人に化けた鬼 作:商泣
最初の3日間は、縄で縛られたままただ眠っているだけだった。
4日目の夜に手荒く叩き起こされ、鬼の蔓延る山中へと叩き込まれた。
鬼の少年は最初、生き残るつもりなどはなかった。
だから、異形の鬼に襲われた時も、抵抗せずにその身を貪られるままにしていた。
しかし、彼は鬼だ。
鬼は日光に焼かれない限り、日輪刀で頸を斬られぬ限り、決して死ぬことのない化け物である。
よって例に漏れず、鬼である少年はその身をいくら喰われても、意識を手放すことすらできなかった。
どうせ死ねないなら、痛いのは避けたい。
殆ど肉片になりながらも、何とか隙をついて逃げ延びた少年……彼がそう思うのは、まさしく自明の理であった。
それから季節の変わり目までは、夜は他の鬼から逃げ回り、昼は眠る。そんな繰り返しだった。
日に当たれば死ねたかもしれないが、本能的な不快感から近づく気も起きず、また五体を引き裂かれて内臓を貪られても死なない自分が、日の光程度で死ねるなどとは、少年は露ほども思っていなかった。
そのうえ、昼間は岩場に引きこもって眠っていたので、たとえ興味本位でも試す機会すらなかったのだ。
少年はゆっくりと傷を癒やし、また傷つき……その度に朧げになっていく過去をぼんやりと思い返しながら、藤襲山で月日を重ねた。
そして、最初の春が来る。
それは同時に、少年にとって、最初で最後の最終選別でもあった。
いつからだろうか。
自分の名前が思い出せなくなったのは。
いつからだろうか。
鬼になる前の記憶を、思い出すことすらなくなったのは。
一体いつからだろうか?
自分が生きていることに、疑問すら感じなくなってしまったのは……
俺が来てからも、この山の中に新しく訪れる者といえば、俺と同じく化け物ぐらいのものであったのに。
ある日、遠目から幾人もの刀を提げた剣士たちが山に入ってくるのが見えた。
俺は視力がいいらしく、こうやって遠目から一方的に入山者たちを観察することができた。
朧げな記憶の中で、かつて己を捕らえた炎のような剣士も、似たような服を着ていたのを思い出す。
記憶の剣士よりも、明らかに若く練度も劣るであろう少年少女たち。
一際目を引く狐の面にしろがねの髪という組み合わせのーーその子は腕が立ちそうだが、他の連中は纏う雰囲気も素人同然。
なるほど、どうやら俺たちは彼らの試し斬りの的であったらしい。
確かに、死なない化け物を斬り刻むのは、剣術の修行としては悪くないのかもしれないな。
だがしかし、そんな練習なんかで己の体を切り刻まれる側はたまったもんじゃない。
他にも同類は山ほどいるのだから、彼らが飽きるか全滅するまで俺は逃げ回るとしよう……そう思って、踵を返そうとした時だ。
化け物の一体が、剣士の子供の一人に襲いかかっていた。
死角からの攻撃に、実戦経験の浅い素人が対応できるはずもなく、少年は頸から血を噴き出して倒れ、周囲は散り散りになって逃げていく。
その光景に内心心を痛めつつも、逃げるなら迷わず下山するべきだろうと首をかしげていたのだが。
……いや、まだ一人残ってるな。
先程目をつけていた、狐の面にしろがねの髪をした子供が、その場に残っていた。
子供は化け物の両足を斬り落として機動力を奪うと、そのまま少年を殺した化け物の頸を刎ね……化け物は瞬く間に塵になった。
塵に、なった。
……はぁ?
