WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 作:抱き猫
日陰の中とはいえ数時間も武道の鍛錬に励んだ二人は、すっかり汗みどろである。
「ごめん。私一階のシャワー使っていい?」
「構いませんよ。上まで着替えを取りに行かなくてはなりませんし」
日野家には浴室が二か所ある。一階にある普通の浴室と、リリエンタールの不思議な力で作られた三階の温泉だ。温泉は広くて設備も整っているのだが、てつこはあまり入りたがらず、もっぱら家の風呂を利用している。
フィリアの部屋は三階にあるので、少女は特に異論も挟まず階段を上がる。居間から何やら騒がしい音が聞こえるが、少女は務めて何も聞こえなかったように振る舞う。
そうして自室で入浴の準備を整え温泉へ。
昼は炎天下の中を歩き回り、夕方はてつこと鍛錬をしたので思いのほか汗をかいている。
少女は自分の状態に気付くと、そそくさと恥ずかしそうに浴室へ急いだ。戦場暮らしをしていた頃は気にも留めなかったが、日野家に落ち着いてからは身だしなみにも多少気を使うようになった。
そうして温泉に入った少女は、身体を洗い始めた。
シャワーだけで、湯船には浸からない。もうすぐ夕飯の時間である。日野家は皆が食卓に着かないと食事を始めないので、余り時間を掛けてはいられない。
手早く行水を済ませたフィリアは、部屋着に着替えて廊下に出る。すると、
「あ、もうゆうはんのしたくができたみたいなの。いっしょにいきましょう?」
と、人形シャーロットを抱きかかえた幽霊少女マリーがそこにいた。
どうやら夕食の準備ができたことを、態々フィリアに伝えに来たらしい。
「はい。お待たせしました」
フィリアはマリーと手を繋ぎ、二人で仲良く階段を降りていく。そうして一階の居間まで来ると、
「…………」
マリーがフィリアの手を離し、無言でドアの横へと移動した。まるで少女に扉を開けさせようとしているかのようだ。
フィリアはその意図を察していたが、あえて気付かぬ振りをして扉を開ける。すると、
「おめでとう!」
少女はパン、パンと鳴り響く破裂音に出迎えられる。
居間に居たのは兄、てつこ、リリエンタールら日野家の面々に、春永家のゆきとさくら、黒服の紳士ウィルバーとロン毛、そしてヌースだ。
彼らは手に手にクラッカーを持ち、フィリアに紙吹雪を見舞う。
「まぁ!」
今日一日、日野家の面々が執拗に少女を居間に立ち寄らせようとしなかったのは、サプライズパーティーを開くためだったのだ。
サイドエフェクトで展開を予期していたとはいえ、少女は驚きに声を上げる。
部屋は紙の輪飾りや折り紙で賑々しく飾り付けられ、テーブルには兄が腕を振るった豪勢な料理にケーキが並んでいる。
これだけの用意をするには相当な手間が掛かっただろう。おそらく前から少しづつ準備をしていたに違いない。そして、
「ささ、せきにつくのですフィリア!」
「今日の主賓はあなたですよ」
と、リリエンタールとヌースが少女に着席を促す。
「えっと、ありがとう。……今日は、何があったのかな?」
そうフィリアが問う。サイドエフェクトでパーティーの趣旨は把握しているが、勝手に話を進める訳にはいかない。すると、
「ほら、この間父さんたちが帰ってきた時、養子縁組の手続きをしたでしょう。正式に日野家の家族になったお祝いをしようって、リリエンタールが提案したんです」
と、兄がから揚げをサーブしながらそう説明する。
異世界人のフィリアが地球で暮らすにあたって、戸籍や身分証の類は組織に都合してもらった。だが、日野家の両親に面会し、身の上を説明するや、彼らは少女を正式に日野家に迎え入れてもいいと言い出したのだ。
過分な申し出に恐縮し、一時は誘いを断った少女であったが、何度か話を持ちかけられた末、結局は好意に甘えることになった。
つい先日、ようやく役所への手続きが住み、フィリアは晴れて日野の性を名乗ることができるようになったのだ。だが、
「ぁ…………」
知っていても尚、実際に聞かされると身が打ち震え、咄嗟に言葉が出てこない。
