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インドネシア、バリ島。
首都は、デンパサール。
デンパサール国際空港を要し、成田空港を始めとして、主要な各国の空港と直結していることで、観光客の交通の便も非常に良好といえる。
インドネシア国内の島との国内便も、この空港から出発が出来るので、非常に簡便な移動を提供している
代わりに、島の中での交通は鉄道が存在していないので、車かバス、バイクの移動になる。
海沿いを一周することにもなる道路を通行するので、目的地次第では、陸路ではなくヘリでの移動も有効である。
治安は、良くもあり、悪くもあるという所である。
バリ島の住民は信仰によって心が豊かな人々と聞くが、周辺の島から出稼ぎに来る人々によって、盗難などが後を絶たないという。
宗教はイスラム教を中心として、インドのマハーバーラタ・ラーマーヤナなどの歴史文化を融合させていることから、多宗教となっている。その一方で無信仰は罰則が設けられていることから、なにかしらの宗教を信仰していると答えるべきだろう。
キリスト教ではカトリックも存在していることもある。
例えば、日本の神道を信仰していると伝えるだけでも、会話のネタになるような、そんな宗教国でもある。
日本とは違った意味で、まさに神々の島と呼ばれるに足る、信仰の豊かさだと言えるだろう。
さて、現在碓井と透湖がこの地を訪れた理由とは何か。
日本の深山に刺さっていた剣。
紛れもなく原初の鋼の逸品だと思われた品が、インドネシアのとある島から発生してきたモノだということが、共鳴した呪力の波動から感知できたという。
それに乗じて、昔から野心旺盛な家系として注目されていた
桃河家――透湖の実家だ――の一族が出没しているという情報も入ったからである。
そのため、至急調査された結果、インドネシアで出没していた時期は戦後すぐからということが判明したのだ。
そして、桃河家のモノであることから、透湖も拘束されることになりかけたが、時期がいまいち違うということ。
インドへの家業による商談のために出張に赴いた後、行方不明であるのが、現当主の透湖の父、桃河仁であること。
余計な面倒を介入させたくない碓井の意向も踏まえて、自分の家名の恥は、自分で雪ぐということで、碓井の御供としての戦うという立場で、一時的な保留状態になった。
勿論、戦いを望み、天津甕星との再戦に臨むことを意識している碓井にとっても、特に問題のない状況だった。
そうして、現在、デンパサール国際空港内部。
今回は観光ではないので、ここから国内便の一つとして、スラバヤなどを経由して、最終目的地までヘリを使用することになる。
目的地は、ジャワ海の真ん中に位置する50km四方の島だ。
地理からして、インドネシアだけではなくマレーシア近海の島になるので、非常に政治的にも呪術界的にも、調整に時間のかかる地域である。
元々、桃河家はバリ島の島を所有する家系でもあった。
更に、戦時中にインドネシア滞在中に、透湖の祖父がジャワ海に流されて漂着していた時期もあるという。
透湖も何度か、個人物件の島に滞在したこともあるという、桃河家の故郷の一つといってもいい場所だという。
とはいえ、目的地の島に立ち寄ったことはないともいう。
報告を受けた碓井は、ただ一言を思った。
(明らかに罠だわ)
そう、これ見よがしに、自分の移動する場所と目的地が判明しており、剣と魔力が共鳴するという、一種のお粗末な現象が起きていることも踏まえて、この島が、あるいは地上から消滅する事態になるやもしれないことも考えている。
近隣の大都市まで、200km圏内の非常に狭い海域の戦闘になることを考えると、神との戦いには非常に向いていない区域だ。
自分の売り方を、他の神殺しとは違う、交渉も出来る程度の王を考えている碓井にとって、あまり好ましいとはいえない状況である。
戦いになったときにも、あまりにも派手な攻撃が跳び回ることを望むべくもないということにもなる。
遠距離攻撃を持たない、先手つぶしに特化している権能をみても、遠距離戦は意味をなさない。
どうにか、接近戦での決着を付けたいと思っている。
そんなことを考えながら、今回はバリ島の高級ホテルに宿泊することになっている。
翌日には、件の島へ向かう予定である。
空港に到着した碓井たちは、デンパサール国際空港から2~3km離れた、ラマ・ビーチリゾートに到着した。
立地上、緑豊かな住宅地に囲まれており、木々が区切りとなっている。
今は、あいにく夜である上に、天侯が優れていないが、晴れ渡った時の青空とオーシャンブルーの光景は、まさに神々の島という美しさに満ち溢れている。
近くには海底火山をはじめとして、様々な火山地帯があることも踏まえると、地球の生命力を
ある意味でいちばん感じやすい場所だともいえる。
それだけに、この海域で噴火などの天変地異が発生した時の、世界への影響も非常に鋭く激しいものになる。
破壊と豊穣の、原初の自然を表す地域でもあるのだ。
さて、敷地内を見渡してみると、熱帯の樹林が生い茂る敷地内には、バーのついた洒落っ気のあるプールサイド。
更に、レストラン、スパが存在しており、非常に快適な空間であることを証明している。
そのなかで、碓井と透湖はそれぞれキングタイプの部屋で休息を取ることにした。
透湖は、自分の親族が重大な事件を引き起こしているのではないかという、自責の念で、終始顔色が悪かったが、どうにもできる問題ではないので、ルームサービスで食事を取らせることにするためにその旨を外のプールサイドから伝えると、プールの水が部屋にしみ込んでいることに驚きながらも、碓井は、少し離れた繁華街へ赴くことにした。
「ふぅ~。さすがに息が詰まるな。あんなにマイナスの雰囲気ばかり出されても、鬱陶しい」
同行者へのぼやきを発しながら、タクシーでクタトいう繁華街へやってきた碓井。
ここに正史編纂委員会が用意した、現地での長老格とのガイドが露店を立てているという。
夕方から夜にかけての時間なので、非常に人が増加している。
これが、ちょっと時間が過ぎたら人ガいなくなるというのだから、
繁華街とはいっても、外ではしゃぐのではなく、しゃれたバーかダンスホールで遊んでいるのだろう。
レギャンという繁華街ではナイトクラブも多くて、喧嘩も絶えないという。
それに比べれば、思ったよりも、治安がよさそうなのも好印象だった。
露店を構えている場所は、ジャラン・レギャン沿いといって、DFSギャラリアなどの大型免税店やショッピングセンターの立ち並ぶ場所だ。
その中の適当なエスニック料理で腹を満たす。
碓井が入ったのは、ナシ・チャンプル屋だった。
観光客が多いので選んだのだが、なかなか成功したチョイスだったようで、白いご飯を食べることが出来るのも、嬉しいところだった。
ワルン・ナシ・チャンプルという名前のようで、あてになるものが決まっている場合や、自分で選ぶビュッフェスタイルもある。
この店は、表通りから少し離れていたので、若干の不安もあったが、「ワルン・マカン・ニクマット」という店名の店は大成功だった。
皿に白米を盛り付けて、鶏肉を多めに入れつつ、ニンジンと玉ねぎの炒め物を盛る。
ゴーヤに香辛料が混ざったモノも取り分ける。
ナシとひき肉のキーマカレー風の料理も盛り付けることで、
非常に見た眼が豪華になった。
御値段も非常に安上がりでありながら、とても味もいい。
ここでは水は高いようなので、ビールを専門に摂取することになるようだ。
いくら飲んでも酔わないと思えば酔わないこの体があってのことだったが。
ビンタン・ビールという銘柄を呑んだ。
苦みが少なく後味がさっぱりしているので、呑みやすい。
しばらく楽しく飲み食いしていると、横の席に、優しげな風貌のおばあさんが話しかけて来た。
「失礼しますぅ。おうさまでいらっしゃいますかぁ。わたし、この近くのまとめ役ですぅ」
「ああ、おれが香山碓井だ。正史編纂委員会という言葉に聞き覚えはあるか。合言葉も用意しているが」
「はぃ。リスボンに雨が降る……ですね」
「北京は今日も雪だろう……。よし、現地のまとめ役だな。では、今回の用件について離すぞ。あまり時間をかける気にもならない」
「そのようですぅ。じつは今日の3時頃のおはなしなんですけれど、島で膨大な呪力が弾けていたんですぅ。それが怖くて、わたくしどもは震えていましたわぁ。こんかい、王さまがたすけてくれるぅゆうて、みんなうれしがっておりましたわぁ」
「その島が消滅するかもしれないが、そのあたりの了解は?」
「この辺りは、細かい地震も多ぅて、島がひっこんだりとびでたりするんは、そんなに珍しい事じゃないんですぅ。日常の光景っちゅうんで押し通せば問題はないですぅ」
「ふん、ならまあ、そこまで人家に被害が出なくてもすむことを祈っているしかないな。相手次第では、十分にあり得る」
「そこはもう……おうさまのご意向にすがるしかありませんわぁ。みんなも了解してますぅ」
「よし、明日すぐにでも、件の島に向かう。そのように伝えていてくれ」
「はいぃ。以後良しなに」
短い合意の会話を澄ませると、ゆったりとした足取りで老婆は去っていく。
その後ろ姿を眺めながら、食事を済ませていく碓井。
ちなみに、美少年が旺盛に飲み食いしている様子に恐れをなしたのか、飲酒の有無を聴いてくる猛者は存在しなかった。
そのため、碓井の周囲の席に人が座ることはなかった。
遠巻きにその様子をうかがうだけで済ませていたのだ。
そんなことは露も気にせず食事を終えた碓井は、ラマ・リゾートへ戻ることにした。
――既に、敵の魔の手が透湖の身柄を押さえていたことにも気付かずに。
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碓井が現地魔術結社との情報のすり合わせを行っていた時、
透湖も又ルームサービスで用意した食事を済ませていた。
鶏肉をメインにした、エスニック料理で香辛料が効いてきたことで、落ち込んでいた体も温まってくるとともに、足手まといにならないという自分の発言を思い出して、自分に憤慨していた。
「何やってるの、透湖。まともな秘書業が出来ていないじゃない。これで一体、足手まといにならないなんて、寝言をほざいていたのかしら」
プンすか自分に不満をぶつけた後、気分を入れ替えるために、ぬるいお湯のシャワーを浴びて身を清めていた。
このホテルは、シャワーの段差が少ないので水があふれてくる所が、最高級のホテルに比べて多少のマイナスになっている。
しかし、熱いお湯にすることもできるので、じょじょに温まっていくごとに、気分も落ち着いてきた。
シャワールームから出て、準備していた明日移動するためのT-シャツと簡易スラックスを身にまとい、心地よい夜風に当たっていると、明日は無様な姿をみせることのないように、という決意も湧いてきた。
生暖かい風をドライヤー代わりに、髪を梳っていた透湖は、明日からの予定を口にすることで、より一層の決意とした。
「少しは私も、役に立つところを見せないと。今回の現地との交渉も碓井様が担当されてしまったし。す……すこしは碓井様に褒めてもらいたいし。もっと頑張らなきゃ」
腕を持ちあげて、気合をため込んだ透湖は、明日に備えて就寝することにした。
