「今日も一人でご飯食べてる?TELを下さい」
愛する妹のらいはから要件とぼっちを揶揄するニュアンスが含まれたメールを受け取ったのは、食堂の定位置となった2人掛けテーブルで相も変わらない焼肉抜き焼肉定食を食べた後であった。
喧騒とした食堂を避けトイレの個室に入り、らいはに電話する。真っ先に耳に入ったのは、興奮と大きな喜びに溢れた声であった。火の車である我が家の家計の目下の懸念事項である借金がなくなるかもしれないとはなんとも甘美な響きである。
しかし、あの消費期限切れの牛乳を平気で飲む適当な親父が見つけたという点に一抹の不安を覚える。
らいはにそのバイトの詳しい話を聞くと、最近引っ越してきた金持ちの家が娘の為に家庭教師を探しているらしい。家庭教師でアットホームを強調する意味とは。楽しい職場、相場以上の給料とも聞くと、そこはかとない裏の仕事とブラックの臭いがしたのも事実である。
「人の腎臓って片方なくなっても大丈夫らしいよ」
それを感じ取ったからいはは茶化し、煮え切らない俺にお兄ちゃんなら出来ると励ましてくれたが、今までに経験したことのない、人に勉強を教えることについて自信を持てなかった。
結局は、らいはのこれでお腹いっぱい食べられるようになるねという言葉と、3日に1回、いや1週間に1回でも焼肉抜き焼肉定食から焼肉抜きを取り除けるという誘惑には勝てなかったのだが。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った後、次の授業の準備をしながら頭の中で先ほどの電話の内容を反芻する。生徒となる子が同学年で同じ高校に転入してくるとは思ってもみなかったが、テスト対策などを考えると範囲が共通であり、自分の勉強と並行してできるならそれはそれで利点であるのかもしれない。
教室の前のドアが音を立てて開き、教師と一緒に見慣れない制服と目立つウサギのようなリボンを付けた女の子が入ってくる。少しの緊張が窺えるが、笑顔で彼女は口を開いた。
「中野四葉です。よろしくお願いします!」
部屋の中に騒めきと拍手が起きる。高校2年の9月に転校してくるとは珍しい。今日の午前中は興味を引くだろうその話題で持ちきりだったようだ。
「女子だ」
「普通にかわいい」
「あの制服って、黒薔薇女子じゃない?」
「マジかよ!超金持ちじゃん!」
「おいおい何者だよ」
クラスメイトがそう囁きあう中で、俺は一人違うことを考えていた。
この時期の転校、お金持ち、そして中野という苗字。思い当る節は多々あり、らいはの話と符合する。彼女が俺が勤める家庭教師の生徒なのだろう。
どうやって接触すれば一番いいかを考えながら、周りの席から話しかけられている彼女を横目でちらと窺うと、目が合ったような気がした。
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結局、昨日と今日の午前中は彼女、中野四葉は男女問わず話しかける人で囲まれており、その輪に分け入っていく気は起きなかった。整った見目の良い顔立ちと、自分の耳に漏れ入ってくる声だけを聴いても明るく元気の良い印象を与える彼女は人気が出るだろう。
顔合わせは今日の放課後であり、そこまで急いで話しかける意味もないか。相場より高めのバイト代である、顧客からの印象を良くしたほうがいいか。など、昼食を胃に詰め込みながら取り留めもなく考え込み、思考は深く沈んでいく。
だからだろう、目の前にいた彼女に気づかなかったのは。
「うーえすーぎさーん」
「うおっ」
思わず、情けない声が漏れる。鼻同士がくっつきそうなぐらい近くに彼女の顔があったからだ。先ほどまでどのようにして話しかけようか考えていた本人であることもあり、急なことに動悸が高まる。
「あはは。やっとこっち見た。」
テーブルに肘をつき、ウサギの耳のようなリボンを振り中野四葉は太陽のような明るい笑顔をこちらに向ける。ふと、疑問がわいた。なぜ、名前を知っているのか。丁度いいことに、一度彼女とバイトの前に話をしておきたかった所だ。
「なんで俺の名前を知ってるんだ?」
「ふっふっふっ…よくぞ聞いてくれました。これから同じクラスなのですから覚えておくのは当たり前です!」
転校2日目でまだ話したことのないクラスメイトの名前など記憶しておけるものだろうか。釈然としないが、ほかに思い当たることもなく、とりあえずのところは納得する。
「私、上杉さんにお届け物を参りました」
そして、四葉は二枚の紙をポケットから取り出して俺に見せた。
「あなたが落としたのはこの100点のテストですか?それとも0点のテストですか?」
いつの間にかポケットに入れておいたテストを落としていたようで、彼女の手に握られていたのは確かに俺の解答用紙であった。
「右」
「正直者ですね。両方セットで差し上げます」
「いらねぇよ。誰の0点だよ」
「私、中野四葉のものです!」
「よく差し上げる気になったな!?」
自慢気に話す四葉を胡乱気に見る。
ころころと良く変わる四葉の表情は飽きないものがあるが、よくよく考えると彼女の家庭教師をすることを思い出し、目の前に暗澹たる雲がかかったような気持ちとなる。
「それにしても100点なんて初めて見ました!引くほど凄いです!」
「俺は0点を取った奴を初めて見て引いてるよ」
「上杉さんの第一印象は『根暗』『友達いなさそう』でしたが、新たに『天才』を加えておきますね」
「全然嬉しくない」
「あはは。それとこれから同じクラスなんですし、四葉って呼んでくださいね!」
また、四葉がくっつきそうなぐらい顔を近づけ話す。
が、本当に嬉しくない。いきなり名前呼びを許可するなど、四葉はなぜか好意的に接してくれているが、それとこれは別である。先の0点のテストから彼女の学力への不安は募っていく。
「あのだな。俺は新しく来る転校生の家庭教師をすることになってるんだが、もしかしてお前がそうか?」
ものはものである。違っていたら恥ずかしいが、確認してみる。
「あー!!」
「あの家庭教師って上杉さんのことだったんですね!」
四葉の反応は無邪気なものだった。
俺の力量を疑うわけでもなく、自惚れでなければ俺に信頼を置いているような笑顔を見せる。
俺は確かに見惚れたのだ。その笑顔に。
花弁がほころぶような笑顔に、けれどもどこか影が差し、寂しそうで、何かを我慢してるようで、目の奥底に見える確かにある光に魅せられる。彼女の目には俺はどのように映っているのか。今までひとかけらも考えたことないことがふと過る。
四葉の瞳はどこか懐かしいような輝きが。俺の心の奥底を惑わす。健全な健忘症のように、このひと時が凍り付いてた時間を動かすように、切り捨てた他人との付き合いを記憶のどん底から引きずり出すように。
ほんの一瞬間だけ見せた真顔の四葉から、ギィと錆びたブランコの鎖のような音が聞こえた気がした。