両隣に立つリリエンタールとマリーが、満面の笑顔で少女を見詰めている。
身寄りのない己を家族として受け入れてくれただけではなく、これほど盛大な祝いの席まで設けてくれるとは。
少女は改めて日野家の優しさと温かさに触れ、感動で胸がいっぱいになる。
「ありがとう、ございます!」
瞳を潤ませ、少女が満腔から感謝の言葉を述べる。
無事サプライズが成功したと見て、リリエンタールらは大はしゃぎだ。
そうして、賑やかな食事会が始まった。兄が腕によりをかけて作った絶品料理の数々に、皆が舌鼓を打つ。
会話もこの上なく弾み、自然と皆が笑顔を溢す。
そして食事がひと段落すると、皆が席を立ってリビングに整列した。
見れば、ロン毛がいつの間にかアコーディオンを手にしている。
「では、ここでおうたをきいてもらいたいのです」
と、リリエンタールが音頭を取って、一同が合唱を始めた。
食事や飾り付けだけでなく、余興まで用意していたらしい。
歌はフィリアの道行を寿ぐような、希望に満ちた明るい曲だ。こんな催しには参加しそうにないてつこでさえ、含羞の色を浮かべながらも一生懸命歌っている。
フィリアも思わず笑顔になり、手拍子を添えて鑑賞する。
「とっても素敵でした。私の為にこんな……本当に、嬉しいです」
と、目じりに涙まで浮かべて喜ぶ。その時、少女の脳裏に閃くものがあった。
「あ、皆さん少し待っていてください!」
少女はそう告げて居間を出るや、階段を軽やかに登って三階の自室へ。
再び居間へと降りてきた彼女が手にしていたのは、一挺のヴァイオリンだ。
「私にも、お返しさせてくださいね」
調弦しつつ、そう述べるフィリア。
日野家の世話になり心の余裕を取り戻した少女は、奏楽の趣味を持つようになっていた。
音楽方面への才能は人並みであったフィリアだが、熱心に練習をすることでそれなりに楽器を操ることはできるようになった。
少女はヴァイオリンを構え、弓をつがえて一呼吸。
そして奏でられるのは、軽快ながらも勇壮なメロディだ。
「――ふわ!」
と、曲名に気付いたリリエンタールが歓声を上げる。
フィリアが演奏するのは、彼が大好きなテレビ番組、ちょんまげ
「さあ、皆さんご一緒に!」
笑顔で曲を奏でながら、少女が煽る。この番組は日野家で毎日流れているので、歌詞は皆が知っている。
リリエンタールが早速歌いだし、兄やマリーもそれに続く。ゆきやさくら、紳士にロン毛も続き、てつこも仕方なしに小声で参加する。
フィリアの演奏は未熟で、音を外すことも少なくない。けれど、少女は心底楽しそうに情感を音色に乗せる。
賑やかな曲調も相まって、日野家の居間にはあっという間に大合唱が響く。宵の口とはいえ、ご近所に怒られないかと言う程だ。
「今日は、皆さん本当にありがとうございました」
演奏を終えると、フィリアが改めて祝いの会への礼を述べる。だが、
「いやいや、まだまだこれからですぞ!」
と、リリエンタールが鼻息荒くそう告げる。見れば、部屋の隅にはトランプやら何やら遊具が山のように置かれている。どうやら今日は夜更かしが許可されているのだろう。彼は限界まで遊び倒すつもりだ。
「……はい! それではご一緒します」
興奮した様子のリリエンタールに、フィリアは微笑みを湛えてそう答えた。
× × ×
途中でお風呂休憩を挟み、なお続いたフィリアを祝う会。それでも、家族と共に過ごす楽しいひと時は、あっという間に過ぎる。
最初に限界が来たのは、人一倍はしゃいでいたリリエンタールだ。
ボードゲームに興じていた彼は、突然電池が切れたように動作が鈍くなり、やがてうとうとと船をこぎ出した。
「そろそろ、御開きにしましょうか」
と、フィリアが提案する。リリエンタールはまだ遊びたがるが、もとより聞き分けのいい子である。マリーもそろそろ眠たくなったと言うや、素直に床に就くことにした。
「さ、行きましょう」
フィリアは子供二人を連れて居間を出ていく。
遊び疲れた彼らを寝かしつけるのに、そう時間はかからなかった。
何日も前からパーティーの準備に励んでいた疲れもあったのだろう。穏やかに寝息を立てるリリエンタールの姿は、実に愛らしい。
