IS ~across the sky~   作:シャオレイ

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すみません遅くなりました!

今回はこってこてのラブコメ回となっております。
長いくせにあまりストーリーが進んでいませんが、許してください。


第十七話 悲劇(きげき)

 三日間のタッグトーナメントが終わり、代休となった日のこと。彼方は一人、食堂でラウラの見舞い用の菓子作りに勤しんでいた。

 

「後は十分ちょっと焼いて出来上がり、っと……」

 

 クッキーの生地をオーブンに入れてタイマーのスイッチを押す。残り時間が表示され、オーブンの中が明るく灯っていくのを確認すると、彼方はエプロンを外した。

 

「あら、尾上くん。お菓子作りは終わり?」

「はい。後は焼き終わりを待つだけです」

 

 彼方に声をかけてきたのは、IS学園の食堂に勤めている職員の女性だった。

 名前を桜庭沙代子といい、見た目は三十代に届いているかどうかというような容姿ではあるが、食堂全体の業務を任されていることから実際の年齢はもっと高い。学園内でも千冬が頭の上がらない数少ない人物の一人でもある。

 

「今日はクッキーを作っていたのよね」

「ええ、今回はアーモンドダイスを使ってみたんです。久々なので少し不安ですけど」

「大丈夫よ、尾上くんなら。そう言って前にも色々作っていたでしょう? 布仏さんもボーデヴィッヒさんも美味しそうに食べていたじゃない」

「そうでしょうか?」

「そうよ。お姉さんが保障するわ」

 

 彼方は使い終えた調理器具を片付けながら話を続ける。生徒に解放している食堂のキッチンの収納場所に、彼方は慣れた手つきで調理器具を仕舞っていった。

 

「それにしても、今日は布仏さんいないのね」

「ああ……布仏さんなら、今日は生徒会の仕事らしくて」

 

 今朝の光景が思い起こされる。

 彼方と本音が食堂に向かう途中、眼鏡とヘアバンドを身につけた少女に引き止められた。彼方が振り返ったところで、なぜか本音が慌てて彼方の後ろに隠れる。

 

「う、わ……。どうしたの、布仏さん」

「しーっ……」

 

 本音は唇に人差し指を当て、静かにするようにジェスチャーをした。そのやり取りを見ていたヘアバンドの少女は、呆れたように溜息を吐くと口を開いた。

 

「……本音、何を馬鹿なことをしているの?」

「……いないよ~、ほんとだよ~」

 

 彼方の後ろに隠れながら本音が小さく呟くが、少女は足早に回りこむと本音の襟首を掴んで彼方から引き離した。

 

「わ~ん、許して~!」

「許しても何も、今日の仕事があるでしょう?」

「でもでも、おがみんのお菓子~! 作りたてが~!」

「駄目です。先に終わらせてからにしなさい。……ごめんなさいね、この子が」

「え、いや、大丈夫ですけど……」

 

 本当にごめんなさい。そう言って少女は頭を下げる。少女と本音の関係性が理解できていない彼方は曖昧な返事をすることしかできなかった。そんな彼方の様子に気が付いたのか、少女は口を開いた。

 

「私は布仏虚。この子、布仏本音の姉です。妹共々生徒会に所属しています」

「布仏さんのお姉さん、ですか?」

「ええ。いつも妹から話は聞いてます。お菓子を作ってもらったり、色々と世話になってしまっているようで……」

「い、いえいえ。オレの方こそ。布仏さんは色々と助けてくれていますから……」

 

 虚、という名前は以前に楯無が口にしていたことがあった。その時は同じ生徒会に所属している生徒なのだろうかと考えていただけだったが、まさか本音の姉であるとは思いもしなかった。

 襟首を掴まれたままの本音と、その隣で本音を捕まえている虚を見比べる。随分と対照的な姉妹だと、彼方は思う。

 正直に言ってしまえば、似ていない。容姿的な部分から見れば確かに姉妹なのかもしれないと思わせるが、各々の所作から滲み出る雰囲気のような物があまりにも違いすぎている。

 

