虚無と烈風―第十話―
「エレオノールがここに来たのは、一年くらい前さ」
イザベラは、ルイズに向かって微笑みながらそう話しかけた。
そういえば、大体その頃に姉が行方不明になったのだったな、と思い出す。
「学院に通っていない私の家庭教師、って名目でよくここに来るようになったんだ。
私は、どうせ父上の愛人なんだろうと思って最初は邪見にしてたんだよ」
「あ……、えっと、そう、なの?」
妙に親しげに話しかけられて、ルイズは戸惑う。
これが、アルビオンを滅ぼそうとしたというあの無能王の娘、なのだろうか。
そんな彼女の戸惑いも知らずに、イザベラは話を続ける。
「私は今よりうんとワガママだったんだ。……グレたくもなるよ。
従妹がいるんだけどね、ソイツはトライアングルクラス。
なのに、私は、一年前はドットっていうのもギリギリなくらいの、
どうしようもない、落ちこぼれだった」
落ちこぼれ、という言葉にルイズはびくりと身を震わせる。
「父上と同じ、『無能』。役立たずな、簒奪者の娘。ずっと、そう呼ばれてた。
目を閉じても、馬鹿にしたような笑顔が見えるし、
耳を塞いでも、嘲りの声が聞こえてきた」
眉をしかめて顔を俯かせて、イザベラは首を横に振った。
パサパサと青い髪が彼女の頬を叩く。
「……辛い、わよね、それって」
ルイズは、その気持ちが解った。ほんの少し前までは、自分も同じだったのだから。
何をやっても、失敗する『ゼロ』。
先々代の王の覚えもめでたかった父母と違って、魔法の才はないと言われ。
平民混じりだの、拾われっ子だの、あらぬ噂ばかりを立てられた。
「解ってくれるんだね……、エレオノールの、妹」
イザベラは顔を上げて、また、微笑んだ。
「やっぱり、優しい子だ。エレオノールの言ってた通りだよ」
「姉様が、私のことをそんな風に……?」
あの厳しい姉が、自分をそう思っていたのか、と驚く。
「うん。……魔法が出来なくて、スネてた私に、エレオノールは、
よく、お前の話をしてくれたのさ。失敗ばかりするけど、
それでも決して努力をやめない、自慢の妹だ、って」
「……姉さまが……」
ルイズの胸の中に温かいものがこみ上げるが、それは、今の状況を考えると、
途端に冷え切ってしまう。そんな姉と、今は敵同士なのだ。
「エレオノールが、一生懸命教えてくれようとするから、私は頑張ったよ。
初めて、グラスの中に水を出せた時、レビテーションで枕を浮かせられた時、
フライで浮かび上がることが出来た時、エレオノールは、喜んでくれた」
嬉しかった、と満面の笑みを見せるイザベラを前に、
ルイズはぎゅっと胸が苦しくなり、顔を俯けた。
多分、自分がガリアに居ることを、既に母は知っているだろう。
そうすれば、きっとここまで文字通り烈風と化して飛んでくるに違いない。
そうなったら……彼女の父親が、無事でいられるとは思えない。
彼女の家族を、傷つけずに済む方法はないだろうか、と考えてしまう。
例えそれが、別の国を滅ぼすよう手助けをした男であっても。
自分と同じように姉を慕う彼女を、悲しませたくはなかった。
「でも、ね」
すっ、とイザベラの声が酷く冷たいものに変わる。
弾かれたようにして、ルイズは顔を上げて、小さくひっ、と呻いた。
笑顔を張り付けたままの彼女の、その目が、笑っていない。
ただ虚ろに、ルイズを見つめている。
「ダメなんだ。それじゃあ」
「だ、ダメって、何がよ!」
後じさろうとしたその腕を、予想だにしない程強い力で掴まれた。
「あんたが、いるから。あんたがいるから、私は、あんたの代わりでしかない」
「何それ、ちょっと、どういうことよ!」
「……エレオノールは、怖がりなんだ。父上が、『虚無』だと知って、
それ故に、長年魔法が使えなくて、悩んだことを、知ってしまった」
ぎちぎちと、ルイズの腕にイザベラの指が食いこんでいく。
ルイズは悲鳴をあげそうになったが、イザベラの雰囲気にそれも出来ない。
ただ、小さくかたかたと身を震わせながら、彼女の言葉を聞くばかりだ。
「エレオノールは、怖くなってしまった。あんたが、いつか、
父上と同じように、壊れて、しまうんじゃないか、って」
腕を掴んでいるのと、反対の手がルイズの首にかかる。
反射的に身をよじろうとした彼女の上に、圧し掛かった。