そうして居間へと戻ってくると、既に後片付けは粗方済んでいた。
春永家の姉弟も辞儀を述べて帰宅し、紳士とロン毛も今一度フィリアに祝賀を述べてアジトに帰る。
「リリエンタールたちはもう寝た? ありがとうフィリアさん」
と、食器を洗いながら兄が言う。フィリアは手伝おうと台所へ向かうが、
「アンタも寝ちゃいなさいよ。後はあたしと兄貴でやっとくから」
と、てつこがそう告げる。
尚も渋るフィリアだが、今日の主役である少女を立てての発言だから、無碍にすることもできない。兄とてつこに深々と頭を下げ、少女は自室へと戻る。
そうしてお風呂セットを用意すると、再び浴室へ。余興であれやこれやと体を動かした為、また少し汗をかいたのだ。
さっとシャワーを浴びると、髪を乾かし寝巻に着替える。
自室の鏡台の前に座った少女は、髪を梳かしながら化粧水を取り出すと、就寝前のスキンケアを始めた。
「それにしても、今日は本当に楽しかった」
と、フィリアが呟く。
「実の所、サプライズは分かっていたのでは?」
そう尋ねるのはヌースだ。
「まあ、そこが不便な所だね。……でも、嬉しかったのは本当だよ。私がこんなに幸せで、いいのかなって思っちゃうくらい」
「……あなたは、充分苦しみましたから」
「ううん。私はたくさん人を苦しめたから。だから、こんなに幸せだと、ちょっと怖くなっちゃうんだ」
と、少女は何処か切なげな眼差しで、手元を見る。
「その傷、痕になってしまいましたね」
ヌースが指摘するのは、フィリアの手に刻まれた線状の傷跡だ。随分薄れてきているが、引き攣ったような傷跡が生々しく残っている。
精神世界での折、少女の罪悪感の化身によって付けられた引っ掻き傷である。
「これはこのままでいいの。私がどれだけ愚かだったか、見るたびに思い出せるから」
と、フィリアはそう呟く。
戦乱に疲れ、己の罪を嘆き、心の底から死を願っていたあの絶望の日々から、まだ一年も経っていないことに、今更ながら驚く。
少女をここまで救い上げてくれた日野家の面々には、どれだけ言葉を並べても感謝の思いを表すことはできない。
今では遠い過去の出来事に思えるような精神世界での出来事。
「そういえば……あの時はごめんなさい」
そのことに思いを馳せていたフィリアが、ふと謝罪を口にした。
「何のことでしょうか?」
「私、酷いことを言っちゃった。約束を破ったって、サロスたちを助けてくれなかったって……あなたは、私たちをずっと護ってくれていたのに」
問いかけるヌースに、そう答えるフィリア。
自殺を思いとどまらせようとするヌースと口論になった際、口走ってしまった罵言を、少女は今更ながらに深く悔いているのだ。
「いえ……私が、あの子たちを護れなかったのは、事実ですから」
「――そんなことない! ヌースは命がけでみんなを助けてくれた!」
自虐的に呟くヌースを、フィリアは懸命に擁護する。だが、
「私は、あの子たちを救うことはできませんでした。……だから、お願いしますフィリア。あなたは、私の前から居なくならないでください」
と、ヌースは真剣な声でそう告げる。
「……うん。約束するよ。私は二度と、ヌースを置いて行ったりしない」
フィリアは居住まいを正すと、愛する家族に決然と宣言する。
お互いの決意を確認するように二人は微笑みを交わす。それから、少女は再び身支度を整えだした。
「そういえば、ヌースはこれが
軽い雑談を交わすかのように、フィリアがそう尋ねる。
彼女が言うのは、胸元に輝く銀の鍵に填め込まれた真珠の如きトリオン球についてだ。
「ええ。レギナが
と、ヌースが神妙に応える。
弟妹たちの贈り物にアルモニアが添えて渡したその珠こそ、フィリアの生母レギナが命を賭して創り上げた
「あの心の世界で、父さんや母さん、サロスたちが現れたのって、きっと……」
「確証はありませんが、おそらくそのトリガーの意思に反応したのでしょう」
精神世界で窮地に陥った時に現れたイメージ体。それを生み出したのが、物言わぬトリガーであると二人は確信している。
器物と成り果てても尚、子を思う親の心は確かにそこにあるのだ。