あんぐりと口を開けてしまった俺は悪くないだろう。
それだけ、明らかに異常な光景だった。
俺のように再生力の遅い奴らもいるが、基本的に俺たちの体は傷ついてすぐに再生を始める。
この半年ほど、化け物どもとは何度も殺し合いじみた喧嘩をしたが、傷口が逆に崩れ始めて、あまつさえ塵になって消えるなどお互いに一度もありはしなかったぞ。
背中を冷や汗が伝うのを感じる。
もしかして、彼らは殺せるのか、俺たちを。
久しく感じていなかった、生存本能を揺さぶられる感覚。
おそるおそる、しろがねの子供の方を見た。
そして明確に、目が合った。
まずい、これはーー
背を向けて逃げる間も無く、砲弾のように近づいてくる人影。
数百メートルはあったはずの間合いが、1分と経たずに詰められる。
水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き
流れる水のような、力強く、そして繊細な一撃だった。
背後から明らかに俺の頸を狙った一撃が、かろうじて頬を掠めた。
剣圧で目前の木々が騒めき、それを見て戦慄が走る。
嘘だろう?
ただの人間のはずが、少なくとも俺よりはよっぽど速いし力も上だ……!
あるいは、この子も俺たちと同じ化け物なのか?
……一応、確認する必要があるな。
術式展開
感覚が研ぎ澄まされ、視界が透き通っていく。
血鬼術を起動する準備が整うと同時に、俺の視界に映る少年の『構造』すらも把握する。
そして、透かして視た子供の『中身』は、俺たちとは余りにも違っていた。
微かに残る記憶の人間たちと同じそれは、おそらく殺せば死ぬ。
ならばこちらから滅多なことはできまい。
化け物に堕ちたとて、俺は
ヒュン、と俺の首筋を刀が掠める。
先程とは違う、ただの一振り。
だが、咄嗟に足を動かさなければ、間違いなく頸を斬られていた。
そうなれば、先程の化け物のように、俺も塵に還ることだろう。
冗談じゃない。
正直この子供相手に、半年間この山で鍛え上げた実戦経験とこの血鬼術以外で、俺が勝ることは何もない。
その術も中途半端に解放しただけでは、おそらく現状を切り抜けるには足りない。
完全な状態で術を使うには、少なくとも本人がそうだと思っている名を聞く必要があるが……今は戦いの最中だ。
仮に問いかけたとして名乗ってくれるだろうか。
しかし、その可能性に賭ける他ないのも事実だった。
「俺は自分の名がわからない、だから名乗れない!でも君には名前があるだろう!名は何という!」
矢継ぎ早にそれだけ告げて、距離を取る。
子供は油断なく刀を構えたまま、思案するように押し黙り……そして口を開いた。
「名を知らない相手は殺せないか、いいだろう。私は鵜久森維信、水の柱を目指す者だ!」
威勢のいい名乗り。
何か勘違いしているようだが、そんなことはどうでもいい。
「くく、名乗ったな!血鬼術ーー
俺の血鬼術は相手を真似る術だ。
視界に収めた、あるいは記憶した相手の動きをなぞって、その体術や剣術を奪うことができる。
そしてこれを名の知れた相手に使えば……!
しまった、と身構える維信の前で、俺の姿が変化していく。
そう、この術は、名前を知っている相手ならば、余程の実力差がない限りは、対象の姿や身体能力すらもそっくりそのまま写しとれるのだ。
実を言うと、後者の使い方をするのは初めてだが、血鬼術自体がそういうものなのか……何となく使い方はわかっていた。
自らの姿と同じになった俺を見て、一瞬目を見開いたが、維信は油断なく刀を構え直した。
同じ顔の少年が一方は刀を構え、一方は丸腰。
勿論、丸腰なのはこちらだ。
刀は特別なものらしく、身につけたものまで写しとれるはずの俺の術でも複製できなかった。
だが、別段問題はない。
俺がこの術を使ったのは、そもそも戦うためじゃないからだ。
「ーーなっ、逃げっ……」
後ろから聞こえる声を無視して、俺は全力で逃走する。
走力が同等なら、刀がない分こちらの方が速い!