その時。
「やあ、透湖。気合が入っているじゃないか」
気楽な、しかしまぎれもない不吉な声音でささやいてくる男。
今回の元凶の主犯格と目される男。
桃河仁である。
あまりにも軽く、主犯の男が訪れて来たことに。
自分の父が、紛れもない犯人だということを察して、表情こそ驚いたように、こわばらせるも、体は腰を浮かした臨戦態勢になっていった。
喉を守るために右手の櫛を翳し、左手を左脇腹から胴に巻きつけて上腕二等筋で脇腹を守り腹部への防御とする。
足を真半身の形にすることで股間を守ると同時に入り身を認識しづらくする、模範的な小太刀術の基本構え。
その様子を眺めた仁は、その警戒をあまりにも儚い昆虫が威嚇しているかのように鼻で笑いながら、話しかけてくる。
「おや、透湖。どうして警戒するんだい?大体、感じていると思うけど、このホテルは既に包囲しているよ。君では逃げ切れないだろうね」
簡単に呟かれる、投降の申したてに、断固拒否の姿勢を見える透湖は、凛として発する。
「それがどうかなさいましたか、お父様。私は正道をいきます。その果てに死ぬのであれば本望です。
この地には、神殺しもおられるのですよ。
儚い抵抗はおよしになってはいかがです?桃河仁」
「おや、呼び捨てとは寂しいねぇ。まあ、透湖がいるから僕たちの計画も成功するんだけど。――ああ、それと例の神殺し君は、屋台で現地の魔術結社との会話中だ。危険を察知しない限り、彼らの勘も働かないからね。十分な余裕はある。
さあ、透湖。無駄な抵抗はやめて、私たちと共に来ないかい。
世界を変えるビッグビジネスだ。世界が平和になるんだよ」
「そんな余太話に付き合う気はありません。死ね」
突如、会話を打ち切り櫛を投げるとともに、父とも呼ぶ忌々しい男の懐へ滑り込み、呼びだした小刀を叩きつける。
「おや、怖いねぇ」
振りまわした剣は影を切ったにとどまる。
――用心深く粘着質な男が生身の姿を表すわけがない……。
あんなハ虫類みたいな顔の生モノの血を引いているだなんて、気色悪い……。
思わず、肌をかきむしりたくなるくらいのおぞましさだった。
透湖は、ライトがいつのまにか照らされているビーチへ躍り出す。
(実態はここにはないはず。手下だけならば、最後まで戦って死ぬのみ!碓井様へ大した面倒を掛けることにもならないはず)
その決意通りに、椰子の木が植えて死角が多い庭。
事前に意識していた通りに藪の中から、黒服黒仮面に身を包んだ男たちが10名ほど、現れた。
(相手の戦力がどの程度なのかも分からないから、目の前の相手を仕留めていくしかないわね)
それぞれが拳銃をはじめとして、ククリナイフ、カランビットナイフなどの暗器類をもっているようだ。
この島は、意外と強盗やイスラム系の自爆テロが多いとのことで、そこから入手したものだろうか。
冷静に状況を分析しながら、小太刀の代わりに槍を召喚する。
西洋、東洋問わずに使用される「召喚」の術だ。
ナイフ一本しか持たないと思われていた小娘が槍を取りだしたことで、より鋭く殺気を放出する黒服。
緊迫するビーチリゾート。
南国特有の生暖かい風が、水を薙ぎつつ吹き付けてくる。
透湖の亜麻色の髪が風に煽られて、頬を撫でるとともに、わずかに視界を黒く閉ざした。
そんな自然現象すら見逃す事のない鍛えられた戦士たちは、行動を起こした。
軍隊式の鋭い一振りで攻撃してくる黒仮面。
それを、手にした槍で、気配だけを察知して人さしして仕留めていく透湖。
ことここに至って、手加減などを考える気にもならずに急所を狙って攻撃していく。
全員息があるようだが、戦闘不能だろう。
放っておいたら死ぬだろうが、相手が回収すれば問題ないし、助けるべき民でもないことで、容赦していない。
乱れた髪を軽く肩から左手で払うことで、作業にすぎない現象が終了したことを示している透湖。
媛巫女のなかでも圧倒的な身体能力をもつからこその、華麗なたち振る舞いだった。
そこへ現れる仁。
再び構える透湖。今度こそ仕留めるという裂帛の気合。
いかなる挙動も見逃さないと鷹の眼で、獲物をとらえている。
だが。
流れるように、10人を打ち倒した透湖だが、そのころになって再び仁が現れた時に、ふと意識が暗転した。
目眩を覚えた人間が反射的にとるように、頭に手を当てながら地面に崩れ落ちた透湖は、めまいの原因を探る。倒れこんでも槍を地面につきこむように支えとするのは、彼女が一角の戦士であることを示している。
では、腰が抜けたように崩れ落ちるのはなにゆえか。
「――なに、このかんか……」
口がしびれて来たようで、舌足らずになる透湖に、うすら笑いを止めない仁が真相を語る。
「食事に、無香料の魔術的な鎮静剤が混ざってたんだ。透湖は自白剤の抵抗訓練を受けているから、生半可なものでは効果を発揮しないからね。
そこらへん、通常の媛巫女とは違う立ち位置にいた桃河家は面倒だよねぇ。
あとは、この地に透湖がもう一度来た時に自動的に発動するようになっていた、ある術式のせいでもある」
「じゅつ……しき……?」
「黄金の時代を生むための、女神を生みだす儀式さ」
「なんの、こと……?」
「透湖の腹部に珠があるだろう?
それは僕の爺さんが戦時中にとある島で入手した、女神ドゥルガ―の竜骨でね。
透湖に女神を生みだしてもらって、このバリ島を含む、インドネシアを拠点にした世界を平和にする貿易ビジネスを始めようと思うんだ。
まつろわぬ神は確かに制御できないけれど、神話に沿った戦いとその性質は変わらない。ドゥルガ―は大母神だ。それも、神話において黄金の時代を体現する平和な世界の女神さ。この地で聖誕することで観音信仰の影響も強く受ける。
そのための儀式を行えば最新にして最古の、人類にとっての平和な時代ができると考えた。その儀式を用意したのが、僕の父で透湖の祖父さ。賢人議会もまきこんでいる、なかなか大がかりなものさ。まあ、彼らには魔術社会でのし上がるための資金提供や資材放出に専念してもらっているけれど。
まったく、ファビウスはやり手だよ」
身ぶり手ぶり動きを付けながら、自分が知っている事を口にすることを喜びとする、神経質な人間にありがちな、夢見る様な目つきだった。
「賢人議会も……?それに観音様が……?」
透湖は、徐々にぼやけてきている視界を必死にとりなしながら、聞き取れた中で自分たち媛巫女が常日頃耳にしている固有名詞を確認する。
やっとの思いで口にしている透湖を一顧だにせず、ブロードウェイで歌い上げるように、体の動作を大きくしていきながら、仁は語る。
「ああ、観音信仰については知っているかい。
観音は明代にはすでに荒々しい男神から女神へと変貌していた。ドゥルガ―とも奥底で繋がる大母神として。
宋代には封神演技や西遊記にも、慈悲深く、英雄よりも魔王よりも強い存在として、描かれている。彼女の信仰は、英雄や神殺しにも負けぬ力をもち、民衆を導く慈愛に満ちたものがほとんどだ。たしか、妙見菩薩とも習合していたっけね。もっとも、それとは意を異にするけど」
「それが……なんだと……?」
「ドゥルガ―が生まれようと観音が生まれようと、はたまた名前の違う大母神が生まれようとも、まつろわぬ神になるということは、より神話の淵源である大母神の性質に戻ることになる。
その性質を制御するための儀式は既に存在している。より、戦闘女神としても荒らぶる為の神殺しも近くにいるしね」
「この二人をぶつけることによって、黄金の時代を生みだす時に生じる、女禍と伏義の戦いに代表される蛇女神と蛇男の合体から生まれる神話を再現する。
かつての――全ての人類が栄光に包まれて平和であるという神話だ」
「太古のそして未来の神話、大女神で統合された世界に比させるのさ。
弥勒菩薩の信仰もその系譜だ。ヤマの黄金の時代に立ち戻ることを暗に記している。
女体化していることもあるし、やはり太母神の系譜といえるのさ」
「それに、女禍と伏義ならば封神演技の大極を生みだすことにもなるだろう。
それが、黄金の世界。母なる大母神の時代。
神殺しを喰らったときにこそ、かの神は本当の姿へ立ち戻る」
神話の通りに。
ポツリと仁は口から零すと。
「信仰の通りに世界は黄金の時代へ移行する!それをおこなった僕たちにもお金がはいる。もはや、正史編纂委員会などは小さい秩序にしかならないのさ!自分も嬉しいし、皆も幸せになる。これがビジネスというものさ!」
「それが……父上に出来るとお思いですか……?」
「できるよ。だって僕は自分を信じているもん。自分を信じて正義を行い続けていれば、願いはきっと叶う!」
顔を自分への狂気に歪ませて宣言する仁。
その顔を見て、今の自分では何もできないことを理解して、毒に苛まれたまま意識を失った。
(碓井様、申し訳……ありません。足手まといにしかならないわたしを……ユルシテ)
気絶した透湖を価値のない虫をみやるように無機質に眺めた仁は、傍らに距離を詰めて来た部下に合図する。
「おい、俺は一足先に戻っておく。お前らは5分以内に後片付けをして、ずらかれ」
「かしこまりました」
一言だけ吐き捨てるように命令すると、肩に透湖をかついで仁はホンダのジープに乗り込んだ。
見送りをすることなく、黒マスクの男たちは、アルコール綿で血痕を素早く拭き取り、死にかけの男たちをトラックに詰め込んでいく。
髪の毛を巨大ローラーで回収していく。
痕跡を無くすために。
それでいて、倒れている具を誰かが使ったあとであるように偽装しながら。
きっちり5分で作業を終わらせた黒服は、荷物の多いトラックに乗り込んで夜の街へ消えていった。
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透湖回収から二時間後。
現地結社との会話を終えて、タクシーが捕まらなかったことから、歩いて帰ってきた碓井。
そして。
ラマ・ビーチリゾートに戻ってきた碓井は、透湖の部屋を訪ねるまでもなく、なにがしかの不穏な争いが起こって、そして終了したことを察した。
従業員が買収でもされていたのか、魔術の暗示で人払いでもされていたのか。
通常通りの営業をつづけるホテルの中で、仕掛けていた水の魔術から情報を入手していた。
「さて、どんな状況なのかな、と」
このホテルを選んだ理由の一つが、水が室内に紛れ込んでいてても、相手は気にならないだろうと考えたからだ。
もともと、南国で湿気が大量にあるうえに、段差が少ないのでシャワーの水も室内にしみ込んでくる。庭にはプールがある。
そして、共通のビーチを通りぬけることで、侵入も容易であるということ。
トールの森をもつだけでなくとも、魔術には本来はとても万能性が高いものが多い。
通常の魔術師が使う魔術に、権能による呪力効果をまぜることで、非常に効力を上げることが出来る。
水を媒介にした情報の入手もその一つである。
そして、天眼という妙見菩薩の権能の一つも。
視界を上空に送ること自体はどの魔術体系にも存在している。
そして、北極星と金星、太陽の神である妙見ならぬ天津甕星は、いうまでもなく道標の神でもある。
天眼とは、「お天道様がみているから悪いことも全て見ておられる」という言葉があるように、太陽や星、月のうち、いずれかは必ず空に浮かんでいることから、自分の存在を照らしているというものだ。
