波乱
―――余命二ヶ月。
それが十八歳の誕生日を迎えた、少年が病院で知らされた余りにも重過ぎる現実だった。
原因不明の奇病で、手術によって寿命が延びることは絶望的である。
「ちょっとだけでいいから、海外に行きたい」
今まで少年は、日本の外を知ることはなかった。
死ぬ前に一度でいいから広い世界を見てから死にたかったのだろう。
両親と少年は医者の反対を振り切ってイタリアに飛び立った。
ちっぽけな少年の、命が尽きる前のちょっとした我侭、贅沢。
二泊三日、死ぬ前のあまりにも僅かな時間。それが少年の生死を分けた。
まつろわぬ神が地上に現れたのは、イタリアの首都、ローマ。
ヴェネツィア広場に両親と共に居た少年のすぐ傍だった。
「……」
車輪の輪を模した小さな武具を手に現れた女神は、戯れに、己の存在を誇示するかのように神力を解き放つ。
美しいという人間の範疇すら超えた女神の姿を見る、それだけで人々は狂っていった。
眼球は神経の集合体と言われている。現代学でも第一印象は見た目で9割決まると言われている。
ヴェネツィア広場は観光名所の一つであり、車の往来が激しい場所であり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の祈念堂の全景を拝むことができる。
人は多く、それ故に被害は大きかった。
バスを運転していた車掌は大勢の人々を乗せ、哂いながら建物に衝突する。
身近で神の気を浴びた少年の両親は完全に壊れた。弱っていたこともあったのだろう女神の影響を受け女神に土下座するようにその場で自ら頭を何度も地面に叩きつけている。女神は満足気ににっこり群集に微笑みかけると全ての人間が頭を垂れる。
「愉快よな」
女神は口数少なく心情を表したが、その声に反応し、向かってくる人影があった。
「ほう」
どんな愚か者だろう、と視線を巡らせるとそれは間近にいた少年であった。
「――――!」
少年は僅かながらその身に呪力を宿して女神に突進してくる。
稚拙な動きだった。何か武術を極めたものの動きではない。少年は呪術の家系でもなく、その身に宿す呪力は僅かなものだ。
女神からしてみたら、人に蟻が一匹向かってくるようなものである。
しかし人の身で神に歯向かっているということ、それ自体が不愉快であることもまた事実だった。
故に女神は神力を向けることに躊躇いはなかった。
「手招きされて彷徨う旅人は太陽に逆らえぬ、因果のままに」
厳かに宣言する言霊が少年に向かい、神の権能が放たれる。
太陽は全ての生命の源である。あらゆる生命の運命を歪ませ、対象を不幸にする権能。
女神が少年に向けたそれは人間一人のものに向けるには分不相応なものである。
少年はすぐに死ぬ、そのはずであった。
「何!?」
「――!」
少年は声にもならぬ声を上げ、真っ直ぐ女神に向かってくる。
女神は訳が分からなかった。己の権能は絶対である。
少年はすぐに息絶えるはずだ!そもそもどうして自分を目にして平伏していない!?
――女神が少年の傍に現れた理由は単なる偶然である。
「世界を呪う、神を呪う。俺は自分より幸せなものが許せない!」
少年が女神に向かいながら言葉を紡ぐ。少年の両目は女神が現れた衝撃で飛来したアスファルトが突き刺さり、失明している。
そう、近距離でも、呪術を知らない一般人であっても女神を視界に入ることがなければ、頭を垂れることはない。
――少年が失明したのは単なる偶然である。
女神の権能は生命の寿命を操ることで、間接的に生命を操る力だった。
しかし少年は自らの僅かな寿命を対価に世界を呪うことで僅かな呪力を得ている。
言葉は言霊とも言い魂が宿るという。少年の呪いは心底からのものだった。
死に行く少年の僅かながらの呪い。
元々全身を蝕んでいた病に加えて眼球を貫き脳にまで達したコンクリート。
女神の権能は『余命30秒の』少年には通じなかった。
――少年の余命が少なかったのは単なる偶然である。
――少年の世界を呪った言葉が命を対価に僅かな呪力を纏ったのは単なる偶然である。
だから、きっと。
ついに半死半生の少年が女神に到達する。女神は権能を無効化されたことに呆けており
自分の頬にめり込む少年の拳を信じられなかった。
仰向けに倒れた自分の神格に、自分の武具である車輪が突き刺さり破壊したことはさらに信じられなかった。
神はしぶとく、まして自分の武具で死ぬなどということは普通在り得ない。
地上に姿を現したばかりで不具合が生じたのか、それこそ定かではなかった。
ただ幸運の女神であるはずの自分が『運で敗北した』という、そのショックだけが女神を襲っていた。
心身ともに神の神格を奪ったそれは、正に立派な神殺しであり。
パンドラが現れ、新たな神殺しの王として転生させるに相応しいものではあっただろう。
「名も知らぬ新たな神殺しよ、何者よりも運命に縛られ、何者よりも幸運であれ!」
それは祝福であると同時に呪いの言葉。死ぬはずだった少年は新たな神殺しとして生まれ変わる。
――少年が女神フォルトゥーナを殺したのも、『単なる偶然』に他ならなかった。
