WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】   作:抱き猫

91 / 95
其の十一 新たな歩み

 焼けつくような日差しが、アスファルトに逃げ水を作り出している。

 朝方は元気のよかった蝉たちも、よほど暑さが堪えているのか昼は休憩中らしい。

 八月は下旬にも差し掛かったというのに、夏の勢いは一向に衰え知らずだ。

 

「今日もまた、一段と暑いですねぇ」

 

 小川が流れる閑静な住宅街を歩いているのは、褐色の肌をした白髪金瞳の少女フィリアだ。夏用のブラウスとデニムを纏った少女は、口ぶりとは裏腹に軽快な足取りで歩を進める。

 

「もうちょっとでつきますな。がんばるのです」

 

 と、少女にそう答えるのは、二本足で歩く黄色い犬リリエンタールだ。今日の彼は愛用の真っ赤なスカーフに加え、日差し除けの小さな麦藁帽を被っている。

 

 護岸工事された小川を道なりに進んでいくと、やがて短い太鼓橋が見える。それを超えると、正面には瓦葺の広壮な建物が現れた。

 この建物は、八城温泉旅館。紳士ウィルバーらが所属する「組織」の、日本におけるアジトの一つである。

 

 フィリアとリリエンタールは、躊躇うことなく旅館へと足を踏み入れた。

 

「ごめんくださーい」

 

 玄関を抜けると、落ち着いた和の雰囲気のロビーに出迎えられる。

 組織がアジトとして使用しているのは地下階だけで、地上階は真っ当に温泉旅館として営業している。間もなく、二人の姿を認めた女将さんが応接に訪れた。

 

「お世話になります。日野と申します」

 

 女将も組織の息がかかっており、フィリアの来意は承知している。

 二人はロビーの待合席に通され、冷たいお茶と菓子で供応を受けた。リリエンタールの事も見知っているので、犬だからといって入店を拒否されることもない。

 

「ほひ~。いきかえりますなぁ」

「はい。まったくです」

 

 炎天下を歩いてきたので、冷たいお茶が一層身体に染み入る。

 そうして二人がしばらくまったりとしていると、

 

「お、久しぶりだな。犬」

 

 旅館の奥から焦げ茶色の髪をした男が現れた。

 夏だと言うのに黒のスーツに身を包み、屋内なのにサングラスを掛けたその男性は、組織の構成員の一人、サングラス組のアキラである。

 組織がリリエンタールを狙っていた時、彼は実行部隊として日野家と何度か対立したことがある。しかし、今ではただの顔なじみだ。

 

「ああ、アキラさん。いつもヌースがお世話になっています」

 

 と、フィリアが立ち上がって礼を述べる。そして持参したトートバックからプラスチック製の密封容器を取り出すと、

 

「よければ、ねこさんと一緒に召し上がってください。お兄さんがつくったきゅうりの浅漬けです」

 

 と、笑顔で差し出す。年明けから日野家に住むことになったフィリアも、組織の面々とはそれなりに親しくなっていた。

 

「おう。ありがとよ」

 

 アキラは差し入れを快く受け取り、暫し一同と歓談する。そのうちに、

 

「すみません。待たせてしまいましたか」

 

 と、旅館の奥から黒服の男たちと共にヌースが現れた。

 

「お疲れ様ヌース。会合はどうだった?」

 

 フィリアがそう問いかける。

 日野家に迎え入れられ、組織とも繋がりを持つことになったフィリアたちは、戸籍など種々の面倒事に手を回してもらう見返りに、時折彼らに近界(ネイバーフッド)の情報を提供することになったのだ。

 

「はい。今回も大変有意義な会になりました」

 

 と、答えるヌース。

 

 とはいえ、近界民(ネイバー)の技術が組織に直接渡る訳ではない。

 組織の日本支部長シュバインは明晰な頭脳と優れた平衡感覚を持つ人物であり、近界民(ネイバー)の技術がもたらす利益と問題をよく理解していた。

 組織が有する資産は底知れず、またその権力は国家にも及ぶのだが、そもそも彼らは社会の裏で暗躍することで現在の地位を築き上げてきた。

 