神の相似形である体を持ち、限定的に非常に強力な魔術を使用することで一層の強大な意味を手に入れることが出来る。
神の体を持ち、その類型に応じた魔術を使うことは、神に比するほどの精度を持つ魔術に変わ
るのだ。
(ほんと、最初の時に魔術師の兵隊が多数いて助かったわ。自分の位置を空から把握するなんて、兵士の感覚でも初歩のことだしな)
「にしても、誘拐犯は俺が何の用心もしないで、従者一人残していくとでも思っていたのかねぇ。透湖には負担を掛けるが、連れ去るだろうと考えていたから、まあ死ぬことはないだろうと思っているし、あらかじめ酔い止めとしてトールの森で採取した果物のタネもいれてるから、生命力の保持もできるから即死じゃないならどうにでもなるけど」
寝室の床にしみ込んだ水と、プールの水が記憶している情報をコップの水に映像化していく。
首謀者が桃河家の長であること。
悲願の達成。
女神による世界平和ビジネス。
透湖のスペックは、神具によるものだということ。
その場で何が起こっていたのかを映像として把握した碓井は、天眼を使って透湖の安否と居場所を調べることにした。
自分の居場所を星と月をながめることで理解するとともに、発信器を呑んでいる透湖の居場所を三点角で把握していく。
(やっぱり、場所は予定していた島か)
場所が分かるとともに、武装集団のテントも発見できた。
仕事を終えてから、2時間は経過していたようだ。
ヘリで移動していたのなら、そろそろ到着していてもおかしくない。
(なら、こいつらが実行犯かな。一人ずつ消していかないと)
おおよそ150人前後。
大隊一つの訓練された武装集団だということが分かる。
やはり、インドネシアのテロリスト集団からちょっぱってきたようだ。
(世界を変えると言う割には兵隊が少ないが、よく考えればビジネスでの繋がりのある人間が魔術社会の中にいるほうが便利なのか。賢人議会とつながっているというのもどこまで本当か分からないが、援助くらいなら結んでいても可笑しくないしね。うまくいけばぼろもうけだし、いやー魔術世界は悪鬼羅刹のごとし。カンピオーネのことを野蛮人といえる資格はないだろ)
とりとめのない思考と共に、相手の戦力を把握していく碓井。
戦いにむけて気を尖らせるために、戦意を高めていく。
事前に知るべき情報を得た碓井は、さっそく行動を開始することにした。
(街中を徒歩で走りまわれば、1時間ぐらいだから間をおかずに突撃できるしね。無限の体力と精神力のある体はマジチ―トっす。神と戦うときはそうでもないけど)
宿を出て、屋根に飛び乗る。そのまま屋根を走り去っていく。
さながら水を得た魚のごとく。
途中で木々に生えさせた果物をもちながら、暗黒に閉ざされた街を怪鳥のように飛び回る碓井。
果物が権能による芳醇な回復効果を備えているので、携帯食いらずの万能な権能である。
それに一般的な魔術師が使う召喚魔術ならば、果物程度を一つ一つ呼びだす事もできる。
「ヒャッハッハッハッハッハッハッ。ア―ハハハハハハハッハ」
口から歓喜の声が漏れ出す事を押さえることが出来ない。
制限して声を小さくしているが、甘やかな声は街中でも一際だっている。
姿をとらえることが出来るほど、緩やかには移動していないので、怪奇の類だと信心深い街の皆様にご迷惑をおかけした程度だった。
林檎をたべて。
蜜柑を食し、
葡萄をほおばり、
サクランボを含みながらの移動。
(旅客機内でも果物を食べていたが、とても美味しい)
そうして一時間の全力疾走。
500kmを60分で移動した、圧倒的な高速駆動こそが権能の真骨頂である。
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目的の島にほど近い港にて。
碓井は目的地となる20km先の島をながめる。
「さて、相手の戦力はどうなっているのかなと」
天眼と肉眼の併用で立体的に地形を把握していくことで、島の内外を把握してある。
兵隊はテントの中で、交代制の休憩を行っているようだ。
(透湖の姿が判明しないということは、島の真ん中の地点に存在する建物の中にいるということだな。透湖の父も同じようにいることになるのかな)
予測を立てた碓井は、行動に移すことにした。
目標は、透湖の奪還。
まつろわぬ神が出現するなら、撃破しよう。
――いや、待てよ?
――透湖をしばしの間、放っておいて、まつろわぬ神を出現させることも考えるべきか?
――別に透湖の無事だけが欲しいわけでもないし、頑張ったけど間に合わなかった、とするべきかな……。
――でも、役に立つかもしれないしなぁ。ここで女を助けに行かないのは、いかなるものか。
――さすがに死なれたら、死姦になるし……。
――自分を慕う女を助けるのも、英雄にふさわしいよなぁ。
――英雄か……なりたいなぁ。
――よし、助けに行こう。
ふと魔が刺した、スリルを求める欲望。
その欲望を別の欲で塗り固めて、碓井は移動しようとする。
すると、背後からトラックが3台ほど排ガスをまきちらしながら走りこんできた。
運転が荒っぽく、何かを急いでいるかのようだ。
碓井がいるのはコンテナの詰まったタンカーも多い、国際港だ。
隠れる場所も死角も相当に多いので、気配を隠すだけで存在は薄くなる。
近くにあったコンテナの背後に隠れる。
中身は分からないが、トウモロコシが詰め込まれているようだ。
目立つ銀髪を帽子で隠し、黒T-シャツと黒短パンに着替えておいたことでますます姿が見えなくなる。
コンテナと海の中間に急停車したトラックを乱暴に開けて、ガタイがしまった浅黒い男たちが10人前後出て来た。
もう一つからは、もう5人ほど。
残りの一つからは運転手しか出てこなかった。
(16人前後ということでいいのかな)
最初のトラックにいた、知性のある目をした肌の黒い男が、無線で会話している。
目線は海上の島に向かっているので、どこの相手と会話しているかを天眼で見ることで、簡単に把握できた。
どうやら会話を聴くに、透湖をさらって隠蔽工作を行った集団はこいつらだったようだ。
今は、透湖がけがを負わせた連中をどうするかについての連絡を入れているようだ。
最後のトラックに山積みのようだが、薬が効いていてよく戦ったものだと、感心する碓井。
(やっぱりそれなりに役に立つな。足のラインが好みだからな、グフフ。やっぱり助けることにしよう。神殺しでも英雄になれると証明しよう)
碓井が、静かに移動する。
目標は無線で会話しているリーダー格の人間……ではなく、自分が狙われている身だと考えていない存在。
隠れているコンテナから程よく近い場所でたむろしている、ダメージを負ったと思しき包帯を巻いている180cm大の黒人だ。
気配を隠す事もなく背後を取って、コンテナの中に引きずり込む。
関節を取られて動きが出来なくなった相手を腕力で連れ去る。
首の関節を外して、一撃で戦闘不能にさせる。死亡はしない程度に頸椎の圧迫を避けた。
生きている限り、障害が残るかもしれないが……。
その調子で10人の兵隊を仕留めていく。最初にトラックから出て来た色の黒い連中を中心に狙った。
11人目に取りかかろうとしても、交渉に時間がかかっているようで、リーダー格は激しく怒鳴り合っている。
もう気にすることもないので、その場で5人の首を捻り上げる。
首が、肩から胸にかけて移動する。頭部の重みで自然と外れていくのだ。
5人の犯罪者を障害者にするのに、10秒足らずで終わったことを考えると、関節の構造と急所を一通り習ったことで、技術が上がったような感覚がある。
もう少し仕留めていけば、一人1秒ほどになりそうである。
荒々しく無線を切ったリーダー格が、決定した内容を伝えるべく周囲を見渡したときには、すでにどの味方もいなくなっていた。
インドネシア現地の人間なのだろう、18歳くらいの青年は、吐息を感じるほどにすぐそばにいた銀髪の男を見とがめて、思わず悲鳴を上げようとする……まえに、眼前から猛獣のような殺気を出されてへたりこんでしまい悲鳴すら上げられなくなった。
恐怖にわななく顔を歪ませてかすれた声で、尋ねる。
「――なんだ、これは!?……お前は誰だ!?」
「お疲れ様です。申し訳ございませんが、少々お話を聞かせていただいてよろしいでしょうか」
同じく小声でつぶやかれた声は、通常なら人目を引く凛々しい美声だっただろう。
しかし、少年の顔をした目の前の生物が放つ殺気は、整った顔がまるで悪魔のような人を恐怖に堕落させる化身であるかのように思わせた。
何よりも、自分とは格が違うと。
体が強いというだけで、人は本能的に相手は上だと認めてしまうのだ。
ガタガタ震えて鼻水をたらしながら、青年はただ碓井の顔を眺めている。
その様子を見て、十分な脅しはできたと判断した碓井は、ゆっくりと右手の横に移動すると、膝をついて顔を間近に近づける。
「貴方は、桃河仁を知っていますか?」
その一言に自分がどれほどの危ない橋を渡っていたのかを理解して、脳神経に火花を散らせた。
「な……なんだ、それは。確かに依頼人の名前だが、お前みたいなやつから狙われるようなことしてたのかよ!?」
「誘拐、しませんでした?」
「あのやたら強い女だろ!?仲間が5人以上もさっさとやられてしまったよ!それぐらいしか知らねえ!本当なんだ、知らねえんだ!た……頼む、助けてくれ!」
必死の形相で訴えかける青年を無表情に眺めて、碓井はおもむろに頭を振ると、さらなる情報を付け加えた。
「いいえ、貴方は知っています。――桃河仁がどこにいるのか。そのそばについている付き人はだれなのか。教えてくださいますね」
「……ッ!なんで、それを……」
「それで、教えていただけるのでしたら、関節技で天国に連れていくこともなくなるのですが……。知っていますか、関節技は痛みが強まる先に得も言われぬ快楽がまっているのですよ。怪我もしないし痛みも外せば、引く。しかしわたしが許さない限りは、ずっと痛みが続くのです。あなたは何分耐えられますか、試してみますか」
指を第一関節よりも先端の部分を微妙に振るわせる動作を、青年の眼の前で実演することで、関節というものを破壊される幻視を脳裏に映してしまった青年は、体の震えを大きくしてあえぎながら、言う。
「ひっ……ひぃぃぃ。わ……わかった。俺の知ってることは全部話すからよぉ。頼む、助けてくれよぉ」
「では、わかりますね」
穏やかな口調で殺気だけは撒き散らして、モノを訪ねる碓井。
その態度に不遜な態度は、どれほどの痛みになるのかと震える青年。
そうして地面に頭を擦りつけながら、怒りを被ることのないように、寛怒を願いながら洗いざらい説明する。
「まず、桃河仁についてですが、俺達の所属している組織に前々から顧客として話を通されてまして、色々と銃器や爆薬などを用意してもらっていたので、その関係で今回も派遣されてきただけなんです。親分の方は、それなりに大金をもらっていて相手がかなりのバックボーンがあるということから断ることが出来なかったんです。それで、親分自ら今はあの島で指揮をとっています。俺達は魔術結社の下部組織的な扱いを受けてますので、その方面からも圧力がかかってまして、今回の計画は相当大がかりなものだということしかわかっていないんです。詳細は直接親分か、桃川仁に聞いていただくしか……」
