清水勇がカンピオーネになった切掛けであるヴェネツィア広場での惨劇は、イタリア国内の一般人だけではなく魔術界においても衝撃的なものであった。
女神が降臨した一日で数々の富豪が凋落し、一部の貧民が突如道が開けたかのように
富や地位を得た。
フォルトゥーナは幸運の神であり、運命の神でもある。
かの女神が地上に顕現したことに起因する影響なのは明らかだが魔術師にとって厄介だったのは、どこまでがフォルトゥーナ神の影響かが分からない、という点であった。
貧富がひっくり返った誰からも、呪力の影響を見出すことができなかったのだから。
事件当時、素手であっけなく女神を滅した清水勇が余命2ヶ月であると発覚した魔術師の間でまことしやかに囁かれている噂がある。
『清水勇が神殺しになり生きのびるためだけに、幸運の神は地上に舞い降りた』
その後に清水勇の命を狙う魔術師は、彼が権能を使うまでもなくいずれもが不運に巻き込まれて五体満足の存在はいない。
清水勇が幸運である王であり、運命を操る王と呼ばれている所以であった。
八人目の神殺しである草薙護堂が腰までかかる長い金髪と青い瞳、青い髪飾りが特徴の溌剌とした笑顔眩しい少女、エリカ・ブランデッリを伴ってイタリアから日本に帰国したのは彼女と決闘してすぐのことだった。
「ここが護堂の生まれ育った地ね。時間があれば護堂の親族に是非ご挨拶したいものなのだけれど。」
「勘弁してくれッ!俺とお前は恋人関係になったつもりはないからな!?」
「本当に珍しい人ね。この私から傾慕されることを望む男は多くても、拒絶する男はいないでしょうに」
いきなり自宅にこの悪魔が現れたら妹の静花が何を言うか分かったものじゃない!
護堂が公衆の面前で頬を擦り合わせて愛情表現してくるエリカを慌てて引き剥がす。
ここはイタリアではない。エリカの過激すぎるスキンシップも、淑やかであることが美徳とされている日本では場をわきまえる必要がある。
「相変わらず自信満々だなお前……」
「あら、自分に確りとした自信が持てないような女では護堂の相手は務まらないでしょう?」
臆面なく言い放つエリカは、挑発的に右瞼を閉じてみせる。
麗しい美人でありながら、どこか子供染みたその仕草さえエリカがすれば絵になるものだった。
「というか、エリカが日本にまで着いてくるとは思わなかったんだけどなア」
「本当は私も日本に来日するのはもう少し後になる予定だったのだけれども、ここで先に済ませなくちゃならないことがあるのよね。あなたにとっても大事なことだから」
「大事なことって何だ?」
また何か企んでいるのかと、戦々恐々とする護堂に対し
エリカは一転して端正に所作を改め、護堂に向き直り改めて日本に来日した目的を打ち明けた。
「私たちは日本人にして7人目の神殺しである清水勇様と、話をつける必要があるということよ」
「確か同じ日本人の神殺しだったよな。その清水って人は、フォルトゥーナって幸運の女神を倒したんだよな?」
「ええ。太古の豊穣多産の神……『蛇』の神格を持つと同時に一部の地域では太陽とも深い繋がりがある神」
地母神の象徴とも言われているのが『蛇』である。
古くから鼠や蝗等の作物を荒らし、疫病を齎す害獣を捕食し寄せ付けない蛇は大地の神の象徴であった。
脱皮を繰り返し、冬は冬眠し眠る蛇は生と死の循環を示す生物である。
地母神は実りの神でありながら、冬は死を齎す冥府の神でもある。
そうでありながらガリア人は太陽を運命の車輪と見立てていた為、太陽の神格を持つに至ったのである。
「予言の神であり、戦争の勝利の神、即ち軍神でもある、様々な側面を持つ神よ。複雑な神格を持ち三相一体の神と扱われた理由の一つは、かの女神が皇帝から市民にまで崇拝されていた神であることが挙げられるわ」
ローマの年に一度の祭りでは、奴隷と貴族が共に宴に参加することを許されたという。
運命の力は身分差に関係なく訪れる。