 近界民(ネイバー)が有するトリオン技術は、社会の構造を根底から覆しかねない力を有している。

 人間一人から抽出したエネルギーがビルを吹き飛ばすほどの破壊力を産み、またトリオンから生まれた器物は、既存の兵器群では容易に破壊できぬ程の耐久力を持つ。

 例えばトリオン製の戦車や戦闘機を作ることができれば、その国は一躍世界を征服するほどの軍事力を得る事だろう。

 

 だが、技術は何時か漏洩し、競争は必ず激化する。

 仮にトリオン技術が公になれば、地球文明はその有り様を大きく変えざるを得なくなるだろう。そうなれば、組織とて大きな損害は免れない。

 

 ならば、組織がトリオン技術を独占すればどうか。

 この考えにも、日本支部長は軽々しく賛同しなかった。

 

 人間の精神は余りに脆弱であり、力を持てば容易に狂ってしまう。

 組織の前首領は、人を越えた力を手に入れたばかりに道を踏み外し、悲惨な末路を遂げることになった。

 彼の覆轍を踏むまいと、組織はトリオン技術を研究するに留め、基本的には封じ込めを行う方針を取っている。

 また、幸いなことに日本には近界民(ネイバー)の迎撃を任務とする機関ボーダーがある。組織はボーダーと密約を結ぶことで、トリオン技術が世間に広まるのを防いでいるのだ。

 

 そのような事情から、ヌースはある意味では平和裏に、組織へ近界(ネイバーフッド)に関する情報を提供することとなった。

 むしろ最近ではヌースの知識量と演算力を頼みに、組織の技術部から手伝いを申し込まれることも増えてきたらしい。

 彼女も地球独自の技術には教わることも多いそうで、ちょっとした顧問のような扱いまで受けている。

 会合が度々泊りがけになるのもその為だ。

 

「アキラさん。シュバインさんにどうぞよろしくお伝えください」

 

 フィリアは挨拶すると、トートバックにヌースを入れる。普段は紳士たちが送ってくれるのだが、今日は何やら大事な用事があるらしく、少女が迎えに来たのだ。

 

「おちゃとおかし、ごちそうさまでした!」

 

 温泉旅館を辞去し、二人はヌースと共に再び炎天下へ。

 蓮乃辺市までは電車で帰るので、最寄り駅まで仲良く歩く。

 

「はい。それでは再びお人形ごっこです。今度は上手くできるでしょうか?」

「もちろんですとも! おめいをへんじょうしますゆえ!」

 

 そうして駅に着くと、フィリアはリリエンタールに向かって朗らかに話しかける。

 公共機関に彼の事を説明するのは面倒なので、ぬいぐるみという(てい)にして電車に連れ込もうというのだ。

 リリエンタールを物扱いするのは気が退けるものの、箱に入れたりしては可哀想であり、また当人もゲーム感覚で楽しんでいるため、今ではすっかり常套手段になった。とはいえ、

 

「あ~わんちゃんだ!」

「ほ、ほむ!」

 

 乗り合わせた小さな女の子に話しかけられ、ついついリリエンタールは返事をしてしまう。それでなくとも人並み外れて好奇心の旺盛な彼は、車窓から見える景色に目を奪われたり、中吊り広告を声に出して読んでしまったりと、残念ながらぬいぐるみのふりを通せた試しがない。だが、

 

「この子、リリエンタールって言うんですよ」

「のわわ!?」

 

 と、フィリアは朗らかに微笑み、犬を女の子に紹介してしまう。

 元より改札を通るのが面倒なだけで、彼が他人と話す分には何の問題もないのだ。

 そしてまた、リリエンタールと言葉を交わした人々は不思議とみんな笑顔になる。彼を中心にして、魔法のように人の輪が紡がれるのだ。

 とはいえ、公共機関で大声での会話は厳禁。二人と子供は声を潜めてひっそりと会話を楽しんだ。

 程なくして、一同を乗せた電車は蓮乃辺市へと入った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 改札を出た二人は駐輪場へと向かう。自宅のある庭崎町までは少し距離があるので、預けていた自転車で帰るのだ。