まあ、仮に刀が手に入ったところで、逃走の邪魔になるものは即座に投げ捨てるつもりだったが。
「待て、おい!逃げるな!わざわざ術まで使っておいて、臆病者め!」
何か聞こえるが知ったことか。
不毛な殺し合いなんて御免だ、俺はとっととお暇させてもらおう。
数十分に渡る鬼事の末、どうにか撒くことには成功した。
しかし、維信少年から逃げることに熱中していた俺は、逃げるべきでない場所に逃げ込んでしまったらしい。
背後から、重たい足音とぴちゃり、と何かが滴る音が響く。
とっさに振り返り、
ーーそしてすぐに俺は自らの失策を悟った。
「あァ……?」
その声の主は、俺がこの山で最も出会いたくない相手だった。
おそらくは、選別の参加者であろうーーーー少女をその手の一つで掴み、貪り喰いながら現れたのは無数の手を持つ異形。
この山で最も多く喰らい、長い時を生きた化生が、冷たく俺を見下ろしていた。
「あんた、早く逃げろッ!!!」
おそらく木の影に隠れていたのだろう。
咄嗟の事態に己の身も顧みず、俺に向かって叫ぶ別の青年。
鬱陶しげな化け物は青年へとその手を伸ばそうとしている。
まずい……!
ただ飛び込むだけじゃ助けられない!
何かないかと目を向けた先にあったのは、奴に喰われている少女が持っていたであろう刀だった。
維信少年の踏み込みを真似て、一気に刀を拾い上げてそのまま腕を斬り落とす。
「ちィ……!鱗滝のガキめ!焦らなくても、お前はちゃんと殺してやる!」
鱗滝が誰だかは知らないが、どうやら今の攻撃でこちらに注意は向いたらしい。
「君は早く逃げろ!今すぐ仲間を連れて下山するんだ!こいつには俺も勝てない!早く!」
咄嗟にそう叫んで、化け物に向き直る。
一瞬迷ったかのようなでも、という声が聞こえた気がしたが、青年も腹を括ったらしい。
「わかった、俺は外から助けを呼んでくる!山を出れば監督官の隊士がいるはずだ!連れてくるまでなんとか耐えてくれ!」
俺の言葉通り、青年の足音が遠ざかっていく。
青年を逃したことで、俺がもはや、どうあっても逃げきれないことを察したのだろうか。
上機嫌にクスクスと笑いながら、化け物は俺を捕らえようと幾つもの手を伸ばし、それを俺は斬り落とした。
「クスクス……この山に、助けなんて来るわけないのになぁ……鬼殺隊はそんなに甘い連中じゃない……!」
腕を斬っても普通に再生しているようだが……そういえば、維信少年が最初に化け物を殺した時も、斬られた足は塵にならずに再生していたな。
そもそも、彼と一緒に来た少女の持ちものなら、この刀も彼のそれと同じ類のはず。
これで頸を斬れば、おそらくこの異形も殺し切れるだろう。
……そう、頸を斬れればの話だ。
だが、容易くそれでことが運ぶなら、長きにわたってこの化け物が、この山の頂点に君臨することなどありはしない。
ああ、先程の動きや反応から、何となく察しはついた。
こいつは明らかに、刀を持った相手と戦い慣れている。
おそらく、これ以前に何度も、剣士たちの襲撃を潜り抜け……そして生き延びてきているのだろう。
得物を得たはいいものの、頸を落とすことはおろか、近くことさえ出来そうにもないが現状だ。
それにいくら腕を斬り飛ばそうとも、頸を斬れなければ幾らでも再生できてしまう。
俺の記憶が正しければ、こいつの攻撃はやたら射程が長い。
よって先程のように背中を見せて逃げることも叶わない。
仮に人化を解いたとて、身体能力が下がる上にブチ切れたこいつに刀を奪われれば、逆に頸を斬られて死ぬだけだろう。
詰みだな。
内心諦めつつも、何とか彼らの逃げる時間ぐらいは稼ぎたい。
そう思っていた俺だったが、そこに現れたのは思わぬ助っ人だった。
「先程斬りかかったことは申し訳ない……そして、私の仲間を守ってくれて、ありがとう」
今の俺に瓜二つ。
しろがねに狐の面の少年。
維信少年だ。
「だから、厚かましいお願いだけど、今度は私があなたを守りたい。ダメかな?」
先程は恐ろしいばかりだったが、味方となるとあまりにも頼もしい。