「島にいる部隊はどういう意味があるんだ?」
「わ、わかりません。ただ、何か特別な儀式の為の警護だとしか」
「さいですか」
「これで、いいでしょうか。これ以上は何も知らないんです!お願いします、助けて下さい!故郷には両親と5人の兄弟が腹をすかせてまっているんです!」
必死に地面に頭を擦りつける青年に、あくまで優しげに肩に手を置く碓井。
思わず顔を上げてしまった青年は、慈愛あふれる表情に自分が助かるんだと一抹の錯覚を覚えた。
碓井は問うた。
「君の名前と両親のいる田舎はどこだい?」
「そ、それは……」
「正直に話してくれたから、御両親にお礼の御金を出そう。そうだな、ドルで1000万ドルあれば、こちらで5倍くらいの価値はあるんじゃないかな」
「1000……1000万ドル……それだけあれば、バラックに住まなくてもいい……。割れたビルの中で寝ることもしなくていいし、ホテルのレストランでディナーとか食べることが出来るんじゃ……。いや、でもあんたがそんな大金ポンポン出せるわけが」
「賢人議会」
「け、け、賢人議会!?あの!?正常な魔術結社ギルドか!?そんな一流どころとうちが何の関係があるんだよ!」
「どうも、賢人議会と桃河仁は関係があるらしくてねぇ。そこをつつけば、所詮は魔術結社だ。通常の資金稼ぎなんてしていない。1000万ドルなんて安いもんだよ。金融の取引では、現金の総量と架空マネーは大きく違うからね。失敗しても破綻することがない結社であるということは、必然的にお金も架空マネーで天文学的な資金を持ってるんだよ。いくらでも失敗できるほどの大量の資金で、株式取引が出来るからね。……どうだい、欲しくないかい?君が正直に話してくれるなら、このお金は御家族のモノだ。私なら、出来る。必要なのは、君の実家の住所とより正確な情報だ」
「く……くれるんだよな」
「はい、勿論です」
その、碓井の包容力があるオトナの澄まし顔を信用したのか、生唾を飲み込んだ青年は、実家の住所と兵士たちの総数を、つっかえながらも捲し立てながら説明した。
兵士たちは150人の一個大隊で、桃河仁の私兵として用意された存在であり、今回の拠点を防衛する役にも就いているし、桃河透湖を捕まえる役割も果たした。
その時にダメージを負った連中は、俺の魔術を使って奥のトラックで魔術的な治療をしているが、正式な訓練を受けたわけではないので、大した効果は見込めていない。
死にはしないだろうが、戦闘不能だ。そのための回収や治療をどうするかについて確認したが、親分がいうには桃河仁は儀式の真っ最中で連絡は取れない。セーフティーハウスに泊まっておけという指示を受けたので向かおうとした先だ。場所は、このコンテナの奥にある魔術的に作った小屋だ。コンテナの一つをそのまま刈り取っているから近寄る人間はいない。
これで全部だ。
そう、かすれた喉で全てを懺悔するかのように告白した青年は、失った酸素を求めてぜいぜい息を荒げていた。
天眼で確認した内容とそれから推測したことと合致する内容だったので、仮説が証明されたことによる知的満足感も得られて、一人うむうむ唸っている碓井。
「これで、俺は今回について全部話した!頼む、お願いだ。両親と兄弟に一度でいいからレストランに行かせてやりてえんだよぅ。頼むようぅ」
捨てられた子犬がついに飼い主を見つけたかのように、潤んだ目でT-シャツにすがりついてくる青年。
服を必死に握りしめて涙を流して哀願する大の男を見やり、碓井は青年の頬に手を添えてゆっくりと目線を合わせた。
敗北者の眼をした、やむにやまれぬ事情を持つ青年に、傷ついた心を慰めるように憐みの視線を向ける。
青年は、その眼を見て救われるのだと安堵して、思わず涙の膜が盛り上がり、流れ出す事を止められずにあふれ出るままにこぼし続ける。
碓井は、そのままゆっくりとほほ笑みながらあごのラインをなぞるように指を動かして――。
――首を捻った。
関節の内部に存在する靭帯を痛めることのないように、90度曲がって目が開眼したまま見開くように碓井の眼を映す。
口が大きく開いて舌が飛び出してくる。
あまりいい食生活を送っていなかったのか、若干貧血気味だったようで、舌が白っぽく濁っている。
脳がいま自分の体に起きている事象を処理しきれずに、反射的に行ってしまうショック症状だ。
自律神経も麻痺してきたのか、鼻水がこぼれだしてくる。
こちらも白濁に濁っているので、やはり栄養状態に問題があったようだ。
この分なら、田舎に貧しい両親がいるというのも、やはり本当の事だったのだろう。
塔台の明かりしか映らない暗い海の中で、目を開いたまま体が微動だにしていない青年は、予期せぬ心臓病で生涯を終えてしまうのだと見る者に思わせるほどの、虚無的な空間として演出されていた。
寄せては返すさざ波の音色だけが、演出された冷やかな世界を彩っている。
碓井はゆっくりと首を支えたまま、打ちつけられただけの汚れたコンクリートにねじ曲がった頭部を下ろす。
仰向けで寝かせているので、呼吸にも問題はない。瞳孔は開きっぱなしだから若干の気味悪さを現わしているが、命に別条はないだろう。
碓井は召喚魔法で軽く歪んだ空間から、手元に小切手の山を取り出してきた。
熱のようなもので歪んだ空気は、瞬きする間にも、特異な現象が起きていたことなど覗かせることもないように、消え失せていった。
次いで、小切手に挟んでいた黒の万年筆で1000万$と一筆書きすると、白目をむいた青年の懐に治めていった。
軽く二回ほど青年のポケットを叩いてちゃんと懐におさまっていることに満足して、逆召喚を行いスイス銀行の銘が入っていた銀行券を送り返す。
万年筆は、短パンのポケットの中に放り込んでおく。
首を上げて大きく体を伸ばすと、海を見透かして目的地の島を視界に収めて、碓井はぽつりとつぶやいた。
「それはそれとして、透湖をさらった罰は与えないとねぇ。僕が勝てば帰り際に回収して、賢人議会をゆする材料と証人になってもらおうかなぁ。自分が全うに働いた代価にお金を手に入れるのって、すごく健全で誰からも文句を言われる筋合いもないからね。胸を張って、よろこびわらいなさい」
言を終えた碓井は、自分の発言に苦笑しながらも目を自分が弱い存在であった事を思い出したように、暗く輝やかせていた。
一息つくと、そろそろ海を渡ろうかと、靴を整えていた時に、事態は最終段階に移行したことを示すように。
天をめがけて、白色の円柱が夜闇を切り裂いていった。
暗黒の世界を切り開いていく、黒白の救世の一閃。
かつては絶対悪を定められたアンリ・マユすらも服属させたという、人々の信と信と信の結晶。
膨大な信仰から生まれている、断罪の剣の輝きを見定めて、勇者に憧れる人間の心を震わせられる。
子供のように目を輝かせる。
閃光が放たれた島を強く睨む碓井。
それと同時に膨れ上がる神の存在感。
神の呪力を浴びたことで、いよいよ細胞と精神が活性化していくことに、戦いの愉悦が実を甘く浸していく。
その激情を迸らせると。
目を爛々と輝かせると、牙を煌めかせて、海を走っていった。
▲
暗闇がそこにはあった。
脈動する血脈のうねりは、今でもなお動き続けている活火山のそばに作られていることを暗に示していた。
生命の鼓動。
土壁を削って造られたと思しき、洞穴の最奥部であろう。
祭壇に置かれる無数の蝋燭が、妖しい光源を灯していた。
その祭壇の造り方も一工夫されていた。
まず一番手前側に、色取り取りの自然の恵みが積まれていた。
果物が。肉が。魚が。薪が。パン小麦が。クラブ小麦が。エンマーコムギが。アインコルンコムギが。ライ麦が。大麦が。コメが。雑穀が。ナツメヤシが。トウモロコシが。タマネギが。ピーマンが。二ラが。ネギが。水が。塩が。
次に石を3つ置いていた。
中央を一段奥に配置して、左右でその脇を固めるように。
岩石の文様はよほどの高熱で焼結されたのか黒々としており、一筋の文様が中央に走っていた。
その奥に、同じく黒曜石にも似た岩石で造られた、されど文様は精緻を究めるように模様のない場所など存在しないほどに刻み込まれていた。
製作者かそれを支持したものの狂気を、まるで不良が街のガードレールにスプレー缶を所狭しと書きつけているかのように。
この禍々しいまでの威容は、しかし生産的な活動でもあった。
ならば、この祭壇の前にいる。幽鬼のような異色の存在感をもつ男も、何がしかの生産的な事例を遂行しているといえるのかもしれない。
さながら、砂漠に住む昆虫のように。
祭壇の前に掛けられた十字架に括り付けられた美女は、この男の食い物にされる弱弱しい捕食動物であるのだろう。
野生に住む鷹のように強い意思で、媛巫女の中でも人目を惹きつける美貌は、今は青ざめており意識を閉ざしている。
祭壇の前には、壮年の男が座り込んでいた。
磔にされた自分の娘を眺めて、桃河仁は一人ごちた。
「これで、すぐにでも儀式を始められる」
仁は、細長い針金のような体にふさわしく、枯れ枝のような指で地面の魔方陣を叩く。
すると、50人も密着して移動できればよいほどの密閉された空間が、突如、その暗闇を広げたのだ。
これが洞穴の全体なのだろう。
このわずかに広がっている、祭壇を置かれている部分だけが出っ張っており、祭壇の奥の空間と、祭壇の部屋へ辿り着くために必要な入口は、2人がすれちがうのもやっとの狭さの坑道であるのだ。
さながら、子宮のように。
いや、まさに神々を生みだす生命力に満ち満ちた、子宮であるのだろう。
祭壇の後ろにある、暗黒の空間へ。仁は、畏れることなく踏み出していく。
仁は柏手を打ち、四方に備え付けられている符を通して明かりを生みだした。
わずかな光源であるが、魔術師は月明かりのない森すらも見通す眼力を持つ。
この程度は、気にもならなかった。
空気も洞穴内の各所に無数の小さな目が開いており、十分な酸素を供給できている。
それこそが、この空間はすべて人工的なモノであることを物語っていた。
そして、部屋の壁に備え付けられた物体を眺めて、いよいよ満願成就の時であると、多幸感が身を押し包んでいく。
「我らを輝かしき黄金の世界へ導きたまえ」
そこに掛けられていたのは、透湖の母。
桃河桃華である。
顔は力なく下を向いている。蒼白の美貌と血の通わぬ肢体は、彼女が既に事切れていることを示していた。肩口で切りそろえた自慢であったであろう黒髪を靡かせて、口元に一本の黒髪を食む儚げな美貌には、見るものが共に心中を叫ばせるような幽玄の美を振りまいている。
扱いは磔刑の救世主さながらでありながらも、その体に汚れは見当たらない。
土塊の壁にその両腕と下半身を埋め込まれた裸体の美女。
170cm弱の体躯に、豊満な乳房と桃を思わせる臀部の色艶。
血が通わず温かみをなくしている体は、自然の法則にしたがえば腐り始めるのが道理であろう。この異常な現象は、人工の手入れ故だろうか。
防腐処理というものは、しかし人体に行えば、徐々に崩れ落ちていくのが常である。
ならば、超常の行いであるしかない。
そのことを示すように、美女を取りこんでいた壁から蔓が延びており、手首や足首の皮膚の中に潜りこんでいるのである。
「よし、大地の精もうまく循環しているな。さすがは不世出の大地母神の系譜とされた桃華だ」
まるで我が事のように喜んでいる仁。