その信仰は受け入れやすく、貧富の差に関係なく大衆に受け入れられたのであった。
「護堂も運命の車輪、という言葉は聞いたことはあるはずよ」
「確か、タロット占いだったよな」
「ええ。正位置の意味は幸運、チャンスの到来。フォルトゥーナは今から500年近く前の16世紀には既にヨーロッパ人の間で幸運の女神として親しまれていたのよ」
「幸運の女神……か」
フォルトゥーナはアメリカで『富、出世』の意味となったフォーチュンの語源になった神でもある。
運命を操ると言われている神は少なくないが、フォルトゥーナは正に幸運が概念化した神なのである。
しかしエリカの説明を真剣に聞きつつもどこかピンときていない護堂の様子に、エリカは苦笑する。
「まあ、神殺しが幸運の神に好かれているとは思えないわね」
「まあ、そうだなア……」
神殺しになってまだ数ヶ月も経っていないにも関わらず、トラブル続きの護堂は心の底で同意した。
とある東京都内のホテル。
煌びやかなシャンデリアが燦爛と輝く中、護堂と清水勇は対面することになった。
護堂の傍にはエリカ、清水には甘粕冬馬がそれぞれ従者のように付き従っていた。
「草薙護堂様、御身に謁見でき恐悦至極に存じます。そちらの方は赤銅黒十字のエリカ様と存じ上げます」
「赤銅黒十字所属の草薙護堂の騎士、エリカ・ブランデッリよ。清水様にお目にかかることができて光栄です」
エリカと冬馬がお互いに深く頭を下げる中、護堂は同郷の王をぶしつけに観察する。
(あんまり神殺しって感じがしないな)
護堂から見た清水の第一印象は、どこにでも歩いていそうな一般人というものだった。
と言っても神殺しと会うのはサルバトーレ・ドニに続いて二人目であるのだが
護堂の直感が、眼前の王を『戦士』と思えなかったのだ。
単なる感覚とはいえ神殺しの直感は、馬鹿にできるものではない。
とはいえ、戦士でない存在が神を殺せるとは思えないのだが……?
(なんか違和感があるんだよなあ)
護堂の胡乱気な様子に気づいたのか、清水はどこか曖昧な笑みを浮かべた。
その微笑のなかに、隠しきれない敵意を感じ取った護堂は軽く緊張する。
幾何化の沈黙の後に、清水が口火を開いた。
「草薙王、だったか。王様同士お互い敬語抜きにして話さないか?」
「俺は構わないぞ。勇って呼んでいいか?」
「じゃあ俺も護堂って呼ばせてもらう。お互いその方がやりやすいだろう」
エリカと冬馬が背筋を正す。
二人の王はお互い名前で呼ぶことを許可したが、護堂と清水の間の空気は間違いなく友好的なものではない。
本来護堂は目上の人には敬語を使う、礼儀正しい少年だ。
しかし護堂の中に湧いて出た謎の敵愾心が、清水に対して敬語で話すことを許さなかった。
清水もそれは同様である。同じ日本人にして神殺しの後輩である草薙護堂と直に接して話してみたが、負の感情のみが自然と強まっていくばかりだった。
(戦士でもない奴に喧嘩を売られる謂れはない筈だ。こいつが『神殺しの先輩と認めたくない』)
(こいつには俺と違い王としての貫録がある、親族も存命、人生順風の神殺し。
神殺しの自分と同格であり、なおかつ『幸運なのが気に食わない』)
((こいつには負けたくない))
両者が睨み合う中、冬馬が頭を抱える。
恐れていた事態であったが、やはり神殺し同士が友好関係になるのは難しい。
そんな中エリカがこの空気を壊すかのように咳払いをし、爆弾を投下する。
それは都内を戦火に巻き込みかねない、文字通りの核爆弾。
正史編纂委員会と清水との関係がうまくいっていないからこそ打てる手である。
「清水様に単刀直入に申し上げます。イタリアで出土した地母神の象徴である神具、ゴルゴネイオンを日本に持ち込むことをお許し頂きたいのです」
護堂ですら驚き、清水は憤り、冬馬は白目を向く。
エリカは可憐でありながら苛烈さすら持った、妖しい微笑みを浮かべる。
紅き悪魔と8人目の神殺しによって日本に齎された戦乱の訪れ、その序章であった。