと言う紳士に、あけすけに事情を話すロン毛。

 

「はぁ、怒るのも面倒くさくなってきた……」

 

 と、てつこがこめかみを指で叩いて呟く。

 もともと日野家に居候していたこともある二人だ。三階にある彼らの部屋もそのままなので、結局今晩は泊まることになった。

 話が纏まり、皆が動き始める。だが、

 

「む? どうしたのですか?」

 

 フィリアだけが、庭先にぽつねんと立ち尽くしている。

 不思議そうに尋ねるリリエンタールに、少女は困ったように目を伏せると、

 

「やはり、私がこの家のお世話になるのは良くないと思うのです」

 

 申し訳なさそうにそう呟く。

 

「私は近界民(ネイバー)ですから。もし私を匿っていることが公になれば、皆様にもご迷惑が掛かります。また私の所為で、皆様を危険な目に遭わせてしまったら……」

 

 少女はそう告白すると、深く項垂れる。

 戦乱渦巻く世界からやってきた異世界人の自分が、この善良で愛すべき日野家の人々と共にいていいのだろうかと、フィリアは不安を感じているのだ。だが、

 

「そんなことないのですぞ! ずっとおうちにいればいいのです」

 

 勿論、リリエンタールらがそんな事を気にするはずがない。

 

「僕も大歓迎だよ。今まで色々あったけど、みんなで力を合わせればなんとかなったし、そんなに気にすることないんじゃないかな」

「フィリアはとってもたいへんなまいにちだったもの。ゆっくり休んでも、だれもなにもいわないわ」

 

 と、兄とマリーも口々に励ます。ただ、てつこだけが不満げな表情を浮かべて、フィリアへと近づく。

 

「あ痛!」

 

 と、バチンと凄まじい音。てつこが指で少女の額を弾いたのだ。

 

「今更な事言ってんじゃないの。もう迷惑なら充分掛けられてるんだから。気にしてるんなら、行動で返してちょうだい。――あ、今の一発はさっき貸してた分だから。これで貸し借り無しよ」

 

 言うだけ言って、さっさと母屋に入ってしまう。

 随分乱暴な照れ隠しだが、少女を家に受け入れることを認めてくれたのだろう。

 

「まったくてつこは……」

 

 兄も苦笑いを浮かべ、リリエンタールとマリーを連れて家へと入る。

 フィリアはヌースと顔を見合わせ、そして二人して頷くと、彼らの後に続いた。

 

 引き戸を潜り、玄関へ。

 照明に照らされたその空間には、得も言えぬ温もりがある。

 靴を脱ぎ、母屋に上がろうとするフィリア。そんな彼女を、リリエンタールとマリー、兄にてつこが待ち構えていた。そして、

 

 

「「おかえりなさい!」」

 

 

 暖かな声で、日野家の皆がそう告げる。 フィリアは一瞬驚きの表情を浮かべた後、

 

 

「ただいま!」

 

 

 花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、そう答えた。

 

 

 

 

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