「私に教えてくれなかったのは、やっぱり知られると危なかったから?」
「ええ。アルモニアもパイデイアも、あなたを護るためにレギナのことは伏せておくべきだと考えていました」
エクリシアの三大貴族の一つ、イリニ家の次期当主アルモニアと、ノマスで最大の権勢を持つドミヌス氏族の娘レギナ。
この二人から産まれたフィリアは、生誕時から常に厄介な騒動を招き寄せた。
アルモニアの父ディマルコは極端な排外主義者で、息子が仇敵ノマスの姫君を娶ることを絶対に許さず、またその血を引くフィリアも、庶子としてさえ認められなかった。
それどころか、フィリアをイリニの家名を地に落とす忌子と断じ、秘密裏に配下の諸将を動員して暗殺まで企てたのだ。
「その過程で、レギナは
アルモニアとディマルコの確執は決定的なものとなり、配下の家々をも巻き込んだ凄まじいお家騒動が巻き起こった。当のフィリアは叔母に当たるパイデイアの手に委ねられ、追跡者の目を逃れるために貧民街へと逃げた。
アルモニアはディマルコを郊外の本宅へと押し込めることに成功したものの、影響力は依然として大きく、配下の家々を統制するのにも長い時間が掛かった。
前当主ディマルコが死没し、ようやくフィリアらをイリニ家に迎え入れることができても、アルモニアはなおも少女の出自を隠すことにした。
酸鼻極まるお家騒動を経験した後では、少女を家に関わらせるのは危険だと考えたのだろう。それに、他の貴族からの詮索を躱し、市民の好奇の目から隠すこともできる。
「そっか……私はずっと、父さんたちに守られてたんだね」
穏やかに、それでも万感の思いを込めて呟くフィリア。
「はい。アルモニアにパイデイアはもちろん、レギナも最後まであなたの身を案じ、幸せを願っていましたよ」
ヌースが優しく同意する。すると、
「でも、その割にトリガーは全然起動できないよね」
しんみりした空気を払うかのように、フィリアがそう言う。
レギナの残した
「まあ、多少変わった所のある人でしたので……」
と、ヌースがそう取り繕う。如何にも奥歯に物が挟まったような口ぶりに、フィリアは思わず笑ってしまう。
「大丈夫、気にしてないよ。……たぶん、誰が起動するかじゃないんだと思う」
「どういうことですか?」
真剣な面持ちで銀の鍵を見詰める少女に、ヌースが問う。
誰にも起動することができない、否、まるで起動されることを拒否しているかのような
「誰が、じゃなくて、何故起動するのか、が大事なんだよ。きっと」
確信に満ちた表情でフィリアがそう言う。サイドエフェクトで何らかの事実を知ったのだろう。
「人物ではなく、行為で適合者を判定すると? そんなトリガーは記録にありません」
「でも、そうだと思う。きっとこのトリガーは、本当に必要な時には、力を貸してくれる」
銀の鍵を手にして瞑目する少女は、どこか侵しがたいほどに神聖な気配を纏っている。
「……そうかもしれませんね。兎角、型破りな人でしたから」
と、ヌースがどこか呆れたように同意する。そんな彼女の口ぶりに、フィリアはまたも笑みを溢すと、
「ねえ、レギナさん……お母さんって、どんな人だったの?」
と、今まで頑なに避けてきた、生母の人となりについて尋ねた。
「そうですね。……いえ、少し待ってください。母親としての尊厳をなるべく傷つけないよう、話を纏めますので」
至極真面目な口調でそんな事を言うヌースに、フィリアは声を上げて笑う。
鏡に映る金瞳白髪の少女は、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
フィリアの人生を翻弄し続けてきた褐色の肌。
何度となく呪いの言葉を吐きかけた己の顔が、少女はいつの間にかそこまで嫌いではなくなっていた。
× × ×
祝いの席から数日後。八月も最後の週に差し掛かったある日。
フィリアは昼下がりの居間で、リリエンタールと共に洗濯物を畳んでいた。
「むむむ……」
小さな手を慎重に動かし、床に広げたTシャツを丁寧に畳もうとするリリエンタール。隣に正座するフィリアは、その様子を微笑ましく眺めながら手早く作業を進めていく。