「お礼をしたいので、今度生徒会に招待させていただきますね。それでは本音は連れて行きます。またいずれ、ゆっくりとお話しましょう」

「うわ~んっ! おがみ~ん! わたしの分は取っておいてね~!」

 

 ずるずると引きずられていく本音に苦笑いしながら手を振ることしか出来なかった彼方は、しばらくその場に突っ立っていた。

 本音が連れて行かれた場面を沙代子に説明すると、彼女は口元に手を当てながらくすくすと笑い出した。

 

「なんというか、彼女らしいわね。それじゃあ、布仏さんの分はきちんと取っておかないとね」

「分かっていますよ。それに、お見舞いに行く頃には布仏さんも仕事が終わってると思いますし」

 

 彼方は時計を確認する。短針が指している先は、十二と一の間だ。三時のおやつにはなるかな、と彼方は思いながら片付けを続けた。クッキーが焼けるまでは、まだ少し時間がある。

 

 * * *

 

「……尾上です。ボーデヴィッヒさんのお見舞いに来ました」

 

 医務室の扉をノックして返事を待つ。手に持ったクッキーの袋の様子を確認していると、中から声がかかった。

 

『……入れ』

 

 扉越しではあるが、はっきりと分かるラウラの声だ。どうやら先生はいないらしい。彼方は扉を開けて医務室に入った。

 

「こんにちは、ボーデヴィッヒさん。今日はクッキーを持ってきたよ」

 

 クッキーと聞いて、ラウラの目の色が変わる。本音の呼称ではあるが、軍人モードから女の子モードへ切り替わったようだ。

 

「あ、でももう少し待ってね。布仏さんが来るはずだから、布仏さんが来てから一緒に食べようか」

「分かった」

 

 彼方は思わずラウラの頭を撫でそうになったが、その腕を反対の腕で押さえ込んで我慢した。華奢で小さい体躯が影響して同い年であることを時折忘れるが、女の子モードである時はそれがさらに顕著になる。彼方はクッキーの袋を机に置いてから、ベッドの隣の椅子に腰を下ろす。

 

「調子はどう?」

「問題無い。先生に、明日の代休明けには登校出来るだろうと言われた。シュヴァルツェア・レーゲンはまだしばらく使えないが、それでも一、二週間程度で戻ってくるだろう」

「そっか……。うん、良かった」

 

 ラウラの顔色も良く、体調が悪い様子もない。安心してもいいだろうと心の中で呟くと、彼方は以前から考えていたことを口に出した。

 

「ボーデヴィッヒさん。ちょっと、お願いしたいことがあるんだ」

「なんだ」

「時間がある時でいいんだけど……オレに訓練をつけてくれないかな」

「訓練を?」

「前回の試合では、全然活躍できなかったからね。ボーデヴィッヒさんにも迷惑をかけちゃったし」

 

 彼方はこのタッグトーナメントの期間、別の試合を見続け試合におけるISの機動や戦術を研究していた。その中でも圧倒的だったのが、生徒会長――更識楯無の試合だった。

 終始試合の流れを掴み、余裕を持ったまま勝利していた。あまりにも綺麗な試合運びは、まるで楯無がその場で起こる事象を全て把握しているかのようであり、全ての観客がその試合に見惚れていた。彼方は楯無の実力に驚くと同時に、彼女の戦い方を研究した。

 アリーナという狭い空間での戦い方に関しては、楯無の戦闘スタイルが一番自身に合っていると判断したからだ。

 斑鳩が一番の性能を発揮できるのは、広く高い、三次元的な行動のできる空間での戦闘だ。直線での加速性能と最高速度に特化した斑鳩では、アリーナは狭すぎる。何より、斑鳩の基本戦術である一撃離脱が使えないというのは致命的だった。

 機体の持ち味を生かせない以上、操縦者の技量を高めアリーナでの戦術を研究することが最善だろうと彼方は考えた。

 そして、恐らくラウラは一年生の中でも最高に近いIS操縦技術を持っている。現役の軍人であり、千冬から直接指導を受けていた人間だ。頼んでみる価値はあった。

 

「分かった」

 