このインドネシアの大地は、世界でもっとも活発な地球の生命活動が行われている。
魔術の中には、自然の力をそのままに使用することが出来る、魔女術がある。
賢人議会の魔女を洗脳して利用して、さらに子飼いの魔女の素質を持つ存在に知識と技術を留学などで習得させることによって、この生命維持は受け継がれていったのだ。
より、潜在能力のある素体に入れ替えていくことによって。
「ああ、君は美しい。私が君との子を生んだなんて今でも信じられないよ。だけど、我が子は生物としては落第だな。君の気高さを1割も受け継いでいない。ただの装置としてしか生きてきていないんだよ、全く」
情けない。
一言父とはもはや言えぬであろう言葉を忌々しげに吐き捨てる仁。
すがりつくように桃華の足元に該当する壁をだきしめて、仁は自分の妻をたたえて娘を落としめる言葉をささやく。
「桃華。桃華。桃華。桃華。桃華。桃華。君を幸せにすることが出来ない自分を許しておくれよ。結局は、そうなんだ。僕は家業を放り出す事も出来ずに、その家業に誇りすら感じている鬼畜なんだ。それを恥じたこともないのだけれど、君を見るたびに私は世界を変えて皆を幸せにするビジネスを完成させたいと強く思う。もともと、長く生きられないと言われていたけれど、それでも人並の穏やかな生活もあったはずの君だ。僕は君を幸せにするなんて、一生大事にするなんて、口が裂けても言えなかったんだけど、君が僕に従ってくれることが、僕と君が交わることが、一緒に世界を幸せにすることが、君の全てを確かめていく精神の充足感が、全てを私に猛らせたんだ。
――必ず、君の犠牲を無駄にはしないと」
もはや聴く者などいない賞賛の言葉と共に、涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃにした男が顔を、桃華の下半身の壁に突っ込んで土を口に大量にふくむことも気にせずに、そのわずかな体臭すらも体の内に取り込もうとしている。
幸福に包まれた男は、かつての彼女との会話を思い出す。
▲
「そのようなこと、人として許されるはずがありません!」
ある穏やかな日の事。
古風な洋館の一室。
温かな日差しがいくつもの目だし窓を通って光源を薄く明るく広げていく。
この一室は、様々な魔術関係のみならず、ジュブナイルや翻訳小説、オリジナル小説、画集、伝記、技術書、最新の研究資料、先祖代々の功績を記した日記。そうしたあらゆるガラクタを集めた子供心に憧れる、宝箱のような図書室が声を荒げた存在を囲っている場所だ。
桃河仁。25歳。
彼は桃河家に生まれた現実世界では45歳になる壮年の男性だ。
桃河家、並びに旧姓、巴家の家系は3代前の戦争直後のころに、外国の黒魔術を取り入れる機会が存在しており、明治には鹿鳴館の伯爵家の地位にあった。
当然、沙耶宮家とも友好関係にあったことで、沙耶宮とイギリスへ留学に行くことにもなった。もっとも、桃河家と巴家はイギリスの植民地だったインドのポンペイへ商売にいく位の商売っけのある血筋でもあった。
賢人議会含め、外国魔術社会とも関係を持つ、非常に有力な一族だった。
しかし、4家のような平安時代から続く家ではなく、役目ももたない。
3代前以前から、京都の公家の中で生き抜いてきた誇りと欲望。
戦国で戦い続けた家の檻。
その全てが【嫉妬】を生みだした。
4家を羨み、連城家のような、媛巫女を生まない家などを取り潰すべきだと。役目を得るために。自分たちの存在価値を認めるために。
ただ、誰よりも上に立ちたい。
京都の公家としての格を持ちながら、戦国大名としても細々ながら、時の為政者に服従しながら生き抜いた証。
明治・大正という狂気の世界ですら生き抜いたこと。
GHQの4家以外に解体するべき、もっとも格好の付く家として、解体されてなお、米軍に娘を売り飛ばしてもなお。あらゆる外国の魔術で誘惑して、艶めかしい男と女に慮にさせても。都市伝説でしかない娼館での機密情報の暴露をむりやり秘密裏に行ってでも。
ゲイバーへ当主自ら春を売ることになっても。
勝ちぬいて、自分たちが誰よりも上にいたいのだと。
家の為に犠牲になっても、必ず自分たちが生き抜くのだと。
だからこそ、透湖の父が、だれよりも自分の父からの影響を受け続けた男が、母に使わせた魔術―――黄金の奇跡―――太古の自然そのものを用意出来た。
自分たちの代でこの呪われた血筋に終止符を打とうと、息子に呪いを授けた。
息子もその呪いを甘受した。
正しく魔術社会に生きるということを、貴族がはびこる旧態依然とした世界を渡っていくことを、何より日本が抱える、完全で純粋すぎる破壊神を畏れるがゆえに。圧倒的で原理上、単独で勝利することが不可能と思われる神が、こともあろうに記紀神話の中に巣食っている。まつろわぬ神が数多おれど、日本の裏側に御老侯なりし老神・須佐之男が後見を務めていたとしても、日の本に京を守護せし大結界が存在していようとも。
質量が違う。
単純な物質の力というものが、日本に名だたる須佐之男をして、世界から苦難を取り除くことを決定づけられている鋼の救世主たる『最後の王』ですら、手に負えないからこそだった。
文字通り、隕石やスペースデブリが地表に生み出す衝撃というものは、人が連綿と紡ぎあげて来た文明の力を嘲笑うに足る、ただの自然現象だった。
21世紀の現代においてすらが、隕石という現象に対応する方法は、荒唐無稽なモノでしかない。
例えば。
ミサイルはどうか――光の速さで飛来する物体に、ポイントを狙ってタイミングを合わす事ができるのかという問題がある。
例えば。
波動砲はどうか――そもそも、イスカンダルから波動エネルギーを譲ってもらう必要がある。
例えば。
ホームランバットはどうか――さすがにこの例えはないだろう。
例えば。
核ミサイルはどうか――同じくどこのどれに充てればいいのか不明だろう。本来は焦土戦術用に作られて、人を苦しめるためにこそ生み出されている。
例えば。
月を破壊して、軌道を変えるというのはどうだろう。
これならば、ミサイルでも隕石よりも大きく分かりやすく狙いやすいだろう。
潮汐力や波が止むことを考えれば、まだまだ実行できる問題ではないだろう。
例えば。
人工衛星やスパイ衛星からレーザーを出すというのはどうだろう。
照準と位置関係が難しいが、これも選択肢には入るだろう。
そして、もっとも驚くべきことは。
上記の全ては、既に実用段階に入ることが出来るかを、真面目に検討されているものだということだ。
自然発生的に出現する百鬼夜行やワイルドハントをはじめとした神獣の群れすらも、大騎士がチームを組んで決死の覚悟で赴けば、何とか退治できるという程度の生命体だ。
現代兵器に呪術で強化を掛ければ、神獣を破壊することもできるだろう。
しかし、隕石は、何をしていなくても、ただそこにいるだけで人が対処できるものではない。
隕石の性格をそのままに持つ神が、まつろわぬ神として地上に降りて来る時こそ、人の歴史が滅ぶ時であろう。
人の嘆きも、まつろわぬ神となれば、善なる民衆の守護神ですらが気にも留めない。
だからこそ神話レベルでは、どうにかして宥めて治めなけらればならない。
宇宙卵というものは、天から落ちる精子が大地に落ちるさますらを生みだす、無性の精神だ。
隕石を母の怒りとしたならば、大母こそがそれを治めるに足る存在でもある。
宇宙卵は、そのためにも必要なものだったのだ。
大母でありながら、無性であり万性。男など要らず、求めず、欲せず、唯一人で全てが完結している。
女でありながら、男の力を持つ。世界最古の信仰である、大いなる自然の暴威を示す大母神。
そうした卵を、透湖の祖父が明治期に戦いに行ったフィリピンの島から発見した竜骨から手に入れた時、彼らの道は決まった。
彼らが手にしたのは、狂気で進むべき、血塗られた迷路。
それは大母神・ドゥルガーの遺産。観世音菩薩や西王母のように、同じくまつろわぬ神の原点であり、かつては自身が生み出した男神に奪われた主権。それを西遊記や封神演技が生まれた10世紀に復権した女神の表象。
原初の母神にして、最新の太母。
あらゆる神が、その信仰を薄れさせつつある現代だからこそ、黄金の世界を生みだして、燐然と木々が艶めき、人が心を穏やかに過ごす事の出来る世界を。
あらゆる戦士が追い求める人々の原風景。その野原をここに生みだすために。
女でありながら、男の力を持つものこそがふさわしい。
手段こそ、あらゆる倫理を超えた問題行動ではあるが、なにより、世界が平和になるという崇高な目的にこそ、賢人議会をはじめとした出資者の多くは心引かれたのだ。
――魔術師が裏社会に根を張るとは、こうした外道行為すらも生産性のあるものだと認めていることに他ならない――。
その事を、父より叩きこまれてきた仁は、身体能力では人並以下のスペックでしかないにもかかわらず、交渉と策略で、比較的落ち込んでいた桃河家の正史編纂委員会への権勢を上昇させることが出来た中興の祖でもある。
時は、高度成長期。
役目を持たぬ代りに豊富な資金で、海外も含めた株式を買いあさり、先見性のある眼力で資産を膨張させた透湖の祖父。
それを受け継いだ仁は、更なる拡大を目論んで東南アジアの土地のなかでも環境変化が活発な地域を含めて、後にリゾート地になる場所を買いあさって売り払うことで、世界の富裕層に根を張ることが出来た。
賢人議会書記長のファビウスもこの時に出会った。
年は離れているながらも、ウマが合った二人は親友となり、資金提供をお互いに融通するほどの交友を得た。
そうした背景を聴かされた桃華は、正史編纂委員会の媛巫女でも聖女と呼ばれるほどの、神々しさをもつ美女として、このとき24歳の輝かしい美しさであった。
その美貌を自身を侮辱しているのではと思えるほどの怒りで、歪ませていた。
「子を何だと思っているのですか!」
猛る桃華。
その怒りを意に介さず、話を続ける仁。
一流の香水を品よく身につけて紳士の皮をかぶっている男が、外道をそそのかす。その香りが鼻をくすぐるたびに、桃華は幼馴染の顔を張り倒してやりたくなる。
「子など、家系を支えるための道具でしかないだろう」
「なんですって!?」
「何を怒る。桃華だって、その美貌と才能を鍛える環境として、十分な家系に生まれたじゃないか。たとえ、経済的に困窮してこようとも。ならば、それに応じた働きを要求されるのも当然の対価というものだ。俺は、お前が欲しい。恋している。そして望んで生まれた子は、世界を平和に導く尊い犠牲となる。そして俺達は穏やかに、なにかに縛られることもなく穏やかに過ごす事が出来る。貴族の道具として生き続ける様な人形の生き方よりも、より人として目指すべきものだとおもうがな」
「人としての倫理というものがあるでしょう!?魔術師が穏やかな生活を生み出せないからと言って、家系の悲願を背負っているからといっても、わざわざ壊してまで新しい秩序を生みだす必要などありません!あなたを縛る人間なんて、あなたのお父様も、もういないじゃないですか!なにを言い訳しているんですか!」
「その、人という倫理は、実利があるからこそ大事なものだ。今よりも平和になる時代に向けて努力することも又、人間としてのあるべき道だ。途方もなく形にもならない夢であり、世界に愛と慈悲をもたらす。奇想天外な事業だからこそ、どんな実業家も金を出す。ビッグビジネスというものは、こうやって生まれているのさ。お前はどうだ?金はほしくないか?巴家も危ないだろう?」