 

「ほああああ―!」

 

 リリエンタールの乗るフライヤー号は、兄が手作りした一品物の自転車だ。空のように青い車体を颯爽と駆って、犬が走り出す。

 とはいえ、車体は彼の体格に合わせてあるので、速度は精々、大人の早足程度である。後ろを進むフィリアはのんびりと、夏の風を頬に受けながら追いかけていく。

 

「みちははしっこをとおるのです。くるまにはきをつけて」

「はい」

「かどをまがるときは、みぎをみてひだりをみて、もういっかいみぎをみるのです」

「はい。承知しました」

 

 リリエンタールは道すがら、先輩風を吹かしてフィリアに道交法を教える。

 少女が自転車に乗れるようになったのはつい先日のことだ。始めはこの玄界(ミデン)独自の走行機械の不安定さに手を焼いたものの、元々運動神経の極めて良い彼女は直ぐにコツを掴み、十全に乗りこなせるようになった。

 

 一切の燃料を用いず、それでいて徒歩より遥かに楽に、遥かに速く移動できる機械に、フィリアは深い感銘を受けていた。

 大げさな話のようだが、自転車は玄界(ミデン)の文化や思想を象徴する存在なのかもしれない。自転車の優れた設計思想、運用法と比較すれば、近界(ネイバーフッド)の国々は如何に限りある資源を無為に使い潰していたことか。

 

 そして、自転車に熱い情熱を注いでいるのは少女だけではない。リリエンタールもまた、この機械の魅力に取りつかれた一人である。彼は最近ようやく補助輪が取れたので、走るのが楽しくて仕方ないらしい。

 フィリアとリリエンタールが仲良く自転車を走らせていると、

 

「あ、リリエンタールだ!」

 

 すれ違った子供が、二人へと声を掛けた。

 蓮乃部市にはこの喋る犬の存在を知る人も多い。街を歩いていると、皆笑顔で話しかけてくる。喋る犬など気味悪がられそうなものだが、日野家の両親の声望は非常に高く、リリエンタールのような不思議な存在も、日野博士が関与しているならと当たり前のように受け入れられている。

 

「ごきげんよう!」

「こんにちは」

 

 と、子供に元気よく挨拶する二人。

 ついでにフィリアも、表向きは日野博士が海外から連れてきた子供ということになっている。何か聞かれても博士の名前を出せばすぐに納得されるのだから有難い話である。

 

「ほひ、ほひ……」

 

 順調に帰り道を進んでいた二人だが、ふとフィリアはリリエンタールの息遣いが荒くなっていることに気付いた。

 年少の子供がそうであるように、彼はとても元気だが、特別体力があるという訳ではない。また背が低い分だけ路面からの照り返しも強く、よほど暑いに違いない。

 自転車を漕ぐのに夢中になっているが、このままでは熱中症になってしまう。そこで、

 

「ねえリリエンタール。少し休憩しませんか? 喉が乾いてしまいました」

「ふむ?」

 

 と、フィリアは自分から小休止を申し出た。

 二人は近くのコンビニに自転車を止め、店内へ。

 

「みんなには内緒ですよ?」

 

 そしてアイスキャンディーを二本買い、外のベンチで食べ始めた。

 

「おいしいですな~つめたいですな~」

「本当に、素晴らしい発明品です」

 

 リリエンタールはサイダー味の、フィリアはチョコレート味のアイスを舐めながら、満面の笑顔で頷きあう。

 ベンチは日陰になっていて、熱気も多少は和らぐ。自然に二人は雑談を始めていた。

 

「かいすいよくはとてもたのしかったのです! つぎにいくときは、うきわなしでおよげるようになってるのです」

「そうですね。海、とても綺麗でしたものね」

 

 話題は先週訪れた四塚市の海水浴場だ。リリエンタールも随分と楽しんでいたが、玄界(ミデン)の海に幼少から思いを巡らせていたフィリアにとっても、感慨深い体験となった。

 それからリリエンタールは、フィリアに今後の予定を朗々と語りだした。

 