俺は迷わず頷くと、異形へと鋒を向ける。
「クスクス……1人が2人になったところで、結果は変わらないよ……!むしろ探す手間が省けた!」
そう上機嫌に話すやつに対して、余裕ぶっているのも今のうちだ、と勇む俺こそが、本当は油断していたのだろう。
きっと、共に戦う相手を得て浮かれていたのだ。
「それに、この匂い……お前ら、稀血だろう?」
「稀血?」
だから、こいつの問答に呑気に答えてしまった。
「1人で50……いや、お前らなら、100は喰らったのと同じだけの栄養がある!そういう特別な血の持ち主だよ……あぁ、そういえば、稀血じゃないが……」
俺たちはこいつのことを何も知らなかった。
「俺のこの腹の中には、鱗滝のガキが10人は入ってるんだ」
その悪辣さも、悪知恵も。
「クスクス……こんなところに送り込まれて、可哀想になあ……鱗滝も碌な人間じゃない……」
その空気が変わったことに気づいた時は、もう遅かった。
「黙れ、鱗滝さんを悪く言うな」
維信の声は震えていた。
その怒りを、挑発を堪えるのに、どれだけの精神力が必要だっただろうか。
「俺とお前たちは同じさ……!鱗滝のせいでこんなところに送り込まれて、死にそうな目に遭わされて!一体どう違うんだ?一緒だろう……」
「私たちとお前を一緒にするな」
「クスクス……!まあいい、すぐにお前たちも俺の復讐に手を貸してくれるさ……腹の中のガキどものようになあ!」
「もういい、やめろ……!」
俺はそいつの言葉を遮る方法を、一つしか持ち合わせていなかった。
そしてーー
「俺たちで、一緒に鱗滝を殺そーー
漆ノ型 雫波紋突き
俺は、それを選んでしまった。
奴の挑発に乗って、戦うという術を。
「やめろ、君にこの子の何が解る!俺だって何も知らない!
ーーだが、この子をこれ以上傷つけるな!」
漆ノ型 雫波紋突き
これまでにない速度の突き、その乱打。
続きを言わせまいと、維信との連携すら無視して、突出する。
見ようによっては、奴の攻撃を押し返しているようにも思える。
だが、すぐに気づいてしまった。
これでは駄目だ。
これは……誘い込まれているだけだ。
明らかに作られた『隙』。
既に、そこに俺は誘い込まれてしまっていた。
案の定、四方から迫る腕。
「しまった……!」
そう思った時には、もう遅かった。
すぐさま伸びた無数の手の、そのうちの二本が俺を捉える……ことはなかった。
どん、と後ろから迫った維信が、俺の体を突き飛ばしたのだ。
そのおかげで俺は辛うじて射線から逃れたが、代わりに維信は、両の脚を掴まれ、宙吊りになっていた。
捕らわれた維信が離せと叫ぶも、奴がそれに応えるわけもない。
そのまま瞬く間に両腕も掴まれ、ぶち、ぶちと不快な音と共に、今にも人外の膂力が維信の五体を引き裂こうとしていた。
すぐさま身を起こして隙を伺うも、無数の腕が邪魔をして、俺はろくに近づくことすら出来なかった。
俺の目の前で、奴はまるで切れた繊維と血の匂いを味わうかのように、その『稀血』とやらの香りに陶酔するかのように、ゆっくりと少年を引き裂いていく。
辺りに鉄の臭いが漂った。
感覚が引き延ばされるように、全てが色を失い、ゆっくりになっていく。
極限状態で引き延ばされた知覚。
それは、写真機ように、少年の公開処刑を俺の目に焼き付けようとしているようだった。
そしてついに、ぶつり、という不快な音と共に、おびただしい量の血が降り注いだ。
俺の顔に、唇に、少年の血がぴちゃりと触れる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
その瞬間、俺の頭の中に、俺のものではない記憶がーー走馬灯のように蘇った。
滅の文字を背負う背中。
足元には血溜まりが広がっていたが、それでもそれを背負った『姉』は二本の脚で立っていた。
私のしろがねとは対照的な長い金髪を束ね、鬼に立ち向かうその姿は、確かに死地にあって……それでも尚美しかった。
『維生、よくお聞き。"煉獄"の分家として、最後の役目を果たす時が来たようだ……これより私は、あの鬼と殉ずる』
