いつからなのか解らない。
ただ、自分は常にこういう感覚を覚えながら生きなければならないのだと。何となしの日々の中、徐々に確信を覚えていった。
笑みを浮かべながらこちらを見る連中から発せられる何か。
見えない所でこちらを見ては、ひそひそと何事かを呟く連中から発せられる何か。
それが、感情だと知ったのはいつの頃だっただろう。
人は擬態する。
人は剥き出しの感情を覆い隠すように薄ら寒い笑みを浮かべるし、感情を隠れて発露する場所を求めて陰口を言い続ける。
一枚化けの皮を剥げば、そこは黴の苗床。
身震いするような薄汚れた感情が、こちらを突き刺していく。
人の心が解れば優しくなれるのか。
それはある種の真実なのだと思う。
仮に。仮にだ。
ヒカリ辺りにこの性質が付いたら、自分のようになるのだろうか。ゾエなら?ザキさんなら?
人の心が解れば優しくなれる、というよりも。
人の心を知ってなお、優しくなれるか――という方が、この場合適切なのかもしれない。
自分は、違った。
そうじゃなかったのだ。
守らなければならない。
自分を突き刺してくるこの感情から。
どう守る?
精々周りに媚びて、”こんな不快な感情を刺さないでくれ”とでもアピールするのか。
下らない。
何であんな連中の為に、自分が媚びなければならないのか。
舐めんじゃねぇ。
舐められるのだけは我慢ならねぇ。
知っている。
舐められたら、それに比例するようにこの感情が増えていく。黴共に塗れて自分の心さえも腐らすようなことだけは、我慢ならなかった。舐められまくったその先。きっと自分は自分として成り立たなくなって、死んでしまう。
突き刺さっていく感情は、自分という人間から丸みを奪って行った。
自身を守るために、鋭く、鋭く、その人格を尖らせていった。
触れれば怪我をするぞ。
関わればロクな事にならねぇぞ。
そうやって自身から人を遠ざける事こそが、自分が生きる為に必要な事だったのだ。
だが。
それでも。そんな奴にでも。
近付く物好きは確かに存在していて。
自分をぶん殴ってでも心の内側に入り込んでくる馬鹿もいて。
自分を偽る事を知らない大馬鹿者もいて。
自分の知らない世界なんて、何処にでも転がっていて。
そんな世界に一つ足を踏み入れれば、こんな自分にも居場所があるのだと知る事が出来て。
冷たく淀み切った腐りきった人の心を知ったからこそ。
その中でも一際輝く温かな場所も確かにある事を知れた。
自分は何も疑う事をしなくていい。
人の心が解らず疑心暗鬼になる事はない。
黴は黴だと解るように。
物好きな馬鹿は物好きな馬鹿として何一つ疑うことなく信じることが出来る。
そういう意味では、自分は――疑う事を知らない子供で、馬鹿なのだと思う。
それでもいい。
馬鹿は馬鹿として、馬鹿の為の居場所がある。
-------居心地のいい場所。
ここにいる人間を。
この場所を壊したって大事にしたいと思えるだけの人間に、出会えたのだから。
――おい、ユズル。
――お前が何を思って、遠征に行きたがってんのか、俺は知らねぇ。
でも。
それでも。
何かをやりたがっている人間がそこにいて。
それでも、この居場所を離れないという覚悟すら持って。
ここにいる。
自分の居場所に。
その価値を理解できない程に、腐った覚えはない。
――ここを出て行って、別のA級部隊に入れば一番楽だろうに。あの馬鹿はここを出ていきやがらねぇ。
――だったら。
仕方ない。
そもそもは自分が蒔いた種。
刈り取る責任は、自分にある。
――何が何でも、A級に上がってやるよ。みっともなく頭下げたって、クソ共に陰口叩かれようが、知ったこっちゃねぇ。
不思議と、楽しかった。
好き勝手に暴れまくっていた今までとは違う。自分が部隊の一つの歯車と化す、今の状況も。
明確な目標の先に繋がったレールは、それだけでは確かにつまらないものだろう。
でも。
その先に。
仲間がどうしたって果たしたい代物があるというのなら。
この我慢すらも、悪くはない。
※
「――よぅ」
「-----」
二人が、三階建てのビルの屋上で対峙する。
影浦雅人。
荒船哲次。
両者は無言のままお互いを見ていた。
「なあ、カゲ」
「あん?」
「――お前。駒として動いてもすげぇじゃん」
かける言葉は、賞賛。
それは――本当に、心の底から出た本音であった。
変わらぬ声音で紡がれるその言葉も、本心かどうかは影浦には伝わる。何も飾る事はない。だから荒船は真っすぐに、言葉を放つ。
「お前の対策に心底頭を悩ませて、ここまで来たが――。結局お前は無傷のまま生き残って、ユズルも単独で穂刈を狩りやがった」