「あきには山にいくのです。木があかくなったりきいろくなったりするので、フィリアもみるといいのです。すごいですぞ!」

 

 秋になれば紅葉狩り、雪が降れば雪合戦。春はお花見にピクニック。夜には星を眺め、祝い事にはケーキを食べる。

 希望と喜びに満ちたリリエンタールの言葉を、フィリアは目を閉じてじっと聞き入る。

 玄界(ミデン)も決して理想郷という訳ではない。しかしそれでも、彼らのような善き人は居る。彼らが力を合わせて勝ち取った、幸せな日々がある。

 

「でも、いまだにひかってしまうのはとめられないのです。フィリアにもめいわくをかけてしまって、めんぼくないのです」

 

 と、今後の抱負を語り続けていたリリエンタールは、いつの間にか自らの不思議な力について述べていた。その身に宿る「RD(リアライズデバイス)」が未だに制御できないと悩んでいるらしい。

 

「私は、リリエンタールの力はそう悪いものではないと思いますよ」

 

 と、フィリアが言う。

 日野家に厄介になってから、リリエンタールの不思議な力に巻き込まれたことは幾度となくあった。

 奇妙な世界に迷い込んだり、人の意外な一面を見ることになったり、テレビの中の登場人物と友達になったことさえある。

 少女の心が具現化した時のような途轍もない危機はなかったが、大概の場合イメージ体には常識が通じず、多少の危険を伴った。

 

 その度に、フィリアはトリガーを用い、日野家の皆と力を合わせて奮闘したものだ。

 しかし、それらの大変な経験も、終わってみれば人との縁を繋いだり、心を成長させたりと、良い結果ばかりが残るように思う。

 

「リリエンタールの不思議な力は、きっとみんなの素直になりたい心に、手を貸してあげてるんじゃないかな」

 

 少女は優しくそう語りかける。

 

 人の思いは、煎じ詰めればただの肉体活動に過ぎない。

 眼でみることもできず、それそのものは何の力も持たない脳の電気信号を、人は心と呼び称し、惜しみなく崇敬する。

 

 けれど、人々が至尊の宝物として扱う心の、そのあり方の何と儚きことか。

 ほんの少しの怪我で、病で、或いは不幸で、悪意で、まるで風に吹かれた花のように、人の命は簡単に消えてしまう。

 

 そして肉体が滅びれば、内にあった心も、最早誰にも語りかけることはできなくなる。

 だが、実体のない心を、リリエンタールは形を与えて現実へと生み出すことができるのだ。

 

 それは、心に命を与える力だ。

 

「私はあなたの不思議な力に救われたんだよ。いっぱい辛かったり、苦しかったこともあったけれど……それでも、生きていてよかったって、今は心から思えるの。

 ――だから、ありがとう。リリエンタール」

 

 と、フィリアは満腔から感謝の言葉を述べる。

 何時しか、太陽も西の空へと傾いてきた。蝉たちも昼の休憩を終え、再び喧しい鳴き声を響かせはじめる

 ベンチに腰かけた二人は、夏の爽気に吹かれながら暫し歓談の時を過ごした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 二人が日野家へと戻ってきたのは、そろそろ夕方に差し掛かろうかという時刻である。

 自転車を仕舞おうと、母屋の隣にあるガレージへと進んでいく。

 

「あ、悪いけど自転車外に置いといて。後で中に入れとくから」

 

 と、ガレージの中からそう声を掛けてきたのはてつこだ。

 彼女はこの時間、拳法の鍛錬を日課としている。今も熱心に型稽古をしている最中だ。

 フィリアたちはてつこに帰宅の挨拶をすると、言いつけどおりガレージの前に自転車を並べて止める。

 

「それじゃあ、洗濯物を取り込みましょうか」

 

 と、フィリアがリリエンタールに声を掛けた。

 日野家で居候を始めた少女だが、無為徒食で過ごすのは収まりが悪く、自発的に家事を手伝い始めた。

 基本的に日野家の家事は兄の受け持ちなのだが、彼も多忙で、仕事や研究で度々家を空けることがある。そんな彼に変わって主婦業をこなすのが、最近の少女の仕事なのだ。

 