「それとこれとは話が別です!」
「俺は、お前と結ばれたい。だが、巴家の女は代々貴族や高官のもとに嫁ぐことが使命だ。そんなことは許せない。それを壊すための正当化できる理由も手段もある。より世界が平和になるんだ。だったら、俺を留めるのは倫理だけだ。お前を言い訳にしているようだが、人を助けたいのも確かだし、桃華と穏やかに生きたい。魔術師としての倫理などはありはしない。あとは、お前が承諾するだけだ」
「気持ち悪いわよ。あんたみたいな男から、世界そのものをプレゼントされて喜ぶような浮ついた女だとでも思ったの。子供を八つ裂きにされるのに、放っておけるような人格じゃないわよ」
「まあ、そうだろうな。ここは外道に堕ちてもらわねばならないところだ。ほかの子供をさらってどうにかなるような問題でもない。適当な女を孕ませたところで、母体は耐えきれない。だが、逆にいえばお前が別の気に入った男に抱かれるときに使ってもいいんだ、この紋章は」
仁は、桃華と向かい合わせに座っている。
二人の仕切りになるのは、小さなテーブル。
仁が指差したのは、テーブルに乗せられたある品である。
桃華は細かい模様で編まれた、ひらひらした宝石の板を睨む。
30cm四方の正方形型の板だ。
中心部に、真珠のようなものが備え付けられているが、全体的には男性像の左手に女性が立っていて、王冠に似たものを差し出している。その二人を囲んでナツメヤシやオリーブの葉が所狭しと縫い付けられている。
まるで宗教画の聖人だ。この外道に堕ちた男に、今更信仰などあるものだろうか。あるとしても、まっとうなモノでは断じてないだろう。そう感じながら、桃華は問う。
「この紋章が何だというのですか。そして、私に男なんていません。外道に堕ちるわけがないでしょう」
「俺が気に食わないなら、他の男を加えこんだ方がいいということだ。自分の子を犠牲にするというストレスがある。それ以外は極力意向に沿うように配慮するさ。俺はおまえに惚れているが、独占するつもりはない。嫌がる女を組み敷いたところで、骨を砕かれて死ぬだけだからな。俺は、貧弱なんだ」
「情けないことを堂々と言わないでくれる?――ッ、だから、どうしてそんな話になるのよ!あんたなら、もう桃河家も巴家も経済的に安定させることができるほどの財産を手に入れてるでしょう!?ただ、巴家を救うために身を差し出せとか言うなら、慎みを持って捧げたのに。あんたなら私も嬉しかったのに、どうしてよぉ……」
桃華の凛とした美貌に流れる飛沫。切れ長でありながら柔らかな眼差しが濡れて、仁の心を揺さぶる。その女の武器である涙に、分かっていても揺さぶられる気持ち。その涙を見たことで、本来なら口にするはずのない事項を話してしまう。
「――実は、正史編纂委員会にも問題があってな。次の連城家の跡取りは魔術的に欠陥のある人間しか生めないかもしれないとのことだ。連城家がもつ役割が失われれば、日本史上最悪の厄神が生まれることになる。政治的にいえば、4家だ。さすがにどうしようもない。下らないかもしれないが、自分の足元に地雷があるとわかっていても譲れないだろう。御老侯が何かするわけがない。香山家は詳細不明だし、なにか表舞台にたつこともないだろう。正史編纂委員会ができるものなどない。もっと大きな力で上書きしなければならないのさ」
「――な……なんで……すって……。あの神が。あの怨霊神が。アマテラス様でも勝てない隕石の神が……。日本にいる猿侯神君様でも勝てない存在。竜であるからではない。隕石の神である所以……。原初の鋼を踏み殺し混淆の鋼を打ち倒す女神が……。そんな大事な御役目のある連城家が、その後継ぎが巫女としての資質がないなんて」
「これを聞いたときは、悲嘆に暮れた。4家がそれぞれ重要な役割を持つ家であることは分かっている。ならば、資格を失った家の代わりに代行するということも必要になってくるはずだ。九宝塚家は、それを行おうとする意思があるようだが、次代当主の幹彦が実権を握るようになるまでには、まだ時間がかかる。コネを作るほどの才能ある巫女もいない。そう、巫女というそれがない。どんな組織にも譲れないものがある。であれば、ぐうの音も出ないほどの力で制圧してやるしかない。このまま放っていてもあらゆるまつろわぬ神よりも強い神が生まれる。日本は焦土と化す。ならば、一か八かの選択をするしかない。どのみち滅ぶなら、僕は戦って死にたい。譲れないものがあるなら、戦うしかない。世界も女も守って死ねるような、戦った男でいたい。――俺は、お前が好きだ。子供の世代に子供が苦しむなら、その責任を取ってやりたい」
「――貴方……」
「――まあ、取り敢えずこの場で受け取りさえすれば、巴家にも金を出資する。正史編纂委員会のポストも用意する。悪い話じゃないだろ?連城家がちゃんとした巫女を出すなら、なんとかなるし。そのまま外国の魔術結社とのパイプを手に入れるだけだ。嫌なら、使わなければいい。俺に抱かれる必要もない。気になる男と添い遂げるといい」
「・・・・・・」
無言のまま、ひったくる様に奪う聖女。
歯を食いしばりながらも受け取った気高い美貌を眺め、仁という怪物は破顔した。
「クックックッ。気になるなら捨てればいい。―――俺はやるぞ。これが俺たちのような弱小貴族がこの世界でよりよく生きるために。賢人議会・正史編纂委員会という秩序を破壊してまで手に入れる価値のある、新たな秩序だ。そのときこそ、俺たちは世界を平和に導いた英雄であり、誰よりもその利益を貪る存在になる。使命も、人としての倫理も、責任も、愛も、希望も、俺はそれが手に入る世界にしたい。――この世に正義を」
「―――そ、それは・・・」
「ハッハッハッ。アーーーーッハハハッハッハハッハハハア!!!」
これがその顛末。
仁という、透湖の父―――交渉一本で、桃河家を守り抜いた男の描いた夢。
鬼に変化してでも、通したかった野望。
その男の夢を叶えた女もまた、おなじ外道に変貌していったのだ。
紋章という、ステンドガラスのように精緻な結晶体を口に含んで体に宿した男に、身を捧げる女。
仁とは違う、けれど好きになった男を騙して。いちばん好きな男の為に、二番目に好きになった男を犠牲にして。
その男を食い物にして、全ての精力を使い果たした男は、衰弱して亡くなった。
気高い女であることを捨てないままに、世界をよりよくするために自分の娘を殺すことに躊躇いと躊躇を覚えながらも、結局、自分が生まれた血筋が嫌いだったからこそ、子を生む女の仕事で、誰よりも負けたくもなかった。
仁の役に立ちたいと。幼馴染と過ごした、陽だまりの中で芝桜が敷き詰められた桃色の庭園を、桃河家に造ってくれたときに。始めてあった時の、目眩がするほどの穏やかな微笑みに。一緒に仕事をすることで、相手の気を引こうとした時。それで、聖女と呼ばれる位の信用を手に入れた時。巴家の宿命を解き明かしてくれて、早くに当主が死んだときに、支援してくれたこと。腕を抱きしめて傍にいた時に感じる、世界の人々に宣言できる特別な空気を共有できることに。私が造った自家製パンを食べてくれたときに。もう、思い出せないくらいのきらきらした思い出に。
――女は未来に生きる動物だと思う。過去の男は、本当に過去にしたい男だ。なかったことにならないか、いつも考えている。そして、それが本当に忘れられるのだ。本当に。男の人を思うと、本当に哀れに思えてくる。早く消えてほしいから――。
二番目の男を使って、一番目の男の役に立つ。
この男を、桃河仁を繋ぎとめておくことを渡したくないのだと。
自分という、巴家から生まれるであろう最高傑作の女に、嫉妬する気持ちを隠せないまま。
産んだ後は死ぬだろうことよりも、生んでしまう女が男――桃川仁の愛情を一身に受けて育ち、使われることに、嫉妬したまま。
私は、巴桃華は死んでいった。透湖を生んだ男を吸い殺して。愛していたことを、最後まで疑うことなく。生まれた、その3日後に。
病院の待合室で、桃華が死んでいった様子を最後まで眺め続けた仁は、女を救うことが出来ずに、一度も抱くことが出来ずに死んでいく女に、涙を垂れ流して愛を叫びつつも、床に崩れ落ちていった。
こうして、桃河桃華は死んでいったという。
残ったのは、自分の種ではない子供。失った愛する女を食い物にして生まれて来た、稀代の生物。芳醇な魔力で神獣を殺す事が出来るほどの生命体。生まれながらにして骨格が安定している怪物。悲しみにくれる間にも、どんどん成長していって自我が整ってくる女二。日に日に母に似ていく、凛とした美貌と華やかな可憐さに。
それが、自分の血をひいていない娘なのだと。自分が強引にでも奪えばよかったと思ったの二。むかつく男はもう死んでいて、自分を愛してくれた女は、自分の野望の糧になって男に追従するように死んでいった。
そして。
そして。
そして。
そして。
そして。
外に出した娘が訪ねてきて、若干5歳の幼女のあどけなく理性の強い眼差しを見通した時。
仁はこの時、生まれてくる娘への愛情を失ったのだ。
この娘は、怪物だと。もはや、理解などできない。したくない。愛するなど、まっぴらごめんだ。もう嫌だ。辛い。止めて。苦しいよ。そんな目で、この俺を見るな。桃華の幼いころを見ているみたいで、まるでお人形遊びをしているみたいなんだよ。うざいんだよ。こっちに来るなよ。操れないお人形なんか、俺の役に立って壊れる以外の意味なんぞあるわけがないだろう。気持ち悪いんだよ。消えてなくなれよ。
みんな、みんな、みんな、みんな、みんな、みんな、みんな。みんな。みんな。みんな。
みんな、裏切って、この娘と共にどこかへ行くことなんて出来ないんだからさぁ。
狂いたい。KURUITAI。CRUEL。クルイタイ。くるいたい。狂いたいよぉ。悲しいよぉ。どうして、俺がこんな目に会わなきゃならないんだ。どこか遠くの誰かの家にあえばよかったろうがよォ。桃華が生きてるんだったら、奪ってやりたいけど、もういないんだ。
――そうだ、俺にはたった一つ残されたものがある。
そう。だからこそ、たったひとつ。
一つだけ残ったモノがある。
――この世界に、愛と平和を。
思考の変遷と共に、仁は、桃河透湖という存在を犠牲にすることに、何の良心の呵責を持つこともなくなった。
――こうして、愚かな男は世界を救う正義の味方を目指すようになった。
――女一人で世界が救われるなら、まつろわぬ神を生み出しても、世界は平和になるだろうと・・・…。
そうして、計画は遂行された。
一人の少女を犠牲にしてでも、世界を平和にするのだと。
その考えこそが傲慢であった。
透湖の体に埋まっていた珠が、自分たちの計画の要であると同時に、災厄を生み出す失敗作だと気づかなかったのだから。
まつろわぬ神は人を救わない。
自分の求めるままに気まぐれな行動をする。
神話上も、性格も人を救う大母であるとはいえ、同時に相手も意思を持つのだから。
カンピオーネがいればこそ、神ですらも勝利を願うのだから。
ゆがんだ正義感で生まれる、意思ある自然現象は人にとって果たしてただ優しいだけなのだろうか・・・・・・・・・?