 彼方の頼みを、ラウラは頼んだ彼方本人が驚くほどあっさりと許諾した。

 

「いいの? そんなに直ぐに……」

「なんだ、困ることでもあるのか?」

「いや、凄くありがたいことではあるんだけど」

「私は貴様にいくつも借りを作っている。借りを返そうとするのは当然だ。それに……」

「それに?」

「私とて織斑一夏に負けたままは気に食わん」

 

 そう言ったラウラの顔は、転入時に一夏に向けたような憎しみを滲ませた表情ではなく、負けず嫌いな子供が次こそは勝つと誓ったような表情だった。それを見て、彼方は安堵した。内にあったわだかまりは消えているようだと改めて認識した彼方は、廊下から響いてくる慌しい足音に耳を傾けた。

 

「ま、まだクッキー残ってる~っ?」

 

 第一声がそれか、いや、布仏さんらしい。そう思いながら振り向くと、息を切らした本音が医務室の扉に寄りかかりながら立っていた。額に汗が滲んでいるところからして、よほど急いで来たようだった。本音は荒い息を整えながら、ふらふらと二人に歩み寄ってくる。

 

「安心して、布仏さん。まだ開けてないから一杯あるよ」

 

 彼方が椅子を空けて本音に席を勧めると、崩れ落ちるように座り込む。

 

「ほんと~? よかった~……」

 

 机の上にあるクッキーの袋を開けると、丁度三人の中心に在るように、すっと袋を載せた手を動かした。

 

「どうぞ。今日のクッキーにはアーモンドを砕いたものが入ってるんだ。口に合うといいんだけど」

 

 彼方がクッキーの説明をしている間に本音とラウラは既にクッキーを一枚手に取っていた。

 

「いただきま~す」

 

 二人が同じタイミングでクッキーを口の中に入れる。

 

「おいし~!」

「……!」

「そう? それなら良かったよ」

「うん~! アーモンドの香りと、さくさくしたクッキーの中にあるアーモンドのこりこりした食感がすごくおいしいよ~」

「…………!」

 

 本音がクッキーの感想を述べる。やはり言葉で「おいしい」と言われるのは嬉しいものだと、彼方は頬を緩める。ラウラは言葉、態度でこそ示さないものの、黙々とクッキーを食べる姿からは本音と同様の感想を抱いてもらっているだろうと彼方は思った。

 

「そうだ、布仏さん。ボーデヴィッヒさんは明日から学校に来れるみたいだよ」

「ええっ、ほんと~!」

「……ああ」

「わ~っ! また明日から一緒に学校行けるんだね~っ」

 

 さくさくとクッキーを食べるラウラに本音が抱きつく。ラウラが医務室に運び込まれた日以降、ことあるごとに本音に抱きつかれていたためか、抱きつかれるということに慣れてきたようだ。とはいえクッキーを食べる速度が若干遅くなったことを考えると、まだ緊張はしているらしい。

 

「臨海学校に間に合うみたいで安心したよ~」

「リンカイ学校? なんだそれは」

 

 臨海、の発音が微妙におかしかったのは、その内容を理解出来ていなかったからだろう。本音は驚いたような顔をしてラウラに問いかけた。

 

「らうらんは臨海学校知らなかったの~?」

「だからそれはなんなのだ?」

 

 本当に分からないようで、ラウラは怪訝そうに顔をしかめる。

 

「ボーデヴィッヒさん。臨海学校っていうのは、七月の始めにあるIS学園の学校行事だよ。臨む海、って書いて臨海って読むんだけど、その名の通り海に行くんだ。海上っていう広い空間でISの実習を行うことが目的、って資料に書いてあったけど……」

 

 彼方の言う資料とは、入学前に届けられる学園の年中行事や教育要綱などが纏められた資料であり、入学前に読んでおくように書かれていたはずなのだが、

 

「…………入学前は、別のことに気がとられていた」

「あー……」

 

 すっと顔を逸らしたラウラの頬は、赤く染まっていた。確かに、入学当初の頃のラウラにはそんな余裕は無かったのかも知れない。そういった行事を楽しもうという気持ちさえ無かっただろう。だが、今は違う。