「これが済んだら、てつこさんたちの陣中見舞いをしましょうか。お菓子と冷たいジュースを持っていきましょう」
「それはいいかんがえなのです!」
てつこはマリーの部屋で、ゆきとさくらと共に夏休みの課題に取り組んでいる。三人とも聡明なのでそう苦戦はしていないだろうが、効率的な作業には息抜きも必要だ。
「ふんほ、ふんほ」
と、リリエンタールはさらに懸命に洗濯物を畳み始める。
マリーとヌースはてつこたちのお目付け役をしており、兄は仕事で外出中。一階にいるのは二人だけだ。
「ふふ。畳むのが上手になってきましたね」
「ほむ。だんだんこつがつかめてきたのです」
と、フィリアはリリエンタールを激励しながら、自身も洗濯籠から新たな服を取る。
とその時、居間に軽やかな風鈴の音色が響いた。
「少し、風が出てきましたね」
換気の為に開けておいたガラス戸から清涼な風が吹きこみ、窓枠に吊るされた風鈴を鳴らす。
チリンチリンと風雅な音に混じって、外からは蝉しぐれが聞こえる。
何の変哲もない日野家の庭は、眩い日差しに照らされ光り輝いている。目を彼方に向ければ、そこには真っ白な雲が浮かんだ紺碧の空が。
「――――」
ふと、フィリアは洗濯物を畳む手を止め、その景色を茫洋と眺めた。
自分は今、澄明な幸せの中にいる。
卒然と、そう思い至るフィリア。
戦場で明け暮らした頃は勿論、貧民街で家族と共に暮らしていた時ですら、ここまで穏やかで心休まる日々はなかった。
生きることに夢中で、何事も顧みることができなかった毎日。それに比べ、日野家で過ごす一日一日の、何と豊かで恵まれたことか。
「どうかしたのですかな?」
突然動きを止めてしまった少女に、リリエンタールが訝しんで声を掛ける。
「――え? ああ、今日もいい天気だな、と思って」
と、弁解し、再び洗濯物を手に取る少女。だが、
「ねえ、リリエンタール。……もし、自分が何か悪いことをしてしまって、贖う方法が、えっと、許してもらう方法が分からなかったら、どうしたらいいのかな」
と、少女はぼんやりと、そんなことを口にした。
戦場を渡り歩き、数多の人を不幸にした己が、こんなに幸せな暮らしをしていていいのだろうか。平生頭の中にあった疑問が、つい口から零れてしまう。
「……ま、まさか、なにかやってしまったのですかフィリア?」
だが、リリエンタールは慌てたように尋ねる。少女が何か些細な失敗をしてしまったのかと早合点したらしい。
「あ、違うの、違うのよ。……例えばの話なの」
深刻な話と取られないよう弁解するフィリア。するとリリエンタールは洗濯物を掴んだまま、
「それなら、すぐにあやまったらいいのです。ちゃんとあやまれば、むこうもいっかいおこってゆるしてくれるのです。……もし、ひとりでいくのがふあんなら、わたくしめもいっしょにあやまりますぞ」
と、きょとんとした表情でそう言う。
「うん。そうだね。……でも、もし謝らないといけない人が沢山いて、顔も名前も分からない人や、もう二度と会えない人までいたら、どうすればいいんだろう」
と、悄然と呟くフィリア。
自らの心の闇と向き合い、己に託された家族の愛に気付いたことで、少女は生きる意思を取り戻した。
だが、己が為した罪業が消える訳ではない。こうして日野家で穏やかな暮らしを享受し続けることが、正しい事だとはどうしても思えなかった。
さりとて、果たしてどうすれば罪を贖うことができるのか。
戦乱渦巻く
個人の力など、怒涛の如き戦火の前には塵芥にも等しい。果たして自分は、これから如何にして生きればいいのか。
心の箍が緩んだのか、答えの出ない疑問をつい零してしまう。
「むむむむ……」
見れば、リリエンタールも洗濯物を放りだし、顎に手を当て真剣に考え込んでいる。
「あ、ごめんね。困るよね。いきなり変なこと聞かれても……」
と、フィリアが作り笑顔を浮かべて話を中断する。こんな話を彼に聞かせても、困らせるだけだと、今更ながらに自分の失言を恥じる。だが、
「ふむう……ちょっとまっててほしいのです」
と、リリエンタールはそう呟いて立ち上がる。
