その光景は、私にとってどこか、現実離れしたもののように映りました。
梅雨も明けた初夏の昼下がり。気の早い蝉の声が聞こえる、サイパン基地庁舎の真新しい廊下。その人は妙なものを抱えて、私の視界に現れました。
「あらら、由良じゃない」
首を傾げるばかりの私―――由良を認めたらしい私の艦長は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきます。その歩調につられて、かさかさと彼女の抱えたものが揺れました。
「艦長さん、あの、それは?」
「ああ、これ?笹だよ、実家から届いてたから、さっき貰ってきたんだ」
艦長はそう言って、またかさかさ、笹を揺らします。しゅっとした枝に、細い葉が特徴的な植物です。
「艦内に飾るんですか?」
よく、艦橋や自室に、花や小物を飾る艦長です。もしかしてこの笹も、そのためにどこかから持ってきた、のかな。
「あー、うん、それもあるんだけどね。―――そうだ、丁度いい。一緒においでよ由良」
そう言って笑い、艦長は付いてくるよう促します。特にすることもなかった私は、言われるがまま、艦長の後に従いました。水兵たちの敬礼に軽く答えながら、艦長はすたすたと進んでいきます。
庁舎を出て、工廠から埠頭を歩く間、時折、熟練の下士官から、「今年もやるんですね、中尉」と声がかかりました。それに「応、暇なときに顔を出せ」と返しながら、艦長は軽やかに〔由良〕の甲板へと上っていきます。舷門の当直も、突然現れた笹に驚いたようでしたが、「もうそんな時期ですねえ」と呑気に漏らしていました。
「我が家の伝統みたいなものなんだ」
天井の低い艦内を艦長室へと向かいながら、艦長が苦笑します。どういう意味、かな。艦長の実家では、よくやることなのかな。
艦長公室の扉を肘と足で器用に開き、室内へと入っていきます。一仕事やり終えたといった様子で笹を置いた艦長は、そのままその笹を壁に吊るし始めます。紐でくくられた笹が、壁から提がって葉をしならせました。
「七夕って知ってる?」
笹の出来に満足げな艦長がそう訊いてきます。聞いたことのない単語に、私は首を振りました。
「昔の、星にまつわる伝説でね。織姫と牽牛っていう男女が結婚したんだけど。お互いに夢中になり過ぎて、仕事をおろそかにした二人は、天の帝の怒りを買って、川によって隔てられてしまった。この川っていうのは、天の川のことで、織姫はベガ、牽牛はアルタイルを差してるんだ」
天測の本を思い出します。どれも、夏の夜に見える星のことです。
「・・・二人は、どうなったんですか」
「離れ離れのままじゃあ可哀そうだから、ってことで、一年に一度、七月七日の夜にだけ、二人は会うことが許された。その夜のことを七夕って呼ぶんだ。で、この伝説にあやかって、お祭りなんかがあるんだけど。他にも、この短冊に願い事を書いて、笹に吊るしたりするんだよ」
そう言いながら、艦長は背後から、細長く切られた色紙を取り出しました。端に紐が付けられたそれを、彼女はにこやかに手渡してきます。もちろん、私に、です。
「はい。てことでこれ、由良の分ね」
私はそれを、少し戸惑いながら受け取ります。
願い事、と言われても。正直何を書いていいものか、よくわからないのです。
困惑が顔に出ていたのか、艦長が助け舟を出してくれました。
「何でもいいんだよ。由良の欲しいものとか、叶えたいこととか。こうだったらいいな、っていう未来なら、立派な願い事だからね」
艦長から渡された短冊を片手に、私は自室でもまだ考えていました。
欲しいもの、叶えたいこと。・・・こうだったらいいな、っていう未来。艦長は、そう言っていたけれど。それがどんなものなのか、いまいちはっきりと掴めません。
例えば、次の作戦がうまくいったらいいな、とか。そういうことだったら思い浮かぶんですけど。艦長の言っていたことは、多分、それとは全く違うこと、ですよね。
私自身の、欲しいもの、叶えたいこと。そんなこと、今まで考えた事もありませんでした。
「そんなに難しく考えなくていいんだよ?」
苦笑を浮かべる艦長とは、夕食の席で向かいになりました。彼女には、私の悩みなんて、お見通しみたいです。
「あの・・・でもやっぱり、よくわからなくて」
私の言葉に、艦長は少し考える仕種をします。
「あんまり何かを欲しがったりしないもんね、由良は。―――それじゃあ、由良はどんな未来で、生きていたい?どんな未来で過ごしたい?未来の由良の周りには、何がある?誰がいる?」
艦長は、質問の内容を、変えてきました。これだったら、何か思いつくんじゃない?、と。
私は、ほんの少しの間、目を閉じて考えます。艦長の言ったような、私の未来を思い描きます。
そうして。私の頭に浮かんだのは、この艦のこと。
司厨長。砲術長。水雷長。機関長。舷門の当直と、思い思いの余暇を過ごす下士官、水兵たち。
目の前の、自慢げに口角を上げる、艦長のこと。
こんな日が、いつまでも続いたらな、なんて。ずっとこの人たちと、一緒にいられたらな、なんて。私のいたい、叶えたい未来は、そんな場所でした。戦争中には、過ぎた願い、かな。
『ずっと一緒にいられますように』
鉛筆で恐々書いた、私の願い事。それをしげしげと見つめます。
「書けた?」
急に尋ねた艦長の声に、肩を跳ね上げます。私は思わず、短冊を背後に隠しました。
「は、はい」
「なんて書いたの?見せて見せて」
「だ、だめですっ」
だって・・・なんだか、恥ずかしいから。私にとっては、とても自然で、当たり前に近い、願い事だけど。それを知られるのは、むず痒い。
「か、艦長は、どんなことをお願いするんですか?」
ごまかすための質問に、知ってか知らずか、艦長は答えます。
「由良と同じだよ」
眩いばかりに、彼女は笑っていました。
由良さんのお話をお送りしました!
この他にも、あの戦艦とか、あの軽巡とか、嫁の駆逐艦とか、総勢9人の夏の艦娘たちの短編集となっています。
気になった方はぜひ、8月9日(金)、セ―15a「MASA」までお越しください!
TwitterID:瑞穂国(@Mizuho_Kuni)