 

「じゃあ、今度色々説明してあげるね~。買い物も行かないと~」

 

 楽しげに語る本音と大人しく抱き締められ続けるラウラの姿を見て、彼方はかすかに笑みを浮かべる。ラウラがこの先、色んなことを楽しめるようになればいい。子供として振舞えなかった分、これからを楽しんでいければ。

 彼方はそう思いつつ、クッキーを一枚齧る。ほんのりとした甘さが心地よかった。

 

 * * *

 

「それじゃあ、らうらん。また明日ね~!」

「じゃあね、ボーデヴィッヒさん」

「ああ。……また、明日」

 

 本音は手を振りながら、彼方は軽く手を上げて、それぞれラウラに別れの挨拶を告げる。ラウラもそれに小さな声で応えた。

 彼方は静かに医務室の扉を閉めると、廊下を歩き始めた。

 

「それにしても、らうらんが早く学校に来れるみたいでよかった~」

「本当にね。何事も無かったみたいで良かったよ」

「これでみんな揃って臨海学校行けるね~。楽しみ~」

 

 二人が校舎を出て寮に戻ると、ホールに真耶が立っていた。どうやら彼方を待っていたようで、彼方の姿を視界に納めると小走りで寄って来た。

 

「尾上くん!」

「山田先生? どうしたんですか、こんなところで」

「いえ、尾上くんに渡さないといけないものがありまして。織斑くんは部屋にいたので渡せたんですが……」

 

 そう言って真耶は手持ちの鞄から一枚のプリントを取り出した。彼方はそのプリントを受け取り、文面に目を通す。

 

「……“大浴場の使用に関するお知らせ”?」

 

 一番上に他の文字よりも大きなサイズでそのタイトルが示されていた。大浴場とは、寮についているあの大浴場のことだろうかと彼方は考える。

 

「はい! 男の子もたまには広いお風呂でゆっくりしたいだろうと思いまして。前々から意見は出てはいたんですが、中々調整が付かなかったんです。でもようやく調整が付いたので、これからは週に一回程度ではありますが、男子でも大浴場を使えるようになります」

 

 よかったですねと、真耶が笑顔を浮かべる。

 その知らせは彼方からしても喜ばしいものではあった。入浴するという行為自体嫌いなものではなかったし、大きな浴場というのにも興味があったからだ。

 

「大浴場かぁ……」

「時間などに関してはプリントに書いてありますから、その部分を熟読しておいてください」

 

 プリントを渡し終えた真耶はまた小走りに寮を去っていった。タッグトーナメントの処理に加え、臨海学校の準備があり忙しいのであろう真耶の後ろ姿を彼方たちは見送った。

 隣にいる本音がぽんと掌を打ち合わせた。

 

「朝部屋に届いたプリントはそういう意味だったんだ~」

「そういうって?」

「えっとね~。今日は大浴場の使用時間が変わるっていうお知らせだったんだよ~。でも、そっか~。おがみんたちも大浴場を使えるようになったんだね~」

「オレも少し驚いてるけど……でも、大きな風呂は嫌いじゃないし、少し楽しみかな」

「ふふふ~。ここのお風呂は凄いよ~? とっても広くて綺麗なんだから~」

 

 彼方は制服のポケットにプリントを小さく畳んで入れると、寮の階段を上っていった。

 

 * * *

 

 ――もし、という仮定の話だ。

 ――もし、彼方と一夏に渡されたプリントの文面を本音や箒たちがしっかりと確認していれば。

 ――もし、トーナメントの後処理で疲れきっていた真耶がプリントをもう一度確認するか、他の先生にチェックを頼んでいれば。

 ――もし、彼方が“男子に渡されたプリントに記された”時間丁度に大浴場に行こうとしなければ。

 もし――、

 

 * * *

 

「一夏は風呂どうする?」

 

 彼方は着替えやタオルなどを用意しながら、一夏に問いかける。

 

「ああ、俺は後から行くよ。今のうちに片付けたいことがあるからな」

「分かった。それじゃあ先に行ってるよ」

 