「そのぎ、わたくしめが!」

 

 と、元気よく答えるリリエンタール。

 彼やマリーもいい子なので、家の用事は積極的に手伝う。力仕事や上背のいる作業も、ごむぞうが助けてくれるので安心だ。

 フィリアは母屋に荷物を置こうと歩き出す。その時、

 

「あ~、ちょっと悪いんだけど、久しぶりに稽古に付き合ってくれない?」

 

 と、ガレージから首を覗かせたてつこが、少女に向けてそう言った。

 

「はい。それは構いませんが……」

 

 彼女がこのように自分から頼み事をするのは珍しい。しかも、フィリアの用事を遮ってというのは異例だ。思わず、その真意が那辺(なへん)にあるかを探ろうとする少女。すると、

 

「は! そうだった――あ、いやちがいますぞフィリア! せんたくものはわたくしめにおまかせを! てつこととっくんするといいのです」

 

 はたと何事かを思い出したらしきリリエンタールが、慌ててそんな事を言い出した。その奇妙な様子を見て、フィリアはサイドエフェクトで事情を察してしまう。が、

 

「わかりました。じゃあヌースも手伝ってあげて」

 

 と、少女は笑顔で空とぼけ、監督をヌースに任せて自室へと戻る。

 そうして運動着に着替え、髪を纏めるとてつこの待つガレージへ舞い戻った。

 

「約束組手ですか?」

「まだ体あったまってないでしょ。もう一回型からよ」

 

 と、二人は揃って拳法の型稽古を始める。

 出会ったばかりの頃は露骨に警戒していたてつこも、今ではすっかりフィリアと打ち解けていた。

 頑固ながらも心優しいてつこと、温和ながらも意志の強いフィリアはよく馬が合い、また同性で年頃も近く、共に武芸への造詣が深い事もあってか、二人はすぐに親密な友人となった。

 

 また、激闘を交わした縁から、双方が共にお互いの武術について教え合い、暇さえあれば二人して稽古に励むようになった。

 今回は、てつこの拳法修行にフィリアが付き合う番だ。

 

「――」

 

 気息を整え、骨、筋肉、筋はおろか、血管や神経にまで意識を張り巡らす。無意識下で行われる全ての肉体機能に、呼吸を、動作を連動させる。

 

 全身が一分の乱れもなく調和した働きを見せた時、肉体は想像を超えた膂力と速力を発揮する。鋼の如き拳足は岩盤をも打ち砕き、羽毛の如き軽やかさとなった身体は紫電の速さで動く。

 

 玄界(ミデン)は東洋に伝わる「気」の概念を用いた修練法は、しかし、フィリアが修めたイリニ流剣術とも相通じる教えがあった。

 

 トリオン体の運用を探求していけば、畢竟、辿りつくのは元となる肉体の操作法だ。人体の神秘を解き明かし、その真理を体得することで、初めて技は意味を成す。

 

「…………」

 

 細く静かに呼吸を整えながら、丁寧に套路を確認する二人。

 ゆったりとした動きだが、その内には深遠な威力と千変万態の変化がある。

 

 拳法を習い始めて僅か半年余りのフィリアだが、一芸は道に通ずるの境地に達していた少女は、すぐに全ての技とその要訣を会得した。

 だが、幾ら才気に満ちた少女でも、拳法の蘊奥を極めるのは簡単ではない。

 

「重心が前に掛かりすぎてる。気を付けて」

「はい」

 

 てつこに指摘されながら、フィリアは拳足を虚空へと舞わす。

 然程の運動量には見えないのに、少女の額には汗が浮かんでいる。歩法一つ、呼吸法一つとっても、疎かにはできない。

 

 そうして型稽古を終えた二人は、次いで約束稽古を始める。

 これは実際に人体を相手に技を仕掛けるが、事前に攻め手と受け手を定め、用いる技を取り決めた上での訓練である。

 

 この訓練で行われるのは、技の精密さと攻守両方における変化の確認だ。己の技をどのように決めるか、はたまた撃ち込まれた攻撃にどう対処するかを訓練する。

 