共に戦います、という私の言葉は選別すら突破していないお前に何ができる、と一蹴されてしまった。
背後の私に語る姉の声は、静かな決意を湛えていた。
それは鬼と殉ずるという覚悟ではなく……『それ』を使うという覚悟だった。
もしもの時のための榴弾。
自決用だ。
姉は内心わかっていたのかもしれない。
この戦いに勝ち目などないことに。
それでも、姉は戦いに赴く。
背後にいる私を……無垢の人々を守るために。
『叶わなければ……これを使って自決する。稀血を得て本家から外れた鵜久森家が、それでも鬼と戦うためのけじめだ。この血の一滴も、鬼にくれてやるつもりはない』
あれには金属片と、藤の毒が入っている。
いざという時、起爆することで自らの遺体を『鬼も喰えない』状態にするためだ。
なんと残酷な話だろうか。
これだけ高潔で、人のために命を燃やした人の最期が、自決であるなどと。
だが、鬼に喰われれば、遺骨の一つも残らないのは日常茶飯事。
これでもまだましであるという事実に、鬼と闘うことの残酷さを嫌というほど理解させられる。
『維生……本当は、可愛いお前に、鬼狩りなどになってほしくはなかった。私だけが戦うだけでよかったんだ。だけど、お前はそう言っても聞いてくれないよね……本当に困った子だよ』
それは当たり前だ。
そもそも、姉が傷を負ってしまったのは私のせいだ。
私を庇って、仕掛けられていた爆弾の破片をもろに受けたせいで、姉は深傷を負ってしまった。
勝てるはずだった鬼を相手に、私が姉に自決の覚悟すらさせてしまった。
姉は私に背中を向ける。
『本当に困った……愛しい子。どうか、私の分まで生きて……それで、柱にでもなってくれれば嬉しいね』
ぽつりとそう告げて、姉は鬼の待ち構える死地へと……再び歩みを進めた。
その後ろ姿に、私は宣言する。
『姉様、私は……あなたの名前を継ぎます。あなたの名を、鬼殺の柱へと刻んでみせます。あなたが守るはずだった人々を救って、あなたが斬るはずだった鬼を斬る。それが私の使命だ』
……これは、維信の……いや、あの少年の記憶なのか……?
再び走馬灯が走る。
『鵜久森家にしては珍しいね。あの家の皆はたいてい炎の呼吸の適性が高いが……君は水の呼吸に向いているようだ』
かつて姉の連れてきた刀鍛冶の方に、無理を言って触らせてもらった色変わりの刀。
本来は、自分の刀は最終選別が終わってから手にするものらしい。
基礎の訓練を終えると、水の呼吸を学ぶために実家の伝を頼って、鱗滝さんを紹介してもらった。
ただ選別を超えるだけなら、今でも十分可能だろう。
だが、私が目指すのは柱だ。
この程度の実力では足りない。
だから。
『鵜久森維信です。お世話になります』
『お前が……そうか。ならまずは……』
鱗滝さんの修行は厳しかった。
でも、それ以上に彼は愛情深く……そして優しい人だった。
この人のためにも、より多くを救おう。
より多くの鬼を狩って、よく多くの人々を守るのだ。
そして、ゆくゆくは姉の仇の鬼を殺し、十二鬼月をも滅ぼして、柱になる。
そう、鬼殺の柱に。
かつてそう決意した少年と、目の前の赤が重なった。
失われた命は回帰しない。
少年の姉……維信の血塗れの隊服。
少年を庇って受けた大きな傷。
そして、俺を庇って傷つく少年の姿。
俺のせいだ。
俺が先走ったから、こうなった……!
溢れた血は戻らない。
盆から溢れた水が決して元には戻らないように。
だったら、それが溢れる前にッーーー!
ーー炎の呼吸
流水の呼吸から、燃え上がるような炎へ……!
『維信』が、少年の記憶の中で……爆発から彼を守るために使った技だ!
弐ノ型 昇り炎天
素早い斬り上げで、少年を掴んでいた手を砕く。
まるで豆腐のように、私の込めた力が、そのまま奴の手を斬り崩した。
「な、なんだ……ッ!?」
流石は歴戦の『鬼』だ。
すぐさま防御に集中し、被害を最低限に減らしたようだった。
その隙に少年へと肉薄し……あった、これが例の榴弾か!