人が万人死のうとも、魔王一人を滅ぼすほうが、世界を平和にするとはかんがえなかったのだろうか・・・・・・・?
母は、甘やかすだけではない。時に厳しく羅刹を罰する存在でもあるのだから。
母の持つもう一つの武器が咆哮を上げる。
▲
一度狂ってしまえば、人は80年の人生でも、永劫狂い続けることになる。
怒り、悲しみ、後悔と、絶望と、開放感。希望。目的。使命。倫理。真理。異能。敗北。
そして、勝利。
人が狂ってしまう要素は数多い。
戦い続ける人間が、正気でいられる可能性など、ありはしないだろう。
ならば、狂うということは、果たしてどれほど人にとって優しいことなのだろう。
正気で世界と向き合える生物を、きっと英雄と呼ぶのだろう。
だから、排除される。
正しい気持ちで世界を理解するなんて、なんておぞましいのだろう。
一度狂ってしまえば、永劫囚われ続けるのだから。
希望の糸を垂らされて、浅ましくしがみついたら、切れてしまう。
希望は手に入らず、足元には血だまりの絶望だけ。
嘆き叫びながらも、再び救いが訪れるまで手を伸ばし続ける。
救いとは、死か?解放か?悲嘆か?
そして、生きていくということはそんな簡単なことは起こらない。
誰かに道を示してもらえるなんて、蜘蛛の糸を垂らしてもらえるなんて、一体誰がするのだろう。
そんな、きっと慈悲深い、道を示す人間を、英雄と呼ぶのだろう。
英雄という希望にしがみつくからこそ、人は悲しみを覚えていくのだろう。
身勝手に。
それでも人は現実を生きていかなければならない。
桃河仁もまた、現実を生きていく。
暗闇に灯し火だけが映し出されている空間で、空想の中での桃華との穏やかな午後を過ごしていた仁は、ゆっくりと目を覚まして立ち上がっていった。わずかな桃華の甘い体臭を嗅ぎ分けていった仁は、その名残りを惜しみながらも、計画を始める。
「さあ、黄金の夜明けだ」
透湖のそばまで戻った仁は、柏手を叩いて空間を閉じた。
自分が触れられたくない聖域であり、人目に付かずに消滅するほうがいいだろうと考えている世界。
再び、透湖の正面に佇む仁。
その顔には、泥にまみれていながらも欠片も薄れていない、狂信の輝きを映しだした目があった。
「唵 呼嚧呼嚧 戰馱利 摩橙祇 娑婆訶」
薬師如来の真言を唱える。
透湖の腹部に埋まった珠に手を触れると、透湖が苦痛の声を漏らすと同時に、海水が横の眼から伏流水として流れ込んできた。
足元までしかないような、わずかな海水ではあるが、ダイバーが好む海域の海水は透明で清く澄んでいる。
しかし、純度が高いとは言っても、ある種の神聖さをもつほどの透明度であるとはいえないのだ。
これは、励起した神器の効果である。
透湖の心を映し出すかのように、肌に触れたそばから、エメラルドブルーの海水が、無色透明に変化していったのだ。
それは、無力なままの透湖の裸体が新たな境地にたどり着きつつある証でもある。
呪力こそが神々への道。
神具に込められている呪力を解放された透湖は、自分の病魔をいやす言霊を浴びて肉体が変質していっている。神を生みだすに足る母体として。出産に耐えられる体になるために、自分が弱い部分をことさらに強調して、鍛えていっているのだ。
人の真価とは、まさしく成長することだろう。
何かを倒すために、環境に適応するために。
体を作りかえられていっている。
儚い光が透湖の磔にされた十字架の周囲を円周上に回っていくと、水が水道線に穴をあけたように狭い洞窟の頂上まで届くほどに急激に噴出して、水が落下してくるとともに、透湖から5cmほど全体を話して囲んでいった。
「ふふふ。これでもはや計画は止まらない。成功するか、否かだ。神殺しがくれども神の復活を誘発するだけでしかないだろう」
存在ごと変えられていっている透湖の苦しむ姿をにやにや想像しながら、仁は計画が最終段階に移行したことに、いよいよ責務から解放されるのだと、優越感にあふれていた。
その歪んだ心に、もはや正義と大義は存在しない。
▲
(ここは、一体どこ……?)
温かい空気と水に触れたように感じて、ゆっくりと目が開いていく透湖。
目は余りの暗闇であったがゆえに、見通す事など叶わなかった。
しかし、どこか安心できる羊水のような膜につつまれているのだということは、水につかっている膜が、わずかにぼんやりと蛍の光のように瞬いていることで理解できた。
体が燃えるように熱い。
頭がぼんやりする。
お腹がはれているようにずきずきする。
朦朧とした頭なりに周囲の状況を把握しようとしている透湖。
(なんなの、一体。確か私はあのゴミ男に一服盛られたのだったわね。今思い出しても許しがたいわ。真面目に生皮はぎ取って海に放り込んでやるわ。ああ、気色悪い)
ぷんすか怒って、捕まる以前の記憶を再構成したことで、改めて桃河仁という存在への怒りを覚えていく透湖。
そうしている間にも、透湖の腹部に埋まっているいかなる地上の物質に該当しないと診断されている珠が光り輝いて、同時に腹部が盛り上がっている。
自分の体に起きている現象にパニックになりながら、腹の皮の中心線に浮かび上がってくる妊娠線をはっきり視認している透湖。
その眼はもはや何が起きているのかなど、まったく考慮していない。
あるのは、自分が異形の存在を生み出そうとしているのだという、生々しく肉と細胞と女としての本能が訴えかけてくる。
(――いや、いやいやいやいやいやいやァッ――――――!!!なんなの、なんなのよ、これは!?怖い怖い怖い怖い怖い。助けて。助けて。助けて。助けて。誰か、助けて。――碓井様、助けて!!!)
泣き叫ぶ本能を押さえることもできずに、ただ自分の身に降りかかってきている厄災を振り払おうと必死に身じろぎする。
心のうちでなんども碓井の助けを求め続ける。
さりとて、神ならぬ魔王である碓井は、究極的なまでに人の苦難に到着するということなど叶うはずもない。
思いは届かず。
現実を再認識して、自分ではどうしようもない事に桃色の唇から血を垂れ流すほど歯噛みしている。
目じりに浮かぶ涙を見とがめた仁は、この無表情女がようやく感情をあらわにして泣き叫ぶ姿を見ることが出来たと喜んでいる。
周囲の存在の感情を喰らっているかのように、呪われれば呪われるほどに、珠の光り輝く様子は広く大きくなっていく。
恒星の如く、荒々しい自然の猛威を示すかのように。
呪力が渦を巻いて轟き始めていることを理解した仁は、透湖に話しかける。
「――透湖。気分はどうだい?君はもうじき世界を救済する礎として、その身を捧げることになるんだけど……」
その言葉に暗闇の中に、自分の認めたくもない父親がいることを知って、怒りの赴くままに言い返す。
「……ッ!?桃河仁!あんたがやったのね!さっさと解放しなさい!……て、いうか。裸みんなや!見物料獲んぞ!おう!?」
「――急に、伝法な口調になったけど、どうかしたの?もしかしてそれが本性だったとか……」
「はぁ!?何寝ぼけてんの、このおバカさんは!身ぐるみかっぱいで生皮はぎ取って海の塩水にたたき込んでやっから、開放しろってんだよ!ボケが!マザーファッカ―がママの尻に顔突っ込んでぶひぶひいってるだけか!オーーーッ!!!」
膜につつまれていながらも、不思議と声が良く響くことに驚きながらも、冷静に仁は言葉を返す。
「――まあ、そんな事を言われれば、ますます解放するわけないけどね。あと数分で君の意識は完全に消えてなくなると思うから、そのときまで、すこし話でもしてようか」
「あ!?てめえと話す事なんざあるわけねぇやろぅが!あぁああぁぁああl、気持ち悪い気持ち悪い。こんなハ虫類顔の粘着質な野郎のチンカスから生まれたかと思うと、ぶっ殺してやりたくてしょうがねぇわ。顔もしらねぇが、てめぇの粗末なもんおったてられた女には道場しかできねぇなぁ、おい」
どこか弛緩した空気が流れていた洞窟が、殺気のこもった野獣の穴ぐらと化した。
踏んではならない一言を受け、怒りが瞬時に沸騰した。
影が濃い顔を暗闇に隠しながら、怒りを押し殺してふるえる声で、呟く。
「――君は、僕から生まれたんじゃないよ。他の誰とも知らない種で生まれて来たんだよ」
自分のルーツに当たる証言を始めて知り、仁という下劣な存在の血を引いていることなどないのだということを知り、息を大きく吐き出して透湖は安堵した。
「……良かったぁ。おんどれなんぞの血ぃひいとったら、世間様に顔向けできひんからのう」
火に油を注ぐさらなる発言に、こめかみに青筋を立てながらも、これまでに感じた苦痛に比べればましだと必死に自分に言い聞かせる仁。
「――思ったよりも、驚かなかったんだね」
その、ある意味男の甘えともつかない発言を。
「一度男を決めたら、他の男なんか滓よ」
一刀両断した。
とことんまでかみ合わない者同士の会話に、そもそも人格ごと抹消されるだろう程の苦痛を味わうことになる存在と心をつなぎあわせてみようなどと考えること自体がおかしいのだということを思い出して、仁は大きく息を吸うとゆっくりと吐きだして気分を整えていった。
今更こんな女の言葉なんぞを真に受けて怒りを覚えることなど意味がない。
そう判断した仁は、とどまることの知らない輝きを放つ、自然界にはありえないだろうほどの、わずかな欠けすらも見当たらない宝玉を視界の端に収めて、いよいよ神がこの地に生まれることを、歓喜の表情で見守っていた。
そして。
遂にこの時が訪れた。
「あ、アァぁああぁァァァァぁああああぁあッ!!!」
断末魔の響きが明かりすらも燃え尽きて消え失せていった暗黒の洞窟に鳴り渡る。
水の膜に覆われたそれは、今や外からですら見通す事の出来ない、神を生み出す呪いの受精卵と化していた。
東洋医学で伝えられる、丹田という部分に埋め込まれている珊瑚色の珠は、透湖の体の中で膨れ上がると共に、ゆっくりとゆっくりと、その全容を外へ映しだしていった。
透湖の腹部に、どこか妖しい紫色の円形型の魔方陣らしきものが発現すると、その陣から産道を通るように卵がゆっくりと産出されてくるのだ。
光り輝く30cmほどの卵が、内臓を破壊することもなく、切り裂かれて摘出されたわけでもなく。
物理的にあり得ない現象を起こしながら、わずかな振動で卵状の体を動かしながら、奇怪な球は生まれだしていく。
「ぐぎぃぃぎぎぃぎぃぎぃ!!!……なんなの、……何なのよ、これ!」
透湖はというと、腹部が妊娠線を表すほどに膨らんでいたのが、いかなる外科手術でも及ばぬことを行いながら、元の艶めかしい主だった怪我などない肌に戻っていっている。
卵型をするということは、中心部分が一番上下の差が大きいということである。
その部分に差し掛かると、透湖の食いしばる悲鳴も大きくなっていった。
「ガァッ!!!」
短く獣のごとき悲鳴を上げると、透湖の頭はがっくりと力を無くして俯いていく。
今は膜が羊水のように、透湖の体自体をゆらゆらと生温い水に浮かせているので、体勢を崩すということはなかった。
蕩たう水の中で動くというのは、人体にとってもっとも力の抜けた体制であるという。
そしてその体勢がもっとも出産を支えるに足る姿勢であるということも。
一例としては、妊婦は余りの痛みに体に力を込めて喰いしばることが多い。それは無理な体勢を硬い地面やベッドの上でとることになってしまう。そのため出産時に35℃ほどのぬるい御湯に浸かって、漂ったまま出産するということが存在する。
ならば、この水に漂っているというのは、優しさからなどではもちろんない。
母体などを気にすることもなく、障害などを人かけらも負うことなく生まれるべきであるという、至極合理的な現象でしかなかった。
子を生み出すだけの機械であれという、女性の精神を無視する概念に、母体がうけるダメージや精神的な問題などをおもんぱかることなど、あるわけがない。
透湖が感じているのは、人体に許されているはずもない超自然の物質を作り出すという、身に余る痛みだけだった。
(痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。――なんで、私がこんなことにならないといけないのよ!ふざけんな!)
