静かな、娘だった。
その視線はどこを向いているのかすら、判別することすら出来ないほど、どこかぼんやりとしていた。
眼を凝らさねば見えぬ程の薄明かりの中、一度だけその眼を覗いた事がある。
暗くて、黒くて、少し濡れていて、どこまでも続いていそうで。
でも、どこも見つめてはいなかった。
見よ、目の前に広がるこの広大な海洋を。
何処からともなく吹き付ける潮風と、幾度となく打ち付けられる波に、その娘の眼を思い起こすのだ。
ただひたすらに黒いその眼に、恐怖すら覚えたのだ。
果てしのないその景色に、その娘の声を思い出すのだ。
静まり返った部屋で、一度だけその娘の声を聞いた事がある。
美しい小鳥のさえずりのような、そんな美しく、よく通る声だった。
何を言っていたのか、声の美しさに気を取られてすっかり忘れてしまった。
聞き返しても、返ってくることは無かった。
それ以降、その娘の声を聞いたことはない。
目の前に広がる、静寂に包まれた砂浜を見よ。
骨粉を撒き散らしたかのような白さに、床に落ちた布を思い出すのだ。
何処からか、呪い殺すかのような、呪詛の篭ったうなり声が聞こえる部屋の中、その娘が布を身につけていたのを、一度だけ見た事がある。
その娘の眼を見たかった為に、直ぐに取ってしまったのだ。
その時、少しだけ驚いたのを見て私は満足気に頷いたものだ。
今思えば、惜しい事をしたものだ。
あの姿も、とても美しかった。
しばらくは眺めていて良かった筈だ。
ああ、桟橋の先には、釣り人がいる。
見よ、今まさに、魚を釣り上げた所である。
釣り上げられても尚、暴れ回る。
生命力溢れるその魚を見て、その娘に初めて触った事を思い出す。
健康的で生命力溢れるその腕は、触れると大きく跳ねて、魚のように逃げ出そうとしていた。
釣り人がしているように、魚は逃すことは釣り人としては残念だ。
だから、それを逃さぬよう容器の中に閉じ込めた。
明るい娘だった。
見上げた空のように、青く、綺麗で。
空と違う所は、この手に閉じ込める事が出来た事だろうか。
潮風は止まず、私の空は流されていく。
どうか、私の物のままでいてくれますように。
私はそう祈り、その場を立ち去ろうとした。
潮風が一層強く吹き付け、私を留まらせた。
その風は心地よく、大きな仕事を一つ終わらせたかのような達成感に満ち溢れていた。
溢れんばかりの充実感と同時に、空虚さも、心の何処かに住み着いていた。
空は、自分のものにならないからこそ、美しく感じるのかもしれない。
これはきっとフィクションだと思う。
人は物事を思い起こす時、逆の順番で考えるだろう。