「糞ったれが、こいつでも食らえ!」
少年の腰から外したそれの安全装置を抜き去り、そのまま奴の顔面に叩き込む。
退避した瞬間、人一人を吹き飛ばすには十分な爆発が至近距離から炸裂し、奴の頭を呑み込んだ。
破片がいくつか俺の体にも食い込んだが、少年を巻き込まずに上手く起爆できたようだ。
「ぐあぁぁぁ!!!よくも、よくもォ!!!!!」
突然毒の爆風を叩きつけられた奴は、流石に軽症とはいかなかったらしい。
顔の半分が吹き飛び、残る半分も熱で焼け爛れていた。
おそらく時間をおけば回復してしまうだろうが、人質もいなくなった以上はこいつと戦い続ける必要もない。
そう、榴弾が爆発した瞬間……腕の力がゆるんだ隙に、俺はこいつから少年を引ったくっていたのだ。
無数の手で顔を押さえて苦しむ姿を横目に、俺は再び脱兎の如く逃げ出した。
誘い込みを警戒して追撃の機会を逃したのか、それとも俺が死ぬ気で距離をとったからか。
どうやら奴は、こちらを追ってこないようだった。
至近距離でぶつけてやったあの榴弾が、よほど効いたのか。
あるいは、少し口に入っただけであれだけ刺激のある血が、あの場に大量にぶちまけられたのだ。
もしかすると、鬼同士での醜い争奪戦でも起きたのかもしれない。
何にせよ、これだけ離れれば簡単に臭いを探られはしないはずだ。
ーー辺りには藤も咲き乱れているのだから。
そう、俺は、山の外縁部まで逃げてきた。
念のためもう一度周囲を確認してから、俺は少年をその場に寝かせてやった。
少年の容体は……瀕死、という他にないほどの状態だった。
辛うじて息はあるものの、両の手脚は半ば千切れかけ、だらだらと血が流れている。
未だ失血死していないのは、この子たちの持つ『呼吸』の影響か、あるいはこの子の『体質』か。
……それでもやはり、血を流しすぎている。
少年の顔色は、まるで死人のようだった。
裂いた衣服で止血をしながら、透けた視界で少年を見て……察してしまったのだ。
きっと少年にはもう、峠を越えるだけの体力がない。
自ら鬼となって、それなりに長い間死とは無縁の生活をしていたからか、どこか感覚が狂っていたのかもしれない。
これは、助からない。
そんな予感が、心臓を早鐘のように打つ。
口の中に、鼻腔に残る、僅かな血の味に、一筋の汗が背中を伝う。
水は既に溢れ、盆は傾き始めていた。
おそらく、もうその流れを止めることはできないだろう。
ああ、もしも神がいるのなら、どうか、どうか懺悔させてほしい。
俺は、一歩遅かった。
遅かったのだ。
己の短慮を償うには、あまりに俺は……遅すぎた。
鬼の少年の血鬼術
術式展開
全身の感覚を研ぎ澄ませることで、レントゲンのように対象の体内を透かして視ることができる。
これ自体は血鬼術ではないものの、後述の術を使うには必須のスキル。
『成りたて』の頃は、意識せずとも使えていたようだが……
血鬼術
本来は戦闘技術を模倣するだけの術だが、少年との戦いに際して、死の恐怖によって『名前を知った相手の身体情報』もコピーできる術へと進化した。
戦闘技術に差がありすぎる場合は模倣できず、また身体のコピーも、鬼を対象にする場合は自分よりも無惨の血が少ない鬼に限られるなど、いくつかの制約が存在する。
血鬼術 血の共振
微量とはいえ稀血を取り込んだことで新たに覚醒した特殊能力。
細胞を取り込んだ対象の記憶を勝手に共有することができる。
無惨の基本性能に似ているが、こちらは人間にも使えるという違いがある。
取り込んだ細胞が多いほど多くの記憶を覗き見ることができるが、人間相手から得られる記憶には限りがある。
また、同じ鬼に対してはより少量の血液で発動できる。