「え、どうしたの?」
「てつこたちにそうだんしてみるのです」
理由を問うフィリアに、さも当然の事のように答えるリリエンタール。
「がんばってかんがえてみたけれど、はずかしながらわたくしめではよくわからなかったのです。なので、みんなのいけんをきいてみるのです」
そして、リリエンタールは小さな腕を名一杯に広げ、
「てつこやさくら、ゆきにマリーにヌース。かえってきたらあにうえにもきけばいいし、それでわからなければ紳士やししょうにもきくのです。みんなでかんがえれば、きっとめいあんがうかびますぞ」
と、誇らしげに語る。リリエンタールは早速自らの案を実行に移さんと、ドアに向けて歩き出した。すると、
「な、なわ!」
そんな彼を、フィリアが両手を伸ばして抱きしめた。
「ななななんですかなフィリア!? わたくしめはなにかへんなことをいいましたかな?」
急に体の自由を奪われ困惑するリリエンタール。だがフィリアはしっかりと犬を抱きしめたまま、何も喋らない。
少女は豁然と、己の不明を悟った。
――困難な事があれば、誰かを頼る。
ただそれだけの答えに、どうして今まで気付かなかったのだろうか。
フィリアの脳裏に、過去の出来事が次々と思い浮かぶ。
母が生贄にされると知った時、何故嫌だと訴えなかったのか。パイデイアもアルモニアも、少女の事を深く愛していた。
自分が泣いて叫んで思いを伝えれば、きっと別の未来を共に探してくれただろう。
いや、それだけではない。己は何時も問題や感情を一人で抱え込み、誰にも打ち明けることなく独力で事態を打開しようとしてきた。
己を友と呼んでくれた女性たちがいた。己を慈しんでくれた男性たちもいた。
何故、彼らが差し伸べてくれた手を無視してしまったのか。
何故、自分一人で残酷な世界に立ち向かえると考えてしまったのか。
なんと傲慢で、どれほど愚かであっただろう。
自分の事を心から愛してくれた家族でさえ、少女は頑なに頼らなかったのだ。
「ど、どうしたのです! どこかいたいのですか!」
フィリアの胸元に埋められたリリエンタールの頭に、熱い雫が落ちる。
少女の体が小刻みに震えていることに気付くと、犬は心配して声を上げる。だが、
「違う、違うの……」
少女は犬を掻き抱いたまま、首を横に振る。
「私が、バカだったって、ようやく分かって……でも、それに気付けたのが、嬉しくて」
自分は沢山間違えた。でもまだ、やりなおすことができる。
それもこれも、生きることを選んだから。
フィリアは随喜の涙を溢れさせながら、犬をより一層強く抱きしめる。そして、
「リリエンタールは、賢いね」
泣き笑いを浮かべながら、そう囁いた。
× × ×
その日の夜。日野家の面々は揃って夕食の準備をしていた。
「今日は頑張ったみたいだね。てつこ」
と、料理を配膳しながら兄が話しかける。
「まあね。後は自由研究と日記だけ。っていうか、中学生にもなって日記ってどうなのよ。うちだと変な事ばっかり起きるから、あんまり書ける事が無いんだけど」
「ありのままを書いていいんじゃないかしら。あとから読みかえすと、きっとすてきだわ」
と、ぼやくてつこにマリーがフォローする。
「わたくしめも、きょうはフィリアといっぱいかじをしたのですな!」
リリエンタールも敬愛する兄に褒めてもらおうと、今日の頑張りを報告する。
「うん。みんなの服を頑張って畳んでいましたよ」
と、裏付けしてやるフィリア。
ヌースが細々とした事柄を兄に報告し、暫くして皆が席に着く。
「さて、それじゃあ今日もお疲れ様」
と兄が声を掛け、食前の作法を取ろうとする。その時、
「すみません。皆様、少しお時間を頂けますか?」
と、フィリアが急に声を上げた。
「え、どうしたのよそんなに改まって」
居住まいを正して凛呼として述べるフィリアに、てつこが怪訝な表情で尋ねる。
兄やマリー、それにリリエンタールは、何やら真面目な話があると背筋を正す。
フィリアは隣に浮かぶヌースと視線で語り合うと、
「私、やりたいことができたんです」
晴れ晴れとした表情で、新しい家族に向けてそう語り始めた。