「けど、あんたの居場所からは、遠い。だから、エレオノールは、
私を、あんたの代わりに、可愛がったんだ」
両の手が、ルイズの首をぐっと押さえこむ。
「……だったら、ねえ。あんたが死ねば、あんたへ向けていた分の愛情も、
エレオノールは、私に向けてくれるだろう……?」
そんなことあるわけない、という否定の言葉が、喉へかかった圧力のせいで出て来ない。
「かっ、はっ」
ばたばたと手足をばたつかせるが、イザベラは首にかけた手の力を緩めない。
それどころか、どんどんと強めていく。
「(助けて……、母さー、姉さま……っ!)」
余りの苦しさに、意識が闇に落ちていく中で、ルイズは心で悲鳴を上げた。
こんなことなら、もっと体を鍛えておくんだった、と後悔しても遅い。
このまま殺される、という恐怖がルイズの体を支配していく。
「ルイズ、ああ、ルイズ、ルイズ!」
左目に映った光景に、カリーヌはうろたえる。
油断していた、と言わざるを得ない。ルイズの『虚無』を利用するために、
ガリアの王は彼女をさらったのだと思っていた。だから、殺されることはないだろう、と。
まさか、こんなことになるとは、思っていなかった。
「どうしたんだ、カリーヌ! ルイズがどうした!」
声をかけてきた夫の体に、縋りつく。
彼女達の居る場所は、プチトロワのすぐ近くの森の中。
ルイズが浚われた直後、今にも飛び出して行きそうなカリーヌを必死で抑え、
きちんと国外への通行許可証を取り、ガリアへと向かったのである。
グラモン家と懇意にしている業者の竜籠に乗って、全速力で。
あまりに近づくと迎撃の可能性もあったため、少し手前で降ろしてもらい、
こうしてひっそりと身を潜ませているのだった。
この場に居るのは、カリーヌと伯爵、そしてワルドである。
ナルシスとバッカスは、もしガリアと戦争になるようなことになった場合、
国に事情を説明する役目を負って、中央に残っている。
「貴方、ルイズが、ルイズがガリアの王女に首を絞められて……ッ!」
「何ですって! くっ、ルイズ!」
婚約者の危機に、ワルドは相棒のグリフィンに跨る。
伯爵の制止の声も聞かずに、プチトロワへと翔けていく。
「わ、私もこうしてはいられません! 行きますよ、貴方!」
走り出そうとしたカリーヌの足がもつれて、傾ぐ。
伯爵はそれを咄嗟に抱き止めた。
「カリーヌ、余り無理をするな! 勇気と無謀は違うんだ!!」
そのまま、ひょいと横抱きに抱きかかえた。
いきなりの行動に困惑する彼女を抱えたまま、マンティコアへと跨った。
「……戦闘で全力を出すことだけを、考えろ。私だって、マンティコアには乗れる」
「あなた……」
そんな状況ではないのに、カリンは頬を薄紅に染めた。
「ひっひ。言うじゃないかえ」
うっかり発生しかけた桃色空間を断ち切るように、しゃがれた笑い声がした。
声の主は、誰あろう二人の乗った老マンティコアである。
「母さんから聞いたあの話を思い出すじゃないかい。騎士見習いの小娘を助けに、
同族との争いを辞さず、突っ込んでいったどこぞのガキンチョをね」
「……今は昔話をしている暇じゃないだろう、ヴナン……、アテナイスの娘よ」
けたけたと笑いながら、ワシの羽を羽ばたかせ、ヴナンが宙に飛び上がる。
「ああそうだね。あの子を、あの子たちを助けたいのは、私も一緒さ!」
かつて、マンティコア隊には一頭のマンティコアが居た。
勝利の女神の名を持つ彼女は、老成した故に言葉を解し、
烈風カリンと共に空を翔けた灰かぶりの騎士の愛騎であった。
そんな彼女には、目に入れても痛くない程可愛がっていた娘がいた。
その娘の前に、ある日現れた召喚の鏡。それを作り出したのは、誰あろうカリンであった。
こうして、その娘は……ヴナンは、烈風カリンの愛騎となり、
あらゆる戦場を、翔けてきたのである。
年老い、言葉を発せるようにはなったものの、カリーヌの娘たちが
驚いてはいけないから、と話すのはカリーヌの前か、
かつてサンドリオンと呼ばれた、伯爵の前においてだけである。
アテナイスと違って子をなさなかったヴナンにしてみれば、
幼い頃から見守ってきたルイズ達は、我が子も同然。
彼女達が害されて、黙っておけるわけがない。