カタカタと、パソコンのタイピング音が部屋の中に響く。
何か興味があって調べものをしている訳ではない。これは意味もない常同行動。
白を基調とした豪邸の中で、照明に照らされながらボサボサの髪を整えもせず青年はガリガリと頭をかいた。
年は二十歳頃だろうか。髭は剃られておらず、顔つきは生気のないものだ。彼の顔を見る者がいればそれだけで駄目人間、覇気がない者だと思うだろう。
青年は何かの職業訓練を受けている訳でもなく、就職もしていない。
凡そ『普通の社会人』から離れていることは間違いなかった。
生憎注意する両親も、2年前の事件で死んでいた。
「もう朝か」
徹夜した青年は大きく両手を頭の上に持っていき伸びをして、青年は自室から出てリビングへと歩を進める。
青年の視界に、椅子やソファ等、いずれも数百万円は下らない周辺の豪勢な家具が入ってきた。
青年は冷蔵庫からパンを出し、無言で頬張る。
一人暮らしでだだっ広い豪邸に住んでいるが何の心配はない。税金の管理は自らがする必要もなかった。
空ろな目をした青年の耳に、室内電話の鳴る音が響く。電話番号を確認した瞬間覇気のない青年の瞳が僅かに細くなった。
「甘粕さんか……」
甘粕冬馬。日本の呪術士の元締めである組織、正史編纂委員会の使者である飄々とした掴みどころがない彼のことを、青年は気に入っている。
青年が苦手な女性ではないという点と、膨大な知識を雑談で披露してくれる点、組織の人間としては堅苦しくない所。
青年は冬馬のそのような性格が好きだった。
受話器を手に取ると、早朝だというのに溌剌とした冬馬の声が流れてくる。
「もしもし、何か御用でしょうか」
「お早う御座います。ちょっとばかし、御身にお伝えしたい事件がおきましてね」
「なんですかね、まつろわぬ神でも襲来しましたか?」
冗談めかしているが、単刀直入にぶしつけに聞き返す青年の声は弾んでおり、まるで僅かに期待しているかのようだった。
これは普通の人間にとって在り得ないことである。呪術師、魔術師の全てが畏怖する存在がまつろわぬ神。
時たま地上に顕現し、戯れのように厄災を振り撒く。まつろわぬ神とはそのような存在なのだ。
それの出現に『どこか心躍らせている』青年もまた、普通の存在ではないのだろう。
受話器の向こうから冬馬のどこか困ったような声色が聞こえてくる。
青年は頬をかく彼の姿が容易に想像できた。
「ある意味、それより困った事態になるかもしれませんね――――この国出身の八人目の神殺しが誕生した、という噂がありまして」
「……この国出身!?本気で言っているのですか?」
「正誤ははっきりしているようです。ローマの魔術組織である赤銅黒十字からのお墨付きですね」
青年は頭を抱える。日本は世界的に見れば先進国ではあるものの、極東の島国であることもまた間違いない。だからこそ信じられなかった。
神殺しはまたの名をカンピオーネという。先程述べたまつろわぬ神は基本、絶対的な存在であり。それは魔術師を含めた只人の及ぶものではない。
まつろわぬ神は手を叩いて蚊を殺すかのように絶大な力を振るう。しかしそれを殺し、あろうことか力の一部を簒奪するに至った者。
人の身から外れた常識に捕らわれない王者。それがカンピオーネであるのだ。
「名は草薙護堂という高校生らしいですね。大騎士であるエリカブランデッリを愛人として迎え入れているらしいですな」
「何ともそれは、若いうちから人生楽しんでますね」
「御身もまだ二十になったばかりでしょうに」
「私は人生を楽しんでいませんから。それで、私の仕事はその新たな王と話し合うこと、でいいですか?」
「それは――」
青年の言葉に冬馬は固まる。大方もう少し間を空けてから会談させようと思っていたのだろう。
強大な力を持つ『二人』が会談する。場合によっては都内が火の海に陥ってもおかしくはない。
青年に先んじて報告をしたのは、正史編纂委員会が青年と協定を結んでいるからに他ならない。
偶然にも、二人の神殺しが東京都在住なのが一番の理由だった。
「勿論何が人の地雷になるか分かりませんから、草薙さんのプロフィールや人柄は紙面ででも事前に確認しておきますよ」
「穏便に済ませて頂けると助かりますよ」
「話をお聞きする限り、将来有望そうな少年で普通に嫉妬しますが私情は交えませんよ。安心して下さい」
「……正直安心するどころか不安でしかないですが、頼みましたよ清水さん」
青年、七人目の神殺し、
「どう転がるか。宝くじでも引いてからお伺いしたいものですね」
日本にて二人の神殺しは邂逅する。その先にあるのが、どういう出来事なのか。
少なくとも、運命の女神にも分からないことであるのは事実だった。
7人の資料を読んでいるとどちらかというと護堂やヴォバンが例外であり
やはり何か特化したものがないと神殺しにはなれないんじゃないかと思って執筆しました。
本編を読んでいるとカンピオーネや神々は幸運程度、皆持っている標準装備であり
軽々と打ち破ってきそうですが
神々や英雄すらも運命には逆らえない、とも神話では言われているのが面白いですね。