「もう一本、お願いします」

「何べんでもいいわよ」

 

 実戦さながらの気迫で稽古を行う二人。

 フィリアは勿論だが、てつこも相当に気合が入っている。

 元々裏山の向こうのおじいさんに拳法を習っていたてつこだが、残念ながら同年代の稽古相手には恵まれなかったので、こうして相手のいる稽古ができるのが嬉しいらしい。

 

 一通りの稽古を終えた二人は、小休止して水で喉を潤す。この後はいよいよ係り稽古、いわゆる組手である。

 

「じゃあいつも通りに」

「ええ。今日は勝ちますよ」

「十年早いわ」

 

 軽口を交わしながらも、二人の間に漂う空気が極度に緊迫する。

 勿論、本気で殴り合う訳ではない。打撃技は寸止めが前提。投げや間接技も決まったと判断した時点ですぐに止める。両者とも技量は達人の域に達しているので、万に一つも加減を間違えることはない。

 

 ただ、お互い武術に身を捧げ、研鑽を積んできた者同士、試合とはいえ手を抜く気はまったくない。積み重ねてきた年月と、己の誇りが掛かっているのだ。

 

「では、遠慮なく」

「さ、来なさい」

 

 互いに一礼すると、両者は疾風のように動いた、然して広くも無いガレージに、両者の影が縦横無尽に錯綜する。

 

 弾指の間に放たれる無数の拳打。その裏に何十手にも及ぶ変化が潜み、込められた勁力は計り知れない。これが試合であることを忘れてしまう程の鋭さだ。

 

 細緻にして苛烈な技の応酬が続く。しかし、その実二人は殆ど手を交えていない。

 同じ拳法を習得した二人は、当然相手の出方を知悉している。誘い技には目もくれず、本命の技のみを受け、捌き、躱す。

 

 熟練者の揮う技は結構が緻密で途切れることなく、寸毫も破綻がない。

 達人同士の戦いでは、隙のない処に如何にして好機を見出し、その一瞬を掴み取るかが勝敗の分かれ目になる。

 

 必然、二人の戦いは力での押し比べではなく、凄まじい集中力での先の読み合いとなる。

 

「――ッ!」

 

 数十手を過ぎたあたりで、徐々に形勢が傾いてきた。フィリアの足さばきがに乱れ始め、てつこの拳打を捌ききれなくなってくる。

 手の内を知っているとはいえ、練度には雲泥の差がある。研鑽を積み、至高の境地に達したてつこの技は、フィリアを確実に追い詰めていく。

 

「――!」

 

 拳法の実力は明らかにてつこが上。だが、フィリアは懸命に食い下がり続け、未だ有効打を避け続けている。

 少女が健闘を続けられるのは、新たに体得した技術故だ。

 

「――!」

 

 眼前に迫り来る横拳を、フィリアはまるで予期していたかのように紙一重で躱す。そして反撃の中段突きを放つも、てつこもその動きを予め知っていたかのように素気無く防ぐ。

 

 双方共に、相手の次の行動を読み切った上で、次の動作に対処する。連綿と紡がれる攻防は滑らかに回転する円のように、一息も止まることが無い。

 

 視覚に依らず、全身から放たれる気配を読むことで、対手の動きを先読みする技術。

 この技能が直観智のサイドエフェクトと合わさることにより、フィリアは対手が次に何をするのか、己がどう動くべきなのかを、ほぼ完全に知ることができるようになった。

 

 そして身体に染み込ませた武術は、意思に先んじて完璧な動作をこなす。筈なのだが、不慣れな拳法を用いているが故に、てつこの攻撃を凌ぐので精一杯となっている。そして、

 

「――っと、ここまでね」

 

 ガレージに鳴り響く電子音。

 予め取り決めていた試合時間が過ぎたことを、タイマーが報せたのだ。

 

「ふう。ありがとうございました」

「はい。ありがとう」

 

 両者は共に残心を解き、向き直って一礼する。

 全身が総毛立つように剣呑な立ち合いだったが、あくまで練習である。礼で始まり礼で終わるのが約束だ。

 