 彼方はプリントをもう一度開いた。使用時間は、“八時から十一時まで”と書かれている。彼方は時計を見る。時計は八時を少しだけ過ぎた辺りを指していた。

 

「……よし」

 

 準備を済ませた彼方は、部屋を出て大浴場へ向かった。

 

 

 大浴場周辺は、初めて足を踏み入れるエリアだった。彼方たち男子にとって大浴場とは今まで用の無い場所であり、非常に近寄りがたい区画だった。

 何せ、ここにいるのは風呂に入るために来ている女生徒だけだ。万が一通りかかろうものなら、今までに味わったことのない気まずさを味わうことになるのは疑う余地もない。

 出来るだけ近寄らずにいることが今までのことだったが、今日ばかりは違う。ここの大浴場を使用するという明確な目的があってこそだ。だが、

 

 ――なんだか、凄い緊張する……!

 

 思わず周囲を見渡して人が居ないことを確認してしまう。疚しいことは無いはずなのに、緊張している。

 彼方がそう思うのも無理はなかった。言ってみれば、大浴場は女湯だ。今日は許可が出ているものの、普段は女性しか入れない場所というだけで心拍数が跳ね上がる。

 

 ――一夏と一緒に来ればよかった。変に早く行こうなんて思わずに。

 

 女性が苦手だとはいえ、彼方も年頃の男子学生だ。それなりに異性に興味はある。この場所に来たことで、改めてここが女子校なのだと考えてしまった。

 

 ――いや、無心になれ。ただ風呂に入るだけなんだ。

 

 そう自分に言い聞かせ、大浴場の入り口をくぐる。まるで温泉のような作りだったが、そこまで気にする余裕は彼方には存在していない。

 手早く服を脱いで眼鏡を籠に仕舞う。タオルを取り出して、浴場に繋がる扉へと向かった。

 

 * * *

 

 ――もし、一夏と来ていれば。

 ――もし、彼方がもう少し落ち着いていれば。

 ――もし、彼方が更衣室の棚の裏側を使用していれば。

 ――もし……人の気配に気づいていれば。

 ――この後の悲劇(きげき)は起こらなかったかもしれない。

 

 * * *

 

 扉を開ける。中は湯気が充満していた。視界が煙っている中で、一歩、二歩と踏み出す。

 不意に、湯気が晴れた。視界がクリアになり、一つの人影が浮かび上がった。眼鏡をかけていない彼方にはそれが誰かを判断することは不可能だったが、向こうはそうではなかった。

 

「おが……みん……?」

 

 声が聞こえた。最近はよく耳にする、恐らく彼方の人生で最も仲が良くなった女の子の声だ。

 

「布仏……さん……?」

 

 お互いが、完全に停止した。

 身体に限った話ではない。精神も止まっていた。思考が止まり、現状の認識が出来ない。ただただ、お互いにぴたりと静止していた。まるで、一枚の絵画のように。

 一滴の水滴が水面に落ちた。その音がトリガーとなって、数秒とも数十秒とも感じられた時間が動き出した。

 

「う、わ――! ご、ごめんっ!」

「な、なんでおがみんがここにいるの~!?」

 

 本音が浴槽に身体を隠す。腕を身体に回し、その場にしゃがみ込んだ。彼方は必死に目を瞑りながら、口を開いた。

 

「そ、その、プリントには、この時間からだって、書いてあったから」

「ええ~! 女子に渡されたプリントには、八時半時までが女子って書いてあったよ~!?」

「え、ええっ!?」

 

 彼方の脳裏にプリントの内容が思い出される。

 時間の表記は確かに八時だったはず、見間違い? いや、そんなことはないはず。でも、現にこうして布仏さんがいる。どうしてだ。何故だ。

 彼方は完璧に混乱状態にあった。

 

「と、とりあえず、ごめん! オレ、出るから!」

 

 まともな思考もできない状態でその行動を取れたのは、もはや奇跡といっても良かった。

 ただ、全てが遅かった。

 

『……!』

『……』

 