精神という脆く弱い部分を、子どもが針でちくちくと一穴ずつ傷をつけて、血の膜が盛り上がってい来る事を眺めているような、目の前の問題を排除したいという気持ちと激痛を与えてくる世界への恨みと怒りで膨れ上がっていった。
遂に、卵の頂上が魔方陣を通りすぎていった。
そこからはずるっと滑り落ちていくように、神具が白くなだらかな腹部からずり落ちていった。
羊水が割れる。
そこから、大型獣の牙をそのまま削ったような三m大の分厚い大ナタ剣と。
蜂蜜色の髪を肩で切りそろえていた透湖が、水にぬれた髪を口元に張り付かせながら。
堕ちていった。
「はぁーーーっ。はぁーーーっ」
精も根も就き果てたという風情で、透湖は息を荒げる。
口元からは、白く濁った泡が喉に詰まるごとに、ぶくぶくとカニのように吐き出している。
そのそばに地面に剣身をさらしている剣。
ぬらりと水にぬれた身をわずかな光に照らして、その異様さと不気味さを生み出していた。
その様子を見て、仁は歓喜をあらわにする。
「くっ……くかかっかかかかっかかかっか!!!」
腹の奥から噴き出してくる、一族の全ての呪いを振り払って悲願を達成した狂気の解放感に、仁は身を浸している。
「あーーーっはははっはっはっはっは!!!」
腕を大きく開いて、天を仰いで、胸を大きく張って、足をガ二股にして。何も世界などを畏れることなどないかのように、大声で笑う。
「これで、これで、俺の勝ちだ!」
魔術師の眼力ですらも見通す事が叶わぬほどに、蝋燭の火が消え失せている洞窟に高笑いが響いている。
だから、影がうまれることなど気付くこともなく。
仁は狂気と狂喜の哄笑を止めることなどありはしない。
その様子を眺めながら、透湖のガラスのような目からは、彼女自身の意思が薄れていっている。
さらに、その体も変化しつつある。
それは異様な光景だった。
3mの剣が、持つ人間も握る戦士もいない地面から、じりじりと意志を持つかのように、透湖の手元まで蠢いていったのだ。
そして、透湖の指先に触れると同時に、文字の書かれた剣から呪力が流れ出していった。
香山碓井も受けたことのある、不死身の剣を持つ人間は、不死身の生命力を手に入れるという、鋼の戦場における不死だった。
顔に手を当てて嗤っている仁に気付かれることなく、ゆっくりとゆっくりと透湖をいやして言っている。
必要最低限の受け渡しが完了すると、透湖の指がひとりでに動いて剣を握りしめる。
とてもではないが、出産直後の妊婦がもつような、もって振りまわす事などできないような、分厚い剣だった。
だからこそ、仁も油断していた。
まさか、透湖という機械に助力する剣などがあるわけがない、と――。
透湖は足の指に力を込めて、ゆっくりと身を起していく。
三mの剣は、刀身を地面にこすりつけざるを得ないほどに長大な一品だった。
ふらふらと身を左右に揺らしながらも、左手に握った剣で地面を削りつけながら、仁に剣が届く三歩を踏み出していった。
一歩。
未だ、仁は哄笑を止めていない。
二歩。
仁は、なにか削れている音が響いている事を察した。
三歩。
仁が視線を前に向けると、目に何も移していない透湖の左手に、神の写し見である神剣が握られている事に気付いて、眼もとと口元を引き攣らせていった。
目の当たりにした異常事態を見とがめて、仁は現実を否定するように叫ぶ。
「ま……まさか、そんな馬鹿な!?」
「貴様が、元凶か!消え失せい!」
透湖の常には甘やかな声を、まるで美々しい男性が話しているかのような覇気のある口調で、裂帛の気合と共に左手の剣を右下から左肩まで斜めに切り裂いていった。
血霞が舞う。
切られて地面に倒れていくほんの一秒の間に、仁は自分が予定した計画が失敗した事を悟った。
理論が正しく理屈が合理的であり、神話上もその通りであり、事実その性質を持って生れはしたものの、どの神が生まれるかまでは完全に読み切ることはできなかった。
まつろわぬ神とは、どの要素からどうやって生まれるのかが、はっきりとは定まっていない。
根拠にしたドゥルガ―の戦闘女神の形質は10世紀以降に纏められて、男の最高神よりも強いと認識されて信仰された。それまでは血を好むというのはインダス文明以外の地域での信仰だったのだ。
『リグ・ヴェーダ』『マハーバーラタ』なども7世紀に体系化されて文献になった。
同時期には『デーヴィーマーハートミャ』があり、古くは『ハリヴァンシャ』(1~3世紀)『マヌ法典』などが纏められるようになっているので、この時期にようやくシヴァやヴィシュヌなどの神が神話外の象徴を取り込んで、より広範囲に信仰されるようになったというべきだ。
『実理論』(前4~3世紀)にはシヴァ・クベ―ラ・ラクシュミ―・カーリー・梵天・帝釈天・ヤマ・韋駄天を都市の外部門に立てることを記しているが、地域毎のクシャトリヤがそれぞれ独自の神話として暗唱で伝えられてきた。
インダスーインド文明は文化が連続しているが、神話に関してはインダス文字に代表されるように明確な記述を残す事ができないほどの、複雑な世界観があったとされる。
古代インドの神を基準にするということは、どの部分を元にして生まれるのかが不明瞭なのだ。
インドネシアで生まれた女神の結晶から、最古の英雄が生まれることも十分にありえるのだから――。
その理屈を悟って、仁は計画が失敗した事と、まもなく活動を停止することを悟ったのだ。
地面に血を赤い薔薇のように流れでていく光景を見詰めながら、仁は緋の糸を引きながらぽつりと末後の言葉を吐きだす。
「―――ああ、勝ちたかったなあ………」
「私を縛り続ける父親にも血筋にも呪いにも、自分にも神様にも勝ちたかったなぁ………。人を縛るいろんな絶望を打ち破ってやりたかったなぁ」
「勝って、世界を救った英雄になって、人を助けて、みんな幸せになったら―――」
「皆が自分の生活を守るぶんの利益を貪って―――」
「女神に抱かれて幸せになって―――」
「桃華を愛して」
「やっと、人を信じられるようになるよ」
そうした、呪いの言葉を残して。
最新にして最古の、女神の慈悲を破壊した自分自身に笑いかけたまま。
犠牲にしようとした、実の娘を一度も目線に入れることなく。
仁の心を持ったまま、外道を行った男は砂となって散っていった。
そんな一切が無駄であった人生を送った、血のつながらない父親にして他人を見つめながら。
涙を一粒こぼして。
「恨みます、お父様」
一言。
間もなく意識が消えていく中での、心からの恨み事。
父の哀れな姿を目に焼き付けて、剣に操られている透湖の眼から流れた涙は、消え失せる。
次いで、目を猛禽類のように鋭く巴旦杏形に見開いて、巴璃の色をした瞳孔が赤く染まっていく。
瞳孔の周りは黒く塗りたくられたように一切の白色を残す事もせず。
左手に握っている剣からは、血管が浮き出てくるような太すぎる赤い管が走っていく。
顔と体の左半分を毛細血管が浮き出たせた透湖は、にぃぃい、と狂猛に歯をむき出していった。
亜麻色の髪の色が、黒く染まっていく。
剣に存在している意識に呑みこまれようとしている中で、最後に思ったのは、碓井に対して。
一糸まとわぬ姿で、剣の意思どおりに動くことになるのだと感じて。
最後になるかもしれないと思ったので、言った。
「碓井様……私を見ないで、私を見て。こんな恥ずかしい姿で人前に出るの初めてなんです……。でも、碓井様が喜んで下さるなら、今度からもっと露出の激しい服装にしてみようかな……。碓井様は、どんな格好が御好きなのかしらぁ……」
その一言を締めとして、透湖の意識は暗闇に閉ざされていった。
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