「今回は何とか凌ぎきれましたけど、随分危なかったです。いったい何時になったらてつこさんに勝てるのやら……」

「私も日々成長してるのよ。簡単に追いつけるなんて思わないことね」

 

 と、二人は息を整えながら先の試合の講評を始める。

 終始てつこに押し込まれていたフィリアだが、拳法を習い始めて半年余りしか経っていないことを鑑みれば、十分驚異的な進歩である。

 

 しかも、少女の本来の流儀である剣術は、この半年で更なる進化を遂げていた。

 新たに体得した拳法の技術が、イリニ流剣術の更なる蘊奥を極める助けとなったのだ。

 今のフィリアの技量は、父アルモニアにも比肩しうるほどだ。近界(ネイバーフッド)玄界(ミデン)どちらの世界でも、最高峰の剣士の一人に数えられるだろう。

 

「そういえば、てつこさんは何故そこまで真摯に拳法を修練なさるのですか?」

 

 鍛錬を終え、汗で濡れたガレージを掃除しながら、フィリアが問う。平和な地球人でありながら、なぜてつこが途轍もない技量を持つにいたったかが、純粋に気になったのだ。

 

「何、いきなり? ……うーん、別に理由なんてないわよ。強くなって困るものでもないし、少しづつ成長を実感できるのは嬉しいし。……後はまあ、うちはちょっと変な家だから、父さんと母さんの研究を狙ってくるような輩も沢山いたし。それでかしら」

 

 と、てつこが雑巾を絞りながら答える。そして、

 

「逆にあなたこそ、何で今も鍛錬してるの? そりゃあ、向こうの世界が大変な場所だったのは何となく分かるけど……地球に来たんだし、もう鍛える意味もないんじゃない?」

 

 とフィリアに問いかけた。

 少女は掃除の手を止め、僅かばかり考えを纏めてから

 

「……そうですね。最初の頃は、戦うのは嫌いでした。でも、父さんに剣を教えてもらっているときは、何故だかすごく楽しかったんです」

 

 切々とそう語りだす。

 

「何故なんだろうって、ずっと疑問だったんですけど――でも、最近になって、ようやく父さんが教えようとしてくれたことが理解できました」

「……それは、何だったの?」

 

 胸に秘めた思いを語る少女に、てつこが優しく問いかける。

 

「武術は、他人が居ないと成立しないんです。……相手がどこにも居なければ、そもそも剣を振るう必要も無い。けれど、人が暮らしていく中では、決してそんなことはありえない。必ずどこかで意見のすれ違いがあって、争いは起こってしまう。……武術は、そんな諍い制する為に編み出されたんです」

 

 でも、と話の穂を継ぎ、少女は清らかな微笑を浮かべる。

 

「だからと言って、相互理解を諦めてはいけなかったんです。怒りや憎しみから生まれた技術ですら、相手を知らなければ真価を発揮することはない。――なら、剣を振るうことでも、他者への理解を深めることができるんじゃないかって、そう思ったんです」

 

 フィリアが長年習得することの叶わなかった、父アルモニアの予知能力の如き先読み。

 その絶技が、対手への理解と信頼から生まれることに、フィリアは玄界(ミデン)に辿りついてからようやく気付いた。

 

 他者を排除するために生まれた、血塗られた技術。しかしその深奥に至るには、人を深く顧みなければならない。その事実に思い至った時、少女の心に清爽の風が吹いた。

 

「戦う事で、生まれる絆もあるんです。大切なのは、相手を思う心。――だってほら、てつこさんと腕比べをするのは、こんなにも楽しいですから」

 

 と、フィリアは莞爾として笑う。眩い笑顔に当てられたてつこは、

 

「はいはいそーね。あー暑い暑い。もう今日はさきにお風呂入っちゃいましょ」

 

 と、含羞を隠すかのように大げさに手で顔を仰ぐ。

 そして手早く掃除を済ませると、二人は揃ってガレージを出た。

 太陽はまだ燦々と輝いているが、時刻は既に夕方だ。二人は他愛も無い雑談を交わしながら、母屋へと入っていった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。