 扉に手をかけようとした瞬間、話し声が聞こえてきた。一夏の声ではない。間違いなく女子の声だった。

 湯だった頭が一瞬で冷えた。もはや詰みである。彼方はその場でうろうろとさ迷うことしかできなかった。

 しかし、救いは存在していた。

 

「こっち……!」

 

 突然、腕を引かれた。小声で囁かれた声に驚きながら振り向くと、タオルを身体に巻いた本音が彼方の腕をぐいぐいと引いてどこかに向かっている。眼鏡が無ければ物の輪郭が分かるかどうかといった彼方の目には、どこに向かっているのかは分からなかった。

 今は本音の誘導に従うしかない。そう心の中で結論付けて本音の後を付いていくと、少しして本音の足が止まった。

 

「ここに隠れて……!」

 

 どうやら物置が何からしい。扉の開く音が聞こえる。ここに隠れて難をやり過ごせ、ということのようだ。ともすれば覗きで捕まってもおかしくない自分を助けてくれる本音に感謝をしようとするが、当人に急かされていたため礼を言うこともできずに中に隠れた。

 ――なぜか、二人で。

 え、と彼方の口から言葉が漏れた瞬間には扉が閉まり、わずかな隙間から漏れ出る光以外がない暗い空間に二人で閉じこもっていた。

 それとほぼ時間差なく、浴場に誰かが入ってきた。

 

『明日から通常授業かー。結構短かったわね、トーナメントも』

『そうだな。始まる前は随分と長いと感じたが……実際に来ると直ぐに終わってしまうものだ』

『ですわね。それにしても、この行事が終わったら直ぐに臨海学校ですか』

『海に行くんだよね。僕、海に行くのは久々だよ』

 

 声から察するに、箒、鈴音、セシリア、シャルロットの四人のようだ。緊張から唾を飲み込む。

 四人は談笑しているようで、時折笑い声が聞こえてくる。どうやらこちらに気づく様子はない。とりあえずの窮地からは脱したらしい。だが、今は別の問題が発生している。

 思った以上に、この彼方と本音が入っているスペースは狭いようだった。二人の間に隙間は殆ど無く、体のあちこちが密着している。間にあるのは、本音が体に巻いていたタオルだけだ。

 

「んぅ……」

 

 背後から声が聞こえる。どこか悩ましげな声音に、彼方の鼓動が高鳴った。全身で受け取っている感触を頭からシャットアウトすると、彼方は呼吸を整えてから小さく声を出した。

 

「……どうして布仏さんまで隠れてるの?」

 

 他に言うことがあったろうと、口に出してから思う。

 

「その、思わずというか、そこまで考えられなかったっていうか~……」

 

 本音も小声で彼方に返答した。外の声を聞くに、それなりに離れた場所に隠れたようだったので、小さければ聞こえないだろうと判断した。

 

「……ごめんね、布仏さん」

「……おがみん?」

「……こんなことに巻き込んじゃって、本当にごめん」

 

 彼方は、本音との友情の間にもう直しようの無い亀裂が入ってしまったと感じていた。彼女からの信頼を壊す行為だったと、そう自分を恥じた。

 何が原因であるかはまだはっきりとしていないが、それでも自分がもう少し落ち着いて回りを見れていれば、回避出来たことだったのではないかと考えた。

 後でもう一度、ちゃんと謝罪をしよう。それで許してもらえなければ……。と彼方がそこまで考えたとき、本音が口を開いた。

 

「……大丈夫だよ~。こうなったのだって、事故だったんでしょ~?」

「でも……」

「……おがみんは、そういうことをする人じゃないって分かってるから」

 

 信じている、ではなく、分かっている。些細な違いではあるが、その言葉からは本音から寄せられる信頼が感じられた。

 

「で、でも……裸を見られちゃったのは、少し恥ずかしいかな~……」

 

 本音が恥ずかしそうに言う。もしも顔が見えていたとしたら、耳まで真っ赤に染まっているだろうと彼方に思わせた。

 

「だ、大丈夫だよ。オレは眼鏡かけてなかったから全然見えなかったし……!」

「ほんと~……?」

「う、うん……」

 

 これは事実だ。声をかけられるまで、そこに誰がいるのかを彼方には判断できなかった。さらに本音だと認識できた後も直ぐに目を瞑ったため、見た、と言えるようなものではなかった。かすかに記憶に残っているのも、輪郭という状態で見えたに過ぎず、それは本音の全体像で見えたわけではない。ただ輪郭の段階でも本音の豊満な凹凸は判断でき、それが今背中にくっ付いているのだなと考えると――、

 

 ――な、何を考えているんだオレは!