「さあ、見せてやろうじゃないさ、カリン! サンドリオン! 気合入れな!!」
夜の闇を震わせるように、ヴナンの咆哮が辺りに響き渡った。
その咆哮は、半ば意識を失いかけていたルイズの耳にも確かに届く。
「(ヴナンの声……! 母様が、来てくれた!)」
そう思った途端、体中に力が漲る。母が来てくれるまで、何としてでも、耐えねば。
イザベラは、突如聞こえたマンティコアの声に驚き、ほんの少しだけ、力が抜けている。
今しかない、と思った。
「……っ、のぉ……っ!」
手にかかっていた指を引き剥がし、どん、と勢いよく突き飛ばす。
手元に杖がないことに焦ったが、それは目の前の彼女も同じように見える。
普通に逃げれば、多分、彼女よりは足が速い自身がある。
何しろ、こちとら移動の時は全部己の足を使ってきたのだ。
「(魔法を使えないでいてよかった、なんて思うのは、きっと、後にも先にもこれっきりね)」
咳き込みながら、足りなくなった酸素を補給しつつ考える。
視線は、イザベラの後ろにある巨大な窓へ向けている。
自分の背後にある扉はおそらく施錠されている。ならば逃げ道はあの窓しかない。
窓を開ければヴナンが見つけてくれる。さあどうする、と機を伺う。
ぎぃぃ、と軋む音。振り向けばその扉が開かれるところだった。
そこから姿を見せたのは、誰あろう、エレオノールだ。
「ルイズ!」
城に侵入者が現れたと聞いて、おそらく、母達がルイズを取り戻しに来たのだろう、と考えた。
だが、まだ彼女をジョゼフに会わせていない。
彼は珍しく興味を示して、既にこちらへ来ている。
しかし、この状況ではおちおち話も出来ないだろう。
そのため、彼女を連れてグラントロワへ移動しようと思って、彼女を寝かせた部屋に来た。
扉を開けた途端、起き上がってイザベラを睨みつけているルイズを見て、
エレオノールは、咄嗟に名前を叫んだのだった。
「姉、さま……」
このままではまた逃げ損ねる、どうしよう、と焦る彼女は、
予想していなかった言葉をかけられて、思考を停止した。
「ルイズ、あなた、その首……」
「あ……」
両の手で覆い隠してみるが、もう遅い。
エレオノールは、ルイズの首にはっきりと残る指の後を見てしまった。
「イザベラ……、あなた、なの?」
そして、エレオノールは困惑と恐怖と怒りの混じった瞳を、イザベラへと、向けてしまった。
「あ、あは、あははははははは!!」
壊れた人形のように、突如としてイザベラが笑い出す。
「あはは、そう、そうなんだ? エレオノールも、私のこと、そんな、そんな目で見るんだね!!」
ばさばさと振り乱した髪の毛の間から、小さな杖が落ちる。
その杖を手にとって、イザベラはまたけたたましく笑った。
「だったら、要らない」
イザベラが呪文を唱える。空気中の水分がかき集められて、巨大な水の塊になる。
「エレオノールなんか、要らない」
それが、端からびきびきと凍りついて、氷塊になる。
「そ、そんな……イザベラは、まだ、ドット、じゃあ」
エレオノールが、茫然としていた。
おそらく、トライアングルレベルと言っても過言ではない魔法だった。
イザベラの顔は、笑顔を張り付けたまま、凍りついている。
「あはは、凄いでしょ、エレオノール!あんたが、魔法を教えてくれたから!
出来損ないの妹の代わりの出来損ないの私でもねえ、
こんなに凄い魔法が使えるようになったんだよ!」
その瞳から大粒の涙を溢しながら、イザベラが叫ぶ。
「でも、要らない! そんな目で見るエレオノlルは要らない!
要らないから、死んじゃえええええ!!!!!」
その氷塊が、エレオノールへ向けて放たれようとした、瞬間。
がしゃああん、と部屋のガラス窓が割れて、風が吹いた。
風は、見る間に氷塊を砕き、パラパラと床に散らしていく。
ルイズは、エレオノールは、その風を知っていた。
割れたガラス窓の向こう、マンティコアに跨り、杖を構えた姿を、知っていた。
「……わたくしの娘に、危害を加えることは……!」
彼女を中心に、風が渦巻いている。
「何処の王族とて、決して許しはしません!!」
城を震わせる、怒号。
身にまとったのは、あらゆるものを切り裂き、吹き飛ばす、烈風。
カリーヌ・デジレ・ド・ラ・ヴァリエール、その人が、
怒りに燃える眼差しで、イザベラを睨みつけていた。