「は。お前らが俺を落とせるとでも思っていたのか」
「そこまで思い上がっちゃいない。お前らが昨期あの位置にいたのは紛うことなくお前らの実力だ。それは間違いねぇ」
けどな、と荒船は続ける。
「好きにした中で弾き出された結果と、考えに考え抜いて捻りだした結果。結果は結果だ。何も変わらない。でも――その後に変化を促せる結果は、やっぱり後者の結果だと、俺は信じている」
だからよ、と荒船は続ける。
「お前らは、もっと強くなれる。そう俺は言いたかった」
それは荒船故に弾き出された言葉であった。
思考。思索。それを基にした、挑戦。
その循環の中で、彼は攻撃手から狙撃手へと転向をしたのだから。
思索の中で、また違う結果を出し始めた影浦隊に、自分の思考を映したのだ。
思わず手を叩きたい程に見事。拍手の代わりに荒船は微笑み、影浦に賞賛の言葉をかけた。
影浦は、周囲を見渡す。
「――で。時間稼ぎは終わったかァ、荒船ェ。半崎をこっちに寄こしてどう使うのか知らねぇが、こっちとしても好都合だ。こそこそ隠れた奴とのかくれんぼは御免だ」
「バレてたか。ま、お前なら解っちゃいると思うが、内容そのものは全部本音だぜ。――俺達も俺達で、やっぱり考え抜いた分だけの結果は欲しいからよ」
荒船は、笑む。
先程とは違う――獣のような、挑戦者の笑み。
「ぶっ潰す」
「やってみやがれ」
バッグワームを外し、シールドを装着。
弧月を装着し、荒船は構える。
うにゅうにゅと伸びあがるスコーピオンの刃に目を細め――荒船は影浦に斬りかかった。
※
伸びあがるスコーピオンの刃が、縦横無尽に駆け巡る。
それは荒船の左右上下全てから、無軌道に襲い掛かっていく。
荒船が斬りかかる。
斬りかかるその先に、もう影浦はいない。
解っている。
影浦は――こちらが攻撃するタイミングを、事前に察知できる。
彼が持つ、副作用によって。
どうしたって消せない、攻撃する際に強まる感情。それを明瞭に読み取れる影浦の副作用。
それ故の回避能力。それ故に防御をかなぐり捨てたスコーピオンを数珠つなぎしたマンティス。
東の狙撃のように。今の手札でこの副作用を打ち消せるだけの手札はない。
ならば。
マンティスがシールドを突き抜け荒船の肩口を抉り、更に振り下ろされた腕の動きに連動して袈裟状に身体を斬り裂かれる。
ここだ。
荒船は、旋空をセットすると同時に、放つ。
斬撃が影浦に向け伸びあがる。
「当たんねぇよ」
自身が斬られると同時に放つ、捨て身の旋空。
それすらも、影浦は察知した上でバックステップで避ける。
「だろうな」
だが、荒船の表情は崩れない。
「ここからだぜ」
ステップを踏み、足が地から離れたその瞬間。
――重い銃撃音と共に、足場が破砕される。
「あん?」
それは。
高威力狙撃銃、アイビスの弾丸だった。
「最初から決めていた。――お前は、足場を崩して仕留めるってな!」
荒船は足元が崩れた分だけ着地が遅れた影浦に、追撃をかける。
――最初から、当てる気でいなければいい。
影浦自身ではなく。
影浦以外の要素を崩す手段として狙撃を用いる。
普段はイーグレットしか持たない半崎にわざわざアイビスを持たせて。
影浦自身を狙えば、狙撃のタイミングがバレるから――影浦の足元を崩す手段として、それを用いた。
斬りかかったその斬撃は、空中で身を捩り避ける。
それでも、荒船は足を止めない。
空中に浮く影浦に身体を突っ込ませ――共に、ビルの上からもんどりうって落下していった。
――空中で、地に足がついていないならば。避けられる手段さえなくなれば、お前でも狙撃は当たる。
荒船は共に影浦と落ちながらも、必死に腕を伸ばして斬撃を走らせる。次の半崎の狙撃の為に、何としてでも気を逸らせんと。
だが。
影浦のマンティスが落下の前に即座に荒船の身体を突き刺す。
それと同時。
影浦はマンティスを放った体軸の変化を利用し、腰を無理やり建物側に捩じる。
荒船に放ったマンティスを身体に戻し、今度は左足から延ばす。
ビルの窓をぶち抜き、マンティスがビル内の床面に突き刺さる。それを縮小させ、その反動で影浦はビル内に侵入する。
放たれた狙撃は影浦の腕に掠るだけで、虚しく過ぎ去っていった。
「ああ、畜生-----」
考えに考え抜いて、実現した策。
それすらも易々と切り抜いた影浦にリスペクトを送りつつ、だがやはり悔しさを滲ませながら――荒船は、緊急脱出した。
「うーん」
半崎はその様子を眺めながら。
はぁ、と一つ溜息。
「ダル」
そう呟いた数分後。
彼の首もまたマンティスに串刺しとなっていた。
こうして。
ランク戦第2ラウンド昼の部は、影浦隊の勝利で幕を閉じた。