 

 慌てて頭を振るって煩悩を頭から追い出した。そんな目で友達を見ては駄目だ、と何回も口内で復唱する。

 

「どうしたのおがみん……?」

「い、いや、ちょっと目に水滴が入っちゃって……」

「そうなの~……?」

 

 心配するような本音の様子に、彼方は自分が情けなくなった。

 だがしかし、煩悩を頭から遠ざける行為が、さらなる煩悩を生み出すことになるとは、彼方は予想だにしなかった。

 頭を振ったことで、同時に彼方の体も揺れることになる。そして、彼方の体は本音と密着している。さらに、二人の間はたった一枚のタオルが、本音の体に巻きついているという形で存在しているだけである。

 つまりは、

 

「あ……っ」

「え……?」

 

 はらり、と。

 タオルが落ちた。

 一瞬、そのことを理解できなかった彼方は、背中に当たっているタオルとは異なった感触からその事実を認識する。

 

「――っ!?」

 

 思わず叫びそうになった自分を気合で押し止めると、彼方はぴたりと動きを止めた。

 

「あ、うぅ……」

 

 本音が身じろぎをする。それが原因となって、彼方の背中を二つの丸い物体がこするように動いた。

 完全に彼方はフリーズしていた。あまりにも多くの出来事があったせいで、脳内処理限界を超えてしまっていた。

 元々、彼方は女性に対して免疫が無いのだ。それが、仲の良いクラスメートの女子と何故か風呂でばったりと遭遇してしまい、狭い空間に密着するように二人で入り込み、今現在は一糸纏わぬその友人が真後ろにいるという現実離れした現状は、彼方が処理しきるにはあまりにも荷が重すぎた。

 他の何にも例えようの無い柔らかい二つの丸みを帯びた物体と、その少し下から接触するすべすべとした素肌の感触。熱を秘めた体と小さく漏れ出る艶やかな吐息が、彼方の理性を削っていく。

 出来るだけ意識をしないようにと脳内でIS戦術論を展開させるが、それも無力だった。

 もう無理だ。

 そう思った次の瞬間、外から凄まじい音が聞こえた。

 

『き、きゃああああ!』

 

 叫び声だ。しかし、悲鳴というよりも怒声に近いのだろうか。幸運にもそれが原因となって、一瞬煩悩から離れられた彼方が何があったのかと考えた結果、一つの答えに行き着いた。

 

 ――まさか、一夏が入って来たんじゃ……。

 

 彼方の考えは的中していた。慌てたような一夏の声が遠ざかっていくのが分かる。浴場から更衣室へと出て行ったのだろう。少ししてから箒たちの声も遠ざかっていった。

 騒ぎが収束し、音が無くなる。この場にいるのは、彼方と本音の二人だけになったようだ。しばらくしてから本音が扉を開ける。彼方が声をかける間もなく足元のタオルを拾い上げると、本音は走り去った。

 

「ご、ごめんなさい~!?」

 

 何に対して謝ったのか。恐らく、それは本音自身にも分かっていないに違いない。

 彼方は走り去る本音を背中で見送りながら、その場にしゃがみ込んだ。結局、己の中の熱が取れるまで、彼方は立ち上がることができなかった。

 




 遅くなった理由
・夏って……熱いよね?
・大学の課題で一本小説(二万五千字)書いてました

 作者は基本的に書き終えたらその時点で投稿、という形を取っていますので、あまり文章の推古はしておりません。ですので、誤字、脱字、おかしな文章表現などがありましたら、気軽に指摘してくださいませ。
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